けれど、今のエーリッヒがそれらを口にすることに、嫌悪感を覚えた。大声でエーリッヒの名を呼ぶと、彼は驚いて言葉を詰まらせた。

「いい加減にしてっ! 私たちの婚約関係は終わっているはずよ。これ以上、私の前に現れないで。貴方が私にしたこと、許すつもりはないわ」

「……ミーナ」

 どんな謝罪を用意されても許す気はない。理由がどうであれ、エーリッヒの行動は2人の関係を完全に終わらせたのだ。過去の、築き上げてきた絆さえ。

 ヘルミーナが言いきると、エーリッヒは衝撃を受けたように動けなくなっていた。従順だった女に反論されて戸惑っているのかもしれない。

 踵を返して背中を向けると、エーリッヒが「待ってくれっ!」と叫んで手を伸ばしてきた。

 その手が触れようとした瞬間、ヘルミーナは反射的に振り払っていた。手がぶつかり、驚愕きょうがくと傷ついた顔が目に映る。しかし、胸が痛むことはなかった。

 明らかな拒絶を示してカイザーの元に向かうと、それでもエーリッヒは追いかけてこようとした。

「それ以上、近づくな」

 カイザーはヘルミーナの手を取ると、近づくエーリッヒに向かって火の魔法を放った。火柱が上がると、ヘルミーナはカイザーに抱き上げられてその場から離れることができた。

 一瞬のことでエーリッヒがどうなったか分からないが、たぶん燃えてはいないだろう。

「ミーナ嬢」

「……大丈夫です。助けてくださってありがとうございます」

 人気のない路地裏に辿り着くと、地面に降ろされた。

 カイザーにはみっともない姿を見せてしまった。痴情ちじょうのもつれを他人に見られるほど恥ずかしいものはない。

 平静を装うには時間が足りなかったが、幸いにも背の高いカイザーから俯いた顔を見られることはない。謝罪だけでも、と思って唇を開きかけた時、頭上からカイザーの声が降ってきた。

「私の責任だ。あの男がここに来ているのを知って駆けつけたのに……。もっと早く君を見つけるべきだった」

「そうだったんですね。……気遣ってくださって感謝します。カイザー様がいてくださってよかったです」

 エーリッヒがいることを知らせるために駆けつけてくれたというカイザーに、安心してるいせんが緩みそうになった。

 神聖魔法がどんな怪我や病気を治癒したとしても、心の傷までは癒やしてくれない。1人で立ち向かうことはまだできなかった。そんな時、カイザーが傍にいてくれたのは心強かった。

 ヘルミーナはくしゃくしゃになりそうな顔に、帽子のつばを握りしめて引き寄せた。すると、カイザーは咳払いをして続けた。

「私は騎士だから。ミーナ嬢に胸を貸すぐらい、いつでも歓迎だ」

 そう言って両手を広げてくれるカイザーに、自然と笑いが溢れた。思えば、彼には情けない姿ばかり見られている。レイブロン公爵家のお茶会でも慰められたことを思い出した。

「では……失礼します」と一言断ってから、ヘルミーナはカイザーの胸に頭を軽くぶつけた。

 薄れてきたと思っていたのに。これからも記憶が蘇るたびにこうして苦しむのだろう。幸せだった思い出の数だけ。いっそ全て忘れられたら楽になれるのに。

 その一方で、改めて確信できたことがある。やはり、自分たちが元に戻ることはない、と。

「……一発なぐってやればよかったです」

「練習相手が必要だったら私に言ってくれ」

 ヘルミーナがぼそっと呟くと、カイザーから至極真面目な言葉が返ってきた。その返答があまりにしくて、ヘルミーナは吹き出してしまった。

 ──大丈夫。自分はきちんと前に進めている。

「カイザー様、ありがとうございます」

 ヘルミーナは改めてカイザーにお礼を言った。彼がいなければどうなっていただろう。考えるのも恐ろしい。

 そんなヘルミーナの気持ちを知ってか知らずか、カイザーは咳払いをすると、先程から気になっていたことをヘルミーナに訊ねた。

「ええ……と、そのピンクの髪色は変装のために染めた?」

「いいえ、この帽子が魔道具になっていて、髪色を変えることができるそうです」

 髪色が違うのに分かったカイザーには驚かされたが、ヘルミーナはピンク色になった自身の髪をまんで「便利ですよね」と笑みを浮かべた。

 すると、カイザーは物珍しそうに近づいてきて、ヘルミーナの帽子を眺めた。

「ランスと同じ色というのはに落ちないが、とてもよく似合っている……と思う。あと、その服も……」

 これまで以上に熱のこもった目で見つめられ、太陽を全身で浴びているような暑さを感じた。

 ヘルミーナは帽子を直すふりをしながら、いくつもの船が並ぶ港を眺めた。すると、久しぶりに再会した家族が、抱き合っているのが見えた。

「大きな商船が戻ってきたから、こんなに人が多いのか」

「ええ。船乗りたちにとって港は第二の故郷で、仲間は家族だと言います。それでも離れていた家族と再会するのは格別だと思います」

 ヘルミーナは表情を綻ばせ、幼い頃に聞いた船乗りたちの教えを交えながらカイザーに話した。すると、彼は僅かに目を見開き「それは──」と口を開いた。

 そこへ、はぐれてしまっていたランスとリックが駆け込んできた。

「ゲッ、なんでここにいるんすか、副団長!」

 やってくるなり顔を歪めるランスに、カイザーは笑顔で彼の首に腕を回した。ただし、目は笑っていない。

「護衛に問題があったことは、あとでじっくり聞かせてもらうからな、ランス」

 それでもカイザーが来たことに疑問も言わず、どこか安心した表情の2人を見ると、仲間の絆を感じずにはいられなかった。


「急にいなくなるなんて、どうかしたのかしら?」

 海岸沿いで突然上がった火柱に、治安部隊が出動する事態となった。火柱はすぐに収まったものの、ここでも野次馬が集まった。

 エーリッヒは騒ぎが広がる前にその場をあとにしていた。咄嗟に顔を庇ったせいで、服のすそが焦げてしまっている。

 舌打ちしたエーリッヒは、上流階級だけが入れるレストランに舞い戻った。そこで待っていたのは、紫色の髪にあいいろの瞳をしたつやのある女性だった。

 その美貌は、王太子ルドルフの婚約者であるアネッサと肩を並べるほど。誰と話していようが、どこにいようが、常に余裕のある笑みを浮かべている。

「君と婚約するよ、セリーヌ・ロワイエ侯爵令嬢」

「あら。あれだけ渋っていたのに、どんな心境の変化かしら」

 彼女の前にある椅子に腰を掛けるなり、エーリッヒは口を開いた。乱暴な物言いだが、彼女──セリーヌは気にしていない様子で訊ねてきた。

 エーリッヒは苛立ちながら右肘をテーブルに載せ、手の甲に顎を押し当てた。

「……その代わり、事業のことだけど」

「ふふ、問題ないわ。アルムス子爵家が我が侯爵家のさんに入れば、テイト伯爵家の事業を奪い取るなんてぞうもないこと。公爵様も目をつむってくれるはずよ。貴方には甘いんですもの。そして私は、一族の英雄という広告を手に入れて、事業の拡大を図るわ」

 ウォルバート公爵家とは親戚関係にあるロワイエ侯爵家。公爵家に次ぐ権力を持ち、長女であるセリーヌはすでに3回の婚約を解消している。けれど、彼女はどこの舞踏会やパーティーでも堂々としていた。

 ──「お荷物令嬢」と呼ばれているヘルミーナとは真逆だ。

 セリーヌは、自身が抱える事業こそが全てだと考えている女性だからだ。

 その女性を相応しい伴侶として紹介された時、エーリッヒは頭痛さえ覚えた。だが、公爵からの話をにできるわけもなく。そして、先延ばしにしてきたヘルミーナとの婚約解消は、公爵からの圧力によって限界が来ていた。

 しかし、エーリッヒより5歳ほど年上のセリーヌは理解のある女性だった。お互いの利益のために、婚約しようと提案してきたのだ。

 セリーヌはテイト伯爵家の事業を、エーリッヒはヘルミーナを。それぞれが欲しいものを手に入れたら、いつでも婚約を解消できる契約を結ぼうとしている。

 ただ、それでもヘルミーナに対する後ろめたさや未練のためか、今日まで気が乗らずにカレントまで足を運んでいた。彼女に会えるような気がして。

 けれど、再会したヘルミーナから受けた軽蔑と拒絶で、エーリッヒは理解した。もう、なりふり構っていられないと。確実に手に入れるためには手段など選んでいられないのだ。

 苦笑を浮かべたエーリッヒは、ポケットから露店で購入したものを取り出した。

 木彫りで作られた水の妖精のお守りだ。

 水の都に現れるという妖精は、多くの者たちに愛され、大切にされてきた。カレントに来ると必ず目にする代物だ。

「このカレントに来るといつも思い知らされるな……。ミーナの方が僕よりずっと、英雄扱いされているんだって」


 落ち着きを取り戻したヘルミーナは、カイザーたちと共に宿へ戻った。

 部屋に着くなり、荷物番をしていたメアリが心配した様子で駆け寄ってきた。ヘルミーナはメアリにも情報共有が必要だと考え、起きた出来事を話した。

 エーリッヒの名前を出した途端、「すぐに始末してきます」と、メアリは部屋を出ていこうとした。慌てて止めるも、カイザーもまた「私も付き合う」とあおるものだから、2人を引き止めるのに苦労した。

