5話 雨上がり

いつも夢は目が覚めるまで、それが夢だと気づけない。頭がぼんやりして、目に映るすべてを信じてしまう。

授業中の静かな教室で、先生の板書するチョークの音がよく響いているようなリアルな夢はもちろんのこと、雲海にみついた巨大な魚を釣り上げるようなファンタジーな夢でさえも。

なぜか現実で起きていることだと受け入れてしまう。

けど、頼助はこの夢を見たとき、これは夢だとすぐに気づいた。目の前の光景がどれだけリアルに見えても、いま目にしているものはリアルではないことに。

都内で何度も遊んだことのあるゲームセンター。真っ赤なキャップをかぶったパーカー姿のティーンエイジャーの女の子が頼助の隣に座っていた。透明感のある栗色のショートヘア、アーチ状の眉は大人っぽく、控えめな口元は引き締まっている。彼女は大型の箱型筐体のカップルシートのような座席に腰かけて、淡い鳶色の目はゲーム画面のイベントシーンに釘付けになっている。

現実世界にいるはずがない女の子。

ゲームの楽しさを教えてくれた、かけがえのない人物。

夢の中で頼助と凛子は隣り合わせに座って、『ダイナソー・パーク・アーケード』を一緒にプレイしていた。

「どうしたの、頼助くん? 私のこと、じーっと見て」

「……別に。なんか二人でゲームするの久しぶりだと思って」

「何それ。毎週会ってるのに? まあ、もっと一緒に遊びたい気持ちはわかるけど」

そろそろ次のステージだよ、と凛子は声を弾ませる。逸る気持ちを抑えられないように、握るコントローラーのトリガーをカチャカチャと鳴らした。隣にいなくなった彼女が、当たり前のように頼助の隣にいる。凛子に会えなくなった現実の方が、夢だったように思えてくる。

煌びやかな画面を共有して、頼助と凛子はコントローラーを構えた。素早く襲いかかってくる恐竜の群れに狙いを定めて、二人でトリガーを引いて麻酔銃を撃ちつづけた。相変わらず頼助と凛子はうまく協力し合えず、次第に獲物の奪い合いになって、「敵を倒すこと」よりも「味方を邪魔すること」に夢中になっていく。

けれども、群れが最後の1匹になったとき、お互いの照準が重なり、二人で同時に撃って倒した。

「あはは、ギリギリ! やっぱり協力プレイは楽しいね。まあソロプレイはソロプレイでいいんだけど」

「……意外だな。その言い方だと、協力プレイのほうが好きなように聞こえるよ。凛子はソロプレイで極める方が好きなのかと思ってたけど」

「だって、協力プレイは一人だと気づけなかったことを教えてくれるじゃん。ゲームの制作者の意図とか、自分のプレイがもっと良くなる可能性があることとか。ゲームは面白いって、あらためて実感できるんだよね」

凛子は指先に息を吹きかけた。淡い鳶色の目を輝かせて、画面いっぱいに映るボスキャラのトリケラトプスを見つめていた。真っ赤なキャップを後ろに回して、細長い指をコントローラーのトリガーに添える。

頼助がソロプレイ派なのか、協力プレイ派なのかは訊いてこない。ゲームセンターでよく遊ぶ仲でも、いつもどおり相手の価値観には踏み込んでこない。

夢の中で姿を現した彼女は、思い出の中にしかいなかった凛子そのものだった。

「頼助くん、話変わるんだけどさ、こういう恐竜みたいな巨大モンスターっていいと思わない? こういうのが出てくるだけで、このゲームは当たりって気がする」

「たしかにそうだな。『ビーストハンター』も、ミスできない緊張感が楽しいし。『ナノモン』のバトル中に大きくなるシステムも、実際にプレイしたら迫力があって面白かったし」

「でしょ! なんでワクワクするんだろうね? 強そうな相手と戦うのが面白いからかな」

「うーん、俺は世界の大きさを感じられるからかな。人間より圧倒的に大きい生き物を見ると、自分はちっぽけな存在だって思えてくるし」

「それ、頼助くんっぽい考え方だね。なんとなくだけど、私も、ちょっとわかるかも」

凛子はゲーム画面を見つめたまま、涼やかな笑みを口元に浮かべる。そして、ボス戦のBGMが流れると同時に、コントローラーのトリガーを連打し始めた。淡い鳶色の目が瞬きをする回数が減っていく。意識がゲームの世界に入り込んだと思うくらい集中していた。

