2話 アドバンテージ
「──《
優斗はレキトの手を握ったまま、低い声でギアを起動するように呼びかけた。口元をスマートフォンで隠して、内緒話をするかのような囁き声。青いスマートフォンの画面が光り、優斗の足元から「×印」が広がり始める。巣穴からアリの群れが絶え間なく
──何かが起きる前に優斗を倒さなければまずい!
レキトが左手の親指でホームボタンを長押ししようとしたとき、優斗は固く握りしめていたレキトの右手を離す。そのまま大きく一歩踏み込んで、鋭い蹴りをレキトの腹に叩き込んだ。防御が遅れたレキトは部屋の壁まで吹っ飛ばされて、受け身を取れずに背中を強打する。「対プレイ──」とギアを音声認識で起動しようとした瞬間、真正面から優斗の前蹴りが迫ってきて、言葉に詰まったレキトは両腕を交差させて防いだ。
息つく暇もない肉弾戦を仕掛けられて、ギアを起動できる余裕がない。レキトが優斗の攻撃をしのぐことに手一杯になっている間に、×印は床から壁へ這い上がっていき、部屋中にある何もかもを覆っていく。サンバースト塗装のエレキギターに、洋書の背表紙に、観葉植物の葉の裏側にも貼りついていった。姿見を横目で見ると、レキトの顔にまで×印が貼りついている。
そして、×印は天井まで覆い尽くすと、一斉にすうっと消えた。貼りついた物の中に溶け込むような消え方。部屋の中で何かが変わった様子はまったくない。体が急に重くなったり、×印のついた皮膚がただれたりすることもない。
しかし《小さな番犬》の吠える声はさっきよりも大きくなっていた。赤色のスマートフォンの振動も確実に強くなっている。
ギアによる攻撃を受けたのに、何をされたのかがわからなかった。
「あんまり抵抗するなよ。後で片付けるのが大変になるだろ?」
急接近した優斗は腰の後ろに左手を回す。嫌な予感がしたレキトが右側のベッドの方へ逃げると、歯の立ったサバイバルナイフがレキトのいた場所に振り下ろされた。どうやら優斗は戦闘に備えて、腰の後ろにナイフケースを取り付けて、オーバーサイズの服で見えないように隠していたらしい。紫藤からプレイヤーの服装はゲーム攻略に役立つと教わったことを思い出す。
──接近戦でギアを起動できそうにない状況で、ナイフを持った相手と素手で戦うのは分が悪い。
──武器になりそうな「アイテム」を素早く拾って戦うしかない。
レキトは上半身を反らして、優斗が振り抜いたナイフを辛うじて避ける。目の力を使えばナイフを容易に見切れるが、実力が未知数の相手に不用意に使うわけにはいかない。紫藤が「素早いフットワーク」を持っていたように、目の前のプレイヤーも「切り札」を持っているからだ。レキトが優斗のスマートフォンを奪うために手を伸ばしたとき、優斗はレキトの真似をするように手を伸ばして、その指をレキトの指に絡ませて止めるスーパープレイをやってのけた。動体視力がいいのか、反射神経が優れているのか、優斗がプレイヤーに選ばれた才能を見極める必要がある。
レキトは身を翻して、斬りかかってきた優斗の右側をすり抜けた。緊張と焦りで心臓の鼓動が速くなる中、急いで左右を見て、自分の部屋にある物を確認する。この対戦で生き残るために頭がフル回転しているからなのか、戦いに使えそうな物の上に「アイテム名のポップアップ」が見えるようになる。
▼観葉植物のテラコッタ鉢
▼分厚い洋書
▼掛けカバー付きの羽毛布団
▼サンバースト塗装のエレキギター
▼真っ黒で屏風絵のような花柄のスケートボード
▼回転式の姿見
レキトは左手にスマートフォンを持ったまま、一番近い場所にある「サンバースト塗装のエレキギター」に右手を伸ばした。
「おい、なに勝手に触ろうとしてるんだ? それは弟がバイトして金で買ったギターだぞ」
全身を刺すような殺気を感じた瞬間、鋭い目つきをした優斗が床を強く蹴って飛びかかってきた。怒りに身を任せるように、サバイバルナイフを大きく振る。レキトは反射的に手を引っ込めて、優斗のナイフに当たる直前で回避した。やむを得ずスクエア型眼鏡を外そうとするが、素早く方向転換した優斗がレキトの手をナイフで狙ってくる。
接近戦で何もさせてくれない相手はどう攻略すればいいのか?
咄嗟にレキトは奥の本棚の方へ離れたが、殺気立った優斗に距離を一瞬で詰められた。優斗はナイフで斬る──と見せかけて、真横に避けようとしたレキトの脇腹にミドルキックを叩き込む。そのまま一気に間合いを詰めて、勢いを乗せた
鮮やかな打撃のコンボ技を食らったとき、レキトは凛子と出会って初めにプレイしたゲームが格闘ゲームだったことを思い出した。
「……ああ、なんだ。答えはもう学習済みだったか」
レキトは微笑み、真っ赤なレバーと8つのボタンを脳内で思い浮かべる。防御のコマンドを入力するイメージを描いて、優斗が突き出したナイフを持つ手を弾くように払いのけた。すかさず空手家のキャラクターの攻撃モーションを再現するように、優斗の左足にローキックを放つ。続けて左ジャブを顔面に浴びせて、全力を込めた右ストレートをみぞおちに突き刺した。
次にどんな技を繰り出せばコンボがつながるのか、考えるよりも早くアバターが自然と動く。凛子と一緒にゲームセンターで遊んだ記憶が、真似したいキャラの攻撃モーションを細部まで再現できるように思い出させてくれる。
出会って初めての対戦で全力以上の力を発揮しても負けたことを思い返しながら、レキトは優斗にスマートフォンを握った手でボディブローを打ち込んだ。間髪入れずに肘打ちを優斗の顔面に食らわせて、後ろに重心を引くと同時に左膝を高く上げる。
そして、レキトは
──ケルベロ! ケルベロ! ケルベロ!!
