「どうした、おまえらァ!」

 あいよしがセンターサークル付近で両腕を振り上げた。

「食わなきゃ食われる! 食らい合え! フアイトだ……!」

 これがかいえいがくえん選抜クラスの正体だったのか。人外を持つ、特別に選ばれた生徒たちが、地下の体育館で人外同士を戦わせる。いいや、これはただの戦いじゃない。今もスクリーンに映しだされている戦抜のルール──〝せんばつじゆつてい〟には、こんな規定がある。

 五、一方の人外が他方の人外を捕食することで、勝利が確定する。

「言われるまでもねえよ、愛田先生……!」

 中学生とはとても思えない立派な体格のウッシーことしろごうけんが、小ぶりな青緑色のバッファローにまたがっている。恐ろしい角を生やしているあれは、もちろんバッファローなんかじゃない。ウッシーの人外、タウロだ。タウロは体育館の床に前脚のひづめをガツガツと打ちつけ、駆けだそうとしている。

「ただのバックパックだったときよりはうまそうだろ、タウロ! 食ってやれ……!」

 ウッシーがたくましく盛り上がったタウロの尻を平手でたたく。途端にタウロは走りだした。

とび……ッ!

 バクの姿形は、ウッシーが言うようにバックパックとは似ても似つかない。頭は筒みたいな形で口しかないし、目玉は四本指の手の甲でぎょろついている。でも、人間に近い。飛よりも背が高くて、肩幅も広く、力持ちだ。

「バク!」

 飛はそう応じただけで、ああしようとか、どうしろとか、一切言わなかった。わざわざ口に出さなくても、バクならわかってくれる。果たして、飛が右方向に駆けると、バクはその逆へ、左方向へと突っ走った。

 戦抜は人外と人外とが食らい合う勝負で、故意の人外による選抜生への攻撃、故意の選抜生による人外への攻撃、そして、故意の選抜生による選抜生への攻撃も禁じ手だ。〝戦抜十掟〟にちゃんとそう明記されている。ただし、禁じられているのはあくまでも故意の攻撃だ。わざとじゃないと審判が、つまり、戦抜クラスの担任である愛田日出義か、副担任のぼりが認めた場合は、反則にならない。そのあたりは審判のさじげん一つだ。

 ウッシーはタウロに乗って突進してくる。飛がバクのそばにいたら、ウッシーは偶然を装って、バクだけじゃなく飛にも危害を加えようとするだろう。飛はべつにいい。バクだけに戦わせるくらいなら、いっそのこと一緒に戦いたいくらいだ。バクがやられたら飛もつらい。でも、飛が殴られたり蹴られたりすると、バクだって平気ではいられないのだ。

「──チッ……!

 ウッシーが舌打ちをして、自転車やバイクのハンドルを握るかのようにタウロの角をつかんだ。タウロが突進の進路を修正する。バクだ。タウロはバクに狙いを定めた。

 これでいい。今はなんとか、バクに頑張ってもらうしかない。身軽さには多少自信があるとびだが、バクほど頑丈ではないのだ。バクはタウロに体当たりされて、宙を舞い、床にたたきつけられても、起き上がった。飛だったら、とても無理だ。おおをする。ひょっとしたら、死んでしまうかもしれない。死にたくない、というよりも、飛が死んだらバクも道連れになる。

「ヘヘッ、そうだ、こっちに来やがれ、このウスノロ……!」

 バクはタウロから遠ざかろうとしないで足を止めた。

「来いよォ……!

「やってやれ、タウロ……!」

 ウッシーがけしかけるまでもない。タウロはとっくに全速力だ。飛の心臓がすごい速さで脈打っている。目をつぶりそうになって、飛は逆に見開いた。

 タウロとバクがぶつかる。ぶちかまされる。バクは何をやっているのか。なぜさっさとけないのだろう。

 本当にぎりぎりだった。何もあそこまで引きつけなくてもよかったんじゃないか。

 バクが右斜め前方に身を投げだした。あと〇・一秒、もしかしたら〇・〇一秒でも遅れていたら、タウロと激突していたか、最低でもタウロの角がバクをかすめていただろう。飛の目には一瞬、タウロとバクが交錯したように見えたほどだ。でも、見事にかわした。

「──くっ……!