「ところでカイザー副団長はこのままこちらに?」

「……1週間ほど休暇をもらってきた」

「また屋敷でも破壊されましたか?」

「いいや、王太子殿下の護衛を怠った理由で、1週間の謹慎処分だ」

 2人のぶっそうな会話に、ヘルミーナは彼らの服を掴んだまま、聞かなかったふりをするように視線を泳がせた。

ようですか。それでは追加で部屋を取って参ります」

「助かる、メアリ。私は一度、騎士団のいる病院に行って様子を見てくる。リックとランスはミーナ嬢の護衛を頼んだぞ」

「承知しました」

「りょーかいっす!」

 一度、宿を出ていったカイザーは、夕食の時間までに戻ってきた。

 病院にいる仲間は、皆、思ったより元気そうにしていたと話してくれたが、もちろんからげんだろう。

 病院で治療を受けている騎士たちは、復帰が絶望的な者たちだ。それでも「命が助かっただけよかった」と言った騎士の話を聞かされて、胸が痛くなった。

 けれど、それもあと少しのしんぼうだ。

 ヘルミーナたちは宿の1階で食事をとり、新鮮な海鮮で胃袋を満たしたあと、それぞれの部屋に戻って休んだ。

 翌日、第二騎士団がカレントの港町に到着した。ウォルバート一族の領地を救った英雄として歓迎を受ける騎士団を確認したあと、ヘルミーナ一行は次の目的地に向かって動き出した。


◆◇◆◇◆


 女は深い森の中を走っていた。

 鹿の皮に紐を通しただけの靴は泥だらけになっていた。き出しになった手足は傷だらけで血が滲んでいる。それでも女は走るのをやめなかった。痛い、苦しいといった感覚はとうにしていた。

 ──逃げなければ。

 女を突き動かしたのは、得体の知れない恐怖だった。人間の皮を被った悪魔に捕らえられ、連れていかれた先で見た光景にせんりつした。

 アレは一体なんだったのか。

 女は本能的にその場から逃げ出していた。

 五感が、生存本能が、ありとあらゆるものよりまさった。涙が出ようが、鼻水が垂れようが、よだれが流れようが、小水しょうすいを漏らそうが、それらの不快も感じなかった。

 ただ、生き残るために。まだ10歳になったばかりの息子が自分の帰りを待っているのだ。

 誰か。誰か。誰か──。

 誰でもいいから、助けて。

 あの黒い瘴気しょうきを纏った化け物から。

 女は最後の力を振り絞り、僅かな希望を信じて一気に山を駆け下りた。


◆◇◆◇◆


 ウォルバート領地とラスカーナ領地に挟まれたケーズニ谷。

 2つの領地をまたいだケーズニ山脈の中央にできたくぼは、滅多に人が寄りつかないため魔物のすみに適していた。

 魔物が増えれば人里を襲う危険性があるため、年に2回ほど討伐の要請が上がってくる。

 それを管理しているのが、それぞれの谷沿いにある村だ。

「今回討伐の要請はなかったんだが、偵察に行かせた者たちによると魔物が目撃されたそうだ」

 カレントで乗り換えた2頭引きのほろ馬車の中。足元には木箱や布袋などが積まれ、そうされた道を抜けて山道に入ると、積荷が馬車ごと揺れた。

 町から町へ、拠点を持たない旅商人を装っているが、貴族特有の品のよさは隠しきれない。

「騎士団は本来、要請がなければ各領地での討伐は行えない。その要請も、緊急性や危険度を調査した上で通されることになっている。一方で、ケーズニ谷のように討伐の予定が事前に組まれているものもあるんだ」

 荷台の3人掛けシートに、ヘルミーナ、カイザー、メアリが座り、ぎょしゃだいにはランスとリックがいた。全員が貴族である。

 御者台から「この先揺れるよー」とランスが声をかけてくると、ヘルミーナの前にカイザーの手が差し出された。

「それではまだ討伐の時期ではないのを、今回のために繰り上げたということでしょうか?」

 幌馬車に乗り慣れず、ヘルミーナは一度シートから派手に振り落とされている。以来、カイザーが支えてくれるようになったのだが、その時は本気で水になって溶けてしまいたいと思った。

 ガタン、と馬車が大きく揺れ、衝撃で体が浮く。ヘルミーナは反射的にカイザーの腕を掴んでいた。すぐに手を離してお礼を言うと、カイザーは咳払いして話を続けた。

「いや、前回の討伐から半年以上も経っているし、要請が来てもおかしくないんだが……」

「魔物の数が少なかったからでしょうか?」

「メアリの言うこともいちあるが、どうもラスカーナ領地にあるケーズ村で、魔物以外の問題が起きているようだ。だが、それでもう片方のニキア村から要請がないのもおかしい。その調査も含めて騎士団に話が回ってきた。ただ、ウォルバート領と余計なあつれきを生まないために、騎士団の派遣はあくまで偶然を条件に、ケーズ村が協力してくれることになったようだ」

 魔物以外の問題に晒されたケーズ村は、一族の長であるラスカーナ公爵に連絡を取った。その話は、公爵の夫で王国の宰相でもあるモリスに伝えられたという。

 この計画にはルドルフの他にラスカーナ公爵夫妻も関わっている。自分たちが行動する裏には、複雑な問題が隠れているのだと理解した。

 ヘルミーナはカイザーの話を聞いて、改めて気を引き締めるように背筋を伸ばした。

 そして彼らを乗せた馬車は、ウォルバートの領地側にあるニキア村に到着した。

 ニキア村からケーズ村に行くには、石橋を渡る必要がある。その昔に2つの村が協力して造った石橋は、ヘルミーナたちの幌馬車でも余裕で通れる大きさだ。

 渡るために通行料を支払い、簡単なけんもんも行われる。この通行料は山奥で暮らしている彼らにとって貴重な資金源だ。

「あんたら、商人かい?」

 石橋の手前で馬車を止めると、青い髪をした2人の兵士が近づいてきた。すると、カイザーが荷台から降りて対応に当たった。

「旅商人だ。護衛は私1人で、あとの4人が商人だ」

 村人に雇われた兵士は、屈強な体で長身のカイザーにたじろいだが、人懐こい笑顔を見せられると安堵した表情を浮かべた。

 兵士はヘルミーナのいる荷台にも来て積荷を確認したが、どこにでもえているような薬草と、その薬草から抽出ちゅうしゅつしたのだろう、青い瓶に入ったやくに顔を顰めただけだ。

「俺たち仲のいい兄妹同士で各地を巡ってるんだよね~。おじさんも1本どう? これ飲むとすごーく元気になるよ?」

あいにく、悪いところはないんでな。それより行くのはいいが、ケーズ村で商売するなら気をつけた方がいい」

 冗談半分でランスが青い瓶を差し出すと、兵士は拒否した。ランスの説明は全く間違っていないのだが、苦くてそうな薬をありがたく受け取る者はいないだろう。

 実際は、ただの水にヘルミーナの神聖魔法をかけたものなので不味くはない。苦くもない。

「何かあったのか?」

 無理やり売りつけようとするランスにカイザーが割って入り、兵士が漏らした不穏な言葉について訊ねた。

「どうも、ケーズ村の人間が、ここ半年の間に5人ほどいなくなっているらしい」

「魔物のわざか?」

「そこまでは分からんが、村は全く荒らされていないようだ。ただ姿を消したのは身寄りのない者ばかりで、自ら山に入っていったという話もある」

 死に場所を求めた者が魔物のいる山に入っていく話は聞いたことがあるが、同じ村の者がここ最近で5人も同じ行動を取るとは思えない。身寄りのない者ばかりが消えたのも不思議だ。

 だが、身寄りがいない者だからこそ騒がれずに済んでいるのだ。貴族だったら1人いなくなっただけでも大騒ぎになっていたはずだ。

「今日はこの村に留まった方がいいんじゃないのか」と兵士は言ってきたが、カイザーは丁重に断り、通行料を支払った。

「副団長?」

「……いや、なんでもない。先を急ごう」

 一瞬、村に視線を走らせたカイザーは、しかしリックに呼ばれて馬車に戻った。

 ヘルミーナも気になって村の様子を窺ったが、とくに変わったところはない。必要以上に見られていること以外は。

 村人たちが必要以上にこちらを窺ってくるのは、旅商人が珍しいからだろうか。気にはなったが、ヘルミーナたちを乗せた幌馬車は石橋を渡ってラスカーナ領地に入っていった。


 ケーズ村は大きさも人口も、先程のニキア村とほぼ変わりない。けれど、異様なほど静まり返っていた。元々首都やカレントほど活気に満ちた場所ではないが、道を歩く村人はおらず、店も閉まっている。

