ハイエナ率いるクチナシは手をこまねいていたわけじゃない。カワウソことはいざきいつを捜索しながら、選抜クラスの謎を解き明かす従来の任務も継続していた。でも、鹿ろつぽんヒルズの近くでオルバーを発見したことを除いて、明確な進展があったとは言いがたい。

 事態が動くとしたら、今日、金曜日だ。

 放課後が間近に迫るC教室で、ただとらがブースの席を立った。

 とびは唯虎の行く手に立ちふさがり、唯虎に声をかけた。

「どうしても、やるつもり?」

 唯虎は微笑して飛の肩を軽くたたいただけで、何も言わなかった。止めても無駄のようだ。唯虎はほとんど音もなく飛の脇を通り抜けてゆき、たつがみれいが座っているブースの手前で足を止めた。

「辰神。いいかげん心の準備はできてるだろ」

「心の準備だと?」

 辰神は机の上のディスプレイを眺めながら、片方の眉だけげた。

「この俺が、いったい何のために準備せねばならんというのだ」

「俺はこれまで、何回も戦抜投票でおまえの名前を書いてきたし、今回も書く。負けるのが怖いのかもしれないけど、もう逃げるなよ」

「安い挑発だな、由比唯虎」

「わかるよ、辰神。人外は人外を食えば食うほど強くなる。おまえはロードにもっと食わせたいんだ。さもないと、俺のセラに勝てないかもしれない。おまえの本質は、慎重っていうより、臆病者だ。大胆不敵を装ってるだけで気が弱い。強がってるんだよな」

「ほざいていろ」

 辰神はあくまでも唯虎に視線を向けようとしない。けれども、辰神の脇に控えている三本角のロードは違う。ロードははちゆうるい的な双眼をぎらつかせて唯虎をにらみ、牙をがちがちとみ鳴らしている。

 唯虎はロードのまなしを平然と受け止めた。セラが唯虎の背後から静かにロードを狙っている。

「女子は団結してる。ひゆうがおとぎりも、辰神、おまえの名は書かない。もうロードに餌を与える機会はないぞ。あきらめて、おれの挑戦を受けるんだな」

 辰神は無言を貫いた。どうなるのか。辰神はどうするつもりだろう。今の時点ではわからない。

「弟切弟切弟切ぃー」

 C教室を出てA教室に向かう途中、廊下でましゃっとがすり寄ってきた。

「どうする? 投票? 今回は俺、あえてトラちゃんの名前書こうかなって。もしあれだったら、おとぎりは俺の名前書いちゃってもいいよ。俺、弟切の名前だけは書かないから。マジでマジでマジで。うそじゃなくて。本当だから!」

 とびは無視した。ましゃっとを信用してもいいことはない。ましゃっとの話を耳に入れるだけでも、何らかの害がありそうだ。

「……たつがみがどう出るか、だな」

 バクがつぶやいた。読み切れないけれど、何かが起こる。そんな気がする。

 その後、A教室で戦抜投票が行われた。戦抜の参加者は、いぬかい、飛、しゆほまり、辰神れいひゆうがまさへびぶちしゆうかただとらの八名。副担任のぼりが投票用紙を回収し、あいがそれらを一枚一枚確認してパソコンに入力した。

「──では、戦抜投票の結果を発表する」

 一瞬、真っ暗になり、スクリーンに投票結果が投影された。教室がどよめいた。


 犬飼茉知  → 音津美呼

 弟切飛   → 由比唯虎

 酒池ほまり → 蛇淵愁架

 辰神令   → 由比唯虎

 音津美呼  → 酒池ほまり

 日向匡  → 弟切飛

 蛇淵愁架  → 辰神令

 由比唯虎  → 辰神令


+++ + ++++


 飛とバクは体育館二階のランニングコースから一階のバスケットコートを見下ろしていた。センターラインを挟んで、辰神令とロード、そして、由比唯虎とセラが向かいあっている。タブレット端末を持った木堀の立ち位置はサイドライン付近だ。愛田はセンターサークルとセンターラインが交わる場所に立っている。

 しろごうけんかしわばらそうよしらいしんどうがいの喪失組は一応、二階にはいるものの、好き勝手に過ごしている。教室にいるときと大差ないどころか、まるで変わらない。

 女子は、ほまりんと犬飼茉知、音津美呼の三人が固まっていて、蛇淵愁架だけは少し離れたところにいる。彼女の人外は、さながら漆黒の大蛇だ。たしかアダとかいう名で、あるじの体に絡みついている。頭が二つなければ、本物の蛇とまがうばかりだ。

 女子は戦抜を回避するために協定を結んでいて、戦抜投票で誰ともかち合わないように名前を書く工夫をしていた。そのはずだったのに、へびぶちはどういうわけか今回の投票でたつがみの名を書いた。どうも、それで女子たちの中に亀裂が生じ、三対一のような形になっているらしい。波乱といえば波乱だが、これから行われる戦抜のほうがもちろん重大だ。

「さて──」

 あいがトランプのようなカードの束をシャッフルしはじめた。

「戦抜のリワードを決めるとしよう。辰神、。どっちが選ぶ?」

 ただとらが、どうぞ、というふうに片手を辰神に差し向けた。辰神がうなずいた。

「ストップ」

 愛田はシャッフルをやめて一番上のカードを開いてみせた。カードには赤字で「×2」と書かれていた。

「まあ、そこそこだな」

 愛田は×2のカードを床に放った。

リワードは決定した。この戦抜の勝者は後援金が倍になる。辰神はすでに六倍だから十二倍、由比は二倍だ。──ぼり先生」

 愛田に呼びかけられて、木堀がタブレットを操作した。体育館の照明が落とされ、巨大なスクリーンが天井から下りてくる。スクリーンに戦抜のルール、せんばつじゆつていが映しだされ、スピーカーが大太鼓を打ち鳴らすような音を発した。ダダン、ダン、ダダンッ。センターサークルの中心に、10、という表示が投射された。

