夜、ひとせ、涼やかな風が吹き抜ける。

 皆が寝静まり、無人になった道を歩く一人の女性がいた。

 彼女は夜空を見上げる。

 よいの月は赤い。不気味なまでに赤く染まった月が、こちらをじっと見ているような気配を感じて、思わずぶるっと身体を震わせる。

「早く帰らなきゃ」

 そうつぶやいて、彼女は視界の端にあった路地に気づく。

 普段は絶対に通らないような狭く汚い道も、抜ければ大幅な時間短縮ができることを知っていた。

 路地故に、余計に暗く不気味である。彼女はどうするかしゅんじゅんした結果、路地を通ることに決めた。怖いからこそいち早く家に帰りたい。

 そんな思いを優先して、真っ暗な路地へと足を踏み込む。

 途端、寒気に身体を震わせる。

 月の光すら届かないからなのかと、彼女は駆け足で路地を走り抜けようとした。しかし、唐突に足を止める。

 途中から先に進めない。なぜなら目の前に、一人の見知らぬ男が立っていたから。

「あ、あの……」

 棒立ちの男は彼女の声に反応しない。

 顔を伏せ、目を伏せ、どこを見ているのかもわからない。路地の暗さも相まってわかりにくかったが、彼女はようやく気づく。

 男の手に、剣が握られていることに。

「け、剣?」

「──ぅう」

 男が一歩前へと踏み出す。

「な、なんですか?」

「──んな」

「え?」

「女……女女女女あああああああああああああ

 男は突如激高し、片手に持った剣を力任せに振り回す。

 彼女は恐怖した。剣にではなく、男の圧に。まさにすごあふれさせた男が、彼女へと迫る。

「嫌、来ないで!」

「おんなああああああああああああああ

 逃げる彼女は背を向ける。

 歩いてきた路地を走り戻ろうとした。が、遅かった。すでに男はすぐ背後に迫り、刃が届く距離に至っていた。

「あ……」

 背中を斬られた。

 激痛と共に涙が溢れ、意識が薄れていく。

「だれ……か……」

 倒れながら助けを乞う。

 消え入りそうな声は誰にも届かない。大通りにうっすらとさす月明かりの赤さと、瞳ににじむ血の赤とが重なって、深紅の世界は真っ黒闇へ。


        


 カン、カン、カン。熱した鉄を打ちつける音が工房に響く。

「ふぅ」

 流れ落ちる汗をぬぐいながら、作業をひと段落させて休憩に入る。そこを見計らったように、グレイブがタオルと水を持って待っていた。

「お疲れさま」

「ありがとうグレイブ。そっちの作業はいいの?」

「ああ。在庫の整理は終わったところだよ」

 お店が開店してから早三週間。あっという間に時間は過ぎて、慌ただしくもなく暇でもなく。

 一言で表すなら順調に進んでいた。

 お客さんとの会話は、最初こそ勇気が必要だったけど、少しずつ慣れてきて今では一人で店番もできるようになった。

 グレイブも忙しい人だから、早く一人でやれるようになってよかった。ただ、慣れてきたとはいえまだまだぎこちないのもわかっている。

「こうやって仕事してる時のほうが、やっぱり気が楽だな~」

「はははっ、リリアナはそうだろうね。というかそこは一生変わらないんじゃないか?」

「そうかも。私はどこまでいっても鍛冶師だし」

「それでいいと思うよ。俺だっていろんな仕事してるけど、なんだかんだ言ってこいつを振るってる時が一番しっくりくるんだ」

 彼はポンと腰の剣をたたく。

 ギルドでも働き者で優秀な彼は、冒険依頼以外にもたくさん仕事を任されている。私のサポートもその一つだけど、それ以外にもいろいろやっていて本当に忙しそうだ。

 そんな中、今日も時間を作って私の手伝いをしてくれることに、少なからず特別感を感じている。

「いつもありがとね、グレイブ」

「気にしないでくれ。俺がやりたくてやってることだ」

「それがうれしいんだよ。あ、でも無理はしないでね? 他に仕事があるなら先にホームに戻ってても大丈夫だから」

 グレイブはいつも私の仕事に合わせて、帰宅を待ってくれている。

「いや、リリアナが終わるまで残るよ。一人で帰らせるのは心配だからな」

「べ、別にもう迷ったりしないよ?」

 自分で言うのも恥ずかしいけど、私は極度の方向音痴だ。

 ちょっと前まではホームと工房の行き来すら迷ってしまうほど。だけどさすがに慣れたし、一人でも帰れると思う。

 彼に今以上の負担をかけたくない。

 そんな思いを口にした私に、彼は首を横に振る。

「そこは心配してないよ」

「じゃあ……なんで?」

「俺が一緒に帰りたいから」

「なっ!」

 またグレイブはそんなこと言って。ニコッと浮かべる笑顔が悪戯いたずら好きな子供みたいだ。

「って、普段ならそれだけでよかったんだけどな」

「え? どういうこと? 他にも理由があるの?」

「ああ。リリアナは聞いたことないか? 最近、街中で斬り裂き魔が出るって話」

「斬り裂き魔?」

 聞いたことがない話だった。

 私が知らないというように首を傾げると、グレイブが説明口調で話しだす。

「最近になって街に出るようになったんだ。正体不明で目的も不明……月夜になると現れて、女性に斬りかかるそうだ」

「女性に? 男の人は襲われないの?」

「今のところな。襲われているのは女性だけらしい。それも斬りかかってをさせるだけで、命までは奪わない。これまで襲われた五人の女性は全員生きてる」

「それって……」

「意味がわからないだろ? ただ斬りたいだけなのかって話。だから斬り裂き魔って呼ばれてるんだ」

 グレイブの話を聞きながら納得する。

 彼が私を一人で帰らせたくないのは、斬り裂き魔が狙っている対象が女性で、今夜は特に、満月だったから。


 その人物は必ず、月夜にだけ現れるという。

 予兆は月の明かり。普段は薄く白い光を放つ月が赤く染まる時こそ、恐ろしい夜の始まり。

「──っていううわさまで立ってるんだ」

「そうなんだ」

 今日の仕事を終えて、これから帰宅するというところ。グレイブから斬り裂き魔の話を聞いた私は、漠然とした不安を感じながら帰りを仕度を整えた。

 話によれば斬り裂き魔の目的は不明で、必ず女性だけを狙うらしい。

 襲われた人以外に目撃者はおらず、被害にあった女性たちは皆、命こそあるが重傷で、今も意識不明のままだという。

 そういった曖昧な情報ばかりしか得られないこともあって、脚色された噂が流れているのだろう。

「なんか怖いね」

「大丈夫。いざって時のために俺がいるんだから」

「うん。そこは素直に心強いよ。でも私が大丈夫でも、他の誰かが襲われてたりしたら嫌だよ」

「それはそうだな。まぁともかく帰ろう。あんまり遅いと心配される」

 時計を見ると、すでに午後九時を過ぎていた。いつもより作業に時間がかかってしまったせいだ。

 こんな時間までグレイブを待たせてしまって申し訳ない反面、文句ひとつ言わずに待ってくれていた彼の優しさが心地いい。

 私たちは工房を出て、玄関に鍵をかけてから帰路へつく。

 空には雲一つない。聞いていた通り、今夜はれいな満月が輝いていた。

 私は夜空を見上げて呟く。

「綺麗な月だね」

「そうだな。月って太陽みたいに温かくはないけど、見ていてなんとなく落ち着くよ」

「あ、それわかるかも」

「本当か? 初めて共感してくれる人がいたな」

 他愛たわいもない話で盛り上がる。夜とはいっても、まだ大通りには人も多くいる。

 月以外に建物の明かりもあるため、うっすらと影が出来るくらいには明るかった。

 そのお陰もあって、私の中にあった恐怖心も薄れていく。

 斬り裂き魔の話なんて忘れてしまいそうな頃。私たちは大通りとホームの間にある人通りの少ない道へと入った。

 路地ほどの暗さはないけど、タイミングが悪く建物の明かりも消えていて。

 ふわっと冷たい風が吹き抜ける。

「な、なんか急に寒くなったね」

「ああ。そういえば──……」

「グレイブ?」

 急に彼は話すのをやめ、不意に夜空を見上げる。

 彼は呟く。それより少し早く、異変に私も気づいた。

「月が……」

 赤く染まっている。

 満月が深紅に。さっきまで黄色と白が混ざったような色だったのに。吹き抜ける風が異様に冷たい。

 そもそも今夜は無風だったのに、今さら風が出始めたことにも違和感はあって。

 とにかく不気味で、不穏だった。

「下がれリリアナ」

「え?」

 唐突にグレイブが私の前へ。

 腰の剣に触れ、真剣な眼差しで前を見ている。私は月に向いていた視線を下ろし、彼と同じ場所を見る。

 寒気がした。

 立っていたのは男だ。月明かりもあって輪郭はハッキリ見える。

 ただ、私が寒気を感じたのは男にではなく、彼が持っている剣にだった。

「おんな……女ぁ」

「こいつが例の斬り裂き魔か?」

「……グレイブ」

「大丈夫だ。俺の後ろにいてくれ」

 グレイブには悪いけど、そう言われても恐怖を感じてしまった。

 怖くて仕方がなかった。男の風貌も恐ろしい。白目をいていて、口からはよだれをたらし、とても正気とは思えない。

 溢れ出る殺気は素人の私にも感じられる。

 普通なら誰もが、その男に恐怖を抱くだろう。でも私は、男よりも剣が怖かった。

 形状は剣ではなく刀で、月の赤い光に反射して、刀身も赤く染まっている。

 私にはその刃が叫んでいるように見えた。

 早く斬らせろ。

 血を浴びさせろ。

 そう聞こえて、怖くて身体が震える。

「おんなあああああああああああああ

 男が激高し、私に向かって襲いかかってくる。刀を振り上げてまっすぐに、私だけを狙っているのがわかった。

 その間にグレイブが入り込み、刀を剣で受け止める。

「やっぱり狙いはリリアナか。彼女は斬らせないぞ!」

「女、女、女おんなあああああああああああああ

「それしか言えないのか? 冷静じゃないな」

「邪魔をするなあああああああああああああああああああ

 男は叫び、グレイブの剣を力ではじく。

 グレイブも決して非力ではなく、むしろ力は強い方だ。そんな彼が力だけで押し負けた。反動でよろけたグレイブに、男は追撃する。

「っつ」

「グレイブ!」

 斬撃が彼の右肩をかすめる。

 間一髪回避して、刃を合わせてつばいになる。

「お前の目的はなんだ? なぜ女性ばかりを襲う?」

「邪魔だ……女……おんなを」

「本当にそればっかりだな! 酒にでも酔ってるのか? それにしてはやりすぎだぞ」

「うおおおおおおおおおおおおお

 男はグレイブを力で押し込む。

 地についた足の跡がくっきり残るほど、男の圧はすさまじい。しかしグレイブもれ。馬鹿正直に力での勝負には持ち込まず、くいなして相手の体勢を崩し、腹に一発蹴りを入れる。

 男は吹き飛び、地面を転げる。

「ぐほぇ!」

「悪いな。さすがに人を斬りたくはないんだ。このまま眠らせて──」

 次の瞬間、男は背を向ける。そのまま何のちゅうちょもなく、きょうじんな脚力で跳び上がり、逃走してしまう。

「なっ、待て──っ」

「グレイブ!?