頼助はコントローラーを斜め上に傾ける。凛子の照準を目で追いながら、トリケラトプスが角で投げ飛ばしてきた岩を撃ち落とした。そのまま凛子と照準を同じ高さに揃えて、トリケラトプスの両目、前足、後ろ足を順番に攻撃する。麻酔銃からショットガンに同時に持ち替えて、二人で片方の角の根元を集中攻撃して部位破壊した。

いつも息が合わないはずなのに、自然と連携できるようになっている。SSRのキャラをガチャで引く確率で起きる、神がかった協力プレイ。なぜ急に波長が合うようになったのかはわからないけれど、凛子と精神が深くつながっていることがわかる。「この瞬間が永遠に続いてほしい」と思いながら、「この瞬間は永遠に続かないからこそ素晴らしい」と矛盾した気持ちを共有していることがわかる。

言葉にしなくても、凛子がどうプレイしてほしいのかがわかった。凛子に目配せを送らなくても、自分がどうプレイしたいのかが伝わっているのがわかった。ピアノの連弾を演奏しているように、お互いのプレイが1つに融合していくのを感じる。一人では勝てそうにない巨大なモンスターを、二人ならどう攻略するのかを考えることが楽しくなってくる。

ふと凛子が『Fake Earth』から戻って来なくなってから、一人でゲームセンターに寄ったときの記憶が蘇った。毎日ゲームセンターに凛子がいないことを確認して、それでもゲームをしていたら現れるのではないかと思って、アーケード筐体に100円玉を落としつづけた日々が脳裏をよぎった。

一人でオンライン対戦を50人抜きしても、たいして嬉しくなかったことを思い出す。

一人でハイスコア更新に惜しくも届かなくても、そこまで悔しさを感じなかったことを思い出す。


──カチ、カチ、カチ……カチン。


時計の針が刻んでいき、最後に止まったような音がした。煌びやかな画面はフリーズする。猛々しい角を持ったトリケラトプスは、突進中に四本脚が地面から浮いた状態のまま動かない。コントローラーのトリガーを引いても、ゲーム画面で構えているショットガンは弾を発射しなかった。

──もうすぐ夢が終わるのだろう。

頼助は意識が覚醒しつつあるのを感じた。凛子はため息をついて、スマートフォンのロック画面の時計を見る。真っ赤なキャップを前向きに戻して、手前の台にコントローラーを嵌め込んだ。

「今日はもうタイムアップだね。次はいつにする? 来週なら私はいつでも大丈夫だけど」

凛子は指のストレッチをしながら、小さく首を傾げる。淡い鳶色の目は頼助を優しく見つめていた。ゲームセンターの閉店放送が流れる。

頼助は凛子の目を見返した。ずっと会いたかった人をまっすぐ見つめた。

「……ごめん。たぶん来週は会うことができない。その次の週も、来月になっても会えないと思う。本当はまたこうやって遊びたい。──でも、俺にはどうしてもやらなきゃいけないことがあるんだ」

頼助は自分の手を握りしめる。どうして「嘘」をつくことができないのか? これは夢の出来事なのだから、「じゃあ来週会おう」と普段どおり約束しても問題ない。それなのに、なぜか凛子に誤魔化すようなことが言えなかった。

頼助のデニムパンツのポケットの中で、スマートフォンが振動した。持ち主へ呼びかけるように、何度も何度も震えつづける。

凛子は微笑んで、頼助から目をそっと逸らした。

「わかった。忙しいならしょうがないね。応援してるよ、頼助くん。もしそれが終わったら、よかったら連絡して」

凛子は後ろを向いて、足元に置いていたリュックサックを背負う。アーケード筐体に忘れ物がないかを確認して、グレーのパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。

どうしてしばらく会えないのかを質問しない。今まで一緒に遊んできた仲で、今日で最後かもしれないのに、あっさりとした態度を取っている。落ち着いた声が震えたり、声のトーンが下がったりすることはなかった。

しかし、頼助は凛子に会えないと告げたとき、彼女の目の瞳孔どうこうがわずかに大きくなったことを見逃さなかった。こういうとき凛子は相手の価値観を尊重して、自分の意見を押しつけない。大丈夫じゃないときでも、大丈夫そうなふりをしている。

そして、何の相談もなしに一人で『Fake Earth』に参加することを選んだ。

だから、頼助は凛子を追いかけて、『Fake Earth』をプレイする道を選んだ。誰よりも強いゲーマーである彼女を一人にさせないために。

──ゲームマスターを倒して、『Fake Earth』を終わらせる。

──現実世界に二人で戻って、ゲームセンターでもう一度遊ぶ日常を取り戻してみせる。

この険しい茨の道の先に、さらなる困難が待ち受けていようと、最高のエンディングへ辿り着くまで足を止めるつもりはなかった。

「ねえ、頼助くん。最後に1ついい?」

「いいけど。何かな?」

「別にたいしたことじゃないよ。ただ、しばらく会えそうにないなら、ちゃんと聞いとこうと思って」

──ゲームの楽しさはわかった?