「いやあ、緊張するねえ」

 ましゃっとがくっついてきたので、とびはすっと横移動してよけた。ルーヴィはそのへんを跳ね回っている。ダダン、ダン、ダダンッ。数字が9に変わった。

「テメエ、飛の名を書きやがってッ」

 バクが怒鳴りつけると、ましゃっとはウインクしてぺろっと舌を出した。

「なんか面白いかな、と思って」

 ダダン、ダン、ダダンッ。センターサークルの数字が8に変わった。

 何が面白いものか。ましゃっとの考えていることがよくわからない。ダダン、ダン、ダダンッ。数字が7になった。

「唯虎!」

 飛が声をかけると、唯虎は右手を軽く上げてみせた。ダダン、ダン、ダダンッ。数字が6に変わった。

「えらくリラックスしてやがるな……」

 バクが言った。辰神も、そして唯虎も、尋常じゃない落ちつきようだ。ダダン、ダン、ダダンッ。数字が5になった。

「トラちゃんさ。ああ見えて、だいぶ食わせてるよ」

 ましゃっとがくすくす笑った。目をやると、しゃがんで腕組みをしている。ダダン、ダン、ダダンッ。数字が4に変わった。

「たぶんだけどね。セラはけっこうな大食らいだと思うな」

 ダダン、ダン、ダダンッ。数字が3に変わると、たつがみのロードが体を上下させはじめた。対して、ただとらのセラは動かない。

「ロードは、たいしたもの食ってきてないんじゃない? 大物を食ったのは、きっとここに来てから」

 ダダン、ダン、ダダンッ。数字が2に変わった。とびはルーヴィをいちべつした。ルーヴィは宙返りしまくっている。

「……ましゃっとは?」

 ましゃっとは肩を揺らして笑った。

「教えなーい」

 ダダン、ダン、ダダンッ。数字はもう1だ。唯虎はだいぶ食わせている。どういう意味だろう。セラは人外を食べたことがある。唯虎が食べさせてきた。もちろん、ましゃっとの推測でしかない。たぶんだけどね、とも言っていた。事実とは限らない。でも、唯虎は自信があるみたいだ。経験がなかったら、あんなに悠然と構えていられるだろうか。

 ダダン、ダン、ダダンッ。センターサークル中央に投射されている数字が、とうとう0に変わった。

「戦抜、始めぇ……!

 あいが怒鳴った。途端にいくつものスポットライトがセンターサークル一帯を照らしだした。

「ロード──」

 辰神が号令をかけ、ロードは突進しようとしたのだと思う。唯虎は違った。無言でじっとしていた。

 セラがいない。今の今まで、唯虎のやや斜め後ろにいたのに。いなくなった。消えたのは、でも、セラだけじゃない。

 ロードの左前脚、腕と呼んでよければ、その左腕が、なくなっていた。

「なっ──」

 辰神が振り返った。セラはそこにいた。辰神とロードの、三メートル、いや、四メートルほども後方だ。透きとおっているかのように見える、存在感が薄いひようのごときセラは、口に何かをくわえている。

 ロードの左腕だ。まさか、みちぎったのか。いつ? この一瞬で?

 セラは首をもたげて天井を仰ぎ、ロードの左腕をまるのみにした。

「……うっお」

 ましゃっとが身震いした。

「これ、予想以上かな? 強すぎじゃん、トラちゃんのセラ……」

「ロード!」

 たつがみが血相を変えてロードの背中をたたいた。ロードはただちに身をひるがえし、たくましい後脚を躍動させてセラに襲いかかった。ロードがセラに肉薄した。とびにはそう見えた。けれども、ロードが振り回した右腕は空を切った。かわしたのか。どうやって。いない。セラが。飛はセラを見失った。バクが叫んだ。

「速ェ……!

 いないと思ったセラが、ロードの背後にいる。

 目を疑うことはこのことだ。セラはロードの右腕に食らいつき、瞬時にみ切ってしまった。直後、セラはまた見えなくなっていた。

「馬鹿な……」

 辰神が両目を見開いてぼうぜんとしている。飛も驚き戸惑っていた。ただとらの性格からして、宣言どおり辰神に戦抜を挑むだろう。辰神は応じるかどうか。いずれにせよ、飛というかクチナシとしては、戦抜が行われる場合を考慮に入れて用意を進める必要があったし、実際そうしていた。勝敗に関わらず、クチナシはやるべきことをやるのだ。

 とはいえ、辰神よりは唯虎に勝って欲しい。飛は唯虎の勝利を願っているけれど、正直、楽観視してはいなかった。何しろ、辰神はすでに三勝している。唯虎のセラが辰神のロードを打ち負かせるのか。セラの実力は未知数だし、やってみないことにはわからない、としか言えない。唯虎とセラを信じるしか。

 セラは辰神やロードから十メートルばかりも離れた場所をゆったりと歩いている。

「辰神。俺はおまえみたいなやつが大嫌いだ」

 唯虎は冷え冷えとした口調で言った。表情らしい表情は浮かべていない。しいて言えば、ほのかに笑っている。

「おまえはわかってるのか。ひとを傷つけることの意味を。わからないだろう? だから、そんなふうにひとを傷つけることで優越感に浸って、調子に乗っていられる。むしが走るよ。おまえも、おまえにそっくりな、おまえの人外も」

