月曜の朝は早めに寮を出た。飛はまだ選抜生用の学生証を持っていないが、ただとらが一緒だから問題ない。唯虎のカードで認証してA教室に入ると、すでにしろごうけんが自分の席についていた。あとの選抜生はまだ来ていない。ウッシーだけだった。

「……おはよう」

 唯虎が声をかけると、ウッシーは飛たちのほうに目を向けた。

 この男の顔はこんなにのっぺりしていただろうか。別人なんじゃないか。でも、ウッシーだ。顔立ちは変わっていない。顔立ちだけは。まるで本物そっくりの覆面をかぶっているかのようだ。覆面にしては出来がよすぎるし、中学生離れした体つきがウッシーのそれなので、やはり本人なのだろう。

 ウッシーはこっちを見ている。何も言わない。無言だ。

「……飛。変だぞ。あからさまに……」

 バクがささやいた。言われるまでもない。ウッシーは変だ。そんなことは見ればわかる。

 ウッシーは靴を脱いでいた。大きな体を縮こまらせ、椅子の上で膝を抱えている。かなり窮屈そうだ。なぜよりにもよってあんな座り方をしているのだろう。謎だ。

 ただとらも表情が硬い。ただ、とびやバクほど驚いてはいないようだ。

「おはよう、しろ

 唯虎が挨拶すると、ウッシーは口を動かした。声は発していない。口を開けたり閉じたりして、唇と唇がふれあう際に、ぱ、ぱ、ぺ、ぷ、ぱ、ぽ、という感じの音がする。

「ぽ。ぱ。ぱ。ぽ。ぽ。ぱ。ぱ。ぽ……」

 そんなことを繰り返したあげく、ウッシーはようやく声らしきものを出した。

「お。は。よ。お。お。は。よ。お。お。は。よ。お。は。よ」

 それからウッシーは、唇をまくりあげたまま、上の歯と下の歯をみあわせて、すっ、すっ、すっ、すっ……と息を吐いた。

「……怖ぇよッ」

 バクがそっと言った。飛も鳥肌が立っていた。ウッシーはどうしてしまったのか。


+++ + ++++


 飛は人外を喪失している選抜生たちをつぶさに観察してみた。ウッシーこと宇代ごうけんを含め、人外喪失者は五人。仮にこの五人を、喪失組、と呼ぶことにする。彼ら、彼女らには、何か共通点があるのか。それとも、ばらばらなのか。

 まず、一見まともというか、それほど奇異な印象を受けない人外喪失者が二人いた。

 その二人は、二人組と言ってもおおじゃないほど、一緒にいる。男子と女子だ。男子のほうはかしわばらそう、女子のほうはよしらいで、二人ともたつがみに戦抜で敗れ、ロードに人外を食べられてしまったらしい。

 柏原と吉居は、頻繁に顔を寄せ合い、耳許で何かささやいたり、互いに声を潜めて笑ったりしている。それでいて、交際している男女が人目をはばからずにいちゃついているようには、あまり見えない。どちらかと言うと、二人はやたらと仲のいい兄妹きようだいのようだ。それに、表情や身振りがオーバーで子供っぽい。二人だけの世界を作っていて、近寄りがたい雰囲気がある。

 特案の見守り対象者だったどうがいも喪失組の一人だが、彼はとにかくスマホから目を離さない。C教室ではタブレットを使っていた。どうやら読書をしているようだ。それ自体はべつに異常な行動とは言えない。でも、思いきって話しかけてみたら、かなり面食らう羽目になった。

「あ? だからそれはつまりこういうことなんだろ。ようするにカタカナはひらがなだっていうことなんだよな? 漢字からできたからひらがなはカタカナなんだよ。そういうことだろ。わかるよな? わかるよ。わかっちゃったんだよ。漢字が辞典だよな。ひらめいた。辞典が漢字なんだよ。ヒラメ。板。そういうことなんだよ。魚。道具」

 どうの話はまったく要領をえなかった。言語は明瞭で、それだけにとびは混乱した。一つ一つは意味がわかる事柄が、無秩序に並べ立てられている。その結果、何が何だかさっぱり理解できないのだ。

 津堂は飛に衝撃を与えたという自覚もないようで、何事もなかったかのようにスマホに目を戻した。津堂のスマホを盗み見ると、和英辞典のアプリが表示されていた。せめて国語辞典か漢字辞典だったら、飛もいくらかは、なるほど、と感じたかもしれない。感じないか。どうだろう。わからない。

 津堂もたつがみと戦抜をして、人外を失った。あとの一人、しんという選抜生は、少なくとも辰神との戦抜で負けたわけじゃない。辰神は三勝していて、敗者は津堂、かしわばらよしの三人だ。

 尾賀の事情はあとでただとらくとして、彼もなかなかごわそうだった。彼は手鏡を持っていた。それに自分の顔を写して、延々と百面相をしていた。鼻の穴を拡張してみたり、白目をいたり、ものすごい寄り目になったり、そうとう本格的というか、過激な百面相だ。あっかんべえをするときなどは「べぇっ」と声を出すので、ちょっとびっくりする。飛は声をかけてみようとも思ったが、できなかった。軽い気持ちでは難しい。ある程度の心構えがいる。