凛子は頼助に質問して、いたずらっぽい笑みを浮かべる。『Fake Earth』の対戦中に頭に浮かんで、何度も心を奮い立たせてくれた笑顔だった。

一人で悩みながら格闘ゲームをプレイしていたとき、「今から君にゲームの楽しさを教えてあげる」と凛子に対戦を挑まれたのが、一緒にゲームセンターで遊ぶようになったきっかけだったことを思い出す。

「楽しかったでしょ?」と凛子から毎週の帰り際に訊かれるたび、「全然楽しくなかったよ」と頼助は嘘をついて、本当の気持ちを伝えられなかったことを思い出す。

「……それは今度会ったときに答えるよ。必ず答えるって約束する」

だが、夢の中でも頼助は本当の気持ちを伝えることができなかった。正直に言えば、「ゲームの楽しさはわかったよ」と素直に答えて、凛子がどんな顔になるのかを見てみたい。感謝の言葉を伝えて、思いの丈をぶつけたかった。

けれども、今ここで本当の気持ちを伝えたら、もう二度と凛子に会えなくなるような気がした。絶体絶命のピンチに追い込まれたときにくじけずにいられた、負けたくない思いの根幹にあったものが失われてしまう予感がある。まだ『Fake Earth』をクリアできていないのに、自分だけが満たされるようなことをするわけにはいかなかった。

「そっか。じゃあ、次会うとき楽しみにしてる。約束だよ、頼助くん」

凛子は小指を立てて、頼助の方へ近づける。頼助も小指を立てて、凛子の小指に引っかけた。お互いに見つめ合って、指切りから握手へ手の形を変える。そして、握った手を離して、力強くハイタッチを交わした。

「またね、頼助くん」

「ああ。また今度」

頼助と凛子は笑い合って、いつもどおりの別れの挨拶を交わす。力強くハイタッチした手はヒリヒリしていて、凛子の手の温もりが少し残っていた。頼助は片手をポケットに突っ込み、震えていたスマートフォンを取りだす。柴犬風にカットされたポメラニアンがホーム画面で吠えていた。

次の瞬間、スマートフォンの画面の光が急速に強まっていった。あまりの眩しさに、アーケード筐体の風景は見えなくなった。思わず目を閉じそうになるのを堪えて、凜子を横目で見る。光に包まれて姿が見えなくなっていく中、凛子も横目で頼助を見ていた。

これは夢──現実ではない、最後に覚めてしまう夢。

いま一緒に遊んだ凛子が完璧に再現されていても、彼女は本物によく似たフェイクでしかない。夢の中のゲームセンターで遊んでも、ただの気休めにしかならない。

それなのに、頼助は偽物の凛子と遊べて楽しかったと思った。

本物の凛子と思い出が共有されるわけではないのに、この夢のことを目覚めても忘れたくない。何気なく交わした言葉も、彼女の些細な仕草も、心に留めておきたかった。どうしてそう思ったのか、自分でもよくわからなかった。

眩しい光が頼助たちを包み込む。凛子の姿は完全に見えなくなった。小さな穴が胸に開いたような痛みを感じる。何かも見えなくなる。

夢の世界から、現実を完璧に再現した世界へ。

目の前が真っ白になった。



この世界でふたたび目覚めたとき、レキトは涙を流していた。閉じている瞼の中で目が潤っていて、温かい涙が頬を滑らかに伝っていく感触がある。凛子と一緒にシューティングゲームしたことも、「ゲームの楽しさがわかった」と言えなかったことも、夢の中で体験したことは何もかも覚えていた。ただ、目覚めた後に残っているのは記憶だけで、凛子の手の温もりは左手から消えている──そんな悲しい目覚めになると思っていた。

