プロローグ エンカウント

雨の音がした。

落ちたときに砕け散る雨粒の音がした。

一粒一粒の雨粒が最後に鳴らす音は、あまりにも小さい。

けれども、その微かな音が連なり重なり合って、美しい音色として奏でられている。

アバターの目を開けると、無数の雨粒たちが降っていた。落ちていく一粒一粒の雨粒は、銀色の線を描いている。暗灰色の雲に覆われた空から、地上へ流星群のように降りそそいでいる。

仰向けに寝転がっている俺は、細かく降りそそぐ雨を浴びていた。

「……これがゲーム、か」

後頭部がズキズキと痛む。仮想空間へフルダイブしたことで、脳に強い負荷がかかったのだろうか? 通信制限がかかったネット回線のように、頭が重たくうまく働かない。両手を握っては開き、アバターが思いどおりに動くかどうかを確かめる。左側の視界がぼやけるバグを直すために、自分の顔に装備している眼鏡のレンズについた雨粒を拭う。

操作するアバターを観察すると、アクセサリー枠の「眼鏡」に加えて、「紺色の学ラン」と「VANSのスニーカー」を装備していた。運営が操作するアバターをランダムで決めるので、現実世界の自分と異なる性別の女性アバターになる可能性も想定していたが、声の低さや服装から考えるかぎり、俺に割り当てられたアバターは男性らしい。濡れたスニーカーの先には、運営からの配布アイテムが入っていそうなエナメルバックが転がっているのが見える。

仰向けの体勢になっている俺は起き上がろうとした。けれども、現実世界の自分の体よりも重たく、いつもの力加減では起き上がれない。背中を弓なりにして、勢いよく起こそうとすると、今度は上半身が予想以上のスピードで動く。

恐る恐る全身を触ってみると、少し厚みのある胸には筋肉の硬さがあり、腹は力を入れなくても割れている感触があった。


──ピピピ!


目覚めて起き上がったタイミングを見計らったかのように、学ランの上着のポケットが振動する。左手をポケットに突っ込むと、真っ赤なカバーの付いたスマートフォンが中に入っていた。

運営がプレイヤー全員に支給する、ゲーム専用のスマートフォン。

俺が親指でホームボタンを押すと、休止状態で暗くなっていた画面が光った。


あそれき プレイヤーID:9891/1122/2000】


記載されていたのは、この世界での「プレイヤー名」と「プレイヤーID」。当たり前だが、現実世界だった頃の「藤堂とうどう頼助らいすけ」ではなく、まったくの別人になっている。

ここに辿り着くまで、本当に長い道のりだった。でも、今の自分はようやくスタートラインに立ったにすぎない。そして、絶対に負けたくないあいつは、3ヶ月も前にスタートして先に進んでいる。

今、あいつがどんな状況なのかはわからない。もうすでにゲームオーバーになっているのかもしれないし、もしかしたらこの世界のどこかで生き残っているのかもしれない。

ただ、どちらにせよ俺がプレイヤーとしてやるべきことは変わらない。現実世界へ帰ってこなくなったあいつを連れ戻すために、このゲームをクリアして終わらせる。俺があいつの代わりに、前人未到のエンディングへ辿り着いてみせる。

まるで現実世界から引き継がれた記憶がセーブデータとしてロードされるように、凛子りんこと出会う前から今までの記憶が蘇った。



朝、頼助が目覚めてテレビを点けると、離れてアメリカで暮らす父のニュースが報道されていた。

藤堂とうどう千秋ちあき、パートナーAIの実用化へ』

落ち着いた声でニュースを読み上げる男性アナウンサーによれば、父はAIのデータ収集・分析と自然言語処理の技術を発展させて、「世話係」兼「友達」となるAIを開発したとのことだった。このパートナーAIをスマートフォンで利用すると、家族にLINEで頼まれた買い物をキャッシュレスで決済した瞬間に買い忘れがあることを教えてくれるし、他人に相談しにくい悩みを抱えているときにはユーザーの価値観を尊重したアドバイスをしてくれるらしい。2ヶ月ぶりに顔を見る父は変わらず元気そうだった。

