3章 囚われの王子と導きの女神


 練武場の中央で白金の髪をなびかせた青年が、淡い光を放つロングソードを両手で握りしめたまま立ち尽くしていた。切っ先からしたたり落ちた血が、足元に横たわるろうを濡らす。絶命した魔狼牙は次の瞬間、黒い灰になって消滅した。

 その光景を離れた場所から見守っていた王国の宰相さいしょうは、「歴史の動く瞬間に立ち会えて、ばんかんの思いです」と唇をふるわせた。直後、練武場に歓声がき上がる。

 ヘルミーナは忘れられない出来事が起こるたびに、「お荷物令嬢」だった記憶が塗り替えられていくのを感じていた……。


◆◇◆◇◆


 首都、アルムス子爵邸──。

 屋敷前に横付けされた馬車から乱暴に扉を開けて降りてきたのは、アルムス子爵家の長男エーリッヒだ。

「クソッ、テイト伯爵家の私兵がっ」

 自室に入るなり、ガラステーブルに両手をついたエーリッヒは声をあらげた。そのいらちから魔力が放出されていたのだろう、触れていたテーブルは圧力に耐えきれず、音を立ててこなごなくだけた。

「……婚約解消に同意しただと? そんなはずはない。子供の頃からずっと一緒だったんだ。将来だって誓い合った仲じゃないか」

 婚約した瞬間から、彼女の笑顔も、髪も、目も、唇も、全てが自分のものだった。彼女は、自分がいなければ何もできない。昔も、これからも。

「大丈夫だ、ミーナ。お前が僕と別れたくないとテイト伯爵に泣いてすがれば、伯爵だって公爵に口添えしてくれるはずだ。僕たちは今も深く愛し合っているのだから──」


 ──……悪夢を見た気がする。

 深い眠りから目覚めたヘルミーナは、額に手の甲を乗せて息をついた。夢の内容までは思い出せないが嫌な感じだ。全身からじっとりとした汗がにじみ出る。

 寝所が変わったせいだろうか。ヘルミーナは見慣れない天井を見上げて、再び溜め息をついた。

 重い体を起こしたヘルミーナは、気持ちを切り替えるようにメイドを呼ぶベルに手を伸ばした。ところが、指先でベルをはじいて床に落としてしまった。あわてて拾い上げようとしたが、その時部屋の扉が豪快に開かれて、意識がそちらに引っ張られた。

「ああ、ヘルミーナ! 起きたのね!」

「……え? ……アネッサ様?」

 てっきり、メイドが来てくれるものとばかり思っていたのに、ノックもなく入ってきたのはレイブロン公爵家の長女アネッサだった。彼女は部屋に飛び込んでくるなり、ヘルミーナの元へ駆け寄ってきた。その顔は今にも泣き出しそうだ。

「もう起きないかと思って心配したわ!」

「あの、一体……」

 ベッドに腰掛けたアネッサはヘルミーナの手を取ると、力強く握りしめてきた。アネッサの白い手首には、先程落としたベルとつながっているブレスレットが点滅していた。どうして彼女がそれをつけているのだろうか。理解が追いついてこない。

 すると、アネッサのあとに続くように、次から次へと人が押し寄せてきた。

「落ち着いて、アネッサ。カイザーは医者を呼んでくるように」

「今すぐ連れてくる!」

 アネッサをなだめつつ、親友に短い指示を出したのは王太子のルドルフだ。そして、その彼に命じられて一度は部屋に入ったものの、すぐに飛び出していったのは第一騎士団副団長のカイザーだ。目の前で人が慌ただしく動き回るのを、ヘルミーナはほうけた顔でながめていた。

「──ヘルミーナ様、体調はいかがですか?」

「きゃっ!」

 ……油断した。アネッサの反対側からいきなり声をかけられ、驚いて悲鳴を上げてしまった。そっと振り向けば、第一騎士団団長のマティアスが「驚かせてしまい申し訳ありません」と頭を下げてきた。

 皆さんおそろいで。ベッドの周りに集まった豪華な顔ぶれに、これこそ悪夢だと思わずにいられない。もう一度眠れば夢からめるだろうか。

 でも、皆の深刻そうな顔を見ていたら、大人しくしていることが最善の策だと思った。

「──問題ない。よく眠ったようだ」

 しばらくして、カイザーが脇に抱えて運んできたのは騎士団で出会った医者だった。彼は騎士団の専属医で、ロベルト・ベーメと名乗ってくれた。その顔には迷惑を通り越して、わずらわしささえ浮かんで見える。

 一方のヘルミーナも、なぜ医者が呼ばれたのか状況がつかみきれていなかった。てくれたロベルトに「……ありがとうございます」と言ったものの、困惑をぬぐいきれない。

 すると、見かねたロベルトは深い息をついて、そばに控える彼らに口を開いた。

「だから、寝不足による疲れが一気に出ただけだと、昼間も説明したはずだ。騎士ともあろう者が母親のように騒ぎ出して」

「しかし、先生! 人が丸一日眠り続けるなど何かあったとしか!」

「カイザー副団長、彼女はごく普通のお嬢さんだ。2時間も眠れば体力が回復してしまう君と一緒にしないでくれ」

 一日中眠り続けていた……?

 医者が呼ばれるぐらいだから、何かあったのかもしれないと思っていたが、なんということはない。やり取りから察するに、寝不足で丸一日眠り続けていたヘルミーナに、彼らが必要以上に騒いでしまっただけのようだ。

「本当に大丈夫なのか?」

「……マティアス団長、貴方あなたもか。ああ、もう心配はいらない。あとは栄養のある食事でもとれば体力も回復するはずだ」

 これは、恥ずかしい。今すぐ水になって溶けてしまいたい。あまりに眠かったとはいえ、あれから丸一日眠ってしまうなんて。しかも、多くの人に迷惑をかけてしまった。

「……ご迷惑をおかけして」

「謝ることはない。とりあえず、なんともなくて安心したよ。それより医者も言ってることだし、皆で食事をとるのはどうだろう。せっかくだ、カイザーとマティアスきょうもどうだい? 君たちもヘルミーナ嬢につきっきりで食事もとっていなかっただろう」

 うつむくヘルミーナに、耳を疑うような話が聞こえてきて、思わず2人を見てしまった。カイザーとマティアスは「問題ない」と返していたが、彼らは自分が起きるまで、朝からずっと待っていてくれたのかもしれない。そう考えたらけい申し訳なくて、額をシーツにこすりつけたくなった。

 しかし、上体を倒そうとした寸前、左右から伸びてきた手がヘルミーナの額を受け止めた。

 果たしてどちらの手が先だったのか。騎士たちの反射神経には感心するばかりだ。

「──私はご遠慮致します。ヘルミーナ様の無事を確認しましたので、このまま騎士団に戻ります。それではヘルミーナ様、失礼致します」

 ルドルフの誘いに対し、マティアスだけは断ってさっそうと立ち去っていった。どんな相手であれ態度を変えることなく堂々としていられるのはうらやましい。いや、羨ましすぎる。これから、ここにいる皆で食事をとるのかと思ったら、空腹も逃げていってしまいそうだ。

 当然、断る勇気のなかったヘルミーナは、食事の時間までにみを済ませ、用意されたドレスに着替えて軽めの化粧で顔を整えた。手伝ってくれたメイドたちは王宮勤めだけあってぎわがよく、満足のいく仕上がりにしてくれた。

「レイブロン公子様がお迎えにいらっしゃいました」

 全ての準備が整った頃、メイドが教えてくれた。ヘルミーナは薄ピンク色のドレスを揺らして、カイザーの元へ向かった。

「食事する場所までエスコートしてもいいかな?」

「はい、宜しくお願いします」

 カイザーはヘルミーナの手を取って隣に並んでくれた。一緒に長い廊下を歩いていると、レイブロン公爵家に招かれたお茶会を思い出す。

 不思議と誰にも会うことなく進んでいくと、塔の一角に着いた。せん状の階段を登って、目的地に到着した瞬間、ヘルミーナは思わずかんたんの声を上げた。

 そこは塔の屋上部分で、地面は青々とした芝生におおわれ、天井は透明なガラス張りになっていて空がよく見えた。先程まで薄暗かった塔の中がうそのようだ。花壇が並んだ中央には、真っ白な東屋あずまやが建てられている。

「ようこそ。ここは王族専用の温室だよ。使用人たちも下がらせたから、気兼ねする必要はない」

「ありがとう、ございます……」

 笑顔で出迎えてくれたルドルフとアネッサに、ヘルミーナは顔を引きらせた。王族専用と言われて気軽に過ごせるわけがない。前回のお茶会と同じ顔ぶれとはいえ、彼らの輝きには当分慣れそうになかった。ヘルミーナは挙動不審にならないように気をつけながら、促された椅子に腰を下ろした。

 テーブルにはすでに数多くの料理が並べられていた。これなら使用人を下がらせても、好きな料理を好きなように食べることができる。隣に座ったカイザーが「私もルドルフも、堅苦しい食事は苦手なんだ」と教えてくれた。

「皆も揃ったことだ、食事を始めよう。レイブロン公爵家の料理には及ばないかもしれないが」

「当然ですわ。我が公爵家の料理長は様々な国を旅しながら料理の腕をみがいてきた、元冒険者ですのよ?」

「元冒険者の、料理人ですか……?」

 冒険者とは、故郷を離れて大陸中を旅しながら、ある者は名誉を求め、ある者は未知の旅を楽しみ、またある者はおのれの成長や自分探しを目的にする探求者たちのことだ。冒険者になる理由は人それぞれだが、れっきとした職業の1つである。

 彼らは大陸共通の冒険者ギルドに所属し、各地で様々な依頼をこなしながら報酬を得て生活している。魔物のとうばつも請け負っており、とくに魔物の標的になりやすい農村地帯がある田舎の領地ではみ深いものだった。

 ヘルミーナがアネッサの話に食いつくと、ルドルフは口の端を持ち上げた。

「興味がありそうだね」

「あの、はい……。私どもの領地では、鉱山に出る魔物の討伐を冒険者ギルドに依頼しています。何より私の父が、冒険者の話をよく語り聞かせてくれました。そんな父も、いつか自分の船を造っておおうなばらに出るんだとくちぐせのように言っておりました」

 家族の話になると、ヘルミーナは饒舌じょうぜつになった。

 誰にだって自慢したいことの、1つや2つはある。ヘルミーナにとって家族は、何よりの自慢だった。優しい父親に、厳しくも愛情深い母親、そして可愛い弟と妹。離れてからたった一晩しか経っていないのに、思い出したら急に寂しくなってきた。

「それは男のロマンだね」

「ルドとお兄様も似たようなことをおっしゃってましたわね。大陸一の剣士になるだとか、伝説のドラゴンを討伐しに行くのだとか」

「覚えてるかい? カイザー」

「……機会があれば、ドラゴンとは戦ってみたいと思っている」

 身分に関係なく、壮大な夢を抱いていたのは彼らも同じだったようだ。ヘルミーナは「ふふ」と笑い、自然となごやかな雰囲気に溶け込んでいった。

 4人でとる食事は、思っていたよりずっと楽しかった。他愛もない話をしながら、時間をかけて食べたことで、胃に負担をかけることなく、お腹を満たせた。

 食事が終わったあと、ルドルフがベルを鳴らすと数人のメイドが現れ、素早く食器を片付けるとかんきつ系の紅茶をれてくれた。

「改めてお礼を言うよ。ヘルミーナ嬢のおかげで騎士たちは皆無事だった」

 お茶で一息ついたところで、ようやくルドルフが一昨日の出来事を切り出してきた。先程までの穏やかな表情と違い、カイザーとアネッサも真剣なまなしを向けてくる。

 ヘルミーナは急いでお茶を飲み込み、カップをテーブルに戻した。

「ただ、ヘルミーナ嬢には申し訳ないが、騎士団で起きた事故はおおやけにできなくてね」

「私は皆さんが無事だっただけで十分です」

「そうか……。ところでヘルミーナ嬢が力を使ったのは、君自身の意思だったのかな? もし違うのであれば、王宮へ呼んだ私個人としては君に謝らなければならない」

 頭こそ下げなかったものの、王族であるルドルフから謝罪の姿勢を見せられ、ヘルミーナは慌てて首を振った。

 ルドルフは、王宮に連れてくることでヘルミーナの身の安全を守り、その力を周囲に知られることなく隠せると思っていたのだろう。

 しかし、ルドルフのづかいをに、ヘルミーナは皆の前で神聖魔法を使ってしまった。それはもう全力で。

 突然の出来事で、不本意といえば不本意だったのかもしれない。しかし、ヘルミーナはルドルフを真っ直ぐ見つめ、「王国のために、この力を使うと決めましたから」と言いきった。持ってきたあの青いびんは、そのための意思表示だったのだ。

 確固たる思いを伝えると、ルドルフはうなずいて表情を和らげた。

「ヘルミーナ嬢の選択を尊重しよう。また君の決断に感謝するよ。……ただ、王国のために君だけが頑張る必要はない、ということだけは覚えておいてほしい」

「……分かりました」

 深く頷いて顔を上げると、3人とも表情をくずし「自分たちもいるのだから」というように笑った。

 最初は、力不足だから頑張る必要はないと言われたのかと思ったが、勘違いだった。ここには頼れる人たちが他にもたくさんいる、だから自分だけが頑張る必要はないのだと理解した。

「事故のことは公表できないが、ヘルミーナ嬢が我が王国の騎士を助けてくれたのは事実だ。陛下が戻られたら、王室からも謝礼が支払われるだろう」

「そんな、恐れ多いです」

「遠慮しないでくれ。力を使うと決めたなら、君は対価を得ることにも慣れておいた方がいいだろう。先に何か欲しいものや、必要なものはあるかな?」

 一昨日のレイブロン公爵と同じ状況になり、ヘルミーナは困惑した。欲しいものは驚くほど浮かんでこない。貴族令嬢らしくあれば、ドレスや宝石を望んでいたかもしれないが……。

 王宮に来る前に必要なものは買い揃えてしまったし、何より質素で地味な身なりを強いられてきたヘルミーナは、着飾ることに消極的だった。それは簡単に変えられるものではない。

 思い悩んだ末に、1つだけ必要なものを思い出して口を開いた。

「あの、実は……騎士の皆さんに使った青い瓶ですが、本来は王室へ献上させていただこうと思っていた品だったんです……」

「王室への献上品か、なるほど」

「……ご存知の通り、献上する前に使ってしまいましたが」

 本当ならあの青い瓶は、「王国に力をささげる」ヘルミーナの意志であり、忠誠であり、神聖魔法の確かな証拠でもあった。魔法水の研究材料になればとも思っていたが、かんじんの中身は一昨日のうちにほぼ使いきってしまった。……王室への献上品を。

