外伝 臆病者と聖女の守り石


 騎士団内には彼らだけが使う用語がいくつか存在する。

 その中に、たった1人の騎士によって作られた言葉があった。「森の掃除」と呼ばれたそれは、精鋭揃いの第一騎士団が派遣された時のみ使われる。森に住み着いた魔物の討伐を示し、その言葉を聞くと騎士は一様に表情を曇らせた。

「はぁ……魔物より恐ろしいっすわ」

 生い茂る森の中、ごうおんと共に空まで伸びた風の渦を離れた場所から眺めていた騎士たちは、あまりの凄さに言葉をなくしていた。

 一角を支配していた風がやむと、鮮血の雨と魔物のがいが頭上から降ってきた。直後、第一騎士団の団長──マティアスが姿を現す。足元には激しく切り刻まれた魔物の死骸が転がっていた。

 ゾッとする凄惨な光景に、騎士たちは思わず視線を背けてしまう。

 魔物が黒い煙を上げて消滅していく中、普段と変わらない様子で近づいてくるマティアスに、騎士たちは自然と背筋を伸ばした。

 圧倒的な力の差を見せられるのは、これが初めてではない。けれど、マティアスから溢れる魔気オーラに威圧される。

「マティアス団長は魔物が恐ろしくないのか?」

「それはないだろ。団長は騎士である前に風の民だ」

 同じ騎士でもの象徴として近寄り難い存在だが、マティアスが団長の座に就いてから命を落とした騎士はいない。どんな魔物であっても一切の妥協を許さない彼の信念があるからだ。

 しかし、彼らは知らない。

 西の国境を守り、戦闘部族とまで言われた「風の民」の正統後継者であるマティアス・ド・ラゴル。

 彼は子供の頃、でき損ないの臆病者と呼ばれていた……。


◆◇◆◇◆


 ラゴル領、城壁都市バラエタ。

 黒い瘴気に覆われた『黒煙の森』に接した国境では、長い城壁が築かれ、魔物の侵入を防いできた。危険と隣り合わせの領地には、各地から賞金目当ての冒険者やようへいが集まり、1つの大都市が造られた。他所ではならず者として扱われてきた者も多く暮らすバラエタは、けれど治安は首都と比べても悪くない。

 ここでは身分はないに等しいが、絶対的な権力は存在する。それが古くから魔物と対峙してきた部族、風の民だ。

 彼らが守護する城壁内では、誰もが秩序を保って従う。他に行く場所がない者たちがここで生きていくためには、従うしかないのだ。命が惜しければ。

「あいつはまた逃げ出したのか……」

 城壁都市を象徴するのは、黒煙の森をへいげいするように築城された難攻不落の石造城塞じょうさいだ。

 城主は風の民の長である、ラゴル侯爵その人だ。外から差し込む朝日で姿を拝むことはできなかったが、深緑のマントに描かれた紋章は紛れもなく偉大な一族である証だ。風の民の血を引き、一族に認められた戦士だけが特別に纏うことができるマントだ。

「兄上……おきてとはいえ、あの子を魔物の住処へ行かせるのは延期された方が宜しいのではないでしょうか」

「それでは他の者たちに示しがつかない。風の民の次期当主になる者が、魔物に怯え、剣術や魔法の訓練に参加せず部屋に閉じこもっているなどっ!」

 鋭い声が飛ぶと空気が震えた。僅か3つ違いの兄であっても、圧倒的な力の差に冷や汗が流れる。それでも弟は風の民を纏める副官として、当主への助言をやめなかった。

「ですが、たった1人の後継者ではありませんか。幼い頃に受けた心の傷が思った以上に深いのです」

「ここでは誰が命を落としても不思議ではない。最強と呼ばれた私たちの父でさえ一瞬にして魔物に喰われた。……我が妻も。明日は私の番かもしれない。だからこそ、マティアスには一刻も早く成長してもらわねばならないのだ」

 厳格な言葉の裏に、父としての本音を漏らす彼に、それ以上話を続けることができなかった。すると、ラゴル侯爵は深い溜め息をつき、静かに言葉をつむいだ。

「決まりは決まりだ。あとは聖女様のご加護を祈るしかない──」


 ラゴル領の城塞内は入り組んでいて、全てを把握している者は少ない。隠し部屋や通路を知っているのはラゴル侯爵家の直系のみだ。

「マティ、ここにいたのか。随分探し回ったよ」

「……叔父上」

 ヨルク・ド・ラゴルは、隠し部屋の中でも古びたがんの物置きとなっている場所で、10歳になる甥を見つけることができた。

「さあ出てきてくれ。それとも私の魔法で引っ張り出した方が早いかな?」

 埃を被った玩具は昔、ラゴル侯爵家の先代たちが使っていたものだ。大半は子供用の武器や防具ばかりで、ぬいぐるみなどの可愛い玩具はない。

 ヨルクが片手を差し出すと、玩具に埋もれるようにして隠れていた甥が観念した様子で出てきた。の巣を被った薄緑色の髪。新緑より鮮やかなエメラルドグリーンの瞳は今にも雨が降りそうだ。

