
課外時間が迫るC教室のブースで、飛は大いに悩んでいた。
机に置いた外出申請用紙には、氏名の他、外出を希望する日時、その理由・目的を記入する欄があった。本当のことを書くわけにはいかないので、
飛はなんとかそれらしい理由をひねりだして書き、A教室へと向かった。
「何て書いたんだ?」
廊下で肩に掛けているバックパックに
「友だちに会うみたいな……」
飛はごにょごにょと答えた。
「友だちって誰だよ」
「まあ……」
「もしかして、お龍か?」
「……かな。想定してるのは。そんな感じ」
「だったら一応、お龍に言っといたほうがいいんじゃねえの。それこそ、これこれこういう理由で、みたいによ」
「言っておく……」
「だろ。やっぱそこは、一言断っておかねえと、何だ? あるだろ。いわゆる、親しき仲にも礼儀ありみたいな」
「それは……うん。ていうか、そのつもりだし。もちろん。あとで……」
A教室に勢ぞろいした選抜生たちを前に、愛田が本日の終業と解散を告げた。愛田が教卓を離れるより早く、飛は申請用紙を握り締めて席を立った。
「何だ、オトギリ」
「これ」
飛は申請用紙を教卓に置いた。ほとんど
愛田は申請用紙を
「おまえの申請用紙には不備がある」
「ちゃんと書いたけど」
「いいや。俺が不備があると言ったら、不備はあるんだ。いいかげん学べ」
「でも、不備って……どこに」
「友人」
「友人に会うため、と書いてあるな」
「そうだけど」
「その友人ってのは、どこのどいつだ」
「……そこまで書かなきゃいけないの?」
「当然、おまえはそこまで書かなきゃいけない」
愛田は毒蛇みたいに
「友人なんて抽象的な概念で、大の大人が納得するとでも思ったか? 浅はかにも程があるんだよ、頭の悪い糞餓鬼め」
かっとなってしまったら愛田の
ところが、つまんだ申請用紙が動かない。愛田が申請用紙を人差し指で教卓に押さえつけているせいだ。
「……放せよ」
「放してください、の間違いじゃねえのか、
「いやだ」
とっさに口を突いて出た。
愛田は額に青筋を立てて笑った。
「何だと?」
「……放してください。愛田、先生」
「しょうがねえな」
愛田がやっと人差し指を浮かせたので、飛は申請用紙を引っぱろうとした。途端に愛田は、人差し指じゃなく、今度は
「……放せって……言って──お願いしてるんだけど。愛田。先生」
飛はあえて愛田の顔を見ないようにした。絶対、とんでもなくいやらしい、不快な表情をしているに決まっている。そんなものを見てしまったら、きっと腹立ちが限界を超えて爆発する。
「おまえみたいに反抗的なションベン臭い餓鬼にお願いされるのは、嫌いじゃねえ」
愛田は笑いながら申請用紙から掌を離した。また同じことをやりそうだ。飛は警戒して、素早く申請用紙をかっさらった。
席に戻って、理由・目的の欄をいったん消しゴムで消し、書き直した。
友人の
申請用紙を再提出すると、
「いいだろう。午後四時から午後八時までの外出を許可する。俺は受け持ちの生徒を信用するタイプだし、わざわざ見張ったりはしねえが、カードを使用した時刻は秒単位で記録される。カメラの映像もしっかり残るからな」
「わかった」
「わかってたら、そんな言い方はしねえはずだが?」
「わかりました」
「よくできました」
愛田は拍手してみせた。手を打つ間隔がやたらと長い。嫌みたらしい拍手だった。
+++ + ++++
正門までの道すがら、スマホで龍子に電話をかけた。龍子は三回目の呼び出し音が終わる前に出た。
『もしもし? 飛?』
「うん。もしもし……ええと、龍子?」
『そうです。え? 飛……?』
「や、だから……そうだけど」
『です、よね。声が、飛だし。番号も、飛だし。というか、名前が表示されるのですが』
「僕も同じだけど」
『わたしの名前が?』
「……それは、そうでしょ。他の人の名前なわけないし。だって、龍子だし」
『そうですよね。そうなんですけど……え? どうしたんですか?』
「無駄な話してんなァ、おまえら……」
飛に担がれているバックパックが何か言っている。飛は聞こえないふりをした。
「じつは、ちょっと事情があって、これから学校の外に出なきゃいけないんだけど」
『……はい? 外に……?』
