
机の上にバクが寝そべっている。
飛は満腹でもなければ、
バクは机の上で静かにしている。微動だにしない。
本当に食事をしたあとなのだろうか。なんだか信じられない。
バクは体育館で
A教室には十三の机と椅子が置かれている。横に四列、縦に三列、その後ろにもう一つだ。飛はその一番後ろの席に座っている。壁一面の窓みたいな大型ディスプレイには何も映っていない。A教室にいるのは飛とバクだけだ。
戦抜のあと気分が悪くなって、体育館を出た。その際、飛はバックパックに戻ったバクを担いだのだったか。それとも、バクは飛についてきたのか。曖昧だ。覚えていない。とにかく、廊下を歩いた。ここにいるということは、A教室に入ったのだろう。
でも、おかしい。飛はカード型の学生証をまだ持っていない。あのカードがなければ、トイレにさえ入れないはずだ。そうか。
そうだった。ほまりんだ。A教室のドアの前にたたずんでいたら、
だめだ。ひどくぼんやりしている。
「……げぷっ」
バクがファスナーを少し開けて、げっぷをした。
飛はかっとなって、思わず拳を振り上げた。バクめがけて振り下ろしはしなかった。こらえて引っこめた。
「……しょうがねえだろ。食うもの食ったら、そりゃあよォ……」
バクが言い訳をしたものだから、飛はまた手が出そうになった。
「僕は全然、食べた気しないんだけど」
「食ったのはオレだぜ」
「そうだけど……」
「まァ、おまえの言いたいことはわからなくもねえよ。オレも、なんかな……」
気分は一向によくならない。悪いままだ。
ドアが開いて、誰か入ってきた。ほまりんと、彼女の人外、ナマケモノみたいな顔をしている鶏のようなデッドオーだった。ほまりんとデッドオーだけじゃない。もう一人、あの選抜生の名前は何だったか。くっきりした目鼻立ちで、しゅっとしている。彼も人外を連れていた。
「あぁ、
ほまりんは手に何か持っている。ペットボトルの飲料だ。ほまりんは
「これ。よかったら、飲んで」
見ると、麦茶だ。ラベルの記載によれば、ミネラルがたっぷり入っているらしい。
「こっちのほうがいい?」
しゅっとした選抜生もペットボトルを持っている。コーラだ。飛は首を横に振った。
「……いや。麦茶のほうが」
「ほいっ」
ほまりんが飛の鼻先に麦茶のペットボトルを突きつけてきた。気を遣ってくれているのだろう。飛は受けとることにした。
「ありがとう」
ほまりんは「んっ」とうなずいてから天井を仰いで、「むー……」と
「なんか違う気がする。おめでとう? 弟切、勝ったし、おめでとう、だよね……」
「すごかったよ」
しゅっとした選抜生はコーラの蓋を開けて、飛のほうにペットボトルを向けた。
「おめでとう。後援金、四倍だね」
「……ケッ。十年で一億六千万、か」
「地味にでけえな? でけえよな。家くらい建てれんじゃねえの?」
「余裕で建てられるよ」
しゅっとした選抜生は微笑してコーラを一口飲んだ。飛もほまりんにもらった麦茶の蓋を開けてはみたものの、今はまだどんな飲み物も食べ物も喉を通りそうにない。蓋を閉めて、ほまりんに小声で
「……あの。彼の、その──」
「カレ? えっ。違うよ? ほまり、
「や、そうじゃなくて」
「わわっ。勘違い? 恥ずっ」
ほまりんは赤くなった顔を手でごしごしこすった。
「そっか。まだ話したことないもんね」
しゅっとした選抜生は、まだ
「俺は
唯虎は教室の隅でお座りをしている
「セラ。おとなしいやつだけど、よかったら仲よくしてやって。バク、だったよね?」
「おう」
バクはファスナーの口を開けて、ペロッと舌を出してみせた。
「……ヘェ。ホントにおとなしいのかァ?」
「どう思う?」
唯虎はくすくす笑った。
「でも、バクの勇敢さには驚かされたよ。勝って欲しいって、俺は内心、応援してたんだけど、途中、ひやひやしたし。ただ、終わってみれば、大逆転っていうより、順当な勝利だったのかな」
「まァーな! ウッシーのやり口は
「そう思うよ。つい考えちゃった。俺のセラとバクが戦ったら、どうなるだろうって」

「そんなのオレが勝つに決まってる。せいぜい投票用紙に
「書かないって。書く理由がないもん」
そんなふうにバクと楽しげに会話している
また教室のドアが開いた。入ってきたのはその辰神だった。むろん、ロードを従えている。
辰神は教室の中央までゆったりと歩くと、顎を上げて下目遣いで飛たちを順々に見た。ロードの
