6話 Happy Birthday

遊津家の家族写真を収めた写真立てが、真っ白な脚付きのキャビネットの上に4枚飾られている。4枚の枠の数から四季を連想したのか、写真は季節ごとに撮った物のようだった。

春に撮ったらしい写真では、優斗と母親が菜の花に囲まれた原っぱで寝転んでいた。夏に撮ったらしい写真では、美桜が砂浜でヤシの実にストローを差して飲んでいた。秋に撮ったらしい写真では、NPCの暦斗が紅葉の絨毯が敷き詰められた中で鹿にせんべいをあげていた。冬に撮ったらしい写真では、父親が大きなかまくらの前でシャベルを担いでいた。

家族みんなの楽しそうな姿が、思い出のワンシーンとして切り取られている。自然に笑っていて、リラックスした雰囲気があって、かけがえのない幸せが形になったようだった。

リビングのフローリングの床には、シアン色の血だまりがいくつも広がっている。壊れたロボット掃除機の残骸が散らばり、血のついた銃弾が転がっていた。硝煙の臭いが消えない中、父親と母親、そして優斗が倒れている。救急車とパトカーが自宅に到着し、拳銃を持った警察官のNPCたちが庭からリビングに駆け込んできた。

「……戦いは終わったみたいね。急いで救急隊をここに。玄関のドアを開けて」

真っ黒な髪を束ねた女性警察官は構えた拳銃をホルスターにしまう。強面の部下らしき警察官が廊下を走って、玄関のドアの鍵を開けた。救急隊員のNPCたちがリビングに雪崩れ込むように入ってきて、倒れているアバターたちとレキトの応急処置を始める。隊長らしきNPCが救急車の方を振り返って、「報告! 重傷者6名、1名意識あり! 至急、輸血の準備!」と大声で叫んだ。

倒れている5体のアバターたちは、全員が意識不明の重体だった。誰もが青白い顔色をしていて、出血死しそうなくらいの量の血を流している。

ギアで操られた警察官の蔵内を診ていた隊員は、相手の脈を測るのを止めた。静かに息を吐き、シアン色の血で汚れたゴム手袋を片方だけ外す。「死者1名です」と張りのある声で知らせると、殉職じゅんしょくした彼のまぶたをそっと下ろした。


──カチッ。


そのとき誰かがスイッチを入れたような音がした。ゲーム機に電源を入れる音によく似ていた。レキトは『Fake Earth』を始めてから、この音を以前に聞いたことがあるのを思い出す。

床の溝を流れていた淀川の血が逆流しはじめた。染み込んだ跡を残すことなく、流れてきた方向へじりじりと戻っていく。逆流したシアン色の血は制服の腰から背中に上り、優斗のレーザー光線で開いた背中の穴に入っていった。

蒸気が穴から噴き出るとともに、穴の周りの皮膚が再生していく。焦げた制服もスマートフォンも修復されていき、撃たれた耳の形も元どおりに治っていく。

『Fake Earth』は死なないデスゲーム。

ゲームオーバーになったプレイヤーは、生まれてからゲームオーバーになるまでの記憶を消されて、「ゲームのキャラクター」として寿命が尽きるまで生かされつづける。

NPCに生まれ変わった淀川は目を開けて、フローリングの床から起き上がった。側頭部に手を当てて、業務無線を模したスマートフォンを呆けたように見た。やがて亀裂の消えたスマホ画面から顔を上げると、重傷者だらけのリビングの惨状に口が半開きになる。死んだ部下の警察官に恐る恐る近寄って、信じられないように首を横に振った。

「誰が……誰がったいこんなひどいことを

震えている淀川の問いかけに、答える者はいなかった。救急隊員のNPCたちは無言で淀川から離れていく。目の前で瀕死の重傷を負った人が傷ひとつなく回復したにもかかわらず、誰ひとり驚いている様子はない。

真っ黒な髪を束ねた女性の警察官は、淀川に哀れむような視線を向けていた。彼女が時計を見て「1018分。被疑者を確保」とつぶやくと、小柄な男の警察官が淀川の両手に手錠をかける。

淀川はきょとんとした顔をして、手錠を左右に引っ張った。すぐさま硬く短い鎖が淀川の手の動きを制限した。片手を引っ込めようとしても、成人男性の手は数センチしかない輪を通れない。

「……これはどういうことだ? 何かの冗談と思っていいのかな?」

苦笑いした淀川は、手錠を嵌められた手を掲げる。周りに助けを求めるような目を向けたが、リビングは静まり返っていた。気まずい空気が漂う中、淀川の首筋に汗が流れる。瞬きの間隔が短くなり、膝がカタカタと震えはじめる。