 追いかけようとしたグレイブが苦渋の表情を見せる。すぐに肩を押さえたから、おそらく痛みが走ったのだろう。

「大丈夫、傷は浅いから」

 駆け寄る私に彼はそう答えた。

 そして、二人同時に気づく。月の色が、戻っていることに。


        


「昨夜の被害者はなし。お前さんが追い払ってくれたお陰だな。よくやったグレイブ」

「いえ、すみませんボス。結局取り逃がして」

「いいってことよ。強いて言えば唯一の怪我人がお前だってことがやるせねーな。肩の傷はどうだ?」

「特に問題ありませんよ。傷そのものは深くないですし、痛みもなくなりましたから」

 グレイブは傷を負った肩をグルグル回し、大丈夫なことをアピールする。

 それを見せられリガルドさんも安心した様子だ。

 昨夜、私とグレイブは噂の斬り裂き魔に襲われた。

 厳密には襲われたのは私で、グレイブが私を守ってくれた。

 唐突に現れ斬りかかり、力ではグレイブを圧倒するほどだったのに、なぜか急に逃走してしまった。

 あの後、グレイブの怪我を手当てしてから街を捜索したけど、足取りはつかめなかった。

 そして翌日の現在。報告と対策を練るために、私とグレイブはリガルドさんの部屋に呼び出された。もちろんテレジアさんも一緒で、気になるのはもう一人──

「斬り裂き魔ねぇ~。ったくどこのどいつなんだか」

「街の外から来た人間でしょうね」

「ねぇグレイブ」

「ん? なんだ?」

 二人が話しているすきを見て、私はグレイブにこっそり小声で尋ねる。

 さっきからずっと疑問に感じていたこと。そうてんつるぎのホーム、そのトップの部屋にどうして……。

「なんでレストさんがいるの?」

「ああ。それは──」

「私がこの件の調査を仕切っているからだよ」

 答えたのはグレイブじゃなくて、レストさん本人だった。

 どうやら小声も聞こえていたらしい。私はしまったと思い、慌てて謝罪する。

「す、すみません」

「構わない。ホームに部外者がいれば疑問に思うのも当然だ」

「い、いえ、そこまで思ってません」

「そうかな? そんな顔してたと思うけど」

 うぅ、威圧感がすごい。

 リガルドさんがホームに入れるくらいだし、悪い人ではないのはわかるんだけど……。

 駄目。やっぱり苦手だ。こうしてお話しするのもちょっと緊張する。

 ギルド集会のときより全然マシだけどね。

「さて、そろそろ詳しく話を聞いてもいいかな? 私が今日ここへ来たのは、君たち二人から犯人の情報を聞きたかったからだ」

「お、そうだったな。グレイブ、リリアナちゃん、悪いんだけど昨夜の経緯を話してくれねーか?」

「は、はい!」

「説明は俺からしますよ」

 私の緊張を察してか、グレイブが率先して説明を始めた。

 仕事を終えて二人で帰宅途中、突然斬り裂き魔が現れて襲われた。

 場所は人通りの多い大通りを抜け、ちょうど自分たち以外誰もいなかった道。襲われる直前に寒気がして、空を見上げると月が赤く染まっていた。

 説明の途中で、レストさんがグレイブに尋ねる。

「過程はわかった。犯人の容姿は?」

「えっと、男で……あれ」

「どうしたんだい?」

 グレイブの様子がおかしい。容姿を聞かれて答えようとした彼は、困惑した表情を見せる。

 あきらかに動揺して、わずかに汗が見えた。

 私も心配になって、グレイブに呼びかける。

「グレイブ?」

「……なぁリリアナ、君は覚えているか? 昨日の男の顔とか」

「え? それはもちろ……あ、あれ?」

 思い出そうとした。

 昨日のことだし、襲われるなんて衝撃的な出来事だ。

 忘れるはずがない。普通なら、強く記憶に残っているはず……それなのに──

「思い……出せない?」

「やっぱりリリアナもか」

 彼の困惑の理由がわかった瞬間だ。

 私も彼も、あの男のことが思い出せない。

 男であること以外は何も。顔はおろか服装や見た目の、一か所すら頭に浮かばなかった。

「おいおい、どういうことだよそいつは! お前ら襲われたんだよな?」

「間違いないですよ。俺はあいつと剣を交えたんです。でも思い出せないんですよ」

「んなことあるか? 正気じゃねーなぁ」

「自分でもそう思いますけどね。残念ながらまったく思い出せません」

 リガルドさんに答えながら、グレイブも記憶をひねり出しているだろう。

 私も同じように思い出そうとする。だけど思い出せない。容姿はまったく浮かばない。けれど一つだけ、確かに覚えていることがあった。

 私は思い切って口を開く。

「容姿は思い出せませんけど、手に持っていた剣なら覚えています」

「本当か? リリアナちゃん」

 リガルドさんが私に注目して、続けて他の二人も私に視線を向ける。

 私はうなずき、思い返しながら答える。

「はい、とても特徴的だったので……あれはただの剣じゃありませんでした。たぶんですけど、【妖刀】です」

「妖刀……?」

 リガルドさんが首を傾げる。

 妖刀──

 それは魔剣の一種で、特殊な力を持った剣だ。

 魔剣との違いは大きく二つ。一つは、形状が刀であること。そして重要な違いがもう一つ……妖刀は使用者の精神をむしばむ。

「魔剣も妖刀も同じく強力な剣で、どちらも使用者を選びます。ただ妖刀は特殊で、精神に大きな影響を与えるんです。心の弱いものが使えば刀にみ込まれてしまいます」

「飲み込まれる……それじゃまるで、刀に意思があるみてーだな」

「その通りです」

「マジか!?

 リガルドさんが驚くのも無理はない。

 妖刀は数も少なく、市場に出回ることはまずありえない。鍛冶師の間でも忌み嫌われる。

 その理由は、作成過程で人間の生き血を使用するからだ。

 血を取り込むことで、妖刀には意思が宿る。いや、意思なんてまともな言い方をすべきじゃない。

 宿るのは強いおんねんだ。何かを壊したい、殺したい、消し去りたいという強い負の感情が刃に宿り、力を得る。

 故に妖刀は……一部の鍛冶師からこう呼ばれていた。

「心を持つ刀、心刀と」

「……妖刀については理解した。しかしその根拠はあるのかい? 君は犯人の容姿も覚えていないのだろう?」

「はい。それでも剣のことはわかります。私は鍛冶師ですから」

「なるほど。自信はあると」

 自信はある。と、私はこくりと頷いた。

 するとレストさんは──

「わかった。ならばこれから君にも調査に協力してもらおう。いいかな?」

「……はい」

 気のせいだろうか?

 今少しだけ、彼が笑ったように見えたのは。


 レストさんが私に調査協力を依頼してきた。

 私はこれに同意する。するとグレイブも、自分も当事者だからという理由で協力を申し出た。

 それをレストさんは承諾して、現在は──

「ここだよ」

 私とグレイブが案内されたのは、街で一番大きな病院だった。

 廊下を歩きながら、レストさんから説明を受ける。

「この病院はうちが管理する施設の一つでね。始まりは小さな診療所で、そこから外部の医者を招き入れて、ここまで大きくしたんだ。自慢じゃないが、王都の医療機関にも負けない設備だよ」

「な、なるほど?」

 唐突に自慢話が始まって、私は反応に困る。

 レストさんはあまり話さない人だと思っていたけど、意外とおしゃべりなのかな?

 私たちは彼に連れられ、病室が並ぶ廊下を歩く。病院だから当たり前だけど、なんとなく暗くて静かな雰囲気だ。

 一階から二階へ上がるとより静かで、今いる三階はもっと静まり返っている。

 レストさんが一室の前で立ち止まる。

「要するに何が言いたいかっていうと、大抵の病気なら問題なく治療できるんだ。大怪我だって、即死じゃない限りは助けられると医者たちも言っていた。だが今回は……」

 彼は話しながら病室の扉を開ける。

 中は広々とした個室で、ベッドが一つだけあった。そこに眠っているのは女性だ。

「この女性は、最初に斬り裂き魔の被害にあったんだ」

「そう……なんですか?」

「ああ。傷はすでに完治している。だが被害にあってから、いまだに目覚めないんだよ」

 レストさんは話を続ける。

 彼女が被害にあったのは一週間前のこと。路地で倒れているところを発見され、背中に鋭利な刃物で斬り裂かれたあとがあったという。

 幸いすぐに治療され怪我は完治した。にもかかわらず、意識は依然として沈んだまま。外から呼びかけたり、刺激を与えれば反応こそするものの、目を開けることはないという。

「他の四名もこの病棟にいる。いずれも傷はそこまで深くない。だが目を覚まさない。医者によると、よく苦しんで声をあげるそうだ」

「声を……どんな声ですか?」

うなり声が多いそうだよ。時折ハッキリと、助けてと言うこともあるそうだ。特に夜に多いとも言っていたね」

 レストさんの話を聞きながら、私は思考を巡らせる。

 斬られた相手が目を覚まさない。被害者は全員女性……それも必ず生かしている。

 あの刀は間違いなく妖刀だった。妖刀……精神を蝕む。その性質上、使用者が消費するのは魔力だけじゃなくて……。

「生命力」

「リリアナ?」

「……仮定です。これは仮定の話なので確証はないんですが……」

「構わないよ。今はさいな情報でも欲しい」

 真剣な眼差しを向けるレストさんに、私も背筋を伸ばして答える。

「あの妖刀は、斬った相手から生命力を奪って自らの養分にしているのかもしれません。殺せば奪えないから、生かしたまま放置していく。被害者と妖刀が見えない糸でつながっていて、斬り裂き魔が活動する夜に苦しみだすのも、妖刀が使われているからかと」

「なるほど……しかしどうだ? 妖刀はそこまでのことができるのかい?」

「作り手の技量次第です」

「……なら、君ならどうだ? できるのかい?」

 レストさんの問いに、一瞬だけ躊躇する。

 正直に答えていいものかと逡巡してしまった。でもすぐに、答えるべきだと思って、私は堂々と言う。

「はい。できると思います」

「……そうか」

「待ってくれリリアナ。だとしたら俺はどうなる? 俺もあいつに斬られているが」

「グレイブは男だからじゃないかな? 対象が女性に限定されているなら、グレイブには作用しないってこともあるよ。妖刀の元になっているのは、使った血の持ち主の心だから、例えば女性に恨みがあったとか」

「そういうものなのか? だとしたらはた迷惑な……」

 私もそう思うけど、ない話じゃない。妖刀は作成過程で生き血を混ぜる。

 そもそも鍛冶に生き血を使うなんて発想、まともな精神状態では生まれない。

 妖刀とは初めから、そういう異常なものなんだ。

 おそらく月夜に限られていることも、その月が赤く染まることも、妖刀の力を発動させる条件に違いない。

「リリアナさん、その仮説が正しい場合だけど、どうすれば彼女たちは解放されるのかな?」

「えっと、妖刀とのつながりを絶つしかありません。普通の方法じゃまず無理なので……見えないものを斬れる剣を作れば。前にイブリスに作った剣みたいな」

「そうか。あの剣は斬りたい対象を選べるんだったな? でも時間は? かなりかかるんじゃないのか?」

「いいえ。あれは全部に対応する必要があったけど、今回は妖刀とのつながりだけだから一晩もあれば作れるはずです」

 イブリスが残してくれた素材もある。

 彼の魔剣を作る時に練習したから、成功する自信もある。

 それに、今のはあくまで仮定の話だ。

 対象が女性だけと言ったけど、実はそうじゃないなんてパターンもゼロじゃない。だったらグレイブの身だって危ないんだ。

「あの、レストさん! 私に魔剣を作る時間をもらえませんか? 必ず皆さんを助けてみせます」

「自信はあるんだね?」

「はい」

「そうか。なら君に任せよう。君の力で彼女たちを助けてあげてくれ。それから──」

 レストさんがグレイブに視線を送る。

 その視線で理解したのか、グレイブは腰の剣に触れて答える。

「妖刀は俺に任せてください。今度は逃がしませんよ」

「ああ、頼もしいね」

 こうして、私とグレイブの戦いが始まった。

 それからあっという間に時間が過ぎて──


        


 月夜。一つ二つ、雲が流れゆく夜空に月が輝く。

 人気のない深夜、にぎやかだった大通りもガランとして、冷たい風が吹き抜ける。

 耳を澄ますと聞こえるのは、風と虫の鳴き声だ。そこに一つ、不釣り合いな音が聞こえる。

 ザッと、地面を踏みしめる音が。

 まばたきしたせつに、月の色が赤く染まった。

「──来たか」

「女……女ああぁ」

あいにくだけど、今日は俺一人なんだ」

「女を……女がぁ……」

 グレイブが立っているのは病院の前だった。

 今宵は彼一人。女性の姿はなく、それでも妖刀を手にした男は女を求めている。

「リリアナの予想通りだな。苦しいだろ? 今頃彼女が、お前と被害者のつながりを斬り裂いているからな」

「邪魔を……邪魔をするなあああああああああああああああ

 男が妖刀を振り回す。怒りをあらわにして、乱暴に振り回している。対するグレイブは冷静に、腰の剣を抜いて構えた。

「生憎だけどね。邪魔をするのが俺の仕事なんだよ」

「女ああああああああああああ

「さぁ、来い!」

 妖刀とグレイブの剣が刃を交える。


        


 グレイブが病院の外で戦闘を始めた頃。私は自分の戦いに集中する。

 夜は特に静かだから、外でのけんげきの音がはっきり聞こえる。

 外を見れば月が赤い。どうやら予想した通り、妖刀の持ち主はここへ現れたようだ。

「よし。次の人のところに」

 駆け足で向かう。

 私の右手には、黒い小刀が握られていた。

 これは徹夜で作った対妖刀用の魔剣。名前は特に考えてなかったけど、強いて名付けるなら『えんぎり』。

 妖刀と彼女たちの見えない糸を断ち斬る。そのためだけに作った魔剣で、効果はさっき確かめた。

 二人目の病室に入る。

 斬り裂き魔が現れたことで、今また苦しんでいた。

 私は縁斬を手にして、よく目を凝らす。するとうっすら、赤いもやが見えるようになる。

 水の中で血が滲んで広がっているように。これが妖刀とのつながりだ。

「今助けます!」

 私は縁斬を横に振り、赤い靄を斬り裂く。

 刃に裂かれたことによって、赤い靄はボワッと霧散して消えていく。

 妖刀とのつながりは消えた。その証拠に、眠っている女性の表情が穏やかになる。体力を消耗していて目覚めこそしないけど、これでひとまず大丈夫だ。

「あと三人!」

 つながりを絶ったことは妖刀を通して使用者にも伝わる。

 自分にとっての栄養源がなくなれば、たまらなくなって姿を見せると予想した。

 予想通り姿を見せ、今はグレイブが足止めしている。ということはつまり、私の立てた仮説は正しかったのだろう。

 私は続けて三人に縁斬を使い、妖刀とのつながりを絶った。

 その後ですぐに階段を駆け下り、戦っているグレイブの元へ。

「グレイブ!」

 二人はちょうど鍔迫り合いの最中だった。

 私の声に気づいたグレイブが反応して、妖刀の力を受け流し、あの日と同じく使用者を蹴り飛ばす。

 距離をとってから改めて、私に視線を向ける。

「リリアナ! 君が来たってことはもういいのか?」

「うん! 五人とも処置は終わったよ」

「了解だ。だったらもう、手加減はいらないよな」

「うん」

 グレイブの目が変わる。

 本気の目。さっきまでは、私の仕事が終わるまでの時間稼ぎ。被害者たちとのつながりが残ったままでは、彼女たちにも悪い影響が出てしまう可能性があった。だからこそ待っていた。私が全てのつながりを絶ち、憂いがなくなる瞬間を。

