
月曜日の学校が終わるとすぐ、龍子は
龍子が笑いかけると、ディノは一瞬、ぴくりと身を震わせたが、それだけだった。
柊家のチャイムを鳴らし、しばらく待ってみた。反応がない。
もう一度鳴らすと、程なくドアを解錠する音がした。ドアが四分の一ほど開いて、そこから柊伊都葉が姿を見せた。
「……また来たの」
伊都葉が着ている真っ黒い服は、とこどころ鮮やかな青で彩られていた。ルリタテハのような人外
「こんにちは」
「……どうして。なぜ、来るの」
「声を聞かせて欲しいんです」
「……声?」
「あなたの声が聞きたいの」
「聞きたい。あなたの声が。聞かせてください」
人外
伊都葉はドアをもう少し開けた。そして、ドアが閉まってしまわないように押さえたまま、あとずさりした。
「……入って」
龍子は迷わず
伊都葉は龍子をリビングに案内してくれた。リビングにはソファーと低いテーブルがあった。そのテーブルの上には無数の絵が積み重ねられていた。
伊都葉は床にへたりこんだ。テーブルのすぐそばだった。伊都葉はいつもそこに座って絵を描いているのだろう。龍子は中腰になって一枚の絵を手にとった。その絵は切りとったノートの一ページに鉛筆とクレヨンで描かれていた。
翅を広げているルリタテハの絵だった。触覚や
「すごくきれい」
龍子が褒めると、伊都葉は頭を揺するように振った。人外蝶たちは伊都葉にしがみついている。一羽も飛び立とうとしない。
龍子は絵をもとの場所に戻し、邪魔なものをどけて伊都葉の隣に座った。伊都葉はうつむいて、龍子を視界の外に追いやろうとしているかのように、斜め下に視線を向けている。龍子は目をつぶって耳をそばだててみた。
何か聞こえる。でも、
龍子は目を開けた。
「柊さん」
「……何?」
「柊伊都葉」
「え……?」
伊都葉は龍子のほうに顔を向けた。ずいぶん肩に力が入っている。
何かが古くなって発酵しているような臭いがする。いい臭いじゃないけれど、それほど不快でもない。なんだか懐かしい感じがする。
テーブルの上には絵がある。何枚も、何枚も、描いて、描き散らした、とはとても言えない。どの絵も労力を惜しまずに描きこまれている。
ポシェットは空っぽだ。チヌは
「……
龍子は黙って伊都葉のまっすぐな黒い髪の毛に手をのばした。伊都葉は息をのんだ。
「っ──」
伊都葉の全身がこわばっている。龍子はそのまま伊都葉の頭髪に指先を差し入れた。細い髪の毛だった。いくらかしっとりしていた。伊都葉の頭にしがみついている人外
「聞かせて。あなたの声を」
「ふっ……」
伊都葉が首をすくめて目を閉じると、ついに一羽の人外蝶が飛び立った。その人外蝶は伊都葉の頭頂部近くに
龍子は伊都葉の髪の毛をさわっていた手を一度引っこめた。そして、その人外蝶に向かってそっと持ち上げた。
伊都葉も人外蝶を見上げている。
「……何か、いるの?」
龍子が差しだした手の甲に、人外蝶が降り立とうとしている。降下しては
「本当はもう、わかっているでしょう? あなたの、ちょうちょ。飛んでいる」
「……私の、ちょうちょ」
「ほら。ここにいる」
人外蝶が龍子の手の甲に着地した。翅を閉じずに、ゆったりと上下させている。
龍子は人外蝶が止まっている手の甲を伊都葉の鼻先に持っていった。
「あなたの、ちょうちょ。あなたの、声」
「声? 私の……?」
「聞いてもいい?」
「私の……聞いて……私の……声……」
「聞かせて」
どうすればいいのかはわかっていた。だから、龍子はそうした。吸いこむようにして、人外蝶を口に含んだ。伊都葉が両目を
──ルカナ。
ルカナ。食べちゃいたかったって、ルカナが。私のことを、食べたかったって。ルカナは私を食べたかった。私を認めてくれた、ルカナが。みんなに変だと思われて、ほとんど無視されて、無価値だった私のことを、ルカナだけは。私、生きてていいんだ。そう思った。好きなように絵を描いてもいいんだ。ルリタテハみたいな服を着ててもいいんだ。ルカナは私と友だちだってことを隠したがっていた。苦しかった。それでもよかった。
どうして? 私、なんで、コガネザワくんなんかのことで、ルカナと
春休みや夏休みには、高原とか湿地とか森なんかに連れていってもらえるんだって。私は小学生になったとき一回だけ家族旅行をして、温泉に入っただけなのに。熱くて、とても入ってられなくて、出たいと言ったらお母さんに怒られて。ゆっくり温泉も入れないなんて、最悪だって。それが唯一の思い出。熱い温泉。お母さんにとって、私は最悪の娘。