 すると、聞いていたルドルフの目が鋭くなった気がする。横にいたアネッサは「まあ」と声を上げて、あとはおうぎで口元を隠してしまった。カイザーは隣でキョトンとしている。それでもヘルミーナは肩をすくめつつ話を続けた。

「それで、改めてご用意したいと考えているのですが、ラベルのない青い瓶ですと中身が見えず不安になられる方がいらっしゃったので、何か他によい入れ物はないかと思い……いえ、考えた次第です……」

 話しながら、これは何かの罪に問われるかもしれないと不安になってきた。

 それなのに、3人はヘルミーナから視線をらし始めた。アネッサは扇で顔を隠し、ルドルフとカイザーは口元を押さえて肩を震わせている。ヘルミーナにとって笑い事ではないのに。

「ふぅー……。ああ、ごめんね。君の希望は分かった。献上品に相応ふさわしい入れ物なら明日にでも用意させよう。無論、なんの罪にも問わないから安心してほしい。ただ君が魔法を使う時は、同席させてもらってもいいかな?」

「それはもちろん、大丈夫です」

 また寿命が縮むかと思ったが、今回も無事に済んだことにホッと胸をで下ろした。

 一安心したヘルミーナはお茶の入ったカップを持ち上げる。それから、高貴なさんかたがいつまで笑いをこらえられるか、暫く見守ることにした。

 食後のティータイムまで楽しんだヘルミーナは、満腹のお腹を抱えながら部屋に戻った。その時も誰かとすれ違うことはなく、廊下は異常なほど静まり返っていた。

 違和感を覚えてカイザーにたずねると、元々ここは他国の元首クラスが来訪した際に使われる部屋で、王室の許可がない限り入ることは許されない区域らしい。もし彼らに何かあれば、国家間の争いに繋がりかねない。そのため使用人たちも厳しく教育され、必要以上に関わらないようになっていた。また、あつい壁の外側は厳重な警備体制が敷かれており、侵入は不可能だという。

 そんな場所に通されたのかと思ったら、急に腰が引けた。

 その夜、改めて一人きりになると、ごうけんらんな部屋におじづいてしまった。昨日は睡魔に負けてベッドに入り込んでしまったが、田舎の貴族令嬢が通される部屋ではない。とはいえ、ここで過ごすのもあと数日だ。国王陛下にあいさつを済ませたら、もっと普通の部屋を用意してくれるだろう。……きっと。

 暫くベッドの端っこに座ってひざを抱いていたヘルミーナは、ふと廊下から引き寄せられるものを感じて床に降りた。その足で扉に近づくも、人の気配や物音はしない。それでも気になって扉を開いた。

「……誰か、いますか?」

 扉から顔だけ出して周囲をうかがってみたが、誰かがいる様子はなかった。気のせいだろうか。しかし首をかしげた直後、より濃くなった影から声が返ってきた。

「ヘルミーナ様、いかがされましたか?」

「……団長様?」

 今度は悲鳴を上げずに済んだ。ただ、薄暗い廊下から聞こえてきた低い声に、ヘルミーナは目をまたたかせた。

 なぜ彼がこんな場所に立っているのだろうか。まるで、部屋を守る兵士のように。扉を開くと、部屋の明かりに照らされてマティアスの姿があらわになった。

「まさか、ずっと扉の前で警護を?」

「ヘルミーナ様が気にされる必要はありません。廊下は冷えますので、どうぞお部屋にお戻りください」

「ですが……」

 気にするなと言われても、素直に頷けなかった。

 マティアスはいつから部屋の前に立っていたのだろうか。部屋に戻っても、彼はそのまま立ち続けるのだろうか。色々訊ねたかったのに、マティアスは扉を掴んでヘルミーナを部屋の中へ促してくる。

「……貴女あなたがまた目覚めなくなるのではと心配なのです」

「え……?」

 ぼそりと聞こえてきたマティアスの言葉に、ヘルミーナは振り返った。その拍子ひょうしに、目の前にあったマティアスの胸元に顔をぶつけてしまった。「痛っ」と言うほどではなかったのに、反射的に声が出てしまったようだ。

 マティアスも顔を押さえるヘルミーナに手を伸ばしてきたが、その指先が触れることはなかった。

 なぜなら、彼の胸元がいきなり光り出して、白いつたがヘルミーナに向かって伸びてきたからだ。

「これは……」

 突然の出来事に息をむ。けれど、それはヘルミーナがずっとマティアスに感じていた懐かしさの正体でもあった。


 翌日、ルドルフが侍従を伴ってヘルミーナの元を訪れたのは、昼食をとったあとだった。護衛騎士としてリックも一緒だ。

 ヘルミーナは丸テーブルをはさんでルドルフと向かい合った。彼から体調をかれて「問題ありません」と答えたが、むしろ「アネッサとカイザーも来たかったようだけど、彼らにもやることがあってね」と話すルドルフの方が、疲れた顔をしていた。

「本題に入る前に、私の侍従を紹介しよう。侍従のフィンだ」

「初めまして、ヘルミーナ様。センブルク一族で、リナルディ子爵家長男のフィン・リナルディと申します。気軽にフィンとお呼びください」

 ルドルフに紹介された侍従は風属性の一族らしく、新緑を思わせるような薄緑色の髪に緑色の瞳をした青年だった。

 同じ風属性でも、風の民であるマティアスとはまた違った印象だ。少なくともフィンの気配はしっかり感じることができた。

「フィンは王妃のおいでね。私が忙しい時は、彼を通して君に連絡することもあるだろう」

「分かりました。宜しくお願いします」

「それじゃ、頼まれていたものを持ってきたから、中身を確認してくれるかい?」

 ルドルフの言葉に合わせ、フィンが持っていた木箱をテーブルに置いた。

 王室の紋章もんしょうふたに刻印され、側面に花の彫刻が施されて、正面には鍵穴がついている。箱だけでも存在感があるのだから、中に入っているのも相当のものだろう。

 白い手袋をめた手でフィンがゆっくり箱を開き、ヘルミーナはかたを呑んで見守った。すると中から、黄金の装飾でふちられた薄水色の丸瓶が現れた。蓋は王冠の形をしている。間違いなく高いやつだ。

「これでどうかな?」

「……れいな入れ物だと思います」

 おいくらですか? とは恐ろしくて訊けず、瓶をめることしかできなかった。

 しかし、王室に献上することを考えれば、このぐらい高級なものでなければいけなかったのかもしれない。青い瓶は質より量を優先してしまったが、これは明らかに見た目を重視している。

「瓶を出して、蓋を開けてやってくれ」

「承知しました」

せいはいより小さいが、直接いけそうかな?」

「このぐらいでしたら大丈夫です」

 青い瓶と比べれば大きいが、聖杯よりは小さい。それでもヘルミーナはあごを引いて、一度握りしめた両手を丸瓶に向けてかざした。

 騎士団で最大限まで神聖魔法を放出したおかげか、光属性の魔力が以前より早く体内をめぐるのが分かる。それを水魔法と混ぜて瓶の中に沈めていった。すると、空だった瓶から突如光があふれ出した。

 ヘルミーナは顔を上げて、上手くいったことをルドルフに伝えた。彼は光を放つ瓶に目を細め、ぜんとしている侍従に口元をゆるませた。

「美しいね……。それに、輝きが強くなったようだ」

「ありがとうございます。実は、あれから隠れて練習していました」

 光の神エルネスからの祝福に初めは困惑していたヘルミーナも、眠っていた冒険心をくすぐられて、新しい魔力を試さずにはいられなかった。最初は失敗続きだったが、練習していくうちに光の具合から上達していくのが目に見えて分かった。そして訓練に没頭すると、以前より上手く扱えるようになっていた。

 ヘルミーナは照れながら、これまでの経緯をルドルフに話す。しかし、話の途中から彼の顔が徐々にけわしくなっていった。

「なるほど、隠れて練習を。ちなみに、その時作った魔法水はどうしたのかな?」

「それは……部屋の花瓶に入れたり、花壇や庭にいたり……」

 誤解が起きないように「でも、失敗したものだけです……」と付け加えたが、部屋の空気が一変した。

 突然額を押さえたルドルフは「──リック卿」と、後ろに控えていたリックを鋭く呼びつけた。ヘルミーナも反射的に視線を上げれば、リックは体を直角に折り曲げていた。

「申し訳ありませんでした! 私の管理が甘かったようですっ」

「……想定外の事態はどこでも起こりうるものだよ。今後もしっかり備えておくように。フィン、今すぐ騎士団に行ってレイブロン公爵に事情を説明し、第一騎士団のランス卿をテイト伯爵邸に向かわせてくれ。何か異常が起きていないか調べてくるようにと」

かしこまりました」

 厳しい口調で命じるルドルフに、頭を下げるリックと、短く返事をして部屋を出ていくフィン。それをこうしていたヘルミーナは、自分のやってしまったことにだんだん気づいて血の気が引いた。

 両手をテーブルにせてこちらを見つめてくるルドルフに、顔を合わせられない。だらだらと冷や汗が流れ、ルドルフの溜め息に首を引っ込めた。

「ヘルミーナ嬢はもっと自分の能力について知る必要がありそうだね。神聖魔法は人のや病気を簡単に治せてしまうものだ。失敗作でも、植物や土に影響が出て不思議じゃない」

「……大変、申し訳ありませんでした」

 ──弁解のしようもない。

 ヘルミーナは心から謝罪し、ルドルフに深々と頭を下げた。

 その後、テイト伯爵邸を調査したランスから、花瓶の花はれずに咲き続け、庭と花壇は手入れが大変なほど元気に育っているという、宜しくない報告を受けることになる。

「──だが、まぁ……君が光属性の力を恐れず、使う気になってくれたのはうれしいよ」

 短い沈黙のあと、ルドルフは表情を崩してなぜか安心したように笑った。もっと怒るか、あきれるかと思っていたのに、彼は驚くほどあっさりしていた。

 ヘルミーナは下げていた頭を起こして、あんの息をついた。あとでリックとランスにも謝っておこう。彼らには迷惑をかけてばかりだ。

 十分反省したところで、ヘルミーナはルドルフの顔色を窺いながら口を開いた。

「ですが、その神聖魔法も私の能力や知識だけでは限界があり、きちんと扱えているか分からなくて……」

 今の話をエーリッヒにしたら、「努力が足りない」と突き放されるか、「そんなことも自分でできないのか」と文句を言われるか、「何もしなくていい」と興味すら持たれなかっただろう。だから、ルドルフにもげんめつされるのではないかと内心おびえていた。

 しかし、ルドルフは腕を組んで考える素振りを見せ、驚くほど真剣に相談に乗ってくれた。

「元々2つの属性を持つこと自体、とてもまれなんだよ。我々のように魔力を持って生まれた者は、最初から宿っている魔力を常に体内に巡らせている。普段何気なく使っている魔法も、深く考えながら使っている者は少ないだろう。だが、二重属性となれば別だ。前例がないわけじゃないが、2つの異なる魔力をどちらも反発しないように体内で巡らせるのは、はっきり言って不可能に近い」

「──……」

「私が二重属性についてくわしいのは変かな?」

「いいえっ! ただ何も知らなかったので、とても勉強になります」

 光属性はもちろん、二重属性に関しても無知だったヘルミーナは、ルドルフの説明に目を丸くした。

「……私も一時期、研究していたことがあってね」

「ルドルフ殿下が、二重属性の研究をですか?」

「専門的に研究している者が身近にいてね。その影響かな」

「その方にお会いすることは可能でしょうか?」

 元より光の神エルネスから「無効化」という祝福を与えられた王族が、なぜ二重属性について研究していたのかは疑問だ。

 ただ、言葉をにごすルドルフを見ると、それ以上踏み込むのははばかられた。そこでヘルミーナは、ルドルフの話に出た人物に注目した。

「会わせることはできるけど、いいのかい?」

「いい、とは……?」

「二重属性は本当に貴重だ。それが光属性ともなればなおさら。ヘルミーナ嬢の存在が明るみに出れば学者たちが放っておかないだろう。君だって実験台にはなりたくはないだろ?」

 それは、その通りだ。研究者の実験台になりたくて自ら名乗りを上げる者はいない。けれど、その貴重な二重属性を持った者が他にいない今、ヘルミーナほど研究の材料に適した者はいないだろう。

 何より自分が知りたいのだ。これからのことを考えれば、無知でいるよりずっといい。

「でも、その方は殿下に影響を与えるほどの方でいらっしゃいます」

「ならば信用できる、と。それは喜んでもいいのかな。ただ、肝心の彼はとても気難しい人でね。私が命じたところで素直に協力してくれるかどうか。──王命でもない限り」

 折角、二重属性について新たな知識が得られるかもしれないと思ったのに、相手は王太子のルドルフさえ手に負えない人物のようだ。そうなると、たかが伯爵令嬢1人に貴重な研究内容を教えてくれるとは思えない。

 残念だけどあきらめるしかないと肩を落としたが、どういうわけかルドルフはいたずらを思いついた子供のように目を輝かせている。

「さて、どうする? ヘルミーナ嬢がどうしても学びたいのであれば、その方法を教えてあげなくもないけど?」

「───」

 一体どこから誘導されていたのだろう。

 満面の笑みを浮かべるルドルフに、共犯の片棒をかつがされている気分になる。けれど、ここまで聞かされて今更逃げられるわけがない。カイザーやアネッサがいれば止めてくれたかもしれないが、ヘルミーナの立場では大人しく彼に従うしかなかった。

 ヘルミーナはルドルフに顔を近づけ「……どうすれば宜しいでしょうか?」と小声で訊ねていた。まるで、悪いことを計画している悪党のように。

 内緒の打ち合わせをする2人の後ろには、止められないことをやむリックの姿があった。


◆◇◆◇◆


 ヘルミーナが王宮に来て数日、ついに国王夫妻が王城に帰ってきた。

 主君が戻ってくると、城内の雰囲気はがらりと変わった。メイドたちは一層気を引き締めたようで、ピリッと張り詰めた緊張感がある。部屋で大人しく過ごしていたヘルミーナも、そわそわと落ち着かない。

 そんな中、ルドルフの侍従であるフィンが、国王にえっけんする日時を伝えにやってきた。

「謁見は明日の昼間になります。護衛の騎士が迎えに参りますので、一緒に転移装置ポータルに乗っていただき、特別貴賓室の場所ゲートまで移動してください。そちらでお待ちいただければ、担当の者が呼びに参りますので謁見の間にお入りください。王室の献上品はこちらで持たせていただきます」