頼助はリビングで紅茶を淹れて、焼きたてのバインミーを食べる。一人暮らしを始めた中学生の頃から3年間、玄関前の宅配ボックスに毎朝ケータリングで配達してもらっているものだった。挟まれた具の豚バラ炒めの甘辛さと、爽やかでさっぱりとした紅白なますの酸味に加えて、香ばしいバゲットの切り目に塗られたクリームチーズの濃厚さが、お互いの味を引き立てていて美味しい。噛めば噛むほど口の中で広がる旨味を味わいながら、渋みとコクのある紅茶を合間に飲みつつ、天気予報に話題が移ったニュース番組を眺めた。

朝食を済ませた後、頼助は身支度を済ませて家を出て、自転車に乗って学校へ向かった。軽やかにジョギングしている人を追い越し、涼やかな春風に追い越されて、宙へ転がるように吹き飛ばされたタンポポの綿毛と並んで走った。勾配のきつい上り坂が見えたとき、速くペダルを漕いで勢いをつけて、サドルから腰を浮かせて坂の上まで上り切る。両手でブレーキを軽く握って、緩やかで長い下り坂をゆっくり下っている途中、道端に空のペットボトルが転がっているのが見える。

頼助は自転車を止めて、落ちていたペットボトルを屈んで拾って、近くのリサイクルボックスに捨てた。

──きっと今この瞬間、俺は人生の分岐点に立っているのだろう。

高校1年生の4月の授業開始日、正門から校舎までパレードの花道のように並んでいる上級生たちがクラブ活動に勧誘している光景を目の当たりにしたとき、頼助は目の前に多くの道が分かれているイメージが頭に浮かんだ。試合のユニフォーム姿でナンパのように声かけしている部活もあれば、SNSのネタをパロディした風の宣伝ビラを配る同好会もあり、無人で部室までの地図を貼り付けた立て看板を置いているだけの団体もある。各クラブ活動の新入生を勧誘するときのアプローチの違いが、頼助がそれぞれを選んだ先で待ち受ける未来の違いのように思えた。

高校生になってワクワクする気持ちを差し引いても、興味が惹かれる部活や同好会はたくさんある。週3回の活動なのに強豪校で有名な「ラグビー部」はどんな練習なのかを体験してみたかったし、「クイズ研究部」は勉強することが多くてやりがいがありそうだし、「秘境探検団」は海外へ本格的に遠征していそうな雰囲気があって気になった。

だが、頼助は降りた自転車を押して、ビラを配る先輩たちの前を素通りした。もうすでに青春を捧げると心に決めたことがあるからだ。

電脳空間で己の分身となるキャラクターを操って戦う競技、eスポーツ。

小学生の頃、父の研究の手伝いでAIと格闘ゲーム『烈闘れっとうファイターⅦ』で対戦したことをきっかけに、頼助は格闘ゲームの世界にのめり込むようになった。『烈闘ファイターⅦ』で、誰よりも強いプレイヤーになりたい。世界最大級の格闘ゲームの大会『EX JAPAN』で優勝して、世界一の座を手にすることが頼助の人生の目標だった。

──人間に与えられた時間は平等である以上、誰よりも強いプレイヤーになるためには、毎日の取り組みの質で差をつける必要がある。……と、頂点を目指すライバルたちは基本的にそう考えるだろう。

頼助はメタ視点で考えて、まず練習の効率にとらわれないことを意識した。対戦相手の立ち回りをより深く理解するために、メインに使っているキャラだけではなく、全キャラをランクマッチで最高クラスに到達できるまでやり込んだ。一試合ごとにリプレイ機能で見返して、対戦中に自分と相手が入力したコマンドを棋譜のように記録して、場面ごとの技の成功率や残り体力量ごとのプレイスタイルの変化などを分析した。今の自分より強くなるために、「何」を得ればいいのか、あるいは「何」を捨てればいいのかを四六時中考えつづける。たとえ遠回りになっても、途中で引き返すことになっても、格闘ゲーマーとしてより強くなれる可能性があることはすべて取り組んだ。

格闘ゲームの対戦で勝つために必要なことは、長期的な視点を持って戦うこと。一瞬一瞬で的確に判断することも大事だが、目先のアドバンテージを得ることに捉われすぎていては大局を見失ってしまう。序盤の攻防を30秒後の終盤でどう活かすのか? 対戦相手に判断を一瞬迷わせるためには、どのように立ち回ればいいのか? 1つ1つのプレイを布石にすることを心がければ、戦術の幅がぐっと広がり、結果として一瞬一瞬の判断をより正確かつスピーディーにできるようになる。