 タウロの背でウッシーが後ろを見やった。バクは転んだりすることもなく、ウッシーに向かって大きな舌をべろっと出してみせた。

「バッチリ見えたぜ! スピードは迫力ほどじゃねえな……!」

「生意気なバックパックめ!」

 ウッシーはタウロに方向転換させるなり、飛び降りた。

「本気のスピード、味わわせてやれ、タウロ……!」

 ウッシーが乗っていると、タウロはとにかく大きく見えて、威圧感が半端じゃない。ウッシーが降りて、迫力はなくなったが、軽くなったぶん動きやすいのか。足どりが軽快だ。タウロはバクめがけて走りだし、ぐんぐん加速してゆく。

「ムッ──」

 バクが左に跳んだ。早い、と飛は思った。回避の動作に入るのが、さっきよりも早かった。結果として、バクはやや余裕をもってタウロの突進をよけることができた。しかし、バクの脇を完全に行きすぎる前に、タウロがぐっと上半身を沈めた。縮めたバネが勢いよくねるように、そこからバクに躍りかかった。

「バク……っ!

 とびは思わず叫んでしまった。今、何が起こったのか。バックパックだ。

 なんとバクが、瞬間的にバックパックに戻った。

 バクがバックパックでなければ、まともにタウロのぶちかましを浴びていただろう。タウロはバックパックの上を跳び越すかつこうになった。飛は拳を握りしめた。

「よし……!」

 タウロが五、六メートル突っ走ってぐるっと回れ右をしたときにはもう、バクはバックパックではなくなっていた。バクは右手の親指に当たる指を一本立ててみせた。

「オレを誰だと思ってやがる! バク様だぜ!」

「そうやって調子に乗ってると──」

 飛は注意をうながそうとした。タウロがまた突進体勢に入っている。バクはタウロに顔を向けると、膝を曲げて腰を落とした。

 早い。飛はふたたび思った。そうだ。やっぱり早い。早くけすぎると、タウロは対応しやすくなる。見ている飛はひやひやするが、なるべく引きつけたほうがいい。

「よく見ろ、バク……!」

「アァ……!?

 バクは飛に抗議しようとした。おかげで避けるのが遅れて、タウロに肉薄された。

「──ツッ……!

 紙一重だった。バクは強風にあおられた旗のように身をひるがえして、タウロをかわした。

「それだ!」

 飛が声をかけると、バクも合点がいったようだ。

「これか……!」

「何やってる、タウロ!」

 ウッシーが腹立たしげに床を蹴りつけた。

「おまえの力はそんなものじゃねえだろ! れいとロードにしっかりと見せつけてやれ!」

 体育館を一周する二階部分のランニングコースには、選抜生とその人外たちが勢ぞろいしている。一際目立つのはたつがみ令だ。

 辰神はウッシーほどではないが体格がいい。明るい色の髪が波打っている。横長でくっきりしたふたえまぶたの目は、鋭いというより強い眼光を放っている。腕組みをして、ただ立っているだけなのかもしれないが、不敵とか、傲岸不遜とか、そんな言葉が連想される。肩幅ほどに脚を広げ、張りすぎなんじゃないかというくらい胸を張っているからだろうか。

 辰神の隣でお座りをしている人外、ロードの見た目も高圧的だ。ああいう凶暴な肉食恐竜がいたような気がする。でも、その恐竜にあんな角はなかったはずだ。

 ロードの頭には三本の角が生えている。まるで王冠をかぶっているかのようだ。

「──フッ……」

 とびの視線を感じたのか、たつがみは薄笑いを浮かべてみせた。

 辰神の第一印象は限りなく悪かったが、話してみると案外、そうでもなかった。じつはけっこう親切なのかもしれないと、飛は思っていたのだ。まんまとだまされた。

 戦抜は、参加する選抜生たちが投票用紙に必ず一人の名前を書き、互いに名前を書き合った選抜生同士の間で行われる。名前を書き合った選抜生がいなければ、戦抜は成立しない。つまり、選抜生たちが示しあわせれば、戦抜は回避できる。

 飛は前もってそのことを教えられた。戦抜が何かもよくわかっていなかったし、やるつもりは毛頭なかった。飛はウッシーの名を書いたが、ウッシーは飛ではなく、ましゃっとことひゆうがまさの名を書くはずだった。そして、ましゃっとが飛の名を書く。これで、飛、ウッシー、ましゃっとの三人は戦抜をしなくていい。そのはずが、蓋を開けると、ウッシー、ましゃっと、それに辰神までもが、投票用紙に飛の名前を書いていた。