「分かりました。色々ありがとうございます」

 フィンの説明は簡潔で、とても分かりやすかった。それでいてていねいで、余計な緊張が解けていくようだ。ヘルミーナはフィンに感謝の言葉を伝えた。

 その時、フィンの視線が一瞬ヘルミーナの目と重なった。何か言いたげな表情を見せるフィンに、ヘルミーナは首を傾げた。

「どうかしましたか?」

「……あの、れいを承知でおうかがいしますが、ラゴル侯爵家のマティアス様が毎晩こちらにお越しになっていると聞きました。我が一族にも関わることですので、その……お二人の関係をお教えいただけないかと思い……」

「毎晩、ですか……? いっ、いいえ! 私たちはまったく、そういう関係ではなく! 団長様は廊下で警護をされていらっしゃるだけかと! ですから、私とは何もっ!」

 予想外の質問にヘルミーナは全力で首と両手を振った。まさか、マティアスがあれからも毎晩扉の前に立っていたとは思わなかった。ヘルミーナは間違ったうわさが流れていないことを祈りつつ、マティアスとの関係を完全否定した。

 するとフィンは「そうでしたか。失礼なことを訊いてしまい、申し訳ありませんでした」と謝ったが、その顔は落ち込んで見えた。そして彼は、何事もなかったように出ていった。

 一方、こちらは嵐が過ぎ去ったあとのようだった。マティアスが毎晩来ているとは思わなかったし、彼とそういう仲だと思われていることに驚いてしまった。まさか、よりによって自分と疑われるなんて。かといって、どう謝っていいかも分からない。

 ヘルミーナは深く息をついた。

 婚約が正式に解消されていない身で、次のことなど考えられない。それに、婚約が白紙になったところで誰が「お荷物令嬢」と婚約してくれるだろうか。今は光属性を宿したから皆が優しくしてくれているだけで、そうでなければこのような場所に案内されることもなかった。

 ──求められているのは「私自身ヘルミーナ」ではない。

 時々勘違いしてしまいそうになっても、社交界で浴びせられた言葉や視線がヘルミーナを現実に引き戻してくれた。貴重な力を手に入れたからといって、舞い上がってはいけない。ここには1人になっても生きていけるように、自分だけの居場所を探しに来たのだから。

 もう誰かのお荷物にはなりたくない……。

 ヘルミーナは気を取り直すように顔を二、三度たたいたあと、とりあえず今は明日の謁見に集中しようと自分に言い聞かせた。


 謁見当日──。

 いつもより気合いの入ったメイドたちに着飾られたヘルミーナは、その時点で体力の半分を失った。朝食をとらずにいて正解だった。ひもでぎっちり締め上げられたコルセットが内臓を圧迫してくる。

 それでも、白いレースがいくにも重なった、王宮で用意された水色のドレスを着せられると気分がこうようした。昔はよく、髪色に合わせたドレスを選んで着ていたのに、目立つという理由でそでを通さなくなってしまった。

 ヘルミーナのたくが整うと、廊下で待機していた護衛の騎士が呼ばれた。入ってきたのはカイザーとリックだ。一瞬、マティアスが現れたら、どんな顔をして会えばいいだろうと考えてしまった。昨晩は彼のことが気がかりで扉を開けようとしたが、結局勇気がなくて何もできなかった。おかげで寝不足だ。

「大変よくお似合いです、ヘルミーナ様」

 2人揃って近くまで来ると、リックがドレスアップした姿を褒めてくれた。彼の社交辞令はかんぺきだ。ヘルミーナも笑顔で「ありがとうございます」と返すと、リックは「本心ですので」と念押ししてきた。大丈夫、分かっている。リックの隣で何も言わず固まっているカイザーを見れば尚更だ。すると、気を利かせたリックがカイザーをひじで突いた。

「……あ、ああ……こういう時はどんな言葉をかけたらいいか思いつかなくて」

はなやかな格好は、私には似合わないかもしれません」

「いや、そんなことは絶対にない! 団服も似合っていたし、お茶会の時に着替えてきた黄色のドレスも、先日の食事会で見せてくれた格好もどれも素晴らしかった。ただ、それをどう表現したらいいか分からないんだ。私の単純な言葉では君の美しさを表しきれなくて。そんな自分がない……」

 本気で肩を落とすカイザーに、どうしたらいいか分からなくなったのはヘルミーナの方だ。

 今のは冗談だろうか。それにしては気持ちがこもっていて、演技には思えなかった。優しいカイザーのことだから、これが普通なのかもしれない。でも、おすら言われたことのないヘルミーナには、心臓に悪かった。

 慣れていない褒め言葉に恥ずかしくなってくる。ヘルミーナは顔のりを感じながらなんとかお礼を言った。同時に、残っていた体力の半分がさらに削られた気がした。

 カイザーにエスコートされつつ、ヘルミーナは転移装置に案内された。部屋からそれほど離れていないところを見ると、来訪した他国の元首のために設置されていることが分かる。転移先の特別ひん室は、まさに彼らが話し合いをする部屋だった。

 場違いもいいところだ。いっそのこと転移装置で他の場所に飛んでいけないだろうか。そう思って振り返ったが、後ろからついてきたリックに「危ないですから前を向いてください」としかられた。あれは逃げ出そうとするヘルミーナに気づいている顔だった。

「もしかして転移装置で気分が悪くなった?」

「大丈夫です……っ」

 どれに触れても問題になりそうな高級品ばかりが納められた貴賓室で、大人しく立って待っていようとしたところ、気遣ってくれたカイザーに花柄の肘掛け椅子に座らされた。ヘルミーナは浅く腰掛けて、触れる面積を最小限にした。

 その間もカイザーが目の前にひざまずいて心配そうに見上げてくる。騎士団の一件以来、カイザーの過保護が増した気がする。

 その時、貴賓室の扉が叩かれた。リックが出迎えると、上品な茶色のロングコートを着た男が中に入ってきた。背中まで伸びた黒髪に、しっこくの目はへびのように細くり上がっている。そのそうぼうで見つめられて背筋がゾッとしてしまった。けれど、上等な服装を見ても高貴な身分であるはずなのに、男は扉の近くで立ち止まると頭を深く下げてきた。

「お迎えに参りました、テイト伯爵令嬢ヘルミーナ・テイト様。国王陛下がお待ちです。謁見の間までご案内致します」

「はい……!」

「尚、謁見の間には私も同席させていただきます。他にも同席を希望した者が数名おりますが、皆顔見知りのようで。私だけが初対面ということで、ご挨拶もかねてこちらに参った次第です。申し遅れましたが、私はモリス・ラスカーナと申します。王城では宰相の職にいております」

「……宰相、さま。……初めまして、お会いできて光栄です」

 モリスと名乗った男を、ヘルミーナはまじまじと見つめた。間近で見るエルメイト王国の宰相から目が離せなくなってしまったのだ。

 彼について知っているのは基本的なことだ。元はラスカーナ一族に連なる侯爵家の次男で、宰相に就いた際に男爵の爵位を与えられ、のちにラスカーナ公爵の夫になった人だ。

 王城内で彼ほど優秀な人間はおらず、常に国王の右腕としてエルメイト王室を支え、王国の中枢を担っている人物だ。

「こちらこそお目にかかれて光栄です。それでは参りましょう」

「宜しくお願いします」

 失礼なほど見つめてしまったヘルミーナに、モリスは表情ひとつ変えることはなかった。

 廊下へ出るとモリスが先に歩き、その後ろからヘルミーナとカイザーが続いた。リックはここまでらしい。ひとばらいが済んでいるのか、廊下には誰もいない。そして謁見の間に辿たどり着くと、両側に立っていた兵士たちが分厚い扉を開けてくれた。

 中へ促されて謁見の間に足を踏み入れると、赤い絨毯じゅうたんが部屋の奥まで続いていた。辿っていくと階段があり、上った先には黄金の椅子がそびえ立つように置かれていた。そこに座っているのはもちろん、王冠をかぶった国王──リシャルド二世である。しかし、彼の隣にある王妃の椅子は空席だった。

 一方、階段のすぐ下に王太子のルドルフが立っていた。右には案内してくれたモリス、左にはレイブロン公爵、マティアスと並び、そこへ一緒に来たカイザーも加わった。想像以上にものものしい雰囲気だ。

「──光の神エルネス様のごがありますように。エルメイト王国を導く光であらせられる国王陛下にお目通りがかない光栄に存じます。テイト伯爵家長女、ヘルミーナ・テイトでございます」

「よくぞ参った、ヘルミーナよ。さあ、もっと近くに来るといい」

 ヘルミーナは定められた場所で立ち止まると、膝を曲げておした。ドレスが長くてよかった。ガクガクと震える足を見られずに済んだのだから。

 低い姿勢で挨拶をすると、国王はすぐにヘルミーナを近くへ呼んだ。言われるがまま一歩だけ近づいたが、国王の反応はいまいちだ。もう少し近づいてみるが、距離はまだ十分ある。

 すると、見かねたルドルフが「こっちにおいで」と手招いてくれた。さすがにそこまで近づくことはできなかったが、階段の近くまで足を進めると国王との距離は一気に縮まった。声もよく聞こえる。

「そなたのことはルドルフから聞き及んでいる」

「恐縮でございます」

「そう畏まらんでくれ。……と言っても難しいか」

 ヘルミーナは目を伏せたまま直立していた。すでに緊張は限界に達していた。すると、国王は「ルドルフよ」と、息子に助けを求めたようだ。このまま何事もなく済んでくれることを願っているが、そうもいかないのが世の常だ。

 ルドルフは騎士の後方で控えていたフィンを呼んで、ヘルミーナからの献上品を運ばせた。

「こちらはテイト伯爵令嬢よりうけたまわった献上品でございます」

「ほう、これが神聖魔法で作られた魔法水か」

「仰る通りです、父上。ヘルミーナ嬢が作る際、私もその場に同席しておりました」

「そうか。魔法が一切禁じられている王城で、準備してくれたというのだな」

 フィンがヘルミーナの近くで跪き、木箱を開いて魔法水の入った丸瓶を見せた。瓶はキラキラと輝き、最初に用意した時と変わりなかった。そのことに安堵したのもつか、国王の一言でヘルミーナはあおめた。

「…………え?」

「ふむ。魔法が使えない場所でも、光属性は関係ないということか」

「わ、私は……決してっ、王室に害をなそうとしたわけでは!」

 どういうこと!? と、ヘルミーナは思わずルドルフを見てしまった。

 献上品を用意する時、ルドルフはそこで魔法が禁じられていることも、使えないようになっていることも言わなかった。

 まさか、ここに来てさばかれるなんてことになったらどうしよう。急に怖くなって震えると、何かがヘルミーナの右肩を優しく包み込んでくれた。

「陛下もルドルフ殿下も悪戯が過ぎますな。ヘルミーナ嬢に何かあれば、我々騎士団が黙っていませんぞ?」

 ぬくもりを感じて顔を上げると、レイブロン公爵がヘルミーナの肩を抱いて隣に立っていた。それだけではない。マティアスとカイザーもレイブロン公爵に続くように、横に立っている。

 驚いて目を見開くと、レイブロン公爵は口の端を持ち上げて笑っていた。でも、なぜだろう。かんしたはずの左目に、前と同じ黒のがんたいが掛けられていた。もしかして元に戻ってしまったのだろうか。不安になると、レイブロン公爵は国王を真っ直ぐに見据えた。

 反逆とも思えるレイブロン公爵の行動に、モリスは冷静かついましめるような口調で「レイブロン公爵、なんのですか」と訊いた。それと裏腹に、国王は落ち着いた様子で薄く笑った。

「騎士団はたびの件で彼女に恩があるというわけか」

ようです。しかし、それだけではありません」

 そう言ってレイブロン公爵は、ヘルミーナの肩から離した手を自分の左目に持っていき、眼帯をもぎ取った。そして、彼は元通りになった左目を国王に見せた。20年間、えることのなかったきずあとを。

「ここにいるヘルミーナ嬢のおかげで、20年ぶりに陛下を両眼で見ることができるようになりました。これで救われたのは、私だけではありますまい」

「……なんと、アルバンよっ」

 レイブロン公爵は、ヘルミーナの存在を隠すために、傷が完治したあとも眼帯をしてくれていたのだろう。教会でも治せなかった目が治ったとあれば、騒ぎ出す者が出るかもしれない。だから以前と同じ姿でいてくれたのだ。ヘルミーナはレイブロン公爵の気遣いに胸を熱くした。

 そして国王もまた、臣下の嬉しい報告に声を詰まらせたのだ。

 王座に着いていた国王は、突然口元を押さえて小さなえつらした。上体が傾きそうになった時、ルドルフとモリスが駆け寄った。国王は片手を上げて「大事ない」と口にしたが、体を戻す時に見えた顔は一気にけ込んでしまったように感じる。

 それでも威厳を保ったまま、黄金のそうぼうが向けられた。

「……アルバンの傷を治したのはそなたか?」

「は、はい……仰る通りです」

「そうか……」

 恐る恐る答えると、国王はあごひげを撫でながら深い溜め息をついた。そこに込められた思いはなんだったのか。複雑そうな表情を浮かべる国王に、ヘルミーナは状況を掴めずあせるばかりだ。心配になって隣に立つレイブロン公爵を見上げると、彼は大丈夫だと頷いてきた。

 その時、ヘルミーナを見下ろしていた国王の視線が、レイブロン公爵に移った。2人の視線が重なると、国王はようやく口元をゆるませた。

「目の傷が完治したと、すぐに教えてくれればよかったものを」

「それでは彼女への感謝も薄まってしまいましょう」

「そんなこと、あるはずがなかろう」

 あるわけがない、ときっぱり言いきった国王がじりを下げると、レイブロン公爵も嬉しそうに口の端を持ち上げた。すると、室内に漂っていた重い空気が一気に晴れていった。

 それから国王は天井をあおぎ、こぼれ落ちそうになる涙を堪えるようにして、上を向いたまま口を開いた。

「随分昔のことだ。……魔物と戦う能力のない愚か者が、自分も戦えることを証明したくて周囲の反対を押し切り討伐についていった。だが、現実は想像以上にひどいものだった」

「……父上」

「辿り着いた時には村1つが壊滅的な被害を受け、そこに住んでいた村人は魔物に食い荒らされていた。その血のにおいに誘われて、他の魔物たちも集まってきた。騎士団はすぐに討伐を始めたが、予想以上に数が多くてな。……魔物の大群に囲まれてしまった。無効化の魔力しか持たない愚か者は無我夢中で剣を振り回したが、1匹も倒すことができなかった。てのひらにも満たない魔鼠まねずみですら……っ」