必死に考えながら毎日プレイし続けた結果、頼助は本物のトッププロたち相手にオンライン対戦で勝率5割を維持できるようになった。格闘ゲームの世界大会『EX JAPAN』でも好成績を叩き出すことができ、全世界から毎年2万人以上の人たちが参加する中で、初出場から3年連続で決勝トーナメントに勝ち上がることができた。終盤の読み合いの強さで逆転勝利を収める対戦が多いことから、いつしか頼助は格闘ゲーマーたちから「英雄ヒーロー」の異名で呼ばれるようになり、昨年度の大会ではベスト4と優勝に手が届きそうなところまで来ている。

そして、4度目の『EX JAPAN』が開催される当日、頼助はいつもより早く目覚めて、会場の東京ビッグサイトに予定より1時間早く着いた。緊張で喉がやけに渇くが、不思議と充実した気分だった。迷子になって泣きそうになった男の子の親を探して、落とし物のスマートフォンを持ち主に届けて、今日の対戦で使用するキャラのテーマソングをイヤホンで聴いて瞑想に入る。

もし今回の大会で優勝できたら、父は頼助になんて言うだろうか? とくに何も言わなそうな気もしたし、一言くらいお祝いの言葉を述べてくれそうな気もした。

12歳の夏休みに父の研究の手伝いで、AIと人生初めての格闘ゲームで繰り返し対戦したとき、「頼助もゲームの飲み込みが早いのか。面白いデータが取れそうだ」と父が感心したようにつぶやいたことを思い出す。

だが、頼助が本気で優勝するつもりで臨んだ大会は、初日のプレイ時間3分も経たずして終った

予選トーナメント1回戦、頼助は3本勝負をストレート負けで敗退した。会場内にいる人たちのざわめきが聞こえる。

頭の中が真っ白になった頼助は現実に起きた出来事だと信じられず、目の前の対戦相手を見つめる。

深くかぶったフードから革靴まで、全身黒ずくめの不審者のような格好をしたプレイヤー。漆黒のサイバーパンクマスクで顔を隠して、性別も年齢も一切わからない。

これが今大会で初出場ながら優勝を飾ったプレイヤー『NIRニア』のデビュー戦。後に「人類史上最強のプロゲーマー」と呼ばれる伝説の幕開け。

一方、頼助にとって、一生忘れられない大敗。夢で繰り返し見るほどトラウマになった惨敗。

そして、死ぬことすら許されないデスゲームへ挑戦する未来へ分岐した敗北だった。


『Ready? ──Fight!!!』

試合開始を告げるゲームボイスが、平日の朝で客の少ないゲームセンターに響き渡る。真っ黒なジャケット姿の頼助は瞬きするのを止めて、自前のアーケードコントローラーで攻撃コマンドを入力した。光り輝くゲーム画面内の世界、赤い鉢巻をした空手家は勢いをつけて高くジャンプして、対戦相手を飛び越えると見せかけ、後ろへガードの方向を誘い出したところを正面から脳天へ蹴りを食らわせる。

全国オンライン対戦10戦目、『烈闘ファイターⅦ』アーケード版のランクマッチで稀に現れると噂の『NIR』とは今日も当たらない。次のプレイヤーと早く対戦するために、仰向けにダウンした対戦相手が起き上がるタイミングに合わせて、攻撃を一方的に当てつづける。

4度目の大会の予選トーナメント1回戦で敗退してから6ヶ月──。頼助は胸にリベンジを誓って、毎日欠かすことなく格闘ゲームの特訓に取り組んでいた。現実はゲームと違って強くなることに限界はないし、むしろ強くなればなるほど新たにやるべきことが見えてくる。大会で負けた頃と比べて、頼助は間違いなく強くなった実感はあったし、これから成長していく確信もあった。

しかし、頼助は未来の成長した自分が挑んでも、NIRに勝てるイメージが湧かなかった。全速力でNIRを追いかけても、遠くに見える背中との距離が縮まらない。縮まらないどころか、格闘ゲームが上達したことによって、NIRの強さの底知れなさがわかるようになり、かえって突き放されている感覚さえあった。

世界大会の予選でNIRと対戦したとき、攻撃が一度も当たらず、防御や回避でしのぐ猶予も与えられず、パーフェクトK.O.で2本ともやられた記憶がフラッシュバックする。

