カワウソはどこかにいる。

 あたりまえだ。

 こうして息をしているからには、生きている。生きている以上、地球上のどこかには存在している。

 地球外ということはないはずだ。じつは、生きていない。死後の世界にいる。その可能性もないとは言いきれないが、とりあえず考慮しなくていいだろう。死んでしまっているなら、カワウソにできることはもう、たぶん何もない。

 目隠しをされている。アイマスクだ。なんとかずらそうとしてみたが、無理だった。おかげで何も見えない。

 おそらく裸だ。ぜんぶ脱がされたようで、下着すらつけていない。

 後ろ手に、結束バンドか何かで両手首を縛られている。左右の足首もだ。

 カワウソは狭苦しい場所に座らされている。尻や腕、背中、足裏の感触からして、きっと浴槽だろう。立とうとしてみたが、ひもか、もしくはテープのたぐいなのか、邪魔なものがあって不可能だった。座っているしかない。

 どれくらい気を失っていたのか。定かじゃないが、目が覚めるとこの状態だった。ずっと座っているのもつらいけれど、ヘッドホンで耳をふさがれているだけならともかく、やかましい音楽を爆音でいやおうなく聞かされつづけているのも、けっこうきつい。ジャンルはロックか。激しい。聞き覚えのある曲が流れると、一瞬、おっ、と思う。有名な映画の主題歌で、わりと好きな曲だったりすることもあるが、すぐ嫌いになってしまう。音量がとにかく大きすぎて、耳が痛いし、脳が疲れる。

 口は自由だ。しゃべってみると、自分の声はどうにか聞こえる。それだけだ。

 ここはどこなのか。

 どこだ。

 どこですか。

 今は何時頃なのだろう。

 あれから何時間ったんでしょうか。

 誰か。

 誰か教えてくれないか。

 誰か!

 誰がこんなことを。

 こんなむごいことを……。

 拉致だ。これは立派な拉致監禁じゃないか。犯罪だ。警察に逮捕される。そういう行為だ。通報してやる。できるものなら。

 できないわけだけど。

 カワウソは声を出しているのか。

 頭の中で考えているだけなのだろうか。

 自分でもよくわからない。

 なんとなく、声を出していたほうが少しだけ楽なような気がする。ほんの少しだ。たいして変わらない。音楽がうるさい。うるさすぎる。

 音楽。曲。そうか。一曲あたり三分半から、長くても五分といったところだろう。曲数を数えていれば、時間の経過をだいたい把握できるんじゃないか。

 できない。無理だって。あまりにもうるさすぎる。頭がおかしくなりそうだ。もうおかしくなっているのかもしれない。

 拉致監禁。

 またか。また捕まった。

 何をやっているんだ。

 馬鹿じゃないのか。まんまと同じ過ちを繰り返してしまった。馬鹿だ。馬鹿以外の何物でもない。

 ぼり

 ユキ。

 オーメン。

 あいよし

 ヒデヨシ。

 ファットマン。

 またあいつらだ。

 うっわ。

 かっこ悪っ。

 最悪。

 恥っずかしっ。

 それ以上に、面目ない……。

 穴があったら入りたい。こんな浴槽じゃなくて、ちゃんとした穴に入りたい。

「──穴がどうしたって?」

 急に爆音がやんで、代わりに男の声が聞こえた。ヘッドホンを外されたらしい。

「お楽しみの時間だ。口にあてるぞ」

 やや聞こえづらいのは、あの爆音のせいで耳がやられているのだろう。

 あいか。

「いいな」

 これは、愛田よしの声だ。

「吸え」

 カワウソの唇に、ストローのようなものがあてがわれた。何だ、これは。あからさまにあやしい。もっとも、この状態だ。変なものを飲ませるつもりなら、とうにやっているのではないか。

 カワウソは思いきってストローをくわえ、吸いこんだ。

 これは──ゼリー、だろうか。

……っ……

 おそらく、ゼリータイプの栄養補助食品だ。甘くて、少し酸味がある。

 めちゃくちゃうまい。

 カワウソはゼリーを吸った。強く吸ってもゼリーが出なくなって、変な音がするようになるまで、吸いまくった。

 これで終わりか。終わりだ。ものすごく残念に感じているカワウソがいた。かなり喉が渇いていて、空腹でもあったということだ。気絶してから、それなりに時間がっているのだろう。