 国王は言いながら開いた掌をくやしそうに握りしめた。その姿に真っ先に反応したのはルドルフだった。感情を露わにして、非力な自分をなげく父親の姿を見るのは初めてだったのかもしれない。先程まで見せていた笑顔は消え去り、彼もまた悔しそうにこぶしを握りしめていた。息子だからこそ、彼にしか分からない何かがあるのだろう。

「そこに異端種の魔熊が現れ、騎士たちはやつつめに倒れていった。あれほど恐ろしい魔物を目にしたのは初めてだ。とても剣1本で倒せない相手に、恐怖で足が竦んでしまった。その時、護衛騎士だったアルバンがかばい、左目を負傷してしまった。アルバンは片目をえぐられたというのに、尚も剣に炎をまとわせて勇敢に戦い、魔熊をたった1人で倒してしまった。おかげで、他の魔物は恐れをなして逃げていったのだ……」

 それは20年も前の出来事だ。自分を庇って片目を失った友にリシャルドは自責の念に駆られ、立場が変わった今もとげのようなものがその胸に突き刺さっていた。

 時折声を詰まらせながら語る話から、国王とレイブロン公爵の間に何があったのかを理解した。ひもいてみれば、とても苦い過去だった。

 一連の話を終えた国王は椅子から立ち上がると、ゆっくりした足取りで階段を下りてきた。あの惨劇があった日に止まってしまった時間が、静かに動き出していくようだ。お互いの目に、若かりし頃の姿がうつっていても不思議ではなかった。

「アルバン……本当に、すまなかったな。余が軽率すぎたばかりに……」

「陛下、もう気になさいますな。この通り、ヘルミーナ嬢のおかげで左目は怪我をしていたのも忘れてしまったほどです」

 国王はレイブロン公爵の前に来ると、彼の肩に手を載せて俯いた。レイブロン公爵が気遣いや励ましの言葉を送るたびに、国王は何度も頷いては声を震わせた。

 王族であるがゆえに、臣下の前で簡単に頭を下げることはできない。けれど、心優しい国王はこれまでに何度も、それこそ数えきれないほど心のうちで謝ってきたのだろう。

 隣で聞いていたヘルミーナは自然に涙が溢れ、零れそうになったのを指でぬぐった。すると、目の前に影が差して顔を上げた。視線の先には国王が立っていた。

「礼を言うぞ、ヘルミーナよ。そなたのおかげで、胸につかえていたものが取れたようだ。あの時、魔物の討伐についていかなければアルバンが負傷することもなかった。余は、無二の親友に一生残る傷を負わせてしまった」

「……陛下」

「だが、今日……20年前と変わらない親友の顔を、また見ることができた! これほどの喜びがあるだろうか。そなたには感謝してもしきれない……っ」

 両方の掌を向けてきた国王に、ヘルミーナは反射的に両手を差し出した。と、ヘルミーナの小さな両手が国王の手によって力強く握られた。ヘルミーナを見つめてくるがねいろの瞳は、涙で揺れているように見えた。

 何か言わなくてはいけないと思っても、いい言葉が思いつかない。その間にも視界が滲んで、ヘルミーナは震える唇をんだ。

 自分の方こそ救われているような気がして、泣きたい気持ちになったのだ。

「──情けない姿を見せてしまったな。先程の無礼もすまなかった。恩人にすることではなかった」

「いいえ。私が禁止されている場所で魔法を使ってしまったのが悪かったのです」

 国王の手が離れると、それまでの緊張はなくなっていた。友を思う一面を見てしまったせいだろうか。国王である前に、彼も1人の人間なんだと感じることができた。

 ヘルミーナはおくすることなく「申し訳ありませんでした」と頭を下げたが、国王は片手を振って「謝罪する必要はない」と笑った。

「先程のは、そなたの緊張を解くための冗談だ。ルドルフが許可して使ったのであれば、王城内といえ問題はない。そうであろう? ルドルフよ」

「仰る通りです、父上。私が同席していたので、問題はないでしょう。──それより父上、ヘルミーナ嬢に何かほうを差し上げてはいかがですか?」

「それはもちろん、考えているとも。そなたは我が王国のたてであり、剣である騎士たちを救ったのだ。それ相当の褒美をおくらせてもらおう。何か欲しいものはあるか?」

 またか、と思ったのは自分の胸だけにとどめておく。すると、国王が「土地か? 爵位か?」と提案してきたが、どれもヘルミーナには分不相応だった。最初から希望するものを決めていなかったら、パニックを起こしていたことだろう。

 ヘルミーナは躊躇ためらいがちに顔を上げると、国王の後ろに控えるルドルフを確認したあと、もう1人の顔色を窺ってから意を決するように答えた。

「では……しゃ、宰相様を……お貸しいただけないかと……!」

「──宰相だと?」

「私、でございますか?」

 途中噛んでしまったが、褒美に宰相であるモリスを希望してきたヘルミーナに、ルドルフ以外の全員が驚いた。無理もない。それでもヘルミーナは、ドレスを握りしめながら続けざまに口を開いた。

「ルドルフ殿下より、宰相様が二重属性についてお詳しいと伺いました! 私はまだ光属性が発現したばかりで知らないことが多く、勉強不足です。ですから、私にご教授願えないかと思った次第です!」

 希望した経緯を伝えると、張り詰めていた空気が一瞬で和らいだ。

 貴族の令嬢が、いきなり国の宰相を借りたいなど前代未聞だろう。そこにやましい気持ちがなくても、王国の最も重要な情報を抱えるモリスを求めてきたとなれば、裏を考えずにはいられないのが権力者だ。

 しかし、ヘルミーナが希望したのは、モリスが個人的に研究する二重属性の知識だった。とても褒美でねだるようなものではないのに、彼女はどこまでも「普通」だった。

「なるほど。ヘルミーナ様は大変、勉強家でいらっしゃるようですね。……そうですね、国王陛下が宜しければ私は構いませんよ。ええ、国王陛下がしっかり仕事をしてくだされば問題はないでしょうから」

「ぐ……っ。まさかお前たち、共謀したのではあるまいな」

「何を人聞きの悪いことを。それで父上、ヘルミーナ嬢の希望を聞いてあげないのですか?」

 ルドルフに尋ねた時は「宰相のモリスは気難しく、王太子の自分から頼んでも協力してくれるか分からない」と言っていたが、実のところ本当に説得しなければならないのは国王の方だったようだ。国王とはいえ、自ら口にした褒美をにすることはないだろう。

 だから、この機会をねらっていたのだ。ふとルドルフに視線をやると、今回も彼はいい笑顔を向けてきた。……敵に回したらいけない人だ。

 息子の計画通りに事が進んでいるとは露知らず、国王は観念した様子で肩の力を抜いた。

「……うむ、承知した。我が右腕である宰相をそなたに貸してやろう」

 項垂うなだれながらも国王が了承すると、すかさずモリスが「ヘルミーナ様のために尽力致しましょう」と言った。とても気難しい人には思えず、モリスがかいだくしてくれたことでヘルミーナはホッとした。それから、「ありがとうございます」と膝を曲げた。

 そうして、長く思えた国王との謁見は無事に終わった。謁見の間を出たヘルミーナは、ふらふらになりながら部屋に戻った。両脇から抱えられるようにして運んでもらった気もするが、よく覚えていない。

 体力はすっかりかつしていた。また皆に心配されてしまうと思いつつ、寝不足と気疲れから、ヘルミーナは部屋に入るなりベッドに飛び込んだ。

 今日はいい夢が見られますように。そう願いながら、秒で布団に吸い込まれていった。


◆◇◆◇◆


 王城にある宰相の執務室──。

「まさか、殿下自ら私とヘルミーナ様を引き合わせてくれるとは思いませんでした」

「私が動かなくても、貴方なら勝手に動くだろうと思っただけだよ。ああ、今はモリス先生と呼んだ方がいいかな?」

「どうぞご自由に」

 一時「生徒」として出入りしていたルドルフは、そこへ久しぶりに足を運んでいた。

「ヘルミーナ嬢は、彼女の色から分かるように元は水属性の魔力を持って生まれた。そこに光属性が宿って、今は2つの魔力を所持する二重属性使いだ。これまで専門的に研究してきた先生としては、貴重な調査対象であるヘルミーナ嬢が気になって仕方ないのでは?」

「私を異常な人間のように仰るのはやめてください」

「正直に白状したらどうかな? 私だって最初は彼女の存在が信じられなかったよ」

 言いながら、ルドルフは長テーブルに置かれた分厚い本を開いた。そこには人体の絵が描かれ、2種類の異なる色筆によって魔力の流れが書き記されていた。

 1つは右足から左手に向かって流れ、もう片方は左足から入って右手に流れている。どちらも体内を巡って放出されているが、実際のところこれが正しいのかどうかは分かっていない。あくまで仮説を元に作られた書物だ。

 すると、モリスはいくつかの本や道具を運んできてテーブルに並べ始めた。顔には出さなくてもおどりしそうなほどはしゃいで見える彼に、ルドルフは肩を竦めた。

 光属性を持つ者が現れたというだけでも王国中が大騒ぎになる。そこへ来て、生まれ持った魔力も消えずに残っている二重属性使い。それが、どれほど貴重か。ヘルミーナの存在が明るみに出れば、研究者たちがこぞって押しかけてくるだろう。やっかいな者たちも。

 だが彼女は、親元を離れたばかりの貴族令嬢だ。婚約解消の件や、社交界で受けてきた心の傷もある。暫くはその傷を癒やしながら、好きなことだけに目を向けてほしい。そう思って王宮に招いたのだが、騎士団での事故は予想外だった。

 何よりヘルミーナ自らがあの惨状の中へ飛び込み、治療を施すとは思わなかったのだ。

 なぜ彼女に光属性という「祝福」が与えられたのか。その理由が、少しだけ分かったような気もする。

 何事にも一生懸命で努力を惜しまず、困っている人を放っておけない性格だからこそ、光の神エルネスは彼女を選んだのかもしれない。ただ、積極的に取り組もうとする姿勢は好ましいが、一方で自分の居場所を早く見つけなければと必死になっている様子も窺えた。

 しかし、悠長にしていられないのはルドルフも同じだ。彼は開いていた本を閉じ、真剣な表情になるとテーブルの一点を見つめた。

「──魔物の動きが以前より活発になってきている。父上には悪いが、暫く地方の視察は控えてもらった方がいいだろう」

「王妃様の具合はいかがですか?」

「魔物討伐の指揮をって無理をしたようだ。でも怪我をしたわけじゃないから心配はいらないよ。ヘルミーナ嬢が献上してくれた魔法水もある」

「私を引き離すことで、陛下を王宮内に留まらせるように仕向けたのですね」

 モリスは細い目をさらに細めて、静かにたたずむルドルフを見つめた。

 次期国王としての風格はあるものの、まだ感情に流されてしまうところがある。自身の計画にヘルミーナを巻き込んだことを後悔していないとはいえ、婚約者のアネッサや親友のカイザーと同じように気遣うところを見ると、後ろめたさがあるのだろう。

 すると、ルドルフは息をき、テーブルに両手をついた。

「我々王族は、うちの敵には強いが外の敵には弱い。誰かの力を借りなければ魔物を倒すこともできない。だから、時には力をしたくなる時もある。かつて父上がしてしまった行動は許されるものではないが、私は父上の気持ちが痛いほど理解できる」

 本来、王族は王国の民を守らなければいけない立場なのに、外に出れば民の方が強い。いくら剣術を磨いても、王族が構える剣のほこさきにいるのは魔物ではない。王族の敵はいつだって同じ王国の民なのだ。そんなこっけいな話があるだろうか。

 王国を維持するために必要なこととして、何世代にもわたって王室は守られてきた。光の神エルネスの「祝福」を受けし、高貴な血筋。それは決して絶えることなく今日まで続いている。

「果たしてこれが光の神エルネスからの『祝福』なのか。私にはただののろいとしか──」

「いけません、ルドルフ殿下」

 最後まで言いきらないうちにモリスが厳しい口調でさえぎる。ルドルフは悔しそうに唇を噛んだあと、拳を握りしめて肩を震わせた。

 どうして「無効化」の能力なのか。

 なぜ王族だけは魔物を倒す力を与えられなかったのか。

 王室のあり方について悩んでいた時、二重属性を研究するモリスの存在を知り、ルドルフは彼と共に、もう1つの属性を得る方法はないかと模索するようになっていた。

 だが、あらゆる方法を試しても、「無」にする能力がある以上、他の属性を取り込むことはできなかった。諦めきれずに苦痛を伴う実験もし、取りかれたように研究に没頭したが、肉体や精神がボロボロになって断念せざるを得なかった。

 もしかしたらこれまでの王族の中にも、同じように試みた者がいたのかもしれない。いや、きっといたはずだ。

 第一王子のスペアとして、必ず生まれてくる第二王子──彼らはいずれ王室を離れ、無効化という能力を失い、その存在すら忘れられてしまう。そんな彼らの末路はいつだって悲惨なものだった。

 だから、この先も続いていくだろう「祝福」を受けし者たちが、同じことで苦しまないようにする方法を探し続けている。

「……魔物1匹倒せない王族が、なんの役に立つと言うのだ。私は王妃に守られるだけの無能な王にはなりたくない。それ以上に、弟のセシルを……忘れ去られる王族の1人にしたくないんだ……っ」


◆◇◆◇◆


 ぐっすり眠った翌日、ヘルミーナはすがすがしい気持ちで、とある宮殿の中を歩いていた。全てから解き放たれたような解放感がある。

 しかし、案内してくれたフィンに「今日からこちらがヘルミーナ様の過ごされる宮殿でございます」と言われて、まだ夢の中にいるのだなと思った……。

 昨晩は夕食もとらずに寝てしまい、昨日の分を取り戻すように朝食を食べた。国王との謁見が終わって気が緩んだのかもしれない。見事に食べすぎた。お腹がぽっこり出ている。部屋から出ずに過ごすなら問題ないだろう、と思っていたところに、フィンがそよ風のごとく現れた。

