(最後の発言はともかくとして、私も同意見ね。実家でもあの子がクザンに贔屓にされている話は散々聞かされたもの。平民を見下すようなことも平気で言っていたし、感謝の気持ちを持っていたとは到底思えないわ)
「外面は真っ白だけど中身は真っ黒なのは相変わらずのようね」
うんざりしたようにつぶやくアルダンテに、フレンは小声で囁く。
「……どうする? 彼女になにか仕掛けるかい?」
アルラウネは現状、クザンが最も心を許している人物である。
ということはアルダンテ達がまだ知らないような、クザンの弱みを握っている可能性が最も高い。
マーガレットの時のように、アルラウネがなにかボロを出すように仕掛けて、不正の証拠を掴みに行くべきか否か。
それをフレンはアルダンテに問うていた。しかし――。
「やめておきましょう。たとえこの場でアルラウネの性根がいかに終わっているかを告発したところで、あの崇拝のされようでは誰も信じてはくれそうにありませんし」
ただでもアルダンテは髪色や見た目で、初対面の相手に悪い印象を与えやすい。
そのため、信用度の勝負では外面がいいアルラウネには絶対に勝てないだろうと踏んでいた。
「そうだね。それが懸命だ。相手が有利な土壌で仕掛けるのは、余程の隙を見せた時だけにした方がいい。いつか真実がつまびらかになった時、きっと民も分かってくれるよ。苦しい時に自分達を助けてくれた本当の女神様は誰だったのかってさ」
「私は善人でもなければ人々の救世主になるつもりもありません。今回のことだって結果的にそうなっただけのことですわ」
実際のところ、アルダンテは自分が善良な人間だとは思っていない。
人並みに国を憂う気持ちや、苦しんでいる人々に同情する気持ちを持ってはいたが、他人のために自分を犠牲にするような自己犠牲の精神は持ち合わせていなかった。
それ故に、本意ではなかったのにも関わらず誰かを救ったとしても、それを自分の手柄のように振る舞うことに抵抗があったのである。
「なんとも君らしい答えだね」
フレンは「あ」と声を漏らすと、いいことを思いついたとばかりに笑顔で人さし指を立てる。
「土壌の話をしたけれど、今日は雨で足元がぬかるんでいるだろう? こんな日に派手に踊ろうものなら、どんな芸達者でも間違いなく足を取られて転んでしまう。そんな時は物騒なことはやめて、おとなしくデートでもしていた方が賢明さ。そう思わないかい?」
得意気なフレンにアルダンテは呆れてため息をついた。
(舗装された道の上でなにを言ってるのかしらこの人は。ただデートがしたいだけでしょうに)
「もういいです。早く質屋に向かいましょう」
「冷めてるねえ。まあ、そういうとこも好きなんだけどさ」
誰にでも言っているくせに。
そう思いながら、アルダンテが裏通りに戻ろうとしたその時。
「きゃあああ!?」
「うわあああ!?」
アルダンテの背後の方から人々の悲鳴が響いてきた。
直後、キィィィと車輪が急停止したかのような音がして、アルダンテの横を馬車が通り過ぎる。
「っ!?」
避ける間もなくバシャリと泥水が跳ね、アルダンテとフレンに降り注いだ。
そのまま馬車はふたりの少し先の方で、人々の列を散らしながら急停止する。
「……危なかったね。水を被っただけなのは不幸中の幸いかな?」
フレンが苦笑しながら、ハンカチで顔をぬぐった。
幸い、馬車は人をひとりも跳ねなかったようで、人々は混乱しつつも何事かと馬車の周囲に集まっていく。
「しかしこんな居住区のど真ん中で急停止しないといけないほどの速度で馬車を走らせるなんて、悪ふざけにしても少し度がすぎている。見過ごすことはできないな」
