4話 最初の人生
【ゲーム世界:『Fake Earth』】
プレイヤー名=遊津優斗(Asodu Yūto)
【現実世界】
戸籍名=リー・ケンスイ(Lee Kensui)
どうして今リビングで倒れているんだ?
意識が朦朧とする中、うつ伏せに倒れた優斗は全身から力が抜けていくのを感じる。倒れたときに頭を強く打ったのか、記憶がすっぽり抜け落ちているようで、現在に至るまでの経緯が思い出せなかった。ザーッという耳鳴りがひどくて、周りの音もまったく聞こえない。徐々にぼやけて狭くなっていく視界の中、色鮮やかな花のペーパーボールがテーブルの脚の前で転がっているのが見えた。
誰かの誕生日の飾り付けに使うのだろうか?
優斗は何か大切なことを忘れている気がした。けれども、頭がうまく働かなくて、それが何かを思い出せそうにない。背中と腹から溢れ出る血は止まらず、重くなったまぶたが落ちていく。
目の前が真っ暗になったとき、「遊津優斗」ではなく、「リー・ケンスイ」として生きていた頃に見た誕生日ケーキのろうそくの炎がまぶたの裏に蘇った。
「ケンスイ、あなたはお医者さんになりなさい。私たちが全力でサポートするから」
俺が10歳の誕生日を迎えた日、母はケーキを飾るキャンドルの炎を見つめながら、艶やかな手を俺の手に重ねた。「それがお前にとって、一番堅実で幸せになれる道なんだよ」と父は優しい声で続けた。燃えている5本のキャンドルはアルファベットの形をしていて、左からH、A、P、P、Yの順番で並んでいる。黄色い
「わかった。じゃあ、医者になるよ」
俺は両親が喜ぶだろう返事をする。そのとき「将来の夢」なんて持っていなかった。同級生は、「プロの陸上選手になりたい」だとか「ドラマの脚本を書く人になりたい」だとか、色々な夢を持っていたけれど、俺には「どうしてもこれをやりたい」というものはなかった。
──親がそう言うなら、医者もいいかなと思った。
──やるべきことを決めてくれたことは、逆にありがたかった。
満天の星が間近に見えるタワーマンションの最上階の部屋で、俺はキャンドルの炎に息を吹きかける。ほのかな灯りが消えると、父と母は静かに拍手した。
翌日から俺は「毎日2時間」家で勉強するように言いつけられた。「毎日2時間以上」ではなく、「毎日2時間ぴったり」。算数の問題を解くのが楽しくて、図形の応用問題に時間を忘れて挑んでいると、「今日はここまでにしなさい」と母にすぐ止められた。子どもが1日にゲームで遊んでもいい時間を決めた家庭のように、我が家では勉強を2時間以上することが許されなかった。
俺が住んでいた国は、アジアの中でトップレベルの教育先進国。政府は『ストリーミング制』を導入して、子どもの進学先は卒業試験の成績で決められていた。もし初等学校の成績が良くなければ、その時点で大学を受けられなくなり、将来は専門学校に行くことを定められる。子どもの人生を左右する試験として、どの家も勉強には口うるさくなっていた。
それなのに、父と母は砂時計をひっくり返して、家での勉強時間は2時間ぴったりにこだわった。各教科の参考書は書店で一番薄い物を買い、俺がつまずいた問題は自分たちで教えた。人より裕福な暮らしを送っているのに、家庭教師を雇わない。学校でも授業を受ける以外に勉強することは禁止された。
「86点を目指す気でやりなさい。本番のテストでそれだけ取れれば、満点を取った人と同じ学校に行けるから。勉強で一番になる価値はみんなが思ってるほどないのよ。一番になりたい人は自分に自信がないから、一番になって安心したいだけ」
「時間をかければ、何でもうまくいくわけじゃないんだよ、ケンスイ。むしろ必要以上に時間をかけてしまったことで、うまくいかなくなることもあるんだ。だから、短時間で、効率良くやって、ほどほどの成果を出す。これが本当に頭のいいやり方なんだ」
学校の先生が言いそうにないことを、父と母は口癖のように繰り返す。そして、俺が家で2時間の勉強を済ませると、「好きにしなさい。もし私たちにしてほしいことがあるなら、遠慮しないで言いなさい」と穏やかに言われた。
一人でテレビをぼうっと見ていても、二人はそばにいるだけで何も言わなかった。「テニスをしたい」と言ったら、母は潮風の吹くコートでラリーの相手になってくれた。「ドライブに行きたい」と言ったら、父は市街地のサーキット場をフェラーリで爆走してくれた。「なんとなく変わった体験をしたい」と言ったら、15階建てのビルがスーパーカーの自動販売機になっている建物に連れて行かれて、飲み物感覚でポルシェを買うところを見せてくれた。
──塾に通って猛勉強している友達と比べて、こんな勉強の仕方でいいのだろうか?