「あぁ、あの、何だろ、だから、用があって」
『つまり……お仕事の?』
「そう。それ」
『それで、なぜわたしに電話を?』
「説明するとややこしいんだけど、勝手に出られないっていうか。許可を得ないと外出できなくて。
『ようするに……その用紙に、わたしのことを?』
「そう……なんだよね。ごめん。勝手に名前を使っちゃって」
『とんでもないです』
『わたし、
「それはもう。他に名前を書けるような人なんて、僕にはいないし」
『わたしだけ?』
「うん」
龍子は電話の向こうでちょっとだけ笑ったみたいだ。
『本当に会えるわけじゃないのは、残念ですけど』
「……あぁ。うん。それは……」
『冗談です』
龍子はすぐに言い直した。
『冗談というわけでも、ないんですけど。会えないのは、やっぱり残念です』
飛は何も返せなかった。飛としては龍子をあてにしたのだが、体よく利用したと見てとれなくもない。
『次は──』
「あ……え、次……?」
『会えますか? 次に、機会があったら』
「もちろん」
飛は気がついたら即答していた。
「でも……そっか、うん、今の仕事が一段落ついたら」
『楽しみにしています』
電話よりは、顔を合わせて話すほうがいい。この任務が何らかの形で片づいたら、飛も龍子に会いたい。それは素直にそう思う。一方で、何かおかしい、と感じるのはなぜだろう。何がおかしいのか。
「……そういえば、龍子、どこにいるの?」
『家ですよ?』
どうしてそんなことを
はっきりと、龍子らしくない、とまでは言えない。でも、何かちょっと引っかかる。
『
「……うん」
一瞬、思った。
灰崎の消息は依然として不明だ。これから捜索に取りかかる。飛は関わらなくていいとハイエナに言われたが、とてもじっとしてはいられない。
そんなことを
『がんばってください。わたし、陰ながら応援しているので』
飛は礼を言って電話を切った。飛にひっついて聞き耳を立てていたバクがぼやいた。
「お龍、オレのことは一言も言わなかったなァ。薄情なヤツだぜ」
飛が覚えた違和感の正体はそれだろうか。そうかもしれない。違うような気もする。
「……薄情ってことはないだろ」
「そうムッとするなよ。単なる言葉の
飛は正門から
尾行、監視なし。B地点で合流。
合流地点Bは駅前商店街の小道だ。シャッターが閉まっている飲食店の前に銀色のワンボックスカーが
運転手のワラビーがワンボックスカーを発進させた。
「どうやって捜すの?」
飛が
「俺たちだけでカワウソを見つけるのは、正直、難しい。警察を動かすこともできなくはないが、
「つーことは──」
バクがファスナーを開いて大声を出した。
「オルバーか!?」
「そういうことだ」
ハイエナは手に持っている黒い帽子をくるっと回した。
「カワウソのオルバーは、わりと
「オルバーが見つかれば、近くに必ず
「ン?」
バクが体をひねった。
「でも、オルバーを捜すのも灰崎のヤローを捜すのも、結局、変わらなくねえか? どっちにしてもたやすくはねえだろ?」
ハイエナは顎をしゃくって三列目席を示した。
「そこはパイカの力を借りることになる」
ワンボックスカーは
「……じゃ、やりますか」
何もかもあきらめきっているかのような声音だった。萌日花の表情はどこまでも暗い。
飛がバクを担いでワンボックスカーを出ると、ハイエナ、萌日花が続いた。
三人は人通りのない道を少し歩いて、とある雑居ビルの前で立ち止まった。ビルの名前は、ウービーパレス。そんなに大きくはない。わりと年季が入っている細長いビルだ。一階はガラス張りの飲食店で、中が見える。客はいない。まだ営業前なのだ。看板には、パブ・サバイバル・リパブリック、と書かれている。
「
ハイエナはその場を離れ、十メートルほど先の路地の手前で飛たちを振り返った。
「最後に確認できたカワウソの位置情報が、おおよそこのあたりだ。どうやら、ここから愛田を見張ってたらしい」
萌日花がその路地に向かった。飛もついていった。
実際に試してみると、路地に入って少し顔を出しただけで、愛田がいたという店をだいたい見渡せる。
「……よし」
萌日花が自分の
「何しやがるつもりだ……?」
飛はバクを軽く手で押さえて黙らせた。ハイエナは帽子を