「気配を消すのが上手くなったね。いよいよ見つけるのが難しくなりそうだ」

 泣き出しそうな甥を抱き上げ、汚れを払い落とす。親子ほど年の離れた2人だが、兄弟に間違われることも多かった。

 人目を惹く容姿は、代々引き継がれてきたもので、神の恩恵と言う者までいる。

「また訓練から逃げ出したって、当主様が魔王のごとく怒っていたよ」

 甥を抱いたまま隠し部屋をあとにしたヨルクは、人目を避けながら練武場とは正反対の廊下を歩き出した。それに安堵したのか、甥はヨルクの首に腕を回した。

「……だって訓練を続けたら、試練を受けなきゃいけないでしょ? 僕には魔物がいる森に行くなんて無理だ……」

「マティ……」

 小さな温もりが伝わるのと同時に、言いようのない罪悪感で胸が締めつけられる。

 生まれた時からその成長を間近で見守ってきた甥は我が子も同然だ。それだけに、唯一の後継者であるにもかかわらず孤立してしまっている甥を、放ってはおけなかった。

「掟じゃなくても、剣術と魔法の訓練はいずれお前の役に立つ。習っておいて損はないよ」

 ここは臆病者やお荷物に居場所が与えられるほど優しい場所ではない。西の城壁が破られれば、王国は瞬く間に魔物に蹂躙じゅうりんされてしまう。生き延びるためには幼子おさなごでも剣を取り、魔法の腕を磨かなければいけなかった。

 ヨルクは丸まった甥の背中を撫で、優しく言い聞かせた。だが、甥は口を尖らせて不満を漏らす。

「──どうして僕なの? 僕じゃなくても後継者なんて他に探せばいいのに。叔父上にも息子がいるし、父上の息子でなければいけないというなら僕以外の子供を作ればいいんだ」

 誰かが聞いていたら大事になりかねない言葉に、ヨルクは人気のない廊下で立ち止まった。

「いいか、マティアス。そんなこと他の者の前で言ってはいけないよ。お前は正統な後継者なんだ。いつか、お前が風の民を率いていかなければいけない」

 唯一の後継者だからこそ、他のことには目を瞑っても、立場を放棄する発言だけは見過ごせなかった。魔力に関して言えば、甥の魔力はすでにヨルクをしのぐ。生まれながらに当主の器であることは間違いない。

 しかし、甥は全てから目を背けて、1日、1日をただ逃げ回っていた。大切な母親を最も残酷な形で失ってから。

「そんなの……僕は望んでない……」

 甥のマティアスを抱いて部屋へ向かう途中、使用人や兵士とすれ違ったが、皆がみな頭を下げるのはヨルクであって、マティアスには冷ややかな視線が向けられた。ヒソヒソと聞こえてくる声もマティアスに対する陰口ばかりだ。

 マティアスはラゴル侯爵家の、唯一の後継者だ。本来なら同年代の子供と混ざり、剣術や魔法の訓練を行うのが習わしだが、マティアスは一切の訓練を受けていない。

 おかげで城内だけでなく、一族全体からマティアスの行動を問題視する声が上がっている。このまま行くと後継者としての立場も危うくなる。

 だから、マティアス本人が望まなくとも、ラゴル侯爵は掟を課すつもりなのだ。

 強行されてしまえばヨルクも口を出せなくなる。掟が止められないのなら、マティアスに生き残るための術を叩き込まなければならない。時間がなかった。

「ごめんな……マティ」

 それ以上に、幼い甥に謝ることしかできない自分が情けなくなった。


『……マティ……っ、……さい、逃げなさい……っ!』

 2年前──西の城壁に魔物が押し寄せた。スタンピードと呼ばれる魔物の暴走は数十年に一度起こり、魔物の大群が大きな地鳴りと土埃を上げてバラエタに迫ってきた。

 城壁では風の民の戦士を筆頭に多くの兵が駆り出されたが、3割近くが命を奪われた。

 それには当主であり風の民の長であるラゴル侯爵の妻も名を連ねた。城壁から投げ出された息子を救うため、自ら盾となり、身を貫かれようが、腕や足を引き千切られて喰われようが、応援が駆けつけるまで守りきった。絶命するその瞬間まで……。

