そして、紫藤は力強く踏み込んで、対プレイヤー用ナイフを振り抜いた。体勢を崩されたレキトの目の前で、バイオレット色の光が駆け抜けた。真っ二つに切断された学ランの襟のホック。焼けるような痛みとともに、レキトの首の皮膚が裂ける。

傷口から飛び散った血が雨粒と同時に落ちたとき、濁った色の波紋が音もなく広がった。



雨の勢いはさらに激しくなっていく。濡れた地面に降りそそぐ雨粒が、大小さまざまな波紋を描いていた。雨粒が落ちるたび、首から飛び散った血は水たまりの中で薄まっていく。

紫藤はため息をついて、右足の踵の折れたハイヒールを見下ろした。

「はあ、踏み込みに耐えきれなかったか。可愛いデザインだったし、けっこう気に入ってたのに……」

濡れた地面を後ろ向きに滑りながら、レキトは紫藤から数メートル距離を取った。赤色のスマートフォンのインカメラを起動して、アバターの首の傷の状態を確かめると、爪で引っ掻いたような切り傷がスマホ画面に映った。紫藤のハイヒールの踵が折れたおかげで、対プレイヤー用ナイフの切っ先がかすっただけで済んだらしい。

「……『ゲームで怪我をすれば、痛みを感じる信号が脳から送られる』、か」

レキトは首の傷に触れて、自分の手を見る。親指に「シアン色の血」がついていた。現実世界とゲームの区別をつけるための措置として、アバターの血の色は「シアン色」に変更してあることを思い出す。淡い水色の血はくすんだ赤色の生々しさがなく、絵の具かインクにしか見えない。

しかし、数ミリの首の傷は焼けるように痛かった。HPが1ポイント減ったくらいのダメージなのに、痛みはクリティカルヒットを食らったような体感がある。

日常生活で意識できなかっただけで、人間の体は思ったよりも脆い。頭や首や心臓はもちろんのこと、全身を覆う皮膚ですら攻撃を受ければ、致命傷になりうる。

『Fake Earth』はRPG感覚でプレイしてはいけないゲームだ。

「なに休んでるの? それで距離を取ったつもり?」

紫藤は左足のハイヒールを地面に蹴りつけて、右足のハイヒールと同じように踵を折った。そして、左右の折れた踵をつま先に当てて、二度続けて蹴り飛ばした。尖った踵は手裏剣のように回転しながら、レキトに勢いよく向かってくる。

──近距離攻撃のナイフではない!

──中距離攻撃の飛び道具!

意表を突かれたレキトは反応が遅れて、またも避けるモーションに移れない。咄嗟の判断で、両手でスマートフォンを横向きに持ち、一か八か盾の代わりとして構えた。手裏剣のように飛んできた左側の踵から身を守る。

だが、盾として使うには小さく、防ぎきれなかった右側の踵が耳にヒットする。

「……ッ!」

痛みがブワッと耳に広がった瞬間、紫藤はレキトとの間合いを詰めていた。ハイヒールというかせが外れて、爆発的に速くなったスピード。流れ星が駆け抜けるような速さで、眉間にバイオレット色の光の刃が迫った。慌ててレキトは上半身をひねって、紫藤が突き出したナイフを危うく回避する。

しかし、勢い余ってバランスを崩して、レキトは濡れた道路に背中をぶつけた。派手に水飛沫が上がると同時に、眩しいバイオレット色の光が頭上に見える。レキトは全速力で飛び起きて、紫藤が振り下ろしたナイフをかわした。

戦いが始まって気づいたが、このアバターを思い通りに操作できていない。現実世界の体より筋肉がついているせいか、いつもより数センチほど動きすぎている。「身体感覚」と「身体能力」が一致していない。格闘ゲームにたとえるなら、使い慣れていないキャラクターで戦っている気分だ。

そして、紫藤はプレイヤーとして純粋に強い。現実世界で「武術の達人」あるいは「プロのスポーツ選手」だったのか、一つ一つの動作が素早く洗練されている。特に膝を抜くようなフットワークで、間合いを詰めるのが異常なまでに速い。

紫藤は舞い踊るようにして、対プレイヤー用ナイフを振り回した。連続で、連続で、連続で斬りかかってくる。

雨音がザーッと鳴っていた。プレイ中にバグが起きたゲーム機から聞こえてくる、ホワイトノイズを彷彿ほうふつとさせる音。水中から浮かび上がったように、赤レンガ駅舎前の広場は水浸しになっている。