けれども、夢から目覚めたレキトは、まず「暖かい」と思った。とくにアバターの肩から背中にかけて、誰かに抱きしめられているような温もりを感じた。暖房の風に当たる場所にいるようで、指先まで血行が良くなっているのが体感でわかる。

レキトは目を閉じたまま、自分の顔に手を当てる。リミッターの眼鏡はつけていない。柔らかい感触が背中と尻に伝わることから、椅子にもたれかかるようだった。緩やかな曲調の音楽が流れていて、何人かのグループの話している声が微かに聞こえてくる。物や色が多い場所でないことを願いながら、レキトは目をゆっくりと開いた。

この世界で二度目の目覚めを迎えた場所は、落ち着きのある自然色で内装を統一したカフェだった。店内の間接照明が規則的に配置されていて、柔らかい光が生み出す陰影がオシャレな空間の雰囲気を作っている。「深緑色の円に描かれた白い人魚のロゴ」の看板が、窓際の梁から吊り下げられていた。

レキトは一息ついて、自分のアバターの状態を確かめる。いつ間にか学ランの上に紫藤のスーツの上着をブランケットのように羽織っていた。傷だらけだったアバターはかすり傷ひとつ残っておらず、痛む場所もない。NPCから目立たなくなるギア、《我らは世界の端役なりフーズロール》の効果は持続しているらしく、レキトの影はテーブルの影よりも明らかに薄かった。

──おそらく傷は紫藤が《リカバリーQ》で治してくれたのだろう。

──今カフェにいるのも、彼女がタクシーに乗せて連れてきてくれたに違いない。

手前のテーブルには、赤色のスマートフォンとレンズにひびの入った眼鏡が置かれていた。自動で明るくなったスマホ画面には、《小さな番犬リトル・ケルベロス》が仰向けに転がっていて、「天気」のアプリを甘噛みしていた。

「やっと起きた。気分はどう? 大丈夫? これ温かいから、とりあえず飲んで」

紫藤は木目模様のトレイを持ってきて、レキトにドーム状の蓋の付いたカップを渡す。L字型のソファに座って、レキトのほうへ体1つ分距離を詰めた。人差し指でテーブルを2回叩いて、ダークモカチップフラペチーノのカップを掲げる。

レキトは顔に眼鏡をかけて、保温されたカップを持ち上げる。

お互いに何も言わず、二人でカップを合わせた。

「なんとか生き延びましたね、紫藤さん。おかげさまで助かりました」

「私は全然たいしたことしてないよ。レキトくんの作戦どおりに動いただけ。……本当にあのギルドからよく逃げ切れたよ」

紫藤はほっと一息ついて、掲げていたカップをテーブルに下ろす。レキトは紫藤との戦いを振り返り、「もしもバトルアラートが鳴らなければ、負けたのは俺の方かもしれない」と心の中で思った。紫藤は何でもないような言い方で謙遜しているが、集団のプレイヤーを相手に作戦を実行できたのは、並々ならぬ強さを持っている証明に他ならない。紫藤との戦いでゲームオーバーにならずに済んだのは、雨で足が滑りやすくて、彼女の素早いフットワークが活かしきれなかったおかげだろう。

──あなたのコインでガチャを回せば、いいギアが引けそうです。

教団ギルドのプレイヤーたちにやられた記憶がフラッシュバックして、レキトは持っていたカップを握りしめる。経験による実力差があることは戦う前からわかっていたが、現実世界で培ってきたゲーマーとしての力を120%出し切れば、まったく歯が立たないこともないと思っていた。けれども、実際は50人が一丸となった連携プレイに圧倒されて、為す術もなく完敗。あの状況で逃げ出せたのは、ただの奇跡としか言いようがない。

今のままプレイしつづけたら、この先間違いなくやられる。戦いの経験値をのんびり積ませてくれるほど、このゲームのプレイヤーは甘くない。明日ゲームオーバーになって、NPCにさせられてもおかしくない。

『Fake Earth』をクリアして凛子を助けるために、今やらなければいけないことは何なのか。

「あっ、また思い詰めた顔してる! しょうがないな、レキトくんは。なに悩んでるかはわからないけど、それ飲んでゆっくりしたら、向かいの百貨店で『買い物』に行くよ」

「……買い物? いったい何を? 《5秒で配達デリバーフォン》を使えば、ネット通販で買った物をすぐ転送してもらえますよね?」

「そりゃあ君の装備アイテムだよ。こればっかりは試着しないと、サイズ感がわからないからね。そんな誰かと戦いました感ある格好で歩いたら、他のプレイヤーに狙われるでしょう?」