「フッ……」
辰神は鼻で笑った。
飛は誰かが舌打ちをする音を聞いた。聞き逃してもおかしくないような
唯虎がわずかに顔を引きつらせている。今、舌打ちをしたのは、唯虎だ。
辰神は両手を顔の前まで移動させた。
「
一度、手を打った。
二度目は、強かった。
さらに間を空けて、三度目はもっと強かった。
「貴様の勝利を祝福する。そして、バクよ。見事だったとは言わん。醜い戦いぶりだったが、つまらなくは決してなかったぞ。よくやった」
「……なんでッ。テメェーに
バクが突っこむ前に、飛が言ってやるべきだった。何も言えなかったのは、
「はははっ!」
辰神が笑いだした。
「貴様は
「ヘッ! ロードは見るからにまずそうだが、ちゃんと食ってやるから安心しやがれ!」
「ふふふっ……ははははっ……あーっはっはっはっはっはっ……!」
唯虎は一見、爽やかという言葉が似合うような男子だ。
唯虎は辰神を
「おい、辰神」
唯虎は低い声で呼びかけた。辰神は唯虎の不穏な
「何だ、唯虎」
下の名で呼ばれたのが気に食わなかったのか、唯虎は軽く舌打ちをしてから尋ねた。
「
辰神は大仰に肩をすくめてみせた。
「医務室に運ばれていった。あとのことは知らん。いずれにせよ、あれはもうだめだ。敗者に用はない。どうせ使い物にならんだろう」
「よくそんなことが言えるな。宇代とおまえは友だちだったんじゃないのか?」
「友だち、とは……」
辰神は左手を腰に当て、右手で額を押さえた。
「くだらんことを言う。友だち、だと? 学友という意味なら、そのとおりだがな」
「仲がよかったじゃないか。スパーリングだか何だか知らないけど、おまえのロードと宇代のタウロはいつもじゃれあってただろ」
「だから、この俺と
辰神は左手を腰に当てたまま、右手の人差し指を唯虎に向けた。
「そう見えていたという事実を否定しようとは思わん。それは貴様の自由だ。ちっぽけな自由だとしても、な。だが、俺の心の内を見通せるなどとは考えんことだ」
唯虎は一度、ため息をついた。興奮を静めようとしたのかもしれない。
「おまえの心の内なんて、知りたくもないよ、辰神」
「俺はそうでもないぞ。どうやら、貴様は俺が気になって仕方ないようだが──」
「誰がっ……」
「違うのか? いちいち突っかかってくるのは、ようするにそういうことだろう? 何が貴様をそうさせるのか、興味はなくもない」
「俺は……平気で他人を
「つまり、正義の味方気どりというわけか」
「そんなつもりはない」
「貴様は俺を悪と見なしているわけだ」
ほまりんは辰神に
「……実際、悪役にしか見えねえけどな?」
バクがぼそっと言うと、
「はっはっはっはっ……くーっわっはっはっはっ……!」
「……そういうとこだぞ?」
バクが指摘すると、ほまりんも「ぷふっ」と噴きだした。
なんだかみんな笑っている。
飛は以前、抜き足差し足で
やがて他の選抜生とその人外たちもA教室に戻ってきた。人外を連れていない選抜生は粛々と行進しているようで、
「やぁー。ウッシー、大丈夫かねぇ。ねえ?」
一人、ましゃっとこと
「あぁっ、
ましゃっとは勢いよく走り寄ってきて、ハイタッチを求めてきた。さすがに飛は応じる気になれなかったし、ましゃっとが出してきた両手を払いのけたいくらいだった。でも、そこまでするのはやりすぎだろう。飛はそっぽを向いた。
「……おっとぉ?」
ましゃっとは身を乗りだして、飛が視線を向けたほうに顔を移動させた。何なの、こいつ。イラッときて、飛は真後ろまではいかないまでも、左斜め後ろを向いた。
「おっとっとぉ……?」
ましゃっとは、あきらめないのか。ぴょんっと跳ねて、
ウサギと言えば、黄色いウサギのようなましゃっとの人外ルーヴィが、
「……どういうこと?」
飛はつい
「え? どういうことって? 何が? てか、おめおめおめ! おめでと、
「
バクがすかさず反論すると、ましゃっとは舌を出してみせた。
「バク、正解! 俺、嘘つきました! いくらなんでもねえ。信じてたってことはないよね。だって、バク、しゃべれるのはすごいけど、他はねえ? 未知数っていうか。まさか変身できるなんてさ。強かったんだね、バク。めっちゃかっこよかった!」
「……ヘッ。あたりまえだッ。オレが強くてかっこいいのなんて、晴れた空が青いのと同じレベルのアレだからなッ」
「どれだよ……」
