2話 誰もが主人公として

無数の雨粒が垂直に落下していた。地面に勢いよく叩きつけられる雨の音は、ありとあらゆる音をかき消していた。出張帰りらしきサラリーマンがスーツケースを引く音も、濡れた道路を走るタクシーの音も、青信号の誘導音も、何もかも。

紫藤はきょとんとした顔をした後、口元に手を当てて笑いはじめた。

「ふふっ、急に変なこと言わないでよ。私がプレイヤーだなんて。色々と親切に教えてあげたのに、そんなわけないでしょ?」

「じゃあ、俺の名前を言ってもらっていいですか? チュートリアルの最中、あなたが一度も呼んでない名前を。本当に運営なら、担当するプレイヤーの名前は当然知ってますよね?」

「……もちろん。知ってるに決まってるじゃない。君の名前は『神崎ヨシフミ』でしょ?」

「全然違います。あそれきです。……勘で当たる確率は低いのに、よく当てる気になりましたね」

水色の傘の下、レキトたちの頭上で、雨粒の弾かれる音が響きわたっていた。濡れた路面が冷たくなったせいか、気温が少しずつ低くなっているのを感じる。

紫藤はため息をつき、スーツの襟に付けていた「赤い地球」のロゴバッジを外した。

「あ~あ、チュートリアルの演技、けっこう練習したんだけどな~。せっかくそれっぽいギアも持ってたのに。やっぱり君は察しがいいね、レキトくん」

赤い地球のロゴバッジを放り捨てたとき、紫藤の顔から笑みが消えた。切れ長の目はわっていた。喉元に刃物を突き付けられるような殺気。華奢な手は手帳型のスマートフォンを握っている。

「……すみません、紫藤さん。1つだけ質問してもいいですか?」

「えっ、自分でチュートリアルを終わらせといて、まだ質問するの? これから戦う相手に何を訊くつもり?」

「あなたがチュートリアルしてくれた理由です。正直言って、俺のコインを奪いたいなら、演技で騙すより、《対プレイヤー用ナイフ》で刺し殺したほうが早かったですよね?」

レキトは紫藤と出会ったときのことを思い出す。NPCかプレイヤーかを見分けられない通行人たちに戸惑い、雨の中で傘も差さずに動けなかったゲームスタート直後。後ろからナイフで襲いかかれば、レキトの不意を突くことはできたはずだった。

なぜ親切なチュートリアルを装って、標的であるレキトにギアの使い方などを教えてくれたのか? 紫藤の正体はすぐ見抜くことができても、彼女がチュートリアルを演じていた理由はわからなかった。

「なんだ、そういうことか。大した理由じゃないよ。戦わずにコインを奪えたらいいなって思っただけ。別に無理ってわけじゃないんだけど、普通に血とかあんまり見たくないでしょ?」

紫藤は軽い口調で答えて、スマートフォンの角でこめかみをトントンと叩いた。レキトの質問に答えるときの態度は、チュートリアルの演技をしていた頃と変わらなかった。

絶えず降り続ける雨音のBGMを聞きながら、レキトはズボンのポケットの中で「ギンガムチェックのハンカチ」の冷たさを感じる。チュートリアルが始まるとき、紫藤らもらったプレゼント。これで髪や首についた水滴を拭ったおかげか、雨に濡れていたときの寒気を感じなかった。

──じゃあ、最後に、ゲーム開始から使えるギアの1つ、《対プレイヤー用ナイフ》を使ってみよっか。

──実はこのギアは初心者がより簡単に使えるように、『ホームボタンの長押し』で起動できるんだよ。

紫藤のチュートリアルは偽物フェイクだ。その正体はプレイヤーで、レキトのコインを奪うことを目的としている。レキトにとって、「敵」であることは間違いない。

しかし、プレイ前に詳細は明かされなかった『ギア』について、紫藤は簡潔にわかりやすく説明してくれた。身振り手振りを交えたり、実際にスマートフォンの画面を見せたりして、初心者でも理解できるように説明の仕方を工夫していた。

そして、紫藤はギアを説明するとき、嘘をついたようには見えなかった。おそらく彼女はレキトにチュートリアルだと信じ込ませるために、実際のギアの設定を偽りなく教えてくれたのだろう。

もし偽物のチュートリアルであったとしても、プレイヤーに説明したことが正しいのなら、その人は本物のチュートリアルと変わらないのではないだろうか?

