月曜日の学校が終わるとすぐ、龍子はひいらぎの家へと向かった。柊家の前に着くと、近くの路地から恐竜の着ぐるみのような人外が顔を出し、龍子の様子をうかがっていた。あの人外はディノで、クラゲという人間が中に入っている。特定事案対策室の人員だ。

 龍子が笑いかけると、ディノは一瞬、ぴくりと身を震わせたが、それだけだった。

 柊家のチャイムを鳴らし、しばらく待ってみた。反応がない。

 もう一度鳴らすと、程なくドアを解錠する音がした。ドアが四分の一ほど開いて、そこから柊伊都葉が姿を見せた。

「……また来たの」

 伊都葉が着ている真っ黒い服は、とこどころ鮮やかな青で彩られていた。ルリタテハのような人外ちようだ。そのはねの瑠璃色は伊都葉の髪飾りにもなっている。龍子は微笑ほほえんだ。

「こんにちは」

「……どうして。なぜ、来るの」

「声を聞かせて欲しいんです」

「……声?」

「あなたの声が聞きたいの」

 りゆうこは繰り返した。

「聞きたい。あなたの声が。聞かせてください」

 人外ちようたちはにへばりついている。わずかにはねを動かしている人外蝶もいるけれど、ほとんどの人外蝶は微動だにしない。人外蝶たちは伊都葉を守ろうとしている。龍子にはわかった。伊都葉は守られたい。かばって欲しがっている。

 伊都葉はドアをもう少し開けた。そして、ドアが閉まってしまわないように押さえたまま、あとずさりした。

「……入って」

 龍子は迷わずひいらぎ家の玄関に足を踏み入れた。家の外は荒れ果てていたが、家の中はひたすら散らかっていた。そこらじゅうに紙や布きれや衣類、道具類が散乱している。足の踏み場だけはかろうじて確保されているような有様だった。

 伊都葉は龍子をリビングに案内してくれた。リビングにはソファーと低いテーブルがあった。そのテーブルの上には無数の絵が積み重ねられていた。

 伊都葉は床にへたりこんだ。テーブルのすぐそばだった。伊都葉はいつもそこに座って絵を描いているのだろう。龍子は中腰になって一枚の絵を手にとった。その絵は切りとったノートの一ページに鉛筆とクレヨンで描かれていた。

 翅を広げているルリタテハの絵だった。触覚やしみやくまで詳細に鉛筆で描きこまれ、黒の濃淡で色がついている。瑠璃色の帯模様や白い斑点はクレヨンで表現されていた。

「すごくきれい」

 龍子が褒めると、伊都葉は頭を揺するように振った。人外蝶たちは伊都葉にしがみついている。一羽も飛び立とうとしない。

 龍子は絵をもとの場所に戻し、邪魔なものをどけて伊都葉の隣に座った。伊都葉はうつむいて、龍子を視界の外に追いやろうとしているかのように、斜め下に視線を向けている。龍子は目をつぶって耳をそばだててみた。

 何か聞こえる。でも、かすかにしか聞こえない。これは声なのだろうか。定かじゃない。

 龍子は目を開けた。

「柊さん」

「……何?」

「柊伊都葉」

「え……?」

 伊都葉は龍子のほうに顔を向けた。ずいぶん肩に力が入っている。おびえている。龍子はふと思う。わたし、何をしているんだろう。ここはどこだろう。龍子は家の中にいる。誰かの家。目の前に柊伊都葉がいる。ということは、伊都葉の家なのだろう。

 何かが古くなって発酵しているような臭いがする。いい臭いじゃないけれど、それほど不快でもない。なんだか懐かしい感じがする。

 テーブルの上には絵がある。何枚も、何枚も、描いて、描き散らした、とはとても言えない。どの絵も労力を惜しまずに描きこまれている。

 ポシェットは空っぽだ。チヌはりゆうこの右肩の上にいる。チヌは口を開けている。そこから小さな龍子が顔をのぞかせている。小さな龍子が口を開けたり閉じたりしている。何か言っている。食べたい。食べたいよ。もっと食べさせて。そうか、と龍子は思う。声が聞きたい。足りないのだ。もっと欲しい。龍子は、食べたい。の瞳が揺れている。

「……しらたまさん?」

 龍子は黙って伊都葉のまっすぐな黒い髪の毛に手をのばした。伊都葉は息をのんだ。

「っ──」

 伊都葉の全身がこわばっている。龍子はそのまま伊都葉の頭髪に指先を差し入れた。細い髪の毛だった。いくらかしっとりしていた。伊都葉の頭にしがみついている人外ちようたちが騒ぎだした。でも、伊都葉から離れようとはしない。龍子は髪の毛をかき分け、隠れていた伊都葉の耳を露出させた。身を寄せて、伊都葉の耳に唇を近づけた。