萌日花は胸の前で両手を組み合わせた。祈りでも
でも、それにしては顔つきが物騒すぎる。
「……くそ。だめ。くそ。マジ、くそ。くそ。くそ。くそ。くそ。くそ。くそがぁ……」
小声で何か罵っているし。
「大丈夫なのかよ……」
バクが
「さあ……」
ちらっとハイエナの様子をうかがってみた。ハイエナは萌日花を見ていない。腰に手を当てて、周りに視線を巡らせている。
萌日花は目をつぶり、頭の両側を
「……うがぁ、んぁ、んがぁ、んん、あぁ、うぁあ、ぐうぅ、あぁあ、んんんん……」
ついにはおかしな声を発しはじめた。
「明らかにやべえだろッ!?」
バクが身をよじった。萌日花が何をしているのか、さっぱりわからないが、止めたほうがいいんじゃないか。飛もそう思い、萌日花の肩に手を置こうとした。

「
「邪魔しないで!」
萌日花は
「や、でも……」
「いっつっ──」
萌日花は左右の手で顔を覆った。背中が震えている。痛い。痛いのか。どこが痛むのだろう。目か。目らしい。萌日花は両手の指で自分の眼球を
「あぁ、くそ、痛っ……痛いなぁ、もう、痛い、痛い、痛い、痛い、いたたたたた……」
また制止しようとしたところで、萌日花は聞き
「ハイエナ! 萌日花に何をやらせてる!?」
「
ハイエナの顔は
「パイカは、近くにいる人外の存在を感じとれるだけじゃない。集中すれば、人外の感覚を、借りられる。らしい、としか俺には言えんがな。それがどんな感じかってのは、パイカにしかわからん。パイカも口で説明するのは難しいみたいだ」
「──んあぁっ……」
萌日花がしゃがみこんだ。ハイエナは萌日花に向かって足を踏みだそうとしたが、思いとどまったようだ。
萌日花は
涙を流している。
もしかして、痛くて泣いているのか。
「萌日花?」
ハイエナが声をかけると、萌日花はしゃくり上げながら激しく頭を振った。
「……まだやれる! 最後までやるから! 放っといて!」
「わかった」
「あとで蹴ってもいい!?」
「なんでだよ……」
ハイエナはため息をついた。
「いくらでも蹴っていい。それでおまえの気がすむなら、好きにしろ」
「そういう問題じゃないんだって! わかんないかな!? 馬鹿!」
萌日花が言っていることは支離滅裂だ。それくらい追いこまれているのだろう。さもないと、あんなふうに瞼を爪で引っ
「……あぁ、痛い、痛いよ、もうやだ、最悪、冗談じゃない……痛いって、もう、痛い、痛い、痛い痛い痛い、何なの、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃぃぃ……」
つらくて、
「──……いた!」
萌日花が叫んだ。
間髪を
「ここ!
「よくやった!」
ハイエナはスマホをジャケットのポケットに突っこむと、萌日花を横抱きにした。
「やっ、隊長、ちょっ──」
萌日花は暴れようとした。けれども、抵抗する力が残っていなかったのかもしれない。ハイエナは萌日花を抱きかかえたまま、ワンボックスカーの後部座席に乗りこんだ。鹿奔宜ヒルズとやらに行くらしい。
+++ + ++++
萌日花は車内でもハイエナに抱えられたままだった。傷だらけの
「……『いた』って言ってたけど。何がいたの?」
飛が尋ねても、萌日花は反応しない。やはり意識がないようだ。
「オルバーだ」
代わりにハイエナが答えた。
「ある人外の目で別の人外を見つけて、その人外の目でまた別の人外を見つける。人外から人外を伝って、とうとうパイカは鹿奔宜ヒルズ近辺にいるオルバーに
「そんなことができるのかよ。すげえな」
バクが感心してみせると、ハイエナは少しだけ
「俺もパイカのようなケースは他に知らない。
一帯には飲食店や商店がたくさんあって、鹿奔宜ヒルズの一階と二階も商業施設になっている。三階から二十階までがマンションだ。裏手にマンションのエントランスがあって、居住者はそこから出入りする。地下の駐車場は居住者専用のようだ。
ワラビーは鹿奔宜ヒルズから百五十メートルほど行きすぎた路側帯で、ワンボックスカーを停車させた。その瞬間、ハイエナの腕の中で
「着いた?」
「ああ」