フレンが目を細めて馬車を睨んだ。
泥水を被ったアルダンテは、服の袖で顔をぬぐいながら無表情で口を開く。
「人を
直後、怒りに震えるその声に答えるように、バタンと勢いよく馬車の扉が開いた。
そこから出てきたのは――。
「……納得だわ。あの女なら、民を轢いても虫を潰したぐらいにしか思わないでしょう」
馬車から出てきたのは青いドレスを着た青髪の女――青薔薇姫、ネモフィラ・アングストだった。
彼女は眉根を寄せた不機嫌そうな表情で周囲にいる平民達を見ると、見るからに高慢そうな所作で髪をかきあげる。
「――平民の分際で高貴なる私の行く道を邪魔するだなんて、貴方達一体どういうおつもり?」
あまりに傲慢なその物言いに、馬車の近くにいた平民達は口を開けて唖然とした。
しかしすぐに怒りの形相になると、口々に叫びだす。
「お、俺達は邪魔なんてしていない! 馬車の邪魔にならないように道の端に並んでいた!」
「そうだ! お前の馬車がわざと端の方に寄せて走って来たんじゃないか!」
「ここは俺達平民が暮らす居住区の道だ! 貴族のものなんかじゃないぞ!」
騒ぎ立てる平民達を前にネモフィラは両耳を手のひらでふさいだ。
その直後、ネモフィラは大きく口を開けて叫ぶ。
「あー! あー!」
抗議の声をかき消すようなその声に、平民達は思わず眉をひそめた。
ネモフィラは彼らが口を閉ざし、辺りが静かになったのを確認するとおもむろに耳から手を下ろす。
「終わった? ああうるさかった。貴方達平民って本当に騒ぎ立てることしか脳がないのね。汚い身なりをしているし、まるで豚小屋の豚のようだわ」
突然の暴言に耳を疑う平民達に、ネモフィラはうんざりとした顔で口を開いた。
「自覚なさい。貴方達平民は私達高貴な血を引く貴族の養分でしかないことを。その癖に自我を出して、ここは自分達の暮らす居住区ですって? 笑わせないでくださる?」
ネモフィラは平民達を見渡しため息をつくと「いい?」と一呼吸おいてから、子供に言い聞かせるようにゆっくりと丁寧に話を続ける。
「貴方達の持つすべての財産は私達貴族のもの。貴方達が暮らしているこの王都も、国も、私達貴族がいるから成り立っているのよ? そこに住まわせてもらっている分際で二度と私と対等な口を聞かないでちょうだい。粗野で品性のかけらもない貴方達の声を聞いていると耳が腐るのよ。いいわね?」
一方的にまくしたてたネモフィラは、満足したのか馬車の中に戻ろうとした。
しかしその途中でなにを思ったのか振り返ると、平民達に向かって告げた。
「これを機にしっかり学びなさい。貴方達は国に、貴族に生かされているだけの持たざる者だということをね。そして私達貴族には二度と逆らわないようにしなさい。次は容赦なく轢くわよ。では皆さま、ごきげんよう」
バタン、と馬車の扉が閉まった。
それと同時に平民達の顔が怒りに染まり、一斉に怒声をあげる。
「ふざけるな! なにが貴族の養分だ!」
「誰が税を納めているおかげで贅沢な暮らしができると思っていやがる!」
「あの女を引きずりだせ!」
平民達が馬車に殺到する。
それを見たフレンが眉をひそめてつぶやいた。
「まずいな。あの子、いくらなんでも彼らを
その様をじっと無言で見ていたアルダンテは、居ても立っても居られず馬車の方に足を踏み出そうとして――
「――静まれ! お前達!」
ピピーッ! という鋭い警笛と共に男の声が通りに響き渡る。
声の方を向くと、大通りの奥に数十人の帯剣した警備隊の姿が見えた。
彼らは馬車の方に向かって全速力で走ってくる。
「これは何事だ!」
制服を着た警備兵の隊長が息を切らしながら叫んだ。