「聞かせて。あなたの声を」

「ふっ……」

 伊都葉が首をすくめて目を閉じると、ついに一羽の人外蝶が飛び立った。その人外蝶は伊都葉の頭頂部近くにとどまっていた。そこから飛び離れて、ふらふらと舞った。

 龍子は伊都葉の髪の毛をさわっていた手を一度引っこめた。そして、その人外蝶に向かってそっと持ち上げた。

 伊都葉も人外蝶を見上げている。

「……何か、いるの?」

 龍子が差しだした手の甲に、人外蝶が降り立とうとしている。降下してははねを動かして上昇し、また降りて、浮き上がる。龍子が言う。

「本当はもう、わかっているでしょう? あなたの、ちょうちょ。飛んでいる」

「……私の、ちょうちょ」

「ほら。ここにいる」

 人外蝶が龍子の手の甲に着地した。翅を閉じずに、ゆったりと上下させている。

 龍子は人外蝶が止まっている手の甲を伊都葉の鼻先に持っていった。

「あなたの、ちょうちょ。あなたの、声」

「声? 私の……?」

「聞いてもいい?」

「私の……聞いて……私の……声……」

 は今にもりゆうこの手の甲に口づけしそうだ。それくらい伊都葉は龍子の手に接近している。龍子も自分の手に顔を寄せた。人外ちようはねを動かすのをめた。

「聞かせて」

 どうすればいいのかはわかっていた。だから、龍子はそうした。吸いこむようにして、人外蝶を口に含んだ。伊都葉が両目をみはった。声だ。聞こえる。声が、はっきりと。


 ──ルカナ。

 ルカナ。食べちゃいたかったって、ルカナが。私のことを、食べたかったって。ルカナは私を食べたかった。私を認めてくれた、ルカナが。みんなに変だと思われて、ほとんど無視されて、無価値だった私のことを、ルカナだけは。私、生きてていいんだ。そう思った。好きなように絵を描いてもいいんだ。ルリタテハみたいな服を着ててもいいんだ。ルカナは私と友だちだってことを隠したがっていた。苦しかった。それでもよかった。

 どうして? 私、なんで、コガネザワくんなんかのことで、ルカナとけんしちゃったんだろう? コガネザワ? コガレザワ? どっちだっていい。あのコガ何とかは、公園で私に話しかけてきた。私は蝶を探していた。何なんだろう、この人。そう思った。邪魔しないで欲しい。だけど、コガ何とかは蝶やについて詳しかった。いいところの子だった。私とはぜんぜん違っていた。

 春休みや夏休みには、高原とか湿地とか森なんかに連れていってもらえるんだって。私は小学生になったとき一回だけ家族旅行をして、温泉に入っただけなのに。熱くて、とても入ってられなくて、出たいと言ったらお母さんに怒られて。ゆっくり温泉も入れないなんて、最悪だって。それが唯一の思い出。熱い温泉。お母さんにとって、私は最悪の娘。

 あのコガ何とかは、高校生になったらアルバイトしてお金を稼いで、一人でどこかに行くとか言っていた。私は思った。その手があったかって。私も高校生になったらアルバイトしよう。お金を稼ごう。コガ何とか、ありがとう。あなたみたいな恵まれた子に偉そうな顔をされて、私はとっても嫌な気分だけど、ずっとこうじゃない。変われるかもしれないんだ。さなぎが蝶に完全変態するみたいに、ひょっとしたら、私だって。

 違うの。ルカナ。違う。私、コガ何とかのことなんて好きじゃなかった。好きでも何でもなかった。そうじゃないの。ルカナがコガ何とかと付き合うのが、嫌だったの。嫉妬したんじゃない。私、ルカナに嫉妬したんじゃないの。コガ何とかが妬ましかったの。私が好きだったのは、コガ何とかじゃない。ルカナ。ルカナ。ルカナ。私はルカナが好き。言えなかった。そんなこと、私には言えなかったの。

 だって、私は変人扱いされていたし。ルカナは私を評価して、認めてくれていたけど、人前ではそうじゃなかったし。私なんかどこにもいないみたいに私を無視して。でも、二人きりのとき、ルカナはやさしくて、私のそばにいてくれて、私はうれしくて、そんなルカナが好きで、大好きで。だけど、ルカナは私と一緒にいるところを、誰にも見られたくないの。私なんかと友だちだなんて、誰にも知られたくないの。ルカナは私のことが恥ずかしいの。そう思うと、私は胸が痛くなって、情けなくて、悲しくて、消えたくなって、消えてしまったら、ルカナに会えなくなっちゃうから、消えるわけにはいかないんだって、私は自分に言い聞かせて。