雨粒の描く波紋はシアン色に染まっていた。淡い水色の波紋は少しずつ色濃くなっている。

レキトは息を切らせながら、皮膚がえぐれた肩を手で押さえた。血のざらついた感触が手のひらに伝わる。学ランは切り傷だらけになっている。

額から流れる滴は、冷や汗なのか、雨粒なのか、それとも血なのか、頭がぼんやりして考える力はなかった。

「ねえ、レキトくん。そろそろ勝負は終わりにして、私にスマートフォンごとコインを渡してくれない? どうせゲームオーバーになるなら、痛い思いはしないほうがいいでしょう?」

紫藤はレキトに手を差しだして、にっこりと笑みを浮かべる。反対の手は、対プレイヤー用ナイフをつかんだままだった。

雨の中の赤レンガ駅舎前の広場を行き来する人たちは、レキトたちが見えていないかのように素通りしていく。№116《我らは世界の端役なりフーズロール》、NPCにプレイヤーが30分間注目されなくなるギア。きっと紫藤がチュートリアルの始めに使ったのは、レキトと戦っても騒ぎにならないように、布石を打っていたのだろう。

「……何を……勘違いしてるんですか? ……どこまで攻撃を食らってもいいのか……アバターの体力を調べてただけですよ。……ここまで……計算通りに進んでるのに……コインを渡すわけが……ないでしょう」

「……そっか。まあ、そうだよね。みんな事情があって、ここに来てるもんね。死ぬまで諦めるわけないか」

紫藤は笑みを消して、対プレイヤー用ナイフを構えた。親指でホームボタンを長押しして、バイオレット色の光の刃を長剣くらいのリーチまで伸ばす。

雨粒が地面に降りそそいでいた。辺り一面で波紋が広がっては消えていく。濡れた地面の模様は絶えず変化している。

そして、紫藤の足元の波紋がわずかに大きく広がった。

目の前の路面の雨粒で描かれた波紋が切り裂かれる。急加速した紫藤は水飛沫を上げて、レキトとの距離を一気に詰めてきた。瞬間移動したのかと錯覚するほどのスピード。湿った空気の中から、柑橘系の香水の匂いが漂い、バイオレット色の光の刃が襲いかかってくる。

レキトは上半身を反らして、紫藤のナイフをすれすれで避けた。桜の花がられたボタンが、学ランの留め具からちぎれた。雨に逆らうようにして、宙にボタンが舞い上がる。レキトの目線の高さを超えたとき、落ちてきた雨粒がボタンにピシャリと当たる。

QTEのボタン入力画面が、脳内にカットインした。

レキトは両手でデコピンの構えを取り、親指から中指を離した勢いでボタンを弾き飛ばす。

「うん、わかるよ。目の前にアイテムがあったら、思わず使いたくなっちゃうよね」

だが、紫藤はレキトが弾き飛ばしたボタンをナイフで切り裂いた。続けざまにバイオレット色の光の刃を振って、急いで顔を逸らしたレキトの頬に一文字の傷をつける。斬られた痛みを感じる間もなく、紫藤は華麗なターンで向きを変えて、レキトが避けた方向にナイフをもう一度振り切った。飛び散るシアン色の血、皮膚がえぐれた肩の傷がさらに深くなる。

激痛が体中を駆け巡る中、レキトは後ろに飛び退いて、紫藤のナイフの追撃をかわした。必死に体勢を低くしたり、斜めに跳んだりして、紫藤の連続斬りを避けつづける。

雨に濡れた学ランが重たくなってきた。落ちてくる雨粒が傷口に染みる。状態異常の毒のダメージを受けているように、体力が徐々に低下していくのを感じる。

意識がだんだんと朦朧もうろうとしていき、激しい雨の音は次第に聞こえなくなってきた。

「……ああ……くそ。……こんなふうに……凛子は一人で戦ってたのか」

レキトは自分の胸ぐらを握りしめる。傷だらけになっても戦おうとする凛子の後ろ姿が、脳裏に思い浮かんだ。誰に対してかわからない怒りが込み上げてくる。痛みなんてどうでもよくなり、全身に力がみなぎってくる。

紫藤は『Fake Earth』の世界で生き残ってきたプレイヤーだ。素早いフットワークで間合いを詰めるのが上手く、ナイフを使った接近戦に長けている。

チュートリアルのふりをしなくても、真っ向勝負でコインを奪うことのできる実力者。

プレイ開始直後の初心者が戦って、勝てるレベルの相手ではない。

「──学習しろ」

けれども、戦いを諦めてゲームオーバーになるわけにはいかない。この世界から凛子を救うまで負けるわけにいかない。一緒にゲームセンターで遊んだ日常を取り戻すために。たとえ相手が経験を積んだプレイヤーだろうと、驚異的なスピードを持っていようと、大事なコインを奪われるわけにはいかない。

「──学習しろ、学習しろ」

プレイヤー『紫藤ライ』を攻略する。

この瞬間、無限に分岐する未来の中から、「勝利」のルートを見つけだす。

「──学習しろ、学習しろ、学習しろ!」

だから、頭脳をフル稼働させて、目の前の状況を整理しろ。対戦相手の思考を分析して、未来の行動を予測しろ。全力を出し切って、限界を超えて、最善を尽くせ。

絶対に攻略できないゲームがないように、絶対に勝てないプレイヤーもいない。

視野を広げて、見方を変えて、攻略法を見つけるんだ!

