4章 黒い瘴気と奇跡の娘


 騎士団の宿舎脇でせんたく紐に白いシーツを掛けていたメイドが、ふと漏らした。

 最近、騎士団の雰囲気が変わった、と。それを聞いた同僚のメイドもまた、洗濯物を干しながら宿舎の建物を見上げて頷いた。

 ──確かに変わった。

 今まではさつばつとしていた騎士たちの雰囲気が、柔らかくなった気がする。おかげで仕事中に息を殺す必要がなくなった。

 何より、命を落とす騎士がいなくなった。怪我が原因で退団する騎士も。

 騎士の中には、使用人に対しても気さくに声をかけてくる人がいた。そんな騎士が討伐で帰らぬ人となり、悲しみに耐えきれず辞めていく使用人も多かった。そのため騎士とは関わらず、仕事と割りきって働く者が増え、騎士と使用人たちの間には微妙な距離ができていた。

 けれど、それがなくなってきた。

 挨拶だけだった騎士が、積極的に話しかけてくるようになった。殺風景な廊下には花瓶が飾られ、騎士が楽しく談笑する姿も見かけるようになった。

 ──こんな日がずっと続けばいいのに。

 暖かな日差しが差し込み、干したばかりの洗濯物が気持ちよさそうに揺れていた。


「ミーナさん、怪我人を連れてきましたっ!」

「こちらにお願いします!」

 騎士団宿舎の病室に、2人の騎士が右足に血を流した騎士を支えて連れてきた。

 今日は新人の実戦訓練だ。軽傷者は練武場にいる専属の医者が治療しているが、重傷の患者は病室に運び込まれることになっていた。

 現在この病室に医者はいない。神官もいない。けれど、それ以上に怪我人を治してしまう奇跡の癒やしがあった。

 ミーナ、と呼ばれた女性が忙しく動き回り、運び込まれた怪我人に両手を翳した。すると、患部が白い光に包まれ、瞬く間に抉られた肉と皮が再生して傷口が塞がっていく。見れば見るほど不思議な光景だ。

 全治3カ月の怪我を一瞬にして治してしまう魔法と、その魔法を唯一宿した「ヘルミーナ」という女性。貴族の令嬢らしいが、彼女は次々に運ばれてくる怪我人を、分けへだてなく治癒していった。

「次はこっちをお願いします!」

「分かりました!」

 薄い水色の髪を揺らして動き回るヘルミーナの顔に、焦りや恐怖は見られなかった。怪我を負った騎士を治癒する真剣な眼差しは、魔物とたいする勇敢な騎士と遜色そんしょくない。彼女もまた戦っているようだった。

 そもそも彼女は騎士団の所属ではない。唯一の光属性持ちとして覚醒したヘルミーナは、魔法を訓練するために騎士団の病室で働いていた。

 彼女のおかげで希望を失わずに済んだ騎士は多い。

 最初は驚きでうきあし立っていた騎士も、時間が経つにつれ彼女への感謝を深めていった。

 騎士を辞めずに続けられている。

 家族や仲間や大切な人と笑っていられる。

 心臓が今も鼓動している。──それまで通りの時間を過ごしていると、あの白い光の温もりを思い出さずにはいられなかった。

「お疲れ様でした、ミーナ様」

「様はやめてください、パウロさん」

 パウロもその1人だ。平民のパウロは新人を育成する部隊に所属していたが、実戦訓練の最中に起きた魔物の暴走でひんの重傷を負い、ヘルミーナによって命を助けられた。

 もし命を失っていたら、結婚したばかりの妻を1人残し、子供の顔も見ずに終わっていただろう。現在も剣を握っていられるのは、今目の前にいるヘルミーナのおかげだ。

「人がいる場所では気をつけています」

「そういう問題では……」

「マティアス団長もそのようにされているかと」

 上の者の名を出すとヘルミーナは一瞬納得するが、「パウロさんまで真似する必要はありません!」と、すぐに口をとがらせた。

 パウロは以前と比べて表情が豊かになったヘルミーナに笑いを堪え、汚れたシーツの片付けを手伝った。ヘルミーナの護衛をしていることを、他の使用人に知られてはいけないからだ。

「そういえば第二騎士団の団長と、ウォルバート一族の騎士が謝罪に来たと聞いたのですが、本当ですか?」

「……それは」

 第二騎士団は、前回の国王夫妻による地方視察に同行していた。村を襲う魔物の群れにはちわせ、討伐をなくされた。辛うじて成功したものの、怪我人は多く、未だ現地で治療を受けている者もいる。

 国王夫妻と共に戻ってきた騎士の中にも、騎士に復帰できるか分からないほどの怪我を負った者がいた。現実に絶望する彼らに、同じ騎士としてかける言葉が見つからなかった。

 そんな中、ヘルミーナが再び騎士団の宿舎に現れた。彼女は身分を偽り、使用人の装いで病室を訪れ、あっという間に怪我人を治してしまった。

 怪我が治った騎士は感動に打ち震え、病室は歓喜に包まれたという。そう、まさに自分の時と同じように。

 奇跡の魔法を惜しみなく施すヘルミーナの話を聞いて、パウロはいても立ってもいられなくなった。血が騒いだのは第一騎士団に所属していた時以来だ。

 か弱いながらも仲間を治癒してくれたヘルミーナに、パウロは自分が恥ずかしくなった。戦える力があるなら戦うべきなのに。新人の育成も重要な役割だが、それは他の者でも十分こなせる。最愛の人を手に入れてから、臆病おくびょうになっていたのかもしれない。

 パウロは以前から打診されていた現場復帰の話を受け、実力試験を経て第二騎士団の副団長に着任した。そして最初の任務として、ヘルミーナの護衛を任されたのだ。

「私は平民なので貴族同士の問題に口出しすることはできません。ですが、ミーナ様の護衛を任された以上、何かあれば遠慮なく──」

「だっ、大丈夫です! 本当に、何もありませんでした!」

 パウロの表情が凍えそうなほど冷たいものに変わると、ヘルミーナは両手と首を振って何事もなかったことを必死にアピールした。

 ヘルミーナは、パウロの知るごうまんわがままな貴族令嬢とは全く違っていた。

 護衛を引き受けるに当たり、ヘルミーナの事情を聞かされたパウロは、彼女がこれまで受けてきた仕打ちに言いようのない怒りを覚えた。彼女を好き勝手に扱ってきた婚約者に対しても、彼女をあざわらった貴族に対しても。

 平民である以上、貴族の問題に手を出すことはできない。しかし、少しでも彼女の不安を和らげ、耳を塞いでやることは可能だ。ヘルミーナを守るのは自分だけではないのだから。

「何かあればすぐに私や団長たちに言ってください。ミーナ様にもしものことがあれば、私の妻も悲しみますから」

 パウロが妻のことを口にすると、ヘルミーナは嬉しそうに顔を綻ばせた。

 パウロの妻は元騎士で、特別任務を任された際にヘルミーナと顔を合わせていた。本来ならそこで終わるはずだったが、今もパウロを介して手紙のやり取りをしている。ヘルミーナに何かあれば妻をも悲しませることになる。

「はい、そうします!」

 満面の笑みを浮かべて返事をするヘルミーナを見て、パウロもようやく口元を緩めた。

 その時、廊下からそうぞうしい足音が聞こえてきた。

「ミーナ嬢、すまない遅くなった!」

 壊れてしまうんじゃないかという勢いでドアが開いたかと思えば、第一騎士団副団長のカイザーが息を切らして滑り込んできた。

 魔物を取り逃がしても、今ほど焦った様子は見せなかっただろう。

 パウロは予定より30分も早く迎えに来たカイザーに、やれやれと肩を竦めた。

「お疲れ様です、カイザー副団長」

 突然現れたカイザーは、周囲に人がいないのを確認してから近づいた。それから咳払いをひとつしてから口を開く。

「あー……パウロ副団長、あとは私が代わるから戻って大丈夫だ」

「予定より早いようですが」

「実戦訓練が予定より早く終わっただけだ」

 本日の実戦訓練は、指南役を第一騎士団が務めていた。第一騎士団の実力を間近で見ることができると、新人の騎士たちが嬉しそうに話していた。

 ヘルミーナも先日、魔物の討伐を見学していたから、新人騎士の興奮はよく分かる。

 魔物をいとも簡単に制圧してしまう姿は本当に格好よかった。

 ヘルミーナが1人、納得したように頷いていると、カイザーが目の前にやってきた。

「ミーナ嬢、ロベルト先生から上がっていいとの伝言をもらってきた」

「そうでしたか。教えてくださってありがとうございます」

 手持ちでも、上司のロベルトが戻るまで待つつもりだったヘルミーナは、肩の力を抜いた。

 上がっていいということは、もう怪我人はいないということだ。やはり普段の訓練と違い、魔物を使う実戦となると緊張してしまう。

「皆さん無事でよかったです」

「ミーナ嬢がいるおかげで新人の騎士も安心して戦えた。もう少し訓練すれば討伐に連れていくこともできる」

 最高の褒め言葉だ。ヘルミーナは緩みそうになる口元を堪え、スカートを握りしめた。

 最近は感謝されることが増え、お礼の言葉を素直に受け入れるようになったものの、まだまだ慣れなかった。

 それでも嬉しいことに変わりはない。ヘルミーナははにかむように笑った。上手く笑えていなかったのか、カイザーは視線を逸らした。

「それではパウロさん、本日はありがとうございました」

「ミーナ様もお疲れ様でした。ゆっくりお休みください」

 ヘルミーナはパウロにお礼を伝え、カイザーと共に病室を出た。

 廊下に出ると、宿舎に戻る騎士たちと鉢合わせして、それぞれが挨拶をしていく。誰もが明るい表情をしていた。それが嬉しかった。

 進んでいくと徐々に人の気配が消え、誰もいない廊下をカイザーと並んで歩いた。転移装置を日常的に使っているのは、騎士でも上層部だけだ。

 するとカイザーは、思い出したように口を開いた。

「そういえば以前、ミーナ嬢が私の父上に頼んでいた魔道具師の件だけど。紹介しようと思っていた方が体調を崩してしまって、もう暫く待ってくれないだろうか?」

「私の方は構いませんが、それよりその方は大丈夫でしょうか? 治療が必要でしたら」

「それは問題ない! ……あまり人付き合いが好きではない方だから」

 公爵家の子息が畏まる相手というのは気になるが、ヘルミーナは敢えて訊ねなかった。あとになって、この時にしっかり聞いておけばよかったと後悔することになる。

 ヘルミーナが素直に聞き入れると、カイザーは安堵した。彼は気持ちが顔に出るタイプだ。

 あの日、ヘルミーナがマティアスと一緒にいるのを見て、カイザーは双眸に激しい怒りを含ませて現れた。理由は分からなかった。

 ヘルミーナの護衛は現在、カイザー、パウロ、リック、ランスの4人が交代で行ってくれている。

 一度は護衛そのものを断ろうとしたが、専属侍女のメアリから「騎士団内で暴動が起きますよ」と言われた。念のため騎士団総長のレイブロン公爵に伝えると、「これ以上私の悩み事を増やさないでくれ」という返事で、聞き入れてもらえなかった。