それに対して、平民達は口々に怒りの声をあげる。
「貴族の馬車が突然俺達に向かって突っ込んできたんだ!」
「それなのに謝りもしないで、あろうことか俺達を馬鹿にしてきやがったんだぜ!?」
「許せないわ! 罰を受けさせるべきよ!」
「そうだそうだ!」
あまりの平民達の声の多さに状況が掴めない警備兵達が困惑した。
警備兵の隊長は埒が明かないと思ったのか、馬車の扉に歩み寄る。
「申し訳ございませんが扉を開けて事情を聞かせていただけませんか?」
隊長の呼びかけに、バタンと勢いよく扉が開く。
馬車を降りたネモフィラは見るからに不機嫌な様子で言った。
「事情? そんなもの見れば分かるでしょう。貴族を妬む愚かな平民達の暴動です。さっさと排除してくれないかしら?」
「そうは言われましてもね。彼らにも言い分があるようで――」
「貴方、私が誰だか知らないようね。宰相の娘のネモフィラ・アングストよ」
その言葉に隊長は、ハッと表情を硬くする。
「たかが王都の警備隊長の進退なんて私がお父様に言えばどうとでもなるの。お分かり?」
高圧的なネモフィラの言葉に隊長は黙り込むと、平民達の方を振り返った。
そして感情を殺した無表情を顔に貼りつけて、声を張りあげる。
「ここに集まっている者達は直ちに解散しろ! 今すぐにだ!」
耳を疑った平民達が目を見開く。
直後、彼らは警備隊長に殺到して抗議の声をあげた。
「ふ、ふざけるな! 俺達の話を聞いていたのか!?」
「悪いのはどう見てもその女でしょう!?」
「貴族の味方をするなんてそれでも警備兵か!」
警備隊長は平民達から顔を背けると、部下である警備兵達に告げる。
「拘束せよ。暴れる者は多少痛めつけても構わん」
「はっ!」
警備兵達が動き出し、平民達の鎮圧にかかった。
対する平民も拳を振り上げて応戦する。
「やれるもんならやってみやがれ!」
悲鳴と怒号が巻き起こり、大通りは混乱の極致となった。
「離れよう。このままだと巻き込まれる」
フレンがアルダンテの手を引こうとする。
しかしアルダンテはその手を払い、目を細めてじっと馬車の扉の前で腕を組んでいるネモフィラのことを見ていた。
フレンは眉をひそめて、どうしたのとアルダンテに声を掛けようとする。その直後――。
「ひいっ!?」
ひとりの中年ほどの年頃の女が、取っ組み合いをしている警備兵と男の争いに巻き込まれて、ネモフィラの近くに転がって行った。
女はネモフィラの足元にあった水たまりに倒れこみ、全身を汚れた水で濡らす。
「……汚い水が跳ねたじゃない」
ネモフィラはうずくまっている女を見下ろし、汚い物でも見るかのような蔑みの視線を向けた。
そして彼女は女が浸かっている水たまりを蹴り上げて、さらに女に泥水を掛けようとする。そんな中――。
「――やめなさい!」
少女の声が響いたかと思うと、女とネモフィラの間にアルラウネが割って入った。
アルラウネがいることを知らなかったネモフィラは、一瞬驚きの表情を見せたが、すぐに唇を歪めて悪意のある笑みを浮かべる。
「あらあら。誰かと思えば白薔薇のお姫様じゃない。どうしたの、平民なんか
見下したようにそう告げるネモフィラを無視して、アルラウネはうずくまっている女の顔についた汚れをハンカチでぬぐった。
「大丈夫ですか?」
「あ、あたしは平気だよ……それよりも白薔薇のお姫様、あたしなんかを拭いたらその綺麗なハンカチが汚れちまうよ」
「気にしないでください。いつも一生懸命私達を支えてくださる国民の皆さまを助けるのは、貴族として当然の義務ですので」
微笑むアルラウネを見て、女は涙を流しながら「ありがとう、ありがとうねえ」と何度も頭を下げた。