あのとき頼助は予選トーナメント1回戦でも油断せずに対戦に臨んでいた。『EX JAPAN』は敗者復活の制度がなく、参加プレイヤーは負ければ終わりの大会。何が起こるのかわからない真剣勝負の場で、トッププロたちが実力を出し切れず、初戦で敗退する番狂わせは嫌と言うほど見てきていた。そもそも、練習試合だろうと、負けていい勝負は存在しない。世界一の座を賭けた決勝戦に挑む覚悟を持って、対戦が始まった瞬間から全力で勝ちに行っていた。

けれども、NIRに圧倒的な実力差で負かされた瞬間、頼助は負けることへの認識が甘かったことに気づかされた。本気で打ち込んできたもので負けるということは、それに捧げてきた己の人生の全否定──対戦相手に殺されたも同然だということを。実際に命を落としたわけではないけれど、あの日から何をやっても死んだように生きている感覚が拭えない。

だが、一度限りの人生で負けっぱなしで終わるわけにはいかない。頼助は唇を噛みしめて、アーケードコントローラーを握りしめる。

NIRは格闘ゲームの世界大会で優勝した後、異なる6種目のゲームの世界大会も制覇した怪物ゲーマー。公式戦で負けたことはたった一度もなく、無類にして無敵の強さを誇っている。

NIRに対戦で勝つためには、いったい自分は「何」を得ればいいのか? あるいは「何」を捨てればいいのか?

この6ヶ月間、頭の中で繰り返し問いかけた疑問について、納得のいく答えはまだ見つからなかった。

「君、つまんなそうな顔でプレイしてるね。ゲームは楽しんでやるもんだよ」

『YOU WIN』と勝利を讃えたメッセージがモニター画面に表示されたとき、凛として涼やかな声が聞こえてくる。頼助が声のした方向へ振り向くと、同い年くらいの女の子が隣のスツールに腰かけていた。真っ赤なキャップをかぶり、グレーのパーカーと黒いレギンスを合わせた服装の女の子。真っ赤なキャップ姿の女の子は握っていた2枚の100円玉を見せて、頼助がプレイしていた格闘ゲームのアーケード筐体のコイン投入口に落とした。

「ねえ、勝負しよ。今から君にゲームの楽しさを教えてあげる」

真っ赤なキャップ姿の女の子は有無を言わさぬ口調で言って、筐体のコントロールパネルのカードリーダーにアミューズメントICカードを読み込ませる。同じ店舗内にいるプレイヤー同士で対戦できるように設定して、挑発するような視線を投げてきた。どうやら学校に居場所がない同類と思われたらしい。NIRとランクマッチの対戦で当たるために、授業を休んで『烈闘ファイターⅦ』のアーケード版をプレイしていたとき、同じように学校をサボっている女の子に声をかけられることは時々あった。

──もし彼女の誘いを断って機嫌を損ねてしまえば、警察に通報されて面倒なことになるリスクがある。

──それに、一人の格闘ゲーマーとして、挑まれた勝負を断るわけにはいかない。

頼助はスクエア型眼鏡をかけ直して、使い慣れている「赤い鉢巻をした空手家」をキャラセレクト画面から選んだ。真っ赤なキャップ姿の女の子は嬉しそうにレバーを鳴らして、「歌舞伎メイクの力士」をキャラセレクト画面から選ぶ。

対戦ステージは「紅龍寺こうりゅうじ」にランダムで決まり、戦うキャラたちが睨み合うシーンがカットインした。青い炎と赤い炎が二人の選んだキャラの下に左右から迸り、お互いのプレイヤー名が試合開始前のVS.画面に表示される。

「へぇ、君、『頼助』って言うんだ。格好いい名前だね。なんとなくだけど本名かな?」

「ああ、そうだよ。そっちは? 『凛子』って本名でもハンドルネームでもありそうだけど」

「君と一緒。いい名前でしょ? ──とりあえず勝っても負けても楽しい勝負にしようね、頼助くん」

凛子は弾んだ声で言って、筐体備え付けのレバーを回した。自分のアーケードコントローラーも持っていない女の子。本当の意味での敗北を経験したことがないから、「負けても楽しい勝負」なんて言葉が出てくるのだろう。そもそも、「ゲームを楽しむ余裕」なんて、対戦で勝つために真っ先に捨てたものだ。

