
部屋の明かりはずいぶん前に消した。真っ暗じゃない。白っぽい光がレースのカーテン越しに
龍子はパジャマを着てベッドの上で
「わたし……なんだか、おかしいのかもしれない」
チヌラーシャがもふもふした毛を龍子の右
「
スマホを握る両手に力がこもった。飛に連絡しよう。話したい。こんなことを相談できるとしたら、飛だけだ。飛にしか打ち明けられない。チヌが角で龍子の右頬をつつく。
「ぃゅーょぁー」
「……わかったから」
龍子は左手でスマホを持ったまま、右手でチヌを
本当にわかっているのだろうか。龍子は首を動かさずに横目でチヌを見た。チヌは口を開けていない。ほっとした。
こんなことは話さないほうがいい。ちゃんと説明できる自信もない。何をどう話せばいいのか。理解してもらえるのか。正直なところ、
また両手でスマホを握った。龍子から飛に連絡することはない。したくても、できない。話したいけれど、やっぱり話せない。でも、飛がまた電話してきてくれたら、どうか。
話してしまうかもしれない。うまく言えないけれど、何か変なのだと。おかしなことが起きているような気がしてしょうがないのだと。そうしたら、飛はきっと気にかけてくれる。知らん顔をすることはないはずだ。迷惑をかけたくはない。しかし、本音を言うことが許されるのなら、心配して欲しい。
先週の金曜日、飛は電話で、また連絡するから、と龍子に言った。また連絡する。決まり文句のようなものだ。いつかまた連絡してくれるかもしれない。そのまたがいつかはわからない。ところが、飛は日曜日に電話をくれたのだ。また連絡するから。あれは決まり文句なんかじゃなかった。飛は本気だったのだ。

「ぇぅー。にぃー。ゎゅー。きゅぁー」
チヌが鳴いている。やわらかな毛に覆われた体を、それから角を、しきりと
以前は素直にそう信じられた。チヌの感情や考えを、龍子は簡単に察することができた。龍子とチヌは通じあっていた。
「……もとはと言えば、チヌのせいなんだよ?」
「ぁぇー?」
ちらりとチヌを見た。チヌが口を開けていて、そこから小さな龍子が顔を出している。そんな気がしたのだ。
「もう……」
チヌは口を開けていなかった。龍子は目をつぶった。
「ずっと一緒なのに、どうして──」
チヌはずっと一緒にいてくれた。龍子にとって、とても大切な存在だ。ずっと一緒だから。ずっと。いつからなのだろう?
はっきり覚えているのは、両親の──というより、母の葬儀のときのことだ。葬儀会場は広かった。どこかの会館に、数えきれないほどのパイプ椅子が並んでいた。まだ誰も座っていなかったし、おそらく葬儀が始まる前だ。それとも、終わったあとだろうか。その光景を龍子は覚えている。
龍子は一人じゃなかった。チヌがいた。葬儀の間、肌身離さずチヌを抱いていた。チヌラーシャ、チヌ、と呼んではいなかったと思う。当時、チヌにはまだ名前がなかった。
龍子はチヌを何だと思っていたのだろう。誰もチヌのことを指摘しなかった。祖父にせよ、祖母にせよ、それ以外の人にせよ、龍子が抱いているチヌに目をくれることもなかった。チヌは龍子にしか見えないのだ。龍子はあるとき、そう気づいたのか。それとも、知っていたのだろうか。
とにかく、母の葬儀のときはチヌがいた。葬儀だから、あれは両親が亡くなって間もなくだろう。その前は? 両親が生きていた頃は、どうだったのか?
車の事故で両親は亡くなった。家族三人でどこかに行って、その帰りに父が何らかの原因で運転操作を誤ったようだ。車がひどく破損して横転するような、大きな事故だったらしい。ただ、不幸中の幸い、ということになるのだろうか。他の車と衝突したり、歩行者を巻きこんだりすることはなかった。車と、車が激突した電柱などは壊れた。運転席の父と助手席の母は亡くなり、後部座席の龍子は奇跡的に無傷だった。
事故のことは記憶にない。それ自体はとくにめずらしいことではないという。
でも、
もちろん、何一つ覚えていないわけじゃない。やさしそうな父の顔を思い浮かべることはできる。体格のいい人ではなかった。ほっそりしていて、母と雰囲気が似ていた。
龍子は母の笑い声を覚えている。もっとも、それが本当に母の声なのか、確かめるすべはない。否定する根拠もないから、母の声だと信じている。
親子三人でアパートの一階に住んでいた。ご飯を食べたり、テレビを
木製の、果物や野菜の
『だめだよ、龍子。ね?』
両親は必ず、龍子のことを、龍子、と呼んだ。
パパ、ママじゃなくて、龍子は両親を、お父さん、お母さん、と呼んでいた。
父は母を、お母さん、母は父を、お父さん、と呼ぶことがあった。でも、お互いを呼びあうときは下の名前だった。父は母を、
両親はとても仲のいい夫婦だったと思う。そうはいっても、たまに言い合いくらいはしたのだろうか。したかもしれない。けれども、龍子は覚えていない。
三人で一緒にいた思い出しかない。
遊園地。水族館にもたぶん、行った。動物園。噴水のある公園。水遊びをした。
記憶はどれもこれも断片的だ。切れ切れどころか、ほんの一瞬を切り抜いたようなものでしかない。しかも、ピントが合っていない写真のようにぼやけている。それでいて、どれもこれもきらきらと輝いている。
「最高の──」
龍子はそっと息をついた。
「最高の、一日……」
何か思いだせそうだ。最高の一日。誰かが言う。最高の一日だなぁ、と。男の人だ。
最高の一日!
