
「……誰の?」
龍子は立ち止まった。考えてみる。見舞い。お見舞いだ。そのために家を出た。日曜日。そう。今日は日曜だ。日曜に家を出た。お見舞いに行こうと。
右
チヌはもふもふした白い毛に覆われていて、角が生えている。チヌの角は硬くない。かといって、ふにゃふにゃしているわけでもない。チヌがその角を龍子の右頬に押しあてている。ポシェットは空っぽだ。チヌは龍子の右肩の上にいる。いつの間に。
龍子は下を向いた。白い服を着ている。ワンピースだ。誰がこの服を選んだのだろう。祖母のわけがない。自分で選んだに決まっている。そのはずだ。
ここはどこだろう。廊下だ。病院の。窓がある。二階だろうか。それとも、三階?
「お見舞い……」
龍子はまたうつむいた。
「
ここは
日曜だからか、この廊下はひとけがない。平日でも似たようなものだっただろうか。
龍子は歩きだした。歩いているのに、歩いているような気がしない。動いている自分の足が、まるで自分自身のものではないかのようだ。でも、これは紛れもなく龍子の足だし、龍子が歩いている。歩いて、龍子はどこへ向かっているのだろう。
「浅宮くん……」
そうだ。浅宮忍を見舞わないと。龍子は浅宮の病室に行こうとしている。
「違う……」
頭を振る。龍子の足は止まらない。歩きつづけている。
「浅宮くんの病室には、もう行った……」
記憶はうっすらと土を
だから龍子は、浅宮の病室をあとにした。
「それなのに、まだ病院に……」
龍子は角を曲がった。ナースステーションがあって、その向こうに病室が並んでいる。
ナースステーションの前を通りすぎ、廊下を歩いてゆく。病室のドアはたいてい開いている。一人部屋か二人部屋が多い。龍子はできるだけ足音を立てないようにして歩いている。声に耳を澄まして、静かに、静かに、歩く。龍子は声が聞きたい。声を探している。
ここなら声が聞けるに違いない。重病人が多いし、意識がない患者もいる。声を発したくても、発することができない人たちが。それは声にならない声だ。音声とは違う。雑音が混じっていない。純粋な声だ。龍子は本物の声が聞きたい。
「食べたい」
龍子が言う。足が止まる。行きすぎようとしていた病室に目が向く。その病室は一人部屋だ。ドアは開いている。ベッドの上で、高齢の男性が体をこちらに向けて寝ている。彼は人工呼吸器を装着していて、何本もの管が体に
彼が自分の思いを口に出すことはない。声にならない声だけが
「食べたい」
龍子が言う。
「食べたいよ」
龍子は彼の病室に近づいてゆく。
「食べさせて、
龍子は答える。今、食べさせてあげる。
「龍子──」
途端に心臓が止まる。違う。止まってはいない。心臓が止まったら大変だ。ただ、心臓が急停止したかのように感じて、龍子は胸を押さえる。心臓は動いている。この奥で。
「食べさせて」
龍子が言う。龍子が。龍子。──そうじゃない。
顔を右に向けると、チヌが右肩の上にのっている。チヌは小さな口を開けている。小さな口。でも、前よりはいくらか大きい。前。前? その前とは、具体的にいつのことなのだろう。わからない。とにかく、小指の先くらいはある。チヌの口というよりも、口からせり出している、凹凸があって、
それは、龍子の顔だ。
「あなたは──わたし……なの? っ──……」
どこかで何かが震えだした。龍子は一瞬、体内でそれが起こったんじゃないかと思った。そんなわけがない。ワンピースのポケットの中だ。スマホが入っている。龍子は振動しているスマホをポケットから出した。
「とっ──……」
電話だ。龍子は歩いて、止まった。また何歩か進んで、回れ右をした。
通話禁止、というポスターが目に入った。わかっている。重篤な患者ばかり入院している病棟の廊下で電話なんかできない。龍子はナースステーションの前を半分走るようにして通り抜けた。カウンターのところに看護師が一人いて、声をかけられた。
「どうされました?」
龍子は振り返らなかった。階段を下りた。途中でスマホが振動しなくなった。何度コールしても、龍子が出なかったからだ。
一階まで下りて、エントランスホールに差しかかった。スマホで通話している人を見かけた。通話禁止のポスターはない。ここなら平気のようだ。
龍子は着信履歴の一番上にある弟切飛をタップした。小走りに正面玄関を目指しながら、スマホを耳に当てた。飛はすぐに出てくれた。
『も……しもし』
「あっ、飛?」
周りの目が気になった。誰も龍子を見ていない。
「ええと、わたしです、龍子です。もしもし?」
『うん。もしもし』
「もしもし……」
『も、もしもし……』
龍子はポシェットをしっかりと閉めた。チヌは中でおとなしくしてくれている。
『えぇ……あぁ……何を……してるかと、思って……?』
「じつは、わたし、病院に来ていまして」
『病院』
「はい。それで、先ほどは出られず。申し訳ありませんでした」
『や、べつに、そんな』
「大至急、電話をしても問題ない場所に移動して、かけ直した次第です」
『……急がなくてもよかったのに』
「いいえ!」
龍子はつい頭を振って叫んでしまった。
「急ぎたかったので。だから、急いだだけなので。あっ。病院──」
すれ違った人がぎょっとしている。龍子は頭を下げ、正面玄関から外に出た。
正面玄関の前には車寄せがあって、自動車が何台か
『そっか。病院……どこの病院? え、具合でも悪いの……? でも、日曜って──』
「お……」
龍子は息継ぎをした。ここで息継ぎをする理由が、自分でもわからなかった。
「見舞いです」
「あぁ」
「あ……」
息苦しい。だから龍子はさっき、息継ぎをしたのだ。どうしてこんなに苦しいのか。
「さみやくんの」
『
「そう……」
何も浮かんでこない。どう? 浅宮
「──ですね。変わりは、ない……感じですが」
たぶん。これまでと変わらなかったと思う。はっきりとしたことは言えないけれど。
『うん……』
「……ですけど──」
龍子は浅宮を見舞うために病院を訪れた。病室にも行った。見舞いをした。
「食事は自分ですることもあったりするようです」
いつだったか、そんな話を誰かから、たしか看護師から、聞いたような気がする。いつ聞いたのだったか。今日じゃない。それだけは間違いない。
「いつもでは、ないみたいですけど」
『……よくなってるってこと?』
「それは……」
「どうでしょうか。ううん……」
大丈夫なのだろうか。
本当に?
「わかりません。ごめんなさい……」