 騎士団といい関係を築きたいと思っていたヘルミーナにとっては複雑だ。

 先日は、第二騎士団の団長をはじめとする騎士たちが訪ねてきて、大騒ぎになった。彼らは皆、ヘルミーナと同じウォルバート一族だった。

 とくに第二騎士団の団長は、ヘルミーナと面識のある貴族の子息だった。言葉を交わしたのは数えるぐらいだが、彼の名は何度も聞いていた。

 そんな彼らが一堂に集まり、ヘルミーナに許しをうたのだ。

 ヘルミーナは、同じ一族なら誰でも知る「お荷物令嬢」だった。

 一族の英雄のお荷物になっているヘルミーナに、嫌悪感を抱く者もいたはずだ。一緒になって悪口を言った者もいたかもしれない。噂で流れてくる情報でしか、ヘルミーナを知らなかったのだから。

 実際、直接会って話したことのある人は1人もいなかった。そんな彼らに悪く思われていたと思うと切なくなる。一方で、彼らを責めることはできなかった。悪いのは彼らではない。

 見れば、謝りに来たのは第二騎士団の騎士ばかりだった。第二騎士団は水属性の者たちが多く、それでウォルバート一族が暮らす地方への遠征に同行することになったのだ。そして彼らは怪我を負いながら、一族が住む村で魔物の討伐をしてきてくれた。

 個人的にも彼らには感謝しかなかった。

 それに、「恩人になんてことを……っ」と何度も謝られて、怒りや虚しさの気持ちはなくなってしまった。胸のすく思いで、ヘルミーナは彼らの謝罪を受け入れた。

「お荷物令嬢」なだけではない自分をこうやって知ってもらえたら、周囲からの目も変わっていってくれるかもしれない。

「ミーナ嬢、宮殿に戻ろう」

「はい!」

 ミーナ、と呼ばれることが日常となり、少しずつ過去が遠ざかっていくのを感じる。婚約者に呼ばれた「ミーナ」という愛称が、特別ではなくなってきたのだ。

 だから、婚約者であるエーリッヒが、今も婚約解消を拒んでいると聞かされても、心が揺れ動くことはなかった。

 渡された手紙に、ずっと欲しかった言葉が綴られていても……。


◆◇◆◇◆


 ──僕の婚約者へ。この間はごめん。君が婚約解消に同意したと聞いて焦ってしまったんだ。どうしてあんな酷いことをしてしまったのか、君を傷つけるつもりはなかった。

 ──愛するミーナへ。まだ怒っているのか? だから返事をくれないのか? 僕には君しかいないんだ。ミーナだって僕しかいないだろ? もう一度会って話をしよう。僕の婚約者は君だけだ。

 ──ミーナ、もう僕を試すのはやめてくれ。早くいたい。1日でも君を考えない日はない。これまでのつぐないをさせてほしい。一緒に出掛けて、買い物や食事を楽しんで、君に似合いそうなアクセサリーを贈りたい。また昔のように楽しい時間を過ごそう。愛している、ミーナ。


 ……くしゃり。

 最後の手紙を読んだ瞬間、ヘルミーナはその手紙を握りつぶしていた。

 淑女しゅくじょとしてあるまじき振る舞いだが、咎める者は誰もいなかった。周囲は息を呑んで見守っていた。

「手紙は全て燃やしてください。私には必要ありません。──何を言われても私たちが元に戻ることはありませんから」

 2人を繋いでいた糸は完全に切れた。

 ヘルミーナが顎を持ち上げて己の意思を伝えると、前に座っていた王太子のルドルフは楽しげに笑い、彼の婚約者のアネッサは深く頷き、同じく招かれていたランスは「すぐにでも」と片手から火を出した。

 婚約者は知らないだろう。

 今のヘルミーナは、もう1人ではなかった。


 ルドルフが魔物を倒した翌日。ヘルミーナは、ランスと共に彼の執務室に呼ばれた。フィンに案内されて室内に入ると、ルドルフとアネッサが待っていた。

 何度も顔を合わせるうちに免疫がついたようだ。体が硬直することはなくなった。

 挨拶を済ませたあと、彼らと対面する形でソファーに腰を下ろす。横で立ったままのランスに半分譲ったが、丁重ていちょうにお断りされた。

「ヘルミーナ嬢の父上から手紙を預かってきたよ」

「父からですか……?」

 素早くお茶を用意してくれたフィンは、さらに銀のトレイに手紙を載せて運んできた。ざっと数えて20通はあるだろうか。あさひもに括られて束になっていた。

「正確には君宛てに届いた手紙を、こちらに送ってもらったんだ。送り主はアルムス子爵家のれいそくで、君の婚約者だね。まだかろうじてだけど」

「──……っ」

 君の婚約者、と言われてヘルミーナにぞわりと寒気が走った。無意識に両腕を引き寄せる。

 ヘルミーナが手紙に手を伸ばすこともせずにいると、ルドルフは続けて口を開いた。

「どうやら伯爵邸に幾度となくやってきては、君を出せとわめき散らしているようだ。私兵のおかげで、屋敷の中まで乗り込まれることはなかったようだけど。でも彼はまだ君を諦めていないらしい。君の父上は婚約が早く解消されることを望んでいるが、君たちは子供の頃に婚約した仲だ。家族も同然だろう。テイト伯爵も悩んだ末、この手紙を届けてきたようだ。君の心変わりをしてね」

 ルドルフは説明しながら、持っていた別の手紙をヘルミーナの前に差し出してきた。父親がルドルフに宛てた手紙だ。恐る恐る手紙を取って中の便箋に目を通すと、ルドルフが先程話した内容が書かれていた。

 捨てようとしたが、娘に判断を任せたいと書かれていた。父親から信頼されている気がして嬉しかった。おかげで、婚約者から送られた手紙がどんな内容でも恐れずに向き合えた。

 ヘルミーナはルドルフに断りを入れてから手紙を開封した。

 そういえば婚約者のエーリッヒから、個人的な手紙が送られてくるのは何年ぶりだろう。誰が書いているかも分からない、用件だけの手紙が送られてくることはあったけれど。

 子供の頃はよく手紙のやり取りをしていたのに、今は懐かしいとさえ思わなくなった。エーリッヒの成長していない文字を見ても。

 付け加えるなら、昨日初めて魔物を見た。魔物が討伐される瞬間を見学し、王太子のルドルフが目の前で跪いて誓いを立てた。全てが信じられないことの連続だった。

 だから、昨晩は興奮して眠れなかったのである。そう、徹夜明けだ。今朝出された料理さえ覚えていない。

 でも、昨日の興奮だけはまだ冷めていなかった。そこへ水を差すような手紙だ。握り潰したくもなる。

 夢心地から一気に現実へ引き戻された感覚に、ヘルミーナの目は完全に据わっていた。

「お手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした」

「君が謝ることではないよ」

「ええ、そうよ。貴女の婚約者が現実を受け入れられていないだけだわ」

 ランスによってちりとなった手紙を見守ったあと、ヘルミーナは深々と頭を下げた。

 手紙を燃やしたランスは「団長や副団長だったらこの部屋ごと吹き飛んでたかも~。オレでよかったよ」と、呟いた。思わず振り返ってランスを見ると、「今度会ったら確実に仕留めておくね」と良い笑顔を向けられた。2人が出会わないことを祈りたい。

「改めて、ヘルミーナ嬢は婚約者とやり直す気はない……ということでいいのかな?」

「婚約解消に同意した時から、私の中ではすでに終わっています。今後、どんなことがあっても戻るつもりはありません」

「ふむ、君の気持ちは分かった」

「心配いらないわ、ヘルミーナ。婚約の件は私たちに任せてちょうだい」

「ちょうど四大公爵を交えたパーティーがあるね。こちらから直接ウォルバート公爵に圧力をかけるのも悪くない」

 目の前で展開される権力者同士の会話に、自然と背筋が伸びる。ただ、自分のできることは何もない。

 ──今更だ。

 今頃になって、こんな手紙をもらっても嬉しくなかった。

 本心なのか、うわだけの言葉なのか。手紙には欲しかった言葉がいくつも並んでいた。少し前の自分だったら誤った判断をしていたかもしれない。

 でも、求めていた時期はとうに過ぎてしまった。この関係が修復することは、もうないのだ。


 ヘルミーナの婚約に関しては、進展があれば知らせてもらうことになった。

 それから、慌ただしい日々を送っているうちに、またエーリッヒのことは思い出さなくなっていた。

 休日は宮殿の中庭に出て花壇の様子を確認し、テラスでお茶を飲みながらメアリと談笑することしばし。手紙のことも忘れかけていた。

 そこに、フィンがやってきた。彼はヘルミーナの傍に来ると、1通の封筒を差し出してきた。一瞬、嫌な記憶が蘇る。だが、送り主は予想外の相手だった。

「ヘルミーナ様に招待状をお持ちしました」

「……どなた様からでしょう?」

「フレイア王妃様です」

 がたん、と音を立ててヘルミーナは椅子から立ち上がった。受け取ると、ふうろうにはいんがはっきり刻印されていた。

「おっ、おおお王妃様ですか!?

 招待状を持ったまま焦るヘルミーナは、神妙なおもちで「王妃様です」と頷くフィンを見て、絶対に逃げられないものだと唾を飲み込んだ。


 国王の寵愛ちょうあいを得て、はんりょとなった王妃。

 代々続く、王妃のために建てられたエルローズ宮殿に住まう。薔薇で美しく彩られた庭園も引き継がれることから、その宮殿は薔薇のはなぞのとも呼ばれていた。

 そして、長く受け継がれてきた庭園は、今も見事な薔薇を咲かせていた。

「光の神エルネス様のご加護がありますように。フレイア王妃様にご挨拶申し上げます。テイト伯爵家の長女、ヘルミーナ・テイトと申します」

「よく来てくれたわね、テイト伯爵令嬢」

 転移装置でエルローズ宮殿に移動すると、王妃の専属侍女がヘルミーナを出迎え、案内してくれた。護衛は連れてきていない。そういう約束だったからだ。

 1人だけ招待されたことに、不安を通り越して頭の中が真っ白だ。おかげで、向かう先々で人払いが済んでいることにも気づかなかった。

 緑色の髪をした侍女に「こちらでございます」と連れてこられたのは、薔薇の花園にあるガゼボだった。薔薇のアーチをくぐったところに、まるで秘密基地のようにぽつりと建てられたガゼボは白で統一され、洗練された美しさがあった。

 王妃の庭園は特別な客人しか通されないと聞く。例え国王でも、王妃の許可がなければ足を踏み入れることはできない。それほどプライベートな場所だった。

 ヘルミーナは、ガゼボに置かれたカウチソファーにゆったりと座る王妃を見つけて思わず足を止めてしまった。

 到着を待っていた王妃は、人族の薔薇園に迷い込んだ森の精霊が、束の間の休息を取る姿に見えた。

 しばし見惚れてしまうと、侍女が咳払いをして現実に引き戻してくれた。

 慌てて挨拶をすると、王妃は傍の椅子を勧めてくれた。声まで美しい。すっかり魅了されてしまったヘルミーナは、ふわふわした気分で椅子に座った。

 席に着くと、お茶やお菓子が運ばれてきた。その直後、侍女やメイドは風に溶け込むように消えてしまった。

「私の招待に応じてくれて感謝するわ。貴女のおかげで体がすっかり癒えたわ」

「お役に立てて嬉しく思います」

「ヘルミーナ、と呼んでもいいかしら?」

 自分の作った魔法薬が王妃の役に立ち、感謝されるだけでなく名前まで呼んでもらえることになり、ヘルミーナは歓喜で心が震えた。なんとか「は、はい! 是非お願い致しますっ」と返すことはできたが、暫くこの喜びに浸っていたかった。