「飛ィッ。おまえはわかれッ。おまえだけはわかっとけ、そこは。わかんなくても、のみこむんだよ。それが相棒っつーモンだろ?」
「そうなのかな……」
「そうなんだよッ」
「そうだよぉ!」
調子よく合いの手を入れたましゃっとを、飛は冷たい目で見ずにはいられなかった。ましゃっとも、まったく後ろめたくないわけじゃないようだ。
「うん。わかるよ、弟切? 言いたいことはね。俺が投票で弟切の名前、書いたことだよね? あれはさ。俺としてはね? 弟切と戦抜するつもりなんかなかったよ。ない、ない。そんなのあるわけないって。本当、本当。ゼロだよ、ゼロ」
ましゃっとは飛とバク、そして、席についた
「これだけは理解して欲しいんだけど、弟切が俺の名前を書かないってわかってたから、俺は弟切の名前を書いたんだよね。全然、戦いたくないし、戦うつもりなんかないし、敵だなんて、これっぽっちも思ってないしね?」
飛は辰神を
「でも、辰神やウッシーとグルだったんだろ」
「うん」
ましゃっとは腕組みをして目をつぶった。すぐに「いや!」と首を横に振る。
「あれはね? ほら、何だろ、俺って平和主義っていうか? みんなと仲よくしたいタイプだしさ。協力しろって頼まれたんだよね。断りづらいじゃん? ここだけの話……」
ましゃっとは身を
「
辰神はどういう気分で聞いているのか。見たところ、まんざらでもないというか。辰神はどことなく
ましゃっとは腰を折って手を合わせた。
「悪気はなかったんだって、マジで、ごめん、だから、許して! 俺はみんなと仲よくしたいタイプだし、
教室に
もともと疲れてはいた。実際に戦ったのは主にバクなのだが、
戦抜が終わると、飛は誰よりも早く体育館を出た。あれは判断ミスだったんじゃないかと、今さらながらに悔いていた。
余裕がなかったのだ。戦抜に勝った喜びなんて、
木堀がリモコンで操作すると、壁一面のディスプレイに海辺の景色が映しだされた。
「わーお! 海、海ぃー!」
ましゃっとが無邪気に歓声を上げた。海が何だと飛は思う。でも、ずいぶんきれいな砂浜だ。南のほうだろうか。青い海がきらきらと輝いている。施設にいた頃、海に連れていかれた。暑くて、人がたくさんいて、うんざりした。飛は泳がなかった。海に入りもしなかった。それがどうしたというのか。
愛田が教卓に手をついた。
「オトギリ・トビ。勝利の味はどうだ? 酔いしれてるか?」
「べつに」
「全然」
「そうか」
「ともあれ、今回の戦抜はおまえの勝利という形で無事、決着がついた。
担任の愛田が拍手すると、副担任の
「選抜クラスに入って早々、華々しい活躍だな、オトギリ・トビ」
愛田が拍手をやめると、A教室はすぐに静かになった。
「俺も担任として
木堀は無機質な声で「ええ」と応じた。飛を見もしない。
「来週の頭には
「しなさいって……」
なぜ命令口調なのか。飛は反発を覚えただけじゃない。
特別室。東棟の最上階には、選抜生のために
選抜クラスの教室がある東棟地下は、選抜生と限られた者しか出入りできない。ネット回線は専用のWi-Fiだけだし、常に監視されていると考えるべきだ。最上階の特別室も似たようなものだろう。
「いらない」
飛は愛田の潰れた
「僕は寮にいる。寮でいい」
愛田はしばらく黙って飛を見返していた。理由を
「却下だ」
「……僕がどこに寝泊まりしようと、僕の自由だろ。それとも、選抜生はその特別室に住まなきゃいけないっていう規則でもあるの?」
「規則」
愛田は「規則か」と繰り返した。嫌みったらしく、「規則、ねぇ」と。
「いいだろう。このあと理事長に掛け合って、そいつを規則にしてやる。理事長もお忙しい人だし、今すぐってわけにはいかねぇが、来週からはおまえも特別室だ。規則になったらちゃんと守れよ、オトギリ・トビ。おまえが言いだしたんだからな」
「……ケッ」
バクが吐き捨てるように言った。
「
「誰か付き添いなさい。一人では寂しいでしょう」
何が、一人では寂しい、だ。どこまでも冷淡な木堀の口から出てくる言葉とは思えないし、飛にはバクがいる。寂しいわけがない。見張りでもつけるつもりなのか。
「はいはーい!」
「んゃっ」
ましゃっととほまりんが同時に挙手した。半分演技だろうが、ましゃっとがぎょっとしたような顔をしてみせた。
「えぇっ。ほまりん、弟切と同じ屋根の下どころか同じ部屋で週末過ごしたいの!? 一応、男子と女子だけど!? 一応じゃないや、めっちゃ男子と女子だけど!」