 喪失組の全員が、虚心症の患者とは何か違う。

 ウッシーはどう見ても以前のウッシーじゃない。他の喪失組の面々も、それはきっと同じだろう。人外を失ったせいなのか。喪失組は人が変わってしまった。

 バクに人外を食べられたあと、ウッシーは意識がなかった。虚心症だったと思う。

 現在のウッシーはそうじゃない。彼は教室に来た。わざわざ靴を脱いで、椅子の上で体育座りしている。おはよう、という挨拶に対して、一応、おはよう、に近くなくもないような言葉を返した。だからといって、治った、と言えるだろうか。

 選抜生たちがA教室にそろって間もなく、あいよしぼりが入室してきた。木堀がリモコンを操作して壁一面に表示させたのは、どういうわけか、宇宙空間から見た青い惑星、飛たちが住んでいる地球だった。

「……どうかしてるぜ」

 バクがつぶやいた。本当に、何もかもどうかしている。

「オトギリ・トビ」

 愛田に呼ばれた。飛がじっとしていると、愛田は教卓の上にカードを投げ置いた。

「おまえの学生証だ。とりに来い」

 徹底的に無視しつづけたら、どうなるだろう。飛は一瞬考えて、ため息をついた。になるのはまだ早い。立ち上がって、教卓の上から学生証をかすめとる。飛が素早く席に戻ると、愛田は喉を鳴らして笑った。

「礼儀ってものをミジンコほども知らねえようだな。まあいい。これからじっくりたたきこんでやるよ。俺はおまえの担任だからな」

 にらみつけたくなってしまうので、とびは目をつぶった。あいが教卓を叩いた。

「理事長からのありがたいお達しだ。我が選抜クラスに新しい規則ができた。今後、選抜生は一人の例外もなく、東棟最上階の専用フロアに居住すること」

おとぎりくん」

 ぼりが愛田のあとを受けて続けた。

「終業後、ただちに専用フロアの個室に移動しなさい。部屋番号と専用フロアのルールはのちほど私から通達します。わかりましたか」

 飛は黙っていた。

「返事をしなさい」

 木堀は冷たく、静かに言った。

「ぶちのめされたい?」

 飛は思わず目を開けた。木堀はいつもと変わらない。飛を見てさえいなかった。

「……はい」

 飛が答えると、木堀はうなずきもしないで簡潔に応じた。

「よろしい」


+++ + ++++


 授業が終わると、ただとらとセラが寮の部屋までついてきた。飛から目を離さずに専用フロアに連行しろと、木堀が唯虎に指示したのだ。飛にしてみれば、唯虎なら問題ない。もともと、たとえ専用フロアがどんな場所でも、とりあえずおとなしく移るつもりだった。

「悪くないよ。寮と比べたら、かなりいいかも」

 エレベーターが停止して扉が開く前に、唯虎がそんなことを言った。

 扉が開くと、明るかった。電灯の光じゃない。太陽光だ。東棟最上階の天井は、全面というわけではないものの、かなりの部分がガラス張りだった。

 エレベーターの左に男子トイレ、右に女子トイレがあって、右の通路は封鎖されている。左の通路を進むと、そこは広場だ。広じゃない。その広場には植物が植えられている。鉢植えではなく、土が敷かれ、そこに根を張っているのだ。あれは何の木なのか。一種類じゃない。別の木もある。飛がなんとなくわかったのは、サボテンとゴムの木、バナナの木くらいだった。ちょっとした植物園のようだ。

 広場には大きなテーブルが二つ置いてある。椅子もたくさんあった。バクがつぶやいた。

「パーティーかなんか、開けちまいそうなスペースだな……」

「そういえば、いつだったかな。女子が誰かの誕生日会をやってたよ。ここはサロンって呼ばれてる。部屋はこっち」

 ただとらは、サロンを取り囲むように配置されている部屋の一つにとびを案内した。

 部屋といっても、壁で仕切られているのではなくて、プレハブ小屋をもっとがっちりさせたような、一個の建物だ。いくらか丸みを帯びていて、白くはないが、大きなかまくらのようでもある。

 S-13とペイントされたドアのロックは、飛の学生証で解除できた。唯虎とセラは飛の部屋に入らなかった。

「何かあったら言って。俺の部屋はS-3だから」

「……わかった」

「それじゃ、また」

 唯虎が外側からドアを閉めると、自動で施錠された。

 飛はバクを担いだまま、部屋の真ん中あたりに立ちつくした。

「……天井は──」

 バクが見回すように身をよじった。

「低めだな。広さは……七じようってとこか。たつがみのヤローは特別室とか言ってたが、特別ってほどのアレじゃねえな……」

 飛はバクを床に転がして、とりあえずベッドに座ってみた。

 特別というほどでもないとバクは言ったが、このベッドはふかふかなのにしっかりと弾力があって、シーツもつやつやしている。それに、枕がなぜか二つもあった。一人用の部屋だから、一人で二つ使っていい、ということだろう。ぜいたくだ。