毎日2時間勉強することは、「ラク」とは言えなかったが、これで友達たちと同じ学校に行けるのか、俺は正直疑問だった。それなりの点数を取ることが難しいからこそ、みんな勉強を頑張っている。それでも父と母は今日やるカリキュラムを指定して、2時間を計る砂時計を引っくり返すだけだった。卒業試験まで1ヶ月を切っても、勉強する時間は変わらなかった。
家で1日2時間だけしか勉強していないのだから、卒業試験の結果が良くなくても仕方がない。
しかし、半ば諦めかけていた気持ちと裏腹に、俺は初等学校の卒業試験で全教科86点前後を取ることができた。日常で見慣れた点数が変わらず返ってきた。学年1位の優等生が本番で失敗する悲劇もなければ、落ちこぼれが高得点を獲得する逆転劇もない。夜遅くまで自習室で友達と勉強したドラマも、試験前に長い間教わった先生から激励のコメントをもらうこともなく、塾に通い詰めていたクラスメイトより少し悪い成績で、俺は同じ成績上位の学校に進学することが決まった。
「おめでとう、ケンスイ。この調子で頑張りなさい」
「おめでとう。これで医者に一歩近づいたな」
父と母はお祝いのケーキを買って、成績上位の学校へ進学できたことを喜んでくれた。けれども、両親の喜ぶ様子は、俺が模試で狙いどおりの点を取れたときと同じテンションだった。きっと最難関の国立大学の医学部に入学するためには、中高の卒業試験でも上位の成績を取らなければいけないからだろう。塾で猛勉強していた同級生たちは、志望校に進学した後も一層勉強に励むようになっていた。
だが、俺は相変わらず2時間だけ勉強することを求められた。家で2時間勉強さえすれば、部活も恋愛も禁止されなかった。父と母は学校で困ったことや欲しいものがないかを聞くだけで、それ以上のことは何も干渉してこない。俺は当たり前になった習慣を苦に思うことなく、家に帰ったら手を洗うような感覚で、毎日2時間だけ勉強することを続けた。
──普通よりも恵まれた学校生活を送っている。
真夏の太陽の陽射しが差し込む教室で、冷房の風を浴びながら、俺はふとそんなことを思った。中等学校へ1月に進学してから、勉強は上の下くらいの成績をキープしていた。陸上部では将来伸びそうな棒高跳びの選手として期待されて、学年で3番目に可愛いと言われている女の子と付き合っている。「お前みたいに何でもそつなくこなせたらな」と部活仲間に自虐気味に言われたこともあった。
しかし、俺は学校があまり楽しくなかった。人生は間違いなく順調で、同級生が欲しがりそうなモノは持っているのに、毎日がなんとなく退屈だった。いったい何を不満に思っているのか、自分でもよくわからない。学年19位の成績で卒業試験をパスして、トップレベルの高等学校に環境が変わっても、心がどこか物足りない感じは消えなかった。
代わり映えのない毎日が繰り返されていく。陸上競技場のタータントラックを延々と周回しているような気分だった。毎日2時間の勉強が終わった後、俺は自宅のベッドに寝転がって、コミュニケーションアプリで友達や恋人と他愛のないやり取りをした。常に何かをやっておかないと、暇に押し潰されそうで怖かった。
──眠たくなるまで、気を
俺がスマホゲームを始めたのは、学校のみんなと話を合わせるためだった。同じキャラをなぞって消して、時間切れになるまで高得点を目指す、定番のパズル系のアプリ。連続でキャラを消せば、制限時間は延びて、一度に稼げる得点も多くなるシステムらしい。総ダウンロード数が1億を超えており、自己ベストのスコアが世界で何番目なのかをランキング形式で表示していた。
最初にプレイした感想は「ハマりそうにない感じがちょうどいい」だった。学校の授業や2時間の自宅学習に支障が出る中毒性はまったく感じなかった。止めたいときにいつでも止められる。ゲームをやり始めてから1週間経っても、引きずることなく終わることができた。
ところが、俺は1年経っても、毎日同じゲームをプレイしていた。家で2時間勉強するように、自分の部屋にこもって1日2回だけプレイした。クラスメイトは1ヶ月もしないうちに遊ばなくなり、今は位置情報機能を活かした陣地取りゲームの話で盛り上がっていた。スマホゲームは手軽に遊べる分、やり込みすぎるあまり飽きるのが早い。陰でこっそり遊んでいる人がいることを期待したが、みんなアンインストールしたのか、クラスメイトの名前はランキングから消えていた。
──どうして未だに一人で何の変哲もないスマホゲームを続けているのだろうか?