「奇遇だな、唯虎」

 辰神は深呼吸をした。胸を張って、見下ろすように唯虎を見すえる。もう動揺してはいないようだ。少なくとも、平静を装おうとしている。

「俺も貴様が嫌いだ。きれい事をのたまっていい気になっているほうは、が出る。俺のロードなら、セラに食わせても心が痛まないか? 人外に食事をさせるたびに、おまえはそうやって自分の行為を正当化してきたのか?」

「忠告してやる、たつがみ

「聞くだけ聞いてやってもいい」

「あまり吠えるな。無様だぞ」

「ワンッ!」

 辰神はわざと犬の吠えをして、ハハハッ、と笑ってみせた。ただとらは肩をすくめた。指示などは一切なかった。セラがいつ動きだしたのかも、とびには見当もつかない。

 セラがロードののどくびにかぶりついた。というか、かぶりつくその瞬間は見えなかった。飛が目を向けたときには、セラはロードの喉頸にかぶりつき、押し倒そうとしていた。セラはすぐにそのままロードを押さえこんだ。

「わっ……」

 ましゃっとが声を漏らした。あつない。決着がつきそうだ。そう思った矢先に、セラがロードから飛び離れた。

 起き上がったロードの喉に、三本の角が生えている。頭には角がない。角が移動した、ということか。

 セラは五メートルくらい距離をとって、頭を上下に振りながら、うろうろしている。はっきりとはわからないけれど、口の部分が損傷しているらしい。上顎に穴があいているようにも見える。

「……痛そうだな」

 バクが顔をしかめるように身をねじった。唯虎の表情が少し曇っている。辰神は薄ら笑いを浮かべた。

「反撃開始だ、ロード」

 ロードがセラに向かって駆けだした。セラみたいに目にもとまらぬ早業というのとは違うが、ものすごい速度だ。もともと二足歩行だから、腕を失った影響もとくに感じられない。セラも走りだした。向かってくるロードと垂直の方向に逃げる。

 でも、ロードがセラに追いつきそうだ。捕まりそうなのに、セラは急停止した。ロードがセラに躍りかかる。それを見越していたように、セラは身を低くして体を反転させた。下からロードに組みつく。ロードとセラが組んずほぐれつして、互いに上になっては下になった。どちらも素早くて、何をやっているのか、どうなっているのか、とてもじゃないけれど把握できない。

「セラァッ……!

 バクが声援を送った。飛はただただ手に汗を握っていた。

 ロードとセラがいったん離れ、また揉み合いはじめた。

 もつれ合って、転がる。

「──んっ……」

 ただとらうめいてわずかにまえかがみになった。

「くっ……!

 たつがみは歯を食いしばり、すさまじい形相で仁王立ちしている。

 ましゃっとが立ち上がって手をたたいた。

「どっちもがんばれー!」

 ロードが後脚でセラを蹴り離した。吹っ飛ばされて、すぐさま身を起こそうとしたセラに、ロードが飛びかかる。ロードの右足の裏に三本の角が生えている。ロードはセラを踏みつけた。三本の角がセラの横っ腹に深々と突き刺さった。

 セラは起き上がれない。ロードはさらに、口を開けて舌をのばした。ロードの舌がセラの首に絡みつく。セラは左右の前脚でロードの舌を振り払おうとしたが、あの舌、ゴムみたいに伸び縮みする。セラの爪が食いこんでもちぎれない。

 ロードは角が生えた右足でセラを押さえつけたまま、左足で蹴る。何回も何回も、左足のかぎつめでセラの体中をえぐる。

 セラはもがく。セラの前脚、後脚も、ロードを傷つけている。

 どちらも動物のように血液みたいな体液が噴きだすわけじゃない。でも、傷つけばその部分が削られる。表皮とは違う、ある種の果実のような、それでいて生々しい組織があらわになる。その組織まで損なわれると、ぼんやり光る霧のようなものがき散らされる。

 唯虎も、辰神も、それぞれ苦悶の表情を浮かべている。立っているのもつらそうだ。膝をつかないのは意地だろう。人外が死闘を繰り広げているのに、あるじが先に膝を屈するわけにはいかない。

 セラはロードの舌で首を絞められている。その舌にどうにかみついた。セラの爪では引き裂けなかったロードの舌が、牙で噛み切られた。

「ロォォォ───……ッ!

 辰神が叫んだ。顔が汗でびっしょりになっている。

 ロードは跳び下がろうとした。けれども、セラは逃がさなかった。ロードがひっくり返る。セラがロードを組み敷いたのだ。セラは前脚、後脚でロードをしっかりと抱えこんで、のどくびにかぶりついている。ロードは喉に角を移動させたが、セラはかまわない。三本の角がセラの右目、左目の脇、鼻柱から突きだしている。それでもセラはロードに噛みついたままだ。

 辰神が両手で首を押さえ、とうとう体育館の床に両膝をついた。

──っっ……!

 間を置かずに立ち上がったが、目がとんでもなく充血して涙がにじんでいる。辰神は、ええぅう、おぉうあ、と呻いた。えずいているようでもある。泡を吹きはじめた。

「ぐぃぃいぅぅがあぁっ……

「セラ!」

 ただとらは少しるような姿勢になっている。まっすぐ立つのは難しいのだろう。唯虎も、そしてもちろんセラも、痛手を負っていないわけじゃない。

「とどめを……!」

「んんんんんんんんんにぃぃぃいいぃぃぃぃぃいぃぃいいいいぃいぃぃぃぃぃ……!