 机と椅子がある。椅子は座面と背もたれがメッシュだ。肘掛けに、ヘッドレストまでついている。

 バクがしゃくとり虫みたいにっていって、器用にその椅子を手前に引きだすと、座面に跳び乗った。

「オォッ。けっこういいぞ、コレ。座り心地」

「バックパックが座るなよ……」

 飛はベッドから立って、バスルームをのぞいてみた。洗面台とトイレがあって、浴槽は大きくないが、そこまで小さくもない。どこもかしこもぴかぴかだ。

 部屋に戻ると、飛はまたベッドに座ってスマホを出した。専用フロアはWi-Fiが完備されているだけじゃない。地下と違って、通信回線の電波がつながる。

「連絡はとれる……」

 意外と動きやすそうだ。授業時間以外は、ほとんどの選抜生がこの専用フロアにいる。寮にいるよりは圧倒的に観察しやすい。その気になれば、接触することだってできる。

「ウッシー。どうがいかしわばらよし……」

 ただ、喪失組をよくよく観察したところで、何か有意義な情報がえられるのだろうか。いくら話しかけても、きっと奇妙な反応しか返ってこない。

「アイツら、何がどうしてあんなふうになっちまったんだかなァ……」

 バクは椅子を右へ左へと回転させながら言った。

「五人とも似たような感じなら、まだな。それぞれ違うよな。個体差っつーかよォ」

 とびがこれまでの当たりにしてきた虚心症の患者は、程度の差こそあれ、似通っていた。ところが、喪失組の場合、一人一人違っている。違うけれども、やっぱりどこか似ているような気もする。

「宇宙人みたいな……」

「ハァ? 宇宙ゥ? 何、突拍子もねえこと言ってやがんだ、飛、おまえ」

「や、だから……いいや」

「よくねえよッ。話せよ。なんか考えがあるんだったらよォ」

「喪失組は、なんか……宇宙人みたいだなって」

「知ってんのかよ、宇宙人。会ったことあるのか?」

「あるわけないだろ。そういうことじゃなくて……宇宙人が──べつに宇宙人じゃなくてもいいんだけど、人間じゃない、何かが……人間のふりをしてる……みたいな」

「アァ。そういうことか。なんとなくわかってきたぞ。フムフム……どういうことだ?」

「だから、わかんないって。けどこんなの、とてもりゆうこには話せない……」

「ヘッ。あさみやの虚心症を治療できたとしても、代わりに宇宙人になっちまうんじゃなァ」

 飛は枕をバクめがけて投げつけた。バクはけずに枕を受け止めた。

「過去一の枕じゃねえか? おかげで痛くもかゆくもねえぞ。今夜はよく眠れるぜ、飛」

「……どうだか」

 飛はにテキストメッセージで報告を入れた。ずいぶん迷ったが、龍子には電話できなかったし、送信しかけたSMSも消去してしまった。

 不意に部屋のドアが鳴った。誰かが外側からたたいているようだ。ノックしている。

「……インターホン的なの、なかったっけ」

 見ると、壁にちゃんとインターホンの装置が据え付けられている。ただとらだったら、おそらくインターホンを使うだろう。ひょっとして、ましゃっとか。ましゃっとなら、いい。無視してやる。そう思った矢先に、インターホンがピンポンピンポン鳴りはじめた。

「……絶対、ましゃっとだよ」

「どうすんだ?」

 バクはまだ椅子にふんぞり返っている。ピンポンピンポンピンポンピンポン。インターフォンは鳴りやむ気配がない。飛はため息をついた。

 ベッドから立ち上がってインターホンの通話ボタンを押すと、案の定だった。

おとぎり弟切弟切弟切弟切弟切弟切ぃ~! はろはろはろはろはろはろはろぉ~!』

「……何?」

『開けて開けて開けて開けて開けて! お願いお願いお願いお願いお願い!』

「なんでそんなに連呼するの……」

『とくに理由はないけど、しいて言えば、思いかな? 熱い思いを伝えたいのかな? もしかしたら、愛かもしんない。ラヴかも。ラヴを届けたいのかもしんないっ。ラーヴッ』

 インターホンの電源を切るなりたたき壊すなりしてやろうか。真剣に検討したが、それであのましゃっとがあきらめるだろうか。とびは折れて、ドアを開けた。

「弟切弟切ぃ~!」

 すかさずましゃっとが部屋に突入してこようとしたので、飛はとっさに足を出した。

「──ゎふっ!?

 ましゃっとが海老反りになってかわさなければ、飛のキックはクリーンにヒットしていた。

「やははは……ちょっとぉ、弟切ぃ。冗談きついってぇ。もおぉぉ……

「冗談とかではないけど」

「本気だったら、もっときついってぇ」

「すごくうるさかった」

「ごめんて。ソーリー!」

 ましゃっとは手を合わせて腰を九十度近くまで折った。顔は飛に向けている。

「めっちゃソーリー。謝るから許して! でも大丈夫、俺は知ってるから! 心が広い弟切は許してくれるって、俺、信じてるから!」

「勝手に信じられても……」

「てことで、行こっ!」

 ましゃっとは飛の手首をつかんで引っぱった。

「え、ちょっ、何……」

「サロンで歓迎会。それで、弟切を呼んでくる役、俺が立候補したってわけ!」

「わけって……」

 飛はわりと本気であらがっているのだが、ましゃっとの手を振りほどけずにいた。油断したら引きずられそうだ。意外と力が強い。

「……わかった。行くから。バクを連れてくる。放して。腕、痛い」

「放した瞬間、ドア閉めちゃったりしない!? 約束する!? 信じるよ!? 俺、弟切のこと、信じちゃうよ!? 信じていい!? いいんだよね!? 裏切らないでね!?