それを見た周囲の平民達は、アルラウネの献身に心打たれたのか口々につぶやく。
「お優しい……やはりアルラウネ様は民を憂う真の貴族だ」
「あんな方が王妃になってくれたら、なにも期待できなかったこの国の未来も明るいに違いない」
先ほどまでは貴族に対する憎悪に顔を歪めていた彼らが、まるで
なにも知らない人間が見れば感動的とも思えるその光景に、アルダンテは鳥肌が止まらなかった。
(……気持ち悪い。
ここにいる誰も気づいていない。
白薔薇などと
(私は騙されないわ。だって知っているもの。聖女のように振る舞っている貴女が、内心では自分以外のすべての人間を見下していることを。その証拠に、ほら)
慈愛の笑顔を浮かべながらも、アルラウネは汚れた女の身体には絶対に触れようとしなかった。
女がハンカチを返そうと伸ばした手も、さりげなく距離を取ってかわして「差し上げます」と断っている。
(アルラウネは実家にいた頃からいつも平民を汚らしい卑しい存在だと見下していた。そんな平民の身体やその手で汚れたハンカチを、あの女が触るはずがない。あれがあの女の本性よ)
アルダンテの足は、無意識の内に動いていた。
警備兵と平民達の間をすり抜けて、馬車の傍にいるネモフィラとアルラウネの方へと。
「偽善者が! 見え見えの三門芝居は止めなさい!」
ネモフィラが怒りの表情で叫び、足元の水を蹴り上げた。
「きゃっ!?」
悲鳴をあげながらアルラウネが身を引いて水のしぶきを避ける。
偶然を装いながらも、移動したその先は先ほどネモフィラに泥を掛けられた平民の女の背後だった。
(なんて卑劣な。あの人を盾にする気ね)
呆れながらアルダンテが見ていると、平民の女はむしろ自らアルラウネを守るように、ネモフィラの前で両手を広げて立ちふさがる。
「アルラウネ様はあたしが汚させないよ!」
先ほどまでやられるだけだった平民の女が、アルラウネを守るために勇気を振り絞りネモフィラに立ち向かっている。
その姿を見て触発された平民達は先ほどよりも鬼気迫る勢いで行く手を遮る警備兵達に食ってかかった。
「あれを見てもなんとも思わないのかよ!?」
「貴族の犬め! どけ!」
「みんな、白薔薇様を助けるのよ!」
「こ、こいつら……! いい加減にしろお前達! これ以上抵抗すればただの怪我ではすまんぞ!」
本気で殴りかかってくる平民達を前に、さすがの警備兵達も浮足立つ。
そんな警備兵達の慌てた姿を見て、ネモフィラは苛立ちを露にした。
「たかだか平民相手になにをやっているのよまったく、イライラするわね……!」
「あっ!」
業を煮やしたネモフィラが目の前に立ちふさがっていた平民の女を邪魔だと言わんばかりに横に押しのける。
態勢を崩した女がよろけて倒れこむ中、ネモフィラとアルラウネは互いに怒りの表情で視線を交わしあった。
「前々からいけ好かなかったのよね。この私を差し置いて、たかだか伯爵家の女ごときがクザン様に気に入られているだなんて」
「そう思うなら貴女もクザン様に好かれるようにすればいいじゃないですか。民をいじめて好き勝手に振る舞って。貴女みたいな人は好かれなくて当然です!」
「お黙り! この私に説教をするだなんて身のほどを知りなさい、この小娘が!」
ネモフィラが憎悪に歪む顔でアルラウネに平手を振り上げる。
叩かれることを覚悟したアルラウネは、目を瞑って痛みに耐えようとした。
しかし、次の瞬間――。
「――ぎゃあ!?」
横から突き飛ばされたネモフィラが、悲鳴をあげながら地面を転がった。
そのまま大きな水たまりの上に倒れたネモフィラは、汚れた水を被ったせいで青いドレスが黒く染まる。