紫藤はストローを手に取って、チョコチップのかかったホイップクリームをすくった。口の中にストローを運ぶと、整った顔を満足そうに綻ばせる。改めて学ランの上下を見てみると、首の下から足首までナイフで斬られた跡があり、レーザー光線に撃たれた穴がいくつも開いていた。もし紫藤が《リカバリーQ》で回復してくれなければ、間違いなくゲームオーバーになっていただろう。

どうして一時的に協力していただけのプレイヤーが戦いを終えた後に傷を治してくれると信じて疑わなかったのか? 意識を失っている間に裏切られて、容赦なくコインを奪われるリスクは考えればわかることなのに。

レキトは一口コーヒーを啜り、大事なことを見落とした原因を考えた。


恵比寿えびす百貨店の地下1階は、仕立てのいい服のショップが並んでいた。優雅な立ち姿を保った店員のNPCたちは、動くマネキンのようにオシャレな服装をしていた。店の前を通り過ぎると、誰もが「いらっしゃいませ」と上品に挨拶をしたり、にこやかに会釈をしてくれたりする。街を歩くNPCたちは様々な行動を取っていたのに、店員のNPCたちはみんな似たようなリアクションを取っていた。

「覚えてるかもしれないけど、お金のことはそこまで気にしなくていいよ。私たちのスマートフォンは、『ゲームが始まったとき』と『プレイ時間が1ヶ月経つごと』に、電子マネー100万円が自動でチャージされるルールだからね」

紫藤は値札を確認せず、楽しそうな顔でコートを持ってくる。試着しなくても似合わないことが確信できる、派手な色で柄のうるさいトレンチコートだった。迷わずレキトがコートを突き返すと、切れ長の目を細めた紫藤は弾んだ足取りで元の場所へ戻していく。「何かお探しの物はありますか?」と前髪を上げた男性店員のNPCが手を合わせて近づいてきた。

店頭のマネキンの服を頼みかけたところで、レキトは開きかけた口を閉じる。紫藤がカフェで買い物に行くことを提案したとき、「装備アイテム」と珍しくゲームっぽい言い方をしたことが気になった。紫藤の服装を横目で見て、店内に展示されているアイテムを見回す。そして、男性店員のNPCに微笑み、「デニムパンツ」を探していることを伝えた。

「さすが察しがいいね。私もジーンズを買おうと思ってたよ」

「ジーンズなら多少傷ついても、ダメージ加工の物と誤魔化せて目立ちにくいですからね。RPGと同じように、『Fake Earth』も装備するアイテムが大事。これがゲームオーバーになったプレイヤーのコインを譲る代わりに約束した、ゲームで知っておいたほうがいい情報ですね?」

「そう! 『Fake Earth』は服もゲーム攻略に役立てることができる。だからといって、軍人みたいな戦闘服を着たら、街中で浮いちゃうからダメだよ。『実用性』と『ファッション性』、バランスをうまく考えたコーディネートをしてね」

紫藤は腰に手を当てて、モデルのようなポーズを取る。彼女のパンツスタイルのスーツは、シアン色の血がついても目立ちにくそうな青系のダークカラーだった。東京駅前の広場で出会ったときにハイヒールを履いていたのは、戦う相手にスピードが遅いと錯覚させるためだろうか? あるいは戦闘に向いていない靴を装備することで、周りにプレイヤーだと思わせない錯覚なのかもしれない。

それからレキトと紫藤は色んな服を手にして、どんな服装がプレイヤーとして最適解なのかを議論した。全身のコーディネートをゲーム攻略の観点で考えると、普段と違った物の見方になって面白かった。


Q1.首を守る防具は「マフラー」と「スヌード」のどちらが適しているのか?

Q2.重ね着は何枚までが「防御力」と「素早さ」を両立できるのか?

Q3.街中で「スポーツゴーグル」は怪しまれないのか?