「やれやれ、命を投げ出してまで助けたっていうのに、肝心の息子があれじゃ奥様も浮かばれんな」

「ああ、全くだ。この際、ヨルク様のご子息を当主様の養子にして後継者にした方がいいんじゃないか?」

 ラゴル侯爵夫人が命を落とした知らせは王国中に広まったが、バラエタでは死をいたんで話すことは禁じられた。だが、罰則のない決まり事など口約束でしかなかった。

 どこへ行ってもささやかれる心ない声は、母を失って絶望するマティアスをさらに追い詰めた。

 しかし、どんな状況であっても、生まれ持つ宿命から逃げることはできなかった。

 その日は朝から珍しく、朝食の席に父であるラゴル侯爵が姿を見せた。親子揃って食事をするのは、母が亡くなってから初めてのことだった。

 だが、マティアスは1人で食事をするよりずっと居心地が悪かった。食卓の雰囲気がいつもと違う。普段からマティアスを見下していた使用人も表情を固くしていた。

「マティアス、お前にはこれから黒煙の森に行ってもらう」

「──……っ! 父上、僕は……っ」

 食事がある程度済んだ時、ラゴル侯爵は静かに切り出した。

 マティアスは数日前から、ようやく叔父のヨルクから訓練を受け始めたばかりだ。魔物との戦い方も教わっていない。森での気配の消し方と、戦わずに逃げる方法だけだった。

 だが、ラゴル侯爵は椅子から立ち上がり、マティアスの傍に立った。

「聖女様の守り石だ。きっとお前を守ってくださる」

 そう言って渡されたのは、白い魔法石のついたペンダントだった。ラゴル侯爵家に代々引き継がれてきた聖女の守り石であることは、マティアスもよく知っていた。

 本来なら成人した時に受け取るものだが、どうして今なのか。

 マティアスは恐怖で震え上がり、転がるように椅子から下りて、父親の足に縋りついた。

「い、嫌だ……父上……っ、行きたくない! 魔物のところに行かせないでくださいっ! お願いです、訓練もきちんと受けるから、僕を見捨てないで……っ!」

「──試練の地には矮小わいしょうな魔物しかいない。1日もあれば帰ってこられる場所だ。お前の無事を祈っている」

「待っ……、父上っ!」

 ざまな姿を見せても、嘲笑う者はいなかった。使用人の目にはあわれみしかなかった。生きて戻ってくるなど、誰も思っていないようだった。

 マティアスは涙で視界が滲み、呼吸さえままならなかった。

 助けを求めたくても声が出てこない。けれど、どんなに泣いて喚いたところで、この掟を覆すことはできないことを理解していた。当主のラゴル侯爵であっても不可能だ。

 マティアスは受け取った聖女の守り石を握りしめ、己の運命を呪った。


 風の民の血を引く者は、10歳を迎えると黒煙の森にある試練の地へ赴き、自力で西の城壁まで戻ってこなければならない。

 その際に持たされるのは、城壁まで導いてくれるしんばんだ。掌に収まる黄金色の魔道具は、方位を調べられ、1カ所だけ場所を登録することができる。決して迷うことはない。

 武器や防具は自由だが、子供が持っていくには限界がある。せいぜい扱いやすい短剣か、軽い革鎧を身につけるぐらいだ。

 この掟の本来の目的は、生き延びることではない。危機的状況に陥った時に起こる潜在魔力の覚醒だ。風の民の優れた戦闘力は、たぐい稀な運動神経と魔力量に裏打ちされていた。