 たつがみが奇声を発したのはそのときだった。あれは、断末魔の叫びというやつなのか。辰神の髪の毛が逆立って、汗が、涙が、それに鼻血まで、一気に噴きだした。とんでもない量の水分が一挙に排出されたせいで、辰神の体は一回り小さくなった。人外が食べられようとしているだけで、こんな劇的な変化が現れるものなのか。いや、だけ、とは言えないだろう。喪失組は虚心症から回復してなんかいない。もしバクが食べられたら、とびは飛じゃなくなる。セラにロードを食べられて、辰神は何もかも失おうとしているのだ。

 直面しているその現実に、辰神の精神と肉体は耐えられなかったのかもしれない。一瞬、飛はそう思ったのだ。

 間もなく気づかされた。勘違いだった。

「変わりやがった!」

 あいが醜悪な顔をめちゃくちゃにゆがませて笑った。

「いいぞ! すげぇ……!

「セラッ──」

 唯虎がセラのほうに右手を差し向けた。しかし、セラはもう見あたらない。セラは何かにくるまれ、すっぽりと覆い隠されている。飛はそれがロードだとわかっていた。自分の目で見たからだ。

 セラにのどくびを食いちぎられそうになっていたロードが、突然、またたく間に切り開かれた。まるで、何本ものものすごい切れ味の包丁が、鮮やかに、いっぺんに、ロードをさばいたかのようだった。後脚から胴、首、頭部まで、表皮がきれいに裂けた。内部の、果実のような、毒々しいほどに生々しい組織や、白い骨みたいな部分が露出して、何かの管や、色とりどりの脈打つ内臓らしきものも、飛は目撃した。

 それらがいっぺんにどろどろになった。そして、セラを押し包んでしまったのだ。

 赤黒い、ぐちゃぐちゃしたゼリーのかたまり、波打つ山のようなものが、センターサークルの近くにわだかまっている。

 セラはおそらく、あの中にいる。おそらく、じゃない。間違いなく、あの中にセラはいるはずだ。

 無事かどうかは、わからない。

 ゼリーの山のてっぺんに、角が三本、にょきっと生えた。

「アハハァァ……

 一回り小さくなって、やけにげっそりしたたつがみが、両腕を広げた。

「アハハハァ。ハハハハハァ。オォー、ロード。の人外はぁ、うまいかぁ? とくと味わえ……アァァー。おいちいねぇ。おいちいでしゅねぇ。イヒヒヒヒッ……」

「……な、何だ、アイツ……」

 バクが震え上がった。とびも恐れおののいていた。辰神はどうしてしまったのか。それよりも、セラはどうなったのか。

 ただとらがばったりと倒れた。

 それから間もなく、ゼリーの山のてっぺんに、新たな角、四本目の角が加わった。

「へぇぇ……

 ましゃっとがしゃがんだ。背中が小刻みに揺れている。震えているのか。それともまさか、笑っているのか。

「やだ……」

 ほまりんがつぶやいた。何人かの女子がすすり泣いている。悲しんでいるというよりも、恐ろしくてたまらないのだろう。

 誰かが手をたたきはじめた。ゆっくりとした拍手だった。あいだ。頭の上で両手を打ちあわせている。

「勝者は辰神だ。見事な逆転勝利だった」


+++ + ++++


 こんなことになるなんて思ってもみなかった。本当にそうだろうか。

 辰神が唯虎の挑戦を受ける可能性がないとは言えなかった。戦抜が行われれば、片方が勝って、もう片方が負ける。唯虎に勝って欲しいけれど、負けるかもしれない。その場合でも、どうするかは決めてあった。

 飛はそうした。二階のランニングコースから一階に飛び降りて、唯虎に駆けよった。角が四本生えている血肉ゼリーの山と化したロードのほうは見なかった。アハハハ笑いながら、そのへんをふらふらと歩いている辰神も視界に入れないようにした。

 唯虎は右腕、右脚を下にして横向きに倒れていた。半目を開け、口も少し開いている。一見して、体のどこにも力が入っていない。たぶん意識がない。

 愛田がどこからか担架を出して担いできた。細身のわりに、愛田は非力じゃなかった。それどころか、やけに力持ちだった。でも、雑だった。愛田は唯虎の襟首をつかんで引きずり、担架に乗せた。

「運びたいか、オトギリ?」

 愛田にかれた。うなずく代わりに、愛田をぶん殴ってやりかった。

「俺も手伝うよ、おとぎり

 ましゃっとがすぐ隣にいた。いつの間に一階に下りてきたのだろう。まったく気づかなかった。

 とびは担架の頭のほうを、ましゃっとは足のほうを持った。バクが何かしゃべっていた。何を言っていたのか。飛はろくに覚えていない。

 体育館を出て、廊下を進んだ。医務室のドアは副担任のぼりが開けた。

 医務室は中学校の保健室とさして変わらなかった。ベッドが四台あって、カーテンで仕切られていた。カーテンは閉まっていない。机と椅子があって、机の上に大きなディスプレイが設置されていた。