 それでも村に1つだけある宿に到着すると、女将おかみが出迎えてくれた。

「こんな山奥の村に旅商人なんて珍しいねぇ。何を扱っているんだい?」

「薬草と飲み薬です」

 女将に訊ねられて、メアリが運んできた商品の一部を見せると「本当に売れるのかい?」と心配された。やはり青い瓶はどこに行っても警戒されるようだ。

 けれど、村の雰囲気と違って明るく振る舞ってくれる女将に、ヘルミーナたちは表情を緩めた。宿の客はヘルミーナたちだけで、久々の客に喜んでいる。

 でも、村の問題は何ひとつ分からなかった。どうすれば5人もの人間がいなくなってしまうのか。言いようのない恐怖で、村全体に影が落ちていた。

 しかし、ヘルミーナが到着してから数刻。

 闇に飲み込まれようとしていた村に、一筋の光が差し込んだ。

 ケーズ村に第二騎士団が到着したのだ。知らせを受けて村人が現れ、赤い団服を身に纏った騎士に歓喜の声を上げた。カレントと同様、お祭りでも始まったのかと思うぐらいの騒ぎだ。

 宿の窓からその光景を見物していたヘルミーナは、思わずかんたんの声を上げた。

「凄いですね。皆さん本当に嬉しそうです」

「まぁ、王国騎士団だからねー」

 王国騎士団には何百年も王国を守り続けてきた歴史がある。魔物を倒すだけではない。村に活気を取り戻させ、希望を与えるのも彼らの使命なのかもしれない。

 だからこそ、騎士の命を救うことで大勢の民を助けることができるのだ。

「ミーナ嬢、夜になったら騎士団の陣営に行こうと思うんだが」

「私も負傷した方々の状態を見ておきたいので、一緒に行きます」

 その夜、ヘルミーナはカイザーと共に、人目を避けて騎士団の陣営に向かった。

 村から少し離れた広場にいくつもの天幕が張られている。2人は第二騎士団団長、ダニエル・ロワイエの元を訪ねた。彼はウォルバート公爵の甥だ。エーリッヒがいなければ、一族の英雄は彼だったに違いない。

「来たか、カイザー」

「お疲れさまです、ダニエル団長。パウロもここにいたか」

 カイザーが天幕に入ると、魔道具のランプに明るく照らされた空間にはダニエルとパウロが待っていた。

 背中まで伸びた紫色の髪を後ろで1つに束ねたダニエルは、切れ長の青い目に鼻筋の通った、端正な顔立ちの男性である。

 以前、ダニエルとマティアスが並んでいるところを偶然見てしまったメイドたちが、こぞって倒れ込んでいたのを思い出す。

「お前がここに来た理由は他の騎士から聞いた。だが、マティアスは知らないんだな」

「それは……」

「まあ、ルドルフ殿下も関わっているから問題ないだろうが。それに、お前が来てくれて心強いのも確かだ」

 いつもは堂々としているカイザーが、ダニエルを前に動揺を見せた。

 あとになって知ったことだが、ダニエルはマティアスと同期で、問題児揃いの第一騎士団のしりぬぐいをしてくれているダニエルに、カイザーは頭が上がらないようだ。面白い上下関係を目撃してしまった。

 嬉しそうにカイザーの肩を叩いたあと、ダニエルの視線はヘルミーナに移った。

「ヘルミーナ様も、このような場所までご足労いただき感謝致します。負傷した騎士の確認でしたね。今、パウロに案内させます」

「宜しくお願いします」

 ロワイエ侯爵家とはあまりいい関係ではなかったが、ダニエルだけは違った。

 彼は騎士として名を馳せ、ヘルミーナたちもダニエルの活躍をよく聞かされていた。とくにエーリッヒはダニエルに憧れ、目を輝かせながら話していた。同じ水属性の中でも尊敬できる人だ。

 ヘルミーナは2人に挨拶したあと、パウロと負傷した騎士のところへ向かおうとした。

 その時だ。

「──誰だっ!」

 天幕から出ようとした瞬間、その場の空気が一変した。

 パウロが声を上げたと同時に、カイザーとダニエルがヘルミーナの前に立った。何が起きたのか見ることはできなかったが、腰の剣に手をやったパウロが幕を捲り上げると、「うわっ!」と、幼い声が聞こえてきた。

「子供……?」

 天幕を出たところで10歳ぐらいの男の子が尻もちをついていた。パウロは剣から手を離して、男の子に近づいた。

 ヘルミーナとカイザーは正体を隠す必要があるため、男の子から見えない場所に移動する。その間にダニエルが男の子の元へ駆け寄り、「なぜ騎士団の天幕に?」と訊ねた。

 すると男の子は、突然地面に両手をついて叫ぶように言った。

「兄ちゃんたち王国の騎士だろ!? だったらオレの母ちゃんを助けてくれよ! あいつらから、母ちゃんを連れ戻してくれよっ!」

 訴えるように声を張り上げた男の子は、両目からいっぱいの涙を溢れさせた。

 母が連れ去られた、と。

 身寄りのない者ばかりが姿を消していくという、不可解な事件が頭をよぎる。

 ヘルミーナが視線を上げれば、カイザーとダニエルがお互いに頷き合っているのが見えた。そして、ダニエルは倒れた男の子に手を差し伸べた。

「──今の話、詳しく聞かせてくれるか?」


◆◇◆◇◆


 救護用の天幕には、カレントの病院から運ばれた騎士たちが収容されていた。

 ヘルミーナは、1人ひとりの状態を確認しながら診て回った。

 幸いにも全員が命の危機を脱している。しかし、殆どが想像以上に酷い怪我を負っていた。

 彼らはヘルミーナが王宮に保護される前から遠征に出ていたため、神聖魔法の存在を知らない。いくら騎士から説明されても、にわかには信じ難いだろう。

「……あの、本当に治るのでしょうか……?」

 紺色の髪をした若い騎士が、期待と不安の入り混じった表情で訊ねてきた。能力を疑う騎士に、護衛として控えていたパウロが咎めるも、ヘルミーナはそれを遮った。

「大丈夫です。──絶対に治ります」

 そう言ってヘルミーナは、肘から下に大怪我をした若い騎士の右腕を両手で包み込んだ。

 少しだけ神聖魔法を流し込むと、傷が一瞬のうちに治癒されていく。周囲で様子を見守っていた騎士たちは思わず息を呑んだ。

「皆さん、明日には騎士団に復帰できますから」

 今すぐでないのが心苦しい。

 王国の騎士を計画の一部に利用してしまい申し訳なくなる。だから、少しでも彼らの痛みを和らげるために力を使った。

 明日には全員が元の肉体を取り戻すと分かっていても。今夜だけは痛みにうめくことのないように。我慢強くても、痛みや不安は掻き消せるものではない。

 ヘルミーナが安心させるように笑顔を見せれば、若い騎士は目を潤ませ、声を詰まらせた。失った手に、将来を悲観していた彼は、目前に現れた唯一の希望に涙した。感謝の言葉を伝えたくても嗚咽にしかならず、けれどその思いは痛いほどよく伝わってきた。


「ヘルミーナ様、ありがとうございました。体調はお変わりないですか?」

「はい、大丈夫です。魔力も一晩眠れば回復しますので」

 負傷した騎士の確認を終えたヘルミーナは、ダニエルたちの待つ天幕に向かって歩いていた。

 暗闇の道の足元を、天幕から漏れる明かりが照らす。

 青い瓶の魔法水があれば、騎士たちの怪我も完治するはずだ。

 状態を確認した時は気持ちが深く沈んだが、明日の彼らを思い描けば幾分心が軽くなった。

「今まで疑問だったのですが、貴族の中でもヘルミーナ様の魔力が少ないのは、それだけ大きな魔力を抑制されているからではないでしょうか?」

「……そう、でしょうか。ただ、第二次覚醒の条件は人それぞれだと聞いています。それに運だと言う人も」

 ヘルミーナの魔力量を知って、パウロがふと訊ねてきた。新人の育成部隊に配属されていた彼らしい意見だ。

 しかし、ヘルミーナはあいまいな表情を浮かべた。覚醒を試さなかったわけではない。抑制された魔力が自分にも覚醒すれば、お荷物だと後ろ指を差されずに済むのだから。でも、それには大きな代償と危険が伴う。

「失言でした。私の無礼をお許しください」

「いいえ、パウロさんが謝ることは……! 覚醒すればそれだけ多くの方を助けることができるので、私も自分の魔力が増えればと考えています」

「ヘルミーナ様……」

「それよりカイザー様たちの方は大丈夫でしょうか?」

 空気が重くなるのを感じ、ヘルミーナは無理やり別の話を切り出した。

 騎士団に助けを求めてきた男の子はダニエルに抱えられ、別の天幕へ連れていかれた。カイザーもまたダニエルについていった。

 男の子から詳しい話を聞ければいいが……。

 ヘルミーナは連れ去られたという母親の無事を祈りつつ、ダニエルの天幕に戻った。

 中へ入るとカイザーが口元に人差し指を当て、声を出さないようにと伝えてきた。彼の視線が導く先には、男の子が眠っていた。傍にはダニエルがついている。

 カイザーからねぎらいの言葉をもらい、詳しい話は宿に戻ってから聞くことになった。


「少年の名前はフラン。母子で山菜を採りに山へ入ったが、母親だけが連れ去られたらしい。相手は水魔法を使ったようだ」

「水魔法、ですか」

 宿に戻ると、カイザーはリックたちを招集して情報を共有してくれた。

 事件の犯人が水魔法を使ったと聞いて心がざわつく。フランの傍にいたダニエルが、神妙な面持ちだったのはそのせいだろう。

「それではケーズ村で起きているしっそう事件は、魔物ではなく、人が関わっている可能性が高いということですか。そちらも第二騎士団が調査を?」

「ダニエル団長とも話したが、当初の予定通り協力者である村の医者に魔法水を預けて、そのまま第二騎士団に運んでもらう。謎の飲み薬によってあらゆる怪我が完治したとなれば大騒ぎになるはずだ。そのあとで魔物討伐に向かってもらう」

