開かれたまま床に落ちている洋書の栞紐しおりひもが、シアン色の血に浸っているのが見える。優斗に斬られたレキトの傷口から流れた血だった。傷口から溢れ出る血は止まらず、2階の部屋の床はシアン色に少しずつ染まっていく。錆びた鉄のような臭いが部屋に充満していた。

レキトはうつ伏せに倒れていた。頬に伝わる血の感触は生温かい。サバイバルナイフで斬られた傷口から、皮膚を燃やされたような痛みを感じる。ベージュ色のカーディガンは、シアン色の血でぐっしょりと濡れている。

優斗にナイフで斬られる瞬間、体勢を崩されて避ける術がなかったレキトは、初めて「コンティニューできない」恐ろしさを理解した。もう一度チャンスがあればと思っても、もう二度とやり直すことができない。頭でわかっているつもりで、本当のところは全然わかっていなかった。歯の立ったサバイバルナイフが当たる直前、心臓はぎゅっと縮こまり、凛子の顔が脳裏をよぎった。

しかし、今この瞬間レキトはまだ生きていた。手や足を動かす力は残っている。震えているスマートフォンをつかみ、シアン色の血の広がった床に手をついた。倒れたアバターをゆっくりと起こすと、傷口から血がポタポタと漏れる。

斬られた場所は鎖骨下。出血量に比べて、傷は深くない。どこでも攻撃できた場面なのに、急所となる首と胸を外している。

レキトはスクエア型眼鏡をかけ直した。袖でスマホ画面についた血を拭う。

荒く呼吸している優斗は胸をぎゅっと握りしめた。

「……ああ、くそ、わかってるのに。お前は偽物なのに、弟と外見が同じだけのプレイヤーなのに。……本当に弟を殺すみたいで、殺すことができなかった」

青ざめた顔をした優斗は、サバイバルナイフを持った右手についた返り血を左手で覆い隠す。苦しみに満ちた目で傷を負ったレキトを見つめていた。動揺して集中力が乱れたらしく、青い瞳の揺れは収まっている。

《小さな番犬》の吠える声がわずかに弱まった。

──対戦中に相手を待つ理由はない。

痛みを堪えたレキトは優斗との間合いを詰めて、左ジャブからの右ストレートのコンボ技を決める。一気にハイキックを畳み掛けようとしたところ、辛そうに顔を歪めた優斗は斜め後ろへ飛び退いた。すかさずレキトは近くのベッドの上にある「掛けカバー付きの羽毛布団」をつかんで、距離を取った優斗に覆いかぶさるように投げる。そして、飛んでいく羽毛布団の陰に隠れて、背後の本棚に飾ってある「観葉植物のテラコッタ鉢」を床に叩き割って、短剣のように尖った破片を持った。

「ありがとう。助かるよ。弟の顔が見えないおかげで、俺は躊躇ためらわないで済む」

穏やかな声が聞こえたとき、桜色のレーザー光線が羽毛布団を貫通した。「まずい!」と思った同時に、レキトのももが素早く撃ち抜かれた。

全身に激痛が駆け巡る。レキトは膝をついた。放り投げた羽毛布団が床に落ちた。背筋に悪寒が走り、赤色のスマートフォンの振動が強くなる。

光り輝くイヤホンジャックを向けた優斗は、辛そうな顔で親指をホームボタンから離した。

爆発する前の星が一際強い光を放つように、光っている優斗のイヤホンジャックの輝きが一段と強くなる。次の瞬間、電撃が迸る音を立てて、至近距離から2発目の対プレイヤー用レーザーが放たれた。レキトはなりふり構わず、全速力で横に跳ぼうとする。

だが、アバターは思い通りに動かなかった。血まみれの床に膝をついたままだった。1発目のレーザー光線で撃たれた腿に力がすぐ入らない。これまでの戦いで瞬時にできた動きができなくなっている。

やむを得ずレキトは上半身をひねって、桜色のレーザー光線を肩で受けた。撃ち抜かれた肩からシアン色の血が噴き出す。歯を食いしばって、意識が飛びそうになるのを耐える。

桜色の光の残滓ざんしが漂う中、優斗のイヤホンジャックはもう一度輝きはじめていた。

──『Fake Earth』はライフが減るほど、アバターのモーションが悪くなるゲーム。

──格闘ゲームみたいに、残り少ないライフになっても万全に動けるわけではない。

今までの戦いは終われば、紫藤が《リカバリーQ》で傷を治してくれた。けれども、彼女がいなくなった今、これからの戦闘で受けたダメージは簡単に回復できない。

目の前のプレイヤーに勝てたとしても、次に戦うプレイヤーに負けたら意味がない。もし別のプレイヤーが戦闘直後に襲いかかってきても、必ず生き残らなければいけない。ラスボスのゲームマスターを倒すまで、いつでも戦える状態でいなければいけない。

だから、頭脳をフル稼働させて、目の前の状況を整理しろ。対戦相手の思考を分析して、未来の行動を予測しろ。全力を出し切って、限界を超えて、最善を尽くせ。

絶対に攻略できないゲームがないように、絶対に勝てないプレイヤーもいない。

視野を広げて、見方を変えて、攻略法を見つけるんだ!