 社交界では遠くから眺めることしかできなかった王妃が、触れられる距離にいる。夢じゃないかと頬をつねってみたかったが、緊張で体がガチガチになっていた。

「ふふ、そんなに緊張なさらないで?」

「───」

 無理です、と即答しかけた言葉を必死で呑み込む。口の中から水分がなくなっていた。メイドが淹れてくれたお茶を飲んでもいいだろうか。じっとカップに入った赤い液体を見つめていると、王妃がまた笑った。

「ローズティーよ、遠慮せずお飲みになって」

「い、いただきます……」

 震える手でカップを持ち、一口つけると、薔薇の香りが口の中に広がった。

 この飲み物にはリラックス効果があるのかもしれない。気分が和らぐと、ヘルミーナはようやく王妃に視線を向けることができた。

 ──フレイア王妃は全ての女性のあこがれだった。

 彼女は風属性の一族を束ねるセンブルク公爵家の長女で、見惚れるほどの美貌を褒める人も多いが、それだけではない。彼女が討伐してきた魔物の数は王国の騎士と肩を並べるほどだ。

 王妃は結婚する前、センブルク公爵家の私兵を率いて西の城壁に出向き、ラゴル侯爵家と協力して魔物の討伐を行っていた。風の民の血縁者でもある彼女の戦いぶりは、嵐のように激しいことで有名だった。魔物を見つければ容赦なく風の刃で切り裂いていく。恐れ知らずのせんとも言われていた。

 国王が伴侶に彼女を選んだのも頷ける。

 あさ色のドレス姿で一緒にお茶をたしなむ王妃からは想像もつかないが。ヘルミーナが「とても美味しいです」と返すと、王妃は黄緑色の目を細めてにっこり微笑んだ。とても魔物を切り刻んでしまう女性には見えない。

 お茶で一息ついたところで、王妃はカウチソファーに置いていた掌サイズの箱を取ってヘルミーナの前に差し出してきた。

「お口に合ってよかったわ。それから、これは私から貴女に個人的なお礼よ」

「これは……」

 渡された箱は青いジュエリーケースだった。触れるのも躊躇してしまう高級なケースに、伸ばしかけた手を一度は引っ込めたが、王妃の強い眼差しに負けて受け取ってしまった。

 そのまま手にしたケースを開くと、中には黄金の葉に緑色の宝石がついたブローチが入っていた。

「ブローチの形をした魔道具なの。魔法石に私の魔力を付与しているわ。ブローチの両脇を押して投げれば、屋敷ぐらい簡単に吹き飛ばせるわね」

「や、屋敷を……っ!?

 高価な魔法石に自身の魔力を付与して相手に渡すのは、最上級の信頼の証だ。

 地方によっては、娘であれば嫁ぐ時に渡し、息子なら成人した時に贈ると聞いたことがある。他にも親しい友人や恋人の間できずなを深めるために贈り合うものだが、ヘルミーナはまだもらったことがなかった。

 婚約者とは縁を切り、仲のよかった友達とはえんになり、親元から離れているヘルミーナにとって、予想外のプレゼントだった。

「私などがいただいてしまっても宜しいのでしょうか?」

「貴女のために作らせたのよ。もらってくれないと私が困ってしまうわ」

 そこまで言われてしまうと受け取らないわけにはいかない。ヘルミーナはお礼を言って、開いていたケースを優しく閉じた。

 これをつけて社交界のパーティーに行ったら、多くの令嬢たちに睨まれそうだ。

 それなのに、ヘルミーナは王妃から受け取ったブローチをつけてパーティーに参加してみたくなった。以前は人目を気にして目立たないように努めてきたのに、今はどんな酷い言葉を投げつけられても逃げ出さずにいられる気がした。皆のおかげで自信がついたのかもしれない。

 己の成長を感じていると、王妃は「気に入ってくれてよかったわ」と目を細めた。ヘルミーナは慌ててケースを仕舞い、まいを正した。

 そこから暫く沈黙が続いた。ヘルミーナから口を開くわけにもいかず、お茶を数回ほど口に運んだ。王妃もまたカップを持ち上げて口をつけた。けれど、先程までとは違い、妙に思い詰めた表情を浮かべている。何かあったのか訊ねたかったが、ヘルミーナはじっと待つことしかできなかった。

 すると、王妃は悩んだ末に訊ねてきた。

「そういえば貴女のご両親は、テイト伯爵夫妻でお間違いなくて?」

「は、はい……間違いありません……」

「お二人の間に産まれた子供という認識でいいかしら?」

「はい、それは絶対に間違いありません」

 これは何のじんもんだろうか。

 どんな時も堂々としていた王妃が、今は目も合わせようとしない。悪いことをしているわけではないのに、どちらも落ち着かなかった。

「貴女は母君に似ているのかしら?」

「いいえ、私は父に似ているとよく言われます」

「そう……。それじゃあ、貴女が陛下の隠し子というわけではないのね……?」

「ちっ、違います! いいえ、そんな! 王妃様が疑われることは何も!」

「……そうなのね。それを知って安心したわ」

 ──安心したのはこちらの方です。

 今のやり取りは一体どういうことだろうか。まさか国王の隠し子だと疑われていたのだろうか。王妃の、あまりに深刻な質問に、一瞬ありもしないことを考えそうになったが、自分の両親に限ってそんなことはない。それだけは自信を持って言える。

 ただ、あまりの出来事にお茶の味も忘れてしまいそうだ。

 どうしてそんな話になったのか。ヘルミーナは安堵の表情を浮かべる王妃に、作り笑顔を見せるのが精一杯だった。

 ヘルミーナの笑顔を見て、「誤解が解けてよかったわ」と王妃は喜んだ。寿命が縮んだ気がする。もし誤解が解けなかったら、今頃魔物のように切り刻まれていたかもしれない。

 ちなみに、この誤解の元凶げんきょうが王太子のルドルフにあると知った時は、膝から崩れ落ちた。

 わだかまりがなくなったことで、王妃は穏やかな口調で話しかけてきた。大半は王妃が質問してヘルミーナが答えるスタイルだったが、訊かれたのは家族や領地のことで、言葉に詰まることはなかった。

 しかし、ウォルバート一族が誇る水の都カレントの話になった時、王妃はやや表情を曇らせた。

「カレントには行ったことがあるわ。美しい港町で、他国との交易も盛んに行われているわね」

「はい! 大通りの市場はいつもにぎわっていて、朝早くみずげされた魚が並べられ、異国の衣類や装飾品が置かれています」

「随分、詳しいのね」

「父によく連れていっていただきました」

 子供の頃、カレントの港はヘルミーナの遊び場だった。多くの船乗りと仲良くなり、父がたずさわった貿易船や漁船などにも乗せてもらったことがある。

 海から吹いてくる潮風に当たりながら、貴族の娘ということも忘れて他愛ないことで盛り上がった。その瞬間がとても好きだった。

 社交界デビューしてからはすっかり遠のいてしまったけれど。ヘルミーナは懐かしむように口元を緩めた。

 だが、王妃は「そう……」と視線を落とした。

 余計なことまで喋りすぎてしまったかもしれない。ヘルミーナは「話しすぎてしまい、申し訳ありません」と頭を下げた。けれど、王妃は首を振った。

「違うのよ。むしろ貴女にはまた感謝しなければいけないわね」

「感謝、ですか……?」

「ええ。地方視察で負傷した騎士を治癒してくれたと聞いているわ。改めてお礼を言うわね」

 ありがとう、と口にする王妃に、ヘルミーナは両手を振った。

 最初は神聖魔法の訓練のために出入りするようになった騎士団だが、今ではすっかり自分の仕事場になりつつある。そのせいか、改まってお礼を言われると不思議な気分だ。それも国の母である王妃から。

 ヘルミーナはむずがゆくなって赤く染まる顔を下げた。

「……けれど、カレントには今も一緒に戦ってくれた騎士が留まっているわ。私の力が及ばず怪我をさせてしまった者たちが」

「決して王妃様のせいでは……っ」

「いいえ、指揮を執っていた私には責任がある。残った者は二度と騎士に復帰できない子たちばかりよ。騎士にとってそれは死にも等しいこと。だから、どうしても貴女の力が必要なの……。ヘルミーナの負担になることは分かっているわ。でも、他の騎士たちと同じく彼らにもを与えてほしいの」

 騎士団に入り浸っているヘルミーナは、王妃の言葉の意味がよく分かった。

 騎士であることを誇りに生きてきた者たちが、騎士にとって致命的な怪我を負ったことで剣が振るえなくなり、騎士団を去っていく。──彼らは、魔物から民を守ってくれたのに。仕方ないことだと言われても、納得できなかった。

 だからこそ頼まれなくても、ヘルミーナはカレントに残る騎士も含め、負傷した騎士たちを治癒しようと決めていた。

 けれど、ヘルミーナが答えるより先に、「可能な限りお礼はするわ。貴女が望むものはなんでも」と、王妃が言ってきた。せっ詰まった様子で言う王妃に、今日ここへ招待された理由が分かった。自身の立場も忘れて1人の貴族令嬢にこんがんする姿など、決して見られてはいけない。

「心配いりません、王妃様。私はこの力を王国のために使うと決めています。騎士の方々を治癒することで多くの民が救われるなら、私はいつでも力を振るいます」

 それが光の神エルネスの意思であると思っている。

 敢えて魔力の少ないヘルミーナに光の属性を与えた理由は分からないが、限られた魔力だからこそ使い方を誤ってはいけないのだ。

 今度は強い眼差しで見つめると、王妃はふわりと笑った。

「ありがとう、ヘルミーナ。貴女は本当に素直で、いいお嬢様ね。──他人を疑うことをしない、良くも悪くも欲のない人間だわ」

 王妃の口調が冷たくなった瞬間、風もないのに周囲の薔薇や草木が揺れた。背筋にぞわりと寒気が走ったのは、足元に流れてくる冷気のせいだろうか。

 笑顔を浮かべつつ目だけは鋭い王妃を見て、ヘルミーナは冷や汗を滲ませた。

「王妃、様……?」

「貴女はその優しさから、騎士でなくても目の前で怪我をしている人がいれば放ってはおけない性格なのでしょうね。でも、貴女がその能力を使えば使うほど、自分の身を危険に晒しているのは分かっていて?」

 ここに来てから、能力を使うたびに感謝されることはあっても、叱られたことはなかった。ヘルミーナはなんと返したらいいか分からず戸惑った。

 一方、王妃は自ら作った和やかな雰囲気を一変させ、厳しい表情でヘルミーナを見つめてきた。

「貴女は王国の騎士団だけではなく、国王陛下や王太子までも味方につけてしまったわ。貴族の中でも伯爵令嬢に過ぎない貴女の後ろに、それだけの人がついてしまったの。それがどういうことか理解できるかしら?」