 飛はめられたのだ。嵌めたのは、言うまでもなく、ウッシー、ましゃっと、辰神の三人だろう。首謀者はいったい誰なのか。

「……辰神れい

 飛は低くつぶやいて、タウロに目を戻した。確証はない。でも、陰で糸を引いていたのは、辰神なんじゃないか。飛はそう疑っていた。

「どっちも、がんばって!」

 陽気にも程があるましゃっとの声が聞こえた。

「こっから、こっから! 勝負はここからだよ! どっちも負けるな! て、無理か!」

 あはは……と笑っているましゃっとも、あやしいと言えばあやしい。人当たりはいいけれど、よすぎるというか、れしいのだ。ましゃっとのことは、今後、絶対に信用しないほうがいい。この戦抜に勝たないと、今後も何もないのだが。

 タウロが突っこんでくる。

「慌てるな!」

 飛の声がけを、無視したわけじゃないだろう。バクは返事をしなかったが、わかってる、という雰囲気を出していた。飛にはそれが感じられた。

 タウロが至近距離に迫るまで、バクは我慢して動かなかった。

 今だ。飛がそう思ったまさにその瞬間、バクはさっと身をかわした。

「タァウロォッ!」

 ウッシーが青筋を立てて怒鳴ると、タウロはUターンした。バクはそれを見越していたようだ。またタウロを引き寄せられるだけ引き寄せて、今度はジャンプした。

「──ほッ……!

 バクは両脚を広げ、タウロの頭に両手をついた。跳び箱を跳ぶときの要領だ。バクに跳ばれたタウロは、首を振りながらブロオオオォォォとわめいて、急停止しようとしているのかもしれないが、急には止まれなかった。ばたばたと跳ねるようにそのまま何メートルも進み、ようやく勢いを抑えることに成功して、なんとか足を止めた。

「わっ! すっごっ……!

 ほまりんことしゆほまりが目を丸くして叫んだ。彼女の人外、ナマケモノの顔をした鶏のようなデッドオーは、あるじにきつく抱きすくめられてじっとしている。

「ヘイヘイヘーイ……!」

 バクは左右の手で自分の顔をあおぐようにしてあおった。

「どうした、おまえの力はそんなモンかァ!? 見せつけるんじゃなかったのかよ!」

「ッ──」

 ウッシーが号令をかけようとした。そのときにはもう、タウロは駆けだしていた。かなり興奮しているようだ。屈辱を味わわされ、頭にきている。タウロの動作は荒々しいが、上下動が激しすぎて明らかに無駄が多い。スピードも出ていなかったせいで、バクは軽々とタウロをよけた。それだけじゃない。蹴った。バクはタウロの横っ腹に蹴りを入れた。

「ウラァッ!」

 タウロはよろめいたが、倒れずに体をねじった。バクに襲いかかろうとした。

「テェアッ……!

 バクは跳んだ。タウロを跳び越えるつもりなのか。そうじゃなかった。バクはタウロの額を踏切板にした。ひょいと跳ねて、タウロの額を踏み、さらに跳躍したのだ。

「ばっ──」

 とびは思わず、馬鹿、と罵りそうになった。だって、高い。高く跳びすぎだ。

 バクは空中でぐるぐるっと回転した。着地したバクめがけて、タウロが突進してゆく。

「おまえの動きはもう見切ったァ……!

 バクは体勢を低くして斜めに踏みこんだ。タウロに向かってゆくような動作だった。飛は肝を冷やしたが、両者はすれ違った。直後、反転して、バクは何をしようというのか。

「──シャアッ!」

 バクはタウロに躍りかかった。背に跳び乗って、タウロの胴に両脚を絡めた。パンチだ。その体勢から、バクはタウロの首や後頭部にパンチの雨を降らせた。

「オリャオリャオリャオリャオリャオリャアァァァッ……!

「タ、タウロッ……!

 ウッシーの顔は真っ赤だ。びっしょり汗をかいている。二階の選抜生たちが何やら騒いでいるけれど、上がっているのは歓声か、それとも悲鳴や怒号なのか。飛にはよくわからない。二階に目をやって、どうなっているのか確かめる余裕もない。

「くそ、そいつを振り落とせ……!」

 ウッシーが地団駄を踏んで命じると、タウロは暴れ馬のように身をくねらせながら前後左右に飛び跳ねた。

「オォッ!?

 このままでは落とされてしまう。バクは両脚でタウロの胴を締めつけるだけでなく、左右の腕をタウロの首に回してしがみついた。

「ウッ! ツァッ!? クオォォッ……!