あのコガ何とかは、高校生になったらアルバイトしてお金を稼いで、一人でどこかに行くとか言っていた。私は思った。その手があったかって。私も高校生になったらアルバイトしよう。お金を稼ごう。コガ何とか、ありがとう。あなたみたいな恵まれた子に偉そうな顔をされて、私はとっても嫌な気分だけど、ずっとこうじゃない。変われるかもしれないんだ。
違うの。ルカナ。違う。私、コガ何とかのことなんて好きじゃなかった。好きでも何でもなかった。そうじゃないの。ルカナがコガ何とかと付き合うのが、嫌だったの。嫉妬したんじゃない。私、ルカナに嫉妬したんじゃないの。コガ何とかが妬ましかったの。私が好きだったのは、コガ何とかじゃない。ルカナ。ルカナ。ルカナ。私はルカナが好き。言えなかった。そんなこと、私には言えなかったの。
だって、私は変人扱いされていたし。ルカナは私を評価して、認めてくれていたけど、人前ではそうじゃなかったし。私なんかどこにもいないみたいに私を無視して。でも、二人きりのとき、ルカナはやさしくて、私のそばにいてくれて、私は
私は変わりたかった。ルカナが好きだから、変わりたい。私は、ルカナに恥ずかしいと思われない、自分になりたい。だけど、もう手遅れなの。ルカナは私の前から消えちゃったの。同じ学校に通っているのに、ルカナはいない。きっと、戻ってくることはないの。私はルカナを失った。ルカナ。好き。ずっと好きだったよ。好きだったんだよ。忘れたことなんかなかったよ。でも、忘れようとしたよ。忘れたかったよ。どうせ、この気持ちは隠しておかないと。誰にも言えない。秘密にするしかない。
私は
だから、
『そっかぁ、わかったぁ、そうだったんだぁ! あたし、ずぅーっと! イトハ! あんたを食べちゃいたかった! あんたはあたしのものになるの! あんたなんか、あたしに食べられて! あたしの一部になっちゃえばいい……!』
そう言ったの。ルカナが、私を、食べたいって。ぜんぶ私のせいだって。ルカナを一人にした、私が悪いって。
『親友だと思ってたのに!』
ルカナに、そう言われたの。親友だったんだ。私が、ルカナの親友。それなのに、ルカナは私のことが恥ずかしかったんだ。きっと、お母さんにも最悪の娘だと思われるような、私だから。
でも、ルカナは出会ったんだって。すばらしい人と。天使みたいな、神様みたいな人との出会いがあったんだって。ルカナにとって、その人は神様以上なんだって。ルカナはその人の役に立ちたいんだって。その人の願いを
聞きたくなかった。ルカナは私の前から消えてしまったの。私の中からも消えたの。それでよかったの。私は土の中に埋まっていたかった。ルカナが好き。この気持ちを、私の思い、私のすべてを、完全に埋めてしまって、なかったことにしたかったのに。
私はあんなに傷ついて、ルカナのことも傷つけた。許して。お願いだから、ルカナ、私を許して。食べてもいいから。私のことを、食べてしまってもいいから。それで私を許してくれるなら。ルカナの気がすむなら。何もかもなかったことにできるなら。ルカナ。いっそ、私のことを食べてしまって──
声だ。声が聞こえる。こだましている。胸が一杯で、目がちかちかする。
「食べさせて」
龍子は右肩の上を見る。チヌがいる。チヌの口の中から小さな龍子が顔を出している。
「食べさせて」
小さな龍子が言っている。
「龍子。食べたい」
そうしたい、と龍子は思う。切望してさえいる。
口の中で何かが暴れている。外に出たがっている。龍子はそれを吐きだした。
一羽の人外
人外蝶はひらひらと床に落ちた。小刻みに震えている。
「……わたしは、何を……」
やがて人外蝶は伊都葉の髪の毛に止まった。
伊都葉の
「ぅー……」
右肩の上で、チヌが
「それは……?」
龍子は伊都葉の問いには答えずに立ち上がった。
「ごめんなさい、わたし……今日は、帰ります」
伊都葉もゆっくりと立った。龍子が玄関で靴を履いている間も、伊都葉はポシェットを見ていた。龍子は自分でドアの内鍵を外した。
「また来てもいいですか」
自分がなぜそんなことを言ったのか、龍子にはわからなかった。まるで龍子自身の言葉じゃないみたいだった。伊都葉はうなずいた。
龍子は後ろ歩きで
あれは着ぐるみじゃない。もちろん、恐竜でもない。
龍子はディノに背を向けた。走って逃げたかった。それなのに、龍子は歩いていた。何事もなかったとでも言いたげに、やけにゆったりとした足どりだった。