「ヘルミーナ様がこれから過ごされる場所へ、案内させていただきます」

 それは、待ちに待った嬉しい知らせだった。ようやくこの場違いな部屋から出られる。これほど華やかな部屋で過ごすことは二度とないだろう。

 ──そう、思っていた。次に過ごす部屋へ案内されるまでは。

「やぁ、ミーナちゃん。数日ぶりだね」

「ランス、どうしてこちらへ?」

 フィンに続いて王宮内の転移装置に辿り着くと、そこにはランスの姿があった。

 顔を合わせたのは騎士団の事故以来である。妙に懐かしく感じてしまったが、指折り数えると確かに数日しか経っていない。その間に初めて会う人が多かったせいか、慣れ親しんだ顔に安心感を覚える。

「元気だった? 誰にもいじめられてない? こんなにせ……てはいないね」

「……ここのご飯がしくて、つい食べすぎてしまって」

「それは何より。今日からミーナちゃんの護衛に復帰することになったから、また宜しくね」

「本当ですか!? 戻ってきてくれて嬉しいです。ランスにはまだお礼と謝罪が済んでいなかったので」

 ヘルミーナはぽっこり出たお腹を押さえつつ、護衛に戻ってくれたランスに喜んだ。

 一方のランスは、「デートのお誘いなら大歓迎だけど、お礼と謝罪なら遠慮するよ」と笑った。この軽さも懐かしい。元気そうで何よりである。

「そういえば屋敷の方は大丈夫でしたか? ランスが調査に行ってくれたんですよね?」

「ああ、あれねぇ。うん、大丈夫。みんな元気に育っていたよ」

 それはなやつでは? と思ったが、ランスの笑顔にされた。

 失敗作だと思った魔法水を屋敷の庭や花壇に撒いてしまい、急遽ランスがテイト伯爵邸におもむいて調査をした。申し訳なくて謝ろうとした時、ランスがヘルミーナの頭にポンッと手を載せてきた。反射的に視線を上げれば、口の端を持ち上げたランスが「同じぐらいミーナちゃんの家族も元気だったよ」と教えてくれた。

 これが危険なのだ。うっかり心を奪われないようにしていても、今のはズルい。子供扱いに怒ってみせると、ランスは声を上げて笑った。

 そこへフィンのせきばらいが聞こえてきた。「そろそろ宜しいでしょうか?」と言うフィンの声がやけに低い。彼の存在をすっかり忘れてしまっていた。ヘルミーナは急いでフィンの待つ転移装置に向かった。

 3人揃って転移先に飛んだあと、フィンの案内で建物の中を歩いた。

 城内のどこかだろうと思ったのに、日差しの降り注ぐ窓の向こうにそびえ立つ王城が見えた。確かにおごそかな王城と違い、建物の内装は女性らしい造りだった。

「……あの、ここは一体」

「こちらは元々、王女様のために建てられた宮殿でございます」

「王女様の……」

「陛下との謁見後、正式に使用許可が下りましたので本日からこちらに移っていただきます」

「……誰がいらっしゃるんですか?」

 もしかしたら王族の誰かが住んでいて、侍女として働かせてくれるのかもしれない。行儀見習いとして、上流階級の婦人に貴族令嬢が仕えるのは珍しくなかった。

 個人的には、王太子妃となるアネッサの侍女も悪くないと考えていたのだが、フィンとランスの顔がなぜか険しくなった。

「誰って……ミーナちゃん?」

「ここでやとっていただけるということですよね?」

「いいえ、違います。今日からこちらが、ヘルミーナ様の過ごされる宮殿でございます」

 宮殿の一室を使わせてくれる話だと思っていたのに、どうも違うようだ。しかし、誰が宮殿の全てを貸してもらえると思うだろうか。

 ──これは夢だ。そう思ってヘルミーナは静かに目を閉じた。夢なら今すぐ醒めてほしい。

 けれど、いくら待っても現実は変わらなかった。こんな扱いを受けるために「祝福」を与えられたわけではないのに。ヘルミーナは恐ろしくなって首を振った。

「私には無理です! こんな場所、恐れ多くて使えません!」

「ミーナちゃん、落ち着いて」

「ランスも無理だと言ってください!」

 この世の終わりのような顔をするヘルミーナを、ランスは笑いながら宥めてくる。ごとだと思って。横ではフィンが、さわやかな笑顔を浮かべていた。さすがルドルフの侍従である。

「こちらは建てられてから一度も使われていない宮殿でございますので、周囲からの視線もありません。念のため移動の際は転移装置を使用していただきますが、それ以外は気兼ねなくお使いいただけるかと思います。また、ヘルミーナ様に仕える侍女やメイドはこちらでご用意致しました。のちほど紹介させていただきます」

「…………そう、ですか」

 口を挟む余地がないぐらい、フィンがまくし立てるように言ってきた。次から次に説明されて「待ってください」とも言えず、頭から煙が出てくる前に大人しく従うことにした。

 優秀な侍従によって宮殿のすみずみまで案内されたヘルミーナは、今日もぐっすり眠れそうだと諦め始めていた。

 最後に連れていかれたのは宮殿の中庭だ。外に出ると心地よい風が吹いて髪が靡いた。使われていない宮殿とはいえ手入れが行き届き、花壇に植えられた花も綺麗に咲いていた。

 その時、どこからともなく小さな足音が聞こえてきた。ヘルミーナを守るようにランスが前へ出るものの、こちらに向かって走ってくる相手を見て誰もが驚いた。

 3人の前に現れたのは、白金の髪を揺らし、黄金色の瞳を持った男の子だった。ルドルフがそのまま小さくなったような外見に、正体はすぐに知れた。

「──光の神エルネス様のご加護がありますように。セシル殿下にご挨拶申し上げます」

 フィンが先に頭を下げて挨拶すると、ヘルミーナとランスもそれに続いた。ヘルミーナはドレスを広げて膝を曲げる。そこへ、セシルが目的のものを見つけた顔で近づいてきた。

「貴女が光の神エルネス様の祝福を受けたご令嬢ですか?」

 大きな金色の瞳がヘルミーナを見上げてきた。感動を覚えてしまうほどの可愛さだ。のどから何かが飛び出してきそうになって、慌てて口元を押さえる。

 王太子であるルドルフは、一回り年の離れた第二王子の弟をできあいしていると聞いたことがあるが、なるほどと理解した。どこから見ても完璧な愛らしさに、涙まで出てきてしまいそうだ。ヘルミーナは荒くなる鼻息を堪え、頭を下げて答えた。

「仰る通りです、セシル殿下」

「では、貴女が私の姉上になられるんですね」

「…………はい?」

 聞き間違えだろうか。今、姉と聞こえた気がする。一瞬呆けてしまうと、セシルは困惑した顔で見上げてきた。

「違うのですか?」

「ちっ、違います! 私のような者が殿下の姉になど……!」

 もしかしたら、次期王太子妃のアネッサと勘違いしているのかもしれない。セシルの姉になるということは、つまり王室に名を連ねるということだ。

 ……いや、待てよ。ヘルミーナにも妹がいる。仮に妹がセシルと結婚することになれば、ヘルミーナはセシルのになる。でも、そんな話は聞いていない。そもそもセシルの姉になるという話はどこから来たのか。混乱していると、セシルがさらに近づいてきて大きな瞳をうるませながら言った。

「僕の姉上に、なってはくれないのですか……?」

「いえ、あの、その……っ、なりま……っ」

「なります!」と、勢い余ってさけびそうになった言葉を必死で呑み込む。首を傾げてくるセシルの破壊力に、悲鳴を上げなかった自分を褒めてあげたい。身も心も捧げてしまいそうな可愛さの暴力に、ヘルミーナは卒倒しかけた。実際、ランスに背中を支えられていなかったら後ろに倒れ込んでいた。

 ヘルミーナがもんぜつしてしまい、この状況をどうにかできたのは、普段から面識もめんえきもあるフィンだけだった。

「セシル殿下、ヘルミーナ様を困らせてはいけません。護衛の騎士はどうされたのですか? 貴方に何かあればルドルフ殿下が悲しまれますよ」

「……僕だって彼女に会いたかったのに、兄上が許してくれなくて」

「それは何か考えがあってのことでしょう。ルドルフ殿下はセシル殿下をとても大切にしていらっしゃいますから。宜しければ私と一緒に戻りましょう。きっと他の者たちも探しているはずです」

 フィンに叱られて肩を落とす姿も可愛い。ヘルミーナの中で溢れんばかりの母性が大暴れしている。何か問題が起きてしまう前に、フィンがセシルを連れていってくれて助かった。

 自分の弟と妹だってもちろん可愛いが、セシルはまた次元の違う愛らしさだった。

「なんですか、あの可愛らしい生き物は!」

「ルドルフ殿下にそっくりだよね」

「いいえ、ルドルフ殿下にはない純粋さがセシル殿下にはあります!」

 興奮しながら言いきると、ランスは「ミーナちゃんも言うようになったね。ルドルフ殿下となんかあった?」と苦笑された。

 ヘルミーナは遠ざかっていくセシルの後ろ姿を眺め、ほおの筋肉を緩ませた。

「セシル殿下は将来騎士になりたいって、騎士団の練武場にもよく来てくれるんだよね」

「騎士に! それは素敵な夢ですね」

「そうだね。……叶わない夢だって分かっていても、俺たちだって応援したくなるよ」

「───」

 叶わない夢、と言われてヘルミーナはランスを見た。言葉の意味を訊ねようとしたが、同じくセシルを見送るランスの横顔を見て声が出なかった。

 王族が騎士を目指すことがどんなに難しいか、この時のヘルミーナはまだ知らずにいた。


 王宮の敷地に建てられた「アイリネス宮殿」──別名、沈黙の宮殿。

 遠い昔、女の子の誕生を願った国王が、いつか生まれてくる王女のために、数十年のさいげつをかけて造らせた宮殿である。白を基調としたはくの宮殿は、王国の中で最も美しい建物だと言われている。しかし、宮殿が完成したあと、エルメイト王室に王女が誕生した記録は一切ない。

 それでも王室は魔法石や魔道具を使って宮殿の保存に努め、花壇には「希望」を意味する花が季節ごとに咲き誇っていた。

 その宮殿の臨時主人となったヘルミーナは、早速1人の講師を迎え入れていた。

「ご機嫌よう、宰相様。このたびはお時間を取っていただき感謝致します」

「こちらこそ私を指名していただき光栄です。どうぞ、私のことはモリスと。ルドルフ殿下は以前、私をモリス先生と呼んでいらっしゃいましたが、ヘルミーナ様もお好きなようにお呼びください」

「では、私もモリス先生とお呼び致します」

 緊張していることが伝わらないように、あるじらしくモリスをソファーに促す。

 モリスは茶色の長衣ちょういにベルトを巻いて、手には大きなかばんを持っていた。仕事中はきっちりした服を着込んでいたが、こちらが本来の姿なのだろう。堅苦しい格好は好きではないようだ。

「モリス先生、侍女と護衛を同席させても構いませんか?」

「ええ、構いませんよ。実験の途中で何が起こるか分かりませんから、むしろ同席していただいた方が宜しいでしょう」

 ソファーに腰を下ろしたモリスは、早速鞄を開いて持ってきたものをテーブルに並べ始めた。使い古した本に、魔力を測定する水晶、羽根ペンや紙、その他にも色々なものが出てくる。中には正体不明の物体まであった。

 ただ、道具を準備するモリスは落ち着いていたが、護衛として後ろに控えていたリックと、専属侍女のメアリは彼の言葉を無視できなかった。ちなみにメアリはリックの妹である。剣術も学んだ、護衛もできる万能な侍女である。

「宰相殿、それは危険が伴う授業ということでしょうか?」

「ヘルミーナ様に何かあっては困ります!」

「そうですね。危険かどうかは、正直やってみないと分かりません。なにせ二重属性の方を前にしたのはこれが初めてですから。もちろん、危険と判断した場合はすぐに中止させていただきます」

 そう言ってモリスは、胸ポケットから眼鏡めがねを取り出して顔に掛けた。レンズ越しに見つめられると、反射的に背筋が伸びてしまう。蛇に睨まれたかえるは動けなくなると言うが、蛙の気持ちが分かるようだ。

 しかし、この授業は自ら望んだことだ。不足する知識を補えば、今よりずっと上手に魔法が扱えるようになるかもしれない。ヘルミーナは肩の力を抜くように息を吐いて、モリスに「宜しくお願いします」と視線を合わせた。

「では、基礎から始めていきましょう。王国に存在する4つの属性はお分かりですか?」

「火属性、水属性、風属性、土属性です」

「仰る通りです。エルメイト王国の民は必ず、この4つの属性の中から1つの魔力を持って生まれてきます。かく言う私も土属性の魔力を持っています」

 モリスは説明しつつ、右手を出して掌に魔力を放出させた。すると、掌の上に土のかたまりが現れ、何度か形を変えたあと、帽子を被った熊が現れた。

 掌に乗るほど小さな熊がテーブルに飛び移り、ヘルミーナの前に来ると、帽子を取ってお辞儀をしてくる。思わず「わあ!」と声を上げると、熊は照れくさそうに帽子で顔を隠した。直後、一瞬にして消えてしまった。

「──と、こんな具合です。ヘルミーナ様は水属性をお持ちかと存じます」

「はい。……魔力はとても少ないのですが」

「属性と魔力は9割が遺伝で決まると言われております。土属性同士の両親であれば、生まれてくる子も必ず土属性になります。一方、違う属性同士のこんいんであれば、子供は魔力が高い方の属性を持って生まれてくるのが一般的です。しかし、見える魔力が全てではありません」

「生まれながらに誰もが持っているという、潜在魔力のことでしょうか?」

「しっかり勉強されているようですね。普段、我々が使っている魔力は、全体の半分にも満たないと言われています。ですが、民の中には潜在魔力を引き出してかくせいする者もいます。それが第二次覚醒です」

 話の流れから第二次覚醒の話になることは分かっていた。それを聞けば、考えないようにしていたエーリッヒの顔がチラつくことも覚悟していた。でも、今は雑念を払ってモリスの声に集中した。

「第二次覚醒も二重属性同様、覚醒方法については分かっておりません。ただ、覚醒をした者の多くは身に危険が迫った時に開花したと聞きます。おそらく、無意識のうちに潜在魔力を引き出したのではないかと思われます」

「──……」

「それでは次に、二重属性についてお話ししましょう」

 ヘルミーナは上手く顔が作れなかった。子供の頃に植えつけられてしまった恐怖は、そう簡単に癒えるものではない。

 幸いなことに、モリスはヘルミーナの婚約者について一度も触れてこなかった。社交界で流れているヘルミーナの評判はすでに知っているだろう。しかし、えて避けてくれたのか、おかげで気持ちが途切れることなく彼の授業に打ち込めた。