毎日変わらない疑問を抱きながら、俺は両手でスマートフォンを持って、左右の親指を速く動かす。水兵帽子をかぶったアヒルのキャラは、一度になぞり終えた瞬間に輝きながら弾けた。ピンク色の痩せた豚のキャラが降ってきて、色んなキャラが集まっている山の上に積もる。
この1年余りで連続でキャラを消すスピードが速くなり、1分間の制限時間がボーナスで延びつづけて、1プレイが終わるまで30分以上かかるようになっていた。驚くべきことに、プレイ時間が長くなるにつれて、集中力は途切れるどころか、より一層深まっていく感覚があった。やがて2時間プレイしても終わらず、一時中断して翌日に続きを再開すると、セーブデータを読み込んだかのように、俺の集中力も昨日と同じ深さまで一気に入り込めるようになった。そうやって瞬時に深く集中することを繰り返すうちに、脳の集中力を司る部位が鍛えられたらしく、いつしか俺は目を閉じて開けるだけで深く集中できるようになった。
集中力が深まっていくほど、ゲームの操作に必要のないものは削ぎ落とされていく。視覚情報はスマホ画面しか見えなくなり、何の音も聞こえなくなり、人差し指の爪先以外の触覚は感じなくなった。代わりに、50体近くのキャラの配置が瞬きするだけで把握できた。左右のどちらからなぞって消すのがコンボにつながりやすいのか、一目で判断できるようになった。
べつに俺にとって、パズル系のスマホゲームは生きがいではない。今の自分を10年後に振り返ったら、なぜあんなものにハマっていたのか、きっと不思議に思うだろう。
俺は一息ついて、世界ランキングを上にスクロールした。パズル系のスマホゲームを始めてから1年と4ヶ月と22日、ランキングの1位の座には俺のハンドルネームが表示されていた。
──毎日家で2時間勉強している合間に、世界で一番になったことを教えたら、父と母はどんな反応をするのだろう?
俺は自分の部屋を出て、両親の寝室へ向かう。一分一秒を争う話ではないのに、つい早足になっていた。無駄にドアの前で深呼吸して、必要もなくドアをノックする。二人の顔を見たとき、何から話せばいいのか、頭の中を色んな言葉がぐるぐると回りはじめた。
「よかったね、ケンスイ。あなたにそんな才能があったなんて」
「ああ、凄いことだと思うよ。何かで世界一になるなんて、そう簡単にできることじゃない」
初めて見たであろうゲームのことでも、父と母は俺の記録を褒めてくれた。ゲーム名を調べて、プレイ人口の多さや頭の体操になるアプリであることを知ってくれた。「ゲームの1位が何の役に立つのか」なんて否定的なことは言わなかった。
しかし、二人の反応は、俺が模試で狙った点を取ったときと変わらなかった。親子の会話のキャッチボールは5分も経たないうちに終わった。表面上は喜んでいても、心の奥底では関心をあまり示さない。父と母はスマホゲームをプレイすることも、俺がプレイするところを見たいとせがむこともなかった。
俺は両親の寝室を出て行き、自分の部屋の学習椅子に座る。今日はまだ30分しかプレイしていなかったが、あらためてプレイする気にはならなかった。親指でパズル系のゲームアプリのアイコンを長押しする。ホーム画面中のアイコンがカタカタと震えはじめた。
ただのプログラムなのに、生命を感じさせる震え方。アイコンの左上の×印を触り、「削除」と書かれた文字を選択すると、パズル系のゲームアプリは一瞬で消えてなくなる。
世界で一番になった5分後に、俺はそのゲームから引退した。アプリを再インストールすることは二度となかった。
毎日変わらず続いたのは、親に課された2時間の勉強だけだった。
削除したゲームアプリを開発した企業の社員がやってきたのは、1週間後の休日の昼下がりだった。毎日の2時間の勉強が終わったときにインターホンが鳴り、室内のドアホンモニターを見てみると、優秀な銀行員みたいな見た目の欧米人男性が映っていた。仕立てのいいストライプ柄のスーツの襟には、「赤い地球のロゴバッジ」がつけられている。1階のエントランスから部屋の様子を覗くことはできないのに、来訪客の男はドアホンモニター前にいる俺に目をピタッと合わせて、爽やかな営業スマイルを浮かべた。
「はじめまして、リー・ケンスイさん。僕はアーカイブ社ゲーム事業部スカウト係のオッド・ストーン。──『Fake Earth』のプレイヤーとして、優秀な頭脳を持つ君をスカウトしにきました」