ハイエナが短く応じた。萌日花は器用に体をねじってハイエナの腕から抜けだし、三列目席に置いてあった荷物の中からタオルを取った。そのタオルで、傷だらけの顔をごしごし拭いている。なかなか容赦ない拭き方だ。
「……痛くないの?」
「痛い」
「萌日花は休んでたほうが」
「余計なお世話」
萌日花はタオルを座席に放った。
「戦士の
ハイエナが振り向いてにやりと笑った。
「ヒタキの言うとおり、休んでていいんだぞ」
「動けるし」
萌日花は即座に言い返した。
「休む必要なんてない。あとで蹴ってもいいんだよね?」
「生きてるのかよ、それ……」
「隊長を蹴っ飛ばすくらいしないと、気がすまない」
「まあせいぜい、お手柔らかにな」
「やだ。思いっきり飛び蹴りしたい」
「……あとでだぞ。ぎっくり腰にでもなったらたまらん」
飛たちは車を降りて、徒歩で鹿奔宜ヒルズ方面へと向かった。
歩道の右手は緑豊かな公園の生け垣で、左手の車道を渡った先にはこぎれいな店が並んでいる。公園の先が鹿奔宜ヒルズだ。
「よくやるぜ……」
バクがため息をつくようにファスナーを開いた。
萌日花がふらついて、とっさにハイエナが彼女の腕を
「平気。これくらい。……もう一回、探ってみる」
「またやるってのか?」
「オルバーはそばにいる。さっきほどきつくない」
「だめだ。許可できん」
「私、感じたの。オルバーは
「あのな、萌日花……」
ハイエナが帽子を軽く手で押さえると、その背中から何かが飛び立った。
蜂だ。スズメバチにしても大きい。それに、真っ黒だ。ハイエナの背中だけじゃなくて、他の場所にも潜んでいたのか。何匹もいる。車にもくっついていたのかもしれない。
言うまでもなく、本物の蜂じゃない。ハイエナの人外だ。ニセバチたちが鈍い
「少しは俺にも仕事をさせろ。狭い範囲の偵察とか捜索なら、こいつらの得意分野だ」
「……ごめん、隊長」
萌日花はうなだれた。
「私は冷静じゃなかった」
「そんなこともあるさ」
ハイエナが右手を持ち上げて合図すると、ニセバチたちが四方八方に散った。ハイエナは萌日花に尋ねた。
「目星はついてるか?」
「オルバーは警戒して、一箇所にとどまってない。移動してる。プレートか何かの
「フム……」
バクが身をよじった。何らかの身振りをしているつもりらしい。飛が思うに、人間でいったら顎をつまむような。
「意外と呼んだら出てきたりするんじゃね? オレらが味方だってことは当然、わかってるわけだしよォ」
バックパックの言うことにも一理ある。
「オォイッ!」
バクに止められた。
「飛ッ、おまえが叫んだら人間たちがびっくりして、騒ぎになっちまいかねねえぞッ」
「……あ。そっか」
「ここはオレの出番だ! オレの声なら、人外か、おまえらみたいな人外視者にしか聞こえねえわけだからな!」
「バクって、ときどき飛より賢いよね」
「違うな! オレは常に飛より賢いんだぜ!」
バクは調子に乗ってファスナーを大きく開き、声を張り上げた。
「オオオオオオォォォォォォォーイ……! オルバァァァァーッ! 迎えにきたぞ、オレらはここだ! 出てこォォォーい……ッッッ!」
飛は耳をふさいだ。
「……声、でかっ」
「ウオオオオォォォォォーイィィィィ! オオオォォォールヴァアアァァァーッ……!」
「ヴァーって……」
発音の仕方が少々違うような。
「おっ──」
ハイエナが目をすがめた。
公園の生け垣が揺れ動いて、そこから細長い獣が飛びだしてきた。
いいや、獣なんかじゃない。
飛は中腰になって右手を差しのべた。イタチのように細長いオルバーは、飛の右腕を駆け上がって首を回りこみ、左肩の上にちょこんと座った。
「ヘヘッ。オレの声がしっかり届いたみてえだな、オルバー!」
バクに答えて、オルバーが、きゅっ、という感じの小さな声を出した。
飛は胸を
ハイエナが帽子を
「……何だかんだで、妙にしぶといやつだ」
「ふぅ……」
萌日花は地べたにぺたんと座りこんでしまった。オルバーをちゃんと発見できて、気が抜けたのかもしれない。
何にせよ、今のところ、オルバーの主は生きている。
飛は公園の先にそびえ立つ二十階建ての
オルバーがぐっと首を伸ばして鹿奔宜ヒルズに視線を向けている。
ひょっとして、
「今すぐ突入するってわけには、さすがにな」
ハイエナも
「何か手を考えるか──」