2話 生徒:藤堂頼助はこう答えるしかない
「じゃあ今日はここまで。お疲れ様でした」
数学の授業を行っていた私は教壇で教科書を閉じる。黒板上の時計を見上げると、4時限目の授業終了の合図となるチャイムが鳴るまで5秒かかった。いつもならば、教科書を閉じるのと同時にチャイムが鳴るように段取りしている。それなのに、今日はページとページの重なる音だけが手元でパサッと響いた。
ここ数年間、寸分も狂わなかった授業のペース配分のズレ。
私は頭の中で授業を振り返る。前回や前々回のように、授業中にカナブンが教室へ迷い込んだり、地震で揺れたりするハプニングは起きていない。強いて挙げるなら、季節の変わり目で体調を崩した生徒が途中で保健室へ行ったことくらいだろう。だが、過去にその生徒に似た子が同じ三角関数の単元で抜けた経験があったので、それについては織り込み済みで授業を進めていた。
となれば、考えられる原因は1つだけ。
私は学級委員長の号令で生徒とともに礼をした。教室から出て行く間際、最後に問題を解くように指名した生徒を横目で見る。
この学校で誰の面影にも重ならない、唯一の生徒「藤堂頼助」。仲のいい男子生徒二人と集まって、持参した弁当を食べ始める姿はありふれた高校生にしか見えない。さきほど加法定理の問題を当てたときも、彼はスクエア型眼鏡をかけ直して答えを言っただけなのに、どうして授業のペース配分が乱れたのかはわからなかった。
藤堂頼助の担任になってから3ヶ月半、私は授業やホームルームで観察する機会はたくさんあったが、いまだに彼の人となりをつかみきれていなかった。クラスでの立ち位置は、初めて会ったときに抱いた印象どおり、「優等生」で間違いないだろう。定期考査では上位5位以内をキープしつづけ、テスト前日に泣きついてきたクラスメイトに勉強を教えることを
だが、その一方で、藤堂は学校を月に数回休んだ。病弱な生徒なのかと思いきや、気になることに、彼は午後の授業には必ず出席していた。出席簿を見るかぎり、彼が午前中の授業を休む間隔は月ごとに異なっている。その法則性は読み取れない。授業の出席日数を気にして、半休にする曜日を決めているわけでもなさそうだった。
どうして学校を半日だけ休む日があるのか?
私が心配したのは、家庭内での虐待や学校内でのいじめだった。けれども、彼の家族は大学教授の父親しかおらず、その父親は現在アメリカの大学に単身
──こういうとき教師はリスク管理のために、生徒本人に直接尋ねるべきなのだろう。
だが、私は彼と個人面談をしたとき、「悩んでいることはないか?」と尋ねる以上のことは踏み込まなかった。思春期の生徒には多かれ少なかれ、こういう不審な行動を取る時期がある。その原因は家庭の事情も含めて
いったい彼らに何があったのか、どうして普段どおりに戻ったのか。詳細はわからない。
ただ、今までの経験から言えることは2つ。
1つは「不審な行動を取る生徒の多くは、その理由を本人もよくわかっておらず、教師が介入しても解決できない」ということ。
もう1つは「もし不審な行動を取ることに明確な理由があったとしても、その生徒はよく考えた上で、教師に相談しない判断を下している」ということ。
だから、私は藤堂を見守ることにした。この仕事で大事なことは、生徒に個人の思想や価値観を押し付けないようにすることだ。「教師」という字面から勘違いする人がたまにいるが、常識にまみれていない高校生だからこそ見える世界もある。クラスに悪影響が出たり、出席日数が危うくなったりしないかぎり、何も言わないと腹を決めた。
2学期は生徒やクラスが替わる1学期よりも変化が大きい。すべての部活は代替わりを終えて、制服は夏服から冬服になり、受験勉強で忙しい3年生は廊下や購買などから存在感を消していく。下級生も部活に打ち込む者、行事の準備に取りかかる者、塾に通い始める者などに分かれていき、今まで接点のなかった生徒同士が交際を始めたりもする。
そして、藤堂は学校を休まなくなった。出席日数はまだ余裕があったにもかかわらず、彼は2ヶ月間連続でフル出席していた。全校生徒が下校した後、私は職員室でクラスの出席簿を開いて、×印が1つもない出席番号12番の欄を人差し指でなぞる。授業を欠席しなくなったからか、藤堂は今回の定期考査では1位を取った。教室では男女関係なくクラスメイトからよく話しかけられており、他のクラスの生徒と廊下で談笑しているところも前より見かけるようになった。
始業式で出会ってから7ヶ月、相変わらず藤堂の顔が過去に担任していた生徒の顔に変わったことは一度もない。進路希望やゲームが好きなことなど色々とわかってきても、他の生徒よりも知らないことが多く、心の中で何を考えているのかは見当もつかない。
それでも彼についてはもう心配しなくていい。
3学期末の修了式はまだまだ先だが、私は何の根拠もなくそう確信していた。
「先生、明日からしばらくの間、学校を休学させていただけないでしょうか?」
しかし、1週間後、藤堂は私に休学届を提出した。封筒の中に折り畳まれていた休学届は、保護者の父親の署名とともに印鑑が押されている。
私は休学届を眺めながら、心の中でそう来たかと驚いた。この先も彼が私の経験則を超えてくることは予感していたが、さすがに休学を申し出ることは想定外だった。
頭を落ち着かせるために、私は藤堂を職員室から一番遠い校舎の屋上へ連れていく。どうして藤堂は休学しようとしているのか? 今まで語学留学などで休学した生徒は何人かいたが、「明日からしばらくの間」という言葉が引っかかる。
一人であれこれ考えても仕方がない。
私は諦めて、「とりあえず休学する訳を教えてくれないか?」と本人に直接理由を尋ねることにした。
「……それはですね──」
藤堂は俯き、
今この瞬間も誰の顔に変わって見えない以上、どんな理由で休学するつもりなのかを予想することはできなかった。
「……正直に言いますと、なんて言えばいいか迷ってます。休学する経緯を一から全部話しても、きっと先生には信じがたい話だと思いますし、もし信じてもらえたとしたら、それはそれで困る事情があるからです。……大事な話であるにもかかわらず、こんな要領を得ない言い方で本当に申し訳ありません。ただ、先生が休学の理由を尋ねるのなら、僕は一言でこう答えるしかないんです」
藤堂はスクエア型眼鏡をかけ直す。そして、決意したように顔を上げて、私の目をまっすぐ見つめた。
冷たい秋風が吹き抜ける。飛んできたイチョウの葉が目の前を横切っても、彼の視線がぶれることはない。
沈黙の中、私は無言で待った。緊張しているからか、心臓が鼓動するのをやけにはっきりと感じる。背後から電車が線路を走る音が聞こえた。その残響が消えた瞬間、彼は口を開く。
「異世界に行ってきます」
藤堂は一言一句はっきりした声でそう言った。