NPCに戻ったアバターは、プレイヤーだった頃の記憶を覚えていない。目が覚めたとき、見知らぬ場所にいたら混乱するだろう。さらに身に覚えのない殺人の疑いをかけられたなら、状況に理解が追いつかず、パニックになってもおかしくない。

淀川は唇を結ぶと、リビングの窓へ走ろうとした。だが、強面の警察官が、淀川の腕を素早くつかんだ。警察官の手を振り払おうとしながら、淀川は手錠から抜け出そうと躍起やっきになる。手錠と鎖がこすれ合う音が虚しく響いた。

「違う! 誤解だ! 私は何もやってない! 本当に違うんだ! お願いだから、信じてくれ!!

淀川は激しく叫んで、強面の警察官に訴えかけた。両方の手首には、手錠を押しつけた跡が痛々しくついていた。信じられないように首を横に振って、「私が蔵内君を殺すわけがないだろ」と微かな声でつぶやく。

強面の警察官は何も言わず、淀川を自宅前で待機しているパトカーへ連行していった。

「……事情を言わなくても結構です。私は『この世界の真実』を知ってますから。マスコミ関係者には、それらしい嘘を伝えます。被害者として注目はされるでしょうが、あなたの正体が知られるようなことにはさせませんよ」

救急隊員がレキトの応急処置を終えたとき、真っ黒な髪を束ねた女性警察官が声をひそめて話しかける。レキトが横目で見ると、意味深な発言をした彼女は人差し指を唇に当てていた。儚げな目をしていて、潜入捜査官のようなミステリアスな雰囲気を漂わせている。女性警察官が警察手帳を開くと、「調停警部ちょうていけいぶ 姫路ひめじみどり」と知らない肩書きが記されていた。

「あなたたち『ューック』も、私たちと同じ人間です。一緒にしてほしくないと思うかもしれませんが、一部の人たちのように、私は割り切って接したくはありません。どうか自分のことを大切にしてください。地球の平和を守るためといえど、あなたたちが痛々しく怪我をした姿を見るのは辛いんですよ」

陰りのある表情を浮かべて、姫路は懐に警察手帳をしまう。拳銃で撃たれたレキトの左腕の痛みを感じるかのように、彼女は辛そうに自分の左腕を押さえた。レキトは何の返事もせず、姫路から視線を逸らす。「この世界の真実」として何を聞かされているのか、そもそも『ヒューテック』とは何なのか、断片的な情報だけでは何もわからない。

けれども、今この瞬間、レキトにとって、このNPCがプレイヤーをどう認識しているのかはどうでもよかった。

「すみません! 通してください!」

玄関からパタパタと走る音が響き、妹の美桜がリビングに入ってくる。急いで走ってきたからか、サイドをヘアピンで留めた髪は乱れていた。振り向いたレキトと目が合った瞬間、あどけなさが残る彼女の頬は緩みかける。

しかし、隣で倒れている優斗に気づくと、美桜は緊張した表情に戻った。「優……兄」と呆然とした声でつぶやき、救急隊員の手当てを受けている優斗の方へ恐る恐る近づいていく。

仰向けに倒れた優斗は目を閉じたままだった。強烈な電流を浴びた皮膚はほとんど破けていた。顔の左半分を除いて、全身はシアン色の血に染まっている。青白くなった額や首からは汗がプツプツと噴き出している。

妹の名前を呼ぶ声が耳に届いたのか、血で汚れた指がピクッと反応し、優斗は目をうっすらと開けた。

「……美桜……か。……よかった……怪我は……ないんだな……」

意識を取り戻した優斗は美桜に微笑みかける。喉がれたと思うくらいかすれた声だった。視線を美桜のほうに向けるが、目の焦点がどことなく合っていない。両腕に力を入れて起き上がろうとしていたが、フローリングの床から頭は1センチも浮かなかった。

「……なあ……誰でも……いいから……教えて……くれ。……母さんと……父さんは……無事……なのか?」

優斗はすがるような口調で尋ねる。自分が生死の境を彷徨っている中、家族のことを心配していた。隣にいるレキトは心臓がガリガリと引っ掻かれるような感覚を覚える。美桜は不安そうな表情を浮かべて、レキトの服の裾をつかんだ。

NPCの母親と父親は死んだように動かなかった。母親の長い髪は血に浸かっていて、父親の顔は死相が浮かんでいた。彼らの指先の震えは止まっている。優斗が生きているのかを問いかけても、答えようと口を開くこともなかった。

