「はぁ、本当にひどい怪我ね。──頼んだよ、《リカバリーQ》」
雨で濡れた道路を走るタクシーに揺られながら、後部座席に座った紫藤はギアを唱えて起動する。隣で意識を失っているレキトに手帳型のケースを付けたスマートフォンを向けて、端末上部のイヤホンジャックから真っ白な光線を放った。真っ白な光が血塗れになったレキトに当たった瞬間、教団ギルドのプレイヤーたちにやられた全身の傷が光り輝いた。レキトの細胞が活性化したかのように、何発ものレーザー光線で撃ち抜かれてできた傷がみるみるうちに塞がっていく。
治療を終えた紫藤がレキトの口元に手をかざすと、
「ふぅ、とりあえずゲームオーバーにはならずに済んだみたいね」
紫藤はほっと胸をなでおろす。レキトの無事に安心した途端、全身に疲れがどっと押し寄せてきて、教団ギルドのプレイヤーにナイフで斬られた時の腕の傷がズキンと痛んだ。そういえば結構なダメージを自分も受けていたことを思い出す。紫藤は《リカバリーQ》を再起動して、真っ白な光を腕の傷に浴びせた。
50人のプレイヤーたちに囲まれた状況から逃げ切る。改めて振り返ってみて、率直に「よく生き延びられたな、私」という他人事みたいな感想しかなかった。絶対絶命のピンチから助かった実感が全然湧いてこない。なんだか都合のいい夢を見ているようで、地に足がつかないようなフワフワした気分だ。
きっと現実味がないように感じてしまうのは、一人だったら何回コンティニューできてもゲームオーバーになると思うからだろう。
紫藤は指で髪をくるくる回しながら、横目でレキトをじっと見つめる。
プレイヤー名「
雨の中で立ち尽くしているレキトに声をかけたときは、偽チュートリアルでコインを奪うカモとしか見ていなかった。まさか正体を見破られて戦うことになるとは思わなかったし、一時的に協力プレイすることになるなんて考えもしなかった。二人で力を合わせて戦わなければいけないプレイヤーがいなくなった今、レキトとの関係の終わりが近づいていることを考えると、寂しい気持ちはほんの少しだけある。
紫藤はスーツのポケットに手を入れて、金色のコインを取り出した。対プレイヤー用レーザーの雨にやられて、ゲームオーバーになったプレイヤーのコイン。レキトに譲ってもらったとき、代わりに『Fake Earth』で知っておいた方がいい情報を教える約束をしたことを思い出す。
どんなことを教えれば、レキトは喜んでくれるのか?
紫藤は腕を組んで、新人プレイヤーだった頃に知っておきたかったことを考えてみた。
──別に約束を守らなくてもよくない?
──むしろ今ってレキトくんからコインを奪えるチャンスじゃん。
頭の中に良くないアイデアが思い浮かび、紫藤は思わずぎょっとする。悪魔みたいな発想をひらめいた自分に肝が冷えるのを感じた。優しくコインを譲ってもらったのに、約束を守らないどころか殺そうとするなんて、恩知らずにも程がある。偽チュートリアルでコインを騙し取ろうとしたことはあるけど、さすがに人間としてそこまで落ちた覚えはなかったのだ。
でも、最低という点に目をつぶれば、意識を失っているレキトからコインを奪うことに何も問題はなかった。プレイヤーがゲームオーバーになったとき、現実世界の頃から今までの記憶をすべて消されて、その場でNPCに生まれ変わる。要するに、紫藤に殺された記憶は忘れるし、レキトの死体も残らないということだ。おまけに《
レキトとの約束を守るか? それとも裏切ってコインを奪うか?
紫藤は両手で口を覆い、この究極の二択のどっちを選ぶべきなのかを考える。正直な話、恥ずかしながら心は容赦なくコインを奪う方へ傾きかけていた。もちろん罪悪感はしっかりあるし、良心もめちゃくちゃ痛んでいる。けど、ゲーム攻略には欠かせないコインを手に入れたい欲望には抗えない。
紫藤は胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸した。両目を閉じて、心の中でレキトに謝る。
だが、対プレイヤー用ナイフをホームボタンの長押しで起動しようとしたとき、隣から肩をポンと叩かれる感触が伝わった。
「────ッ!!!」
紫藤は声にならない悲鳴をあげる。ヤバい。うっかり殺気が漏れて、起こしちゃったのかも!? 咄嗟にスマートフォンを放り出して、降参するように両手を上げた。慌てて言い訳を考えたが、頭が真っ白になって何も思いつかない。ここは可愛く謝った方が許してもらえるだろうか? 紫藤は目をうっすらと開けて、内心ヒヤヒヤしながらレキトの様子を
隣に座るレキトは何も言わず、紫藤の肩にもたれかかっていた。アバターの胸を上下させて、静かに寝息を立てている。どうやらレキトが寄りかかってきたのを肩を叩かれたと勘違いしたらしい。意識を失っているレキトは口元を緩ませて、どことなく幸せそうな顔をしていた。
「……しょうがない。やめとくか」
紫藤はため息をつき、放り出したスマートフォンを探す。真横のドアポケットに落ちているのを見つけて、なるべく上半身を動かさないようにして取った。こんな幸せそうな顔をしているなんて、どんな夢を見ているのだろうか? 無防備なレキトの表情を眺めていると、「割と整っていて可愛いかも」と母性みたいなものが目覚めるのを感じる。
紫藤は微笑み、寝息を立てているレキトの頬を人差し指で突いた。赤ちゃんのようなプニっとした感触が指先に伝わった。癖になってしまうような快感。普段のレキトがクールに振る舞っているだけに、愛らしいギャップがたまらない。もう一度だけ触りたくなって、人差し指をそっと近づける。
だが、ふたたび紫藤がレキトの頬に触れた瞬間、レキトは思いきり顔をしかめた。心の底から不快であることを訴えかけるように、太い青筋がこめかみに立ち、眉間には皺が深く刻まれていた。嫌そうな顔をしたレキトはそっぽを向いて、寄りかかっていた紫藤の肩から離れる。
前言撤回。まったく可愛くない。やっぱり今からコインを奪ってやろうか? とにかく勘違いさせた罪として、軽いお仕置きが必要だろう。
紫藤は目を細めて、指先に息を吹きかけた。全力を込めるように中指を折り曲げて、親指で上からぐっと押さえつける。
そして、生意気なレキトの額にデコピンをお見舞いした。