俺が応答ボタンを押した瞬間、オッドは流暢なマレー語で自己紹介する。誰が応答するのかは見えないはずなのに、ドアホンモニターの前にいるのは俺であることを確信しているような口調だった。オッドはスーツの内ポケットに手を入れて、シアン色のスマートフォンを取り出す。彼のスマートフォンの画面には、「俺がゲームで5分だけ世界一だったスコアのランキング」が表示されていた。
全世界の経済に影響を与える企業が、メイン事業ではないゲームアプリの一ユーザーの元へ会いに来る。俺がゲームで好成績を収めたことを考慮しても、怪しい話であることは間違いない。
しかし、俺はエントランスのロックを解除して、この初対面の男を自宅のラウンジに案内した。いつもと違う出来事に惹かれるものを感じた。どんな話なのかを聞いてから断っても遅くない。運がいいのか悪いのか、それともオッドがタイミングを見計らったのか、父と母はショッピングで家を不在にしていた。
「では、あなたに参加していただきたいゲーム、『Fake Earth』について説明させていただきます。とは言っても、情報漏洩対策のため、現時点でお伝えできることは少ないのですが」
ラウンジチェアに座ったオッドは、箔押し印刷された名刺を渡す。彼が前置きしたとおり、俺が生まれて初めて聞くゲームについての情報は、たったの3つしか教えてくれなかった。
一、ゲームの世界に入り込むフルダイブ型のVRゲームであること。
二、「高額な賞金」と「アーカイブ社のブラックカード」がクリア報酬であること。
三、そしてゲームオーバーになれば、死と同等のペナルティーがあること。
どれくらいのプレイヤーが参加しているのか、ゲームのジャンルは何なのか、それ以外の情報はプレイ前のルール説明で明らかになるとのことだった。
「この話は断ってくれても構いません。あなたにとって、このゲームに参加するメリットはほとんどないですから。このまま医者になれば、クリア報酬の賞金くらい楽に稼げます。ブラックカードを手にしたところで、より裕福な暮らしが送れるだけでしょう。『選ばれた人しかできないゲームをプレイできる』、ただそれを魅力的に思うかどうかです」
穏やかな口調で語りかけたオッドは、優しい目で俺を見つめる。そして、主人公の選択を待つNPCのように、微笑んだ表情のまま口を閉ざした。きっと訪問する前に俺のことをリサーチしたのだろう。静まり返った空気の中、俺はオッドの目を見つめ返す。
今年は高等学校の卒業試験がある。国立大学医学部への進学がかかった最終試験。医者になるために、父と母の期待を背負って、8年以上毎日欠かすことなく勉強を続けてきた。将来が約束された人生。先行きが見えない時代で、安定した道を選ぶのは正しい選択だ。
ここまで積み上げてきたものを台無しにしてはいけない。
「──『Fake Earth』に参加します」
だが、俺は一言一句はっきりした声でそう言ったとき、胸の奥がスカッとするのを感じた。
「承知しました。それでは弊社が送りましたメールをご確認ください」
オッドは事務的な口調で返事する。
俺がスマートフォンを確認すると、『Fake Earth』へ参加を表明する30分前に、「アーカイブ社ゲーム事業部」からメールが届いていた。
○
古びた街路灯の明かりは点滅していた。経年劣化で不具合を起こしているのか、円形の照明は光っては消えることを繰り返していた。生死の境を
──カチッ。
確かな音が鳴ったとき、街路灯の照らす範囲は一回り広がった。明かりの外側にあったベンチの端から端まで照らされる。
夜の公園のベンチで寝転がっていた優斗は、
「……始まった、のか?」
優斗は額に手を当てて、両目をぎゅっと閉じる。起き上がるのが
芝生に黄みがかった液体がかかった。喉に溜まっていた物を出し切った途端、脳が溶けるような感覚が襲いかかった。貧血を起こしたかのように、視界がグニャリと歪みはじめる。
──プレイ前のルール説明によれば、ここは『Fake Earth』のVR世界。
──地球上に存在するありとあらゆるものを再現した、現実世界と変わらない仮想空間。
優斗は息を切らしながら、「死ぬほど気持ち悪い」と思った。もしかすると、これが俗にいう「VR酔い」? そんなことが頭に浮かんだが、ゲームを始めた瞬間から「酔う」という話は聞いたことがなかった。
運営が転送に失敗して、アバターが馴染んでいないのかもしれない。あるいは他プレイヤーから攻撃をすでに受けているのかもしれない。
このまま何もすることなく、ゲームオーバーになってしまうかもしれない。