紫藤はNPCに紛れるのが基本だから、ある程度の「ファッション性」を重視した。レキトはスマートフォンの警報でプレイヤーにバレるのだから、とにかく戦いに特化した「機能性」を重視した。各ブランドの店で試着しながら、お互いの考えをぶつけ合っていく。

そして、1時間にわたる議論の末、お互いの妥協点となる服装が決まった。

「うん、これなら格好いいと思うよ。できれば靴もこだわりたかったけど」

「『全身が新品なのは不自然』、『靴は動きやすくて、履きなれた物がいい』って結論でしょう? 汚れの少ない白シャツと靴はそのままでいきますよ」


▼ネイビー色のチェスターコート(6万2000円+税)

▼ライトグレーのニットセーター(2万900円+税)

▼厚手のヴィンテージジーンズ(5万5400円+税)


紙袋を提げたレキトは男子トイレの個室に入り、買ったばかりの装備アイテムにすべて着替えた。


最寄りの恵比寿駅には動く歩道に乗って向かうことにした。周囲のNPCたちも動く歩道を利用して、全員が左側で一列に並んでいる。

レキトは片手をポケットに突っ込み、「ライムミント味のフリスクケース」を揺らす。真っ白な粒がケースの中で動き、涼しげな音が微かに鳴った。

「『最後に買いたい物がある』って言うからさ、何を買うのか期待してたんけど……なんでフリスクなの? ショッピングモールに来たんだから、もっと他に何かなかったの?」

「全然わかってませんね、紫藤さん。フリスクは一粒食べれば、気持ちを切り替えられて、集中力を高めることもできる優れ物です。このゲームを攻略するためのキーアイテムと言っても過言ではありませんよ」

「いや、過言でしょ。でも、そこまで言われると、なんか久しぶりに食べてみたくなるね」

「そう言うかもしれないと思って、予備を多めに買っておきました。よかったら1つ差し上げますので、好きな味を選んでください」

レキトは星印のエナメルバッグを開けて、5種類のフリスクを手に取って見せる。「別に何でもいいんだけど」と紫藤は困ったように笑って、レモンミント味のフリスクを選んだ。華奢な手でケースの封を切って、黄色いフリスクを一粒つまんで食べる。「効果は実感できましたか?」とレキトが尋ねると、「ううん、まったく」と紫藤は笑顔で首を横に振った。

動く歩道の列の先頭のほうを見ると、終着点まで残り100メートルを切っている。今レキトと紫藤が向かっている先は、恵比寿駅の山手線のホーム。レキトは外回りの新宿方面の電車に乗り、紫藤は内回りの品川方面の電車に乗る予定だった。

共闘のきっかけとなったバトルアラートはとっくに鳴り止み、力を合わせて戦わなければいけない相手はもういない。

別れのタイムリミットは刻一刻と近づいていた。

「そういえば、レキトくん。《対プレイヤー用ナイフ》と《対プレイヤー用レーザー》、今後はどっち使うの? プレイ時間12時間経ったら、1つしか使えなくなるでしょ?」

「実は迷ってるんですよね。今のところ対プレイヤー用ナイフの方が使いやすいんですが、サバイバルナイフでも代用できますし。かといって、常にサバイバルナイフを携帯する負担を考えると、簡単にホームボタンの長押しで使えた方がいい気もするんですよね」

「ふーん、そっか。じゃあ、レキトくんは《対プレイヤー用レーザー》にしなよ」

「え? 何でですか?」

「だってバトルアラートが鳴ったとき、たまたま私たちが近くにいたら、また協力プレイすることがあるかもしれないでしょ? 私はナイフを選んだんだし、別々のギアを持ってた方がお互いを補えるじゃん」

なんてね、と紫藤はレキトの肩を軽く叩く。明るくていたずらっぽい笑顔。切れ長の目はキラキラと輝いていた。レキトは紫藤を改めて見つめて、彼女がずっと探していた人ではないことを確信する。それなのに、夢の中で再会できた凛子の面影が一瞬だけ重なった。

列の前にいたNPCたちが歩き始めて、レキトたちは動く歩道の終着点に到着した。二人で動く歩道を降りて、横並びで恵比寿駅に向かった。ICリーダーにスマホ画面をかざして、自動改札を横並びで通り抜ける。

山手線のホームに降りるエスカレーターに着いたとき、レキトが先に進んで、紫藤は次の段に乗った。

「……すみません。最後に1ついいですか?」

「いいよ。ていうか、そんな言い方されたら、聞かないわけにはいかないし。私にわかることなら、何でも教えてあげるよ」

「違います。べつに俺は質問したいわけじゃありません。どうしてもお願いしたいことがあるんです」

レキトは紫藤の目を見つめた。左手をぎゅっと握りしめる。

──これからゲームで生き残るために、今やらなければいけないこと。

──このゲームをクリアするために、どうしても必要なこと。

「紫藤さん、これからも俺と手を組みませんか?」

山手線の駅ホームアナウンスのチャイム音が聞こえてくる。女性の音声アシスタントが、まもなく電車が到着することを告げた。後ろを向いていたレキトはホームに着いたことに気づかず、エスカレーターの降り口でVANSのスニーカーの踵を引っかける。アバターが後ろに倒れそうになった。買ったばかりのチェスターコートが汚れることが脳裏をよぎる。