──ねえ、ゲームの対戦で一番楽しいことって何か知ってる?

──それはね、『対戦相手の想像を超えること』だよ。

凛子の言葉が脳裏に蘇った。今は隣にいなくても、遠くに離れていても、彼女とゲームを通して得たものは心に刻まれている。

頭の中で分岐していた未来は消え去って、新しく解放されたルートが光り輝いた。

「プレイヤー『紫藤ライ』、学習完了」

レキトは目を見開き、スクエア型眼鏡を投げ捨てた。

そして、アバターの重心を前に移して、紫藤のナイフの間合いへ飛び込んだ。

視線と視線がぶつかり合う。紫藤は半身に構えて、対プレイヤー用ナイフの切っ先をレキトに向けた。レキトは片手をポケットに突っ込み、「ギンガムチェックのハンカチ」を取りだす。

「私のあげたプレゼント? 使ってくれるのは嬉しいけど、そんな物で動揺すると思ってるの?」

紫藤はレキトが間合いに入った瞬間、光り輝くナイフで連続突きを放った。激しい雨が降りそそぐ戦いの最中、凄まじい速度の連続突きが炸裂さくれつする音とともに、彼女の目の前の雨粒が粉々に砕け散った。わずか1秒の間、半径1メートル以内の距離。横殴りの雨のように、絶え間なく光の刃が襲いかかってくる。

だが、レキトは瞬く間に繰り出されたナイフの軌道をすべて見切った。バイオレット色の光の刃が当たる直前、数センチだけ動いて、紙一重の差で避けきった。粉々に砕け散った雨粒たちの中に、色んな角度からレキトと紫藤が映っているのが見える。

後頭部がズキズキと痛み出して、両目が充血していくのを感じる。

「えっ? なんで!? 全然当たらない!?

「眼鏡を外したんですよ。目に映るすべてを鮮明に見すぎる脳疾患、『視覚野過敏症候群』を抑えるためのリミッターを。あなたはもう二度と俺に攻撃を当てることはできません」

レキトは無理やり笑みを浮かべて、「ギンガムチェックのハンカチ」を握りしめる。しぼった繊維せんいから雨水を出し切って、固く丸めたハンカチを紫藤の顔にめがけて思いきり投げた。至近距離からの投擲。今の自分の選択肢にある「最速の攻撃」を放つ。

しかし、紫藤は対プレイヤー用ナイフを振り抜いた。それが最速かと嘲笑うかのように、バイオレット色の光が一瞬で弧を描く。投げたボール状のハンカチは縦に切り裂かれた。

「それで勝った気? その目の力、最初から使わなかったってことは、長く持たないんでしょ? じゃあ君が目を閉じるまで、じっくり楽しませてもらうよ、レキトくん」

「いいえ、勝負は終わりですよ。あなたはハンカチを斬ってしまいましたからね。この攻撃は『フェイク』です。俺、得意なんですよ。『嘘』をつくのは」

斬られたハンカチが丸めた状態から広がった瞬間──。

包んでいた「ライムミント味のフリスクケース」から、大量の粒が爆発するように飛び散った。解き放たれたフリスクの数粒が、紫藤の目へ飛び込んでいく。紫藤は目を反射的に閉じて、その上にナイフを持ってない腕を覆いかぶせる。

1秒にも満たない時の狭間。わずかな瞬間、紫藤のナイフを振る手が止まった。彼女のスマートフォンは、華奢な手の中から半分以上はみ出ている。

──このゲームのスマートフォンは、プレイヤーと一心同体。

──スマートフォンの電源を切られれば、プレイヤーの心臓は止まるシステム。

レキトは前に飛び出して、紫藤のスマートフォンに手を伸ばす。切り傷だらけのアバターを無理やり動かしたせいか、伸ばした腕と肩の傷口からシアン色の血があふれた。後頭部の痛みはガンガンと響いている。落ちていく雨粒に映るレキトの目は、痛々しいほどに充血している。

指先から力が抜けそうになった瞬間、凛子とゲームセンターで出会ったときの記憶が溢れかえった。明るくていたずらっぽい笑顔、120%の力を出し切った対戦、引っ張られた腕に伝わる体温。一緒にゲームセンターで遊んだ日々の思い出が頭の中を駆け巡る。凛子がいなくなってから、何のゲームをやっても楽しくなかった日常を思い出す。

レキトは歯を食いしばって、必死に激痛を堪えた。指先が1ミリでも早く近づくように、伸ばした手を限界まで開く。

そして、中指の爪先が手帳型のスマホケースに引っかかった。


──ビウィ! ビウィ! ビゥィン!!