「──学習しろ、学習しろ、学習しろ!」

レキトは目を見開いて、スクエア型眼鏡を放り投げた。撃たれていない方の足で床を蹴って、3発目のレーザー光線をジャンプして避ける。空中で撃たれた足に力を込めて、無理やり着地して前に突っ込んだ。振動しているスマートフォンを左手で握りしめて、割ったテラコッタ鉢の破片を右手で構える。

優斗は両目を閉じて、即座にまぶたをすうっと上げた。青い瞳が左右に揺れる。静かにレキトを見つめて、額から流れた血が片目に入っても瞬きしない。右手にあるスマートフォンのイヤホンジャックは輝き始めて、左手にあるサバイバルナイフは桜色の光に照らされる。

「視覚野過敏症候群」VS.「超集中状態」。

共に反応速度に優れた者同士の対決。

真っ向からぶつかり合う直前、レキトは優斗の血で見えにくい目の方へ回り込んだ。優斗は同時にレキトの方へ向きを変えて、親指を長押ししていたホームボタンから離す。光っている優斗のイヤホンジャックの輝きが一段と強くなった瞬間、右側に回り込んだレキトは逆方向へ切り替えた。

青い瞳が揺れる優斗は読んでいたかのように、桜色の照準点をレキトへ瞬時に合わせる。

だが、レキトは後ろに跳んで、放たれたレーザー光線を紙一重で回避した。シアン色の血で濡れたカーディガンの袖に風穴が開いた。《小さな番犬》の吠える声に負けない声量で、レキトは激しい雄叫びをあげる。優斗の胸に狙いを定めて、短剣のように尖った破片を振り抜く。

優斗はレキトと呼吸を合わせるかのように、同じタイミングでサバイバルナイフを振り下ろした。

お互いの武器がぶつかり合い、折れたテラコッタ鉢の破片が宙に舞い散った。

「終わりだ。お前の目が凄くても、俺の反応速度には勝てない」

「奇遇ですね。俺もそう思ってました。けど、ゲームで勝つのは『反応速度』が勝ってる方じゃない。対戦相手の強みを潰した方が勝つんですよ」

レキトは右手をポケットに突っ込み、左手に持っていたスマートフォンを真上に放り投げる。プレイヤーの命となるコインが画面下に埋め込まれた重要アイテムを手放した。「宙に投げられたスマートフォン」と「ポケットに突っ込まれた右手」──優斗の視線が上下に揺れ動く。左手から意識が逸れた瞬間、素早くレキトは優斗の手首を握り、彼が持っているサバイバルナイフを動かせないように押さえつけた。

──推測どおり、優斗の才能は一点のみに集中するために、視野が極端に狭くなっている。

──そして、どれだけ反応速度が優れていても、相手に捕まった状態から攻撃を回避することはできない。

レキトは右手をポケットから出して、開いて何も持っていないことを見せた。優斗を逃がさないように、彼の手首をつかんだ左手に力を込める。折れたテラコッタ鉢の破片が空中に舞い散る軌道を見極めて、回転しながら落下している最中に右手でキャッチする。

そして、優斗の胸をもう一度狙い定めて、短く尖った破片を突き出した。

「──《愛を証明するためにキー・リレシップ》」

落ち着いた声でつぶやいた優斗は、左手で持っていたスマートフォンの画面を胸に当てる。レキトが突き出した破片を刺すよりも、その動作はわずかに早かった。眩しい光がスマホ画面から放たれて、真っ黒なショートヘアが軽やかになびく。ピンク色の円状の線が優斗の足元に浮かび上がり、旋風のように渦巻いていく。

次の瞬間、レキトは後ろに強い力で引っ張られた。リブソックスが床を擦りながら、優斗から5メートル近く引き離される。慌てて振り返ったが、背後で何か変わった様子はない。真上に投げたスマートフォンが床に落ちたとき、《小さな番犬》が吠えて振動して、レキトの方へ跳ねて転がっていく。

──未知のギアの効果がわからなくても、目の力のタイムリミットを無駄にはできない。

転がってきたスマートフォンを拾って、レキトは優斗に斬りかかる。《小さな番犬》の吠える声が今まで以上に強くなったとき、ピンク色の渦巻いていた線からゼリー状の膜が優斗を包み込んだ。不気味な生命体のようにグニャグニャと動いて、ゼリー状の膜は直径3メートルの球体に変わる。青い瞳の揺れが収まった優斗は、哀れむような顔でレキトを見ていた。