「……それは」

「貴女がもし唯一の光属性であることを公表し、教会や民の心まで奪ってしまえば王国さえ手に入れられるかもしれないわね」

「お待ちください! 私は決してそのようなことは……っ」

 一瞬、魔法を教えてくれている宰相、モリスの言葉が浮かんできた。

 この王国が欲しくはないか、と。ただの冗談だと思っていたのに、ヘルミーナが味方につけてしまった顔ぶれに、王妃は疑っているのだ。

 もちろん、そんな考えはない。王国を乗っ取るなんて恐ろしいことだ。王妃の言う通り、自分は地方の伯爵家に生まれた娘に過ぎないのだ。

 ヘルミーナは唇を噛み、返答の言葉を模索した。しかし、困惑するヘルミーナへ追い打ちをかけるように、王妃はさらに続けた。

「あら、考えすぎということはないと思うわ。四大公爵の誰かと手を組んだらほんだって起こせるわね。だって貴女の神聖魔法があれば死ぬことのない無敵の軍隊ができるのだから。それにヘルミーナの光属性は、王族が無効化できない属性ですもの」

「───っ」

「ヘルミーナ自身がそれを望まなくても、上の者に命じられれば逆らえないはずよ。今は存在を隠されているから、貴女を利用しようとする者がいないだけ。でも、この力はそう隠し通せるものではないわ。そうなった時、貴女の今の立場だけではどうすることもできないでしょうね。当然、貴女が大切にしている家族にも危害が及ぶわ」

 王妃の話は決してそらごとではなかった。ヘルミーナが考えてこなかっただけで。否、考えようとしなかった。この光属性は人を助けるだけだと思っていたから。

 いずれ光属性の能力は世間に知れ渡るだろう。多くの人々を救うためには存在を示さなければいけない。その時、今と変わらず平和な場所に立っていられるだろうか。こんな自分でも愛してくれている家族を、守りきれるだろうか。

 やっと婚約者のじゅばくから離れて自分の道を歩こうと決めたのに、また誰かに従って生きなければいけなくなったら……。

 ヘルミーナは震え出す体を抱きしめた。

 開花した能力がどれほど貴重で、偉大で、恐ろしいものなのかを知った気がする。

「いつまでもルドルフが守ってくれるとは限らないわ。……だから、貴女にもある程度の権力は必要だと思うの。四大公爵が好き勝手にできない、私たちの手が届く場所に身を置いたら安心するのではなくて?」

「───」

「貴女を迎え入れる準備はいつでもできているわ」

 すると、王妃は柔らかく笑い、白い手を差し出してきた。

 考える間も与えられず精神的に追い詰められたヘルミーナは、もはや王妃しか見えていなかった。この人についていけば大丈夫というさっかくに陥っていた。王妃の本心も、望みも、何も知らないというのに。

 ヘルミーナは持ち上げた右手を、ゆっくり王妃に伸ばした。

 しかし、指先が王妃の手に触れる直前、後方が騒がしくなった。「困ります、すぐにお戻りください!」と女性の声がしたと思った瞬間、その声が掻き消されるほどの突風が吹いた。

 ヘルミーナは反射的に振り返り、足音もなく近づいてくる人物を見て目を開いた。

 王国騎士団の紋章が入ったマントを揺らし、しんの団服に身を包んだ騎士が歩いてくる。薄緑色の髪に、青がかった緑の目をした騎士だった。

「貴方を呼んだ覚えはないのだけれど──マティアス」

「無礼をお許しください、王妃様。ヘルミーナ様がこちらにいらっしゃると伺い、お迎えに上がりました」

 国王ですら王妃の許可がなければ立ち入れない庭園に、第一騎士団団長のマティアスが姿を見せた。

 王族からすれば一介の騎士に過ぎない彼が、王妃のプライベートな空間に許可なく足を踏み入れていいはずがない。この場で首をねられてもおかしくない状況に、ヘルミーナは血の気が引いた。彼が自分のために来てくれたからこそ、焦りと不安で胃がひっくり返りそうだ。

「ルドルフの指示ね。陛下に頼むでもなく、自分で来るわけでもなく、よりによって貴方を送り込んでくるなんて」

「恐れ知らずの戦姫をしっかり見張っておくようにと、私の父からも言われておりますので」

 そんなヘルミーナを他所に、王妃は落ち着いた口調でマティアスに話しかけた。言葉に、薔薇よりも鋭い棘を感じたが、それでもマティアスは淡々とした様子で言い返した。

 彼らは同じセンブルク一族だ。センブルク公爵家と風の民であるラゴル侯爵家は密接な関係にある。いずれラゴル領主となるマティアスと、センブルク公爵家の長女であった王妃だけに、2人は長い付き合いなのかもしれない。

「……私ではなく平民の娘を迎えておいて心配だけはしてくるなんて、今更だと思わない?」

「私には分かりかねますが、西の城壁は常に人手不足ですから」

「嫌な言い方ね。ラゴルの者たちはどうしてそう……もういいわ。ヘルミーナを今すぐ帰さなかったら、受け継いできた薔薇の花園が私の代で終わってしまうわね。マティアス、ヘルミーナを彼女の宮殿まで送ってあげなさい」

 2人が口を開くたびに周囲の草木が激しく揺れる。しかし、意外にも先に折れたのは王妃だった。

 ひらりと手を振ってきた王妃に、マティアスは「寛大なお心に感謝致します」と丁寧に頭を下げた。王妃は呆れた顔をしていたが、言ったことをくつがえすことはなかった。

 ガクガクと震えるヘルミーナの前にマティアスの手が差し出された。ヘルミーナは彼の手を取り、なんとか立ち上がることができた。

「フレイア王妃様、本日はご招待くださりありがとうございました」

「ええ、また会いましょうね」

 片方のスカートを広げて軽く膝を折り、挨拶を済ませたヘルミーナは、マティアスと共に薔薇の花園をあとにした。

 幻想的な庭園から宮殿に入った瞬間、足の力が抜けた。ふらりと傾くヘルミーナに、マティアスが体を支えてくれた。

「ヘルミーナ様、大丈夫ですか?」

「……はい、迎えに来てくださってありがとうございます」

 現実に戻ってこられて安心してしまったようだ。それでも王妃に言われた言葉は、ヘルミーナの胸にしっかり刻まれている。

 顔色を悪くするヘルミーナに、マティアスは眉根を寄せた。

「私がもう少し早く迎えに行って差し上げれば。何か酷いことを言われませんでしたか?」

「いいえ、王妃様は……私のことを気遣ってくださいました。厳しい言葉もありましたが、とても役に立つお話をしてくださって……」

 もし、本当にヘルミーナを使って謀反が起きた時、騎士団はどうするだろう。今は仲良くしてくれているが、彼らはきっと王族と王城を守るはずだ。

 でも彼らには傷を癒す術がない。傷ついて次々に倒れていく彼らを眺めながら、自分は味方の軍隊を治癒することができるだろうか。

「ヘルミーナ様?」

「いいえ、なんでもありません。……来てくださって、本当にありがとうございます」

 そんなことは絶対にあってはならない。

 ヘルミーナはマティアスの団服を強く握りしめた。

 彼らを裏切るような真似は決してしない。「お荷物令嬢」と呼ばれるようになってから、初めて自分の居場所だと思える場所を見つけたのだから。


◆◇◆◇◆


 王都内にある孤児院のもんから戻ってきたルドルフは、そのまま執務室に向かった。

 絶えず笑顔で振る舞っていたせいか、表情筋が固まってしまっている。ルドルフはソファーに腰掛け、口角を下げるように口元を撫でた。

 孤児院では孤児が増えていた。町や村が魔物に襲われて、両親を失った子供たちが年々増加している。地方の孤児院も定員を超え始めていた。

 そこで孤児院に足を運び、増築などの提案も含めて相談してきたが、王都で増築できそうな孤児院はなく、費用や人員の確保などの問題も山積みだった。

 ルドルフは白金色の前髪を掻き上げて、ふーっと息をついた。

 魔物の被害が日に日に深刻化してきた。多くの者たちが魔物の脅威に晒されている。

 ──奇跡の魔法があれば、多くの者たちを救うことができるだろう。孤児になる子供をこれ以上増やさないで済むかもしれない。今は隠されているが、彼女の力があれば直面している問題を解消できる。

 それだけに、民を救わなければいけない己が、その恩恵を受けてしまったことに罪悪感を覚えていた。過去の屈辱が払拭ふっしょくされ、新しい希望を与えられた。国王もまたその奇跡に救われている。

 光属性という奇跡を宿したヘルミーナによって。

 だからこそ、彼女の扱いには悩みが尽きない。ヘルミーナがもっとこうかつで、損得を考えながら動く人物だったら簡単だった。取引を持ちかければ済む話だ。

 けれど、彼女は実直で真面目すぎる。婚約者にもいいように使われてしまったのは、そのせいだろう。ヘルミーナは他人を気遣い、自己犠牲をいとわない女性だった。

 怪我人のために神聖魔法を使ってほしいと言えば、命令でなくてもヘルミーナは治癒を施すだろう。目に見えて分かる結果に、ルドルフは苦笑を浮かべた。

 その時、侍従のフィンが銀のトレイにお茶を載せて運んできた。普段はメイドの仕事だが、何かのついでに持ってきてくれることもある。ただ、近頃は仕事に忙殺されてそれもなくなっていた。

「フィンがお茶を運んでくるなんて久しぶり……」

 顔を上げてフィンに視線をやったルドルフは──しかし、カップから漂ってくるお茶の香りに表情を険しくした。

 テーブルに置かれたそれは、ルドルフが好んで飲むお茶ではなかった。カップに注がれた赤いローズティーを見て、ルドルフは嫌な予感がした。

「母上の身に、何かあったのかい?」

「……とあるご令嬢を、薔薇の庭園へ招かれました」

 ルドルフが訊ねると、フィンは顔を強張らせた。

 いくら家族であっても、王族となればお互い多忙な身。個々のスケジュールを把握しているわけではない。だが、王妃が薔薇の花園に人を招待した時は、必ず国王やルドルフに伝わることになっていた。

 宮殿の警備体制は厳重だが、エルローズ宮殿の庭園だけは、王妃の許可がない限り誰も立ち入ることができないからだ。

 つまり報告を受けなければ、王妃が誰を招き、誰と顔を合わせているかを知らないままだ。

 ルドルフは椅子から立ち上がり、顔色を悪くするフィンに近づいた。

「……まさか、母上はヘルミーナ嬢を?」

「招待、は……本日……っ」

 フィンは言葉を詰まらせながら答えた。直後、胸元を押さえて突然苦しみ出した。銀のトレイが床に落ちて乾いた音を立てる。

 ルドルフは倒れ込むフィンを受け止めたが、彼は激しく咳き込んで血を吐いた。その症状には嫌でも覚えがあった。

「母上はお前に『契示の書』まで使ったのか!?