──ビウィ! ビウィ! ビゥィン!!


激しく降りつづける雨の中、突然、大音量の警報音が鳴った。発信源のレキトと紫藤のスマートフォンは共鳴するように振動した。「地震」や「台風」の注意喚起をするときとは異なる、現実世界では聞いたことのない音。咄嗟に握った手から飛び出しそうなくらい、赤色のスマートフォンは強く震えている。

嫌な予感がしたレキトは後ろへ飛び退いた。濡れた地面に着地したとき、後頭部にアイスピックをハンマーで打ちつけたような痛みが走った。目の力のタイムリミットを超えてしまったらしい。左目を手で覆い隠し、瞬きする右目で紫藤の顔を睨みつける。

紫藤はスマホ画面を見ると、しかめ面で《対プレイヤー用ナイフ》を解除した。光り輝いていたナイフがイヤホンジャックから消えた。宙にバイオレット色の光の残滓が漂う。紫藤は近くのタクシー乗り場に走って、後部座席の窓をノックして運転手にドアを開けさせた。

「一時休戦よ、レキトくん! 私とタクシーに乗って! 早く!!

「ちょっと待ってください! そんな急に言われても、どういうことか説明してもらわないと!」

「いいから早く! 説明は後! 今は急いで!! これが何なのかわかるでしょ!」

紫藤は叫んで、必死の形相でレキトを手招きする。切れ長の目がコンマ1秒を争う状況であることを訴えかけていた。レキトは眼鏡とエナメルバッグを拾って、紫藤のいるタクシーへ全速力で走って乗り込む。傷だらけのアバターなので乗車拒否される心配をしたが、NPCに30分間モブキャラだと思われるギアの効果のおかげか、運転手には「客が二人乗った」以上の興味を持たれないらしい。「とりあえず出して!」と紫藤が叫ぶと、NPCの運転手はうなずいて、タクシーを発車させた。

東京駅赤レンガ駅舎前の広場から離れる中、レキトは警報音が鳴りつづけるスマートフォンの画面を見る。赤色のスマートフォンのロック画面には、東京駅付近の地図が表示されて画面上部には「東京エリア:プレイヤー数2008人」とバナーが表示されていた。複数のコインのマークが東京駅付近の地図に点在していて、スマホ画面上で少しずつ動いている。それぞれのコインには知らない人の名前が記されていた。

──これがおそらくプレイ前の質疑応答で説明された「バトルアラート」。

──運営がプレイヤーのスマートフォンに警報音を鳴らす5分間、近くにいるプレイヤーの現在位置がロック画面に表示されるようになるシステム。

たったいまレキトと紫藤がいる地点にも、「遊津暦斗」と「紫藤ライ」の名前が記されていたコインが2枚表示されていた。


謎のノイズがどこからか聞こえてくる。

運転中の暖房機器のファンの音によく似た音だった。

後ろから吹いた風がタクシーを追い越した瞬間、空調のついていない車内がもわっと暑くなった。

雨で空気は湿っているはずなのに、アバターの頬が乾燥するのを感じる。

違和感──大音量のスマホの警報音が鳴っている中、「別の音が聞こえる」異常性に気づく。

レキトは後ろを振り返った。目に入ってきたものに思わず息を呑む。


真っ赤な炎が数百メートル離れた高層ビルに広がっていた。壊れた壁らしき破片が宙を回転しており、割れた窓ガラスとともに地上に向かって落ちている。目の前の光景に圧倒されていると、炎上中のフロアより下のフロアが激しく輝いた。地鳴りのような爆破音と同時に炎がふくれ上がる。

新たに爆破されたフロアは、テトリスで横一直線に揃ったときのように、端から端まで消し飛んだ。凄まじい勢いの風が駆け抜けて、一方通行の標識は反対方向を指すように裏返った。走っているタクシーの窓もガタガタと揺れる。爆風で雨雲が吹き飛ばされたのか、ゲーム開始時から降っていた雨が弱まり始める。

雨音が静かになってきた分、車内に響くスマートフォンの警報音が耳についた。