 フランの母親が連れ去られたのは昼前だ。時間が長引くほど助けるのも難しくなる。

「そして失踪事件には我々が動くことになった。私たちは一旦騎士に戻り、失踪者のそうさくに当たる。第二騎士団からは、パウロを含めた6名が助っ人として来てくれることになった」

 本来なら騒ぎになる前に村を離脱する予定だったが、今回の事件を見逃すことはできない。

 計画は間違いなくすいこうされているため、自由に動けるうちに事件の真相を突き止めたい。そう話すカイザーに、ヘルミーナたちも同意した。


 次の日、ヘルミーナたちは宿の女将に医者の住まいを訊ね、別れを告げて幌馬車で移動した。最後まで「売れるのかねぇ」と心配してくれた女将は、あとで驚くことだろう。

 協力者である医者の元を訪ねると、彼は待ちかねた様子で外に出ていた。

 60を過ぎた老人だが、青い瓶を手にする目は患者と向き合う医者そのものだ。真剣な眼差しはヘルミーナへと移り、「任せてくだされ」と力強く頷いてきた。

 荷台から荷物を降ろすところを、数人の村人が見ている。医者がにでも遭っているんじゃないかと不安そうな表情をされたが、効果が知れわたるまでは仕方ない。

 作業が終わると同時に、騎士たちがやってくるのが見えた。

 幌馬車に乗って、彼らとすれ違った。歓喜の輪に加われないのは残念だが、今は他にやるべきことがある。

 村を出た幌馬車は再び山道に入り、暫く走らせたところで突然止まった。

「お疲れさまです。幌馬車はこちらでお預かりします」

 道を塞ぐようにして待っていたのはパウロを含めた6人の騎士だった。ヘルミーナたちは荷台から降り、周囲を警戒しながら外套を深く被った。

 一方、カイザー、リック、ランスの3人は、外套を脱いで団服姿になった。やはり彼らにはこの姿が一番よく似合っている。

「母親がいなくなったというのはこの先か」

「ええ、そのようです。険しい山道になるので馬は使えません」

 2人の騎士が幌馬車に乗り込むと、来た道を引き返していく。

 その後ろ姿を見送ると、合流したパウロたちと木の生い茂るケーズニ山脈を見上げた。

「私とリック、ランスの3人が先導する。パウロたちには後方の確認と、ミーナ嬢の護衛を任せる。ミーナ嬢は無理せずついてきてくれ」

「分かりました。皆さん宜しくお願いします」

 昨晩の話し合いでは、ヘルミーナを村に残すか、騎士団に預けるか、と様々な意見が飛び交ったが、最終的にカイザーの近くにいるのが最も安全だという結論に至った。

 ヘルミーナもまた、何かあれば治癒を施すことができる。

 山登りを母親に見つかったら叱られそうだが、子供の頃は木登りもしていた。彼らについていける自信がある。ヘルミーナは気合いを入れて、道なき道に入っていった。

「──待て。人の気配がする」

 1時間ほど山を捜索しただろうか。

 ヘルミーナの自信はとうに汗となって流れていた。パウロやメアリから「大丈夫ですか?」と、何度も声をかけられて申し訳なくなってくる。

 それでも遅れることなく必死についていくと、カイザーがふいに足を止めた。

 手の動きだけでランスとリックに指示を送る。3人は警戒しつつ茂みに近づいた。

 すると、木の根元に血だらけになった女性が倒れ込んでいた。

「おい、大丈夫か!?

 カイザーが茂みを掻き分けて駆けつける。

 真っ青な顔をした女性はピクリとも動かなかった。だが、そっと抱きかかえると、意識を取り戻したように目を開いた。

「はぁ、は……っ! ……けて、助けて……あの化け物が……っ!」

「我々は王国の騎士だ。もう安心していい。まずは水を」

 女性の声は驚くほど掠れていた。カイザーがリックの差し出した水筒を女性の口に押し当てたが、彼女は一瞬安堵の表情を浮かべ、また気絶してしまった。

 刹那、頭上でガサッと草の揺れる音がした。その直後、逃げていく足音が聞こえた。

「カイザー副団長!」

「ああ、分かってる。ひとまず、後方の2名は彼女を村に運んでくれ」

 気を失った女性を抱き上げたカイザーは、後方の騎士2名に彼女を託した。

 外見からしてフランの母親で間違いない。ヘルミーナは母親の無事に胸を撫で下ろした。

「あの、村に着いたらこの青い瓶を彼女に」

「確かに受け取りました」

 ヘルミーナは村へ戻る騎士に、持っていた青い瓶を渡した。これがあれば傷は全て癒えるはずだ。あとは母親の帰りを待つフランの元へ、無事に戻ってくれることを願った。

 女性を連れて下山する騎士を見送ると、ヘルミーナは振り返ってカイザーたちの姿を探した。だが、彼らの姿はすでになかった。

 と、山の少し上の辺りから、「騎士に見つかった!」と叫ぶ声が聞こえてきた。カイザーたちはそのあとを追ったのだろう。

 ヘルミーナたちも急いで彼らのいる場所に向かった。すると、木々に囲まれた山奥に古びた小屋が建っていた。

 ようやく辿り着いた時には、カイザーとリックが兵士の姿をした2人の男を制圧し、ランスは小屋を確認していた。

 その時、小屋の後ろから1人の男が逃げ出すのが見えた。

「アイツ……っ!」

「待て、ランス!」

 逃げていくのは青い髪の男だった。ニキア村の石橋にいた兵士に似ている気がする。

 カイザーが呼び止めるも、森の中へ逃げる兵士を追いかけてランスも姿を消した。

「リックはランスのあとを追ってくれ。絶対に1人で行動させるな! パウロたちはこいつらを縛り上げろ。メアリはミーナ嬢の傍から離れないように」

「すぐに追いかけます!」

 カイザーの指示に従って、それぞれが動き出す。

 一方、ヘルミーナはなぜか誘われるように小屋に近づいていった。メアリが止めてくれたのに、どうしてか見なければいけないような気がして足が止まらなかった。

 そして、悪臭あくしゅうを放つ小屋の中に広がったおぞましい光景に、ヘルミーナは戦慄した。

 終焉しゅうえんと呼ぶものを実際に目にできるなら、きっと今この目に映っている光景なのだろう。

 黒い瘴気に覆われた室内に、全身の震えが止まらなくなった……。

 布などで目張りされた薄暗い小屋の中──そこに、5人の人間が横たわっていた。室内に充満した体臭とぶつの臭いに、吐き気が込み上げる。足を踏み入れることができず、小屋から離れ、近くの草むらでおうした。

 ……アレはなんだったのか。

 人間の形をしていなければ、彼ら全員がただの黒い塊にしか見えなかっただろう。焼け焦げた皮膚と違い、肌が黒く変色して瘴気を纏っていたのだ。……魔物のように。

 とても直視できる光景ではなかった。

「ヘルミーナ様、大丈夫ですか?」

「……メアリ」

 嘔吐を繰り返すヘルミーナに、メアリが背中を優しく擦ってくれた。けれど、彼女の手もまた小刻みに震えていた。

 初めて目にする異様な光景に、自分のことしか考えられなくなっていたようだ。ヘルミーナは差し出された水筒で口をゆすぎ、ハンカチで口元を押さえ、メアリに支えられながら立ち上がった。

 一方、カイザーたちは取り押さえた男たちに特殊なかせを嵌めていた。魔法を無効化する魔法石のついた魔道具のようだ。魔法を使う人間にはこれ以上のこうそく道具はない。

「ここで何をしていた? 小屋の人たちはどうした?」

 仁王立ちになるカイザーに、2人の男たちは尻込みした。

 どちらも兵士の格好をしている。1人は、ニキア村の石橋で荷台を確認した男だ。

「俺たちは知らない……っ! 何も知らないんだ!」

「嘘をつくな! ここにいるのは失踪したケーズ村の人たちだろ!?