「いくぞ妖刀使い。あの夜の借りを返す」

 グレイブの剣が燃える。

 暖かな炎が燃え盛る。彼の炎はいつ見てもたけだけしくて強いのに、どこか優しくて安心する。だけど今日の炎は一味違うようだ。

 一瞬にして激しく燃えた炎が刃に集まっていく。

「前の剣じゃ無理だったけど、リリアナが打ち直してくれたからな。今なら耐えられるだろ?」

 グレイブは剣に語りかける。炎が刃に収束し、切っ先が赤く染まる。高温に熱せられた鉄のように光る。

「──せきえんとう

「女あああああああああああああああああ

「悪いな」

 刃と刃が交わる。

 直後、妖刀の赤い刃が、炎の刃に焼き斬られ、宙を舞う。

「俺がここにいる限り、彼女に刃は届かないよ」


        


 後日談、になるのかな。

 グレイブが妖刀を破壊したことで、斬り裂き魔事件はひとまず解決した。

 驚いたのは、妖刀が折れた直後に、持ち主までが赤い炎で燃え上がって消滅したことだ。

 どうやら使い手自体がまやかしで、妖刀の力で具現化していただけらしい。つまり最初から犯人はおらず、全ての原因は一本の妖刀にあった。

 これでは誰も責められない。強いて責めるなら、妖刀を作ったどこかの誰かだ。

「まぁもっとも、こんな刀を街に持ち込んだ誰かがいるはずだ。見つけ次第、何らかの罰は受けてもらうとしよう」

 事のてんまつをまとめるため、レストさんと話す私とグレイブ。折れて力を失った妖刀は、レストさんのところで厳重に保管されることとなった。

「今回はご苦労だったね。街の住民を代表してお礼を言わせてほしい。特にリリアナさん、君の鍛冶師としての腕があったからこそ、被害にあった五人も目を覚ました」

「い、いえ。私はただできることをしただけですから」

「ふっ、そうか。だがこれで一つ目だね」

「え?」

 なんのこと?

 と、私は首を傾げると、彼は穏やかな表情で言う。

「君がこの街にとってどんな存在となるか。今回の一件は間違いなく、君がいたからこそ解決した。そういうことだよ。皆もそう思うはずだ」

「あ……はい。ありがとうございます!」

「まだ一つだ。厳しいことを言うけど、これじゃまだまだ足りてない。だから今後も励むといい。君にできることを、君らしく」

「はい!」

 この街に私が必要だと証明する。

 今日は一つ、そう思ってもらえるだろう働きを積み重ねた。

 レストさんの言葉は淡泊で、励ますでもなく褒めるでもなく、事実を述べている。だからこそ、言われたほうは自信が持てるのかもしれない。


 妖刀の事件が解決して数日。休日の食堂で朝食を食べながら、グレイブに尋ねる。

「ねぇグレイブ、妖刀の刀身ってレストさんが保管してるんだよね?」

「ん? そのはずだよ。犯人こそいなかったけど、あれが原因だったわけだからね。下手に外へ出ないよう厳重に保管するんじゃないかな?」

「……そっか」

「何か言いたげだな」

 食事の手がピクリと止まる。

 グレイブに見透かされ、すように笑う。

「あはははっ、ちょっと思うところがあってさ」

「なんだ? 教えてくれないか?」

「えっと、妖刀のことなんだけど、もしできたら──」


        


 その日の午後。私がで待っていると、グレイブが遅れてやってくる。

「お待たせ。もらってきたぞ」

「ありがとう! ごめんね、わざわざ取りに行ってもらって」

「別にいいさ。レストさんも処分に困っていたしね」

 彼が右手に持っていた包みを開く。中身は折られた妖刀の刀身だ。

「じゃあ始めるよ」

「あのさリリアナ、疑うわけじゃないんだが……本当にできるのか? 妖刀をただの剣に戻すなんて」

 グレイブは心配そうな表情で私に尋ねてきた。

 今朝、彼に話したのは妖刀の処分について。そのまま放置しておくのではなく、私の手でただの剣に戻してあげたい、という話をした。

 お願いしてみたら許可がもらえて、こうして私の手元に刀身がある。

「折れているとはいえ妖刀だろ? 君に危険はないのか?」

「大丈夫だよ。もう折れてるし、グレイブに斬られて刃としては死んでるから」

 話しながら、私は刀身を熱して溶かしていく。

 やることは単純。一度溶かしてハンマーでたたき不純物を取り除く。それを一定回数繰り返すだけだ。

「刀に罪はないし、元の素材だって普通の鉄だったんだよ。そこに作り手の邪念が、良くない感情が込められたせいで妖刀になるの。もし誰が悪いかを決めるなら、これを打った鍛冶師だよ」

「……珍しいな。リリアナが怒るなんて」

「え、そうかな? たぶん同じ鍛冶師として、妖刀なんて作ったことが許せないんだと……思う?」

「なんで疑問形なんだよ」

 グレイブは笑う。

 どうしてかな?