「裏切らないって。しつこい……」

「オッケー、放す!」

 ましゃっとはとびの手首を放した。そうかと思ったら、またつかんだ。

「──どういうこと……!?

「ジョークジョークジョーク。やってみただけだって。はい、今度はマジ解放!」

 飛の手首がふたたび自由になったが、二度あることは三度あってもおかしくない。ないのか。何もしてこない。

 飛がバクをとりに行っている間、ましゃっとはドアが閉まらないよう体を入れてしっかりと押さえていた。ルーヴィもドアとましゃっとに挟まっている。飛を信用していないようだ。飛もましゃっとを信じていない。お互い様か。

 バクを担いでサロンに向かうと、二つのテーブルに食べ物、飲み物がびっしりと並べられていた。選抜生とその人外たちが勢ぞろいしている。椅子は端のほうに寄せられていた。みんな座らずに立っている。

しゆひんのご来場だ!」

 たつがみはシャンパングラスを手にしている。中身のうっすらと色づいた液体は泡立っているけれど、さすがに酒じゃないだろう。炭酸飲料か。

「何ともはや、全員、そろいも揃って気が利かんな。おい、誰かおとぎりに飲み物を!」

「自分でやれば?」

 ただとらが言うと、辰神ははじけるように笑った。

「この俺が? まっぴらご免だ! 、貴様がいでやってはどうだ? 弟切とこんのようではないか。せいぜいくだらん友情を確かめ合うがいい」

 唯虎はテーブルの上に目をやってから、辰神を横目でにらんだ。

「……バッチバチだな」

 バクがつぶやくと、ましゃっとが飛にすり寄ってきた。

「そうなんだよねえ、バッチバチなんだよ、タッツーとトラちゃん。やーもう、おっかなくってさぁ。ピリピリピリピリしまくってて。静電気かって。放電してんのかって」

「えっと、弟切のは、ほまりが!」

 ほまりんが何かの瓶とプラスチックのコップを手に取った。瓶からコップに泡立つ液体を注ぎ入れる。でも、瓶を傾けすぎだ。勢いがすごい。やばそうだ。予想どおりだった。液体がコップからあふれた。

「わわわっ……」

「愚かな慌てんぼうめ!」

 間髪をれず、辰神があざわらった。妙に楽しそうだ。

「さっさと誰か後始末を手伝ってやったらどうだ! その慌てんぼうに任せておいたら、せっかくの料理まで台なしにされてしまいかねんぞ! はははははっ……!

 へびぶちいぬかいの女子三名が、ほまりんを手伝って料理や飲み物をずらしたり、テーブルをふきんで拭いたりしはじめた。よしらいは今もかしわばらそうと何やらこそこそ話に興じているけれど、あとの女子四人はけっこう仲がよさそうだ。考えてみれば、戦抜投票でも、いぬかい、音津はほまりん、ほまりんはへびぶち、そして、蛇淵は犬飼の名を書いていた。女子四人は戦抜を回避するために協定を結んでいるのだろう。

 ほまりんがコップを持ってきてくれた。

「はい、おとぎり、のりもの! あぅ、違う、のものも、んなぁっ、言えないしょや……」

「……どうも」

 とびはコップを受けとった。

「ていうか、この飲み物、何……?」

「知らんのか!」

 たつがみがシャンパングラスを高々と掲げた。他の選抜生たちはプラスチックのコップを使っているのに、なぜ辰神だけシャンパングラスなのだろう。

「シャン=ドメリー! 白ワイン用ぶどうの果汁をぜいたくに使った炭酸飲料だ。よもや、シャン=ドメリーを知らんとは。祝い事の定番ではないか!」

「俺も俺も俺もーっ!」

 ましゃっとがテーブルに突撃した。女子の誰かがシャンドメだかシャンド・メリーだかシャン=ドメリーだかをコップに注いで、ましゃっとはそれを一気にあおった。

──……あぁっ! ぷはぁっ! 効っくぅ! この一杯のために生きてるわ的な!?

「ドアホゥッ!」

 辰神が怒鳴りつけた。

「まだ乾杯がすんでおらんではないか! あまつさえ、しゆひんである弟切の前に飲み干すとは何事だ! 恥を知れ!」

「ひやぁっ。ごめんちゃい! 喉渇いてたから、つい……弟切、ソーリー、許して!」

「許しても何も……」

 飛はコップの中で泡を立てている液体を見つめた。生唾が出てきた。そういえば、飛も喉が渇いている。以前、メロンソーダを飲んだときのことを思いだした。このシャン=ドメリーとやらはどんな味がするのだろう。早く飲みたい。

「じゃ、乾杯」

 飛はコップを少し持ち上げて言うなり、一口飲んだ。目をつぶる。メロンソーダほど強烈じゃない。ぶどう。たしかに、ぶどうを感じる。

「……どうよ?」

 バクが尋ねた。飛は目を開けて、もう一口飲んだ。

「うん……」

「だから、どうなんだよッ」

「うめぇ」

「えっ……?