 あいは最後に医務室に入ってきた。

「担架ごとでいい。ベッドに寝かせろ」

 愛田の指示に従うのが嫌でたまらなかった。かといって、他にどうすればいいのか。飛とましゃっとはただとらを寝かせている担架をベッドの上に載せた。

「木堀先生、についててやれ」

 愛田はそれだけ言うと、医務室をあとにした。木堀は残るようだ。

「あなたたちがいても役に立ちません。出ていきなさい」

 木堀は飛とましゃっとを見て冷然と告げた。

「……はーい」

 ましゃっとはルーヴィを連れて出てゆこうとしたが、飛は納得できなかった。

「じゃ、あんたは? 唯虎は人外を食べられたんだ。医者でも治せない。虚心症の患者に、あんたは何かしてやれるの?」

「医師の診断はリモートで受けられますし、最低限の処置なら私にもできます」

「答えになってないよ」

「答える義務がありません。さっさと出ていきなさい」

「行こ、弟切。ね?」

 ましゃっとに腕をつかまれた。飛はましゃっとの手を振りほどいて、木堀をにらんだ。木堀は飛を見返している。飛を見ているのに、飛なんか見ていないかのようなまなしだった。

「飛」

 バクに呼びかけられて、飛は一つ息をついた。唯虎に何か言ってやりたい。けれども、今の唯虎に飛の声は届かないだろう。飛は医務室を出た。

 仕事はここからだ。


+++ + ++++


 専用フロアの部屋に戻ってすぐ、と連絡をとった。伝えるべき情報をちゃんと整理してうまく話せるだろうか。気がかりだったが、どうにかできた。

『だいたいわかった。やっぱり、学園内で何らかの処置が施されるとは思えないね。てことは──』

「きっと外に運びだす」

『隊長に伝える。動きがあったら追跡して、どこで何が行われてるのか、突き止めないと。生きてとらわれてるカワウソの居場所とも、関係あるかもしれないし』

「連中の隠れ家みたいなところがあって……そこにただとらを? はいざきさんも、同じとこに」

『可能性だけど』

「だとしたら、鹿ろつぽんヒルズ」

『かもね。何かあったら教える』

「唯虎が外に連れだされたら、僕も追う」

『どうやって? 自由に外出できないんでしょ?』

「考えがある」

『無茶はしないで』

「了解」

 多少迷ったが、とびしゆほまりの部屋を訪ねた。

 インターホンのボタンを押すと、ほまりんはドアを開けてくれた。

「……おとぎり

 まだ夕食もとっていないだろう時間帯なのに、ほまりんはシャワーを浴びたあとのようだ。私服に着替えていたし、髪の毛がいくらか湿っていた。

「どしたの? 唯虎……どうだった?」

「唯虎は──」

 飛が首を横に振ってみせると、ほまりんは部屋に入るよう身振りでうながした。飛はちょっとためらった。女子の部屋に入っていいのだろうか。外で話すよりは中のほうがいいので、好都合ではある。

 ほまりんはベッドに腰かけた。あしもとでデッドオーがちょろちょろしている。

 飛はバクを肩に掛けたまま床に座った。

「頼みがあるんだ」

「どんなこと?」

「夜、抜けだしたい。そのとき、手伝ってくれないかな」

「……なんで、ほまりに?」

「他に信用できる人がいない」

「ほまりは信用できるの?」

「僕はそう思ってる」

「オレもな」

 すかさずバクが言うと、ほまりんは下を向いて少しだけ笑った。

「そっかぁ。よくわかんないけど、ほまりにできそうなことなら……いいよ。手伝う」

 とびは、ごめん、と謝りかけて、のみこんだ。

「ありがとう」

「うん」


+++ + ++++


 飛は自室のドアをいくらか開けて、そこからサロンの様子をうかがっていた。

 午後十一時を回っても、今夜は喪失組が部屋から出てこない。

 午後十一時三分、飛のスマホが振動した。からの電話だ。

「もしもし」

『今、東棟前に車がまったみたい。十人以上乗れるマイクロバス。動きがありそう』

「わかった」

『出られるの?』

「たぶん」

 電話の向こうで萌日花がため息をついた。飛は通話を終了し、バクを担いで部屋を出た。ほまりんは寝ていなかったようだ。インターホンのボタンを押すと、すぐに出てきた。

 飛とバク、ほまりん、デッドオーは、回廊に向かった。回廊には蛍光灯がなく、壁と床の境目から明かりがもれているだけだから、薄暗い。飛は回廊の窓のロックを外した。一瞬、この窓を背にしてただとらと語らったことを思いだした。ほまりんが飛に体を寄せてささやきかけた。

「ほんとにここから出るの? 五階だよ? 落ちたらやばいって……」

「平気。落ちないから」

 飛は窓を開けて窓枠によじ登った。

「しばらく開けてると警報が鳴るって──唯虎が言ってた。僕が出たら窓を閉めて、ロックして」

「窓、閉めて、ロック。うん。そうする」

「もし先生とかに問いつめられたら、僕に脅されて、仕方なくやったってことに」

おとぎりはほまりのこと、脅したりしないしょや」

 バクが笑った。

「たしかに、柄じゃねえわな」

「じゃ、お願い」

 とびはそれだけ言って窓の外に出た。五階だろうと十階だろうと、飛にとって高さは関係ない。東棟の外壁はつるんとしていないし、出っぱりもたくさんある。地上まであっという間だった。窓はほまりんが閉めてくれたみたいだ。玄関に回ると、が言っていたとおり、一台のマイクロバスが横付けされていた。エンジンは止まっていない。飛は建物の角に隠れて、萌日花に電話をかけた。

『飛?』

「外に出た」

『早っ。……バスのほうはずっきゅんが見てるから、学園の外に来て。ワラビーの車。私も中にいる』

「了解」

 飛は夜の学園内を疾走した。防犯カメラに映らず学外に出るルートは頭に入っている。飛はかいえいがくえんの敷地を囲む塀を軽々と乗り越えた。ワラビーのワンボックスカーはすぐに見つけることができた。後部座席に乗りこむと、喪服のような黒スーツ姿のハイエナが二列目席、THAZENのTシャツを着た萌日花は三列目席に座っていた。