 彼の言う通り、私は怒っているんだと思う。それでも、少しは考えてしまう。妖刀を作ってしまうほどの強い思いは、一体何から生まれたのだろうか。

 刃に妖しさがこもるほどの、何を恨んでいたのだろう。その思いはおそらく、一生わからないだろうけど。

「せめて、最後の一振りはれいな色で残してあげたいな」

 名前も知らない鍛冶師。どこかの誰かが作った刀は、余計なものさえなければ美しい傑作だった。

 世に残す作品は、すべて鍛冶師としての誇りで、半身のようなもの。だからどうか、後悔は炎に包まれ天に昇っていきますように。

 そう思って鉄を打つ。

 カン、カン、カン──と、高い音が鍛冶場に響く。熱がこもり、火花が散って鉄が焼ける匂いが充満する。

 この匂いを嫌いな人もいるけど、私は実は気に入っている。鉄臭いとののしられた過去も、今では懐かしい思い出になりつつあった。

 そう思えるようになったのも、グレイブと出会って、そうてんつるぎの一員になったからだろう。私は一瞬、鉄を叩く手を止めた。

「ん? どうかしたか?」

「ううん」

 その一瞬に気づいたグレイブが、キョトンとした顔で尋ねてきた。私は首を横に振って何事もなかったように作業を再開する。

 鉄を打つ手を止めないまま、私はふと思ったことを口にする。

「いろいろあったなーって思ったんだ」

「え?」

「さっき手を止めた時だよ」

「ああ、なんだ。やっぱり思うところでもあったのか」

 やれやれとあきれるグレイブ。鉄の色を見ているから、彼の顔は直接見られない。それでも、彼がどんな表情をしているのかなんとなくわかる。

 わかるようになるくらい、彼と一緒に過ごした時間が増えたということ。そう、私が鉄を打つこの場所も、少し前まで使われていない空き家だった。

 私自身も、ついこの間まで王宮で働いていたわけだし、それを考えると環境の変化というものはとてつもなく大きい。

「本当に運良くここまで来られたよ」

「運だけじゃないけどな。君の実力があってこそだろ?」

「ありがとう。でもやっぱり運は大きかったと思うな。グレイブと会えたこともそうだし、いろんな人との出会いも……運がなかったらできなかったよ」

「それはまぁ、そうかもしれないな」

 あの日、あの場所で。雨の中を途方に暮れ、全てを諦めようとしていた私の元に、グレイブがやってきた。タイミングが少しでも違えば、私は今頃ここにいない。

 温かい食事も、和やかな時間もなく、きっとつらく苦しい日々の中にいたはずだ。いや、もしかするともっとひどい……。

 考えたくもない未来が待っていただろう。

「運ねぇ……俺もそういう意味じゃ運が良かったんだろうな」

「グレイブは日頃の行いが良かったからじゃない?」

「そんな理由で運が上下するか? だとしたら災難に巻き込まれたりしなくなると思うんだが」

「それはグレイブが自分から飛び込んでいくからだよ」

「ははっ、そうだったな」

 グレイブは楽しそうに笑う。きっと私を助けた時以外にも、彼はたくさんの人たちを救っている。

 泣いている人に自然と手を差し伸べる。危険を顧みず剣を抜き恐怖や絶望に切っ先を向ける。彼はそういうことを、当たり前のようにできる人だ。

「ちなみに聞くけどさ? ここ最近あったことで一番印象に残ってることってなんだ?」

「印象に残ってること?」

「ああ。思い出深い出来事」

「うーん、いろいろあったからねぇー」

 思い返すほどに劇的な日々を送ってきたと思う。たった数か月の間に、普通に生活していたら体験できない様々なことを経験している。

 中でも一番、予想外でありえないと思ったことといえば一つだろう。

「「イブリス」」

 私とグレイブの声が重なった。グレイブはちょっぴり悔しそうな顔をして笑う。

「やっぱりそうだよな」

「うん。だって魔王だよ? ついこの間まで、ここに魔王がいたなんて信じられないよ」

「そうだな……いたんだよな。あいつが」

「うん」

 魔王イブリス。魔界をべる王にして、人類最大の敵……だと思っていた存在。実際に会って話してみたら、その印象は崩れてしまった。

 彼はただ、退屈していただけだった。人の世に対してもそこまで興味はない。彼が興味を抱く対象は、彼自身を驚かせる何かがあるかどうか。

 彼は自分を楽しませる存在を求めて、長い時間を生きてきた。その道のりの中で、私を見つけた彼がこの場所に姿を見せた。

「あの時は気づいたら私の後ろにいたんだよね」

「よく逃げ出さなかったよな」

「逃げ出せる気がしなかっただけだよ。それにすぐグレイブが来てくれたし」

「あれも偶然だ。俺も魔王が来るなんてこれっぽっちも想像してなかったよ」

 グレイブは懐かしむように目をつむり、うなずきそう言った。この地にイブリスがいて、共に語らい、笑い合ったんだ。

 事情を知らない他人に話しても信じてもらえないだろうけど、私たちは魔王イブリスと友人のような関係になった。

 まだそんなに時間がっていないのに、まるで遠い過去のように感じる。

「イブリス……どうしてるかな?」

「さぁな。あいつのことだから、向こうでも騒がしくしているんじゃないか?」

「ふふっ、そうかもね」

「──そうでもないぞ? 余は元来寡黙な性格だからな!」

「「……え?」」

 ふいに声が聞こえた。私とグレイブの後ろ側、外へつながる扉越しに、懐かしい声が。私はてっきり、脳内で再生された声だと思った。

 驚いているグレイブを見るまでは、それが現実の声だとは思わなかった。

「ね。ねぇグレイブ、今の声って」

「……ったく、戻ってくるのが早いんだよ」

 そう言ってグレイブは扉のほうへ歩み寄り、ゆっくりと扉を開けた。扉の向こう側では、開けてもらえるのを待っていたように彼がいた。

 グレイブとうり二つの容姿で、ニヤリと悪だくみをする子供のように笑う。

「久しぶりであるな。リリアナ、それにグレイブよ」

「そんなに経ってないけどな」

「お帰りなさい!」

「ふっはっはっはっは! こういう場ではただいまと答えるべきなのだろう? ただいま戻ったぞ!」

 イブリスは腰に手を当て高らかに笑う。記憶の中にしか現れなかった彼の声が、姿が、こうして目の前にある。

 グレイブは絶対に認めないと思うけど、私たちは彼の再訪を喜んでいた。

「二人とも! 余が不在で寂しかったのではないか?」

「調子に乗るな。寂しいわけないだろ」

「私は寂しかったけどなぁ」

「なっ、おいリリアナ」

「はっはっはっ! グレイブもリリアナのように素直になるがいいぞ! 本心は余の再訪の喜びに打ち震えているのだろう?」

「誰が震えるか、誰が! 俺が今考えているとしたら、お前がやって来たことでまた面倒事が増えるんじゃないかってことだけだ!」

 珍しく声を荒らげるグレイブを見て、私はクスリと笑ってしまった。リガルドさんたち以外で、グレイブを冷静じゃなくできるのはイブリスくらいだろう。

 こうして二人が向かい合っていると、まるで本物の兄弟のように見える。グレイブがお兄ちゃんで、イブリスが弟かな。

 なんてことを考えながら、私は止めていた作業を再開する。

「む? どうやら仕事中だったか」

「仕事じゃないけどな」

「そうなのか?」

「ああ。おひとしだよ」

「グレイブに言われたくないなー」

 私とグレイブにしか伝わらない会話を聞いて、イブリスはキョトンと首をかしげる。その後、グレイブが妖刀のことを彼に伝えた。

 二人は隣り合って腰を下ろし、作業を続ける私を見ながら話す。

「ほうほう。妖刀か。余がいない間に随分と面白いことがあったようだな」

「面白くはないだろ? 何人も被害者が出たんだ」

「だが皆無事だったのだろう?」

「それは結果論。ひどい時間だったことに変わりはない」

「ふむ。余から見れば有意義な時間としか思えんが……まぁいい。何があろうと、お前たちなら問題はないだろう」

 一人で納得したように頷くイブリスに、グレイブは小さくため息をこぼす。呆れているのか、彼らしさを感じているのか。たぶんその両方だろう。

 私は折り返しに入った作業をせっせと進めながら、二人の話に耳を傾ける。

「そっちは?」

「む? 何がだ?」

「そっちはどうだったんだって、聞いてるんだよ」

「ああ、余のほうは特に何もなかったぞ。極めて平和だ。強いて言えば──」

 と言いながら天井を見上げ、イブリスは思い出すように続ける。

「余の帰還と同時に城への襲撃があってな。余の不在を狙って、余の城を制圧しようと考えていたようだ」

「おい……全然平和じゃないだろそれ」

「何を言う? 余も城も無傷だったのだから問題なかろう?」

「無事なら平和ってことじゃないんだよ……」

 グレイブは呆れながらため息をこぼす。私も今の話を聞きながら、グレイブと全く同じことを思ったよ。

「他には何もなかったんだろうな?」

「む? 特に何もないぞ?」

「本当か? お前を倒そうとしてた奴らもいたんだろ? そいつらはどうなったんだ?」

「無論ボコボコにしたぞ! 余に歯向かったのだから当然の報いだろう。命を取られなかっただけ幸運だと言うべきだな」

 そう言ってイブリスは豪快に笑った。その笑い声は鍛冶場に響き、鉄を打つ音すらかき消すほどに大きくてよく通る。

 それからイブリスが街を去った後の話を詳しく聞いた。

 結論から言えば、確かに彼の言う通り、何事もなかったようだ。城への襲撃も問題なく対処して、謀反を働いた部下たちも再教育され、元通りの体制に落ち着いたという。

 一度は命を狙おうとした部下を変わらず近くに置くなんて、私たちからすれば考えられない。ただ悪魔である彼らにとって、命を狙い合うのは当然のことらしい。

 強さこそが全てであり、圧倒的な強さを持つからこそ、イブリスは長く魔王として君臨している。

 裏切りはよくあること。それをくだらないと一蹴できる強さがあってこそ、魔王は魔王らしくあれるのだと彼は言った。

 彼の話が終わったと同時に、私も作業を終える。忌まわしき妖刀は姿を変え、一振りの刃に作り替えられた。

 作ったばかりでさやつかもない、ただよく斬れる刃そのものに。

「ほうほう、相変わらず美しい剣を打つな」

「ありがとう」

「終わったんだな」

「うん」

 妖刀だった頃に込められた邪念は全て打ち払った。熱し、何度も何度も打ちつけることで、不純物を取り除いた。

 もう誰も恨まない。み込まれることもない。

「それをどうするんだ? さすがに売り物にはできないだろ?」

「うん。後で鞘と柄を作って保管しておくよ」

「それがいいか」

 私は手袋とゴーグルを外して、額から流れる汗をぬぐう。そんな私にタオルと飲み物を渡すグレイブと、出来上がった刃をまじまじと見ているイブリス。

「勝手に触るなよ?」

「む、まだ何も言っていないのだが?」

「もらっていいか、とか聞こうとしたんじゃないのか?」

「ほう、正解だ」

「やっぱりかよ……」

 イブリスは笑いながらグレイブに、さすがだなと一言。

 たぶんグレイブじゃなくてもわかったと思う。あんなにもわかりやすく、物欲しそうな目で見ていれば……ね。

「それで、イブリスはどうしてここに?」

「あーそうだ。それを聞いてなかった。なんで急にこっちに来たんだ?」

「うむ、その話は皆の前でするつもりだ」

「皆って、ギルドのみんな?」

 イブリスはこくりと頷く。私やグレイブだけでなく、ギルドの人たちの前で話したいというのは、何か事情があるのだろうか。

 私とグレイブは互いに顔を見合わせ頷き、グレイブが言う。

「わかった。じゃあホームへ戻ろうか」

「うむ! 案内頼むぞ!」

「いや、お前も覚えてるだろ。リリアナみたいに方向音痴でもないんだから」

「わ、私だってもう迷わないよ!」

 鍛冶場からギルドホームへ戻るまでの道なら……。


        


 夕暮れ時に工房を後にして、歩いている途中で日が沈み、空では星と月が輝きを増す。その下で、街灯が照らす道を三人で歩いていく。

 道行く人が二度見したり、ヒソヒソ話をする声が聞こえてきた。それも仕方がないだろう。私を挟んで歩く二人は有名人だ。

 もっとも片方に関しては、人ではなく悪魔なのだけど。

「やっぱり目立つね。こうして歩いてると」

「イブリスがいるからなぁ」

「グレイブも有名人だからね?」

「余は気にせんぞ。見られるのには慣れているからな」

 千年以上生きていて、魔王として長く君臨するイブリスにとって、周囲からの視線は緩やかに吹き抜ける風と同じようなものだろう。

 私たちは注目されながら歩いて、ギルドホームにたどり着いた。いつもなら自然と足を進める場所だけど、今日に限っては一呼吸置く。

 驚かれることは確実だとして、あとはどう説明すればいいのか。ここへ来た理由も教えてもらっていないから、私たちじゃ説明しようがない。

 グレイブも同じことを考えていたのだろう。扉の前で立ち止まり、うーんと頭を悩ませる。すると、そんな私たちを見たイブリスが……。

「何を悩むことがあるのだ? ここはお前たちのホームで、帰る場所だろう? 扉を開けるのに戸惑う理由がどこにあるのだ?」

「いや、普段ならそうなんだが、今はお前が──」

「まったくおかしな者どもだな。仕方あるまい。ここは余が先陣を切ってやろう」

「あ、ちょっ!」

 グレイブが手を伸ばすも距離がひらき、イブリスは何のちゅうちょもなく扉を無造作に開いた。さながら自分の家に入るように。

 そんな後ろ姿に呆れるグレイブと、なんだかうれしくなる私は互いに目を合わせる。

「イブリスらしいな」

「そうだね」

 ホームの扉を豪快に開けたイブリスが中へと入る。カランカランと扉のベルが鳴って、真っ先に気づいてくれたのは──

「お帰りなさい! 夕食なら先に──」

「頑張っているようだな。アンナよ」

「イ、イブリスさん!?

「うむ! 見ての通り、余であるぞ!」

 威張るように両手を腰に当て、胸を張るイブリス。アンナの大きな声に反応して、食事中だった人たちが一斉に振り向く。

「おい! 今イブリスって」

「おわ! 本当にいるぞ! 魔王がまたやってきたんだ!」

 案の定、ホーム中で大騒ぎになった。イブリスの名前を連呼したり、本物かと目を疑う者もいたり、前回の宴会の時と似ている。

「ボスと姉さんに報告だ!」

「だな! 今夜は宴会になるかもしれねーぞ!」

 何人かが階段を駆け上がり、二人に報告をしに行った。その間も向かい合うイブリスとアンナ。

「あ、あの……本当にイブリスさん……なんですよね?」

「そう言っているぞ? 余がこの世に何人もいるわけがなかろう」

「で、でも急にどうして」

「いろいろと報告することがあってな。先にリリアナの工房に邪魔してきたのだ」

 話しながらイブリスが私とグレイブのほうへ視線を向ける。その誘導につられて、アンナと私も目が合う。

 アンナは見るからに動揺、というより困惑している様子だった。無理もないだろう。突然の魔王の再訪に驚かない人はいない。特に彼女は……。

「ね、ねぇリリアナ!」

「先に答えちゃうけど本物だよ? 目の前にいるのは、本物の魔王イブリスだから」

「うむ! 何度も名乗るのは格好が悪いからな! また来たぞ、アンナよ」

「い……いらっしゃい! イブリスさん」

 彼女はホッとしたように胸をなでおろし、瞳を潤ませながら言葉を交わす。信じられない気持ちから、再会できた喜びに変化した瞬間だ。

 きっとこの場所で、他の誰よりも再会を心待ちにしていたのがアンナだろう。彼女はイブリスに特別な感情を抱いている……と思う。

 二人が見つめ合っていると、ドタバタと天井から足音が聞こえて、そのまま階段のほうに音が続いていく。

 この豪快かつせわしない足音は、間違いなくあの人だ。

「おいお前ら! 魔王がまた来たってのは本当か!」

「む? その声はリガルドだな?」

「おお! 本当に来たのかよ!」

「うむ! 余は再び来てやったぞ!」

 胸を張るイブリスの前にリガルドさんが歩み寄る。上から下へ姿を確認して、彼が本物なのだとわかったのか、何度も頷いていた。

「こいつは驚いたな。しっかしどうしたもんかねぇ」

「なんだ? 余の再訪に何か問題でもあるのか?」

「問題ならいくらでもあるだろ」

 呆れたグレイブがぼそりとつぶやいた。確かに問題はたくさんありそうだ。経緯はどうあれ、彼は魔王なのだから。

 私は少し前にあったギルド集会のことを思い返す。あの場でも、イブリスが街を訪れた時のことが話題に上がっていた。

 結果的にあれは、私の決意を確認するための話だったみたいだけど。実際、魔王が簡単に出入りする街というのは、はたから見れば危険でしかない。

 リガルドさんが困っているのも頷ける。

「こいつはよくないな~。来るなら来るって言っといてくれよ。じゃねーと、今からうたげの準備をしなくちゃならねーだろ?」

「ほう、それは確かにそうであったな」

「ちょっ、ボス?」

「つーわけだグレイブ! 他の奴らにも伝えとけ! 今夜は派手にやるぞ!」

「……はぁ。こうなると思ってた」

 リガルドさんが困っていた理由は、私が心配していたこととは全く無関係だったみたいだ。これには私も苦笑い。

 それでもやっぱり、私もリガルドさんと同じで、彼の再訪を祝いたいと思う。きっとグレイブも、嫌そうに見えても、内心は喜んでいるに違いない。

「素直じゃないね。グレイブは」

「ん? 何か言ったか?」

「なんでもないよ。私たちも手伝おうよ」

「そうだな」

 私とグレイブも宴の支度を手伝うことにした。リガルドさんが勝手に決めたことだけど、珍しくテレジアさんも駄目とは言わなかった。

 言ったところで無駄だと思ったのか。相手がイブリスだから仕方なくなのか。それとも、本気で喜んでいる人がいるからなのか。

 とにかくみんなで準備を始めて、あっという間に宴会は始まった。

 乾杯の音頭を担当したのは、もちろんリガルドさんだ。

「えー、なんか理由はよくわからんが! イブリスの再訪を祝して乾杯!」

「「「かんぱーい!」」」

「なんだいそのへんてこな音頭は。もう少しまともな言い回しはなかったのかい?」

「いいじゃねーかなんでも。めでたいことはめでたいんだ」

「まったくあんたは」

 やれやれとため息をこぼすテレジアさんだけど、それ以上文句を言うことなく、リガルドさんの隣でお酒をぐぐっと飲み干す。

「お? なんだテレジア、お前にしちゃー豪快な飲みっぷりだな」

「ちょうどまってた仕事が終わったからね」

「なるほどな。んならちょうどいいじゃねーか。今夜は好きなだけ飲み食いするぞ」

「そのつもりだよ。あんたのせいで溜まってた仕事なんだから。あたしが満足するまで今夜は付き合ってもらうからね?」

「お、おお……すまねえな」

 盛り上がったり盛り下がったりする二人を、私は少し離れた席から眺めていた。隣にはグレイブがいて、反対側にはイブリスが座っている。

 この並び方も久々だ。ちょっと落ち着かないというか、挟まれるのは慣れないな。

「ボスたちも楽しんでるみたいだな」

「うん。あの二人って……」

「どうした?」

「なんでもない」

 余計なことを聞くと、後でテレジアさんに怒られてしまいそうだと思って、私は口をそっと閉じた。それに二人のことより、今はこっちの二人のほうが気になる。

「うむ! いぞこれは! アンナが作ったのか?」

「は、はい!」

「そうかそうか! 以前よりも腕を上げたのではないか? 余が不在の間も十分に修業していたようで感心したぞ」

「ありがとうございます!」

 イブリスに料理を褒められたアンナは、誰の目から見ても嬉しそうに笑顔を見せる。そんな彼女を見ていると、こっちまで笑顔がこぼれてしまう。

 隣で同じように見ていたグレイブも、私にしか聞こえない声量でこっそり呟く。

「アンナ、嬉しそうだな」

「そうだね。イブリスにしいって言ってもらうために頑張ってたんだもん」

「だな。毎日夜遅くまで頑張ってたし」

「うん。頑張ったことが認められると嬉しいよね」

 イブリスが去った後、アンナはよく一人で夜遅くまでちゅうぼうに残り、料理の勉強をしていた。私やグレイブは何度かその様子を目撃している。

 最初に見かけた時は声をかけたけど、二度目からはそっと見守ることにした。声をかけると邪魔になるなと思えるほど、彼女が集中しているのが伝わったから。

 その努力がこうして実を結び、喜んでほしい人に食べてもらって、笑顔を返してもらっている。鍛冶も料理も、作った人に喜んでもらえるのが一番嬉しいんだ。

 特にその人が、大切な人なら。


 唐突に始まったイブリスの再訪を祝う歓迎会は夜遅くまで続き、酔いが回った人たちから順に離脱して、気づけば半数がいなくなっていた。

 私とグレイブ、リガルドさんにテレジアさんは残っていて、残った人たちで集まっている。中心にいるのはイブリスだった。

「この酒も中々いけるな」

「だろ? というかお前さんは一向に酔わないな」

「余は魔王だからな。毒も酒も効かぬ」

「ふーん、酔えない身体ってわけか。それはそれで面倒なことだな」

 話しながらぐびっとお酒を飲み干すリガルドさんも、顔が赤くなっているだけで普段通りに見える。その隣にいるテレジアさんも同じだ。

「世の中には酔って忘れたいことも山ほどあるってのによぉ~。なぁテレジア」

「なんであたしに振るんだよ。つーかあんたは素面しらふでもしょっちゅう重要なこと忘れるだろ」

「うっ、そ、そうだったか?」

「そうだよ。この間だって重要書類を引き出しの奥にしまい込んで忘れてただろ? あたしが見つけなかったらどうなってたかわかってんのかい?」

「悪かったって! こんな時に怒るなよ!」

 どうやらテレジアさんはお酒が入ると愚痴が普段より多くなるみたいだ。そのほとんどがリガルドさんに対してのものだから、当の本人がタジタジのご様子だけど。

「おいグレイブ、助けてくれ」

「嫌ですよ。ボスが普段からテキトーしてるから悪いんじゃないですか」

「なっ! 見捨てるのかよ!」

「ちょっとあんた聞いてるのかい? あんたに言ってるんだよ?」

「うぅ……気持ちよく飲んでたのにぃ」

 リガルドさんは愚痴を目の前で言われて徐々に酔いがめていっているようだ。ぐびぐびと新しい酒を飲んでも、そのペースを上回る速度で愚痴が飛んできて、現実に引き戻される。