救急隊員のNPCたちは、母親と父親の胸を両手で何度も圧迫している。二人の鼻をつまんで、口から息を吹き込んだ。必死の形相で心臓マッサージと人工呼吸を繰り返していく。全身に血液を循環させて、酸素を送り込んで、何としてでも生かそうとしている。

しかし、母親と父親は目を覚まさない。二人の呼吸は止まったままだった。息を吹き込んだ胸は上がっても、元の状態へすぐに下がっていく。

救急隊員たちは心臓マッサージを止めた。二人の顔を見つめながら、押し潰れた胸から手を離す。

3発の銃弾を浴びた母親の紀子。

包丁で刺された後に撃たれた父親の司。

この世界で生きていた二人のNPCは、プレイヤーのように生き返ることはなかった。

シアン色の血の臭いが鼻を刺激する。今までもリビング中に漂っていたはずなのに、急に臭いが強くなったように感じた。花に似せたペーパーボールが、ダイニングテーブルに積み上げられているのが目に入った。明日の誕生日の飾りつけ、母親が御馳走を作ると言っていたことを思い出す。

レキトは優斗に何も言えなかった。家族と平和に暮らすために戦ってきたプレイヤーに、両親が死んだことを伝えることはできなかった。心臓をガリガリと引っ掻かれるような感覚が強くなる。救急隊員たちも優斗を見て、隊長らしき男に目配せする。

そのとき美桜はレキトの裾をつかんでいた手を離した。今にも泣きそうな顔をしながら、倒れている優斗のほうへ歩み寄った。シアン色の血だまりに膝をついて、小さな手を優斗の手に重ねる。

潤んだ目をした美桜の肩は小刻みに震えていた。

「……心配しなくていいよ、お兄ちゃん。……お母さんも、お父さんも、『奇跡的に命に別状はない』って。……だから、お願いだから、優兄ゆうにいも頑張って。……明日は暦兄れきにいの誕生日なんだから、お葬式なんかにしたらダメだよ」

美桜は笑みを浮かべて、優斗に「嘘」をついた。両親が生きているふりをして、兄を安心させようとしていた。彼女の心は今、ぐちゃぐちゃにかき乱されているはずだった。死んだ両親との思い出が溢れ返り、せきを切ったように泣きだしてもおかしくない。

それなのに、美桜は穏やかな声で優斗を励ました。小さな手を握りしめて、肩が震えないように努めていた。歯を食いしばって、泣くことを我慢している。零れそうな涙をぐっと押しとどめて、笑顔を絶やさないようにしていた。

「……そっか。……良かった。……母さんも……父さんも……無事なんだ。……美桜……ありがとう」

優斗は息も絶え絶えになりながら、指先をほんの少しだけ曲げる。美桜の手を握り返したようだった。痙攣けいれんしていた口元が緩んでいき、目元に皺がうっすらと寄る。安堵したような笑み。優しく笑った妹に、兄は微笑み返している。

だが、優斗が美桜の笑顔を見たとき、彼の青い瞳は一瞬だけ揺れた。起き上がろうと腕に入っていた力が抜けた。きっと美桜が嘘をついたことに気づいたのだろう。母親と父親が死んだことも察したに違いない。

それでも優斗は美桜と同じように笑った。もう喋る体力なんて残されていないはずなのに、両親が生きていることを喜んで、感謝の言葉を口にしてみせた。

兄のために「演技」した妹、妹のために「演技」した兄。

目の前の兄妹は両親が亡くなった直後、相手のために「嘘」をつきあっていた。

「……うっ」

苦しそうにうめいた優斗は、シアン色の血を吐く。青ざめていた顔色は白くなりつつあった。輸血用の器具を運んできた救急隊員は、「彼の血液型は!?」と優斗の血液型を叫ぶように尋ねる。「A型です!」と美桜は答えて、「お兄ちゃん、死なないで!」と悲痛な声で呼びかけた。

「……美桜……落ち着いて……くれ。……俺は……死なない……から。……死ぬことだけは……絶対に……ない」

穏やかな口調で語りかけた優斗は、レキトに目配せを送った。最後の力を振り絞るように、落ちそうなまぶたをピクピクと震わせながら上げている。レキトは優斗の前で屈んで、痙攣している口に耳を近づけた。耳にかかる優斗の吐息は、熱を帯びていなかった。