「来たか、ヒタキ」

 ハイエナが軽く肩をすくめた。いつもよりひげがのびて、顔が若干むくんでいる。

「マイクロバスはただとらと思われる人物を乗せて発車したところらしい。あいぼりも同乗してる。他に作業着姿の乗員が数名。素姓は不明だ。──ワラビー、出せ」

 ワラビーがワンボックスカーを発車させた。それなりに速度が出ている。どこをどう走っているのか、飛にはさっぱりだが、距離をあけてマイクロバスを追跡しているようだ。

 萌日花が三列目席から身を乗りだしてきた。

「大丈夫? 由比唯虎とは仲よかったんでしょ」

「仲、よかったのかな」

 短い付き合いとはいえ、唯虎には飛に見せていない顔があった。セラに人外を食べさせていたらしい。そうしてセラはあんなにも強くなった。でも、ロードには勝てなかった。

「どうなんだろ。よくわからない」

「よさげなヤツだったぜ?」

 バクはファスナーを開けて、ため息をつくような音を発した。

「ひとに言えねえことの一つや二つ、誰にだってあるモンだろ。聞きだそうとしたわけでもねえなら、余計話さねえよ。飛、おまえなんか、唯虎に何も打ち明けてねえだろうが」

「……それはそうだけど」

たつがみのヤローだって、どうしても負けるわけにはいかねえ事情みてえなのが、何かあるのかもしれねえしよ。どっちにしても、いけ好かねえヤツだがな」

「ていうか──」

 不意にとびの頭に手を置いた。髪をわしゃわしゃされて、内心、何するの、とは思った。でも、萌日花の手を振りほどく気には、どうしてかなれなかった。

「だいぶやばそうだね。たつがみれいの人外」

 飛は変化後のロードを思い浮かべた。なるべく見ないようにしていたから、はっきりしたことは言えないが、ロードはあのあともたぶん、元の姿に戻っていない。

 四本の角を生やした血肉ゼリーの山に成り果てたロードは、取りこむようにしてセラを食べてしまった。バクがあのロードと戦ったとして、勝ち目があるだろうか。もちろん、勝てる。バクはそう言うだろう。けれども、飛は正直、できればバクにはあのロードと戦って欲しくない。

「山積みだな」

 ハイエナが目頭を押さえた。

「とにかく、まずはただとらだ」

 あえて、だろうか。ハイエナはカワウソについては言及しなかった。でも、ワラビーが運転するワンボックスカーは、明らかに鹿ろつぽんヒルズ方面に向かっている。やがてあの公園の手前で停車した。その先に鹿奔宜ヒルズがそびえ立っている。

「やっぱり、ここ」

 萌日花がそう言って後部座席のドアを開け、車外に出た。飛とバク、ハイエナも萌日花に続いた。ハイエナはワイヤレスのイヤホンを片耳につけていて、それで誰かとやりとりしているみたいだ。

「マイクロバスが鹿奔宜ヒルズの地下駐車場に入った──」

 飛たちが公園前の歩道に差しかかると、横合いから恐竜が躍りでてきた。ティラノサウルスに似ているが、人間くらいの大きさで、恐竜としては小ぶりだ。そうはいっても飛はびっくりしたし、バクも「ギョッ!?」と叫んで身を硬くした。

「オルバーを連れてきたよ」

 小型ティラノサウルスがしゃべった。人間の、子供の声だ。オルバー。イタチのようなオルバーが、小型ティラノサウルスの頭の上にのっている。オルバーはするすると小型ティラノサウルスの体を伝い降りて、さっと手を差しだした萌日花に取りすがった。

「初顔合わせだな。クラゲだ」

 ハイエナが顎をしゃくって小型ティラノサウルスを示した。

「ディノだよ」

 小型ティラノサウルスが名乗った。

「アァ? 何が何だか……」

 バックパックがどこにあるのかわからない目を回している。飛も頭がぐるぐるした。

「クラゲの人外が、着ぐるみ型のディノ」

 が簡潔に解説してくれて、やっとのみこめた。

「じゃあね」

 ディノをまとったクラゲは回れ右して公園の中に消えた。オルバーはカワウソが中にいるとおぼしき鹿ろつぽんヒルズから離れられない。そうかといって、オルバーをひとりにしておくわけにもいかないから、ディノをまとったクラゲが一緒についていたのだ。

「行くぞ」

 ハイエナが歩道を進む。バクを担いだとび、オルバーを左肩の上にのせている萌日花が、並んでハイエナの後ろについた。

 公園を行きすぎると、細い道に突き当たる。その向こうが鹿奔宜ヒルズの敷地だ。地下駐車場の出入口は、細い道を三十メートルほど行き、左に曲がった先にある。

 あたりに人影はない。細い道に入ってくる車もない。

 細い道の鹿奔宜ヒルズ側には、飛の胸くらいの高さの植え込みが設けられ、公園側には歩道がある。

 ハイエナが左手を上げて待機の合図をした。飛たちは細い道のすぐ前で三十秒間ほど様子をうかがっていたが、どうやら異状は認められない。ハイエナが上げていた左手を前方に振った。進め、の合図だ。

 ハイエナを先頭に、飛とバク、萌日花とオルバーの隊列で、細い道の植え込み沿いを前進する。間もなく曲がり角が見えてきた。曲がり角の入り口には、目印なのだろうか、高い木が植えられている。