嫌な考えを振り払うように、優斗は起き上がって、左右をきょろきょろと見回す。いったい自分の身に何が起きているのか? 夜の公園に人影は見当たらず、塗装の剥げたすべり台や赤茶色に錆びた鎖のブランコなどの遊具しかなかった。後ろを振り返っても、公園利用者への注意書きの立て看板しかない。
もしやと思って、寂れたベンチの下を足で探ると、軽い金属らしき物につま先がぶつかった。そのまま足で形を確かめると、円柱の形をした物が3つ転がっているらしい。とりあえず手で恐る恐る引き寄せてみると、それは「500ミリサイズの空き缶」。空き缶はまだ冷たさが残っており、飲み口には滴がついている。ラベルの文字は英語よりも漢字と平仮名の数が多い。
おそらく初期転送位置は「日本」の公園。そして、アバターの不具合は、これを飲んだことが原因なのだろう。
今までの人生で体験することのなかった、脳が一時的に麻痺する生理現象の1つ。
空き缶には「アルコール度数9%」と目立つフォントで記されていた。
「ほらほら、やっぱりここにいた。おーい、生きてるか~?」
悪酔いで意識が
部屋着にブルゾンを羽織ったサラリーマンと、髪をアッシュグレーに染めた眼鏡姿の男。一見すると「顔」が似ているわけではない。ただ、口元だけはクローンのようにそっくりだった。
「……誰ら、あならたち?」
重たい頭を抱えながら、優斗はサラリーマンが話した日本語で問いかける。現実世界の母が日本人だったおかげで、初等学校に入る前から日本語の基礎的な単語と文法は自然と使えるようになっていた。ただ、酔っぱらっているせいで、ろれつがうまく回らない。「た」と「だ」と言いたいところが、「ら」の発音になってしまった。
髪を染めた眼鏡の男は呆れたようにため息をついた。ベンチの下に転がっている缶を見て、さらに深いため息をつく。そして、新品の水のペットボトルの蓋を開けると、優斗の手の中にある缶と交換した。
「どんだけ酔っぱらってんだ、兄さん。家族の顔なんか普通忘れないだろう」
「まあまあ、暦斗。優斗は彼女に『頼りがいがない』って振られたばかりなんだ。SNSでも
「……なんで自分の息子のアカウントを見てんだよ、父さん。まあ心配で覗いちゃうのはわかるんだけどさ、せめて本人に内緒で頼むよ」
暦斗と呼ばれた男は優斗の手首をつかみ、ペットボトルの水を飲ませようとする。優斗が口を小さく開けると、傾いた飲み口から水が入ってきた。現実世界を再現したゲームだけあって、飲み水は本物を味わっているようだった。冷たい触感も滑らかな舌触りも完璧に再現されている。
しかし、喉を水が通った瞬間、アバターの胃が拒絶反応を起こすのを感じた。
「……がはっ、ぐっ……げほ!」
優斗は後ろを向いて、飲んだばかりの水とともに、胃液の混じった酒らしき物を吐き出した。脳がアルコールに侵食されていく感覚が強くなる。大きさの違う二人の手が優斗の背中を同時にさすってくれるのを感じた。心地よく温かい感触に気が緩んでしまったせいか、急にまぶたが重たくなっていく。
意識が落ちそうになったとき、カーゴパンツのポケットの中にある物が振動した。酔いが一瞬だけ醒めた優斗は、反射的にポケットの中にあったスマートフォンを取りだす。けれども、指先から力が抜けて、青色のケースの付いたスマートフォンが手から滑り落ちた。酔いがふたたび回り、心配して呼びかけている家族の声が次第に聞こえにくくなっていく。重いまぶたが完全に落ちる直前、吐瀉物の中に落ちたスマートフォンの画面が目に入る。
『遊津優斗 プレイヤーID:5575/0423/1829』
眩しく光るスマートフォンの画面には、この世界での「プレイヤー名」と「プレイヤーID」が表示されていた。
次に目が覚めたとき、優斗はベッドで仰向けになっていた。知らない部屋で、誰の物かわからない寝間着を着ている。二日酔いの頭痛をキリキリと感じながら、ゲーム開始時に泥酔していたことを思い出した。初期転送位置が日本だったことも、NPCの家族らしき親子が迎えに来たことも、いきなり意識を失ってしまったことも、記憶が次々と蘇ってくる。
青色のスマートフォンは、ベッドの近くにあるコンセントで充電されていた。ホーム画面には様々なアプリが並んでいた。現実世界で見慣れた物が大半だったが、ゲーム専用のギアなのか、単に珍しいアプリなのか、名前の知らない物がいくつかある。
『Fake Earth』は戦闘がいつ始まるかわからない以上、できるだけ早く調べたほうがいい。