「二重属性はご存知の通り、属性を2つ持つことです。これまでの歴史の中で、数例ほど報告されています。1人はヘルミーナ様と同じように光属性を与えられた聖女様です。彼女は元々、土属性を持っていました。こちらはあまり知られていないかと思います」

「……初めて知りました。聖女様は生まれながらに光属性があったものとばかり」

「聖女様は元々孤児として教会で育ちましたから、彼女の両親や子供時代についてはほとんど知られていません。中には聖女様が、異世界から来た少女だと言う方もいらっしゃいました。ですが、ラスカーナ公爵家に残された書物に、聖女様に関する記述がありました。一族は光属性を宿した彼女を保護しようと、随分手を尽くされたようです。結局は教会に断られ、彼女は神殿へ連れていかれました。そこで聖女の称号を与えられて、ぞくから切り離された生活を送ったようです」

「聖女様の伝説は書物などでも目にする機会がありましたが、晩年はどうされていたのか書かれたものはありませんでした」

「私も詳しくは知りませんが、聖女様は多くの民を癒やし、多くの魔物を浄化じょうかしたことでとこせ、若くしてお亡くなりになったと言われています」

「そんなことが……」

 聖女の話になったたん、熱く語り出したモリスだが、ヘルミーナもまた初めて知る事実に驚きを隠せなかった。

 書物などに描かれた聖女は、黄金の髪と目を持った、光の神エルネスの化身とまで言われるような容姿だった。そして、西の城壁に押し寄せてきた魔物の大群を、光の防壁を作って防ぎきったという伝説がある。もしかしたら、土属性による土の壁と光属性の魔力を掛け合わせたのかもしれない。

 同じ光属性を与えられた今、聖女こそ師となる存在だろう。それだけに知り得なかった聖女の情報をもっと知りたくなった。だが、モリスはそれ以上語るつもりはなかったようだ。

「……話を戻しましょう。聖女様の他に、魔王を討伐したある勇者が二重属性です。聖女様よりずっと前の話になるため、こちらも定かではありませんが、彼の場合は火と風の属性が使えたと言われております。そして最後に、口に出すのも憚られますが……魔物の王も、闇属性と他の属性を持っていたとされています」

「勇者と、魔王ですか」

 聖女と勇者と魔王。どれも自分とは比較にならない歴史上の人物に、胃が重くなった。とても恥ずかしくて、名乗り出ることなどできない。改めて、なぜ自分だったのだろうと思わずにはいられなかった。

 その後も授業は続き、魔法や魔力、属性について学び直したヘルミーナは、すっかりモリスの話にのめり込んでいた。魔法に関しては子供の頃に一通り学び終えると、専門的な仕事にでも就かない限り、再び勉強することはない。

 貴族令嬢で重要視されるのは、結婚適齢期に婚姻して、優れた子供を生むことだ。昔と違い女性も騎士になれる時代になってきたが、女性の地位はまだまだ低い。それだけに、貴族令嬢のヘルミーナが上流貴族であるモリスと学び合っているのはとても珍しいことだった。

 モリスは一通り説明を終えると、今度はテーブルに並べた道具に手を伸ばした。

「それでは実際にやってみましょう」

「こちらは魔力測定器ですか?」

「半分当たりですが、半分は違います。魔力を測ることも可能ですが、どちらかと言えば魔力の流れを読むことがメインになります」

「魔力の流れを……」

「最初に水属性の魔力を流していただけますか?」

 最初に差し出されたのは、青い布が掛けられた台に載る、透明な水晶だった。

 気になって水晶の中をのぞき込むと、中央だけが七色に輝いていた。吸い込まれそうなほど綺麗な水晶玉にれてしまったあと、ヘルミーナはそっと手を載せた。

 水属性の魔力を流し込むと、水晶が青色に輝いた。同時に中心部分にうずが巻き始め、最後は水晶全体を巡るように大きく左回転した。モリスは水晶をじっくり観察したあと、眼鏡を押し上げた。

「……では次に、光属性の魔力をお願いします」

「分かりました」

 良いとも悪いとも言われず不安に駆られるも、ヘルミーナはモリスに言われるまま光属性の魔力に切り替えて水晶に流し込んだ。

 すると、今度は水晶が白く輝き出した。だが、変わったのは水晶の色だけだ。ヘルミーナは祈るような気持ちで、沈黙したまま微動だにしないモリスの顔色を窺った。

「微量ですが、水の魔力も混ざっていますね」

「すっ、すみません」

「いいえ、違います。ヘルミーナ様は今、2つの魔力を同時に放出されたということです。ですが、水晶は先程と変わらず回転したままです。つまり体内を巡る魔力は、属性によらず同じ回路を流れていると推測しました。実に素晴らしい。こんなことが可能だとは……。なるほど、だから魔法が使えない王城の中でも魔法が使えたのでしょう。光属性は無効化の能力を受けませんから」

「1人で訓練していた時も魔力の切り替えが難しかったのですが、何かコツみたいなものはありますか?」

「手段がないわけではありません。ただ、ヘルミーナ様はあまり好きではないかもしれません。宿敵のようなものでしょうから」

「宿敵……」

「それがこちらになります。王族が魔法石に魔力を流して作られた、魔法を無効化する魔道具です」

「……これが例の」

 それはなんの変哲もないかくの白い箱だった。しかし、ヘルミーナにとっては天敵とも呼べる道具だ。それを前にして自然と肩に力が入った。この魔道具のおかげで反逆の罪に問われそうになったり、国王からとがを受けそうになった。

 つい見つめる目に力が入っていると、魔道具を持ち上げたモリスから「こちら1つで首都に庭付きの屋敷が建てられます」と言われて、あまりの値段にヘルミーナの顔が崩れた。後ろに控えていたリックとメアリも、反応は一緒だった。

「とてもお高いのですね……」

「ええ、とても貴重な代物です。ですが、売買は禁止されていますので、値段はあくまで私の推測に過ぎません」

 そこまで高価なものだとは、思わず身を引いてしまう。無効化の魔道具については以前、アネッサが簡単にではあるが説明してくれた。その時も、値段が高くて一部の上流貴族しか購入できないと言われたことを思い出す。

 その魔道具をモリスがいじった。すると、上の蓋が開いて中から黄金に光る魔法石が自動で持ち上がった。宝石が明るく光ると、室内の空気が一瞬乱れる。

 実際は体内を巡る魔力が、魔道具の力を感じ取ったようだ。言いようのない感覚に首をひねると、モリスは稼働させた魔道具をヘルミーナの前に置いた。

 ヘルミーナは使うかどうか悩んだあと、恐る恐る魔道具に手を伸ばした。瞬間、体内を巡っていた魔力が弾け飛ぶように消えるのを感じた。反射的に手を引っ込めてしまうと、モリスが「いかがですか?」と訊いてくる。これが魔力を消される感覚なのか。ヘルミーナは自分の手を見下ろして目を瞬かせた。

 魔力が枯れれば命も失ってしまう民にとって、魔力は何より重要だ。それだけに魔力が抜ける感覚は気分のいいものではなかった。自ら命を危険にさらすようなものだ。しかし、ヘルミーナは体内を巡る魔力にある変化を感じていた。

わずかですが、光属性の魔力が強くなったような気がします」

「水属性の魔力だけが抜けたのでしょう。そのまま強くなった光属性の魔力を、水属性の魔力を飲み込むような感じで巡らせてみてください」

「やってみます……」

 頷いたヘルミーナは、目を閉じて体内を巡る魔力に意識を集中させた。2種類ある魔力はお互いに反発し合うことなく流れ、重なり合うこともない。発現したばかりの光属性の魔力が僅かだったのに対し、これまでヘルミーナの成長を支えてきた水属性の魔力は体の隅々まで流れていた。けれど今は、水属性の魔力が弱まっている。

 ヘルミーナはモリスに言われた通り、水属性の魔力を外側から包み込むように光属性の魔力で覆った。次第に水属性の魔力が弱まってくると、騎士団で放出した時と同じ強い光を感じた。体全体に光属性の魔力が行き届くのを感じると、ヘルミーナは再び水晶に右手を載せた。その時、白い光の蔦が右手から現れて水晶に絡みつき、ヘルミーナの体まで伸びてきた。

 その神秘的な光景に、モリス、リック、メアリは息を呑む。一方で水晶の中心が、先程と違って回転することなく中央に留まり、白く輝き出した。

「──これはすごい。……ああ、もう大丈夫ですよ」

「モリス先生、水晶が回転しなかったのですが」

「ええ、私もこのような現象は初めて見ました。そもそも光属性に魔力の流れはないのでしょう。そのため必要に応じて変化することが可能なのだと思います」

「私の水属性の魔力と同じ流れになり、一緒に使えるようになったということですか?」

「ええ、その通りです。光の神エルネス様は、全てを分かった上でお与えになったのかもしれません。どちらも大切に使えるようにと。今の感じを忘れずにいれば神聖魔法も上手に使いこなせるでしょう」

「ありがとうございます、モリス先生」

「いいえ、私の方こそ貴重な実験に立ち会えて嬉しく思います。そういえば1人での訓練もいいですが、より実践的に訓練するのも悪くないでしょう。ちょうどおすすめの場所がありますが、いかがですか?」

「おすすめの場所、ですか?」

「ええ、怪我人の絶えない場所なので、とてもいい訓練相手になりますよ」

 言われてヘルミーナは「あ……っ」と声を漏らした。そんな場所は、彼女が知る限り1つしかない。

 ヘルミーナが後ろにいたリックを見ると、彼はすでにさとった顔で「私で宜しければ騎士団総長にお伺いしてきます」と言った。


◆◇◆◇◆


「そういえば最近、マティアス団長とカイザー副団長の姿が見えないな」

「2人なら、騎士団の規則に触れたばつで、第二騎士団が取り逃がした魔物の狩りに出かけてるよ」

「なんだって……? それは……山が一面焼け野原になってないといいな……」


 神聖魔法を訓練するため、暫く騎士団の病室で治療をさせてもらえないか──。

 その話は、リックやモリスの働きかけもあり、騎士団総長のレイブロン公爵にしっかり伝えられた。一方、レイブロン公爵は「ヘルミーナ嬢は私を破滅させたいらしい」と、笑いながら快諾してくれたようだ。

 許しを得たルドルフは、騎士団のひっぱくした医療体制と人手不足に目をつけて、直ちに予算会議で人員確保と予算の追加を訴えた。大臣の中にはしぶる者もいたが、国王陛下の視察に同行した第二騎士団の惨状が語られると、会議室は静まり返った。もし、ここで「騎士の鍛え方が足りないからだ」などと口をすべらせれば、討伐を指揮した王妃への侮辱ぶじょくにもなる。

 おかげで騎士団には見舞金や予算が追加され、人員確保の要望も聞き入れられた。

 一方、そんないきさつを知らずに報告を受けたヘルミーナは、働けるようになったことを喜んだ。宮殿での生活は悪くなかったが、客人をもてなすような高待遇にいたたまれなくなっていた。……決して体重が気になったからではない。

 そしてヘルミーナは、増員された使用人にまぎれて騎士団に出入りすることになった。専属侍女のメアリも一緒についてきてくれることになり、とても心強い。主従関係ではあるものの、同年代の友人がいないヘルミーナにとって、メアリは気兼ねなく話せる相手だった。彼女のおかげで慣れない生活でも充実感を覚え、何より笑顔でいる時間が増えていた。

 もちろん、光属性の魔法訓練もしっかり行っている。授業がない日は魔法水を作ったり、花壇や庭に神聖魔法をかけて経過を観察したりしていた。周囲を窺うことなく、魔法の訓練ができるのはよかった。うっかり頑張りすぎると庭師が大忙しで、草を刈ったり、増え続ける花壇の花を鉢に植え替えたりしてくれていた。

 そんな周りのサポートもあり、ヘルミーナは二重属性を切り替えるコツを掴みつつあった。騎士団の宿舎に初めて案内された時よりも格段に成長しているはずだ。

 ヘルミーナはメアリと共に、支給された使用人の服に着替え、転移装置を使った。

 騎士団の宿舎に移動すると、すぐにランスが出迎えてくれた。「エプロン姿も素敵だね」と言うランスだが、えん色のワンピースに白いエプロンを着た使用人など見慣れているだろうに、褒めないと気が済まないようだ。そういう病気なのかもしれない。

 ヘルミーナとメアリは、配属先の病室に向かった。途中の廊下ですれ違った騎士が、「あ」と声を漏らして軽く会釈えしゃくしてくれた。

 ランスに案内されたのは病室ではなく、医者や看護師の当直室だった。お世辞にも綺麗とは言えないほど室内は散らかっている。人手不足と言われる理由がよく分かった。横にいたメアリが「仕事には困らなそう」とつぶやくのが聞こえた。

 しかし住めば都と言うだけあって、慣れてしまえばこの環境も気にならないのかもしれない。白衣が掛けっぱなしの黒いソファーに、見覚えのある医者が座っていた。ロベルトだ。

 彼は今しがた起きたといった感じで大きな欠伸あくびを零し、ヘルミーナたちに気づくとソファーから立ち上がった。

「本日よりロベルト先生の助手として働くことになったミーナです。宜しくお願い致します」

 騎士団の使用人はいくつかの班に分かれていたが、とくに病室の人手不足は深刻で出入りが多かった。そのため簡単に、ヘルミーナとメアリは病室への配属に決まったのである。子爵令嬢のメアリはそのままリックの妹として入り、ヘルミーナは身分を偽り、平民の娘として雇用されることになった。ミーナ、と名乗ったのはそのためだ。

 するとロベルトはヘルミーナの前に立って、小さく頷いた。

「話は聞いている。まあ、どちらかと言えば俺の方が助手になるだろうがな」

「いいえ! 先生の的確で素早い治療があるからこそ、患者の方々は無事でいられるのです。先生のご迷惑にならないよう頑張ります」

「……お嬢さんと話していると、自分が恥ずかしくなってくるな」

「え、どういう……」

「いいや、なんでもない。こちらこそ宜しく頼む」

 一瞬、額を押さえたロベルトは、すぐに顔を上げて右手を差し出してきた。

 ロベルトの握手に、ヘルミーナは笑顔で応じた。レイブロン公爵とはまた違った手だ。けれど、どちらの手にも、それぞれの道を極めたあかしが刻まれている。

「早速で悪いんだが、実は数日前に討伐から戻ってきた第二騎士団の騎士たちが酷い怪我でな。ある程度の治療はしたんだが……状態がよくない」

「魔法水は前回ほどではありませんが、作ってきました。ただ、ご迷惑でなければ重傷の方は、私が直接治療したいと思います」

「迷惑なものか。それじゃついてきてくれ」

 白衣を着たロベルトは、すでに医者の顔に戻っていた。

 ヘルミーナも当然、使用人として働きに来たわけではない。騎士たちの治療にやってきたのだ。彼らが1日でも早く復帰できるように。ただ、まだ使いこなせていない光属性の魔力を訓練するためでもあった。神聖魔法の効果も調べる必要がある。

