テーブルの端に伏せて置いてあるスマホが振動しはじめた。

 りゆうこは膝を折って床に座っていた。龍子のももを枕にして、彼女が横になっている。

 このリビングは相変わらず、紙切れ、雑誌、衣類、食器といった物で散らかり放題だ。かぐわしいとはとても言えない、汚れに汚れた部屋を、黒いはね、青い帯模様の美しい人外ちようたちが、ゆったりと飛び回っている。

 彼女の閉ざされているまぶたがぴくりと震えた。

「大丈夫ですよ」

 龍子は彼女に声をかけて、テーブルの上のスマホを手に取った。ディスプレイの表示を確認してから、通話に応じた。

「もしもし? 飛?」

『うん。もしもし……ええと、龍子?』

「そうです」

 ふと龍子は思った。

 なぜわたしは驚いていないんだろう。

 おとぎりとびが電話してきた。たぶん、驚いたほうが自然だ。だって、飛が電話を。そうだ。

「え?」

 きっとりゆうこは驚くべきなのだ。多少なりとも。いくらかは、驚いてみせないと。

「飛……?」

『や、だから……そうだけど』

「です、よね」

 どうして飛が電話を?

 人外ちようたちが飛んでいる。龍子には近づいてこない。龍子は彼女の黒いまっすぐな髪の毛を指でく。彼女に止まっている人外蝶は一羽もいない。

 龍子の右肩の上にはチヌラーシャがいる。チヌは口を開けている。そこから龍子が顔を出している。

「──声が、飛だし。番号も、飛だし。というか、名前が表示されるのですが」

『僕も同じだけど』

「わたしの名前が?」

『……それは、そうでしょ。他の人の名前なわけないし。だって、龍子だし』

「そうですよね」

 龍子はうなずいた。飛はあたりまえのことを言っている。

「そうなんですけど……」

 飛が電話をしてきた。似たようなことが前にもあった気がする。

 本当にあったのだろうか。

 あった、はずだ。

「え? どうしたんですか?」

『じつは、ちょっと事情があって、これから学校の外に出なきゃいけないんだけど』

「……はい?」

 飛は何を言っているのだろう。事情。学校。

「外に……?」

『あぁ、あの、何だろ、だから、用があって』

「つまり……」

 何かどうもぼんやりしている。龍子はどうしてここにいるのだろう。ここで何をしていたのだったか。なぜ龍子は彼女を膝枕しているのだろう。

 人外蝶たちが舞い踊っている。違う。踊ってなんかいない。

 十羽足らずの人外蝶たちは、ときどき龍子めがけて急降下しようとする。でも、途中でやめてしまい、慌てたように上昇して、また天井近くの高いところをくるくると飛ぶ。そして、しばらくするとふたたび龍子への接近を試みるものの、結局は断念する。

「お仕事の?」

『そう。それ』

「それで、なぜわたしに電話を?」

『説明するとややこしいんだけど、勝手に出られないっていうか。許可を得ないと外出できなくて。から何時まで、何をするとか、申請用紙に書いたりして』

「ようするに……」

 りゆうこは一つ息をついた。だんだんと事情がのみこめてきた。

「その用紙に、わたしのことを?」

『そう……なんだよね。ごめん。勝手に名前を使っちゃって』

「とんでもないです」

 とびは転校した。龍子を置いていった。しょうがないことだ。龍子は祖父母に言えなかった。じつは、こみ入った事情があって自分は普通じゃない。それで、転校したい。そんなこと、話せるわけがない。行きたかったけれど。