しかし、吐き気と胃もたれがあまりにもひどく、今すぐ確認する気にはなれなかった。
「あら、起きてるね。朝ごはんできたから、冷めないうちに食べに来なさい」
目鼻立ちがはっきりした女性が部屋のドアを開けて、安心したような笑みを浮かべる。体調の悪い優斗を気遣っているのか、優しく話しかける声は抑え気味の声量だった。この世界において、きっと優斗の母親に当たるNPCなのだろう。食欲はあまり湧いていなかったが、今後もここで生活することを考えると、家族との仲はなるべく良好に保っておきたい。
優斗はスマートフォンを充電プラグから抜いた。覚束ない足取りで部屋を出て行き、階段を下りていく母親の後をついていく。
リビングのダイニングテーブルには、暦斗と父親以外に妹らしき女の子が座っていた。母親の面影のある顔立ちで、天使の羽のヘアピンがよく似合っている。女の子が朝食をスマートフォンで撮影している間に、父親は自分の皿からトマトを女の子にバレないように彼女の皿へと移す。暦斗はコーヒーを
「あっ、
「行ってきたらどうだ、優斗。美桜はお前に元気になってもらうために、それっぽいことを口実にして、後で美味しいスイーツのお店にでも連れて行きたいんだと思うぞ」
「……父さん、察したことを全部言ったらダメだよ。ほら、美桜の耳、トマトよりも真っ赤になってるし」
「二人とも! その、恥ずかしいから、ちょっと黙ってて! とにかく、優兄! 今日は、絶対、買い物、いいね?」
赤面した美桜は、優斗に言い聞かせるように何度も指を差した。優斗はギアなどの確認をしたかったが、有無を言わせない態度にうなずかざるを得なかった。母親はくすくすと笑って、ミルク出しコーヒーを淹れた。そして、朝食の皿と一緒に持ってきて、優斗が座った席の前に置く。
切り分けたトマト、しじみの豆乳スープ、柿のジャムを塗ったオープンサンド。
優斗は朝食を無理やり食べきると、二日酔いの症状はなぜか良くなったような気がした。
ログイン1日目は予想していたよりも呆気なく終わった。チュートリアルの正体に驚かされたくらいで、それ以外に変わったことは何も起きなかった。街中でプレイヤーに襲われないかと緊張したが、優斗がNPCとプレイヤーを見分けられないように、他プレイヤーもNPCの中から優斗を見つけられないらしい。きっと現実世界を再現しているがゆえに、非日常みたいな戦いはそう簡単には起きないのだろう。人生を賭けたゲームをプレイしている感覚はなく、日本でホームステイを体験しているような気分だった。
だが、2日目の夜、このゲームの恐ろしさを痛感した。これから暮らすことになる場所のことをよく知るために、渋谷の繁華街を人波に押されながら散策していたとき、大音量の警報音が鳴ったのだった。迷惑そうな視線を一斉に向けられると思いきや、繁華街にいる人たちは何の反応は示さない。この騒々しいアラート音は、NPCには聞こえないようだった。
悪い予感がした優斗がスマートフォンを手に取ると、渋谷エリアの地図がロック画面に映し出されている。複数のコインが地図に点在していて、渋谷エリア内にいるプレイヤーの現在位置を示していた。どうやら運営がプレイ前に説明した「バトルアラート」が鳴ったらしい。優斗の現在位置を表示したコインの左側には、別のコインが10メートル離れた場所に表示されている。
優斗がスマホ画面から顔を上げた瞬間、目の下にクマのあるサラリーマンのアバターと視線が合った。
生まれて初めて体感する死の恐怖。アバターの産毛が逆立つような感覚。素知らぬ顔をするどころか、視線を逸らすこともできない。心臓がきゅっと縮み上がり、冷や汗が頬を伝っていくのを感じる。
目の下にクマのあるサラリーマンは欠伸を噛み殺して、人混みを分けながら優斗に近づいてきた。名刺ケースを手に取るように、ネイビー色のスーツからスマートフォンをつかんだ。優斗が人目を気にせず駆けだすと、サラリーマンも走って追いかけてくる。その骨ばった親指でスマホ画面を叩くと、目の下にクマのあるアバターは半透明になり、人混みのNPCたちをすり抜けてくる。
逃げながら優斗は目を閉じて、即座にまぶたを上げる。目の前の人混みに全神経を集中させて、最短で走り抜けるルートを見極めた。殺されたくない一心で、振り返るタイムロスを惜しんで、一心不乱に走りつづける。なんとか追いかけてきたプレイヤーを撒くことはできたが、その日は街ゆく人たちがみんなプレイヤーに見えて、誰にも自宅までつけられないように遠回りして帰った。