 パウロともう1人の騎士が男たちを地面に押しつけた。

 呻き声を漏らした1人が王国の騎士に恐れをなし、ほぼ叫ぶように答えた。

かんべんしてくれ、仕方なかったんだっ! こうでもしなきゃ、俺たちの村から犠牲者が出ていた!」

「……それで別の村から人をさらったのか?」

 刹那、風の流れが変わった。周囲がサァー……と静まり返る中、カイザーの足元にある落ち葉が弾け飛ぶ。彼の殺気に背筋が凍りついた。本気で怒っているのが分かった。

 男たちは青褪め、カイザーの殺気に耐えきれず失神してしまった。パウロたちは嘆息して男たちから手を放した。

「カイザー副団長、あれは……」

「ああ、間違いない。──『い』だ」

 パウロがカイザーに近づき、2人は小屋のドアに視線を向けた。

 離れて見守っていたヘルミーナは、口元に当てたハンカチをぎゅっと握りしめた。

『魔喰い』──それは魔物の存在を学んでいく上で、必ず耳にする言葉だ。

 上位種の中には、人間の魔力を喰らう魔物がいる。魔力を奪われた人間は黒い瘴気の毒に侵され、体をむしばまれていく。毒の進行は人それぞれだが、飢えも渇きも感じることなく、やがて死よりも悲惨な結末を迎える。

 人間だった頃の記憶を失い、黒い瘴気に覆われた魔物と化すのだ。

 人から人へ感染することはないが、魔物となることが分かっている以上、一緒には暮らせない。最後は愛する人の顔も忘れ、自ら手にかけてしまうかもしれないのだから。

 だから『魔喰い』に遭った者は、人間でいるうちに遅かれ早かれ死を選ぶ。病気と違い、進行を遅らせることも治すことも不可能だ。の病より厄介な症状だった。

 カイザーはやるせない様子で髪を掻き回し、大きく深呼吸してから口を開いた。

「あの母親が言っていた化け物というのが気がかりだ。上位の魔物が山に住み着いている可能性がある。パウロたちは一旦第二騎士団に戻り、報告と応援の要請をしてくれ。男を追いかけていったランスも心配だ。無茶をしてなければいいが……」

「承知しました。あの、カイザー副団長……小屋の者たちは」

「騎士団の決まりに従うだけだ」

 パウロが遠慮がちに訊ねると、カイザーは表情に影を落としながらもはっきり口にした。パウロたちはそれ以上何も言えず、命じられた通り第二騎士団の元へ急いだ。

 小屋の前には気絶した2人の男と、カイザーとヘルミーナとメアリが残された。

「……小屋の近くは危険だから、離れていてほしい」

 近くまでやってきたカイザーは、ヘルミーナたちに離れるように言ってきた。その声にはがない。いつもとは違う様子に、ヘルミーナは不安になった。

 それでもメアリに促され、小屋から距離を取る。

 と、開かれたドアに向かって両手を突き出したカイザーは、巨大な火の塊を作り出した。

 それが何を意味するのか、ヘルミーナは悟った。

 彼が小屋にいる5人に死を与えるのだと。

 魔物になる前に殺さなければいけない。騎士の規定によってそう決まっているのだろう。まだ自我が残っていれば、それは間違いなく「人」であるはずなのに。

 王国の騎士はこれまでに、どれほどの苦悩と苦痛を背負ってきたのだろう。

 仲間を失う悲しみや悔しさ以外にも。

 背中ではためく騎士団の紋章に、どれほどの思いが封じ込められてきたのだろう。

 泣くことも許されず、弱音を吐くこともできず、ただ民を守るために戦い続ける彼ら。自分は騎士の何を見てきたのか。

 そう思ったらじっとしていられず、ヘルミーナは走り出していた。

「待ってくださいっ、カイザー様!」

 小屋ごと燃やし尽くそうとするカイザーに、ヘルミーナは目を真っ赤にして叫んでいた。

 心優しい彼だからこそ、罪なき人を殺すことに多くのかっとうがあるはずだ。それだけに、カイザーが、他の騎士たちが、これ以上苦しみに苛まれるのを黙って見過ごすことはできない。

「彼らはまだ魔物ではありません……っ! ですから、どうか……お願いです! 私に治癒を、神聖魔法を使わせてください──!」


◆◇◆◇◆


 草むらを飛びねるようにして逃げていく男を、ランスは追いかけていた。

「ウサギみたいにすばしっこい奴だな!」

 真っ先に小屋を確認したランスは、男たちの非道な行いを瞬時に見抜いた。

 男たちは保身のために、他領から連れ去ってきた者たちをいけにえとして差し出していたのだ。身寄りのない者ばかりを狙ったのもそのためだ。

 しかし、連れ去る人間を選ぶのにも限界がある。最後は手当たり次第になっていく。

『魔喰い』になった者は二度と元には戻らない。魔物となる前に、死を選ぶことだけが唯一の救いとなる──。

 ランスは爆発しそうな怒りに、拳を強く握りしめた。

 男がどこへ逃げようとしているのか分からないが、甘く見られたものだ。王国の騎士から逃げきれるわけがないのに。

 男は深い森を抜けると、迷うことなく切り立った崖下のどうくつに入っていった。

「ランス!」

 男が洞窟に入るのを見て一旦立ち止まると、リックがランスに追いついた。

「単独行動はつつしめ! カイザー副団長の命令を無視しただろ」

「悪かったよ。説教ならあとでたくさん聞くからさ」

 男を捕まえるまで戻るつもりはない、と目で訴えると、リックは呆れるように嘆息した。

 リックもまた、この事件には強い怒りを感じている。

『魔喰い』になった者を見つけたら、騎士はその場でその者を殺さなくてはいけない。人間の心が残っていたとしても、だ。騎士になった際に取り交わした契約書にそう書かれていた。