 騎士を実験台にしてしまうようで後ろめたさはあったが、レイブロン公爵は「むしろ感謝したいのはこちらの方だ」と言ってくれた。その気持ちに少しでもむくいるために、ヘルミーナはロベルトのあとについていった。

 隣の病室にはみ出るほど、ベッドは怪我をした騎士で埋まっていた。ただ、前回の事故に比べると、怪我人は治療されたあとで落ち着いていた。

「重傷患者は左側のベッドだ。右側は比較的軽傷の患者になる。他にも怪我人はいるが、入院する程度じゃない奴には通ってもらっている」

「承知しました。では、メアリ……さん、は軽傷の方に青い瓶を。私は重傷の方から順番に治療していきます」

「俺は何を手伝えばいい?」

「ロベルト先生には、患者の症状を教えていただきたいです」

「ああ、分かった」

 メアリはもくれいして、ランスと共に青い瓶を配り始めた。ヘルミーナが宮殿で作った魔法水である。瓶のラベルにはそれぞれ魔力の高低を記し、メアリには効果を確認するように伝えていた。

 瓶を確認しながら患者に配る様子を見て、ヘルミーナは自らも重傷患者の元に向かった。

「この患者は左腕と左足の骨折だ」

「……ありがとうございます」

 端のベッドに着くと、ロベルトが患者の症状を教えてくれた。すでにほうたいが巻かれ、処置されている。前回と違って、血の臭いもしない。それでも騎士にとっては致命的な怪我だ。

 ヘルミーナは患者の男性に向かい「手に触れますね」と断ってから、彼の右手に手を重ねた。そうすることで、より相手の状態を把握し、的確に魔法をかけることができる。

 二重属性は、属性が増えても魔力が2倍になることはない、とモリスは言っていた。ヘルミーナの魔力はそれほど多くない。一度に放出すると、すぐに枯渇してしまう。そうならないために、患者の怪我の具合に応じて魔法を使っていく方法を決めた。

 目を閉じて掌に魔力を込めると、淡い光が漏れる。男性はたいの知れない現象にビクッとしたが、次第に信じられないものを見たような表情に変わっていった。

「──いかがですか?」

「あ、ああ……。痛みが、消えた」

「ロベルト先生、包帯を取っても宜しいですか?」

「それは俺がやろう」

 医療関連の書物にも目を通しているが、実際にやってみるのは大違いだ。ロベルトが反対側に立って患者の包帯と添え木を外していく。すると、男性はますます驚いた顔で、自分の左腕を動かし始めた。

「……っ、動く、折れてた腕がっ。あ、足も……っ」

「よかったです。他に違和感はありませんか?」

「ないです、全く! なぜ、こんなことが……っ」

 奇跡だ、と口にした騎士の言葉に周囲はざわついた。折れていた腕と足が突然完治すれば、誰だってすぐには信じられないだろう。けれど、嬉しいことは自然に受け入れやすい。感動して涙ぐむ男性の顔を見て、こちらまで泣きそうになってしまった。

 ヘルミーナは緩みそうになる感情をぐっと堪え、お礼を聞いてから次のベッドに移った。

 そうして次の患者も魔法で治療すると、感動のあまり抱きつかれそうになった。その時は「はいはーい。ミーナちゃんへのおさわりは禁止ー」と、ランスが間に入って止めてくれた。

 左側にいた重傷患者を全て治療したあと、ヘルミーナはメアリと合流した。魔法水の効果を聞けば、1人が完全には回復しなかったようだ。といっても、肩を噛みられた痕が僅かにふさがらない程度だったが。ヘルミーナは残りの魔力でその男性騎士も完璧に治した。

 仕事をやり終えたヘルミーナは大きく息をついた。これなら病室に入れなかった軽傷の騎士も、数日後には全員できそうだ。ホッとしたところで、名を呼ばれた気がして振り返った。

「ヘルミーナ嬢はここにいるか?」

「カイザー様?」

 随分懐かしい声が聞こえたかと思えば、全身ボロボロになったカイザーが現れた。

 明らかについ先程まで戦っていたという様子に、事故の時を鮮明に思い出して息を呑んだ。まさか、また魔物が? あの日の恐怖がよみがえって立ち尽くしてしまう。するとランスが近づいてきた。

「大丈夫だよ、ミーナちゃん。2人とも、魔物の討伐から帰ってきただけだから」

「……魔物の、討伐?」

 一度ランスを見上げたヘルミーナは、出入口へ視線をやった。確かにそこには2人、カイザーとマティアスが立っていた。使用人の姿をしたヘルミーナに気づくと、2人はあっという間に距離を詰めてきた。一瞬だった。

「ヘルミーナ様、なぜそのような格好を……」

「まさかルドに働かされて……?」

「ち、違います! 私が騎士団の病室で神聖魔法の訓練をしたいと言ったので!」

 背筋がこおるような殺気を感じて、ヘルミーナは首を振った。ランスの話からすると、2人は魔物の討伐に出ていたようだ。だから知らなかったのだ。2人が危険を顧みず討伐に出かけていたことを、ヘルミーナが知らなかったように。

 マティアスはカイザーほどボロボロになってはいなかったが、団服は汚れていた。彼らがどんな環境で戦っていたのか分からない。けれど、無事に戻ってきてくれた。ヘルミーナは肩の力を抜き、安堵の息をついた。

「……お二人とも無事で、よかったです。──お帰りなさい」

 安心して顔がほころぶ。その顔で2人に向かって言うと、カイザーは小刻みに震え出し、涙まで浮かべている。マティアスはじっとヘルミーナを凝視ぎょうしして動かなくなってしまった。違和感だらけの2人に「どうかしましたか……?」と訊ねたが、返事はなかった。「気にしなくていいよ」とランスは言うが、本当に大丈夫だろうか。

 同じく一部始終を見ていた騎士たちは、察した様子で頷き、メアリはやれやれと肩を竦めている。1人オロオロするヘルミーナのところにロベルトがやってくると、「ほら、関係ない奴らはもう出ていけ」と、騎士団の誇る最強の2人を廊下へ追い出してしまった。

 すると、病室には自然と笑い声が広がった。その笑いは次々に伝染し、悲しみに暮れる者は誰もいなくなっていた。


◆◇◆◇◆


「二重属性になっても魔力が2倍になることはありませんが、両方を同時に使用すると、二重に減っていくというのは厄介ですね」

 定期的に行っている授業で、ヘルミーナの纏めた書類に目を通しながら、モリスは口を開いた。厄介、と言いながら、書類を見つめる目は鋭く光っている。

 魔法について新しい発見をした時のモリスは、表情に殆ど出さないものの、子供のようにはしゃぐ。その顔を見るのがヘルミーナのひそかな楽しみだ。船を見上げる時の父親と同じ顔をしていた。

「初めの頃は水魔法と一緒でないと神聖魔法を使えなかったので、掛け合わせたものになっていました。でも近頃は、訓練のおかげで魔力の切り替えができるようになり、元となる水をあらかじめ用意することにしました」

「……なるほど。聖女様も儀式では聖杯に水を入れ、それに神聖魔法をかけて治療薬を作っていたと言われています。水そのものに力はなかったと思われます」

「今回使用した水も、ごく普通の飲み水でした。水魔法と一緒に出すよりも、効果は高いことが分かりました」

「それだけ神聖魔法の精度が上がったということでしょう」

 何度も書き直した書類を、ヘルミーナはモリスに手渡した。訓練の内容と効果、その時どれだけの魔力を使ったか、回復にはどれだけの時間を要したかなどを、事細かに記している。

「コップ1杯分の水にかける神聖魔法をそれぞれ低、中、高と3つに分けたのですね。とても分かりやすいです。低い神聖魔法をかけた魔法水の効果は、切り傷やぼくの治癒、中間は骨折や古傷を治し、そして最も効果の大きい魔法水は……あらゆる病気や怪我を完治させるものだと。これは誰かが実際に飲まれたのですか?」

「実は……ロベルト先生が、実験台になってくださいました。効果があやふやなものを患者に飲ませるわけにはいかないと、自ら飲まれて効果を教えていただきました」

「医者であるベーメ男爵が確かめたものですから、まず間違いないでしょう。少し羨ましく思いますが」

「あの、でしたらモリス先生も……」

「いいえ、私は遠慮しておきます。元気になりすぎると、仕事を増やされるだけですから」

 どこか遠くを見つめるモリスに、ヘルミーナは口を閉じた。

 国の宰相として多忙な毎日を送るモリスから、この授業の時間が唯一の息抜きだと漏らされたことがある。しかしモリスの滞在する時間は徐々に短くなっていき、負担をかけているのではないかと不安になっていた。もし、モリスが過労で倒れることがあったら、全力で治療するつもりだ。

「ちなみに魔法水は、1日でどのぐらい作れますか?」

「低い魔法水は1日20本から30本、中間は10数本程度、高いものは2本ぐらいが限界かと」

「それでは全ての魔力を出しきったとして、回復するにはどのぐらいの時間が必要だと思われますか?」

「私は魔力が少ないので、1日あれば回復できると思います」

「1日ですか……。その間は水魔法も使えなくなってしまうというわけですね」

 魔力を溜めておけるうつわが1つである以上、神聖魔法で魔力を使い果たしてしまうと、水魔法も必然的に使えなくなってしまう。身を守るすべがなくなってしまうということだ。

 ヘルミーナが頷くと、モリスは考えるように顎を触った。

「二重属性の仕組みと、神聖魔法の効果については分かりました。まだまだ調査は必要ですが、ひとまずヘルミーナ様の負担を考えて、1日に使う魔力の量を決めた方が宜しいでしょう」

「……そう、ですね」

 もし、もっと自分に魔力があったなら。無限に使える魔力があれば、こんな問題に頭を悩ませることはなかっただろう。何より「お荷物の婚約者」になることもなかった。

 何度も、何度も、ヘルミーナを苦しませてきた問題。それがまた大きな壁となって立ちはだかってきた。ヘルミーナは両手を見下ろして、ひ弱な自分に溜め息をついた。

 ──負担を減らして効率を上げる方法か……。

 モリスの授業のあと、ヘルミーナは少ない魔力でいかに魔法水を作っていくか、騎士の治療を行っていくかを考えていた。しかし、一晩経ってもいい方法は思い浮かばなかった。

 聖女の記述がある書物を読みあさったが、彼女がどうやって多くの民を助けたのか、具体的な方法は書かれていなかった。どれも「奇跡」や「祝福」という言葉で表され、肝心なことは何も分からなかった。

 魔力を限界まで使って、翌日寝込んでいては意味がない。魔力を気にすることなく神聖魔法を施すことができれば、より多くの人を救うことができるのに。

 でも、きっといい方法があるはずだ。そんな確信がある。それなのに、その方法が思い浮かばない。いや、何か忘れているような気がしてならなかった。

「……さん、ミーナさん!」

「え、あ……」

 がらんとした病室で作業をしていたヘルミーナは、呼びかけられてハッと我に返った。視線を上げると、男性騎士が困り顔でヘルミーナを見つめている。

 何が……と思って視線を下げると、そこにはピカピカに輝いた腕があった。打撲で青くなっていた怪我は綺麗さっぱり完治し、男性の肌は赤子のような仕上がりになっていた。神聖魔法の掛けすぎだ。

「ご、ごめんなさいっ!」

 ヘルミーナは騎士から手を離して謝った。必要以上に魔力を使ってしまった。騎士は、「治療してくださり、ありがとうございました」とお礼を言って、病室から出ていった。

「大丈夫ですか?」

「はい、平気です……」

 椅子に座ってぼうぜんとしていると、護衛のリックが近づいてきた。余計な心配をかけてしまったようだ。ヘルミーナは締まりのない顔を両手でみ、肩の力を抜いた。

 討伐で怪我を負った第二騎士団の治療は、先程の彼で終わった。他に訓練で怪我をした騎士の治療を行い、それも完了している。おかげで病室の患者は誰もいなくなった。

 ただ、気がかりなこともある。騎士の話では、重傷を負った騎士が王都に戻ってこられず、まだ向こうに留まっていると聞いた。

 魔法水を届けてもらおうかと考えたが、ベッドから起き上がることもできなかった騎士がいきなり完治して動いていたら大きな騒ぎになるだろう。光属性の存在が明るみに出れば、ヘルミーナの力を求めて多くの人が殺到するかもしれない。そうなった時、全員を治すことは難しい。かといって、誰かを選ぶこともできなかった。

 ヘルミーナは焦る自分に、落ち着くように言い聞かせた。魔力の量となると、どうしても気落ちしてしまう。折角、騎士たちからの感謝を素直に受け入れられるようになったのに。もっと胸を張らなければ。

 その時、近づいてくる足音が聞こえて、顔を上げた。

「ミーナ、今いいか?」

「どうかしましたか、ロベルト先生」

 現れたのは、朝から席を外していたロベルトだ。

 ヘルミーナの魔法水を飲んだからか、10歳は若返って見える。なんでも女性の騎士がロベルトを見るなり、一体どんな魔法を使ったのかと殺到したらしい。「美容にも効果があると知られれば、今度は女性騎士が病室に列をなしそうだ」とたんそくするロベルトに、ヘルミーナは口を結んだ。すでに、それを試したことがあるとは言えなかった。

「今日なんだが、練武場で大規模な訓練が行われる。緊急事態に備えて医者の要請があった。念のため君も一緒についてきてくれ」

「分かりました」

 魔物を使った訓練ではないと言われて安堵したが、騎士同士の訓練を見るのは初めてだ。

 ヘルミーナはうわの空だった気持ちを入れ替えて、一度も足を踏み入れたことのない騎士団の練武場に向かった。


 ロベルトと練武場へ入ると、騎士たちが一面に広がって訓練をしていた。

 剣の弾ける音が至るところから聞こえてくる。私兵の訓練を見学したことはあるが、雰囲気はまるで違っていた。訓練というよりは、一対一の真剣勝負を見せられている気分だ。激しい打ち合いに見ている方がハラハラしてしまう。

「来たか」

 練武場の見学席に上がると、ヘルミーナたちを出迎えたのはレイブロン公爵だった。ヘルミーナが軽く膝を曲げて挨拶すると、レイブロン公爵は頷き返してくれた。

「今からルドルフ殿下とセシル殿下、大臣たちが視察にやってくる。普段通りで構わないと言っているんだが、こういう時に限っていつも以上に力をはっしてしまう問題児がいてな」