「おかえり、優斗。……あれ? 今日なんか『いいこと』あった?」
「いや、とくに何も。むしろひどい目にあったくらい」
「ふーん、そっか。なんか生き生きした顔に見えたんだけどね。まあ、とりあえず座りなさい。今日の晩御飯、ちょうどできたところだから」
母親はコンロの火を止めて、料理をフライパンから皿に盛りつけた。夕食のメニューは「干しエビと混ぜ合わせたご飯がピンク色のエビチャーハン」。優斗はレンゲですくって、丸まったエビとチャーハンを一緒に食べる。ゲーム内の食事は本当に食べているわけではないのに、炊き立てのご飯にエビの旨味が染み込んでいて美味しかった。
それから3日間は何事もなく過ぎたが、NPCの家族は優斗の変化に気づきはじめた。「なんか機嫌良さそうだね」と美桜は優斗の顔をじっと見つめた。「もしかして彼女とよりを戻したか?」と嬉しそうな顔をした父親は勘違いしていた。暦斗は何も言わなかったが、何か言いたげな顔をしていた。
もし優斗が戦闘で怪我をしたら、この家族たちはすぐに気づくだろう。間違いなく心配するだろうし、怪我がひどいときには病院へ連れて行くこともあるはずだ。
さすがにNPCに自分がプレイヤーであることはバレるとは思わない。だが、彼らが友人に家族の悩みを相談したときに、その友人がプレイヤーの可能性はありえる。病院へ連れて行かれれば、そこに医者や患者のふりをしたプレイヤーが待ち構えているかもしれない。
──ここは誰がプレイヤーなのかわからない世界だ。
──違和感をこれ以上持たれないように、NPCだった頃の「遊津優斗」になりきる必要がある。
優斗は自分の部屋の持ち物を調べて、改めてスマートフォンの検索履歴を見返した。コミュニケーションアプリを起動すると、家族全員と日常的に他愛のないメッセージを送り合っていた。彼らのそれぞれの趣味に精通しているあたり、このアバターは家族思いのNPCだったらしい。三兄妹のグループチャットでは、父親と母親の結婚記念日のプレゼントをどうするか、自ら進んで話を持ちかけていた。
母親が好きな作家の本を読む。父親が課金しているスマホゲームを極める。美桜好みのSNS映えしそうな風景を写真に撮る。暦斗が推しそうなインディーズバンドの曲を聴きつづける。
NPCの遊津優斗のルーティンを真似するのは大変だった。本もゲームも、初めて見る漢字を解読するのは苦労した。今までの暮らしと文化が異なったため、SNSへの日本特有の肌感覚がなかなか理解できない。海外のインディーズバンドにいたっては、何がいいのかがさっぱりわからなかった。
ただ、それぞれの趣味の話を家族に持ちかけると、みんな食いつくように乗ってくれた。美桜は顔を輝かせて、母さんはいつもよりよく笑った。意外にもクールそうな暦斗の反応が一番良く、好きそうなバンドについて話題を振ると、講演会のように一人で延々としゃべり続けていた。色んなスマホゲームをやりこんでいる父さんと話を合わせるのは大変そうだと思っていたが、自称ゲーム博士の父さんは割と抜けていて、遊び始めたばかりの優斗の方が詳しいことが多かった。
「ははは、さすが優斗は詳しいな。じゃあ、あの話は知ってるか? 来週のメンテが終わってから、捕まえたモンスターを配合できる機能が追加されるやつ」
「……父さん、残念だけど、それはデマ。公式サイトを調べたけど、そんな発表はなかったよ」
「そっか。また騙されちゃったな~。でも、とっておきの情報はもう1個あるんだ。知ってるか? いよいよカジノが実装されるんだって」
「……いや、それもデマなんだよ、父さん。たぶん公式を真似た偽アカウントに引っかかってるから、後でフォローを外しておいたほうがいいよ」
自分を理解してくれる人が身近にいる。多様な価値観がある時代だからこそ、同じ価値観を共有してくれる人は特別になれる。優斗はNPCの家族と普段の会話も弾むようになった。彼らの顔を見るだけで、どんな気分なのかもわかるようになった。ゲーム攻略を進められる環境が万全に整った。
しかし、優斗はミステリー小説を読むことも、RPGのスマホゲームのイベントを周回することも続けた。フォトジェニックなカフェ巡りをすることも、次世代のバンドを発掘することも止めなかった。気づいたら同じ趣味に自分もハマっていた。好きなことを心行くまで語り合うのは楽しかった。
毎日NPCと過ごす日々は居心地よく、現実世界にいた頃よりも幸せだった。
ゲームに