 それがどれほど重い任務か。騎士になった重圧を感じ、サインする手が震えたほどだ。

 リックは悩む素振りも見せず、ランスに向かって「分かった。一緒に行こう」と頷いた。それから2人は近くの茂みから木を取り、先端に火を灯してたいまつにした。

「洞窟の中では魔法を控えるんだ」

「火魔法と洞窟って相性最悪だよね」

 洞窟内に有害な毒や物質が溜まっていれば、火魔法を使った瞬間、引火して大爆発を引き起こす危険がある。

 それ以外にも、洞窟内が湿しめっていれば、火魔法の威力が落ちて不利だ。物理攻撃では魔物を倒せないため、いつもより慎重に洞窟内を進んだ。

「油断するなということだ」

「大丈夫だって。俺にはつよーいお守りがあるから」

 そう言ってズボンのポケットを二、三度叩いたランスは、口の端を持ち上げた。

 その時、奥から悲鳴が聞こえてきた。2人は顔を見合わせ、松明の明かりを頼りに奥へと急いだ。

『──今日ハえさガ多イヨウダ』

 開けた場所に足を踏み入れると、四方に灯された松明の炎が、風もないのに揺れていた。

 声がした方を見れば、石の祭壇に黒い塊が転がっていた。息絶えたそれが、先程追いかけていた男だと認識するのに時間がかかった。

 そして……。

「なんだよ、あれ」

「女性が言ってた化け物、だな。間違いなく上位種の魔物だ」

 黒いよろいに覆われた上位の魔物が石段に座り、不気味なほど落ち着いた様子でこちらを眺めていた。


◆◇◆◇◆


 魔法石から魔力が抜けると、灰色になって石化した。魔力が尽きれば、魔法石もただの石ころだ。

『魔喰い』で瘴気に覆われた村人の治癒を申し出たヘルミーナは、外套で鼻と口を覆い、最も症状の重い人へ近づいた。

 治癒を施すことに初めは難色を示したカイザーだが、ヘルミーナの意思を尊重してくれた。

 治せるなら、治してほしい──と、思うのは誰も同じだ。これから命を奪わなければいけない人であれば尚のこと。

 カイザーは頷き、剣を振るって小屋の壁一面を壊した。暗闇だった室内に明かりが差し込み、『魔喰い』に遭った人々の状態をより鮮明に、正確に見ることができた。

 瘴気の毒は、蛇が絡みつくように皮膚を取り巻いている。それが心臓を喰らえば自我が失われ、人は魔物となる。

 ヘルミーナはせり上がってくる胃液を飲み込み、最初に攫われたらしい老人の横に跪いた。

 所持していた魔法石を取り出して、神聖魔法をかけた。残りの人数を考えると、魔力は極力温存しなければいけない。

「……っ、く……っ」

 老人の全身に絡みついていた黒い瘴気が、光の蔦によってみるみる覆われていく。

 それは何度見ても驚かされる光景だった。

 小さく呻いた老人は、黒い瘴気が完全に消え失せるとゆっくり目を開いた。

 ヘルミーナが「大丈夫ですか?」と声をかけると、老人は眩しそうに目を細めながら「……ああ、聖女様」と呟き、そのまま眠ってしまった。

 念のため黒く変色していた皮膚を確認したが、命に別状はないようだ。

「まさか、本当に治せるとは……」

 見守っていたカイザーとメアリは、神聖魔法の効果に改めて驚かされた。怪我や病気の治癒は見ていたが、まさか魔物になりかけた人間までも治せるとは。

 ヘルミーナが行ったのは治癒だけではない。黒い瘴気を「浄化」してみせたのだ。魔物にとってヘルミーナは、最大の天敵になるだろう。

「メアリは治った方のかいほうを。カイザー様は私の手伝いをお願いします」

「任せてくれ」

 1人を治癒し終えたヘルミーナは指示を出すと、すぐに次の村人の元へ行った。

 遅れるほど、魔力を使わなければいけなくなる。

『魔喰い』による瘴気の毒を消滅させるのは、怪我を治すのとはまるで違った。

 戻ってこないランスとリックも心配だが、ランスにはいざという時のためにお守りを渡している。彼らならきっと大丈夫だ。

 ヘルミーナは折れそうになる気持ちを奮い立たせ、さらに村人の治癒に専念した。


◆◇◆◇◆


 魔物のランクには基準がある。

 闇魔法の魔力量、攻撃力、素早さ、そして知性だ。普段、考えなしに村を襲う魔物は下級のものが多い。考えて行動できず、人から魔力を奪う能力も備わっていない。

 だが、上位の魔物となれば別だ。下級の魔物とは天と地ほどの力の差がある。

 左右から挟み込むようにしてランスとリックが剣を振り抜いたが、鎧を纏った魔物は闇魔法で攻撃を防いだ。その場から一歩も動くことなく。

「くそっ!」

 火魔法を制限され、闇魔法を使いこなす魔物に、ランスとリックは苦戦を強いられていた。

 じんを理解し、話すこともできる知能の高い魔物だ。学習能力も高く、単調な攻撃はすぐにかわされてしまう。

 上位種の魔物が生まれるには、二通りがあると言われている。

 人間を数えきれないほど殺した魔物か、生まれながらにして魔物の長である存在だ。後者は最初から、備わる魔力も能力もけた違いだ。騎士が束になっても勝てるかどうか分からない。

 剣に炎を纏わせて2人は鎧の魔物に攻撃を仕掛けるが、闇魔法とぶつかるたびにそうさいされてしまう。おかげで、じわじわと魔力が削られていった。

 第一騎士団に所属していたが、上位の魔物と出くわすのはこれが初めてだ。

「ランス、ここは一旦引くしか……っ」

「りょーかいっ! うちの団長と戦ってるみたいだ!」

 魔物を前にして逃げ帰るのはしゃくだが、敵の情報を持ち帰ることも重要だ。仲間の命を救うことにも繋がる。この魔物は間違いなく、騎士団にとって脅威になる存在だ。

 リックが合図するように頷くと、ランスは鎧の魔物に向かって火を放った。同時に、リックは天井に向けて剣を振り上げた。

「崩れる前に脱出するぞ!」

 洞窟の天井が音を立てて崩れ始める。2人は松明を持って出口へ走り出した。

 カイザーの元に戻って、一度形勢を立て直す必要がある。幸い第二騎士団も近くにいる。勝機はあるはずだ。

 しかし、走る2人の行く手を阻むように鎧の魔物が現れた。

『嫌ナ気配ガスル』

 背後にいたはずなのに、現れたのは確かに先程のあの魔物だ。

「な……っ!?

「なんで、お前がここに……っ」

 天井まで届きそうに巨大化し、静かに見下ろしてくる鎧の魔物に寒気が走った。

 だが、そんな鎧の魔物にも、微かに焦りの色が滲んで見える。先程とは違い何かを探っている様子だ。鎧の魔物はランスを見るなり、口を開いて言った。

『オ前ダ! オ前カラ──!』

 鎧の魔物が叫ぶと、洞窟に地響きがし、地面が揺れて足元がぐらついた。瞬間、無数の黒い刃が放たれた。

「ぐっ……!」

「ランスっ!」

 黒い刃はランスだけを襲った。ランスは剣を振り抜いて、飛んでくる刃を払い落とす。リックも応戦するが、今度は天井の岩が崩れ落ちてきた。

 2人は互いの名を叫んだが、声は崩れる音に掻き消され、砂埃すなぼこりの中へと消えていった。


 ────ポタ、ポタ……。

 頬に水滴が当たってランスは気づいた。刹那、全身に鋭い痛みが走る。

「…………痛ッ、一体何が……?」

 ランスは掌に魔力を集中させて火を灯した。洞窟のあちこちが崩れて、周囲には大きな岩石がごろごろ転がっている。痛みからしてろっこつの数本は折れているだろう。

 痛みよりも目の前を覆う影に気づいて、ランスは目を見開いた。

「──…………リック?」

「……くっ、……俺の周りは問題児ばかりで、世話が焼ける……」

 ランスに覆い被さるようにして両手をついたリックは、乾いた笑いを漏らした。

 数本の黒い刃がリックの腹部をつらぬき、ランスの目の前まで迫る先端から鮮血が滴り落ちてくる。濡れた頬に触れれば、ぬるりとした感触があった。

 崩れる岩をすり抜けるようにして襲った刃から、リックが身をていして守ってくれたのだ。

 赤い団服が真っ赤な血に染まっていく光景に、ランスは顔を強張らせた。

 なんで、どうして……。

 痛みに呻くリックに、血で汚れた手を伸ばす。

「なに、して……おい、リック……? ──リック……っ!」

 閉ざされた洞窟の中、ランスの叫び声が響き渡った。

『そういえば、これ。積み荷に戻すの忘れてたからミーナちゃんに渡しておくね』

『やはり青い瓶だと警戒されますね。中身の見える瓶にした方がよかったでしょうか?』

『でも、それはそれでランプの魔道具だと勘違いされるんじゃないかな~』

『……ランスに相談したのが間違いでした。それはランスが持っていてください。多めに準備してきたので、1本ぐらい減っても平気です』

『結構真剣に答えたつもりだったんだけどなぁ。……じゃあ遠慮なく、お守りってことで』

 血を滴らせた黒い刃を前に、ランスは走馬灯のように流れた記憶にハッとした。ケーズ村に到着してからすぐのやり取りだった気がする。

 こんな状況だからこそ、思い出さずにはいられなかったのかもしれない。

 その時、リックの腹部に突き刺さった刃が、黒い煙を巻いて消えていった。

「がは……っ」

「……の、バカ野郎! リック、おいっ」

 ふかを負ったリックは血を吐いて上体を崩した。倒れ込んでくるリックを受け止めようとすると、彼は片手をついて自身を支えた。洞窟の崩落で酷い怪我を負ったのはランスも一緒だ。

 普段ならこんなことで怪我を負わなかったのに。戦闘で魔力を奪われていたことに早く気づくべきだった。

 悔しさを滲ませたランスはポケットに手を入れ、ヘルミーナに返しそびれた青い瓶を取り出した。

「リック、すぐにこれ飲め! ミーナちゃんが作った魔法水だ!」

「は……っ、くっ……これ、が、言っていた、お守りか……」

 ヘルミーナから持っていろと言われなければ、青い瓶は今手元になかった。ランスは迷わずそれをリックに差し出した。

 今すぐに治癒が必要なのはリックの方だ。彼が意識を保っていられるのもあと僅かだろう。血を流しすぎている。だがこれを飲めば、怪我は一瞬にして完治するはずだ。

 しかし、リックはランスの手ごと青い瓶を握りしめると、首を振った。

 なんで……と言いかけた瞬間、壁の一部が激しい音を立てて崩れた。

『光ノ神ト同ジ臭イダ』

 外から光が差し込んだのも束の間、黒い瘴気を纏った鎧の魔物が現れた。

 ランスはリックの肩越しからその姿を確かめた。

 無傷の魔物は倒れ込んでいるリックとランスを見つけると、右手を上げて無数の黒い刃を出現させた。先程とは比べものにならない強い殺気に、全身の毛が逆立つ。

 すると、リックはランスの耳元に顔を寄せて口を開いた。

「いいか、ランス……一度きりだ。──残りの魔力を込めろ」

「なに、を……いや、ダメだ……っ、それはお前が!」

 お前が飲まなくてはいけないのに。

 リックは青い瓶を掴むと、鎧の魔物に向かって投げ、声を張り上げた。

「思いっきりぶっ放せ……っ!」

「──くそっ! あとで覚えてろよ、リック……っ!」

 胸の痛みを堪えて上体を起こしたランスは、右手を突き出してありったけの火魔法を鎧の魔物に向けて放った。渦を巻いた炎が青い瓶をも飲み込んで洞窟内を赤く照らす。

 鎧の魔物は闇魔法で防ぐが、炎に隠された青い瓶が砕けた瞬間、目がくらむほどのせんこうが走った。暗闇を覆い尽くすほどの白い光だ。

 神聖魔法で作られた魔法水を浴びた鎧の魔物は、炎の中でだんまつの叫びを上げた。そして、鎧の魔物を喰らった炎は、そのまま洞窟の壁を吹き飛ばした。

 闇魔法を打ち砕くのは、いつの時も光魔法だ。

 数百年、その力をおがむことはできなかったが、今の時代に覚醒した者がいる。彼女の護衛としてついてきたはずなのに、こうして守られる側になるとは思いもしなかった。

「は、っ、はぁ……やった、か」

 最後の魔力を使いきったランスは、荒い息を吐きながら太陽光が差す景色に目を細めた。

 しかし、体に寄りかかるリックの重みを感じて、すぐに意識を切り替えた。

「……リック? おい、リック!?