 本音を言えば、飛やと一緒に行きたかった。

 何より、自分だけ取り残されるのがいやだった。

 でも、飛は龍子のことを忘れてはいない。こうやって連絡してきてくれる。離れていても、飛のためにできることが、龍子にもないわけじゃない。

「わたし、飛の役に立ったということですよね?」

『それはもう。他に名前を書けるような人なんて、僕にはいないし』

「わたしだけ?」

『うん』

 龍子は思わず目尻を下げた。それだけじゃない。顔中が緩んだ。

「本当に会えるわけじゃないのは、残念ですけど」

『……あぁ。うん。それは……』

「冗談です」

 龍子は自分からそう言っておいて、首を振った。

「冗談というわけでも、ないんですけど。会えないのは、やっぱり残念です」

 飛は黙っている。気になった。飛はどうなのだろう。

「次は」

『あ……え、次……?』

「会えますか? 次に、機会があったら」

『もちろん。──でも……そっか、うん、今の仕事が一段落ついたら』

「楽しみにしています」

 飛も同じだ。会いたいと思ってくれている。

 りゆうこは夢見心地だった。本当に、夢でも見ているようかのようだ。ふわふわしていて、どこか現実感がない。

 現実なのに。これは現実だと思う。現実のはずだ。

『……そういえば、龍子、どこにいるの?』

「家ですよ?」

 どうしてとびはそんなことをくのだろう。家だ。外じゃない。龍子は家の中にいる。

 自分の家じゃないけれど。

 龍子はひいらぎの骨張っている肩をそっとつかんだ。

「飛はこれからお仕事なんですね」

『……うん』

「がんばってください。わたし、陰ながら応援しているので」

『ありがとう。じゃ、僕、そろそろ……』

「はい」

 飛が通話を終了させた。龍子はスマホをテーブルの端に置いた。

 いつの間にか、伊都葉が薄目を開けていた。

「……しらたま……さん……」

「ええ」

「……私……」

「何ですか。柊さん」

「……私は……」

「わかっています。しずくだにさんに会いたいんですね」

「……ルカナ……」

「雫谷さんに、許して欲しい」

「……私……あぁ……」

「いっそ、食べてもらいたい」

「……ルカナ……に……」

「好きなんですね。雫谷さんのことが」

「……ルカナ……」

 伊都葉の瞳に涙がにじむ。龍子は伊都葉の頭をでてやる。

「大丈夫。大丈夫だから──」

「……だいじょ……ぶ……」

「ええ。そうです。柊さん。伊都葉さん。──イトハ」

「……白玉……さん……」

「どうか、龍子と呼んでください」

「……りゆうこ……さん……」

「目をつぶって」

 龍子が命じると、イトハはすんなりとまぶたを閉じた。小さな涙のしずくほおを流れ落ちていった。

 龍子は右手を持ち上げた。リビングの高いところを飛び回っている、十羽に満たない、正確には八羽の人外ちようが、一斉にうろたえて右往左往しはじめた。

 龍子は人外蝶たちに向かって笑みを浮かべてみせた。

「大丈夫です」

 やがて一羽の人外蝶が、いかにもおそるおそるという感じではあるものの、龍子の右手に舞い降りてきた。

 龍子はその人外蝶を右手の甲に止まらせた。人外蝶がはねをゆっくりと開いたり閉じたりしているのを、龍子はしばらくの間、ただ眺めていた。

 それから、人外蝶が止まってる右手を右肩のほうへ近づけた。

 チヌがさらに口を開け、そこからせり出している龍子の顔も口を開けた。

 耳を澄ませば、人外蝶の、すなわちイトハの声が、龍子には聞こえる。その声を、チヌの口からせり出している龍子が、口を開けて吸いこんでいる。イトハの声が早回しのように聞こえるのはそのせいだ。龍子が吸いとっているからだ。

 人外蝶が色を失ってゆく。青い模様のある黒い裏翅がいろせる。人外蝶は翅を畳んでいるわけじゃない。翅がしわしわになって縮んでゆく。しなびた翅が人外蝶を包んでゆく。人外蝶は何か別の物になろうとしている。蝶はさなぎが羽化して成虫になる。その逆だ。人外蝶は蛹のような状態になりつつある。龍子の右手の甲の上で、もう蛹と化している。

 龍子は身じろぎもしない蛹を左手の指でつまむと、それをイトハの頭髪の中に埋めこんだ。蛹はそのうち成長してまた飛ぶようになるだろう。そうしたら、龍子は人外蝶から声を聞くだろう。イトハの声を食べるだろう。

 イトハは寝息を立てている。静かに眠っている。

「いい子──」

 龍子は彼女の頭をでてやる。

 ふと思う。

 この子の声を聞き、食べているだけで、龍子はいつまで満足できるだろう。