 見ているとなんだかびんに思えてくるけど……。

「自業自得だから同情しなくていいぞ」

「そ、そうだね……グレイブってこういう時は冷たいよね」

「ボスがいない時は俺が全部聞いてたからな。ボスへの愚痴を……」

「あ、なるほど……」

 そういう実体験があるわけか。だったらグレイブが塩対応になるのも頷ける……というか、どれだけ愚痴が溜まっていたのかな?

「ふはっはっはっはっ、相変わらずここはにぎやかでいいな! 余の城とは大違いだ」

「そうなのか? そっちのほうが賑やかなイメージなんだが」

「そうではないぞ。余の城は、いつも静けさに満ちている……つまらんほどにな。このような宴会を開くこともない」

「そうなの? お城っていうからもっと頻繁にあるのかと思ってたよ」

 私がそう言うと、イブリスは首を横に振って答える。

「宴会など開く意味もない。めでたいことなど数百年に一度あるかどうかだ」

「ま、真似できないスケールだね」

「ちなみに聞くけど、その数百年に一度って何があったんだ?」

「む? それもしょせんは大したことではないぞ? 確か太古の昔に余と争ったドラゴンの王が復活して、再び余に挑んできた時だな。無論返り討ちにしてやったが」

 この時、私とグレイブは間違いなく同じことを思った。

 相当大したことじゃないか……と。

「そのくらいのことが起きないと開かない宴って……」

「ああ、逆に参加してみたいな。俺たちも」

「楽しいものではないぞ?」

 イブリスは料理の皿をおもむろに持ち上げ、美味しそうな料理を見ながら楽しげに話す。

「このような食事も用意しておらん。もし次に宴会を開く機会があれば、ぜひともアンナを料理人として招待したいところではある」

「え、わ、私をですか?」

「うむ! アンナの腕なら申し分ない。まぁもっとも、それとは無関係に招待するつもりで来たのだが」

「え……?」

 イブリスがそう呟き、私とグレイブもピクリと反応する。そういえば忘れていたけど、彼がどうしてここにまた来たのか。その理由を聞いていなかった。

 それを今、イブリスの一言で思い出し、グレイブが尋ねる。

「イブリス、お前がここにまた来た理由……そろそろ聞いてもいいだろ?」

「うむ。頃合いだと思っていたぞ」

 イブリスは手に持っていた料理の皿をテーブルに優しく置き、改まったような口調と雰囲気で私たちを見る。

 私とグレイブを見てからアンナのほうへ振り向いて、また私たちのほうへと首を回す。

「余がここへ再びやってきた理由はほかでもない。お前たちを余の城へ招待しようと思ったからだ」

「お前の城って……」

「ま、まさか魔界に?」

「うむ! 余の城! そして余が統べる大地、魔界だ!」


 魔界。

 悪魔や魔族たちが暮らす領域であり、世界に存在する大陸の四割を示す言葉。私たち人間が暮らす大陸とは異なる世界といっても過言ではない。

 大陸を斬り裂く巨大な亀裂は、大渓谷となり魔界と私たちの暮らす大地を分けた。その様はまるで、ここから先は踏み入るなという警告のようだ。

 魔界が今の形となって数千年がつ現在に至るまで、ただの一人もあちら側へ渡った人間は存在しない。たとえそれが、勇者であっても。

 そんな場所に──

「私たちを?」

「招待するっていうのか?」

「そう言ったであろう? 今日は何度も聞き返される日だな。それほど余の言葉は信じられぬということか?」

「いや信じるも何も、唐突だし意味がわからない提案なんだよ」

 グレイブがキッパリと言い切る。魔王相手に臆することなく意見できるところに、グレイブの正義感の強さが垣間見える。

「確かにそうではあるな。ならば順を追って説明しよう。まず、余は魔界に戻って早々に部下たちに宣言したのだ! 以後、人間たちへ危害を加えることを禁ずる、と」

「え……」

「意外か?」

「それは……そうだろ? だってお前は魔王で、その部下たちっていうのも……」

 魔族やその上位主である悪魔たち。彼らは人間と敵対して長く争ってきた。イブリスと出会う以前、人間側は勇者を筆頭にして魔王の軍勢と戦っていたんだ。

 それをいきなりやめろと、悪魔たちに言ったという。他ならぬ魔王の言葉で。

「前にも話したと思うがな。余は元々、人間どもの領地や命などに興味はない。お前たちが勝手に危険視して攻め込んできたのが始まりだ」

「だからって唐突にやめろと言われて納得するのか? お前の部下たちは」

「納得などするはずもない。いや、しなくてもいいのだ。魔界では力こそが全て。余より弱い者たちに、余の決定に口出しをする権利はない」

 魔界に存在する唯一絶対の決まり、それは強い者こそが全てを決めるということ。魔王とはありていに言えば、魔界で最も強い存在だ。

 強さが絶対の世界で、魔王イブリスの言葉は何より優先される。だからこそ、納得なんてする必要がない。文句があるなら強さを示せばいい。できないのなら……。

「余に従う。それが悪魔というものだ」

すさまじいな。改めて聞くと」

「退屈なだけだぞ? 強さ以外に求めるものがないというのは……だから変えようと思ったのだ」

 イブリスはアンナの顔を見て、ニコリと微笑ほほえむ。

「イブリスさん?」

 見つめられた理由がわからないアンナはキョトンと首をかしげた。イブリスは私とグレイブに視線を戻す。

せんの話の続きだ。部下たちに告げたのは人間たちに危害を加えないことと、もう一つある。これは命令ではなく提案と呼ぶべきだがな」

「提案?」

「今後は人間たちとも交流を持ち、彼らの持つ技術を魔界での生活に取り入れようと」

 イブリスの話では、魔界には娯楽というものは存在せず、ほとんどの者がただ毎日を何もすることなく生きているそうだ。

 悪魔であれば魔力さえ枯渇しなければ食事も睡眠も必要ない。力の弱い魔族であれば別だが、それでも食事の回数は少なく、味は二の次。

 楽しいことといえば、より強くなるために戦いを挑むことくらい。それにも飽きたイブリスは、最も退屈を痛感していた。

「余は思ったのだ。余らが戦い以外に楽しみを見つけられなかったのは、単に周りに目を向けることがなかったからではないか……と。真に新しいもの、喜びを感じるものはもっと身近にあったはずなのだ。余はここに来て……そう思った。食事というものが楽しいことも、今さらになって思い知らされたぞ」

「イブリスさん……」

「ふっ、余がここまで感じたのだ。他の者たちも体験すればわかるだろう。人は弱い生き物だ。だが、決してつまらなくはないのだと」

 イブリスの言葉は重く、確かな感情と共に私たちの胸に響く。とても、恐れられた魔王の言葉とは思えない。なんて優しくて、温かいのだろう。

「それが、お前の考えた結論なのか?」

「その通りだ。しかしもっとも、余らは悪魔。戦いを好む感覚も捨ててはおらん。グレイブ、お前のように余と戦える者も残っておるしな」

「買いかぶりだよ」

「謙遜するでない。余が認めているのだ。お前はそれを素直に誇ればいい」

 照れくさそうに笑うグレイブの横顔を私たちは眺めている。イブリスの前だと素直じゃないのも、なんだか兄弟みたいで微笑ましい。

「──んで、俺らを招待して、親交を深めたいってか?」

「ボス、姉さんは?」

「こっちで寝てるよ。飲みすぎだ」

 リガルドさんの隣、机で突っ伏して眠るテレジアさんが、穏やかな寝息を立てている。

「珍しいですね。姉さんが寝るまで飲むなんて」

「そんだけ疲れてたってこったな」

「ほとんどボスのせいですけど」

「それは言わないでくれよ。んで、どうなんだイブリス」

 リガルドさんは話を戻し、イブリスに語りかける。顔色を見る限り、どうやら知らぬ間に酔いもめている様子だ。

「うむ、大体はそれで合っておるぞ。いきなり人間と仲良くしろ、そう言われても無理な話だろう」

「それで俺たちか? 確かに俺たちなら悪魔に対しても一定の理解はある。ただそいつはお前個人に対してだけだぞ? 魔界が危険な場所だってことは誰でも知ってる。そんな場所に、大切な団員を送れねーよ」

 珍しくリガルドさんが真剣な顔になって、イブリスに対して強く宣言した。その言葉と態度は、そうてんつるぎべるボスとしての威厳に満ちていた。

「ほう、余が信用できないか?」

「お前さんがじゃねーって。お前さんの周りが、な」

「うむ。まぁそうであろうな。余としては全員を招待するつもりでいたが……どうやらそれは難しいようだな」

「全員ってうちの団員全部かよ? そいつは普通に無理だな。これでもこの街を仕切っている一団なもんでな。もぬけの殻になるってのは避けたい」

 リガルドさんの意見はもっともで、イブリスも強引に連れていくつもりはないからか、話を聞きながら考えるりを見せていた。

「ならば少人数であればどうだ? 例えばここにいる三人。リリアナ、グレイブ、そしてアンナを先に招待する」

「俺たちか」

「わ、私も!?

 自分が指名されると思っていなかったのか。アンナはビクッと大きく反応して、片付けようとお盆の上に重ねてあった食器を揺らす。

 崩れそうになった食器を、イブリスがそっと手を伸ばして支えて止めた。

「大丈夫か?」

「は、はい。えっと……」

 アンナはチラッとリガルドさんに視線を送る。

「なぁイブリス、人数を減らしたって危険は同じだと思うんだが?」

「無論、お前の言う危険はあるだろう。だが余が共にあれば、いかなる危険からも守ることができる。たとえ魔界全土が牙を向こうとも、傷一つ付けることはないと断言しよう」

「お、おう……すげぇ自信だな」

「ふっ、もっとも余がそうしなくとも、勝手に守ってしまいそうな男がいるがな」

 そう言って視線を向けたのはグレイブだった。イブリスが三人の中にグレイブを指名したのは、彼が強いと知っているから。イブリスなりの信頼のあかし、なのかもしれない。

 とはいえ、ここで納得できるような話でもなかった。リガルドさんはいやいや、と首を横に振りながら答える。

「つーかやっぱり危険度は変わってないし、何の保証にもなってねーよ」

「む、やはりそうか」

「お前……わかって話してやがったな」

「ふっ、余とて理解しているつもりだぞ? こちら側と、余が生きる場所の差は……だがそれでも、見てほしいと思ったのだ。余が生きてきた場所を、お前たちにも」

 私たちに見てほしい。そう言ったイブリスの表情は、誰よりも人間らしく見えた。姿が人間だから当然かもしれないけど、魔王から人間味を感じるなんて不思議な感覚だ。

 何より、彼が心からそう思っているのだと、私たちには伝わった。同じようにリガルドさんにも伝わったらしく、彼はくしゃくしゃと自分の髪を触りながら言う。

「あー……んじゃこうしよう。お前らが選べ」

「え?」

「私たちが?」

「選ぶ?」

 順番に、まるで示し合わせたように疑問を口にした私たち三人に、リガルドさんはあきれたようにため息をこぼして続ける。

「こいつの強さは知ってるし、グレイブが一緒ならまぁ最悪なんとかなるだろ。だからお前たちの気持ち次第で決めていい。行きたくないなら残ればいいし、行ってみたいと思うなら行け。ただし無事に帰ってはこいよ」