「申し訳、ありません……殿下……っ」

「もういい、喋るな!」

 黙るように指示しても痛みを堪えて口を開こうとするフィンに、ルドルフは「──誰かいないかっ!」と声を張り上げた。

 魔法契約によって秘密が漏れることを防ぐ『契示の書』を結ぶと、契約上の秘密を他人に漏らそうとすると、体内の臓器という臓器が締めつけられる苦痛を味わう。最悪の場合は死に至るため、取り扱いには細心の注意が必要だ。

 王室には漏れてはいけない秘密が多いため、ルドルフにも『契示の書』は身近なものだった。魔法契約によって命を失った者たちも見てきた。契約自体は簡単だが、交わした約束は必ず守らなければいけない。

 ルドルフの声を聞きつけて、廊下にいた兵士が駆け込んできた。偶然近くにいたメイドが、開かれた扉からルドルフたちを見て短い悲鳴を上げた。

「すぐに王宮医を!」

 兵士はルドルフと共にフィンをソファーへ運び、メイドは真っ青になりながら王宮医の元へ駆けていった。


 騒々しさが静まって、窓辺に夕日が差し込み始めた頃。

 王宮内の医務室に、専属侍女と護衛を連れた王妃が訪れた。甥が倒れたという報告があったからだ。個室へ案内されると、王妃は侍女たちに外で待っているように指示した。

 中へ入るとフィンが息苦しそうにして眠っていた。王妃はベッドに近づき、表情を変えることなく彼を見下ろした。

「……母上、フィンに『契示の書』まで使う必要があったのでしょうか?」

 ベッドを挟んだ反対側の椅子に、息子のルドルフが神妙な面持ちで座っていた。

 王妃が来ることはあらかじめ知っていたようだ。

「王太子ともあろう者がこのようなことで狼狽うろたえてはいけないわ。それに、この子の忠誠がどちらにあるか分かっただけでも、よかったのではなくて?」

「母上! フィンは貴女の甥であり、私の侍従です!」

 俯いていた顔を持ち上げて、ルドルフは王妃を見つめた。

 誰よりも魔力があり、最も傍で国王を守る剣のような王妃は、息子の目から見て羨ましく、憧れでもあった。

 けれど、今回の王妃の行動には目に余るものがある。

「ええ、分かっているわ。だからこうして彼女が献上してくれた魔法水を持ってきたのよ」

「……っ、母上!」

「声を荒げないでちょうだい。フィンが起きてしまうでしょう?」

「ヘルミーナ嬢を薔薇の花園に招いたそうですね。母上は彼女をどうするおつもりですか?」

「どうも考えていないわ。ただお礼をしたかっただけよ」

 青い小瓶を差し出してきた王妃に、ルドルフは顔を顰めた。なかなか受け取ろうとしない息子に嘆息した王妃は、小瓶をフィンの枕元に置いた。

 確かに、ヘルミーナの作った魔法水があれば、フィンの症状は瞬く間に癒えるだろう。だからといって、何もなかったことにはできない。

 ルドルフは膝の上で両手を組み、王妃に鋭い視線を向けた。

「……私の伴侶を、ヘルミーナ嬢に取り替えようと考えたのではありませんか? 母上はセンブルク公爵家に生まれながら、四大公爵を快く思っていませんでした。当然、私とレイブロン公爵家の娘であるアネッサとの婚約にも否定的だったはずです。それとも、ヘルミーナ嬢を利用して、ラゴル侯爵家を真の王族に押し上げるおつもりですか?」

 どこの国にも欲にまみれたごうの深い人間はいる。権力者たちが集まる王城内では、常に互いが牽制し合っていた。

 皮肉なことに、魔物という共通の敵によって均衡が保たれているが、それもいつまでつか分からない。両親の仲を疑ったことはないが、人の心ほど読めないものはなかった。

「──馬鹿ね。王妃である私がそんな愚かなことを考えるとでも? 王都の外では魔物が活発化し、多くの者たちが犠牲になっているわ。このように守られている場所で争っている場合ではないのよ、ルドルフ」

 中でも、母親でもある王妃は掴みどころがなかった。

 ラゴル侯爵の婚約者候補だった彼女は、西の城壁を離れた今は国王の妻で、王太子の母だ。しかし、王妃は夫や子供にも本心をさらけ出そうとはしなかった。

 ルドルフは息をつき、椅子から立ち上がった。

「どうか、これ以上勝手なことはなさらないでください。次は西の城壁からラゴル侯爵をお呼びすることになります。それだけは私も避けたいですから」

「私の息子も随分な性格になったわね」

「ええ、貴女の息子ですから……」

 王妃はルドルフの言葉に口元を緩めると、すぐにきびすを返して部屋から出ていった。王妃がいた場所から、微かに花の香りが漂ってくる。

 出ていく王妃を見送ったルドルフはベッドに戻った。王妃の置いていった青い小瓶を手に取る。

「起きているなら声ぐらいかけたらどうかな?」

「……親子の会話を邪魔してはいけないと思いまして」

「元気そうでよかったよ。母上が持ってきた魔法水を飲むかい?」

 目を開いたフィンは、視線だけを動かしてルドルフを見た。声を出すと、内臓の至るところが締めつけられるように痛んだ。

 ルドルフはフィンの傍に近づき、彼の上体を支えて小瓶に入っていた魔法水を飲ませた。キラキラと光る液体は紛れもなくヘルミーナの作った奇跡の水だ。

 フィンは魔法水を飲み、不思議な力が体内に行き渡るのを感じた。それから数分もしないうちに、フィンの体は見事に完治していた。

「これが神聖魔法で作った癒やしの水ですか」

「どこか痛いところはあるかい?」

「いいえ、全く……。それどころか以前より調子がよくなった気がします」

 息をするのも辛かったフィンは自力で上体を起こし、両手を握っては開いてを繰り返して、体に異常がないか確認した。

「ヘルミーナ様はいかがされましたか?」

「それはマティアス卿にお願いしたよ。母上もラゴルの者には手を出せないからね」

 王妃を相手に、適任者は他にいなかった。ラゴル侯爵家の者を近づけたくはなかったが、今回ばかりは仕方ない。

 マティアスの名を出すとフィンは目を輝かせた。どうもセンブルク一族は、風の民をすうはいしているふしがある。ただ、ラゴル侯爵家は未だかつて政界に足を踏み入れたことがなく、忠実な臣下として西の城壁を魔物から守り続けていた。

 これからもそうであってほしいが、ラゴル侯爵家に限らず、常に目を光らせておくのが王族の役目だ。

「王妃様は本当に先程のことをお考えに?」

「うーん……どうかな。違うとは言いきれないけど、どちらにも反応しなかったからね。意外と母上も、私と同じものを守ろうとしているのかもしれないね」

「とにかく心臓に悪いので、二度と王妃様に対してあのような会話はお控えください」

「フィンはどちらの味方かな?」

 ベッドから下りようとするフィンに、ルドルフは手を差し出した。

 対等ではないが、彼ほど頼れる臣下はいない。王妃の言葉は気に入らないが、今回の事件ではフィンへの信頼度が増した。

「それはもちろん、ルドルフ殿下の侍従である以上、私の主人は貴方だけです。過労死することになってもうらみはしません──」

 フィンは口の端を持ち上げ、ルドルフの手を掴んで強く握りしめた。

 後日、王太子の侍従が過労で倒れて血を吐いたという噂が城内を巡り、ルドルフは小さな批判を受けることになった。噂の出所は不明だった。


◆◇◆◇◆


『いつまでもルドルフが守ってくれるとは限らないわ。……だから、貴女にもある程度の権力は必要だと思うの』

 薔薇の花園に招待されてから数日、ヘルミーナは上の空だった。

 ぼんやりと考え事をしてはお茶を零し、花壇に神聖魔法を使っては蔦が育ちすぎ、庭師がおのを持ってくるになった。他にも壁に衝突しそうになって、護衛の騎士たちを慌てさせた。

 ついには強制的に休まされ、一日中テラスの椅子に座って空を見上げていたが、自分なりの答えは出てこなかった。

 光属性で多くの者たちを救うには、今の立場ではいけないのだろうか。本当にあのような恐ろしいことが起きてしまうのだろうか。

 魔物に一度も遭遇したことのない穏やかな環境で育ってきたヘルミーナには分からなかった。

 ──ここに来てから、初めて知ることばかりだわ。

 貴族令嬢が気にするのは身嗜みだしなみや結婚のこと。そこに魔物という危険はなかった。子供の頃はおてんな性格で周囲を困らせたこともあったけれど。

 貴族ならお金で兵士を育成することも、冒険者ギルドに討伐や護衛を依頼することもできる。それが育ってきた環境だった。

 けれど王宮に来てから、自分がどれだけ狭い場所で過ごしてきたのかを思い知らされた。

「カレント、か。みんな元気かな……」

 活気溢れる港から見える青い海や、仲のよかった船乗りたちを思い出して、ヘルミーナは顔をくしゃりと歪めた。

 婚約者ができる前から、そこはヘルミーナにとって楽しい思い出が詰まった場所だった。

 社交界デビューして「お荷物令嬢」と呼ばれるようになってから、なんとなく行くのを避けてきたが、今になって無性むしょうに恋しくなってしまった。

 カレントに行けば、この抱えている気持ちもすっきりするかもしれない。それに、王妃からも負傷した騎士について頼まれている。

 そう思ってカレント行きを考えていた時、ルドルフとフィンが訪ねてきた。

「──母上の非礼を謝りたい。あまりよくないことを言われたはずだ」

 すまなかった、と謝罪してきたルドルフは、珍しく疲れきっていた。いつもの余裕はどこへ行ってしまったのか。今なら自分でも勝てそうな気がする。ただし、それはヘルミーナの状態もよければの話だ。

 お互いに、愛想笑いもできないほど精神的にへいしていた。

「申し訳ありませんでした、ヘルミーナ様。王妃様に口止めされていたため、貴女を1人で行かせることになってしまい……」

「フィンは魔法契約まで結ばされていたんだ。それなのに私に知らせてくれたおかげで、マティアス卿を迎えに行かせることができた」

「まさか『契示の書』を……!?

 人払いを済ませたサロンで、ヘルミーナはルドルフたちと丸いテーブルを囲んでいた。

 声を落として話す必要はないのに、魔法契約を結ばされていたと知って、ヘルミーナはフィンに小声で訊ねた。フィンは笑って誤魔化そうとしたが、元気のない表情だった。

「ヘルミーナ様が献上してくださった魔法水のおかげで助かりました」

「そんな……っ、契約を破ってまでフィンさんが傷つく必要は……っ!」

「フィンは私の侍従として当然のことをしたんだよ。王宮にいる間、君の後見人は私だ。だから、自分などのためにという考えはやめてほしい」

「──……はい、申し訳ありません」

 それでも自分のせいで誰かが傷つくことは、気分のいいものではなかった。魔法水のおかげで無事だったとはいえ、フィンは契約に逆らって罰を受けたのだ。こんなことなら招待に応じなければよかった。しかし、王妃の招待を断ることなどできただろうか。

 背中を丸めてどんどん小さくなっていくヘルミーナに、ルドルフは咳払いをした。

「ひとまず、王妃から何を言われたか教えてもらっていいかな?」

 王妃がヘルミーナを招待したことは、ルドルフにとっても予想外の出来事だったようだ。

 訊ねられてどこまで答えたらいいか悩んだが、口止めされなかったことを思い出す。王妃は最初からルドルフに伝わるのを見越していたのかもしれない。

 ヘルミーナは俯いたまま、王妃に言われた言葉をそのままルドルフたちに伝えた。

「──なかなか手厳しいことを」

 ルドルフは額を押さえ、フィンは厳しい表情を浮かべた。

 そんなことはあり得ない、と笑い飛ばしてくれたら安心もできたのに。

 しかし、彼らは否定しなかった。王妃の話がただの空想ではなく、現実に起こる可能性があることを察した。

 空気が重くなると、ヘルミーナはドレスを握りしめて、ぽつり、ぽつりと話した。

「私は……光属性が使えるようになったからといって、爵位が欲しいだとか、報酬が欲しいだとか考えたことはありません。ただ、王国の役に立てればと思っていました。……けれど、最初に王宮へ来て騎士団の事故があった時、レイブロン公爵から無償むしょうで治癒を提供すれば、それだけの能力になってしまうと言われました」