 ほまりんが目を白黒させた。

「もしかして、今、乾杯、した? おとぎり……」

「不意討ちにも程があるではないか!」

 たつがみは大笑いした。

「だが、よかろう! 乾杯は乾杯だ! 乾杯……!」

「か、乾杯」「カンパーイ」「乾杯……」

 選抜生たちがばらばらと、思い思いに唱和した。もっとも、とびはさりげなく観察していたのだが、喪失組の五人の中で、「乾杯」と口に出して言ったのはしんだけだった。かしわばらよしは相変わらず二人で内緒話をしていたし、どうはコップも持たないでスマホに見入っている。ウッシーに至っては、サロンの隅っこで膝を抱えて座っていた。しかも、なぜか靴を脱いで、片方の靴をコップホルダーにしていた。

 その後も飛は、食べたり飲んだりしながら喪失組の動向をうかがいつづけた。喪失組が気になるのに、辰神がやたらと、しかも平然と話しかけてきて、邪魔だった。

 ましゃっとはとにかくやかましい。飛がいくら邪険にしても、「またまたー」、「いやいやいやー」とか言ってじゃれついてくる。どういう神経をしているのだろう。

 ほまりんが女子たちを連れてきて、ちょっとだけ話した。柏原から離れない吉居を除いた女子四人は、やっぱり団結しているようだ。戦抜投票の話題もちらっと出た。女子たちは戦抜を回避するために投票の仕方を決めているので、たとえば飛が投票用紙にほまりんの名を書いたとしても問題ない。もし戦抜が嫌なら、そんな方法もある。提案というほどはっきりした言い方ではなかったけれど、女子たちはそうほのめかした。

 人外がいる選抜生たちと喪失組の間には、ほとんど交流がないようだ。唯一、辰神だけは、ときどき喪失組の選抜生に声をかけていた。でも、喪失組は辰神に視線を向ける程度で、返事をすることはない。辰神もべつに期待していないみたいだ。

 喪失組同士も、柏原と吉居がくっついているだけで、あとは目も合わせない。それぞれが好きなように過ごしている。いっそ歓迎会に参加しているのが不思議なくらいだが、ましゃっとにそのあたりをいてみたところ、「呼べばけっこう来るよ」と言っていた。まったく話が通じないわけじゃない。かといって、意思の疎通を図っても、ほぼうまくいかない。どうやら、選抜生たちも喪失組のことはよくわかっていないようだ。

 主に辰神とましゃっとがひっきりなしに絡んできたせいで、ただとらとはそんなに話せなかった。途中で唯虎とセラの姿を見かけなくなったので、部屋に戻ったのかもしれない。

「さて、頃合いだな」

 辰神がそう言って手をたたいたのは、歓迎会が始まって二時間近くった頃だった。

「そろそろお開きにするとしよう。おとぎり、あらためて、我が選抜クラスにようこそ。後片づけはむろん、貴様らに任せる。たんのうしたぞ。さらばだ!」

 さつそうと立ち去るたつがみとロードを、誰も止めようとはしなかった。

「いよーっし! 片づけ片づけ! やっちゃお!」

 ましゃっとが音頭を取って、ほまりんたちと一緒に紙製の取り皿を回収したり、空のコップを集めたりしはじめた。とびも手を貸そうとしたら、ましゃっとに制された。

「いーからいーから! タッツーが言ってたでしょ。弟切はしゆひんなんで、今日は俺らに任せて! 今夜だけはね。ただ見てて! 見ててくれるだけで、俺は満足だから!」

「見てるの、退屈だしょや」

 ほまりんが助け船を出してくれた。

「弟切、でも、ほんとにいいからね。ほまりたちがやるし。いっぱい食べて、おなかいっぱいだったら、散歩でもしてきて。腹へこまし?」

 腹ごなし、だと思うのだが、ましゃっとはともかく、てきぱき動く女子たちに交じって、飛は巧みに立ち回れるだろうか。自信がない。

 見ると、喪失組はサロンをあとにしようとしていた。五人とも、だ。誰かが合図したのだろうか。それとも、示しあわせていたのか。人外喪失者たちはてんでんばらばらなようで、まとまりがあるらしい。

「ちょっと、じゃあ……」

 多少心苦しかったが、飛はいったんサロンを離れてそれとなく喪失組のあとをつけてみた。そのはなかった。五人ともまっすぐ自分の部屋に入っていったからだ。

 ただとらの部屋はS-3だ。訪ねてみようとも思ったけれど、決心がつかなかった。

 専用フロアは、大まかに言うと、サロンとその周りに配置された個室で構成されている。ゆとりのある造りで、個室と個室の間は通り抜けられるし、建物の内壁と個室とは接していない。個室の向こう、建物の内壁との間は回廊状になっている。ほまりんに、散歩でもしてきて、と言われたが、おそらく彼女はこの回廊をぶらつくことがあるのだろう。幅は学校の廊下くらいで、大きな窓もある。散歩どころかジョギングでもできそうだ。