 ふと見ると、萌日花が右手で口を押さえていた。表情が険しい。

「……萌日花?」

 萌日花はかすかに首を振った。首をかしげたようでもある。

 目印の高い木まで、あと十メートルもない。八メートルか、七メートルか。

「ハイエナ」

 飛は足を速めてハイエナの肩を軽くたたいた。ハイエナは振り向いて萌日花を見ると、足を止めた。

「どうした、パイカ?」

 萌日花は顔をしかめた。背中が丸まっている。

「……わからない。ざわざわして……ざわざわ? 何だろ。気持ち悪い……」

 ハイエナはジャケットの中に右手を差し入れ、黒い物体を抜き出した。拳銃だ。素早く何らかの操作をした。発砲できるようにしたみたいだ。

「慎重に行く。残るか?」

「ふざけないで」

 が目をげると、ハイエナはかたほおを緩めて少し笑った。とびはそっと息をついた。体に力が入っている。今まで気づかなかった。緊張しているのだ。

 ハイエナは頭をいくらか下げ、早歩きよりもやや遅いペースでふたたび進みはじめた。飛は萌日花の前に出て、一列になった。

 ハイエナは曲がり角の前で一度止まった。すぐに手で合図して、曲がり角を折れた。

 曲がり角の先は程なく下り坂になっていて、五、六メートル進むと四角いトンネルのような地下駐車場の出入口がある。

「この建物の所有者とは、上が話をつけてる──」

 萌日花が低い声でつぶやいた。

「その必要があれば、警察も押さえられる。だけど、何か……」

 いつの間にか、萌日花の左肩の上にいたはずのオルバーが、彼女の首にしっかりと体を巻きつけている。バクが「ウムゥ……」とうなった。震えてこそいないが、バックパックの全身がこわばっている。バクも普通じゃない。

「ニセバチ」

 ハイエナの背中から一匹のニセバチが飛び立った。ニセバチに地下駐車場の中を偵察させるつもりだろう。そのときだった。

「何か……」

 声がした。飛は隣にいる萌日花を見た。違う。今のは萌日花じゃない。

「何か──」「なにか……」「ナニカ」「何か」「なーにーか」「何?」

「ナニナニカ」「ナニナニナニナニナ」「ナナナナナ」「何何何何何何何何何何」

 飛は振り向いた。坂道の先は細い道で、その向こうは公園だ。樹木が生い茂っていて、公園というよりも森のように見える。坂道の両脇はコンクリートの壁だ。その上に植え込みがあって、つたのような植物が壁に垂れ下がっている。

 やつらは植え込みの中に身を潜めていたのだ。一斉に植え込みから顔を出した。人間なのか。赤いポンチョのようなものを着ている。真っ赤じゃない。白と黒の、目のような模様がちりばめられている。何かに似ているような。赤い。白で縁取られた円い黒目。そうか。施設にいたとき、赤い牛の張り子が玄関に飾られていた。福島県の会津地方で古くから作られているおもちやなのだとか。

 赤べこだ。連中が着ているポンチョは、赤べこに似ている。

「何か何か」「何何何」「ナニナニカニカニ」「ナナナナナ」「ナカナカナカナカ」

 赤べこたちが跳び上がった。垂直跳びじゃない。赤べこたちは坂道に飛び降りようとしている。飛はとっさに引き返そうとした。でも、萌日花が立ちすくんでいる。まずい。赤べこたちが続々と坂道に着地して、押し寄せてくる。

「飛ッ……!

 バクに言われるまでもない。一人の赤べこがつかみかかろうとしている。とびはその赤べこに飛び蹴りをお見舞いしてぶっ飛ばすと、ストラップを肩から外してバクを宙に放った。バクは空中で一回転して人型に変身し、別の赤べこを殴り倒した。

「萌日花!」

 ハイエナが萌日花を抱き寄せた。飛はまた別の赤べこに後ろ回し蹴りを食らわせて、さらに別の赤べこを両手で突き放した。

「クォラァッ! チィヤァッ! セェアッ……!

 バクも手当たり次第に赤べこたちをやっつけているが、きりがない。

「ナニナニナニ」「ナニカナニカナニカ」「ナナナナ」「ニニニニ」「ナカナカナカ」

 赤べこは何人いるのか。十人ではきかない。二十人はいそうだ。どの赤べこも強くはないというか、勢い、迫力のようなものはさして感じないが、倒れてもすぐ起き上がる。どこかちぐはぐな身のこなしで、機敏ではない。けれども、飛やバクに思いっきり吹っ飛ばされても、ひるまずに攻めかかってくる。攻撃というよりも、とにかく接近してきて、絡みつこうとしているかのようだ。気味が悪い。

「飛、気づいてっか!?

 バクが力任せに赤べこをぶん投げて怒鳴った。

「コイツら、人間じゃねえ! 全員、人外だぞ……!」

「ご名答」

 声は地下駐車場のほうから反響して聞こえてきた。

 ハイエナが左腕で萌日花を抱えたまま、右手で握った拳銃の銃口をそっちに向けた。撃つんじゃないかと飛は思った。でも、ハイエナは引き金を引かなかった。地下駐車場から何かが進みでてくる。それは肉だ。肉という肉を寄せ集めて作った、巨大な肉人形。むしろ、単なる巨大な肉塊だ。あの肉塊が声を発したのか。そうじゃないだろう。

「つけてくるだろうとは思ってたが──オトギリ・トビ、おまえもかよ。悪い子だ」

 あいよしの声だ。巨大な肉塊の後ろに隠れているのか。

「ヒタキ、撤退だ。突破しろ」

 ハイエナが早口で言って、萌日花を飛のほうに押しやろうとした。萌日花は少し前から変だった。人外を感知する能力を持つ萌日花に、赤べこたちの気配が悪い影響を与えていたのかもしれない。萌日花はハイエナにしがみついた。反射的な動作だろう。ハイエナと離れたくなかったのか。