 ランスはリックの頬を数回叩いたが、反応はなかった。体温も失われつつある。ひとまずマントで止血を行ったが予想以上に危険な状態に、ランスは歯を食いしばってリックを背負った。

 きっとヘルミーナのいる小屋まで戻れば大丈夫だ。ランスは焦げた洞窟から抜け出し、痛みを堪えながら来た道を戻ろうとした。

 だが、森に足を踏み入れようとした時、ランスを止めたのはリックだった。

「ランス、待ってくれ。頼む……」

「……リック?」

 声がして立ち止まったランスは、背中から下りようとするリックを腕で支えた。

 外に出ると、リックの腹部から流れ出る血がよりはっきり見て取れる。

 急がなければ命を落としかねない。神聖魔法は怪我人や病人を治せても、死者まではせいできないのだ。

 それでも、リックは地面に両膝をつき、懇願するようにランスの腕にしがみついた。

「……俺を、このままにしてくれ」

「何、言って……。今からミーナちゃんのところに行けば、まだ間に合うだろっ!」

「お前だって小屋の中の人を見ただろ? ヘルミーナ様は、彼らを放っておけないはずだ。……全員に治癒を施せば、彼女の魔力は尽きてしまう」

 ヘルミーナの護衛を最初に任された2人だからこそ、彼女の性格や行動を誰よりも知っている。自分を犠牲にしても他人を助ける性格だ。

 小屋に横たわった罪のない村人に、ヘルミーナが何もせずにいるわけがない。それはランスも分かっていた。彼女の魔力が、底をついてしまうのも……。

 だからといって納得できるものではない。リックはランスと同じ火属性の一族で、同時期に騎士となり、第一騎士団に配属されたのもほぼ一緒だ。今は家族よりもランスを理解し、互いの背中を合わせて魔物を討伐できる間柄だ。

 その仲間の、親友の死を受け入れるなど、簡単にはできなかった。

「彼女を、困らせたくない。それに……私は騎士だから。自分のさいぐらい、分かる」

 なのに、リックは満足そうに笑った。

 ランスは力なく倒れ込むリックを抱きとめ、地面に膝をついた。

 仲間の死を見送ったのはこれが初めてではない。けれど、これまでは受け入れることができたのに、両腕に抱えた友の死だけは耐え難かった。

 ランスは震える唇を何度も噛んでは嗚咽を漏らした。そして、視界が滲んでいくのを堪えるように青空を見上げた。

「リック……っ、悪い……………許してくれ……っ」


◆◇◆◇◆


「あと、1人……」

 持っていた魔法水と魔法石はとうに使い切ってしまった。ヘルミーナは自身の魔力だけを頼りに、神聖魔法を使った。魔力がごっそり抜けていくのが分かる。

 それでも最後まで集中を切らすことなく、治癒に当たることができた。騎士団の病室で経験を積んだおかげだ。

 最後は若い男性だった。こんなところで死を迎えるには早すぎる年齢だ。治癒によって元の姿を取り戻した男性に、ヘルミーナは安堵の息をついた。すると、視界が揺らいで体が傾いた。

「ミーナ嬢っ!」

 男性の皮膚に瘴気が残っていないか確認したカイザーは、倒れそうになるヘルミーナに気づいて腕を掴んでくれた。

 魔力の使いすぎだ。

 しかし、全員を治癒し終えたヘルミーナは、両手を握りしめて達成感に満たされた。

 神聖魔法で、名も知らない村人を危機から救うことができた。役に立てたのだ。

 魔力は尽きても、今は誇らしい気持ちになった。

 ヘルミーナは心配するカイザーに笑いかけた──が、喜びに浸る間もなく、森の奥から激しい爆発音が聞こえてきた。

 羽根を休めていた鳥が木々から一斉に飛び立ち、辺りに激震が走った。

「一体何が……っ」

「メアリ! ミーナ嬢を頼む!」

 すぐに何かを察知したカイザーが、メアリにヘルミーナを任せると、森に向かって駆け出した。

 嫌な予感がした。剣を抜いて炎を纏わせるカイザーに、魔物の脅威が迫っているのだと知らされる。

 その時、黒い瘴気を纏わせた魔物が森から現れた。鎧を身につけた魔物だった。だがその魔物は全身傷だらけで、立っているのもやっとだった。

『見ツケタゾ……光ノ代行者ァ!』

 魔物のしゃがれた声に背筋が凍りつく。

 その魔物はヘルミーナに向かって人差し指を持ち上げてきた。騎士団の練武場で見た魔物とは全然違う。人語を話す魔物を見て、今までにない恐怖に身震いした。

 と、鎧の魔物が次の動作を取ろうとした瞬間、ぼとりと黒い塊が落ちた。それが魔物の腕だと分かった時には、カイザーの振り下ろした剣が魔物の胴体を真っ二つにしていた。

「彼女には近づかせない、散れ」

 誰1人として目で追える者はいなかった。

 鎧の魔物ですら、事態に気づいていなかった。刹那、鎧の魔物が炎に飲み込まれていった。

『西ヘ……行カナ、ケレバ……』

 鎧の魔物が死の間際に不気味な言葉を放ったが、それも炎に包まれて掻き消された。カイザーは魔物の消滅を確認したが、表情から険しさが消えることはなかった。

「ヘルミーナ様、大丈夫ですか?」

「ええ、……今の魔物は……」

 メアリに支えられ、なんとか意識を保っていたヘルミーナは震える声で訊ねた。けれど、メアリもまた人語を話す魔物に出くわしたのは初めてのようだ。

 あの魔物の声が耳に焼きついて離れない。

 その時、また森から草を踏む音がして3人は過剰に反応した。視線をやった先に覚えのある赤い団服を見つけて、強張った肩から力を抜く。けれど、いつもと違う彼の様子に気づいた。

「…………ランス?」

 まんしんそうで戻ってきたランスと、彼に背負われたリックを見て、カイザーとメアリが慌てて駆け寄っていく。

 しかし、ヘルミーナだけはその場から動けなかった。

 早く行かなければいけないのに、なぜか体が動かず、声も出てこない。

「……あ、……っ………」

 カイザーの声と、メアリの悲鳴が聞こえてくる中、ヘルミーナは絶望と無力感で立ち上がることすらできなかったのだ。


 王都から中央のレイブロン領を抜けた、ウォルバート領とセンブルク領の境。各領地の入口となる街は、多くの人が行き交う場所だけにしっかり整備され、賑やかで治安もいい。

 王国騎士団が現れると、その行進を一目見ようと沿道にはさらに大勢の民が詰めかけた。中でも騎士団を率いるマティアスに、ひときわ大きな歓声が上がった。

 第一騎士団の団長、西の国境を守りし風の民、ラゴル侯爵家の次期当主──といった肩書きはもちろんのこと、騎士としての名声も広くとどろいているからだ。一度目にしたら忘れられないもく秀麗しゅうれいな外見も、本人の知らぬところで広まっていた。

 しかし、共についてきた騎士たちの表情はいちように固かった。

 彼以外の第一騎士団は王族の警護で王城に残った。つまり、普段はマティアスの指揮下にいない騎士団がついてきたのだ。中には、今回が初めての遠征となる新人の騎士たちもいた。

 彼らの目的は民の関心を引き寄せることにあった。とはいえ、任務も怠ってはいない。

 ここへ到着する前に魔物と一戦交えている。あれを戦いと呼ぶならそうなのだろう。だが、実際はマティアスが魔物の気配を察知し、たった1人で片付けてしまった。

 他の騎士が駆けつけた時にはすでに、魔物は原型を留めておらず、黒い煙を上げて消滅していた。魔物が人間を襲っても、ここまで壮絶な光景にはならないだろう。

 返り血を浴びても、生来の美しさを失わないマティアスの姿に、騎士たちはゾッとした。一歩でも近づいたらこちらの首まで撥ねられそうで恐ろしくなる。

 第一騎士団に憧れ、期待に胸をふくらませていた新人騎士は、一瞬にして現実を思い知らされた。

 遠征の見送りで、労いの言葉をかけてきたのは、そういうことか。それと同時に、騎士団内で第一騎士団の騎士たちに同情の声が集まる理由も理解した。

「西の森から逃れた魔物がここまで来ているとは。城壁の守備をさらに強化する必要があるな」

「噂では魔物の力が強まっていると……」

 センブルク領地に入って間もなく。被害を受けた村に到着すると、騎士たちは休息も取らずに討伐へ出向いた。魔物は下級クラスだったが、数が多かった。

 一緒に来た第六騎士団の団長が、恐る恐るマティアスに討伐完了の報告をする。魔物を一掃したというのに、ピリッとした空気が張り詰めていた。無駄口を叩く者は1人としていない。

「それでも我々の任務に変わりはない。魔物のせんめつだけを考えろ」

 感情を顔に出す男ではないが、エメラルドグリーンの瞳には怒りに似た感情が宿っていた。

 ──客寄せの道具として扱われたからではない。

 マティアスの怒りがどこから来ているのか、皆知っていた。知っていて、何も言えなかった。

 カレント行きから漏れたことを、彼もまた悔しがっているなんて。魔物の討伐でそのうっぷんを晴らしているなんて。意外に子供じみたところがあると、からかう者は誰もいない。ただ、八つ当たりされている魔物には少しだけ同情する。