 潜在的な魔力は底知れず、第二次覚醒をした風の民は、村1つを簡単に吹き飛ばせるようになると言われている。

 そこで、覚醒する確率が最も高い10歳で試練が行われていた。覚醒すれば名声と地位が約束される。だが、その掟によって死ぬ子供はあとを絶たなかった。

 黒い瘴気に覆われた黒煙の森──日中でも薄暗い森では、木や草が腐りかけ、強烈な異臭が漂っていた。風の流れもなく、あらゆる感覚が失われていきそうだ。

「……うう、っ、ひ、っく……」

 一族の上層部によって無理やり試練の地に連れてこられたマティアスは、暫くその場に座り込んで、泣いていた。

 泣いても状況が変わるわけではない。見渡しても助けてくれる者はなかった。暗い森に置き去りにされたことが怖くて、悔しくて、勝手に涙が溢れてきた。

 その時、草むらがガサガサと揺れた。振り向くと、黒い毛に真っ赤な目をした魔鼠がいた。

「く、来るな……っ!」

 泣き声に誘われてきたのだろう。魔鼠は周囲を警戒しながらマティアスに近づいてきた。ここには命をおびやかす魔物はいないと言われたが、小さくても魔物は魔物だ。

 マティアスは持たされたナイフを両手で握りしめた。

 刹那、魔鼠が飛びかかって右足に噛みついた。鋭い歯と爪が肉に食い込む。

「ぐあぁっ! くっ……このっ!」

 焼けるような痛みが体中を襲う。咄嗟にナイフを振り下ろして魔鼠を攻撃した。刃先が魔鼠の目を掠める。激しくかくして離れた魔鼠は、再び飛びかかってこようとした。

「くそ……なんで、なんで……っ」

 どうしてこんな目に遭わなければいけないのか。マティアスはナイフを持ちかえて、自ら魔鼠に襲いかかった。

 こんなこと望んでなかったのに。しかし、殺さなければ殺されてしまう──母上のように。

 短い刃が魔鼠の胴体を貫いた。か細い悲鳴を上げ、黒い煙を出して魔鼠は消滅した。

「……はぁ、は……っ」

 生まれて初めて魔物を殺した。マティアスは気持ち悪くなって嘔吐した。ナイフを握りしめる手は震えていた。

 だが、喜びや安堵に浸っている場合ではなかった。魔鼠は群れで行動する。近くの草が揺れ動くのを感じてマティアスは立ち上がった。ここにいてはいけない。本能がそうさせたのか分からないが、気づけばその場から逃げ出していた。

 ──マティアスは魔物に怯えていたわけではなかった。

 あの日、魔物が西の城壁に押し寄せた時、怖くなって護衛や使用人の目を盗んで母親を探しに行ってしまった。

 母親は城壁の上で勇敢に戦っていた。彼女もまた風の民の血を引く戦士だった。風魔法を舞うように扱い、魔物と対峙しているとは思えないほど美しかった。

 その姿に気を取られ、空から迫る魔物に気づかなかった。黒い羽根とくちばしが視界を掠めた瞬間、浮遊感に襲われて、気づけば城壁から投げ出されていた。

 悲鳴すら出せずに落ちていくと、母親の叫び声が聞こえた。次の瞬間、覚悟した衝撃は訪れず、力強い温もりが体を包み込んだ。

 もう大丈夫と思った。体を覆う温もりが母親の血に代わるまでは。

 突然現れた巨大な魔熊の鋭い爪が母親の腹部を貫き、次から次へとやってくる魔物が母親の肉体に群がった。それでも母親は、マティアスを守りながら逃げろと言ってきた。自分の体がどんな状況になっているか知っているはずなのに。

 マティアスは駆けつけたヨルクたちによって救われたが、母親は命を落とした。

 以来、魔物に近づけなくなった。風の民であり、後継者にもかかわらず、剣も魔法も使えない臆病者になっていた。

 けれど一番怖かったのは、自分のせいで母親が死んだという事実だった。

 無我夢中で暗い森の中を駆けたマティアスは、体力の限界を感じてようやく立ち止まった。近くにあった木の根元に座り、嗚咽を漏らした。群がる魔物にを引き裂かれる母親を思い出すたびに、胃液がせり上がってくる。

 一刻も早く城塞に戻りたい。臆病者と呼ばれても魔物と戦うなんて無理だ。そう思って無意識に羅針盤へ手を伸ばすと、非常食なども入った袋ごとなくなっていることに気づいた。

 手元にあるのは小さなナイフと、父親から渡された聖女の守り石だけだった。これでは帰る道も分からない。

 マティアスは膝の間に頭を下げて項垂れた。今になって、魔鼠に噛まれた右足が酷く痛み出した。血が滲んでズボンが赤く染まっていく。

 その時ふと、このまま死んでしまおうかと思った。その方が一族は、後継者の問題で悩む必要がなくなる。

「───」

 しかし、ナイフを首に押し当ててみたものの、力が入らなかった。──死にたくない。こんな暗い森の中で孤独に最期を迎えるのは、あまりに虚しい。自分の体を魔物に喰われるのも嫌だった。

 マティアスはナイフを捨て、代わりに聖女の守り石を出した。

「光の神様の導きに、従います……」

 最後は神に全てをゆだねた。マティアスは聖女の守り石を両手で握りしめて祈った。

 すると、両手に確かな温もりを感じた。見下ろすと石が淡い光を放ち、不思議なことに右足の痛みがスーッと消えていった。

 生きろ、と背中を押された気がした。それがただの妄想や幻覚であれ、今のマティアスには重要ではなかった。生きるか、死ぬかで、マティアスは生きることを選択したのだ。

 マティアスは導かれるまま潤む目を擦り、静かに立ち上がった。直後、黒煙の森に小さな風が吹き抜けた。


「兄上、マティアスが戻らなくて今日で3日です! 今すぐ捜索隊を派遣すべきです!」

 掟のため試練の地に連れていかれたマティアスが、戻らなくて3日が経っていた。

 本来なら1日で帰ってこられる場所だ。この日のために試練の地付近の魔物は討伐されていた。残っているのは子供でも簡単に倒せる魔物ぐらいだ。