 飛はふく前進してきた赤べこを蹴っ飛ばして、バクに目配せをした。バクは返事をする代わりに身をひるがえした。

「萌日花を、頼む」

 ハイエナにそう声をかけるなり、飛は巨大な肉塊めがけて突進した。

 になったわけじゃない。ただ、を連れて逃げるのであれば、それはハイエナの役目だろう。何せ、ハイエナは萌日花の後見人で、父親代わりなのだから。そのためにとびとバクがおとりになって、赤べこやあい、巨大な肉塊を引きつける。役割分担だ。

「馬鹿……!」

 ハイエナが叫んだ。飛は、そしてバクも、かまわなかった。巨大な肉塊に真正面から突撃する。そう見せかけて、飛は巨大な肉塊の右側を、バクは左側を駆け抜けた。

 一瞬振り向くと、萌日花を抱えこんで坂道を駆け上がってゆくハイエナの後ろ姿が見えた。赤べこたちがハイエナに群がろうとしていたが、つかまらないことを祈るしかない。

「オトギリィ……!

 愛田は案の定、巨大な肉塊の後ろにいた。飛とバクは無視して地下駐車場に入りこんだ。ぶんっ、とおとが聞こえて、視界の隅を黒いものが横切ったような気がする。ニセバチか。ハイエナはただ逃げたわけじゃない。ニセバチを一匹、送りこんだ。萌日花を退避させてから、ハイエナは戻ってくるかもしれない。いいや、必ず戻ってくる。飛とバクはあくまでも時間を稼ぐだけでいいのだ。

 地下駐車場はけっこう明るくて、半分以上のスペースが車で埋まっている。飛は足を止めずに後ろを見た。赤べこたちが追いかけてくる。巨大な肉塊も。愛田の姿は見えない。この期に及んで、肉塊を盾にしないと飛とバクを追うこともできないのか。

 ふと、何か小さいものが自分と並走していることに飛は気づいた。

 もちろん、バクじゃない。

「オルバー!?

 ついさっきまで、おびえきって萌日花の首に巻きついていたのに。これ以上、あるじのカワウソと離れていたくない。どうあってもカワウソのそばに行きたいのか。

 どうやらこの地下駐車場は、ぐるっと一周できる造りになっているようだ。突き当たりにエレベーターがある。飛は少しばかり迷った。あのエレベーターに乗って上階へ行けないか。エレベーターがこの階に止まっていなければ、扉が開くのに時間がかかる。仮にすぐ扉が開いても、閉じる前に赤べこたちが追いついてきそうだ。だめか。エレベーターは使えない。

 ただとらを乗せたマイクロバスはどこだろう。あった。エレベーター前を行きすぎた先に停車している。マイクロバスの周りに他の車はない。

「外出は禁止のはずですが」

 女性の、冷たい、選抜クラスの副担任、ぼりの声がした。どこかに木堀がいる。そんなに離れていない。わりと近くだ。

 でも、飛は木堀を捜さなかった。それどころじゃない。あちこちの車の下から、おびただしい数の白いものがい出してきたのだ。

「あの女の人外か……!」

 バクが隣を走るとびに口しかない顔を向けた。バクは、どうする、といてきたわけじゃない。でも、どうしよう。白いものは二十センチ程度で、人間を単純化したような形をしている。赤べこたちも、あの白いものも、そしてあいの巨大な肉塊も、足はそんなに速くない。直線コースでの競争なら、飛とバクは追っ手を引き離して逃げきれるだろう。ただ、地下駐車場は競技場のトラックみたいに一回りできるから、そうはいかない。

 飛たちはマイクロバスのところまで来た。妙だ。マイクロバスはフロントを壁に向けてまっている。コンクリートうちっぱなしのその壁に、赤いカーテンが掛かっていた。どうしてカーテンが。おかしい。そぐわない。絶対、変だ。

 飛は引き寄せられるように赤いカーテンを目指した。

「おいッ、飛ッ──」

 うろたえながらも、バクもついてくる。飛はカーテンに手をかけて、めくった。壁じゃない。カーテンの向こうには通路があった。暗い。明かりはない。入ってすぐのところには。ずっと向こうでだいだいいろのランプか何かがともっている。短い通路じゃない。いったいどこまで続いているのか。飛とバクは思わず先に進むのをちゆうちよしたが、オルバーは違った。脇目も振らずに闇の向こうへ突っ走ってゆく。オルバーを放ってはおけない。どうせ地下駐車場は敵だらけだ。こうなったらもう行くしかない。

 飛とバクはカーテンをくぐった。飛が走ろうとしたら、「──待てッ!」とバクに止められた。通路の向こうに誰かいる。人、なのか。でかい。かなりのずうたいだ。何かが光っている。火か。煙草たばこだろうか。その何者かは煙草を持っているらしい。それを口のところに持っていって、くわえたのだと思う。吸いこむと、パチパチ音を立てて火が大きくなった。もしかすると、紙巻き煙草じゃなくて、太い葉巻なのかもしれない。その火に照らしだされて、ぼんやりとだが、何者かの顔が見えた。ものすごい鼻だ。高いんじゃない。鼻が長い。長すぎる。あまりにも。まるで象みたいな鼻をしている。

「テメエ──どこのどいつだッ!?

 バクが飛を背にかばってただすと、そいつはえらく眠そうな目をしばたたかせた。

「わっしぁ、やみささやくぞう……そっちのほうこそ、どこの何もんぞ」


To be continued.