 私は変わりたかった。ルカナが好きだから、変わりたい。私は、ルカナに恥ずかしいと思われない、自分になりたい。だけど、もう手遅れなの。ルカナは私の前から消えちゃったの。同じ学校に通っているのに、ルカナはいない。きっと、戻ってくることはないの。私はルカナを失った。ルカナ。好き。ずっと好きだったよ。好きだったんだよ。忘れたことなんかなかったよ。でも、忘れようとしたよ。忘れたかったよ。どうせ、この気持ちは隠しておかないと。誰にも言えない。秘密にするしかない。

 私はちようにはなれないの。

 だから、せみになる。成虫じゃなくて、蝉の幼虫になるの。私は地中でずっと過ごすの。土の中に埋まっているの。蝉の幼虫は、ほとんどが食べられてしまうの。私もきっとそうなの。幼虫のままいつか食べられて、それでおしまい。いいの。私はそれで。羽化して成虫になれなくたっていい。私、変わりたい。でも、私は変われないの。ルカナ。私、知らなかった。ルカナが私に言ったの。

『そっかぁ、わかったぁ、そうだったんだぁ! あたし、ずぅーっと! イトハ! あんたを食べちゃいたかった! あんたはあたしのものになるの! あんたなんか、あたしに食べられて! あたしの一部になっちゃえばいい……!』

 そう言ったの。ルカナが、私を、食べたいって。ぜんぶ私のせいだって。ルカナを一人にした、私が悪いって。

『親友だと思ってたのに!』

 ルカナに、そう言われたの。親友だったんだ。私が、ルカナの親友。それなのに、ルカナは私のことが恥ずかしかったんだ。きっと、お母さんにも最悪の娘だと思われるような、私だから。

 でも、ルカナは出会ったんだって。すばらしい人と。天使みたいな、神様みたいな人との出会いがあったんだって。ルカナにとって、その人は神様以上なんだって。ルカナはその人の役に立ちたいんだって。その人の願いをかなえるための力になりたいんだって。その人のためなら何でもするんだって。ルカナはその人に褒めてもらいたいんだって。神様以上のその人に、愛してもらうために。だから、私のことはもう、どうでもいいんだって。

 聞きたくなかった。ルカナは私の前から消えてしまったの。私の中からも消えたの。それでよかったの。私は土の中に埋まっていたかった。ルカナが好き。この気持ちを、私の思い、私のすべてを、完全に埋めてしまって、なかったことにしたかったのに。

 私はあんなに傷ついて、ルカナのことも傷つけた。許して。お願いだから、ルカナ、私を許して。食べてもいいから。私のことを、食べてしまってもいいから。それで私を許してくれるなら。ルカナの気がすむなら。何もかもなかったことにできるなら。ルカナ。いっそ、私のことを食べてしまって──


 声だ。声が聞こえる。こだましている。胸が一杯で、目がちかちかする。りゆうこが言う。

「食べさせて」

 龍子は右肩の上を見る。チヌがいる。チヌの口の中から小さな龍子が顔を出している。

「食べさせて」

 小さな龍子が言っている。

「龍子。食べたい」

 そうしたい、と龍子は思う。切望してさえいる。

 ひいらぎと目が合った。伊都葉は十センチと離れていないところにいる。伊都葉は何を思っているのか。何か感じているのか。わからない。ほおくちもとがだらりと緩み、唇が少し開いている。生気がない。伊都葉はただこちらを見ているだけで、目が合ってなどいないのかもしれない。

 口の中で何かが暴れている。外に出たがっている。龍子はそれを吐きだした。

 一羽の人外ちようだった。

 人外蝶はひらひらと床に落ちた。小刻みに震えている。はねが動いた。羽ばたいて、飛び上がった。

「……わたしは、何を……」

 やがて人外蝶は伊都葉の髪の毛に止まった。

 伊都葉のうつろなまなしはまだ龍子に注がれている。

ぅー……

 右肩の上で、チヌがうなり声のような音を発した。龍子はチヌを両手でつかまえ、ポシェットの中に押しこめた。伊都葉が龍子のポシェットに目を落とした。

「それは……?」

 龍子は伊都葉の問いには答えずに立ち上がった。

「ごめんなさい、わたし……今日は、帰ります」

 伊都葉もゆっくりと立った。龍子が玄関で靴を履いている間も、伊都葉はポシェットを見ていた。龍子は自分でドアの内鍵を外した。

「また来てもいいですか」

 自分がなぜそんなことを言ったのか、龍子にはわからなかった。まるで龍子自身の言葉じゃないみたいだった。伊都葉はうなずいた。

 りゆうこが外に出てドアを閉じるまで、はポシェットから目を離さなかった。そこに何が入っているのか、知っているかのようだった。

 龍子は後ろ歩きでひいらぎ家から遠ざかった。車道の手前で方向転換すると、その先の路地から恐竜の着ぐるみが首を出していた。

 あれは着ぐるみじゃない。もちろん、恐竜でもない。

 龍子はディノに背を向けた。走って逃げたかった。それなのに、龍子は歩いていた。何事もなかったとでも言いたげに、やけにゆったりとした足どりだった。