「そういうことなら、俺は二人に任せるよ。俺は正直どっちでもいいんだ」

「む? どっちでもいいとは冷たいではないか。お前は余の城に興味がないと?」

「ない」

「そうハッキリ言うのか……さすがにショックだぞ」

 魔王がショックを受けている姿……これも珍しい光景だ。グレイブはああ言っているし、どうするかは私とアンナ次第になるのか。

「リリアナは? 行きたい?」

「うーん……興味はあるかな? 魔界には私が知らないものがたくさんあるんでしょ? かせたらいいなって」

「なるほど、リリアナらしいな」

 そう言ってグレイブはニコリと笑う。彼のことだから、私がそう答えることがわかっていたのかもしれない。

 そしてもう一人、彼女がどう答えるのかも……。

「アンナは?」

「私は……あの、イブリスさん」

「なんだ?」

「その、どうして私なんですか? 二人はわかるんですけど……」

 彼女が口にしたのは返答ではなく疑問だった。アンナは胸の前で手を握り、祈るようにイブリスに問いかける。それを後押しするように、リガルドさんも尋ねる。

「そいつは俺も気になったな。人選の理由を教えてもらってもいいか?」

「よいぞ。余が選んだ三人は、余が期待している者たちだ」

「期待か」

「グレイブは余と並ぶ強者として。リリアナはこの世で最も高名な鍛冶師として。アンナ、お前は余が認める料理人としてだ」

 イブリスは席を立ち、アンナの前に立つ。

「余がお前を選んだ理由は、お前にも期待しているからだ。アンナよ」

「私に……」

「お前の料理は素晴らしい。きっと、この感動は余だけにとどまらない。余と共に魔界へ行き、お前の料理を皆に披露してもらいたいのだ」

「そ、そんな大役を私に?」

 イブリスは一切のちゅうちょなくうなずいて、彼女に手を差し伸べる。

「アンナよ。お前だからこそ来てほしい。余が認めた者として」

「……私……私でいいのなら!」

 アンナはイブリスの手を握る。イブリスが彼女の手を握り返す。

「もちろんだ。その代わり、お前の、お前たちの安全はこの余が保証しよう! 何者であろうと、お前たちに触れさせはしない。それで構わぬか?」

 最終確認をするように、イブリスはリガルドさんに問いかけた。リガルドさんはやれやれと言いながら、ちょっぴりうれしそうな顔をする。

「……たく、言っただろ? あとはお前たちが決めろって。お前らが行きたいって言うなら止めねーよもう」

「決まりのようだな。グレイブ、リリアナよ。お前たちも異論はないな?」

「うん」

「二人が行くなら俺も行くさ」

 こうして、私たちはイブリスと一緒に魔界へ行くことになった。もっとも、出発はまだ少し先になる。話さなければならない人も多い。

 まずはすぐ隣で眠っているテレジアさんに事情を説明しないといけない。間違いなく納得してはくれないだろうけど、そこはリガルドさんがく説得してくれると言っていた。

 あとはドーガさんと、この街を仕切っているもう一人、レストさんにも話しておくべきだろう。まずは、魔王イブリスがこの街に再びやってきたところからだ。

 これはまた、長い説得の時間が必要になりそうだよ。


        


 翌日の早朝。

「……急を要する案件だと聞いて来てみれば……」

「む? どうした? 余の顔に何かついておるか?」

「……はぁ」

 レストさんはどっと疲れたようなため息をこぼす。

 蒼天の剣ホーム、リガルドさんの執務室に案内された彼は、すでに部屋で待機していたイブリスを見て一瞬だけ眉をぴくつかせ、冷静に私のほうへ視線を向けた。

 その時点で彼は、説明を受けるまでもなく状況の一部を理解したのだろう。だからあんな風に盛大なため息をついたんだ。

「どうして君たちはこうも短期間に次々と事を起こしてくれるんだ?」

「俺らのせいじゃねーっつの。つーか今回に至ってはリリアナちゃんのせいでもねーからな?」

「来訪の理由がどうであれ、きっかけを作ったのは彼女だろう?」

「それはまぁ、そうだけどよぉ」

 たった一言でリガルドさんが言いくるめられてしまった。その通りではあるので、私も何も言い返せないけど。

「それで? 今回はどんな騒ぎを起こしに来たんだ?」

「騒ぎって決めつけるなって」

「そのことなら余から話そう! 余が頼みに来たのだ。説明までお前たちに任せるのもよくないだろう」

「……へぇ。魔王が人間らしいことを言うんですね」

「ふっ、余はお前たちより人間に詳しいぞ。何せ数千年前から知っているからな」

 厳格な雰囲気のレストさん相手でも、イブリスは普段通り接していた。さすがというか、魔王なのだからしゅくすることはありえない。むしろ魔王相手に平然と威圧感を出していられるレストさんのほうが、私から見れば異常だ。

 この人には怖いものなんて存在しないんじゃないかと思える。

「話してもいいか?」

「お願いするよ」

 二人は向かい合い、レストさんがイブリスから事情の説明をされる。途中、所々魔王っぽい命令口調が出たりしたけど、おおむねわかりやすい説明だった。

 レストさんも質問をすることなく最後まで聞き終え、終始ふむふむと頷いていた。

「なるほどね。魔界と人間界の交流を深めたい。その足掛かりとして、こちらから三名を魔界に招待したいというわけか」

「うむ。そのために余はここへやってきたのだ」

 話を聞き終えたレストさんは、私たちのほうへと視線を向ける。具体的には私とグレイブ、その隣にいるアンナと目を合わせた。

「一応確認しておくけど、そこの三人は自分の意思で同行を認めたんだね?」

「はい」

「ええ。二人だけ行かせるわけにはいきませんから」

「は、はい! 私もです」

 私たちがそれぞれに返答すると、レストさんはそうか、と小さく一言漏らし、続いてリガルドさんのほうへと視線を向ける。

「ギルドの長としても認めていると?」

「あー、どっちかっつーと半々だな。認めてるけど、認めてねーというか」

「あたしはまだ反対だけどね? 魔界なんて危険がわかってる場所に行くなんて……でも、この子たちが自分から行きたいって言うし、この馬鹿も認めてやれとか言うから仕方なくだよ」

「ふっ、大体わかった」

 テレジアさんにはリガルドさんから説明してもらった。案の定、反対されたし軽く説教されたけど、リガルドさんが上手くかばってくれた。

 こいつらも子供じゃないから危険なことくらい理解している。その上で行きたいと言うんだから、それなりの覚悟を持ってるって。

「なんだお前、まだ膨れてんのか?」

「膨れてんじゃないよ。あたしが酔って寝てる間に話を進めたことはムカつくけどね」

「思いっきり根に持ってんじゃねーか……」

 リガルドさんの言う覚悟とは、もしもの時を想定しているのだろう。世界で最も危険な場所に踏み込むわけだから、下手をすれば命を失うかもしれない。

 そんな危険を理解した上での発言だから……と。まるで旅立つ子供を必死に止める母親と、子供の意思をんで母を説得する父親のようだった。

 そういうわけで、リガルドさんの説得が効いてテレジアさんが折れる形で話はまとまった。自分で口にしたように、テレジアさん本人はいまだに反対みたいだけど。

 最後まで納得してもらえないのは仕方がない。それだけ私たちのことを心配してくれているということだから。

「そう心配するでない。この余が安全を保証しておるのだ」

「だから大丈夫って安心できるわけじゃないんだよ。あんたのことはそれなりに信用しても、他はそうじゃないって」

「むぅ、何度も聞かされたセリフだな。ならば無事にここへ送り届けるまで安心させることは難しいか」

「そういうことだよ。死んでも守りきりな。でなきゃ、あたしらは黙ってないよ」

 テレジアさんがギロッとイブリスをにらむ。怒りとほんの少しの殺気を込めた視線は、彼女の本気を物語っていた。

 そんなテレジアさんの視線に当てられたイブリスは、なぜか嬉しそうにニヤリと笑う。

「よいな、心地よい殺気だ。お前たちの思いには応えてみせよう。余とて安全を保証できない場に友人を招くことはしない」

「友人か」

 そうぼそりとつぶやいたのはレストさんだった。全員の視線が彼に向く。

「魔王イブリス。貴方あなたにとって彼らは……いや、この場にいる者たちは友人でいいのかな?」

「無論だ!」

「……そうですか。なら私が口を出すことではないですね。自分の家に友人を招待したい。ただそれだけのこと、ということでしょう?」

「うむ。まぁそんなところだ。お前は簡潔に話をまとめるのが上手いな! お陰で話がすんなり入ってくるぞ!」

「お褒めにあずかり光栄ですよ」

 レストさんは小さく微笑み、リガルドさんに向けて言う。

「個人的に友人の家を訪ねるというなら、我々はそれに干渉しません。ただし、あくまでも自己責任です。もし何かあっても、私たちは庇わない。それで合っていますね?」

「おう。俺らもそのつもりだ」

「わかりました。ではこの街の統括としての意見は以上です」

 そう言って今度は私たちに視線を向ける。

「私個人の意見からすれば、われわれ人間以外の種族の文化というものには、多少なりとも興味があります。こんな機会はめったにないでしょうし、得られるものは得て帰ってきてください」

「へぇー、珍しいな。お前さんがそんなこと言うなんて」

「私にだってまだ残っているんですよ、未知に対する興味が……もし今の立場がなければ、その冒険に同行を願っていただろうね」

「ははっ、違いねーや。もちろん俺だってそうだ。うらやましいよな」

「ああ」

 羨ましいと言ったリガルドさんに、レストさんは同意して頷いた。二人の会話は意外すぎて、私はポカーンと間抜けな顔で驚いていた。

 リガルドさんはなんとなく想像できるけど、真面目で合理的なレストさんが、魔界に対する興味を素直に口にするなんて意外だったから。

 ふいにレストさんの昔が知りたくなった瞬間だ。そんな彼はリガルドさんと話しながら、難しい顔をして言う。

「しかし実際問題、魔界と人間界の交流が実現すれば大きな変化だ。この街は世界で唯一の場所になるだろうな」

「そうなったらめでてーな」

「めでたいだけで済まないだろうね。少なくとも王国は危険視するだろう。まぁもっとも、王国が敵になったところで今さらだが」

「だな。今でさえ敵みてーなもんだし」

 時折この二人は物騒な話を平然とする。王国を敵に回しても問題ないとか、場合によっては戦いになっても構わないという強気の姿勢を見せる。

 ここは王国の下から外れた唯一の自由の街だ。王国の支援を最初から受けていないから、王国が敵でも味方でも関係ない……と、そんな単純な話じゃないだろうけど。

「ま、その時はその時だな」

「そうだな。それで、出発はいつにするんだ?」

「ん? いつだっけ?」

「明日ですよ……」

 イブリスに尋ねられたグレイブが呆れ顔でそう答えた。ここまで真剣な話を続けてきたのに、出発の日時すら忘れていたのか、と。だけどこうして、レストさんにも話し終え、あとは出発するだけになった。一夜明け、朝になれば私たちは魔界へ旅立つ。


        


 ガシャガシャ──

 金属同士がこすれ合う音がカバンの中から外に漏れる。夜の自室は薄暗く、明かりをつけても手元より先は暗いまま。

 私は明日の準備と最終確認を兼ねて、持っていくものの整理をしている最中だった。

「忘れ物は……ないかな。よし」

 三回くらい中身を確認して、漏れがないと確信してからカバンに詰め直す。大した荷物は持っていかないつもりだ。

 大きいものといえば、鍛冶の時に使うハンマーとか道具一式くらいだろう。イブリスから詳しい話はされていないけど、向こうでも鍛冶をすることになりそうだ。

「ふあー……ん、もうこんな時間」

 欠伸あくびをしながら時計を見ると、すでに日をまたいで一時間が経過していた。出発の朝は早い。寝不足で魔界に行きたくないし、もう寝てしまおう。

「その前にお水だけ飲んでおこうかな」

 と、ぼそりと呟き部屋を出た。最近は空気が乾燥していて、朝目覚めると喉がカラカラに渇いていることが多い。

 私は薄暗い廊下と階段をゆっくり進んで、一階に向かった。すると、カランカランと高い音が響く。どうやら先客がいるようだ。

 ちゅうぼうには明かりがともっていて、ほのかに料理の香りがしている。朝の仕込みには早すぎる時間だ。ただ誰なのかは、見る前に察しがついた。

「アンナ?」

「──あれ? リリアナ?」

 後ろ姿と声で確信が持てた。

 厨房で料理をしていたのはアンナだった。彼女も私の声に気づいて振り返り、料理の手を止める。

「どうしたのこんな時間に?」

「私は水を飲みに来ただけだよ。アンナこそ、こんな時間まで料理をしてたの?」

「あ、うん……なんだか眠れなくて」

 朝が早いんだからしっかり寝ないと駄目だよ、なんてセリフを口にしようとして、喉の奥でぴたっと止まった。

 そんな当たり前のことはアンナもわかっているはずだ。わかった上で、眠れないからこうして料理をしているのだろう。

 そもそも、こうして彼女が夜に一人で料理をしている光景は、最近では珍しくはなかった。今日だって同じ……ただ少し、後ろ姿に余裕がないように感じた。

「頑張りすぎはよくないよ?」

「あはははっ、リリアナに言われても説得力ないよ」

「え、そうかな……」

「そうだよ。でも……うん、今日はここまでにしようかな」

 そう言って彼女は片付けを始めた。見るからに途中の料理もあるけど、表情を見れば集中できていなかったことは丸わかりだ。

「私も手伝うね」

「え、でも」

「大丈夫。それにまだ眠れないんだよね?」

「……うん。ありがとう」

 そのまま彼女の片付けを手伝ってから、温かいお茶をれて普段私とグレイブが食事をしている席に座った。

 二人そろって淹れたてのお茶を飲んで、心と胸を温かくする。しばらく静寂が私たちの周囲を包み込む。それを破ったのはアンナの呟きだった。

「……明日には魔界に行くんだよね」

「うん。もう今日だけど」

「そう……だね。寝て起きたらすぐに……」

「もしかして不安なの?」

 私が尋ねると、アンナはゆっくり首を横に振って否定する。

「不安じゃないよ? グレイブもリリアナも一緒だし、イブリスさんが大丈夫だって言ってくれてるから……うん、不安じゃない。でも、緊張はしてるかな? 悪魔さんたちに、私の料理を食べてもらうなんて」