「タァーウロ……ッ!

 ウッシーは鬼の形相で両手の親指を立て、それを下へ向けた。タウロがボオオオオォォォォたけびを発して前脚を上げ、後脚だけで立ち上がった。竿さおちだ。そこからタウロはどうするのか。また跳ねるのだろうか。違う。タウロは後脚を伸ばせるだけ伸ばし、った。あんなに反ったら、倒れてしまう。もしかして、後ろに倒れるつもりなのか。バクはタウロの背中にすがりついている。タウロがあのまま倒れたら、バクは。

「だめだ、バク! 離れろ……!」

──ッ……!?

 危ないところだった。バクが飛び離れた直後、タウロは背中から床に激突した。車と車が正面衝突したような音がしたし、かなりすごい衝撃だったに違いない。

 バクは何度か転がって起き上がった。

 タウロは体を右に、左に、また右に倒して、前脚と後脚をかつこうにばたつかせている。

「んんぬっ……」

 ウッシーは苦しげにゆがんだ顔を両手で覆った。丘みたいな肩が小刻みに震えている。

「っ、っ、っ……」

 まさか、泣いているのか。泣き声とは違う気もする。

 タウロが身を起こした。さすがにダメージが残っているはずだ。タウロは右前脚のひづめで床をくように蹴りはじめたが、きっと空元気だろう。

「っ、っ、っ……くっ、くっ、くっ、くっ……!

 ウッシーは顔から両手を外した。

「サンドバッグにしてやるつもりだったのによぉ。やるじゃねえか……」

 あれは、笑っているのか。にっこり笑っているのでも、にやついているのでもない。薄笑いとも異なる。ウッシーは眉を急角度にげ、鼻柱に何重ものよこじわを寄せて、歯を、そして歯茎までもきだしていた。何やら鬼気迫るものがある。正直、ちょっと怖い。でも、あれがどんな表情の種類かと質問されたら、笑顔としか答えようがない。

「楽しませてくれるぜぇ。予想外だよ。だがなぁ、おとぎり。勝つのは俺とタウロだ。わかっちまったんだよ。おまえの人外には、致命的な欠点があるってことがなぁ」

「……欠点」

 思わずとびは考えこんでしまった。欠点。何かあるのか。致命的な欠点が、バクに。

「飛ィッ!」

 バクにどやされた。

「惑わされてんじゃねえ! このオレに欠点なんかあるモンか!」

「いいや、あるんだよ」

 ウッシーはごつい右拳を分厚い左のてのひらたたきつけた。

「バク。おまえ、ずいぶんすばしっこいな。なかなかいい動きしてるぜ」

「褒めたって手加減してやらねえぞ!」

「いらねえな。どうせ、おまえがいくら素早かろうと、俺のタウロは倒せねえ」

「……ンだとォ!?

「鍛え抜いた俺の筋肉よりも、タウロははるかに頑丈だ。おまえがどれだけ殴ったり蹴ったりしたところで、びくともしねえんだよ、バックパック!」

「ハッ……! そんなこと、やってみなきゃわからねえだろうが!」

「だったら試してみろ! 相手してやれ、タウロ……!」

 ウッシーが尻を叩くと。タウロは踊るような身のこなしで前進を開始した。

「このッ! 小馬鹿にしやがって……!」

 バクはほとんどひとっ飛びでタウロに詰め寄った。ボクサーのような構えで、パンチを繰りだす。ワンツーでは終わらない。バクは三発、四発、五発、六発と、タウロの顔面に連続でパンチを命中させた。命中、というか、タウロは足を止めて、自分のほうからパンチをもらいにいった。痛くないのか。タウロはびくともしない。

「──ツゥッ! 何だ、コイツ……!」

 パンチでは崩せないと見たバクは、タウロに背を向けた。逃げたんじゃない。

「これならァ……ッ!

 鋭く体を回転させ、右脚を振り回した。後ろ回し蹴りだ。

 バクの後ろ回し蹴りを横っつらに食らって、タウロの頭が少し揺れた。

「──効いてんじゃねえか! オラアァッ! ウォラウォラウラララララァァ……!