 光属性の魔法が使えると分かった時、救われたのはヘルミーナ自身だった。

 全てから目を背けて進む道も見失いかけていたところに、光の神エルネスの「祝福」を受けた。そのおかげで様々な人たちと出会い、ヘルミーナは「お荷物令嬢」だった過去から抜け出しつつあった。

 最初は周囲に認められたいという欲もあったが、治癒を施すうちに心境が変化していった。この覚醒した能力で、もっと多くの民を救いたいと思った。王国を守った聖女のように。

「そうだね。身分に関係なく、何かを行うには必ず対価が必要になってくる。騎士団だって給金があり、魔物討伐の遠征に行けば特別手当が支払われるようになっている。教会の活動資金も大半は貴族からの寄付金でまかなっているしね」

「はい……。ですが、この神聖魔法が薬も買えない民まで行き渡るためには、対価を求めてはいけないと思っていました」

「確かに対価を設ければ、当然金銭的に余裕のある貴族が君の能力を独占してしまうだろう。それに君はまだウォルバート一族の人間だ。その能力が明るみに出れば、ウォルバート公爵家は君を手放さないはずだし、そうなると王室や他の一族との間でさつが生じてしまう」

「……争いや、反逆が起きてしまうということでしょうか?」

「王妃の話が全て正しいわけではないが、君の所有を巡って混乱が起こるのは確かだね」

 貴族令嬢たった1人の存在で、国が荒れてしまうことを考えてゾッとした。その中心に自分がいると思うとさらに恐ろしくなる。

 聖女はどこにも属さない教会の人間だったからこそ、争いが起きずに済んだのだ。だが、教会に行くには、多くのものを捨てなければならない。俗世を離れて光の神エルネスに仕える者として。

 果たしてそれが正しい道なのか分からない。昔の自分なら、後先考えず動いていたかもしれないが、随分と落ち着いたものだ。誤った選択をしてしまうほど愚かになったわけではない。

「私は、私の覚醒した能力で争い事が起こるのを望みません」

 なぜ自分だったんだろう、という悩みは尽きない。けれど、人々を争わせるために光属性の魔法を与えられたのではないことだけは分かる。

 ヘルミーナが自らの意思を伝えると、「それは私もだよ」とルドルフは同意してくれた。

「王宮に呼んだ時から、君の待遇について考えていたんだ。四大公爵や教会が簡単に手を出せない地位を用意してはどうかと、国王にも進言しているところだ。ただ、光属性の魔力が覚醒したのは突然だったし、婚約者のことも片付いてないからね。だから、君がまず自分の変化に慣れてからと思って、話すのを控えていた」

 ルドルフは、思っていた以上に気遣ってくれていたんだと改めて理解した。わるで腹黒いだけではなかった。

 ヘルミーナがお礼を口にすると、「思っていることが全部顔に出ているよ?」と、満面の笑みで指摘された。

「君がその魔法で民を救いたいと望むなら、いずれ国民に君の存在を知らせる必要がある。だが、今はまだその時ではない。そこで私からの提案だけど、いっそ様々な場所で、君の作った魔法水や魔法石の治癒を施してみるのはどうかなと考えたんだ」

 光属性を宿した者が、治癒を施しながら国中を回っているという噂を流すのが、ルドルフの提案だった。

 魔法水や魔法石を使うなら、ヘルミーナが直接赴かなくても怪我や病気を癒せる。つまり効果を知っている者なら誰でも治癒ができ、人物の特定を防げるというわけだ。

 その方法なら、身分に関係なく民を癒やせるし、正体がバレるまでの時間を稼げる。正体が暴かれるまでに婚約や立場の問題を解決する必要はあるが、ゆうが生まれることにヘルミーナは胸を撫で下ろした。

「光属性が使える人物の噂を広める方法は、私も賛成です」

 先程までと違い、ヘルミーナは明るい表情でルドルフの提案に応じた。それから思い出したように、続けて口を開いた。

「実は王妃様から、カレントに留まっている騎士の方々の治癒を頼まれました。それで、私も一緒に同行させてもらえないかとお願いするつもりでした。他にも魔物の被害にった町や村などで、治癒をさせていただけないかと思うのですが」

「悪くないと思います。ヘルミーナ様が直接治癒を行えば、噂の信憑性も増すでしょう」

 緊張しながらお願いしてみると、ヘルミーナの同行はあっさり認められた。当然、素性を隠して名乗ることはできないが、神聖魔法を必要とする人のことを考えると胸が熱くなった。

 ただ、ひとつ気がかりなのは、ヘルミーナと行動を共にする騎士団のことだ。ルドルフは自ら説明すると言ってくれたが、ヘルミーナも会議に同席させてもらうことになった。

「レイブロン公爵には申し訳なくなってくるね。気の長い人ではないのに、よく耐えてくれているよ。彼のあとを引き継ぐカイザーもならってほしいぐらいだ」

「それは難しいと思いますよ」

 目の前で何気なく話す2人に対し、ここは下手に口を出してはいけない気がして、ヘルミーナは聞かなかったふりをした。


 ──今日ほど面倒な会議はない。

 王国騎士団総長のレイブロン公爵は、会議が始まる前からそんなを漏らしていた。

 火属性の一族を束ねる長だけに、参加した会議は数知れない。だが、今日の会議に向かうレイブロン公爵の足取りは重かった。

 騎士団内で特別会議を開き、各団長と副団長を招集して指令を伝える簡単な内容だ。他の一族の長がいるわけでもなければ、レイブロン公爵家の地位をたんたんと狙う厄介者が参加するわけでもない。

 しかし、王太子のルドルフと、光属性を宿した彼女が同席することで会議は荒れるだろう。

 それも収拾がつかないほど、面倒臭い方向に。

「──皆も知っていると思うが、ウォルバート領地にある水の都カレントで、怪我を負った我々の仲間が治療を受けている。全員意識はあり、回復傾向だという。そこで騎士団をけんし、彼らを連れ帰ることが決まった」

 長机ながづくえに着いた騎士たちの視線が1カ所に集まっていた。

 話しているレイブロン公爵──ではなく、その隣に小さくなって座っている水色の髪をした女性だ。ヘルミーナである。彼女は、場違いな会議に参加してしまったことを悔いているように見えた。なるべく目立たないように背中を丸めているが、横で堂々と座っているルドルフよりかなり目立っていた。

「だが、騎士団は負傷者だけ連れ帰るわけにもいかない。ウォルバート領とラスカーナ領の谷の境で、魔物の目撃情報があった。カレントからもそう遠くない。そこで我が騎士団は、負傷者を回収し、谷へ赴いて魔物の討伐も行うことになった」

 負傷者の回収も、魔物の討伐も、騎士団には当たり前の仕事だ。

 それならなぜ、騎士ではない2人がこの場にいるのか。騎士たちの視線がどうしてもヘルミーナたちに集中してしまうのは仕方のないことだった。騎士たちの会議に部外者が入ったことは、今まで一度もないのだ。

 レイブロン公爵は咳払いをひとつすると、ヘルミーナに視線を向けて口を開いた。

「そして今回、派遣する騎士団に、ヘルミーナ嬢も同行することになった」

 レイブロン公爵が発表すると、室内はざわついた。声は出さずとも、目を見開いて驚いている者もいる。予想通りの反応だった。ただ1人を除いて。

「え、ミーナちゃんも騎士団に同行すんの? じゃあ俺も護衛として一緒についていくよ! このランス様がいれば何も心配いらないからね」

 団長と副団長が招集された会議に、なぜかヘルミーナの護衛としてちゃっかり参加していたランスが、周囲の空気を読まずに口走っていた。これが余計だった。

 顔を寄せて話しかけてきたランスに、「ランスも来てくれたら心強いです」とヘルミーナが小声で返すと、皆の耳にしっかり届いていた。

「父……ではなく、アルバン総長! 私も護衛騎士としてミーナ嬢に同行します!」

「いいえ、護衛騎士は不要です! 負傷したのは第二騎士団です。当然、第二騎士団が負傷者を迎えに行くべきです!」

「第二騎士団では力不足だ。ここは我々第一騎士団こそ派遣されるべきだ」

 カイザーが椅子から立ち上がってえれば、騎士たちが次々に立ち上がって、自分こそが行くべきだと主張し始めた。

 それは暫く続き、困惑したヘルミーナは、ルドルフとレイブロン公爵の顔色を窺った。ルドルフは笑いを堪えていたが、レイブロン公爵はこうなることを予想していたのか、深い溜め息をついていた。

「……とりあえず全員座れ。派遣する騎士はこれから決める」

「ですが、魔物の討伐にも連れていくというなら、ミーナ嬢の安全を考慮して第一騎士団こそ向かわせるべきです!」

「ウォルバート領に行くのですから、地形に詳しく水属性の多い第二騎士団こそ適任です!」

「第三騎士団だってミーナさんに傷ひとつ負わせるようなことはしません!」

「第四騎士団もです!」

 ヘルミーナと一緒に行きたいから、とストレートに申し出る者はいなかったが、彼らの気持ちは嫌でも伝わってくる。レイブロン公爵は額を押さえた。

 普段は命じられたまま、淡々と仕事をこなす騎士たちが、まるで子供のように言い争って任務の奪い合いをしているのだ。

「分かった……分かったから、落ち着け」

 面倒臭いことこの上ない。

 決闘すら始まりそうな雰囲気の中、ランスだけは「いっそ全員派遣しちゃったらいいのにね~」と言い、レイブロン公爵に鋭く睨まれた。


 ──それが2日前の出来事だ。

 水の都カレントに出発する当日。ヘルミーナは、馬車に最小限の積荷が載せられるのを眺めていた。

 最終的に、カレントには第二騎士団が派遣されることになった。

 ヘルミーナの護衛にはランス、リック、そして専属侍女のメアリが同行することになった。

 人一倍護衛騎士の名乗りを上げていたカイザーは、ルドルフから直に「他の役目があるから駄目だよ」と言われ、声もかけられないほど落ち込んでいた。

 彼ほど仲間思いで正義感の強い人はいない。どんな任務であれ、騎士団の派遣に加わりたかったはずだ。

 一方、マティアスの様子は普段と変わりなかった。彼は彼で、複数の騎士団を率いて大きな魔物の討伐へ向かうことが決まっていた。

 国民の関心をそちらへ引き寄せるためだ。

 風の民であるラゴル侯爵家の次期当主であり、第一騎士団の団長であるマティアスは、本人に興味がなくても、世間の注目を集めてしまう。カレントに残る負傷者の回収から目を逸らすのに、打ってつけの人物というわけだ。そう説明されて妙に納得してしまった。