何をもって「フェイク」と判断し、何をもって「本物」と判断するのか。

頭の中で浮かんだ疑問に、レキトは答えを出すことができなかった。

「ねえレキトくん、私のこと勘違いしてたでしょ? 私がチュートリアルをしたのは、『ゲームを始めたばかりの君を狙うことに罪悪感があったから』とかさ。だから、私の正体を見破ってても、君は演技中の私を攻撃できなかった。人生を賭けたゲームなのに、戦う相手に甘さを捨てることができなかった」

紫藤はくすっと笑う。傘を持つ彼女の手は笑ったときの振動で震えて、水色の傘に貼りついていた雨粒がパラパラと落ちた。雨水が数ミリほど溜まった地面に、一斉に落ちた雨粒の描いた波紋が重なり合う。重なり合った波紋は一瞬で消える。

「……何を勘違いしてるんですか? 俺が先に仕掛けなかったのは、あなたと対等な条件で戦うためです。良心が痛んだとか、そんな理由じゃありませんよ」

「はあ、素晴らしいフェアプレイ精神ね。君がチュートリアル中に不意打ちしてれば、私を倒せたかもしれないのに」

「ええ、楽に倒せたでしょう。けど、あなたにそれで勝ったところで、プレイヤーとしては何も成長しません。明日生き残るためにも、このゲームを終わらせるためにも、俺は強くならなければいけないんです」

『Fake Earth』に参加している20万人以上のプレイヤーたち。彼らの中には大所帯のギルドの頂点に立つ者もいれば、一人で何年もプレイしつづけている猛者もいるだろう。

そして、この世界の管理者である「ゲームマスター」。全プレイヤーが倒せていないラスボスは、並大抵の強さでは絶対に勝てないはずだ。

「だから、俺は演技中のあなたを攻撃しませんでした。今ここで『戦いの経験値』を稼ぐために。万全の状態のあなたを倒してこそ勝つ意味があるんですよ、紫藤さん」

レキトは学ランの胸ポケットからスマートフォンを取りだす。真っ赤なケースの付いたスマートフォンは、アバターの手によく馴染んだ。

雨の勢いが増していく。地面を叩く雨粒の音がうるさくなる。

紫藤は片方の眉を上げて、挑戦的な眼差しを向けていた。

「ふーん、私に勝つ気でいるんだ。この世界に来たばかりの初心者のくせに、ちょっと生意気じゃない」

「格上の相手であることは十分にわかってますよ。ただ、勝てる可能性はそんなに低くないとも思っています」

「へぇ、どうして?」

「本当に実力のあるプレイヤーなら、初心者狩りなんてしないからですよ。初心者は倒したところでコイン1枚。強いプレイヤーを倒せば、その人が集めてたコインをまとめてもらえるんですから、どちらが得かは明白です。──あなたが初心者のコインを狙うのは、初心者以外のプレイヤーに勝てないからでしょう?」

レキトは微笑み、星印のついたエナメルバッグを肩から下ろす。紫藤も口元に笑みを浮かべて、ハイヒールのかかとをコツンと鳴らした。

東京駅の前、水色の傘の下。

レキトと紫藤はお互いの目を見つめる。

半径1メートルにも満たない空間。どちらの攻撃も確実に当たる間合い。

激しく火花が散っているように、雨粒が傘を叩く音がバチバチと響いている。

紫藤が傘を真上へ軽やかに投げた瞬間、素早く浮かせた右足をレキトの足に向かって踏み下ろした。尖った踵がVANSのスニーカーへ一気に迫る。レキトは全速力で後ろに跳んで、紫藤のハイヒールを間一髪で避けた。尖った踵は水たまりに衝突して、勢いよく水しぶきが飛び散る。

視線と視線がぶつかり合った。

紫藤は片手を上げて、宙に投げた傘をキャッチした。雨を浴びているレキトは、肩にかけていたエナメルバッグを下ろす。

──目の前の女性型アバターは「紫藤ライ」。

──この世界で最初にエンカウントしたプレイヤーだ。

負ければ人生が終わる戦いに、レキトは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。緊張なのか、それとも高揚感なのかはわからない。