 バクは勢いづいて、立てつづけに後ろ回し蹴りをタウロに浴びせた。タウロは首をすくめ、肩の位置を低くして、ひたすら耐えているように見える。でも、ただ耐えているだけなのだろうか。耐えながら、チャンスをうかがっているようでもある。

「バク、一回──」

 いったん後退して、様子を見たほうがいい。飛が言い終える前に、タウロがぐいっと首をのばした。ちょうどそのとき、バクがまた後ろ回り蹴りを放とうとしていた。バクの右足がタウロをとらえる寸前だった。タウロの角が、バクの腹に食いこんだ。

「──グゥッ……

 タウロは一気に体をねじり上げた。ね上げられたバクが、高々と宙を舞った。

 とびは駆けだそうとした。

「オトギリィィ」

 あいよしにらみつけられて、威圧されたわけじゃない。反則を宣告されることを恐れたのでもなかった。胸が、胃のあたりがぎゅっとなって苦しかったけれど、バクを信じなくてどうする。飛だけは信じないと。とっさにそう思ったのだ。

 落ちてくるバクに、タウロはもう一撃ぶちかますつもりだろう。落下地点まで移動して、待ち構えている。

ッッッ……!

 バクは空中で身をよじって、なんとか足を下にした。角はやばい。角と角の間だ。バクはタウロの頭頂部あたりを蹴って、跳躍した。タウロの後方へと跳んだのだ。

「──っし……!」

 飛はバクを褒めて、励ましたかったが、我慢した。タウロはすぐさま方向転換しようとしている。バクは転ばずに着地したものの、右手で左の脇腹を押さえて、つらそうだ。

「はっはっはっはっ……」

 ウッシーが笑いだした。

「だから言ったじゃねえか、バァークゥ! 俺のタウロにとっちゃあ、ひょろいおまえの攻撃なんざ、痛くもかゆくもねえ! 蚊に刺されるほうが厄介なくらいだぜ……!」

 タウロは攻めかからない。今にも走りだしそうな体勢で、力を蓄えている。

「……フゥーッ……ゥーッ……ゥゥ……ッ……

 バクは両腕を上げてファイティングポーズをとった。左の脇腹が削れ、えぐられている。飛も同じ箇所が痛む気がしてきた。いいや、気がするのではなくて、本当に痛い。飛の左脇腹から血が流れていないのが、むしろ不思議なほどだ。

「荷物を詰めて持ち運ばれるのとはワケが違う。バックパックには所詮、無理なんだよ」

 ウッシーは悠然とタウロに歩み寄って、その背をでた。

「さっさと降参して、タウロに食ってもらえ。気を落とすことはねえぞ。俺のタウロを倒せる人外がいるとしたられいのロードだけだ。戦抜は、俺と令の勝負なのさ。最後の最後に、俺は令に挑む。頂上決戦ってやつだ。おまえらはみんな、ませ犬でしかねえ」

「先の話はするのはやめておけ、ごうけん

 たつがみが左眉をぐいっと上げて言った。するような口調だった。

「互いに勝ち残れば、おのずとなるようになる。語るよりも他にやるべきことが、今はあるはずだぞ」

「そうだそうだぁーっ!

 ましゃっとが手でラッパを作って叫んだ。ほまりんがドン引きした顔でましゃっとを見ている。とびは頭にくるというよりもあきれてしまった。何なんだ、あいつ。

「……気が早えな」

 突然、バクが両手を左脇腹の傷口に押しあてた。押しあてる、なんて表現は控えめすぎる。飛は目がくらんで、変な声を出してしまいそうになった。

 たぶんバクは、両手の指を傷口に突っこんで、こね回している。そんなことをしたら、痛い。痛いなんてものじゃない。飛は吐きたくなった。のたうち回りたい。

 ところが、こつぜんとその苦痛がせたのだ。飛は自分の左脇腹をさわってみた。痛くもかゆくもない。見ると、バクの左脇腹も治っていた。

「なっ──」

 ウッシーが絶句した。

「この程度でオレに勝った気でいるとはなァ! へそで茶を沸かすぜ……!」

 バクはタウロに飛びかかって、太い首に腕を絡めると、頭のてっぺんにがぶっとみついた。戦抜は、人外が人外を捕食することで勝利が確定する。バクはいきなりタウロを食べてしまうつもりなのか。タウロの外皮はずいぶん硬そうだが、バクの歯だって牙のようにとがっている。刺さっているみたいだ。歯が立たない、ということはないらしい。

「アンガァンガァンガァッ……!

「タッ、タウロ……ッ!

 ウッシーが床を強く踏み鳴らすと、タウロは自分から横倒しになった。

「──ゴヮアッ……!?