連続技に手応えを感じた直後、《
だが、次の瞬間、倒れた優斗はノータイムで立ち上がった。激突した拍子に割れた姿見のガラスで切ったのか、額からシアン色の血を流している。操作しているアバターがバグを起こしたかのように、青い瞳が左右に揺れている。歯の立ったサバイバルナイフを構えて、捨て身の勢いでレキトに向かって飛び出した。
体力ゲージの減ったボスが第二形態に変身して襲いかかってくるムービーシーンが脳裏をよぎる。
姿勢を低くしたレキトは右手を構えて、左のスマートフォンを握った手でストレートを打った。が、優斗が呼吸を合わせるかのように、同じタイミングでスマートフォンを握った手をぶつけてきた。操作するアバターの体格差で力負けして、弾き返されたレキトの手からスマートフォンが滑り落ちる。
迷わず落ちたスマートフォンを後ろへ蹴飛ばして、レキトは全速力でローキックを優斗の
けれども、優斗がひるんだ様子はない。青筋をこめかみに立てて、サバイバルナイフを振りかざす。
レキトは後ろの本棚に手を伸ばして、まっすぐに下ろされたナイフを「分厚い洋書」で受け止めた。
「だから、弟の物を勝手に触るなって言ってるだろ」
激しく押し合いながら、優斗はレキトを睨みつける。青い瞳は変わらず左右に揺れていた。彼の額から流れるシアン色の血が右目に入っても、瞼が落ちることなく開かれている。まるで痛みも血も存在していないかのように、目の前のレキトに全神経を「集中」させている。
──おそらく戦闘中に目を閉じたのは、「超集中状態」に入るためのルーティン。
──優斗はトップアスリートがごく稀に体験できる「ゾーン」の境地へ意識的に入ることができるらしい。
死に物狂いで戦っているレキトを応援するように、《
このまま諦めずに粘りつづけたところで、ゲームオーバーになるのは時間の問題だった。
「父さん、母さん、美桜! 誰か急いで来てくれ! 『兄さんが急に倒れた!』」
1階のリビングにいる家族に向かって、レキトは「嘘」を大声で叫んだ。×印のギアの効果もわからない以上、この戦いは仕切り直した方がいい。喉がヒリヒリと痛むのを堪えて、「とにかく早く来て! 早く!!」と全力で呼んだ。この部屋のドアを開けて、兄が弟を殺そうとしている状況を見れば、あのNPCたちは間違いなく止めに入ってくる。これまで派手に部屋で戦っている以上、もうすでに心配した彼らが階段を駆け上がってきていてもおかしくない。
だが、誰も2階の部屋に上がってくる気配はなかった。レキトが叫んだ声は、隣の家にも聞こえてもおかしくない声量だった。それなのに、NPCの家族たちはまったく気づかない。《小さな番犬》が吠えている中、母親の紀子と妹の美桜が仲良く笑う声が代わりに聞こえてくる。テレビのバラエティー番組でも観ているらしい。
「母さん! 美桜! 助けてくれ!」
レキトは家族のNPCをもう一度呼んだ。けれども、紀子も美桜も何の返事もしなかった。同じ屋根の下で暮らしているはずなのに、聞こえるはずの声が届いていない。
「──《
「さあな。どうせ知ったところで状況は変わらないんだから、そんなことより耳を澄ませよ。……聞こえるだろう? リビングから幸せな音が。心が安らぐのを感じるだろう? 俺にとってこの家は、何にも代えることのできない『居場所』なんだ」
ふと穏やかな顔に変わった優斗は、
敵プレイヤーの目の前で、アバターの足が床から離れる。
「ごめんな。見逃してあげられなくて。『賞金1億円』とか『ブラックカード』とかには興味ないんだけどさ、俺はこの家族で過ごす日常を失いたくないんだよ。父さんも、母さんも、美桜も、暦斗も、みんな大事で大好きで。ずっと一緒にいたくて。……本当に悪いんだけど、明日の誕生日の飾りつけもあるし、『弟』を返してもらうよ」
優斗は倒れていくレキトを見つめていた。右手でサバイバルナイフをくるりと回した。左手の人差し指を唇に当てて、しーっと口の形を作る。
《
『Fake Earth』は簡単に死ぬゲームだったことを思い出す。
そして、優斗のサバイバルナイフが目の前から襲いかかってくる。
「うわ! ここでゲームオーバーか! あ~あ、序盤さえ切り抜けたら、しばらくは流れでいけると思ったんだけどな~」
2階の部屋でシアン色の血が飛び散ったとき、リビングからスマホゲームで遊んでいた父親の落胆する声が耳に入った。