「ヘルミーナ様、少し宜しいでしょうか?」

「どうかされましたか?」

 まだ多くの者たちが床に就いている早朝。

 宿舎横でひっそりと支度しているところへ、マティアスが姿を見せた。ヘルミーナたちは騎士団たちより一足先に出発し、レイブロン領にある転移装置を使って、カレントに飛ぶことになっている。安全を考慮した上での移動手段だ。

 見送りは昨日のうちに済ませて、今日は静かに出ていくはずだったが、予定が変わったのだろうか。ヘルミーナは足音もなく近づいてくるマティアスに目を瞬かせた。

「こちらをお持ちください」

「これは……マティアス様の守り石ではありませんか」

 傍までやってきたマティアスは、白い石のついたペンダントを差し出してきた。

 ラゴル侯爵家に代々受け継がれてきた守り石で、聖女の神聖魔法が宿った魔法石だ。

「魔物のいる場所では何が起こるか分かりません。決して護衛から離れず、行動には十分お気をつけください。こちらは無事に戻ってきた時にまたお返しくだされば」

「ですが、マティアス様も遠征に出られると聞きました」

「私にはヘルミーナ様がお作りになられた魔法水がありますので、問題ありません」

 聖女の魔力は残っていないと言っていたが、それでも受け継いできた大事なペンダントだ。

 ヘルミーナはそれを差し出したマティアスに困惑したが、断り切れず両手で受け取った。

「……分かりました。戻ってくるまでお借りします」

 風の民の家宝とも呼べる守り石を渡され、ヘルミーナは重圧を感じた。ただ、それも一瞬のことだ。掌に広がる魔法石の温もりに、自然と口角が持ち上がった。無意識のうちに、緊張や不安から顔が強張っていたようだ。

 まさか、それに気づいて渡してくれたのだろうか。気になってマティアスを盗み見ると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせていた。思いも寄らない柔らかな表情に思わず見惚れてしまう。

 しかし、マティアスの笑顔が自分に向けられているものだと意識した途端、ヘルミーナは急に恥ずかしくなった。それから慌てて「お気遣いありがとうございます、失礼します!」と頭を下げ、皆のいる馬車に戻ったが、熱くなる顔を抑えきれなかった。

 初めて名前を呼んだ時も、マティアスは想像もしていなかった反応を見せた。他の女性なら勘違いしてしまっただろう。

 ヘルミーナは気分を落ち着かせるように息を吸って吐いた。

 ちょうどそこに、馬車の準備が整ったとメアリが呼びに来た。

 馬車に乗り込む時、同行する人たちの顔を1人ずつ確認した。一緒に行ってくれるのは心強い人たちだ。行く前から弱気になる必要なんてなかった。

 ヘルミーナは馬車の窓から「行ってきます」と呟き、再び無事に戻ってくることを誓った。

 そして、彼女たちを乗せた馬車は数人に見送られて出発した。

 第二の首都、水の都カレントへ──。


◆◇◆◇◆


 王都の南に位置するウォルバート一族の領土は、その半分が海に面しており、漁業が盛んな地域だ。

 早朝に水揚げされた魚介類が市場に並び、港町はいつも活気に包まれていた。

 水の都カレントもまた、町から港に向かって大きな市場が広がり、異国から渡ってきた珍しい品物も並べられるため、多くの観光客で賑わっていた。

 出発から半日、レイブロン領から転移装置を使って馬車ごと移動したヘルミーナたちは、その日のうちにカレントに到着していた。

「ヘルミーナ様、騎士団が到着されるまで2日ほどありますから、ゆっくり市場などを見て回りましょうか」

「そうできたら嬉しいです!」

 ヘルミーナたちは、裕福な平民の装いをしていた。

 王国一の港町であるカレントは、第二の首都と呼ばれるほどの賑わいがあり、身分を隠して観光を楽しむ貴族たちは多い。物価は周囲の村や町と比べると高いが、治安がよくて過ごしやすかった。

 ヘルミーナたちは予定していた宿に着き、掃除の行き届いた部屋に案内された。2人1部屋のためメアリと一緒だ。ランスとリックは護衛がしやすいように隣の部屋だ。

 メアリは部屋に異常がないか確認したあと、窓を開いて新鮮な空気を取り込んだ。

 騎士団がカレントにやってくるまでの2日間。

 本当なら今すぐ負傷した騎士の元に行って治癒を行いたいが、それでは計画が台なしになってしまう。彼らの治療はカレントから出て、目的の村に着いてからだ。

 それでも早く送り出してくれたのは、ルドルフの気遣いだった。

 カレントはヘルミーナにとって思い出の場所だ。彼はヘルミーナに、思いっきり癒やされてくるといいと言った。王妃のことがあったせいか、妙に優しかった。

 ヘルミーナは窓から流れてきた懐かしい潮の香りを吸い込んで、胸がいっぱいになった。

 その時、部屋のドアが叩かれてリックとランスがやってきた。

「ねぇ、ねぇ、ミーナちゃん。俺、初めてのカレントだから、案内してくれる?」

「ランス、私たちは遊びに来たわけじゃ……」

「そういう堅いことはいいから。騎士団が来るまで自由時間なんだし、それまでしっかり楽しまないと!」

 カレントに到着するまで終始こんな感じだった。友人たちで旅行へ出かけるような雰囲気に、緊張や不安を抱く暇もなかった。笑い声の絶えない賑やかな旅路だった。

 でも、彼らは本来の目的を忘れているわけではない。リックとランスは団服を着ていなくても護衛の騎士らしく周囲に気を張り、メアリも快適に過ごせるように世話を焼いてくれた。

 それぞれが与えられた役目をしっかり果たしている。そんな彼らに、自分もできることをしてあげたいと思うのは至極当然だ。

「是非、皆さんにカレントの港町を案内させてください!」

 カレントに一番詳しくて、案内できるのはヘルミーナだけだ。ブランクはあるが、生まれ故郷を案内するようで心が弾んだ。

 この地で思いがけない再会が待っているとも知らず、ヘルミーナは彼らを連れてカレントの港町へと繰り出した。


◆◇◆◇◆


 王城が月明かりに照らされた頃、広間では特別な夜会が催されていた。

 招かれたのは侯爵以上の高位貴族だけ。その昔、国王が魔物と戦う忠実な臣下に、感謝を込めて開いたのが始まりだと言われている。だが近年は、招待する意図も目的も変わっていた。

 王国の発展に伴い、高位貴族の影響力も強くなってきている。表面上は平和に見えても、裏では一族同士で牽制し合っているのが実情だ。そのため、王室もまた一族たちの動向を探るために、交流の場を設けていた。

 国王が集まった臣下に向かって挨拶を済ませると、王妃の手を取って中央で踊り始める。そのあとに続くように、王太子のルドルフが婚約者のアネッサを伴ってダンスをろうした。

「──お兄様、向こうからいらっしゃいましたわよ」

 ダンスを終えて間もなく、ルドルフとアネッサとカイザーの3人が揃っているところへ、1人の男が近づいてきた。

 白くなり始めた薄水色の髪に、淡い青緑色の瞳をしたその男こそ、60歳を過ぎたウォルバート公爵だ。

 実の兄が魔物によって命を奪われ、弟である彼が公爵家を継いだ。その前から、弟である彼の方がいくつもの事業を成功させていた。

 そのせいで、公爵家では後継者争いが起こっていた。兄の死については様々なおくそくが飛び交ったが、ウォルバート公爵が裁かれることはなかった。証拠が何も出てこなかったのだ。

 その後、ウォルバート公爵は悪い噂を払拭するために、一族の領地開発に尽力した。小さな港町だったカレントを、第二の首都と呼ばれるまでにしたのも彼の功績だ。ただ裏では、目的のためなら手段を選ばない男として恐れられている。

「光の神エルネスのご加護がありますように。エルメイト国の若き光、ルドルフ王太子殿下にご挨拶申し上げます」

 ウォルバート公爵は右手を左胸に当てて軽く頭を下げた。

 相手の色を映してしまうほど薄い瞳に見られると、頭のてっぺんから足の爪先まで値踏みされている気分だ。いくつもの事業を手掛けているだけあって、彼の洞察力は馬鹿にできない。

「久しいな、ウォルバート公爵。王太子である私ですら挨拶ができないほど忙しくしているようだ。父上もなかなか会えないと申していたぞ?」

「ご冗談を、殿下。お呼びくだされば、いつでもせ参じましょう」

「本気にするな、私も父上も各地を飛び回っているこうを心配しているだけだ。後継者もしっかり育ってきているようだし、ウォルバート一族は安泰だな」

 軽い挨拶に進退を問うような言葉を交えながら話すルドルフに対し、ウォルバート公爵は僅かに眉根を寄せながらもにこやかに対応する。

 周囲の温度が急激に冷え込んだところへ、ルドルフの隣からスッと出てきたアネッサが、素早くドレスを広げてウォルバート公爵に挨拶をした。

「ご機嫌よう、ウォルバート公爵様。お元気そうで何よりです」

 アネッサの挨拶が済むと、カイザーもまた前に進み出て「お久しぶりです」とウォルバート公爵に姿を見せた。

「レイブロン公爵家の公子と公女が揃って挨拶してくださるとは、引退せず居座るものですな。成長した姿を見ると、我が一族より安泰なのはそちらのようだ。アルバンも鼻が高いだろう」

「父は心配事ばかりが増えていくと」

 カイザーが肩を竦めて当たり障りのない言葉で返すと、ウォルバート公爵も「どこの親も同じだな」と苦笑を浮かべた。顔に刻まれた皺が浮き出ると人のよさそうな老人に見えるが、油断のならない相手だ。

 アネッサはカイザーに目配せして公爵に近づくと、赤いべにのついた口を開いた。

「そういえば、公爵様。安泰といえば、ウォルバート一族にいらっしゃる英雄の方が……名前はなんと言ったかしら?」

「アルムス子爵家の嫡男ちゃくなんではなかったかな。第二次覚醒者でもある彼は、社交界でも有名だからね。その彼がどうかしたのかい?」

「王太子殿下もご存知でしたのね。ええ、我が一族の侯爵家にいるご令嬢が、その方との婚姻を考えていると報告を受けましたの」

 打ち合わせをしたわけではないのに、アネッサとルドルフの演技は素晴らしかった。アネッサはやや不安そうな表情を浮かべて、ウォルバート公爵の顔色を窺った。これも演技だ。その話がすでに破談になっていることは、あらかじめ分かっていた。

 あんじょう、ウォルバート公爵は「残念だが」と言った上で、小さく首を振った。

「やはり我が一族の英雄を他所に出すわけにはいきませんからな。どんな好条件を提示されても呑むことはまずなかったでしょう」

「確か彼には婚約者がいたはずだな。婚姻はその婚約者とするのかい?」

「そこまで知っておられるとは、エーリッヒの奴も喜ぶでしょう。あいつには近々爵位を与えて、一族内で釣り合う相手と婚姻させる予定です」

 釣り合う相手──と、笑いながら話してくるウォルバート公爵に、3人は言いようのない怒りを覚えた。その相手が今、光属性を覚醒させて王宮で保護されているとは思わないだろう。

 カイザーはぐっと拳を握りしめることで、怒りに耐えた。

「そうか。婚約期間は長かったと聞いていたが」

「婚約解消の同意は得られておりますが、なにせ10年という長い婚約だったもので、エーリッヒにも気持ちの整理が必要でしょう。──なあに、水の都に行けば気分も晴れましょう。あそこは素晴らしい観光地ですから」