対戦形式は2本先取したプレイヤーが勝つ、最大3本勝負のBO3。頼助がNIRに大会で負けたときと同じルール。

満開の枝垂れ桜が咲き乱れる寺院。淡い紅色の花びらが散り敷かれた石畳の上。赤い鉢巻をした空手家と歌舞伎メイクの力士が睨み合って構えたとき、頼助は全身に黒い感情が沸き上がるのを感じた。

『Ready? ──Fight!!!』

対戦が始まった瞬間、お互いに前へ飛び出して、握り拳と張り手がぶつかり合う。微かな違和感──それが疑惑に変わったのは、続け様に放った蹴りも同じタイミングでかぶったときだった。そして、3発目の強パンチが重なったとき、疑惑は確信に変わる。

頼助の攻撃をジャストで三度も合わせる神業。

凛子は超人的な強さを持つプレイヤーだということを。

「ねえ、ゲームの対戦で一番楽しいことって何か知ってる? それはね、『対戦相手の想像を超えること』だよ」

隣に座る凛子が前のめりになって、全神経をレバーとボタンに触れる指先に集中させる気配が伝わる。頼助が操作する空手家が前へ動き出そうとした瞬間、稲妻が走ったような音が轟き──歌舞伎メイクの力士が爆速のすり足で急接近して、そのまま一気に加速した頭突きが炸裂した。「未来を先読みしたような反応速度」に加えて、「最速かつ正確無比なコマンド入力」。パワーキャラで遅いはずの力士なのに、間合いを詰めるタイミングを完璧に合わせられたせいで、まるで瞬間移動で攻撃されたような体感速度だった。

体力ゲージが削られていく最中、NIRと対戦したときの迫力が脳裏をよぎった。同じキャラを使うわけでもなければ、プレイスタイルが似ているわけではない。けれども、二人とも圧倒的な強さを誇っている点で共通している。

凛子が操作する力士の猛攻を止めきれず、頼助が操作する空手家はK.O.で倒された。

「よし、まずは1本目! この調子で次も取らせてもらうよ!」

「いや、悪いけどここまでだよ、凛子。俺は負けることが大嫌いなんだ」

頼助は目を閉じて、ワインレッド色のスクエア型眼鏡の縁に指をかける。思わぬ強敵との対戦に心が熱くなるのを感じた。真っ暗な中でスクエア型眼鏡を外して、筐体のコントロールパネルの端に置く。両目をゆっくりと開けると、煌びやかなゲーム画面がより鮮明に見えるようになった。

世界は不平等にできていて、天から才能を授けられる人もいれば、何も与えられない人もいるし、1億人に一人しか発症しない希少疾患に選ばれる人もいる。頼助は10歳の頃に脳の視覚を司る領域に異常をきたし、発作的に目が数秒間だけ見えすぎてしまう「視覚野しかくや過敏かびん症候群しょうこうぐん」にかかった。この疾患は視野が急激に広がって視力も大幅に上がるため、何百倍に増えた情報量が脳へ高負荷をかけ、強烈な頭痛に見舞われてしまう。もっとも、医療の進歩で症状を緩和する薬は開発されていて、毎日1回欠かさず飲みつづけていれば、健康な人と同じように日常生活を送ることができた。

だが、頼助は格闘ゲーマーの道を志してから、薬を飲むことを中断して、視覚野過敏症候群の症状を限界まで引き出すことにした。息をするように努力することが前提となっている勝負の世界で、さらに才能に恵まれた人たちを相手にここ一番の勝負所を制するためには、それに匹敵する武器が必要だったからだ。どんなものでも「見方」を変えれば、「味方」に変えることができる。天から与えられるものは選べない以上、与えられたものを使いこなすしかなかった。

主治医の指導の下で訓練した結果、視覚野過敏症候群の症状は強まって常態化して、頼助は眼鏡を外してから脳が高負荷に耐えられなくなるまでの60秒間、超人的な視力を発揮できるようになった。100メートル先の看板を虫眼鏡で拡大したように見ることができるほか、視野は真後ろ以外のほぼ全方向まで広がり、ゾーンに入ったスポーツ選手のように周りがスローモーションに見えるようになる力。この1分間は神に愛された天才の領域に足を踏み入れることができる。ステータスバグで得た力に付きものの代償として、頼助は日常生活ではピントがぼやけた眼鏡をかけなければいけなくなったが、何かを得るために何かを捨てる覚悟は端からできていた。