 バクはタウロと床に挟まれた。それでも、タウロに噛みついたまま離れない。タウロは起き上がり、また倒れた。何度も繰り返して、そのたびにバクは潰された。

 バクがどんなに粘っても、噛みつくのが関の山だ。ずっと噛みついていたところで、タウロに致命傷を負わせることができるのか。無理なんじゃないか。

 タウロが倒れこむのをやめ、右へ左へ、前へ後ろへと跳びながら、体をひねりはじめた。バクは振り回されている。顎の力がもたない。これ以上、噛みついていられない。

「──ゥアアァウッ……」

 とうとう振りほどかれてしまった。そこにタウロがすかさず角で突き上げた。バクが巻き上げられると、飛の全身にも激しい衝撃が走った。

ぅ──……

 飛は何かに後ろから押されたようにつんのめった。倒れはしなかった。とっさに足を前に出し、その勢いで進んだ。バク。バクのところへ行かないと。バクを助けないと。落下してくるバクに、タウロはもう一発、きっと二発も三発も食らわせるだろう。

 ところが、意外だった。タウロがバクを追撃しようとしていない。

「くっはっはっ……!

 ウッシーがタウロを招き寄せて、背にまたがった。突進してくる。

「──ァガッ……」

 バクが床にたたきつけられた。とびはバクに駆け寄った。バクを助け起こしてしまったら、まずいのか。反則になってしまうだろうか。

 そんなことよりも、タウロだ。ウッシーを乗せて、タウロが突撃してくる。

 飛一人なら、かわせそうだ。自分だけなら。でも、バクはどうなる。

 体が勝手に動いた。飛はバクを引っぱり起こそうとした。そこにタウロが突っこんできた。かれてたまるか。飛はタウロの進路から、バクをずらそうとした。

 ぶつからなかった。タウロには。

 タウロの角にも、脚にも、どこにも接触しなかったが、やっぱりウッシーだった。タウロに乗っているウッシーが、右足を伸ばしてきたのだ。

「偶然! たまたまだぁ……!

「──っう……」

 蹴られたのはバクじゃない。飛だった。飛は尻餅をついてきこんだ。

「い、今のはわざとだしょやぁ……!

 ほまりんが二階から声を上げた。

「どうなんだ、しろ……!?

 あいが怒鳴りつけるように尋ねた。どこか芝居がかっている声音だった。

「事故だよ、事故……!」

 ウッシーは答えながらタウロを方向転換させた。バクが床を叩いた。

「──クッソォォォァァアアアァァァァ! 飛ィッ! オレはッ……オレは、どうしたらいい!? どうやったら、オレはヤツに勝てる……!?

「……そんなこと、僕にかれても──」

 ウッシーに蹴られた胸が痛い。その痛みよりも、脱力感のせいで飛は立ち上がることができずにいた。体に力が入らない。脱力感じゃなくて、これは無力感なのかもしれない。飛だってバクに勝たせたい。名案があればと思うが、何も考えつかないのだ。

「どう……って。どう、したら……」

「飛、おまえはオレの相棒だろうが! オレに力をくれるのは、おまえだ! この世でただ一人、おまえだけなんだぜ!」

「……僕がバクに、力を──」

 兄と離ればなれになってから、飛を支えてくれたのはバクだ。その兄が、じつは飛とバクを引き離していた。バクはいつも飛のそばにいてくれる。飛がバクの力になったことなんて、これまで一度でもあっただろうか。

あるじと人外は一心同体……!」

 ウッシーは両脚でタウロの胴を締めつけた。タウロが駆けだそうとしている。

「主が強くなれば人外も強くなる! そんなことも知らねえとはな! が……!」

 バクがとびを強くしてくれた。飛に力をくれた。飛もバクを強くしてやれるのか。バク。ただのバックパックだった、飛のバク。初めてバクがしゃべったのはいつだろう? はっきりとは覚えていない。バックパックが、どうしてしゃべるように? なんか言えよ。バクにそう言ったのは、誰だったのか。飛だ。

 一見ただのバックパックでも、そうじゃないことはわかっていた。バクはもぞもぞと動いた。抱きしめると、抱き返すようにうごめいた。飛はよく、バクに話しかけた。話し相手はバクだった。でも、バクはしゃべらない。バックパックだから。こっちばっかり、話してるじゃないか。なんか言えよ。何でもいいからさ、言ってみてよ。言えって。何か言えったら。それで、バクは──しゃべるようになった?