戦闘BGMともいえる雨音が激しくなっていく中、「RPGのコマンド画面」が頭の中で表示される。


▼たたかう

▼にげる

▼ぼうぎょ

▼どうぐ


レキトは「たたかう」を選び、紫藤に向かってエナメルバッグを振り上げる。紫藤が距離を取ろうとした瞬間、エナメルバッグを水たまりに衝突させて、底から雨水をすくいあげた。

物理攻撃と見せかけた、地形利用ギミック攻撃。

後ろに下がった紫藤めがけて、掬い上げた雨水を飛ばす。

──初心者と経験者の一番の差は、「ギア」を使いこなせるかどうか。

──「ギア」さえ起動させなければ、戦いの経験の差は大きく埋められる。

前のめりの体勢になって、レキトは紫藤のスマートフォンを奪いに走った。アバターが加速するにつれて、地面を蹴る力が大きくなる。一歩一歩先に進むたび、濡れた地面の水しぶきはより高く跳ね上がっていく。

だが、紫藤は水色の傘を前に向けて、レキトが掬い上げて飛ばした雨水から身を守った。そして、華奢な手で押し出すようにして、開いたままの傘をレキトのほうへ投げた。

真正面から飛んできた傘が、レキトの視界をさえぎる。対戦相手の姿が見えない。レキトは左足を蹴り上げて、水色の傘を視界の外へ弾き飛ばす。

傘を蹴飛ばしてから、視界が開けるまで──タイムラグはほんの1秒。

紫藤はスマートフォンを構えて、親指でホームボタンを長押ししていた。

「やるじゃん、レキトくん。初心者なのに、ちゃんと動けててビックリしたよ。まあ、でも驚くことでもないか。このゲームに入ってくるのは、運営に才能や実績を認められたプレイヤーだけだもんね」

紫藤の目が優しくなったとき、手帳型ケース付きのスマートフォンの端末上部が光った。淡く光り始めた端末上部の真ん中には、イヤホンジャックのような穴が開いていた。戦闘BGMの雨音に混じって、放電するような音が微かに聞こえてくる。端末上部のイヤホンジャックの光は明るくなっていく。

「でもね、わかってる? 『Fake Earth』に参加してるプレイヤーはみんな選ばれてるってことは、君と同じように、私にもアーカイブ社に認められたものがあるってこと。このゲームの主人公は、君だけじゃないんだよ」

輝いていたイヤホンジャックから、バイオレット色の光線が飛びだす。放たれた光線は波状に揺れて、美しいせんの形を描いていった。螺旋状の光線は収束していき、光の刃を形づくる。

切れ長の目を細めた紫藤は、バイオレット色の光の刃を振った。

透き通っていた雨粒は地面に衝突する前、バイオレット色の光に染められる。雨雲の影が落ちた暗い広場で、紫藤に降りそそぐ雨粒はキラキラと光った。暗めのブルージュの髪はしっとりと濡れている。濡れた髪を光り輝く雨粒がつややかに照らす。

光の雨の中心にいる紫藤は、舞台でスポットライトを浴びた女優のように美しかった。

──スマートフォンの電力を刃に変えるギア、《対プレイヤー用ナイフ》!

──近づいて戦うのは確実にヤバい!

レキトは紫藤にエナメルバッグを放り投げた。《対プレイヤー用ナイフ》を使うことはできるが、紫藤と同じ武器で戦うには熟練度に差がある。リーチの長さで有利を取るために、制服のズボンに通していた「ベルト」を引っ張りだした。片手でバッグを払った紫藤の顔を狙って、ベルトの留め金が当たるように振り抜く。

「──遅いよ」

だか、紫藤は体勢を低くして、レキトがむちのように振ったベルトの下へ潜り込んだ。ハイヒールを履いているとは思えないットワーク。すかさず紫藤はベルトを引っ張り、レキトを前へグイッと引き寄せた。切れ長の目は、レキトの目を凝視しつづけている。濡れた地面に映るバイオレット色の光が急接近する。