ほまりんは赤面した。
「ほゎっ。そっか。間違った。てゆうか、ど忘れしてた。弟切、男子だしょや……」
飛を女子だと勘違いしていたのだろうか。それはそれで衝撃的というか、どうかと思う。バクがぼやいた。
「……つーことは、ましゃっとかァ? ルーヴィもかよ……」
ましゃっとはいまいち信用できない。いまいち、どころか、信用したら絶対、馬鹿を見ることになりそうだ。ルーヴィはルーヴィで、ひっきりなしにぴょんぴょんぴょんぴょん跳ねるから、落ちつかない。同じ部屋にいたら、ものすごくストレスがたまりそうだ。
「じゃあ」
「えっ」
ましゃっとは挙げた手をもっと高く挙げようとして、跳び上がった。
「俺、俺! 俺のほうが先に立候補したんだから! 俺だよ、俺! ね、弟切? 俺でいいっていうか、俺がいいでしょ? 俺で決まりだよね?」
なぜそこまでして飛と同じ部屋で過ごしたいのか。よくわからないし、気持ち悪い。疑わしくもある。ましゃっとには何か変な魂胆があるんじゃないか。
「
「お願い」
「うん」
唯虎は笑顔でうなずいた。
「
ましゃっとは泣きべそをかいている。わざとらしいにも程があるし、やかましい。
「まぁ、いいだろう」
愛田は教卓に手をついて、じっとりした目で飛と唯虎を見た。
「せいぜい荷物をまとめておけ。
「はい、先生」
唯虎は礼儀を守った言い方をしたが、はい、というより、はぁい、という感じで、先生、の発音は、せんせ、に近かった。飛にはそう聞こえた。
+++ + ++++
飛とバクは唯虎、セラと一緒にA教室を出た。愛田や木堀、他の選抜生たちも帰ったあとで、東棟地下一階の廊下にはひとけがなかった。
「そういえば、医務室って──」
飛は廊下の先に目をやった。飛たちが出てきたA教室の隣はB教室で、C教室、準備室、と書かれた室名札が並んでいる。医務室は準備室の向こうだ。戦抜後、
「医務室? ああ……」
唯虎は表情を曇らせた。この選抜生は人当たりがいいし、誰にでも好感を持たれそうな外見の持ち主だ。平気で他人を
でも、何か
「宇代のこと、気にしてる? あいつは辰神と同類の
バクが、ヒヒッ、と笑った。
「
「ヤンチャなのかな。育ちはよくないけど」
そんなふうに笑みを浮かべると、育ちがよくないどころか、良家の子息にしか見えない。そうじゃないのか。
「俺、五人兄弟の長男なんだ。弟と妹が二人ずついて。裕福な家じゃないし、大変でさ」
「……苦労人?」
「まあね。上辺を取り繕って、それなりになんとかやっていくのは、わりと得意かな」
「そのわりに、
バクが
「あいつは──相性がよくないとか、そういうことじゃないんだよな。恵まれてそうなのに、なんであんなふうに……」
辰神との間に、何かよっぽどの確執があったのだろうか。
いずれロードとバクが戦うときが来る。辰神はそんなことを言っていた。
ロードはあのタウロより強いようだ。飛としては、できればバクをロードとは戦わせたくない。かといって、辰神と仲よくできるのか。ましゃっとのように
きっと、唯虎も同じなのだろう。辰神とはどうしてもそりが合わない。飛はバクを戦わせたくはないが、唯虎はその点が違っている。唯虎はやる気だ。
自信があるのだろうか。今も唯虎に寄り添っているセラの体格は、ロードやタウロと比べても見劣りしない。
「唯虎は行ったことある? 医務室」
「何回かね。養護教諭みたいな人はいない。必要があれば、リモートで外部の医者が診断してくれるんだ」
「リモート……」
「ネット経由で、医者が体温とか心拍数とかをモニターできるようになってる」
「飛はローテクだからな!」
バックパックには言われたくないが、実際、飛はハイテク機器に詳しくない。
「……で、今までの、その──戦抜で負けた人も、医務室に?」
唯虎は斜め下に目線を落として、「ああ」とうなずいた。
「医務室に運ばれる。俺も運ぶのを手伝ったことがあるし。だけど、そのあとのことはわからない。
「人外は……戻らないよね」
「戻らない」
「けど、負けた選抜生は戻ってくる──」
「
「フゥーム……」
バクが
人外を失った
そして、人外が復活することこそないものの、たった数日で虚心症の患者が選抜クラスに復帰する。普通に考えれば、それはもう患者じゃない。虚心症から回復している。
何らかの方法で、誰かが虚心症を治療したのだ。