 ストローがカワウソの口から離れた。

「ここは──」

 カワウソは首を巡らせてみた。どうせ見えないのだが、何か感じないか。感じない。

「どこだ?」

「勝手に口を開くな」

 頭を小突かれた。拳じゃない。もっと硬い物だ。トンカチか何かだろうか。

「おまえは俺がいたことに答えるだけでいい。わかったか?」

 カワウソがうなずいてみせると、愛田はかすかに笑った。

「俺が誰だかわかるか?」

「……ああ」

「俺もおまえを知ってるぞ。特定事案対策室。特案の犬だな」

「おれは犬じゃない」

「イエスかノーで答えろ。おまえは特案だな」

「そうだ」

「何年も前に、俺と会ったことがある」

「ああ」

「チラッと見ただけで、気になった。思いだしたのは俺じゃないが」

「あんたじゃなきゃ、誰が──」

 また鈍器で頭を殴られた。なかなかいい音がした。でも、あいはその鈍器を軽く振るっただけだ。本気で殴られたら、頭蓋骨が折れるかもしれない。

「質問は俺がする。わかったか?」

「……わかった」

「特案は今、何をしてる」

うそを……ついた」

「何?」

「……さっき、おれは、嘘を」

「俺に、嘘を?」

「ああ」

「死にてえのか?」

「ノーだ」

「じゃあ、嘘じゃない、本当のこととやらを言え」

「おれは特案だった。辞めたんだ。あんたらに……同僚を、殺されて。心が折れて。ドロップアウトってやつだよ」

「それで、かいえいがくえんの守衛に、か」

「ああ」

「前歴は用務員だな。中学校の。この前、うちに編入してきたおとぎりとびが在籍してた学校だ。偶然か?」

「転職は、考えてて。ずっと……」

「俺は、偶然か、といたんだ」

「イエスだ」

はいざきいつ

 愛田は鈍器でこつこつとカワウソの頭頂部あたりをたたいた。

「拷問みてえなことはな、俺としちゃあ、やりたくはねえ」

「……奇遇だな。おれもされたくない」

「やりたくもねえことをさせられるのが、何より我慢ならねえんだよ、俺は」

 愛田が鈍器を振りかぶる。そんな姿が脳裏をよぎって、カワウソは身を硬くした。

 来る。

 カワウソは頭をかち割られて、浴槽に脳みそがぶちまけられる。

 そのためか。だから浴槽なのか。汚してもいいように。掃除しやすいから。

 まだか。

 わきの下にびっしょりと汗をかいている。

 やらないのか。

「おまえがどう思ってるのか知らねえが、俺は野蛮な男じゃねえ」

 あいはカワウソの頭じゃなく、浴槽の縁に鈍器をかつかつと打ちつけた。

「これからおまえに話をしてやる。きっと、おまえが知りたい話だ。聞きたいかどうかはわからねえが」

「……話?」

「あの女の話だよ」

「……あの、女」

「まさか、忘れたのか? 女って言ったら、あいつだろ。おまえを助けにきた女だよ」

「……先輩……」

「あの女のせいで、おまえには逃げられた。おまえのせいで、あの女はくたばっちまったがなぁ」

「……そんっ……な──」

「どうだ? 興味が湧いてきたか? きれいさっぱり処理してやったし、あの女がどうやって死んだのか、おまえも知らねえはずだ」

「知っ……」

「おっと。答えはイエスかノーだ。あの女の死に様を、おまえは知ってるのか?」

 カワウソが思わず首を左右に振ると、愛田は浴槽の、たぶん外側を鈍器で何度も打った。がんがんがんと、手をたたくように。

「知りたいよな? イェース? オア、ノォー?」

「……イ……イエス……」

「だよなぁ? あの女が地べたにいつくばって、どんなふうに命乞いしやがったのか。最後の最後に、俺の前でどれだけみっともねえ醜態をさらしたか。おまえは知っておくべきだし、知りたくてたまらねえだろ?」

「し、しないっ、先輩は、そんなことっ……」

「なんでそう言える? おまえは見てねえだろ? 俺はこの目で見たぜ。あの女の哀願する声を、この耳で聞いた。動画でも撮っときゃよかったなぁ。証拠を残すわけにはいかなかったからよ。でも、撮っとくべきだったな。しくったぜ」

 愛田が何らかの物体を移動させている。椅子だろうか。どうやら、それに座った。

 長い話になる。そういうことか。

「こいつは、もしかしたら、だが……俺がおまえに話すことは、ありのままの事実ってわけじゃあねえかもな。興が乗ってよぉ、俺はいくらか盛って話しちまうかもしれねえ。おおに感じて、そんなのはうそっぱちだと、おまえは思うかもな? 何せ、見てねえからよ。俺の話をどう受けとろうが、おまえの自由だ。ただし、いずれにせよ──」

 カワウソは深呼吸をしようとした。心臓の鼓動は制御できないが、息を吸うのも、吐くのも、自分次第だ。そのはずなのに、どうしてこんなにも呼吸が狭く、荒いのか。

「俺の話を聞いちまったら、忘れるのは難しいかもな? 俺の話は、おまえの頭にこびりついて消えねえだろうよ。おまえがいくらうそだと思おうとしても、あの女が世にも情けねえ声で、どうか許してください、死にたくないんです、何でもします、何でも、だから、命だけは、頼みますから……って涙を流して頼みこむ姿が、折に触れて、どうしてもちらつくだろうなぁ」

「……や……やめろ。やめてくれ……」

「いいぜ?」

 あいは鈍器で浴槽の縁を強めにたたいた。

「俺も鬼じゃねえ。おまえが洗いざらい吐くなら、あの女の件は俺の胸に鍵をかけてしまっといてやってもいい。ただ、俺の代わりにおまえが話すだけだ。簡単だろ?」

 カワウソはついうなずきそうになった。違う。

 今のは、そうじゃない。取引に応じようとしたのではなく、簡単だ、という点に同意しようとしただけだ。

 たしかに、難しくはない。話すだけでいいのだ。任務のことを、何もかも。問題があるだろうか?

 ないわけがない。かいえいがくえんに潜入しているのは、カワウソだけじゃないのだ。サラマンダーとずっきゅんはともかく、パイカことあさがいる。ヒタキことおとぎりとびに至っては、選抜クラスの一員にまでなった。

 もっとも、ハイエナは当然、カワウソが敵の手に落ちた可能性を考えているはずだ。どこかの段階で、撤収の判断をするだろう。パイカとヒタキも学園を去る。カワウソのせいで、任務失敗だ。けれども、ハイエナのことだから、パイカとヒタキはちゃんと逃がしてくれる。

 どのみちカワウソは終わりだ。助からない。

 カワウソが情報を吐かなかったとしても、この任務はおそらくうまくいかないだろう。

 話しても、話さなくても、さして変わらないのではないか。

 だとしたら、話してもいい。話せば、聞かなくてすむ。先輩の最期を知らずにいられる。

「さあ」

 愛田が笑いながら鈍器で浴槽を叩く。

「どうする?」