「わ、私のドレスをよくも……!」
ネモフィラが汚れた自分のドレスを見下ろして震えた声を漏らした。
彼女は勢いよく顔を上げると、青い髪を振り乱しながら怒りの表情で叫ぶ。
「不敬な! この私に手を出したらどうなるか、分かっているのでしょうね――アルダンテ!」
ネモフィラが立っていた場所には、突き飛ばした張本人であるアルダンテが立っていた。
降りしきる雨に濡れながら、アルダンテはネモフィラを見下ろす。
突然現れた乱入者の存在に、なにが起こったのか分からない警備兵と平民達は殴り合うのを止めて困惑していた。そんな中――。
「――なさい」
無表情のアルダンテがボソリとつぶやいた。
雨の音にかき消されて聞こえなかったネモフィラは眉をひそめる。
「なに……?」
「――まりなさい」
「なにを言っているか分からないって言ってるのよ! はっきりしゃべりなさいよ!」
「謝りなさい」
平坦な声でそう告げるアルダンテに、ネモフィラは拍子抜けして「は?」と声を漏らした。
「謝りなさい? 誰に? 平民? それともアルラウネに? ハッ! 冗談言わないでよ! どうして私がこんな身分の低いクズ共に対して謝罪をしないといけないのよ。私は宰相の娘で、公爵家の娘なのよ? そこらの有象無象とは人間としての格が違――」
「違うわ」
ネモフィラの言葉を遮るように、アルダンテがはっきりと言葉を口にする。
得体の知れない威圧感にネモフィラが口をつぐむ。
そんなネモフィラを見下ろしながら、アルダンテはすぅ、と息を大きく吸い込んで叫んだ。
「――馬車で泥水を掛けた私に謝れって言ってるのよ、この勘違い女!」
アルダンテの叫び声が大通りに響き渡った。
その場の全員が口をあんぐりと開けて呆然とする。
周囲が静まり返る中、ネモフィラは顔を引きつらせながら言った。
「な、なにを言い出すかと思えば、自分に謝罪をしろですって? 他の平民達や自分の妹はどうだっていいっていうの?」
「貴女、人を見下した発言ばかりしている割にはとっても頭が悪いのね?」
「なっ!? 誰に向かって――」
パン! とアルダンテが扇子を大きく広げる。
そして扇子の先端部をネモフィラの口元に突きつけると、冷徹な目をして言った。
「他人のことなんて知ったことではないわ。それよりも私への謝罪が先よ。だって最初に被害を受けたのはこの私なのだから」
口端を吊り上げ、悪女の笑みを浮かべてアルダンテは告げる。
「さあ、地に頭をつけて、泥にまみれながら謝罪なさい。そうすれば今日のことは文字通り〝水に流して〟差し上げるわ」
人々の声がすっかり静まり返り、雨音だけが地面を打つ中。
ネモフィラはフンと鼻を鳴らすと、余裕の表情を取り繕って言った。
「お断りよ。なんで国王陛下の次に爵位の高い私が、貴女のような
ネモフィラの口元に突きつけていた扇子の先端を頬にぐりぐりと押しつける。
不快な表情も露に、扇子を払いのけようとするネモフィラにアルダンテは言った。
「よくわかっているじゃない。そう、今の私はなんの爵位も持たないただの〝いばら姫〟。他の貴族の令嬢みたいに貴女に媚びる必要も、理不尽な仕打ちを我慢する必要もない自由の身ってわけ」
「痛っ!?」
払いのけようとするネモフィラの手の甲を扇子で打ち据える。
痛みに顔を歪める彼女を見下ろしながら、アルダンテは呆れた声で言った。
「そんな私に対して泥水を掛けておきながら、謝りもせずに暴言を吐いたらどうなるか。頭の悪い貴女でもそろそろ理解できると思うのだけれど?」
「ぶったわね!? ちょっと、役立たずで無能の警備兵! なにをしているのよ! さっさとこの女を捕まえなさい!」