「……俺の……スマホケースの……中に……住所を……書いた紙を……挟んである。……誕生日プレゼントを……取り置き……してるから……引き取りに……いって……くれないか?」

「わかりました。言いたいことはそれだけですか?」

「……いや……もう1つだけ……言わせてくれ。……1日早いけど……誕生日おめでとう……暦斗。……お前が……幸せな人生を……送れるように……俺は……ずっと……ずっと……祈ってるよ」

優斗は一息ついて、口角を少しだけ上げた。あまりにも弱々しい笑顔だった。昨日から今まで見てきた中で、一番優しい目をレキトに向けている。プレイヤーのレキトではなく、NPCの弟を見ている目だった。

笑みを浮かべたまま、優斗は目を閉じていく。青い瞳からは光が失われていった。唇の痙攣が徐々に収まっていく。美桜の手を握り返した指が、滑り落ちるように離れる。

青色のスマートフォンの液晶画面が粉々に割れた。ガラスの破片が飛び散り、金色のコインが画面の下から現れる。

プレイヤー『遊津優斗』。

偽物の世界を本物より愛したプレイヤーは、ゲームオーバーになった。


──カチッ。


誰かがスイッチを押したような音がした。この世界のありとあらゆる音の中で、いまレキトがもっとも聞きたくない音だった。シアン色の血だまりが揺れはじめる。時間がさかのぼったかのように、優斗から流れた血は体内へ戻りだした。

強烈な電流で破けた皮膚は結合されていく。銃弾で開いた穴の中では切れた血管がつながった。筋肉がじわじわと再生されて、皮膚が跡を残すことなく覆っていく。救急隊員たちは何も言わず、優斗からそっと離れた。美桜は口を手で覆い、目をパチパチと瞬かせていた。

NPCになった優斗は、眠たそうに目を開けた。フローリングの床に手をついて、アバターを軽々と起こしてみせる。彼が最初に目にしたものは、リビングで死んだ父親と母親だった。眠気が吹っ飛んだかのように、優斗の目は大きく開かれる。二人の体から広がった血だまりを前にして、「あ、ああ……」と両手で頭を抱えた。

だが、優斗はレキトと美桜を目にしたとき、一時停止したかのように固まった。怯えた顔から真剣な顔に変わり、両手を頭から下ろした。「お兄、ちゃん?」と美桜は不安そうに呼びかける。急な態度の変化に戸惑ったレキトも優斗に声をかけようとする。

次の瞬間、優斗はレキトたちに駆け寄り、両手でまとめて抱きしめた。離れることができないほど、優斗の抱きしめる力は強い。レキトは状況が呑み込めず、身動きせずに立っていることしかできなかった。美桜も抱きしめられたまま、呆気に取られている。

「……大丈夫だ、二人とも。とにかく、大丈夫だから。──お兄ちゃんがいるから、安心してくれ」

優斗はレキトたちの後頭部に優しく触れた。「大丈夫、大丈夫だ」と励ますように言いつづけた。後頭部に触れた手は微かに震えていた。アバターの背中に体温が伝わる。

今の優斗がNPCであることは間違いない。リビングの惨状さんじょうにショックを受けた反応は、NPCになった淀川が目覚めたときとそっくりだった。頭は混乱して、心は恐怖して、余裕はどこにもないだろう。

しかし、優斗は自分より家族のことを考えた。両親を亡くした立場は同じなのに、まずレキトと美桜の悲しみを和らげるために動いた。プレイヤーでなくなっても、優斗は家族思いの兄のままだった。NPCの頃から元々そういう設定だったのか、それとも消されたはずのプレイヤーだった頃の記憶が何らかの影響を残したのかはわからない。レキトの人格が変わっていることに気づかず、本物の弟だと疑わずに接していた。

心に張りつめた糸が切れたのか、美桜は急に泣き始めた。涙がぽろぽろと零れ落ちていく。リビング中に泣き叫ぶ声が響いた。優斗はレキトたちを抱きしめる力を強めた。鼻を啜る音が耳元に聞こえてくる。温かい涙の感触がレキトの首の後ろに何度も伝わった。

ありがとう兄さん……」

レキトは「兄さん」と呼び、目の前のアバターの背中に手を回した。どうしてこうしたのか、自分でもよくわからない。目頭が熱くなるのを感じた。視界が急ににじんでいく。何もかもがぼやけて見えなくなる。

──今になって目の力を連続で使った副作用が出てきたのだろうか?

プレイヤーの優斗に向けて、最期まで口にできなかった言葉。

NPCの優斗に向けては、驚くほど自然と言えた。