 専用フロアを隅から隅まで知っておきたい。そんなもくで回廊を歩いていたら、窓際に唯虎が立っていた。セラが唯虎のあしもとに身を横たえている。

「終わった? 歓迎会」

「あぁ。うん。ここにいたんだ、唯虎」

「弟切の歓迎会なのに、抜けちゃって悪かったね」

 回廊の天井もガラス張りで、蛍光灯のたぐいはない。でも、壁と床の境目から明かりがもれているし、壁のところどこに非常灯が設置されている。明るくはないけれど、唯虎の表情がわからないほど暗くはない。

「どうしてもだめなんだ。たつがみが楽しそうにしてると、ムカついてさ」

 言葉とは裏腹に、ただとらはくつろいでいるように見える。

 とびはセラのそばにバクを下ろし、窓を背にして唯虎の隣に立った。

「唯虎は悪くないよ。僕も辰神は好きじゃない。僕をめたくせに、何もなかったみたいだし。ずいぶん変わってる」

「変わってる、か。控えめな評価だと思うけど、そうだね。あいつはだいぶ変わってる。あい先生とかぼり先生も変だし。ましゃっともね。選抜クラスは変人ぞろいだ」

「唯虎、おまえはどうなんだよ?」

 バクがくと、唯虎は顔をさわって考えこむそぶりを見せた。

「俺……? セラがいる時点で、変わってなくはないんだろうけど」

 バクは、ヘッ、と短く笑った。

「結局、程度問題か」

「それを言っちゃうとね。度を越してるかどうか、なのかな」

 唯虎は窓のロックを外して少し開けた。植物のためか、専用フロアは高めの温度が保たれている。窓からひんやりした夜風が吹きこんできて、心地いい。

「しばらく開けてると警報が鳴るから、すぐ閉めないといけないんだけどね」

「管理されてるってわけか」

 バクがあちこちに目を配るように身をよじった。

「カメラなんかもあったりするのか? こうやってても誰かに見られてるんだとしたら、気分はよくねえな」

「どうせ、バクは映らないだろ……」

「飛が映るんだったら、同じことじゃねえか。それに、気分の問題だからな?」

「前に調べたけど、ここにカメラはないみたい」

 唯虎がざっと円を描くように指を振ってみせた。

「サロンにはありそうだけど、見つからないな。上手に隠してあるのかもしれない」

「なんでそんなこと調べたの?」

 飛は何げなく尋ねただけだ。とくに深い考えはなかった。

 唯虎は窓を閉めた。そして窓の外に目をやったまま、少しだけ笑った。

「バクが言ったとおりだよ。知らないうちに見られてるんだとしたら、気分がよくない。あとは……何だろう。用心のため、かな」


+++ + ++++


 歓迎会でかなり色々な物を飲み食いした。りゆうこに連絡するつもりはなかった。連日、電話するのもどうかと思うし、喪失組があの有様だ。何を話したらいいか、ちょっとわからない。気疲れしてもいた。今夜はたくさん眠れそうだ。

 ところが、いざ明かりを消してベッドに入ると、目がえる一方だった。寝慣れていないからだろうか。二つの枕を重ねてみたり、横に並べて寝返りを打ってみたりもしたが、とりたてて効果はなかった。

 バクはお気に入りの椅子に身を預けて、しばらく黙ってくれていた。

 だいぶしてから、「ぇんっ……」とせきばらいのような音を立てた。

「寝られねえのか、とび?」

「……そんなことない。もう少しだったのに……あと少しで眠れそうだったのに……」

「ホントかァ?」

「眠くならない……」

「だと思ったぜ」

「バクのせいだ……」

「八つ当たりかよ」

「八つ当たりだよ」

「八つ当たりなのかよッ」

 バクが椅子の上で暴れている。飛は跳ね起きて明かりをつけた。

「無理だ。寝れない。散歩してくる」

「アァ? 散歩ォ? ブームなのか? 散歩──って、オレを置いてくのかよッ」

 飛はスマホと学生証だけ持って部屋を出た。

 サロンに誰かいる。椅子に腰かけ、テーブルにスタンドでスマホを立てて、動画でも見ているのか。音は聞こえない。イヤホンをしているようだ。パーカーを着て、フードをかぶっている。近づいてゆくと、ましゃっとだとわかった。

 飛は椅子を持ってきて、ましゃっとの隣に座った。スマホのディスプレイに映しだされているのは、やはり何かの動画のようだ。アニメーションだろうか。色とりどりで、めまぐるしい。字幕が表示されている。歌詞かもしれない。

「おぉうっ!?