だか、紫藤がレキトの手をつかみ、転ばないように支えてくれた。

「それ、いい提案だね、レキトくん! 君は頭がいいし、《小さな番犬》もなんだかんだ頼りになるし! 何よりめちゃくちゃ楽しそう!」

紫藤は微笑んで、軽やかな足取りでエスカレーターを降りる。華奢な手でレキトの手を握って、乗り換え案内の掲示板がある場所まで引っ張った。アバターの頬はわずかに赤くなっている。柑橘系の香水の匂いが鼻先に漂った。

レキトは口元が緩むのを感じた。この世界で最初に出会ったプレイヤーが紫藤でよかった。心の中でそう思いながら、握られた手をほどく。

そして、改まって握手を交わすために、紫藤に手を差し出した。

──ケルベロ! ケルベロ! ケルケルケルベロ!

そのとき《小さな番犬》が激しく吠え始めた。近くにいるNPCがスマートフォンから顔を上げるくらい、大音量の鳴き声。赤色のスマートフォンは、ジーンズのポケットの中で振動した。駅のホームにいるNPCたちの視線がレキトたちの方に集まる。

レキトは周りを見回して、プレイヤーらしきアバターを探した。ビニール傘を2本持った大柄の男性、無表情でスマホゲームをしている茶髪の女性、独り言をつぶやいているサラリーマン──。誰も彼もがNPCのふりをしたプレイヤーにしか見えなかった。心臓の鼓動が速くなるのを感じながら、震えているスマートフォンを手に取る。

「後ろに下がってください、紫藤さん。相手は俺たちがプレイヤーだと見抜いても、おそらくプレイスタイルまでは知らないはずです。あなたをサポート系のプレイヤーだと勘違いさせましょう」

「……本当によく思いつくね、レキトくん。でも、その必要はないよ。──だって《小さな番犬》は私のせいで鳴いてるんだからさ」

我らは世界の端役なりフーズロール》、と紫藤は切れ長の目を細めてつぶやく。レキトと紫藤の影は透き通った薄さになり、興味を失ったような表情に変わったNPCたちはレキトたちから視線を逸らした。紫藤は親指でホームボタンを長押しして、対プレイヤー用ナイフを起動する。そのまま乗り換え案内の掲示板に突き刺して、掲示板の端に寄った部分を丸く切り抜いた。

レキトは言葉を失って、その場で立ち尽くす。どうして《小さな番犬》が紫藤を危険だと認識しているのか? 何らかの誤作動を起こして、間違って吠えているとしか思えなかった。

紫藤が偽物のチュートリアルを演じていたように、これも「嘘」であることを願った。

「──《5秒で配達デリバーフォン》」

『お買い上げありがとうございます。手錠1本、ただいまお手元に転送いたします。またのご購入をお待ち申し上げます』

けれども、紫藤はスマートフォンのマイクに囁いて、光ったスマホ画面から飛び出した手錠を1本つかんだ。慌ててレキトがスマートフォンを構えようとすると、紫藤はレキトの背後に素早く回り込んだ。鋭い手刀を叩き込んで、振り返ったレキトの手からスマートフォンをはたき落とす。《小さな番犬》の吠える声が強くなった瞬間、紫藤はレキトの右手に手錠をかけて、もう一つの輪を乗り換え案内の掲示板に切り抜いた穴に通す。

山手線のホームに電車が停まった。全車両のドアが開き、NPCの乗客たちが降り始める。

手錠をかけられたレキトは屈むことすらできず、地面に落ちたスマートフォンを拾うことができなかった。

「ごめんね、レキトくん。君が手を組もうって言ってくれて、私は本当に嬉しかったよ。今日みたいにギルドから逃げたり、服選びで仲良く言い合いしたり、毎日一緒にプレイできたら、どれだけ楽しくなるだろうって想像した。……でもね、私は誰とも長くは組まないって決めてるの。一人でプレイするようにしないと、今の君みたいに判断力が鈍って弱くなっちゃうから。出会った頃の君なら、私に騙されることはなかったでしょ? 仲間を殺したプレイヤーに復讐するために、私は弱くなるわけにはいかないんだよ」