 そして、マティアスが味方であることに深く感謝した。

 西の城壁を守護してきたラゴルに、手を出す愚か者はいなかった。王権を揺るがすほどの軍事力を持ち、それ故に反逆の噂も絶えなかったが、王室が彼らに剣を向けることはなかった。

 絶対に敵対してはいけない相手だということを、多くの者たちが知っていたからだ。

 とくに彼らの強さを間近で見てきた騎士たちは、この先もラゴルの者たちの目が、魔物の住む『黒煙の森』にだけ向いていることを祈るばかりだった。

 そうとは知らず、マティアスは緑色の髪を靡かせ、血のついた剣を払って鞘に納めた。

 王太子ルドルフの人選に不満はない。適材適所と納得している。だが、それと自分の気持ちは別だ。

 マティアスもまた、ヘルミーナの護衛としてついていきたかった。近くにいなければ、守れるものも守れない。

 手の届く範囲に彼女がいないだけで不安になってくる。覚えのない感情に振り回され、らしくないという自覚もある。

 それでも願わずにはいられないのだ。

「──光の神エルネスの加護が、あの方にも届いていますように」

 彼女が無事であるように。

 マティアスは頬を撫ぜる風にことの葉を乗せ、遠く離れた地に思いを馳せた。


◆◇◆◇◆


 初めて社交界に足を踏み入れた時、世間から見放されたような気がした。

 味方は婚約者だけで、誰からも背を向けられたように感じた。けれど、実際は限られた空間の中で、目に映る範囲しか捉えていなかった。

 知らなかった場所に飛び込んでみると、景色ががらりと変わった。自分を取り巻く環境や人間関係、思考、それら全て。視野が広がって、それまでと違う世界が迎え入れてくれた。

 でも、それは光属性という魔力を覚醒させたからだ。もしこの力が目覚めなかったら、今も狭い空間でもがき苦しんでいただろう。婚約者のお荷物から抜け出せずにいたはずだ。

 それでは、この力が及ばなくなったら……?

 唯一の救いである魔法が役に立たなくなった時、自分を受け入れてくれた場所は、今までと変わらないでいてくれるだろうか──。

「お兄様……っ!」

 森から戻ってきたランスが地面に倒れ込むのが見えた。

 男を追いかけていったはずなのに、一体何があったのか。先程の魔物と関係があるのだろうか。訊ねたいことが色々あったのに、ランスに背負われたリックの姿を見て言葉を失った。

 駆け寄ったカイザーがリックを抱え起こした時、団服にべったりとついた血にメアリが悲鳴を上げた。

 リックの腹部から流れた血で団服は赤黒く染まっていた。近づいたメアリは変わり果てた兄の姿が信じられない様子で、真っ青なリックの頬に触れた。

「どう、して……お兄様……っ!? ──お兄様っ!」

 いくら呼んでも、叫んでも、リックから返事はなかった。少し前まで、カイザーと共に先頭を歩いてくれていたのに。

 カイザーは意識のない部下の肩を強く握りしめ、名前を呼んだ。

「俺のせいなんだ……。リックが、俺を庇って……っ」

 自身も傷だらけでボロボロのランスが、両膝をついてあえぐように言ってきた。その顔には不甲斐ない自分への悔しさが滲み出ている。

「………………リック?」

 動けずにいたヘルミーナだったが、無意識のうちに彼らの元へ向かっていた。両手をついて地面をい、力の入らない足で立ち上がり、何度も転びそうになりながら近づいた。

 そして、地面に仰向けに寝かせられたリックを見てがくぜんとした。

「……ヘルミーナ様っ」

 泣きじゃくるメアリの隣に膝をつき、ヘルミーナは震える手をリックに伸ばした。

 ──早く、助けなければ。

 彼の命が尽きる前に魔法をかければ、こんな怪我などすぐに治癒できる。

 なのに、ヘルミーナは魔力を込めることができなかった。

 その時、ランスがヘルミーナに向かって頭を下げた。

「リックが、自分の命が尽きてから連れていってくれと……! ミーナちゃんの手を煩わせたくないからって、言ったのに……! でも俺は……っ、騎士の俺がこんなこと頼むのは、間違っているとは分かってる……! けど、もしまだ可能なら、リックを……リックを治してくれ……頼む……っ!」

 額を地面に擦りつけながら頼んでくるランスに、ヘルミーナの頭の中は真っ白になった。

 リックは知っていたのだろう。ヘルミーナが村人を助けることも、それによって魔力が尽きることも。

 テイト伯爵家で護衛をしていた時も、随分周囲に気を配ってくれた。兄弟の多い長男だからだろうか。苦労を背負い込むような性格だった。でも、信念を曲げることなく真っ直ぐに生きる騎士だった。ランスを庇って怪我をしたのも彼らしい。

 ヘルミーナは唇を噛んで、込み上がる感情を堪えた。誰もがリックの無事を願っている。

 自分だってリックを、友を失いたくはない。

 ……分かっている。分かっているのだ。

 けれど、いくら両手を翳しても魔力は放出されなかった。

「……っ、く……うぅ」

 次第に目の前がかすんで、リックの姿が捉えられなくなる。

 ──どうして。

 なぜこんな時に限って魔力が枯渇してしまったのか。

 助けなければいけないのに。

 魔力を込めると、心臓が圧迫されて呼吸できなくなった。全身に寒気が走り、額に汗が滲む。

「……もういい、やめてくれ、魔力を完全に失えば、ミーナ嬢の命まで尽きてしまう……っ」

 命を削ってまで魔力を込めようとするヘルミーナの手を、カイザーが掴んできた。握られた手は指先まで冷たくなっていた。

 ヘルミーナはわなわな震えながら、視線を上げた。すると、悔しさに耐えるようなカイザーと、絶望の色を浮かべるメアリとランスの顔が目に映った。

「でも、それではリックが……っ」

 ……死んでしまうではないか。

 言葉にはできなかった。けれど、ヘルミーナの魔力が尽きてしまった以上、他にリックを治癒する方法はなかった。予備の魔法水を持った第二騎士団を待っていては間に合わない。

 カイザーがその場から動かずにいるのは、すでに分かっているのだ。ランスも、メアリも。

「……い、や……です、こんな……っ。私が、もっと……」

 ただ、ヘルミーナだけは受け止めきれず首を振った。

 自分にもっと力があれば。

 光属性の魔力が覚醒したところで、必要な時に使えなければなんの意味もない。目の前で友が死にかけているのに、ただ見守ることしかできないなんて。

 けれど、魔法を繰り出そうとしても、カイザーがそれを許さなかった。

 騎士たちはこんな経験を何度もしてきたのだろう。

 死にかけた仲間に何もしてやれず、身が引き裂かれる思いだ。嗚咽を漏らすたびに息が詰まり、膨れ上がっていく悲しみに、もうやめてと泣き叫びたくなる。

「あ、……ぁ、っ、リック、リック……!」

 こんな時、名前を呼ぶことしかできない自分が歯痒い。

 泣いて、見送ることしかできない。そして最後は、光の神に祈るしかないのだ。

 彼を連れていかないでほしい──、と。

 いくつもの涙が頬を伝い落ちた時──柔らかな風が吹き抜けた。

 涙で濡れた頬を優しく撫でられた気がして、ヘルミーナは顔を上げた。刹那、カイザーの手が離れ、ヘルミーナは自身の顔に触れた。

 それから意図せず胸元に手を下ろした時、冷たいものがはだに触れた。

「……ラゴルの、守り石」

 ヘルミーナは咄嗟に外套を脱ぎ捨て、首に掛けていたペンダントを外した。

 それは旅立つ直前に、マティアスから無事を願って渡されたものだ。風の民に代々受け継がれてきたお守りで、聖女の魔力が込められた魔法石がついている。

 効果はすでに失われていると言われたが、ヘルミーナはそれを左の掌に巻きつけてリックに翳した。魔力がなくなっているはずなのに、魔法石はまだ白いままだ。

 ──どうか、聖女様……!

 ヘルミーナは心の中で強く願った。

 ほんの少しでいい。命を繋ぎ止めておけるなら。

「リックを……っ、私の友を助ける力をお貸しください!」

 体内に魔力を巡らせると胸が締めつけられた。頭が割れるように痛くなって、体中が悲鳴を上げる。

 けれど、ヘルミーナは魔法石を通して神聖魔法を放った。

 その時、体内の奥底に眠っていたものが、弾け飛ぶように一気に溢れ出した。

 瞬間、バチバチと火花を散らした魔法石がまばゆい光を放ち、白い蔦が波打つようにヘルミーナの体に絡みついた。

「──……っ!」

 これまで感じたことのない魔力が全身を巡る。体を起こしていられないほどの力に、ヘルミーナはぐっと堪えて魔法を放ち続けた。

 すると、水色だった髪と瞳は輝く黄金色に変わり、ヘルミーナに変化をもたらした。第二次覚醒が起きたことは明らかだ。

「──リック! 貴方を失ったら、誰が私を咎め、叱ってくれるというのですか!?

 だが、ヘルミーナは自身の変化に気づかなかった。彼女の目には救うべき友の姿しか見えていなかったのだ。