「ああ、イブリスがそう言っていたね」

「うん……」

 私やグレイブと違い、アンナはイブリスから明言されていた。彼女の料理を、魔界にいる部下たちにも振る舞ってほしい。そのしさを共有したいと。

 だからイブリスはアンナを選んだ。共に魔界へ招待する一人として。

「大役を任されちゃったなーって……私でいいのかな」

「アンナは嫌なの?」

「嫌じゃないよ! イブリスさんに選んでもらえてすっごく嬉しい! 期待してくれてるのも……本当に嬉しいよ」

 そう言いながらうっとりした顔を見せる。彼女の表情はまさしく、恋する乙女のそれだった。同じ女の子だからわかる。ううん、誰だってこんな顔を見せられたらわかるよ。

「アンナなら大丈夫だよ」

「リリアナ?」

「だってずっと頑張ってたのは知ってるから。私だけじゃなくて、グレイブも他のみんなだって知ってるよ」

「リリアナ……ありがとう」

 アンナは嬉しそうにニコリと微笑む。別にお礼を言われるようなことじゃない。むしろお礼を言いたいのは私たちだ。

「グレイブも言ってたよ? アンナの料理、どんどん美味しさが増してるって」

「え、本当?」

「うん。私も同じこと思ってた。他の人たちもそうなんじゃないかな?」

「そ、そっか……ちゃんと良くなってるんだ」

 アンナはもっと自分に自信を持つべきだ。そんなことを、グレイブなら言ってくれそうだとふと思った。

 彼女のことを身近に見ている私たちには、その努力は確かに映っているし、料理の美味しさとして実を結んでいる。

「それにほら、イブリスも食べた時に言ってたでしょ? 腕を上げたって」

「う、うん。そうだね! そう言ってくれてた」

「ふふっ」

「リリアナ? なんで笑うの?」

「あ、ごめん。だってアンナ、イブリスに褒められたって話の時が、一番嬉しそうだったから」

 見るからに反応が違った。彼女自身無自覚だったらしくて、私に言われて初めて気がついた様子だった。一瞬で顔を真っ赤にして目をらす。

「そ、そうかな?」

「うん。大好きなんだね」

「んん──リリアナだって同じでしょ?」

「え、私?」

 アンナはぶんぶんと首を縦に振り、顔を赤らめたまま反撃だと言わんばかりに続ける。

「リリアナもグレイブと話している時、すっごく幸せそうだよ?」

「え、そ、そんなことないけど……」

「あるよ! 一目見たらわかるもん! グレイブの告白の返事、まだしてないよね? いつまで延ばすのかなーって思ってるよ」

「うう……そ、それは……」

 思いもよらない猛反撃にタジタジになった私は、自分のことから目を逸らすように、アンナの質問をかわしていた。

 私もいい加減、素直になるべきなのだろう。アンナが胸に秘めた思いに気づけたのは、私も同じ思いを抱いているからだ。


        


 夜空を見上げれば星々が輝く。しかし立っている場所によって見える星は異なる。大陸の端と端では、全く別の空が広がっている。

 夜風の冷たさを感じながら、魔王イブリスは一人で夜空を見上げていた。彼は背後に迫るもう一人の存在に気づき、空を見上げたまま語りかける。

「……なんだ? 存外暇なのか?」

「暇なわけないだろ? 今も絶賛仕事中だよ」

 イブリスが振り返ると、呆れた顔をしたグレイブが立っていた。

「仕事中には見えないが?」

「お前が悪さしないか監視してるんだよ、こっちは」

「ほう、未だに信用されていなかったのだな」

「一応だよ。お前が今さら悪さするとは俺も思ってないけど、万が一のことがあるからな」

 話しながらグレイブはイブリスの隣に立つ。彼らがいるのはホームのベランダ。以前にも二人は同じように、夜空の下で語り合った。

「万が一……か。その時はお前が余を斬ると?」

「そうなるな」

「ふっ、ならば他の者も安心するであろうな」

「どっち目線の話だそれは」

 二人並んで夜空を見上げる。二人は今、同じ懐かしさを感じていた。

「あの時も、こうして二人で話したな」

「そうだったな。不思議と懐かしいな。まだそんなに時間は経ってないのに」

「余も思う。それだけ濃い時間だった……ということであろう。こちらに来てから、余も退屈せずに済んでいる」

「それはよかったな」

 何気ない会話をしながら時間が過ぎていく。グレイブの姿をもとにして人間の容姿を構成したイブリスは、その仕草までグレイブにそっくりだった。

 グレイブは隣にいるイブリスを横目に、まるで鏡に映った自分と話しているようだと、奇妙な感覚を得る。

 それが今さらすぎて、しくて彼は笑った。

「何を笑っておるのだ?」

「いや、なんでもないよ」

「なんでもなくはなかろう。話せば楽になることもあるぞ?」

「本当になんでもないって。ただ不思議に思っただけだ。こうしてお前と、当たり前みたいに隣に立って話してるなんてな」

 グレイブはさりげなく話題を逸らす。とはいえ適当なことを言ったわけでもなく、実際彼が思っていることではあった。

「お前は魔王で、俺は人間だ」

いな。余が魔王でお前が勇者だ」

「その勘違い、まだ続いてたのかよ……」

「勘違いではない。余が認めた好敵手こそ勇者であるべきだ。聖剣の有無、周囲の認識などさいなこと。決めるのは余だ」

 まさにごうまん、豪胆、魔王らしい意見だとグレイブは思う。と同時に、抱いた疑問を口にする。

「そんな奴を、お前の家に招待して大丈夫なのか?」

「無論問題ない。いや問題はある。血の気の多い者どもが、お前のことを狙うかもしれんな」

「おい……」

 話が違うじゃないか、とグレイブは心の中で呟いた。

 イブリスは悪戯いたずらっぽい笑顔で続ける。

「ふっ、さしたる問題もなかろう? お前に勝てる者など余以外にはおらん。あの戦いを知っている者なら、まず挑むまい」

「あの戦いって、ああ、街を襲われた時のか」

「うむ。お前は今や魔界でも有名だぞ? 新たな勇者が誕生したとな」

「そうなのか? それは……初耳だな」

 やれやれと首を振り、魔界での周囲の反応を想像したグレイブは、大変な数日間になることを予感していた。

「お前……部下たちに余計なこと言ってないだろうな?」

「む? 余計なこととは?」

「俺のこともそうだが、リリアナのこと。面白おかしく、尾ひれのついた話をしてないかってことだよ」

「余はうそを好まん。故に余が語るのは真実のみだ」

 それが逆に怖いんだよ……と、グレイブは思いながらため息をこぼす。人間らしさを身につけつつあるイブリスも、結局は悪魔で魔王ということは変わらない。

 かみ合わない部分は相変わらず多いのだと実感するグレイブに、今度はイブリスが尋ねる。

「お前こそだ、グレイブ。余が不在の間にあった出来事……隠していることはあるまいな?」

「魔王に隠し事ができるとは思ってない」

「ふんっ、だが内心の感情までは余もわからん。特に人がよく口にする心というものは、手でつかむことも目で見ることもかなわん」

「……」

 グレイブはそう語るイブリスのほうを意外そうな顔で見ていた。それに気づいたイブリスが、いぶかしみ問いかける。

「なぜそんな顔をしている?」

「いや、お前から心がどうこうって話を聞くとは思わなかったから」

「まさか悪魔に心がないとでも思ったか?」

「そこまでは……いや、思ってたかな。少なくともお前と会うまでは」

 悪魔とは残虐で無慈悲、心などありはしない存在だと、多くの者たちが考える。それこそが人間社会に広がった悪魔たちのイメージだった。

 しかしグレイブは、その王であるイブリスと出会いたいし、言葉を交わすことで知った。悪魔も人間も、時に同じことを考えるのだと。

「お前たち人間はよく勘違いをする。この世に生のある存在で、意識というものがあるのなら、誰もが心を有している。名は違うかもしれないが、それは同じものだ。余らとて、感情があるからこそ怒り、思いがあるからこそ強さを求める。始まりは本能だとしても」

「そういうものなのか」

「そういうものだ。余は特に詳しいぞ? 何せ数千年以上生きておる。しかしそうか。その様子では、お前とリリアナの仲は変わらずか」

「う……なんでその話になるんだよ」

 グレイブは、じとっとイブリスを睨む。

「無論決まっておる。お前たちの仲に進展がないほうが、余としては好都合だからだ」

「お前……ひょっとしてまだリリアナを狙ってるのか?」

「当たり前であろう? 新しきを欲する。余の行動原理は不変なのだ」

「……まさかと思うけど、彼女を招待するって……本当はそのまま連れ去ろうとか考えてないだろうな?」

 グレイブの質問を耳にしたイブリスは、意味深にニヤリと笑みを浮かべる。グレイブは自然に腰の剣に触れた。

「それをリリアナが望むと思うか?」

「思わないな。これっぽっちも」

「ふっ、言い切りおったか。つまりはそういうことだ。当人が望まないのであれば強制はしない。だが望むのなら拒みもしない」

「……なるほど」

 グレイブは剣に触れていた手を離す。

「安心したか?」

「なんのことだ?」

とぼけても無駄だぞ。お前の動揺はわかりやすい。リリアナのこととなれば特にな」

「誰のせいだよ……」

 グレイブは大きなため息をこぼし、イブリスに背を向けてベランダから室内へと戻ろうとする。

「そろそろ戻るぞ。明日も早い」

「そうだな。睡眠というのも中々悪くない。この体にも随分と慣れたものだ」

「そうか。それはよか……おい待て、まさか向こうでもずっとその姿でいたんじゃないだろうな?」

「む? そうだが何か問題でもあるのか?」

「……いや、言ってももう遅い」

 自分と同じ姿で魔界をウロウロしていたのなら、自分が行った時に余計な誤解を生むんじゃないか……と、今さら心配したところで仕方がない。

 もうなるようになれと思いながら部屋へ戻るグレイブと、そんなことには気づくどころか気にもしていないイブリスだった。


        


 早朝になり目覚めて窓の外を見ると、ここ最近では一番れいな青空と太陽の光が目に映った。まぶしさに目を隠し、肌で日の温かさを感じる。

 私は大きく背伸びをしてから、昨日の夜に準備しておいた服に着替えて、朝の支度もささっと終わらせ荷物を持って一階へと駆け下りた。

 いつもより早い時間に起きて準備したから、もしかして私が一番乗りかなと思っていたけど。

「お、来たかリリアナ」

「グレイブ! それに……」

 イブリスも隣にいる。チラッと厨房を見ると、料理を運ぶアンナの姿が見えた。期待はずれなことに、私は一番最後だったようだ。

 言い訳するつもりはないけど、出発時刻の一時間も前なんだけどね。

「みんな早いね。アンナはわかるけど二人も」

「俺はいつも早起きだぞ」

「余は偶然だな。もっとも眠るといっても深い眠りには入れん。いざという時に戦えるようにはしておかねばな」

「そ、そういう理由なんだ……」

 そういう世界に、今から私たちは旅立とうとしているわけで、今さらながら緊張してきた。

 一時間後にはここを出て、私たち人間が立ち入ったことのない魔界へ一歩を踏み出す。誰が信じるだろうか。

 この数千年の静寂を破るのが、私たちだなんて。


 それから朝食を軽く済ませて、アンナも合流して他愛たわいのない話をしながら時間を待つ。一時間くらいあっという間に過ぎてしまった。

「それじゃボス、姉さん、行ってきます」

「おう。しっかりやれよ。二人のことも頼むな」

「いいかい? 絶対に無事に帰ってきな。じゃないと承知しないから」

「わかってますよ」

 リガルドさんとテレジアさんに見送られ、私たちはホームの外へ出る。道の真ん中で振り返り、イブリスが宣言する。

「では出発する。お前たちは余の前へ。他は少々離れてくれるか?」

「わかった」

 見送る二人は一歩、二歩、三歩下がり距離をとる。駆け出せば引き留められるギリギリの距離だ。その表情は、普段通りに見えて少々こわっている。

「案ずるな。この場にいる者の無事は余が保証している」

「だといいけどね」

「相変わらず信用が薄い」

「信用してほしいなら、あたしらのところにちゃんと帰ってきな。三人連れてね」

「ふっ、そうだな! ではしばしの別れだ!」

 イブリスが両腕を豪快に広げる。すると、彼を中心にして地面に紫色の光を放つ魔法陣が展開された。これが話に聞いていた転移の魔法陣。

 私の身体は今まで味わったことのない浮遊感に襲われる。魔法陣からは淡い光の粒があふれ出し、私たちの視界をふさいでいく。

 見送る二人の姿が見えなくなると、辺り一面が光に包まれて、近くにいるグレイブたちの姿さえ消えてしまう。

 ただ、不安に思う暇もなく、次の瞬間には視界が開けていた。

「到着したぞ」

「──ここが魔界?」

 私は空を見上げる。私たちのホームからも見える夜空の星々が輝く。ほんのり紫がかった空に、無数の星々がきらめいている。

 私たちは間違いなく朝に出発した。時間が経ったわけではないのに、気づけば夜空の下にいる。そして目の前には、見上げるほど大きな漆黒の城がそびえ立っていた。

「ようこそ我が城、我が魔界へ! 誇るがよい。お前たちはこの数千年、唯一こちら側へ踏み入った人間だ」

 イブリスが背にしている巨大な建造物。同じ城でもこうも違うのかと、私はある種の恐怖を感じていた。

「ははっ、このスケールは予想以上だな」

「う、うん」

「お、大きいね……」

 それだけじゃない。使われている材料が、私たちが日常的に使うような鉱物じゃない。例えば盾や剣に使われるようなはがね。それよりもっときょうじんで、まがまがしい何かだ。

 名前まではわからない。私が鍛冶師だからわかるだけなのだろうか。この城は、ようさいと呼ぶべきものだろう。

 敵と戦うことを想定した資材に、所々見える砲門。翼を広げて飛び交う魔物たちは、城へ近づく者たちを威嚇している。

 城の色が全体的に暗く、ほとんどが漆黒に染まっているのも原因だ。見る者を不安にさせるデザインになっている。

 これが魔界の城、魔王が暮らす家?