そして、『Fake Earth』をプレイし始めてから1年経った頃、優斗は初めてプレイヤーを倒した。お馴染みのバトルアラームが鳴ったとき、たまたま敵プレイヤーと渋谷のタワーレコードのエレベーターに二人で乗り合わせていたので、襲ってきた相手と無我夢中で戦ったら、意外とあっさりと倒すことができた。優斗は胸をなで下ろして、倒したプレイヤーのコインを拾う。ゲームオーバーになったプレイヤーはNPCに生まれ変わり、エレベーターが1階に到着すると、操作盤の開ボタンを押して優斗が先に降りるのを待ってくれた。
──他プレイヤーのコインを3枚集めれば、プレイヤーは『Fake Earth』をギブアップすることができ、現実世界へ戻ることができる。
──他プレイヤーのコインを7枚集めれば、『Fake Earth』から現実世界へ戻ることができ、さらに賞金10億円をクリア報酬として手に入れることができる。
だが、優斗は《ガチャストア》を起動して、手に入れたコインをギアと交換した。来月は家族旅行に行く予定だし、再来月は暦斗の学校で文化祭がある。現実世界に戻るべき理由より、『Fake Earth』の世界にいつづけたい理由の方が多かった。優斗はスクランブル交差点を渡って、渋谷駅から井の頭線の電車に乗った。黄色いタワーレコードのレジ袋の中を見て、暦斗が好きなグループのアルバムに傷がついていないことを確認する。日が暮れる車窓を見ながら、アバターの腹が空いてきたのを感じる。
今日の晩御飯はトマト煮のロールキャベツだったな、と優斗はぼんやりと思い出し……。
思い出した。
「思う」ではなく、「思い出した」。
今日の晩御飯がトマト煮のロールキャベツであることを、優斗は知っている。来月の家族旅行の行き先が仙台になることも、実は暦斗が同じアルバムを買っていたことも、自宅に帰る前からわかっている。
これは今、優斗が体験していることではない。電車で揺れる足元の感覚がリアルでも、たったいま本当に起きていることではない。10歳の誕生日からゲームに参加した後の記憶を長回しで振り返っている。優斗は立ち向かわなければいけない現実を忘れて、かけがえのなかった日常のまやかしに浸っていたことに気づいた。
夢から現実へ引き戻すかのように、大音量の銃声がリビングで3回響きわたる。
泣き腫らした顔の美桜は、言葉にならない叫び声をあげる。プレイヤーの暦斗は目を瞬いて、呆気に取られたような顔をしていた。撃たれた母親は暦斗に手を伸ばそうとしたが、届く前にフローリングの床に倒れた。シアン色の血が静かに広がっていく。
うつ伏せに倒れた優斗は、目の前に落ちたスマートフォンに触れる。対プレイヤー用レーザーで貫かれた傷口から、シアン色の血はドクドクと溢れていた。周りの音がだんだん聞こえなくなっていく。口の中で血の味が広がっていく。全神経を集中させても、重いまぶたはなかなか上がりきらない。フローリングの床の溝を流れてきた血が、横を向いたアバターの頬を汚した。
──俺は今日ここでゲームオーバーになる。
視界がかすんでいく中、優斗は遠くない自分の未来を悟る。今さっき見ていた思い出は、走馬燈であることは間違いなかった。不意打ちで食らったレーザー光線は胸を貫いている。頭はびっくりするほど冷静で、そして「死ぬ」ということを確信していた。
『Fake Earth』を始めたての頃、他プレイヤーに殺されたくなくて、必死に逃げたことを思い出す。将来医者になる道を捨てて、やりたいことなんてなかったのに、あのときは生きたい気持ちでいっぱいだった。けれども、この瞬間、優斗は死ぬことが怖くなかった。プレイヤーはゲームオーバーになれば、「今までの人生の記憶を奪われて、寿命が尽きるまでNPCとして生きるルール」なのに、心から死を受け入れていた。
ただし、避けられない死に諦めがついて、心が安らかになったのではない。「人生の終わりは悔いが残らない」なんて、自分は前向きなことを考えられる人間ではない。
──美桜を操り人形にして、父親を包丁で刺して、母親を殺した奴を仕留める。
──家族を傷つけたプレイヤー、淀川を道連れにする。
優斗は目を閉じて、まぶたをすうっと上げた。急激に視野が狭くなった代わりに、かすんでいた視界はピントが合ったように、はっきりと見えるようになった。対プレイヤー用レーザーに撃たれた痛みはもう感じない。指で触れているスマートフォンを引き寄せる。握りしめたスマートフォンがミシッと音を立てる。
怒りが恐怖を呑み込んだ今、死ぬことなんてどうでもよかった。