 しゃべるようにはなったけれど。いくら一緒にいても、所詮、バックパックだし。そんなふうに思ったことは、ある。バクに直接、言ったことも。だって、バクはバックパックじゃないか。べつに、いいんだけど。バックパックで、十分なんだけど。バクは、特別だし。相棒だから。みんな、バクのことは、ただのバックパックだとしか思っていないだろうけど。違うんだ。本当は、違う。ただのバックパックじゃない。そうだろ、バク?

 もしかして、それで、バクは──人間みたいな、あの姿に?

『オレに力をくれるのは、おまえだ! この世でただ一人、おまえだけなんだぜ!』

 バクが言うなら、そのとおりに違いない。飛はバクの力になれるのだ。この世界で、飛だけが。飛とバクは一心同体なのだから。

 きっと、タウロを強くするために、ウッシーはあんなふうになるまで体を鍛えたのだろう。その結果、タウロは強くなったのだ。

 けれども、飛が今、筋肉をつけて、立派な体格を手に入れることはできない。そんなことは不可能だ。じゃあ、どうやって?

 何か言ってほしい。飛がそう願ったら、バクはしゃべるようになった。

 ずっと、ただのバックパックなんかじゃないと思っていた。そうしたら、バクはまるで人間みたいに立って、歩いて、飛んだり跳ねたりすることもできるようになった。それどころか、飛のために体を張って戦ってくれている。

 ひょっとしたら、鳥のように空だって飛べるかもしれない。翼を羽ばたかせて、飛ぶだけじゃだめだ。

 戦いたいわけじゃないけれど、戦って、勝たないといけない。鳥だとしても、どうもうもうきんるいのように強くならないと。鋭いかぎつめがあって、それで獲物を捕まえ、やすやすと引き裂いてしまう。

「──こッ、こいつは……ッ!?

 バクが左右の手を持ち上げて、握ったり開いたりした。大きい。大きくなった。どちらの手も。ただでさえ、バクの手は小さくなかったのに。とくに指が長くなった。長さだけじゃない。爪が生えた。というより、指の先がかぎつめのような形になった。先のほうがぐいっと曲がっている。かなり鋭利だ。

「何だ……!?

 ウッシーはすでにタウロを走らせていた。いきなりバクの両手が変化したので、驚いているようだが、タウロを止めようとはしない。

「それがどうした……! 行け、タウロォ……!

「バク……ッ!

 とびがごちゃごちゃと口出しする必要はない。飛の思いはバクに通じている。そんなことはわかっているけれど、名を呼ばずにいられなかった。

「おうよ……ッ!

 バクはウッシーを乗せたタウロに向かっていった。体当たりしたわけじゃない。すれ違いざまにバクが鉤爪をひらめかせると、タウロはムオオォォォとうめいてよろめいた。

「──何っ……」

 ウッシーが体勢を崩して、タウロにしがみついた。

 タウロの左の前脚が大きく切り裂かれている。バクのかぎつめが切ったのだ。左の前脚を負傷して、タウロの足どりが完全に乱れている。ウッシーがタウロから転げ落ちた。

ぁっ……!

「オレの両手はッ! 名刀さながらだぜ! 切り刻む……ッッ!

 バクはすぐさま反転してタウロに襲いかかった。タウロは回れ右しようとしたのだろうが、急には無理だ。あれよあれよという間に、バクの鉤爪がタウロの体中を傷つけた。

「──ちくしょう! タウロ! タウロォー……!

 ウッシーは身を起こすのもそこそこに絶叫した。

「こうなったらあれを出せ、タウロ! 奥の手だ、やれぇー……!

「奥の手……!?

 何かあるのか。とっておきが。タウロが後ろ脚で立ち上がって、フボオオオオオオオオオオォォォォォォえた。

「ウォッ……

 バクは跳びすさって距離を取った。立ち上がると、タウロはでかい。バクよりずっと背が高くなる。そうはいっても、タウロは四足歩行をする人外だ。ライオンにせよ虎にせよ、後脚で立つことはできても、前脚を腕のように使えるわけじゃない。

 そのわりにタウロはしっかりと立っているし、胸を開いて前脚を左右に広げている。

 フウウウゥゥン。フウウウウウゥゥゥン。タウロは鼻息を荒くして、ひょいと前に跳んだ。歩くとか、走るとか、そういう動き方じゃないが、けっこう機敏だ。

「──オッ、こいつ……ッ!?