元気よく、同じことを言う。誰が?
「……わたし?」
そうだ。父によく
『今日は最高の一日だったかい?』
『最高の一日だったよ!』
『まぁ、そういう日もあるよ。でもね、龍子、
『本当に? なるかなぁ?』
『なるさ。一緒にお祈りしよう』
『お祈りしよう!』
龍子は父と一緒にお祈りをする。
「……明日は、最高の一日になりますように」
家族三人で暮らす日々は、最高の一日ばかりだったわけじゃない。でも、最高の一日が圧倒的に多かった。三人ともたいてい上機嫌だった。毎日、笑ってばかりいた。
「いろんなところに、行って──動物園……」
違う。あれは動物園じゃない。
「遊園地……ふれあいのくに……動物コーナー……」
ウサギがいた。ヤギ。ヒツジ。色々な種類の鳥がいた。車で行った。夕方に遊園地を出て、ファミリーレストランで晩ご飯を食べた。混みあっていた。席が一杯で、待たないといけなかった。待つための椅子があった。父と母に挟まれて、三人で座った。
三人だった。チヌはいなかった。少なくとも、チヌを抱いていた記憶はない。
何を食べたのだろう。そこまでは思いだせない。
車に乗った。もう暗かった。龍子は後部座席に据え付けられたチャイルドシートに座っている。両親はチャイルドシートを補助シートと呼んでいた。
両親が何か話している。龍子は眠っているものと、両親は思いこんでいる。そう思わせようとして、龍子は寝たふりをしている。
小さな音で、ラジオがかかっている。
龍子をチャイルドシートに座らせてシートベルトを締めるのは、父の役目だった。
『ちゃんと、カチャッとした?』
父はそう言ってシートベルトがちゃんと装着されているか、確認した。毎回、外しちゃだめだよ、と念を押された。
外さずに、シートベルトから抜けだすことが龍子はできた。腰のところは固定されているものの、シートベルトをずらすことで、上半身が自由になる。
どうして龍子はそんなことをしたのだろう。苦しかったのだろうか。父か母に見つかったら、だめだってば、龍子、と注意されるのに。叱られはしない。しっかりシートベルトで固定されていないと、急停止したり、事故に遭ったりしたとき、危ないから。両親に何度も丁寧に説明された。それなのに、龍子はシートベルトをずらしてしまう。
あの夜はどうだったのだろうか。
でも、龍子は寝たふりをしていた。何のために?
驚かせるため、だ。
こっそり背後から母に忍びよって、わっ、と背中を
龍子は後部座席ですっかり寝入っている。そう思わせておいて、大きな声を出すか何かすれば、きっと両親はびっくりするだろう。
ただ声を出すだけじゃない。チャイルドシートから身を乗りだして、運転席と助手席の間から顔を出すことができれば、より効果的だ。そんなふうに考えてシートベルトをずらしていたら、龍子もただではすまなかったに違いない。
龍子は寝たふりをしていただけで、シートベルトはちゃんと締めたままだった。
だから、助かった。
そうとしか思えないのに、どういうわけか、シートベルトをずらしたような気がする。
龍子は、わっ、と大声を出して、両親を驚かせようとした。
そのとき、父と母が叫んだ。──そんな気がする。
気がするだけで、はっきりしたことはわからない。わかるわけがない。
でも、チヌはいなかった。
どこかに隠れていたのだろうか?
そうかもしれない。そうじゃないのかもしれない。
「チヌ──」
龍子は目をつぶっている。
チヌが龍子の右
「いつから、チヌは──わたしのそばにいるんですか……?」
チヌは答えない。身じろぎもしない。