 ましゃっとがビクッとして飛を見た。ましゃっとはイヤホンをしている。飛の声は聞こえないだろう。飛は無言で片手を軽く上げてみせた。

「……おぉぉおとぎり、びびびびっくりしたぁ。言ってよぉ。言われても聞こえないか……」

 ましゃっとはイヤホンを外した。ワイヤレスらしい。ましゃっとが何かしたようで、スマホの動画は一時停止している。

「え? どしたの? 寝れない夜もある感じ? むらむらしたりして?」

「むらむらって……」

「そういうこともあるかなって。ないかな? あ、俺はショートスリーパーだから。いわゆる、ショッパーね。言わないか。ショッパーとは。あれ? 英単語であるよね。たしか。買い物袋とか。ショッパー。そっちじゃないよ。ショートスリーパーね。俺、長くても、四時間半くらいしか寝れなくて。長い夜を有意義に過ごすのが俺流なわけ」

「たしかに、まだまだ元気そうだね」

「元気、元気。踊れるよ? 踊っちゃうよ?」

「踊らなくていい。ていうか、踊らないで……」

「蹴る? もし踊ったら、蹴られちゃう?」

 歓迎会前の件を持ちだされると、とびとしても少し気まずかった。

「……あれは、悪……いとは、思ってないけど」

「思ってないんかーい。ははっ。まーね。いいんだけどね。あ、これね?」

 ましゃっとはスマホに手をのばして何やら操作した。動画の再生が始まった。最初からのようだ。音量は低いけれど、なんとか聞こえる。


 Lyrics/Music:


 黒い背景にそんな文字が浮き上がった。

 続いて、タイトルらしきものがぼんやりと画面ににじた。


 作品#1


「──これ……音楽?」

 飛が尋ねると、ましゃっとはうなずいてにんまり笑った。

「そそ。ミュージックビデオね。大好きなんだ、俺、これ。けっこう前からハマってて。Sの曲はいくつもあるけど、やっぱりこれが原体験だから──あ、聴いて聴いて」


 あわれみを思いやれない 悲しさも考えらんない

 僕が進む道だ ろくに進めやしないが 所詮、道なき道でしかないか


 女性のようでも、男性のようでもある声が歌う。人間の声じゃないのか。抑揚はあるのだが、どこか不自然だ。


 八人も僕がいたんじゃ 座る椅子も足りないくらいだ

 楽しさも感じられない 喜びに浮き立ちもしない

 能がない君だ 特別な音もしないが 今はもう空っぽでしかないか


 歌詞の意味はなんだかよくわからない。でも、きつけられるメロディーだ。テンポが速いけれど、耳にすっと入ってくる。曲調は暗い感じでもないのに、アニメーションは不穏だ。若い男性や女性のキャラクターが派手なアクションを繰り広げて、血のような液体が飛び散る。キャラクター自体が破裂したり、何か別のものに変わったりもする。


 人は僕を知らないってさ 口に十字の戸は立てらんないな

 花鳥風月を過ぎ去りし君は 脊柱の真芯に真心を隠して

 風すさぶ原野に滞りもなく 駆け抜けろ 能を奪うよ


 目を覆いたくなるような場面もある。それなのに、とびは目を離せなかった。

「いいでしょ。S。すごいんだよ。この動画、見っけた瞬間、俺、運命感じたもん」

 ましゃっとが小声でつぶやきつづける。

「深掘りすれば深掘りするほど、色んなことが出てくるし。誰かが言ってたけど、思想じゃなくて、叙情でもない、現象のパズルなんだよね。パズルって元絵がわかってるじゃん。だから解けるんだけど。Sは違うんだよね。元絵を知ってるのはSだけなんだよ。こっちは想像しながら解き明かしていかなきゃなんない。それがめちゃくちゃ面白くて。ピースの一個一個が単純にモノとしてすぐれてるから、享受するだけでも快感だし──」

 結局、作品#1の再生が終了するまで、飛は一言も発しなかった。

 もう一度再生、というところをタップしたい。

 ましゃっとがくすっと笑った。

「同じのる? 別のにする?」

 飛は口を開きかけた。同じの、と言おうとしたのか。もしくは、別のがいい、と頼むつもりだったのか。どっちでもいいから、Sの曲が聴きたい。ミュージックビデオを観たい。案外、それが飛の本音だったのかもしれない。ただ、まんまとましゃっとの術中にまっているようで、抵抗感はあった。それとは違う引っかかりを感じてもいた。

「……S?」

「ん? 作者? まあ、作者っていうか」

 ましゃっとは、もう一度再生、を指先でタップした。

「作詞と、作曲と。それだけじゃないんだけど、Sは──」

 飛の目の前で、怪物のような姿に変わり果てたしずくだにルカナが、S様、と呼んでいた。飛の兄を。おとぎりせきのことを、S様、と。潟だから、Sなのか。あのときはそう思った。でも、特案のハイエナは別の呼び方をしていた。

 サリヴァン、と。

 特案が長らくマークしている男。ハイエナ曰く、七年前から特案はサリヴァンを追っているらしい。何人もの死傷者を出した特定案件への関与が疑われてるという。とびの兄がそのサリヴァンだと、特案は見なしている。