第二ラウンドが始まったとき、接近戦を仕掛けたキャラたちの動きが遅く見えるようになる。凛子が次に何のコマンドを入力したのか、技を出す前の予備動作を瞬時に見極めることができた。頼助は打撃のコマンドを入力して、凛子の投げ技のコマンドにかぶせて、正拳突きで鋭く打ち抜く。すかさず凛子がガードを固めた瞬間に投げ技でつかみかかり、巨漢の力士を持ち上げて地面に叩きつけた。

一息にコンボで畳みかけようとすると、凛子が操作する力士は投げられた衝撃を利用して、後ろへ猛スピードで転がって避ける。さらにバックステップで下がって、頼助が操作する空手家から距離を大きく取った。おそらく凛子は目の力に制限時間があることを見抜き、頼助が限界を迎えるまで時間稼ぎに徹するつもりのだろう。強いプレイヤーになればなるほど、初見の技への対応が早い。

NIRとの対戦で目の力を使った直後、速攻で挑んだ頼助の攻撃を回避することに専念されて、使用制限時間の60秒間を潰された記憶が蘇った。

「………………」

特別な目の力を手に入れたからわかることがある。「天才」という枠でまとめられる人たちの中には雲泥の差があって、NIRや凛子のような「本物」と比べれば、頼助はどれだけ頑張っても「偽物」でしかないことを。努力では越えられない壁の先には、選りすぐりの才能を持つ怪物しか通れない狭き門がある。どんな操作キャラでも活躍できるように調整された格闘ゲームと違って、現実世界は個人の能力のパラメータが調整されていない。

「──学習しろ」

けれども、頼助は負けたくないと思った。今の実力が通用しないなら、今この瞬間に成長すればいいと強く思った。これまで格闘ゲーマーとして強くなれたのは、特別な目の力があったからじゃない。どうすれば今の自分を超えられるのか、ずっと必死に考えつづけることを諦めなかったからだ。

「──学習しろ、学習しろ」

だから、頭脳をフル稼働させて、目の前の状況を整理しろ。対戦相手の思考を分析して、未来の行動を予測しろ。全力を出し切って、限界を超えて、最善を尽くせ。

絶対に攻略できないゲームがないように、絶対に勝てないプレイヤーもいない。

視野を広げて、見方を変えて、攻略法を見つけるんだ!

逆転勝利のルートを探そうとした瞬間、今まで対戦してきた記憶が走馬灯のように駆け巡った。無限にコマ送りされている場面の中に、たった一つだけ虹色に光り輝いているものがある。

凛子を攻略するための鍵は、この対戦の中にあった。

「──学習しろ、学習しろ、学習しろ!」

頼助は前のめりになって、全神経をレバーとボタンに触れる指先に集中させる。隣に座る凛子が瞬きでまぶたを下ろす瞬間、稲妻が走ったような操作音が轟き──赤い鉢巻をした空手家は一気に加速して、竜巻のような回転蹴りで歌舞伎メイクの力士を蹴り飛ばした。第一ラウンドで凛子が披露した、「最速かつ正確無比なコマンド入力」の見様見真似。瞬きでゲーム画面が見えなくなる「コンマ数秒の隙」を突いて、瞬間移動のように感じた攻撃の速さを疑似再現。吹っ飛んだ歌舞伎メイクの力士がステージ端に激突して戻ってきたところに、頼助は対空技のコマンドを入力して、昇り龍のように飛び上がるアッパーカットを食らわせる。

──距離を詰めたところで、離れられてしまえば意味がない。

──画面端まで追い詰めて逃げられないようにする必要がある。

だが、時間との戦いになる予想に反して、凛子が操作する力士はまっすぐ突っ込んできた。目の力で追える体当たり。頼助は攻撃が当たるタイミングを見極めて、操作する空手家のジャストパリィで捌く。突進を弾かれた力士が硬直した隙を見逃さず、流れるように反撃のコンボを決めていく。

どうして凛子は距離を取らず、自らが不利になる戦い方を選んだのか? 意表を突いたところで、目の力で見切られることはわかっていたはずだ。空手家が投げ技を決めるモーションに入った瞬間、頼助は隣に座る凛子に横目を向ける。

透明感のある栗色のショートヘア。小顔ですっきりとした輪郭に、眉間からすうっと通った高い鼻。清らかで明るく白い肌で、淡い鳶色とびいろの瞳には吸い込まれそうな目力がある。

凛子は心から楽しそうに笑っていて、煌びやかなゲーム画面よりキラキラと輝いて見えた。