後頭部の痛みを感じながらレキトは突っ込む覚悟を決めて、握ったテラコッタ鉢の破片を振り下ろした。尖った破片はピンク色の球体を通った。何の手応えもなく、透き通るように膜の中に入っていく。

しかし、スマートフォンを持った指はピンク色の球体の中に入れなかった。同じS極の側の磁石を近づかせたときのように、謎の反発する力に手前で阻まれた。無理に近づけようとすればするほど、押しつける手に反発する力は強まっていく。一歩前に進もうとしても、ピンク色の球体の中に右足も左足も入ることができない。

物体の破片は抵抗なく入ったのに、アバターだけがピンク色の球体に拒絶される。

愛を証明するためにキー・リレシップ》は「プレイヤーを接近させない」、防御に特化したギアだった。

「このギアを起動すると、ほかのギアは使えなくなる。レーザーも起動できない。だから、先に謝っておくよ。──ごめんな、楽に殺してやれなくて」

暗い目をした優斗は駆け抜けるように走りだす。真正面から一直線に前へ前へ進んだ。ピンク色の球体は中心にいる優斗が走った分だけ前進する。球体の中に入れないレキトは猛スピードでピンク色の膜に押されていく。

両足で踏ん張っても効果がない。ベッドのマットレスをつかんでも、球体の斥力せきりょくで指が剥がされた。横からすり抜けようとすれば、ピンク色の球体は壁いっぱいまで詰め寄った。球体の高さは天井まで届いている。

背後にはアンティーク調の本棚が待ち構えていた。

──広さが限られた対戦ステージを活かした攻撃。

──このまま何もしなかったら、ピンク色の球体と本棚の板挟みで押し潰される!

レキトは後ろに退いて、優斗の歩幅を見定めながら、黒いチノパンのポケットにスマートフォンをしまう。床に落ちたままの「掛けカバー付きの羽毛布団」を手に取り、もう一度優斗に覆い被さるように投げた。お互いに姿が見えなくなった合間に、急いで脱いだカーディガンを丸めて、優斗の次に足を出す位置に転がす。走っている優斗は羽毛布団を振り払った直後、踏みつけたカーディガンに足を滑らせた。

体勢を崩した優斗の動きに合わせて、ピンク色の球体の高さが低くなる。アバターが通り抜けられる隙間が上にできる。

レキトは壁ジャンプするように本棚を蹴って、優斗の頭上の隙間に向かって跳んだ。そして、《愛を証明するためにキー・リレシップ》のアバターに反発する斥力を利用して、ピンク色の球体の向こう側へ飛び越えた。後頭部にアイスピックをハンマーで打ちつけたような痛みが走る。目の力のタイムリミットを超えてしまったらしい。

床に転がっている眼鏡を拾って、レキトは自分の顔にかけ直した。入口のドアに向かって走って、優斗が襲いかかってくる前に手を伸ばす。

そして、部屋のドアの鍵を閉めて、優斗のほうを振り返った。

「……いったい何のつもりだ、プレイヤーさん? この状況で何を企んでる?」

「見たままの意味ですよ。べつに変わったことは考えてません。戦いの最中、部屋の鍵を閉める。『あなたを逃がさないため』ですよ」

レキトは片手をポケットに突っ込み、赤色のスマートフォンを取りだす。《小さな番犬》はホーム画面で牙を剥き出しにして、「ケルルルル」とうなり声を上げていた。

優斗はため息をついて、部屋の奥へカーディガンを蹴る。左手を高く上げると、ピンク色の球体は天井よりも高くなった。

「悪いけど、ハッタリは通用しないよ。お前がゲームを始めてから、まだ1日も経ってないことはわかってるんだ。もちろん初心者だからといって、プレイヤーを見くびるつもりはないよ。けど、初心者にやられるほど、俺の家族への思いは弱くない」

「ええ、あなたは俺より強いプレイヤーですよ。人並外れた集中力を持ち、ギアを的確に使いこなしてくる。紛れもなく実力のあるプレイヤーです。もし別の場所で戦っていたら、俺はゲームオーバーになったでしょう」

レキトは一息ついて、鎖骨下の傷から流れる血を手で抑えた。入口のドアにもたれかかり、アバターの体重を預ける。

「けど、ここは『俺の部屋』です。そして『Fake Earth』は地球上すべての空間が対戦ステージになるゲーム。『自宅』だろうと、身の安全は保障されない。──敵プレイヤーが襲ってくる可能性があるのに、何の対策も考えてないわけがないでしょう?」

レキトは微笑み、こめかみをスマートフォンの角で叩いた。優斗との距離を目測して、自分の部屋にある物の位置を再確認した。どうすれば勝利のルートを辿ることができるのか、様々なパターンを脳内でシミュレーションする。凛子とシューティングゲームで遊んだ日々を思い出す。

「──《対プレイヤー用レーザー》起動」

レキトは両手でスマートフォンを構えて、端末上部のイヤホンジャックを優斗に向けた。