ネモフィラがアルダンテを指さして叫ぶ。
しかし先ほどまでは渋々命令に従っていた警備兵達も、ネモフィラのあまりの言い草についに嫌気が差したのだろう。
険しい顔をして助けに行くのを躊躇しているようだった。
それを見たネモフィラは自分の不利を悟ったのか、目を泳がせて焦りの表情を浮かべつつ、虚勢を張るようにアルダンテを睨みつけてくる。
「わ、私に傷のひとつでもつけてみなさい! お父様に言いつけてやるわ! 私がお父様に言えば、どんな役職の人間も意のままに操れるんだから! 今までだってそうやって私の気分次第で邪魔な奴は誰でも排除してきたのよ!」
(この期に及んでもまだ傷ひとつ程度で済むと思っているなんて、随分とおめでたい頭をしているわね)
呆れるアルダンテの様子を見て、怖気づいたとでも思ったのだろう。
ネモフィラは口元に笑みを浮かべながら叫んだ。
「たとえそこにいる無能な警備兵達が言うことを聞かなくたって、他に貴女を陥れる方法なんていくらでもあるわ! 地方の領主も! 関所の役人も! 外交官だって、この国の要職についている人間は全部私の言いなりで――」
カツン! と。
言葉を遮るように、アルダンテが倒れているネモフィラのスカートの裾を靴の踵で勢いよく踏みしめる。
「ひっ!?」
足を踏まれるとでも思ったのか、ネモフィラが悲鳴をあげた。
アルダンテは靴でぐりぐりとネモフィラのスカートを踏みにじりながら口を開く。
「それで? 今名を挙げた誰が、この状況から貴女を助けてくれるというの?」
「そ、それは――」
ネモフィラが周囲を見渡し、自分に向けられる冷たい視線を見て口を閉ざした。
彼女の顔色は真っ青で、頬には冷や汗が伝っている。
「ようやく理解した? 今ここには貴女のご機嫌を取ってくれる人も守ってくれる人も誰もいないの。それどころかほら、ご覧なさい」
「うぐっ!?」
アルダンテはしゃがみ込み、ネモフィラと視線を合わせた。
そのまま彼女の顔を掴むと、無理やり民衆の方に向かせる。
民衆は皆一様に、怒りと期待が入り交じった表情でアルダンテ達の姿を静観していた。
「皆、貴女を酷い目に遭わせたくて仕方ないって顔してるでしょう? もしこのまま誰にも謝りもせずにいたら、怒りが収まらない彼らは――」
クスッと微笑みながらアルダンテはネモフィラの耳元で囁く。
「――貴女のこと、殺してしまうかもしれないわね?」
「……っ!」
ビクッとネモフィラの身体が震えた。
その顔は恐怖に引きつり、目には涙が浮かんでいる。
「当然、先程貴女に無能と馬鹿にされた警備兵達もそれを見て見ぬフリをするでしょう。今正にそうしているようにね」
(そこまで事が進めばさすがに警備兵達も止めに入るでしょうけど、この女にそこまで教えてあげる義理はないわ)
アルダンテは立ち上がると、扇子をパン、と広げて自分を仰ぐ。
そして目を細めてネモフィラを見下すと、冷たい声で言った。
「土、下、座。できるわよね?」
「うっ……」
涙目のネモフィラが悔しさのあまり血がにじむほどに唇を噛む。
みるみる顔を真っ赤にした彼女は、四つん
そしてついに――泥水で汚れた地面に擦り付けるように
「ご、ごめんなざいぃ……!」
土下座するネモフィラの前でアルダンテは口端を吊り上げて悪意に満ちた笑顔を浮かべる。
「ご覧なさい、惨めな自分の姿を。こんなところを平民達に見られたら、私だったらもう恥ずかしくて生きていけないわ。貴族の間でも噂になるでしょうね。平民の前で泥まみれになって、泣きながら土下座した公爵家の令嬢がいたって。おめでとう、これで貴女の名前は一生社交界の笑い者よ。青薔薇姫様?」