 兄も特案やハイエナのことを知っているようだった。

『きみは……特案の? 長い間、僕を追いかけ回していた──たしか、そうだ、ハイエナだったかな』

 おとぎりせき、飛の兄は、サリヴァンなのだ。Sは潟のSじゃない。サリヴァンのSだ。

「止めて」

「へ?」

 ましゃっとがぽかんとした顔を飛のほうに向けた。

 飛はましゃっとのスマホにふれて、動画を一時停止させた。

「このSって人──」

 サリヴァンの名を口にしてもいいのだろうか。飛は迷った。

 そのときだった。ドアが開く音があちこちから聞こえてきた。

 選抜生が個室から出てこようとしているようだ。それも、一人じゃない。もし一人だけなら、そこまでげんには思わなかった。

 部屋番号と、どれがどの選抜生の部屋なのかは、すでに把握している。S-2とS-7、S-8、S-9、それから、S-12だ。それぞれの個室から選抜生が出てきた。

 全員、人外を連れていない。あたりまえだ。この五人には連れ歩ける人外がいない。

 飛との選抜で敗れた、しろごうけん

 かしわばらそう

 よしらい

 しん

 そして、特案の見守り対象者だった、どうがい

 皆、人外喪失者だ。喪失組がこぞって、しかも、ほとんど同じタイミングで、部屋から出てきた。こっちに来る。サロンに集まろうとしているのか。ましゃっとが手を振った。

「おっすー」

 誰も反応しなかった。ましゃっとは肩をすくめた。違うのか。

 サロンじゃない。喪失組はサロンを素通りしていった。

 エレベーターだ。

 部屋の位置が近かった関係で、最初に津堂がエレベーター前に到着した。ボタンを押して、エレベーターが来るのを待っている。他の人外喪失者たちも、一人の例外もなくエレベーターの周りで足を止めた。

 エレベーターの扉が開いた。喪失組が次々と乗りこんでゆく。

「あの人たち……どこに?」

「さあ?」

 ましゃっとはスマホを手にとった。

「気になるの?」

「……ちょっとね」

「なら、追っかけてみる?」

「追いかける──」

 とびは椅子から立ち上がった。喪失組はもういない。エレベーターに乗ってしまった。扉も閉まっている。

 飛は足早にエレーベーターへ向かった。ましゃっとがついてくる。今までひとりでかくれんぼでもしていたのか、ルーヴィもましゃっとを追いかけてきた。

 エレベーターの階数表示を見ると地下で止まっている。ましゃっとがボタンを押した。

「えいっ」

「……一緒に行くの?」

「だめ?」

「だめっていうか……」

 やがてエレベーターが戻ってきた。飛はましゃっと、ルーヴィとエレベーターに乗った。ましゃっとが認証機に学生証をかざして、B1Fのボタンを押した。扉が閉まった。エレベーターが動きだすと、素朴な疑問が浮かんできた。

「夜なのに、入れるの? 地下」

「んー……今、十一時過ぎ?」

 ましゃっとはスマホを見て時刻を確かめた。

「どうだろ? どっちにしても、ロックされちゃってたら、入れないし。されてなかったら、普通に入れるし。エレベーター動いてるってことは、行けるんじゃない?」

 ルーヴィが控えめにぴょんぴょん跳ねている。一見、小さくジャンプしているかのようだが、実際は膝の曲げ伸ばしを繰り返しているだけだった。

 エレベーターは無事、地下一階に着いて、扉もすんなりと開いた。向かって左の水槽の中で小型のエイやサメが泳いでいる。照明も点灯しているので、地階ということもあって、昼間と何ら変わらない。喪失組の姿はなかった。でも、この階のどこかにいるはずだ。

「あー、でも、これ……」

 ましゃっとは男子トイレのドアを開けようとした。地下一階は、トイレでさえ学生証による認証が必須だ。

「開かないね。ロックされてるっぽい」

 女子トイレ、男子トイレの先は、サーバールーム、機材ルームと続く。サーバールームと機材ルームは、普段から生徒は入れないようだ。

 とびはA教室の認証機に自分の学生証をかざしてみた。ロックが外れる音がしない。

「……無理か」

「せっかくだし、一通り試してみる?」

 ましゃっとは片っ端からドアを開けにかかった。エレベーターのほうに戻って、体育館、また引き返して、女子トイレ、サーバールーム、機材ルーム、念のため、再度A教室、それから、B教室、C教室、準備室、そして、医務室まで、結果は同じだった。

「──んん! 全滅かぁ! 俺たちは招かれざる客ってことかねえ。ショックだなあ。なんか。そうでもないか。うん。そうでもないね」

 ましゃっとは何か勝手に納得しているし、ルーヴィは廊下で楽しそうに飛んだり跳ねたり回転したりしている。

 飛はドアをノックしようとして、やめた。

 そのドアには、医務室、と書かれた室名札がついている。

 今までとくに意識していなかったが、地下のドアはどれも頑丈だ。思いきり体当たりしても、きっとびくともしないだろう。

「帰る?」

 ましゃっとに肩をたたかれそうになったので、飛は素早くけた。

「えー……」

 ましゃっとは口をとがらせた。

「ひょっとして、まだ怒ってる? 怒りんぼだなぁ、おとぎり。いいよ、じゃあ、先に帰っちゃうから。行こ、ルーヴィ!」

 ルーヴィとましゃっとはいきなり全力疾走して、あっという間に見えなくなった。

 飛はもう一度、医務室に目をやってから歩きだした。

 やはり医務室があやしい気がする。でも、証拠はないし、教室かもしれない。

 とにかく、飛とましゃっとはロックされていてトイレにすら立ち入れないのに、喪失組は地下のどこかにいるのだ。

 これはどういうことなのだろう。何を意味しているのか。