紫藤はレキトの前に立って、寂しそうな笑みを浮かべた。そして、後ろを振り返って、山手線の電車に乗っていく。

発車ベルが鳴った。

駅員が笛を吹いた。

電車の扉は音を立てて閉まった。

紫藤はレキトを一度だけ見て、ダークカラーのスーツの背中を扉に向ける。全車両の扉が閉まり切ると、電車は恵比寿駅から離れていった。

《小さな番犬》が鳴き止んでいた。赤色のスマートフォンの振動は止まる。いつの間にかレキトの右手にかけられていた手錠は消えていた。《5秒で配達デリバーフォン》は返品できる仕組みがあるのか、購入した物は一定時間経てば消えるのか、答えを教えてくれる人はもういなかった。

紫藤を乗せた電車が去った後、山手線のホームから見える空一面はオレンジ色だった。土砂降りの雨が嘘だったかのように、高層ビルの窓から道路の水たまりまで、夕焼けの光に包み込まれていた。高層ビルの隙間に太い線が空に伸びているのが見える。目を凝らしてみれば、太い線の中に7本の細い線が並んでいた。

茜空に虹がかかっている。赤いグラデーションの虹。夕焼けに照らされた虹は、5分後には消えてしまいそうな儚さがあった。切ない美しさがそこに宿っている。レキトしか見ていないのは、もったいないと思わせる景色だった。この目で見た感動を、誰かに共有したかった。

だが、雨は上がった。

暗かった空は明るくなった。

紫藤はもうそばにはいなかった。

レキトはスマートフォンを持って、カメラアプリを起動した。目の前の夕焼けにかかった虹にレンズを向けて、親指で撮影ボタンを押す。小気味いいシャッター音が鳴った。画面の左下にあるサムネイル画像が切り替わる。サムネイル画像を触ると、夕焼けと虹の写真が画面いっぱいに映しだされた。

カメラで写した夕焼けと虹は、スマホ画面の中でも美しかった。いま目にしている風景をミニチュアにしたような再現度。太陽に近くになるにつれて、オレンジ色の雲が明るい黄色になっていく様子も、そっくりそのままだった。

しかし、レキトは「目で見ているものと何かが違う」と思った。心を動かされた部分が抜け落ちているような気がした。色も形も奥行きも同じだった。

「本物」なのに「偽物」に見える。

どこがどう違うのか、何度見比べてもわからなかった。

「……思い詰めた顔してる、ってまた言われそうだな」

レキトは親指を動かして、右下のゴミ箱のアイコンを叩く。夕焼けと虹の写真は画面から消えて、代わりに東京駅赤レンガ駅舎の写真が表示された。ホーム画面に戻って、「写真」のアプリを起動する。撮ったばかりの写真を見つめながら、ゴミ箱に入ったデータをすべて削除した。

青虫色の電車がホームの反対側へ減速しながら到着する。ガスが抜けたような音がした直後、電車の扉がホームドアとともに開いた。乗客のNPCたちが、すべての扉からゾロゾロと降りてくる。お互いに一定の距離を保ちながら、それぞれの歩幅で、全員が前へ進んでいく。

停まった電車へ列になっていたNPCたちが順番に乗り込んでいく。発車前のベルが鳴りはじめる。

レキトは片手をポケットに突っ込んで、ライムミント味のフリスクケースを引っ張り出した。新品の袋の封を切って、親指で蓋を開ける。口の中にフリスクを一粒放り込んで、奥歯でガリッと噛み砕く。

そして、雨上がりの景色に背を向けて、紫藤とは反対方向に1歩前へ踏み出した。


【遊津暦斗(初心者)】 対人戦績・0勝0敗1分け(逃亡回数:1回)


〈構成ギア〉   ・《小さな番犬リトル・ケルベロス

・《対プレイヤー用ナイフ》

・《対プレイヤー用レーザー》

〈ギルド・仲間〉 ・ソロプレイ


〈装備アイテム〉 ・ネイビー色のチェスターコート

・ライトグレーのニットセーター

・厚手のヴィンテージジーンズ

・新品の眼鏡

・スマートフォン

・VANSのスニーカー

・星印のエナメルバッグ

〈所持金〉    ・電子マネー84万6870円+現金2万4573円

(洋服代+フリスク代 15万3130円)

〈プレイ時間〉  3時間46

〈コイン獲得数〉 0枚

〈クリア回数〉  0回

〈称号〉     奇跡の初心者