「うう、ううううう! うあああっ! あああああああ!」
ネモフィラが絶叫して拳を何度も地面に叩きつける。
アルダンテはそんな彼女をフッと鼻で笑うと、背を向けて歩いて行った。
警備兵も平民達も、あまりに容赦のないアルダンテの言動を見て、ただただ言葉を失っている。
彼らは堂々と歩き去ろうとするアルダンテに恐れおののくように、後ずさりして道を空けた。
「恐ろしい方だ……あの高慢ちきな貴族の女を土下座させてしまうなんて」
「あまりの迫力に兵士達ですら一歩も動けなかったもんな」
「でも少しスカッとしたわ」
「ああ。結果的に白薔薇様も助かったしな」
「一体どこの貴族の娘さんなんだろう。髪の色からして隣の国の方なのか?」
口々に囁く平民達を無視してアルダンテが歩いて行くと、人だかりを抜けたところでフレンが立っている。
彼は微笑むと、アルダンテにハンカチを差し出して言った。
「お疲れ様。今日もいい悪女っぷりだったよ。ネモフィラの言動から宰相が今までどのように不正を働きかけていたのかもバッチリ確認できた。これでまたクザン側の新たな弱みを握れそうだ」
差し出されたハンカチを受け取りながら、アルダンテは澄ました顔で言った。
「淑女の笑みは三度まで、よ」
「……え?」
首を傾げて聞き返すフレンにアルダンテは目を閉じて、顔についていた汚れをハンカチで拭う。
「以前に同席したお茶会の時と合わせて、あの方は私のことを計三度も〝いばら姫〟と呼んだわ。二度までは笑って許した。でも――」
アルダンテがゆっくりと目を開いた。そして――。
「私はね、その名で私のことを呼んだ人間は誰であろうと、容赦なく叩き潰すことにしているの」
ニヤリと。人の悪い笑みを浮かべて言った。
「たとえそれが、王子様であろうとね。貴方も精々気をつけてくださいな、フレン様?」
「……肝に銘じておくよ。一番目の王子様みたいに、君の倍返しの標的にされないようにね」
「あの方は倍返しなんかじゃ済みません。人の人生を弄んだ罪は地獄に落ちて支払ってもらいますから」
「まったく怖い人だよ、君は」
大通りをまっすぐ進み、やがて背後の群衆も見えなくなった頃。
ふと、アルダンテは途中から姿が見えなくなった妹のことを思い出した。
「……そういえば、私がネモフィラ様を詰めている時、アルラウネはどうしていましたか?」
「俺も少し気になっていたんだけど、いつの間にかいなくなっていたんだよね。どこに行ったんだろう。せっかくやっていた配給も途中で放り出してさ」
(配給なんて結局、重税を課したせいで高まっている国民の反感を和らげるためにやっただけでしょう。最初からあの子に善意なんて存在しないんだから、それよりも大事なことがあれば放り出すに決まっているわ)
そこまで考えてアルダンテはハッと、あることに思い至った。それは――。
「あの場を放り投げても問題ないくらいの、もっと重要ななにかがどこかであったということ……?」
立ち止まって背後を振り返る。
馬車が止まっていた大通りよりも、もっと先。
王宮の上空には、何層にも重なった雨雲がこの先の出来事を暗示するかのように、雷を纏いながら立ち込めていた。
「アルラウネ。たとえ貴女が国民に女神と崇められようとも……いえ、なにかの間違いで本当に善人になっていたとしても」
アルダンテは想像してクス、と笑みを浮かべる。
アルラウネが自分の前にひざまずき、許しを請う姿を。そして――。
「そんなことはどうだっていい。今まで私が受けてきた屈辱を、必ず貴女にも味わってもらうわ。徹底的に、容赦なく。たとえ泣いて謝っても許してなんてあげないから」
そんな彼女を嘲笑いながら踏みにじる、自分の姿を。