 正直に言うなら……とても趣味の良い建物とは言えないな。

「趣味悪いな」

「ちょっ、グレイブ!」

「はっはっはっはっ! 堂々と言ってくれおるわ。これでも魔界の最先端なのだがな」

「これがか? 遅れてるとかそれ以前だと思うけど」

 私もグレイブと同じ感想を抱いたけど、とても恐れ多くて口には出せなかった。彼だって気づいているはずだ。

 私たちがここに来てから、多くの視線が集中していることに。城の中から外から、私たちを見ている視線が増え続けている。

「み、見られてるね」

「そうだな」

「安心するといい。誰も襲ってはこぬよ。そんなことをすれば、余が黙っていないからな」

 一瞬、殺気を周囲に放った。魔王イブリスの威嚇は、空気をも振動させる強さ。たった一言、ただいちべつのみで、私たちに向けられていた視線のほとんどが消える。

 これが魔王。私たちの隣にいる彼が、本物の魔王であるのだと、こうして改めて実感させられた瞬間だった。

「さぁ、いい加減中へ入ろう。いつまでも外で立っているわけにもいかん」

「そうだな。案内してもらえるんだよな?」

「無論だ。勝手に歩かれて迷われても困るのでな」

「確かに」

 イブリスとグレイブ、二人の視線が私に向けられたことに気づく。

「な、なんで私を見るのかな?」

「勝手に出歩くでないぞ?」

「一人で歩き回って迷子になられたら大変だからな」

「う……わかってるよ」

 なんだか私が一番信用されていないみたいに感じてきたよ……。

 イブリスが前に出ると、入り口をふさいでいた特大の門が鈍い音を立てながら左右に開く。誰かが合図したわけでもなくひとりでに。

「この門、魔導具?」

「そうだ。この城のほとんどは余の力と部下たちの魔力で動いておる」

「これ全部……尋常じゃない魔力がいるはずだろ」

「さしたる問題ではない。魔力など、余から無限に湧き出ておるからな」

 当たり前みたいに規格外なことを口にしている間に、最後まで門が開ききった。すると、正面にはタキシード姿の老人が立っていた。

「お帰りなさいませ。魔王様」

「うむ。出迎えご苦労である。イエガーよ」

 聞き覚えのある声、そして聞き覚えのある名前だった。確か以前、私たちに街への襲撃を知らせてくれた悪魔で、イブリスの側近。

 その姿はイメージ通りと言えばそうで、主人に仕える執事のような格好に、白いひげが特徴的などこにでもいる老人……に角が生えている。

 見た目は人間によく似ていても、この男性も悪魔なんだ。

「お客様方も、よくぞいらっしゃいました。すでにご存じかと思いますが、私はイエガーと申します。以後お見知りおきを」

 イエガーさんは丁寧に挨拶をして、私たちに頭を下げた。私もつられてお辞儀をして、挨拶の言葉を返す。

「こ、こちらこそよろしくお願いします。私はリリアナです」

「アンナです! よろしくお願いします!」

「俺はグレイブです。しばらくお世話になります」

「これはこれはご丁寧に。皆様のことは、魔王様からお聞きしております故、どうかご安心くださいませ」

 イエガーさんは優しくニコリと微笑む。

 こうして話していてもこの人は……いや人ではなくて悪魔なのだけど、見た目も人間みたいだし、人と呼んでもいいのかな?

 この人の声を聞いていると、なぜだか安心して気が抜けるようだ。

「イエガーよ。他の者たちには伝えてあるだろうな?」

「もちろんでございます。どうぞ中へ」

 イエガーさんに先導され、私たちは城の中へと足を踏み入れる。外から見た通りの大きさで、中もスケールがまるで違った。

 入り口を進んで続く廊下は、巨人でも通れるほど広く大きかった。人間のサイズ感ではなく、悪魔たちの身長に合わせているからだろう。

 それにしても大きすぎる気もするけど。

 私たちは案内されるままに廊下を進む。道中、少なからず視線は感じたが誰ともすれ違うことはなかった。

 それを不自然に感じたのか、グレイブがイブリスに尋ねる。

「イブリス、これはどこに向かっているんだ?」

「余の玉座だ」

「なんでそんなところに向かってるんだよ」

「お前たちを歓迎するため。それと、見せつけるためだ」

「見せつけるため?」

 コトンコトンと先頭を歩く音が止まった。私たちはいつの間にか目的地の前に到着していたらしい。

 この部屋に玉座がある。誰もがわかるほど堂々と、門の入り口の扉と同じくらいの大きさの扉があった。金色の装飾に彩られたきらびやかな門だ。

 この城の黒さには似合わないとも言える。だからこそ、ここが特別な場所だということを示しているのかもしれない。少なくとも私にはそう見えた。

「魔王様、皆、準備は出来ております」

「そうか。ならば行くぞ」

「はっ!」

 イエガーさんが道を空け、扉の前に立ったイブリスは、巨大すぎる扉に手を触れる。すると扉は勝手に動き始め、左右に開いていく。

 門の入り口と同じ。だけど、その先に広がっていたのはまったく別の光景だった。右に列を作る悪魔たち。左にも列を作る悪魔たち。

 左右で膝をつき道を作り、まっすぐ伸びる赤いカーペットに向かって頭を下げていた。

 私がいた王国でも、これと似たような光景はあった。国王陛下とえっけんするとき、こういう部屋で騎士たちを左右に待機させていた。

 同じ……と言っていいのだろうか。

 同じと呼ぶにはスケールが、人数が違いすぎる。

「おいおい……この数は……」

 グレイブでも笑ってしまうほど、その光景は圧倒的だった。思い返すとすれば、あの日、街に攻め込んできた大軍が、そのまま一つの部屋に入っているような。

 よく見ると列の先頭には、あの時グレイブたちと戦った三人の悪魔たちがいる。

 最前列の玉座に近い位置で膝をついているのは、イエガーさんの次に年配の悪魔で、見た目も極めて人間に近い幹部のラベル。

 その隣は、鬼と悪魔の力を持つ特異な存在。幹部一の暴れ者ギガス。彼の対面にいるのは、幹部の中で唯一の女性悪魔。種族はサキュバスで、女性を魅了することにけたルーチェ。

 私は戦いの場に直接出向いていないし、近くで見ていたわけじゃない。だけどグレイブの話を聞いていたから、彼らがそうだとすぐにわかった。

 その光景に圧倒され、私たちは等しく立ち止まっていた。すると、そんな私たちの背中を押すように、力強くイブリスが言う。

「立ち止まる必要はないぞ。お前たちも余に続け」

 イブリスが一歩踏み出す。トンと大きな足音が響いて、その振動は私たちの皮膚を震わせた。立ち止まるなという言葉は命令でもないのに、まるで命令されたように足が前に出る。

 私とアンナは隣り合わせに、グレイブがその少し前を歩く。グレイブの手元を見ると、いつでも戦えるように、片手が剣に触れていた。

 彼が私たちの前を歩いているのは、いざという時に守れるようにするためだろう。こんな状況でも彼は彼らしい。

 その後ろ姿を見せられ、私はホッとする。隣を歩くアンナもおびえている様子はなく、進む一歩にも迷いはない。それはグレイブがいるから、じゃなくてきっと……。

「皆様はここでお待ちください」

 イエガーさんに指示されたのは、玉座に続く階段より手前の位置だった。私たちはここまで、だけどイブリスは先に進む。

 玉座に続く階段を上っていく。私たちだけがその場に残され、イエガーさんも階段の左下で片膝をつき平伏する。

 これから何が始まるのか、一抹の不安は感じつつも、私たちは三人そろって玉座を見上げた。

 そして、彼は玉座に座る。

「よくぞ来たな! 我が城へ! この魔王イブリスが歓迎しよう!」

 玉座に座って威張るように、彼は堂々とそう宣言した。悪魔たちをべる王らしく、ぜんたる振る舞いで見下ろしながら。

 同じようなセリフは到着した時にも聞いたはずだ。それをまた、わざわざ言うのは……。

「まさかと思うけど、それを言いたかったからここに連れてきたのか?」

「む? そうだが?」

「そうなのかよ……」

 グレイブも呆れて肩の力を抜きダランと両腕を下げる。警戒して剣に触れていた手も、力を弱めて離れていた。

 気が抜けてしまったのだろう。私とアンナも似たような状況で、周囲に悪魔たちがいなければ、このまま笑顔を見せていただろう。

 周囲からの視線が刺さるようだ。特にグレイブがイブリスに話しかけた時は、敵視するような冷たい感覚が左右から感じられた。

 だからなのだろう。グレイブは、一度は離した手を、再び剣に触れさせている。

「お前たちは楽にするとよい」

「簡単に言うな」

「簡単なことだ。お前たちは余の友人として招かれている。もっと堂々としておればよい。余の友人にやいばを向ける者などここにはおるまい。皆の者、そうであろう?」

 イブリスは威圧的に、周囲で平伏する部下たちに呼びかけた。

「すでに伝達されている通り、この者たちは余の友人だ。人間だからと無下に扱い、ましてや害をなすなど絶対に許されない。反論がある者はこの場で意見せよ」

 返答は沈黙。

 誰一人、意見を口にする者はいなかった。いいや、誰一人として意見を言えるような状況ではなかったのだろう。

 なぜなら皆、イブリスに恐怖していたから。彼の発する無言の圧力に負けて、顔を上げることすらできなくなっていた。

 仮に意見をしていれば、その場でつぶされてしまうのではないかと思うほどに。正直ちょっと同情するくらい理不尽な号令だ。

「反論はないようだな。ならばこれより、魔界全土に宣言する。イエガーよ」

「はっ! 魔法式を展開します」

 イエガーさんの一言を合図に、私たちの頭上を覆うように純白の魔法陣が展開された。それも一つや二つではなく、十以上を重ねて。

 イブリスは玉座を立つ。

「余の声が聞こえるか! 魔界に暮らす余の同胞たちよ!」

 彼の声が響き渡る。この場だけではなく城の外まで。外に響いた声が戻ってきて、いくつもの声が重なって聞こえるようだ。

 察するにこの魔法陣は、イブリスの声を魔界全土に届かせる効果があるのだろう。彼のさっきの言葉通り、何かを宣言するために発動させたのだ。

 彼は続けて語る。

「たった今、余の城、余の魔界に客人を招いた! 客人は人間! 三人の人間である」

 私たちには外の者たちの反応は聞こえない。だけど容易に想像できる。人間を招いたことに疑問を抱き、訝しむような表情で声に耳を傾けているはずだ。

 そんな魔界の者たちに、イブリスは魔王らしく言い切る。

「疑問はあるだろう! だが彼らは余の認めた者たち! 魔王イブリスの友人である。故に決して害をなすな。この者たちを害するというなら、すなわち余に歯向かったと同義である。その時は、躊躇なくじゅうりんしよう」

「はは……理不尽だな」

「そうだね。でも……」

 ここにきてようやく、なぜイブリスがこの場に私たちを招いたのか理解した。

 結局は彼の言葉通りだ。

 この場にいる悪魔たちに見せつけるため。この場にいない者たちにも聞かせるため。私たち人間が魔界に来たことを知らせた。私たちが敵ではないことを知らせた。

 自身が招いた者たちで、彼の友人だと堂々と宣言することで、けんせいしているんだ。

 彼らが私たちを見て驚いたり、不用意に敵対したりしないために。私たちへの配慮と、仲間たちへの配慮を同時にしている。

 魔王らしく理不尽な命令をしながら、魔王らしからぬ気遣いを見せているんだ……と。

 この時、私たちはようやく魔界に存在を認められた。だけど簡単なことじゃない。魔界に人間が訪れるということは、本来ならありえないことだから。

 その意味を、価値を、これから知っていくことになる。