「なんだって……? 彼はカレントに?」

 婚約解消にエーリッヒが同意したとは、初めて耳にする情報だ。ウォルバート公爵がその場しのぎの嘘を言っている可能性もあったが、彼が命じれば子爵家もエーリッヒ1人の我儘を押し通せないだろう。それは実にいい情報だった。しかし、問題はそのあとだ。

「殿下たちが行かれる際は、私がご案内致しましょう」と、ウォルバート公爵は上機嫌でその場を去ったが、残された3人には焦りの色が広がっていた。

「まずいわね……。今鉢合わせしてしまったら、私たちの計画が台なしになってしまうわ」

「何が婚約解消に同意しただ! あいつはミーナ嬢を探し回っているに違いない!」

「彼にも監視をつけておいたから、カレントに向かったとすれば今日の話だろう」

 まだ報告が届いていないところを見ると、エーリッヒが出発したのはそう前のことではない。騎士団から情報が漏れたとは考えにくいため、純粋に彼女を探しに行ったと思われるが、執着しゅうちゃく男の直感に呆れるしかなかった。

 するとカイザーは、突然体の向きを変えて扉から出ていった。

「待て、カイザー! お前が向かったところでなんになるっ」

「お兄様、お待ちください!」

「止めてくれるな! 私は今すぐミーナ嬢の元へ行く! まだ会わずにいるなら、奴がいることを教えなければ!」

 会場を飛び出して馬車に向かうカイザーを、ルドルフとアネッサが慌てて止めようとするが、頭に血の上った彼を止めるのは至難のわざだ。

 それが好意を寄せている女性の危機なら尚更、はばむことは不可能だ。

「……はぁ、分かった。カイザー、王太子である私の護衛を怠った罰として、お前を1週間の謹慎処分にする。レイブロン公爵には私から伝えておこう。ヘルミーナ嬢のことを頼むよ」

「感謝する!」

 ルドルフに対して礼もそこそこに、カイザーは馬車に乗り込んだ。カイザーの頭には、一刻も早くカレントに到着してヘルミーナの元に駆けつけることしかない。

 ルドルフとアネッサは馬車を見送りながら、「頼むから、目立つようなことはしてくれるなよ」と願うばかりだった。


◆◇◆◇◆


 カレントに到着した当日、ヘルミーナたちは市場を巡った。

 1日で回れるような場所では到底なかったが、記憶を辿るようにして、ヘルミーナはランスとメアリを案内した。リックは荷物番のため宿に残った。

 古くからある店は残っていたが、異国の商品を取り扱うところは初めて見る店ばかりだ。けれど、カレントの町並みには懐かしさと親しみがあった。

「ミーナ様、こちらの帽子は髪色が変えられる魔道具のようです」

「髪色が……」

 魔道具を取り扱う区画に足を踏み入れると、首都でも見かけない道具が並べられていた。

 メアリは花のついた麦わら帽子や、クロッシェを見つけて足を止めた。

 魔法石がついた帽子は髪自体が変化するわけではなく、帽子を被ることで髪色が変わって見える仕組みのようだ。裕福な平民なら手が出せるほどの値段で、変装道具としては画期的だ。

 メアリと並んでヘルミーナも帽子を選んでいると、頭の上にポンッとものが載せられた。

「ミーナちゃん、これにしなよ! 俺と同じピンク色。こうすれば俺に可愛い妹ができたみたいじゃん」

 それは薄桃色のコサージュがついた白いキャペリンで、可愛らしい帽子だった。メアリの差し出してくれた手鏡で確認すると、ピンクの髪色というのも悪くない。

 すると、ヘルミーナが何か言う前に、「じゃあ、これで」とランスが買ってくれた。一緒に回っていたヘルミーナとメアリは、女性のエスコートに慣れすぎなランスに若干引いていた。本人は無自覚だから余計たちが悪い。


 カレントの1日目は市場の観光であっという間に終わってしまい、2日目は港の方に行って屋台巡りをすることになった。観光客が多いため、リックとランスが護衛についてくれた。

 ヘルミーナは昨日買ってもらった帽子を被り、髪色に合わせてオレンジ色のワンピースを用意してもらった。今までと違った雰囲気に、妙に浮き立ってしまう。はやる気持ちを抑えてヘルミーナはリックたちと港へ向かった。

「そういえば、小さい羽根のついた妖精の商品をよく見かけますね」

「ああ、それ俺も思った。お店の至るところに飾られているよね」

 港付近は新鮮な魚介類を取り扱う店が多く、屋台から胃袋を刺激する香ばしいにおいが漂っている。ここは観光客だけでなく、船乗りの男たちも利用していて賑やかだ。

 いくつか屋台を回って食べるものを物色ぶっしょくし、魚介のくしきを出している屋台でヘルミーナたちは立ち止まった。

 柱には羽根のついた少女の木彫りがぶら下がっている。他の屋台や、昨日訪れたお店でも見かけたものだ。

「なんだい、お前さんたち知らないのかい? これは水の妖精さ」

「水の妖精ですか?」

「ああ、そうだ。カレントは水の精霊による加護を受けていて、水の妖精が現れるんだ。海賊船がやってきた時は、水の妖精が船内を水浸しにして追い払ってくれたっていう話さ。悪戯好きのお転婆な妖精だが、船乗りの男たちもお守りにしているぐらいだ」

 船乗りにも負けない屈強くっきょうな体をした店主は、水の妖精の話をしてくれた。

 ヘルミーナもつい聞き入ってしまったが、ふと視線を感じて顔を上げた。

「……どうして私を見るんですか?」

「いやぁ、この妖精がミーナちゃんに似てるなと思って」

「意外とミーナ様の幼い頃をモチーフにしているのかもしれませんね」

 ランスとリックが妖精の飾り物と見比べてくる。ヘルミーナは否定したが、2人の生温かい視線に耐えかねて、その屋台に並んでいた串焼きを全て買い上げた。店主は大いに喜んでくれたが、3人で食べるには多すぎた。

 気恥ずかしさに居た堪れなくなったが、広場に行って頬張った魚介の串焼きは、感動するほど美味しかった。

 残ってしまった串焼きはメアリへのお土産みやげにすることにして、3人は港に停泊する船を見に行った。

 ヘルミーナたちが辿り着いた時、すでに多くの人だかりができていた。気になって群がっている1人に何があるのか訊ねた。

「ああ、有名な商船が戻ってきたのさ」

「あの、それはどこの船ですか……?」

「確か貴族様の商船だったはずだ。詳しくは知らないが、船の名前はミーナテイル号……」

 船名を聞いた時、ヘルミーナののうには子供の頃の記憶が蘇ってきた。

『よし、この船はヘルミーナの名前をつけてやろう。どんな災難が降りかかっても、必ず港に戻ってきてくれる船になるはずだ』

『ミーナもあれに乗れる?』

『そうだな、大人になったら乗せてやろう。それまではまた勝手に乗ったら駄目だぞ』

 幼い頃に交わした父との約束を思い出して胸が熱くなる。自分がなぜ、社交界にデビューしてからカレントを訪れなくなったのか。今日になって答えが分かった気がする。

 それは、「お荷物令嬢」と呼ばれた自分の姿を、家族のような関係を築いてきた人たちに見られたくなかったからだ。……幻滅されたくなかった。

 巨大な商船が船着き場に入ってくると、集まっていた人たちから歓声が上がった。船乗りたちの家族も出迎えに来ているはずだ。

 彼らの無事に安堵したのも束の間、人が多すぎて、群衆に巻き込まれランスとリックを見失ってしまった。ヘルミーナは人の波に押されながらなんとか抜け出した。

「──……ミーナ?」

 刹那、後ろから呼ばれてヘルミーナは立ち止まった。足を止めるべきではなかった。気づかないふりをすればよかった。今でも名前を呼ばれるだけで、背筋に寒気が走る。

 あの日の出来事を思い出すと、吐き気が込み上げてくる。

 辛うじてできたことは、震える唇を噛んで婚約者の名前を必死に呑み込むことだった。

「──人違いだ」

 その時だ。がしっと腕を掴まれて振り向くと、がいとうを被った男が見下ろしてきた。

 フードの下から現れた赤い髪と橙色だいだいいろの瞳に、ヘルミーナは空色の目を見開いた。

「カイザー様……?」

「シッ。今は君の護衛騎士だ」

 体が硬直して動けなくなっていると、カイザーが体を引き寄せてくれた。背中に回った大きな手から彼の熱が伝わってくる。

 ヘルミーナは驚きつつもカイザーの外套を握りしめ、浅い呼吸を繰り返した。額から嫌な汗が吹き出してくる。

 すると、カイザーはヘルミーナの手を掴んで「行こう」と言ってきた。

 カイザーが支えてくれたおかげで、ヘルミーナは歩き出すことができた。このまま人違いでやり過ごせたら、どんなによかっただろう。

「待ってくれ、ミーナ! 君がどんな格好をしようが、僕に分からないわけないだろ!?

 魔道具で髪色を変えたぐらいでは。

 そう言ってくるエーリッヒに、ヘルミーナはこの世の無情さを嘆くように空を仰いだ。振り返らなくても浮かんでくるエーリッヒの姿に、思わず目を閉じる。

 エーリッヒがヘルミーナに気づいたように、ヘルミーナも同じだった。姿を変えて群衆の中に紛れていても、彼の姿を見つけることができるだろう。

 婚約をしてから、2人は周囲が呆れるほど一緒に過ごしてきた。ヘルミーナの隣にはエーリッヒが、エーリッヒの隣にはヘルミーナが、当たり前のようにいた。

 家同士が決めた婚約とはいえ、お互いに好き合っていた。家族や領民たちから祝福され、きっと幸せな夫婦になれると思っていた。──それだけに、自分たちが辿り着いた結末が悔しくて、虚しい。

 ヘルミーナは深い溜め息をつき、密着するカイザーの胸元に手を押し当てた。

「……ミーナ嬢」

「大丈夫です、すぐに済みますから」

 昔を思い出すことで、面白いほど震えが止まった。恐怖や不快感より、エーリッヒに対する怒りが強かったからかもしれない。

 ヘルミーナが振り返って歩き出すと、エーリッヒは安堵しつつも当惑の表情を浮かべていた。深い青色の瞳が自信なさそうに揺れているのを見るのは久しぶりだ。

「ミーナ、今まで一体どこにいたんだ……? 手紙を出しても返事はないし、屋敷を訪ねてもいないと追い返されるし」

「私がどこにいて、どこで過ごそうが、貴方が知る必要はありません」

「僕は心配して……っ! 君から目を離したら、また無茶をして怪我をするかもしれないだろ!?

 彼は、何を言っているのだろう。

 エーリッヒの目には今、ヘルミーナが婚約したばかりの10歳の子供に見えるのだろうか。勝手な振る舞いができないように格好から言動まで散々作り変えたではないか。

 彼自身が、皆から「可哀かわいそうだ」と言われるようになるまで。

 ヘルミーナは奥歯を噛み、話を続けるエーリッヒを睨みつけた。

「──エーリッヒ・アルムス!」

 付き合いが長い分、ヘルミーナは多くのことをエーリッヒと共有していた。カレントという港町も、船乗りの人々も、広大な海も。同じ景色をたくさん見てきたのだ。