「診る患者がいなくなったとはいえ、怪我人を作ってもらっては困るんだがな。それでなくても、ミーナの治療を求めて、病室に近づきもしなかった奴らまで足を運ぶようになったんだ。まぁ、気持ちは分からんでもないが」

 レイブロン公爵とロベルトは気心の知れた間柄のようだ。身分差を感じさせない2人を後ろから眺めていると、不意に振り返られて背筋を伸ばした。「どうかしましたか?」と訊ねたが、2人は苦笑するだけで教えてくれなかった。

 咳払いで誤魔化したレイブロン公爵は、「とりあえず宜しく頼む」と言ってきた。一方のロベルトも「下に行くぞ」と言い、何も聞けないままヘルミーナは再び背中を追った。

 練武場に下りると、地面より一段低い場所に退たいごうがあった。簡単な攻撃から身を守り、何かあればすぐに飛び出していける造りになっている。中には医療道具も揃っており、背後にあるドアを抜ければ宿舎の病室へ最短で向かえるらしい。常に備えているということだ。

 ヘルミーナはロベルトと一緒に医療道具を確かめ、緊急事態の場合の打ち合わせを行った。ちなみにここでの神聖魔法は禁じられた。「大臣たちに見つかったら最後だ」という警告を、しっかり胸に刻む。

 暫くすると、周囲が騒がしくなった。人の話し声がいくつも聞こえてくる。すると年の離れた兄弟が、護衛の騎士を率いて現れた。この王国で最も美しい兄弟と言っても過言ではない。見慣れていると思ったのに、臣下に囲まれたルドルフの姿を見ると、あまりのまぶしさに目を瞬かせてしまった。

「やあ、ベーメ男爵。元気そうで何よりだ」

「光の神エルネスのご加護がありますように。ルドルフ王太子殿下とセシル殿下にお会いできて光栄です。このたび、ルドルフ殿下が騎士団の医療体制に目を向けてくださり、優秀な人材が入ってきたおかげで仕事が楽になりました。心より感謝申し上げます」

「それは何よりだ」

 ルドルフがヘルミーナたちに気づいて声をかけてきた。ロベルトの挨拶に合わせて一緒に頭を下げる。けれど、ヘルミーナたちに興味を示したのはルドルフとセシルだけだった。大臣たちはレイブロン公爵を囲んで、腹の探り合いに熱を上げている。

 ふと視線を感じて顔を上げると、ルドルフの後ろから顔を出したセシルが、他の人に見つからないようにこっそり手を振ってきた。あまりの可愛さに「ンンッ」と、声にならない声を漏らしてしまう。目立ってはいけないのに、思わぬ刺客がいたものだ。ヘルミーナは必死に口を押さえた。

 その時、激しい爆発音がして、音がした方へ反射的に顔を向けた。遅れることすぐ、熱を含んだ突風が吹き抜けていく。

「今のはマティアス卿とカイザーだね」

「加減を知らない奴らですから」

「お互いゆずれないものが増えたようだから力が入っているのかな」

 一瞬、ルドルフと目が合う。彼はにっこり笑うと、すぐに練武場に視線を戻していた。

 爆発が起きたところで再び火柱ひばしらが上がった。先程まで騎士団の在り方を説いていた大臣たちは、顔色を変えて大人しくなっている。遠くからでも、赤く燃えた剣と風を纏わせた剣が何度もぶつかり合っている様子が見えた。

「そろそろあの2人を止めないと、今度は練武場の修理に予算を取られそうだ」

「それは宜しくありませんな」

 ルドルフが他人事のように呟くと、レイブロン公爵も同じ様子で返した。その後ろでは大臣たちが、「早く止めさせませんと!」と慌てふためいている。その間にもマティアスとカイザーのあいは激しさを増していった。2人の姿は目で追えないほど速い。炎を纏った剣と、風を纏った剣が擦れるたびに爆発が起きる。

 他の騎士と比べても異様だ。護衛でついてきた騎士たちも夢中で見入っている。改めて第一騎士団の団長と副団長の凄さを見せつけられたが、2人が衝突するたびに練武場を取り囲む外壁が崩れそうになった。

 すると、口の端を持ち上げたルドルフは、なぜか練武場に向かって歩き出していた。レイブロン公爵と護衛の騎士はそこから一歩も動かない。気になって彼の行動を見守ると、ルドルフは訓練する騎士の傍まで近づき、突然左手を持ち上げて撫で下ろすようにスッと下げた。

 ──瞬間、時間が止まってしまったようだ。

 騎士の剣から放たれていた魔法はき消され、あれほど騒がしかった練武場は瞬時にして静まり返った。一瞬の出来事だった。ヘルミーナは思わず息を呑んだ。

「あれが、王族の……」

 魔道具の時は魔力が抜けていく感じがしたのに対し、本物の「無効化」は全く違っていた。無にされるというより、魔力を奪われた感覚に近かった。

 攻撃を受けたわけではないのに、恐ろしさが尾を引くようにじわりと滲んできた。今すぐ膝をついて平伏したくなるような衝動に駆られる。血が、本能が、絶対的な存在に逆らってはいけないと訴えてくるようだ。

 王族がなぜ王国の頂点に君臨し続けていられるのか、その力を肌で感じることができた。

「訓練中のところ邪魔するよ」

「ルド、……ルフ殿下」

 魔力を無効化された騎士は呆然と立ち尽くしていた。そこへ悪びれる様子もなく現れたルドルフに、あちこちから溜め息が漏れる。魔法が使えなくなる感覚はやはり慣れないものらしい。体内を巡る魔力を感じてホッとしたのは、これが初めてだ。

 訓練が一時中断したところで、ルドルフは騎士たちへ向けて挨拶を述べた。激しい手合わせをしていたカイザーとマティアスは、感興かんきょうが醒めた顔でルドルフの話を聞いていた。そんな状況でも笑顔でしゃべっていられるルドルフの神経が凄い。

 その後、王太子一行は見学席に移動して訓練の様子を見てから、騎士団の宿舎などを視察していったようだ。

 訓練ではレイブロン公爵がねんしていた通り、多くの騎士がいつも以上に力を発揮し、ロベルトとヘルミーナは負傷者の世話で大忙しだった。数日もあれば治ってしまう負傷者には普通の薬で治療し、大きな怪我を負った騎士は病室に運んでもらい、ルドルフたちが帰ったあとに神聖魔法で治療した。

 日が沈みかけた頃、ようやく全員の治療を終えたヘルミーナは、ロベルトと共にお茶を飲んでいた。あっという間に1日が過ぎてしまった。朝、何に悩んでいたのかも思い出せないぐらいだ。

 疲れた体をソファーに預けて息抜きしていると、当直室の扉がコンコンと叩かれた。護衛のリックが近づくと、開いた扉からランスが顔を覗かせた。

「あ、ミーナちゃん。包帯と消毒液と痛み止めの薬が欲しいんだけど」

「誰か怪我したんですか?」

「それは……秘密?」

 怪我人は騎士ではないのだろうか。ヘルミーナがまゆを寄せると、ランスはただ笑うだけだった。けれど、ロベルトは察したように医療品のたなから包帯や薬を取って戻ってきた。

「……ルドルフ殿下が手合わせ中なんだろ。副団長も加減というものを知らんからな」

「いつものことなんだけどね」

 ロベルトが持っていたものをランスに手渡すと、彼は「じゃーね、ミーナちゃん!」とすぐに出ていってしまった。呼び止めようとしたが遅かった。怪我の具合も確認していないのに大丈夫だろうか。ヘルミーナは不安になってロベルトを見た。

「怪我をされたのがルドルフ殿下でしたら、私が治療に向かった方がいいかと思うのですが」

「……行ったところで、殿下は断るだろう。そういう姿を見られるのを嫌がる方だ」

「なぜ、殿下は……」

 訊ねるヘルミーナを前に、ロベルトはソファーに深く腰を下ろした。苦い過去でも思い出したのか表情をくもらせる。暫く沈黙が流れると、ロベルトは重い口を開いた。

「エルメイト王国の王族は、王国が誕生した時から象徴として我々民をここまで導いてきた。王子だけが生まれるのも、『無効化』という祝福が与えられるのも、全て光の神エルネスによって決められている。これは王族として生まれた者の宿命だ」

「……それは」

「だから、いくら騎士になりたいと願ったところで、魔物を倒す魔力を持たない王族は、自分の身を守ることもできない。常に誰かに守ってもらわなければ、王都の外に出ることも叶わん。当然、あらゆる方法を試してみたが、無効化の能力がある限り、魔道具を使うことも、もうひとつの魔力を得ることもできなかった。無茶な実験をして体や精神を壊しかけ、医者として止めたこともある」

 どうして王族であるルドルフが二重属性の研究をしていたのか、その背景が見えてきた。同時に、今まで知らなかった──知ろうとしなかった、王室の抱える影の部分を覗いてしまった気がした。

「ルドルフ殿下はなぜそこまでして……」

「理由はいくつかあるが、一番は弟君のためだろう」

「セシル殿下の……」

「王室にいる間は守られているが、王太子が婚姻して子が生まれれば第二王子は王位継承権を返上し、王室から抜けなければいけない。そうすると、王族に与えられた能力は全て失われてしまう。魔力を持たない者がこの王国で暮らしていくのは厳しい。彼らの大半は誰からも相手にされず、その存在は『忘れ去られた王族』として名を連ねることになる」

 ヘルミーナは話を聞かされ、喉がカラカラにかわいた。皆からせんぼうされるほど家族仲がよく、幸せそうに見える王室の陰に、それほどの闇が広がっているとは思わなかった。

 ルドルフに溺愛されているセシルもいつか王室を離れ、能力を失い、忘れ去られていくのだろうか。

 ロベルトが言う通り、魔力がなければ暮らしていくことも、結婚相手を見つけることも難しい。魔力を持つヘルミーナですら、その魔力が少ないからと嘲笑ちょうしょうされていたのだ。

 社交界でつまはじきにされてきたヘルミーナは、セシルがこれから経験するかもしれない未来の話を、他人事と思えなかった。楽しみにしていた世界が一瞬にして地獄へと変わり、むなしさと悲しさで心が深く沈んでいったのを覚えている。

「今日は上がっていいぞ」とロベルトに言われ、ヘルミーナはリックと廊下を歩く。

 あのルドルフが必死になる理由が分かる。魔力を失うどころか、将来の夢さえ叶えられないとは。

 何かいい解決策はないだろうか。できることはないだろうか。自分が救われたように、彼らを救える方法は──。

「……効率……魔道具、無効化…………魔法石……」

「どうかされましたか?」

「お伺いしたいんですが、騎士の皆さんは剣に魔法石を?」

「そうですね。魔法石には魔力を溜めておけますから、それぞれの属性に合わせた魔法石を剣に埋め込んでいます。魔法を別に使うより、剣に魔力を流し込む方が攻撃力も上がりますので」

 何気なくリックに訊ねて返ってきた言葉に、ヘルミーナは突然立ち止まった。

 今、頭の中でバラバラになっていたものが一本の線で結ばれ、新たな可能性が生まれた気がする。ヘルミーナは弾かれたようにリックに迫った。

「団長様は今、どちらにいらっしゃいますか!?

「マ、マティアス団長ですか? 今でしたら訓練を終えて執務室に戻られているかと」

「そこに案内してくださいっ、今すぐ!」

 忘れてしまわないうちに。

 いきなりマティアスのところに案内してほしいと言ってきたヘルミーナに、リックは困惑している。だが、真剣な表情で見上げるヘルミーナの勢いに押され、「分かりました」と返してくれた。


『……貴女がまた目覚めなくなるのではと心配なのです』

 暗闇から現れたマティアスは、小さな声でそう呟いた。あとになって思えば、聞こえないふりをしてやり過ごすのが正解だった。けれど、あの時は反射的に振り返ってしまった。

 その拍子にマティアスとぶつかり、奇妙なことに彼の胸元が突然光り出した。不思議と親しみのある光は、ヘルミーナへ向かって蔦のようなものを伸ばしてきた。挨拶を交わすように触れてきた蔦に、心が洗われるようだった。

『これは……』

『ラゴル侯爵家に代々受け継がれてきた守り石です』

 教えてくれたマティアスは、つめえりの留め金を外して、首に掛けていたペンダントを見せてくれた。チェーンの先で、銀色の装飾のついた丸い鉱石が光を放っていた。

 初めて見るペンダントなのに懐かしさが込み上げた。

『これには聖女様の力が宿っていると言われています』

『……聖女様、ですか?』

『魔力はすでに切れていると思っていたのですが、ヘルミーナ様の魔力に反応したのかもしれません』

 どんなに相性がよくても魔力が共鳴し合うことはない。それなのに、体内を巡る光属性の魔力が強くなった気がした。ヘルミーナはじっくり眺めていたかったが、マティアスに早く部屋へ入るようかされて、その時はそれで終わってしまった。


「マティアス団長、リックです。今、宜しいでしょうか?」

「──何かあったのか?」

 騎士団宿舎の一角に辿り着いて、リックが第一騎士団団長の執務室をノックした。入室の許可を求めると、返事がある前にドアノブが回って扉が開いた。まさか、マティアス自ら扉を開けてくれるとは思わず、リックは目を丸くする。

 しかし、マティアスの姿を見て納得した。彼は訓練後の湯浴みを終えたばかりなのか、濡れた髪にタオルを載せ、はだけた白いシャツに、団服の赤いズボンを穿いた姿で現れた。

 ヘルミーナは、見てはいけないものを見てしまった気がしてとっに背を向けた。びしょ濡れになった猫が浮かんできたが、必死で掻き消した。

「……ヘルミーナ様?」

 リックの体に隠れて見えなかったのだろう。しかし、ヘルミーナの気配に気づいたマティアスは目を見開いた。

 すぐに「どういうことだ」と訊ねてくる視線には殺気が込められている。命の危険を感じたリックは、両手を持ち上げて素早く答えた。

「申し訳ありません! ヘルミーナ様が至急、マティアス団長にお会いしたいと申されたのでお連れしました!」

「なん、だと……?」

「都合が悪いようなので、また改めて──」

「その必要はない。今すぐ支度する」

 リックが早口で用件を伝えると、マティアスは突然表情を変え、開いていた扉を勢いよく閉めた。ヘルミーナもリックの隣に立って扉を見つめる。

 すると、中からゴンッというにぶい音が聞こえてきたが、それからは人の気配が感じられないほど静かになった。