 バクは一歩下がった。もう一歩下がろうとしたところに、タウロが迫ってきた。

 タウロがバクを吹っ飛ばした。殴ったのか。右の前脚を振り回すようなパンチだった。肘を曲げて側面から顔面などを打つ、フック、というパンチの種類がある。それに似ていた。というか、フックそのものだ。

「──ッツァッ……!

 バクは間髪をれず起き上がった。タウロが接近してきて、左右のフックがバクに襲いかかる。ぶんぶんと、ものすごい音がする。バクは左へ右へ動いて、タウロのフックをかわしている。

 一発もらったが、どうやらダメージはないみたいだ。バクはたぶん、けきれないと思って、フックで打たれた瞬間、自分から跳んだのだろう。そうして衝撃を逃がし、受け身をとったに違いない。際どかった。

「まだ見せるつもりはなかったんだがな……!」

 ウッシーは二階のたつがみにちらりと目をやった。

れいのロードを倒すために、俺とタウロで編みだした! ボクサースタイルだ……!」

 たつがみは腕組みをして、くちもとに笑みを浮かべている。いったい何を考えているのか。よくわからないし、辰神の頭の中を探っている場合でもない。

 奥の手というだけあって、タウロのボクサースタイルは付け焼き刃じゃない。かなり練習を積んでいるようだ。フットワークは俊敏で、パンチの種類はフックだけだが、高さを変えてくる。右、左、右、左と繰り返すだけじゃない。右の次は左が来ると思わせて、右の二連打を繰りだしてきたりもする。

──ォッ、ッ……ウォッ、ッ……!

 バクはかわすだけで精一杯なのか。いいや、そうじゃない。バクはタウロの攻撃をちゃんと見ている。冷静に、タウロのボクサースタイルを見極めようとしているのだ。

 後脚で立って、たしかにタウロは大きくなった。向かいあうと、大きいというだけで怖いし、どうしてもひるんでしまう。それに、ボクサースタイルの攻撃は速い。あのフックをもろに食らったら、ただではすまないだろう。

 でも、スピードではもともとバクに分がある。タウロがボクサースタイルになっても、その点は変わらない。バクがしりごみせずに落ちついて対応すれば、あのとおり、タウロのフックはかすりもしないのだ。

 辰神が目をつぶるのを、とびは見た。そのとき辰神は何かつぶやいた。聞こえたわけじゃない。でも、ひょっとすると、辰神はこう言ったのかもしれない。おどしか、と。

 ウッシーはタウロの弱点を克服するため、奥の手のつもりであのボクサースタイルを考案したのだろう。突然あんなことをされたら、相手は慌てる。その間に強烈なフックをお見舞いされ、一発で倒されてしまってもおかしくない。バクも実際、そうなりかけたが、紙一重で切り抜けた。うろたえてもいないし、大丈夫だ。

「──シャアァッ……!

 バクはかなり低い姿勢になって、タウロの右フックの下をくぐった。同時に、タウロの右腕のような右前脚を、かぎつめで切りつけた。

 タウロはかまわず、左フック、右フックと続けざまに攻撃したが、バクはもう躱すだけじゃない。タウロの両腕のような左右の前脚を、確実に鉤爪で傷つけてゆく。

「タッ……──

 ウッシーはタウロに、しっかりしろ、とでも言ってしつしようとしたのか。でも、そんなことは言えないはずだ。タウロは全力を尽くしているけれど、ボクサースタイルがバクに通用しない。次はどう出てくるか。

 タウロがブモオオオオオォォォとほうこうし、左右の前脚を振り上げた。ひづめを床にたたきつけるのか。あわよくば、バクを叩き潰すつもりだ。いずれにせよ、タウロはボクサースタイルをやめようとしている。もとの戦い方に戻す気だ。

「──だろうなァ……!

 バクは読んでいた。タウロは今、バクに腹をさらしている。バクは見逃さずに詰め寄って、タウロの堂々たる腹をかぎつめで切り刻んだ。タウロはふらついたが、ほんの少しだった。左右のひづめをバクめがけて振り下ろす。けれども、バクはもうそこにはいない。

 背後だ。バクはタウロの背後に回りこんでいた。

 タウロが爆発音のような音をとどろかせてつんいになった。バクはそのタウロの背に跳び乗った。そして、左右の手の鉤爪を突き刺した。タウロの首の両側に、これ以上刺さらないというところまで深々と、一気に、突き入れた。

「ンンンンンンンンヌゥアアアアアアアアアアァァァァァァァ……ッッッッ!

 錯覚だろうか。その感触がとびにも伝わってきて、鳥肌が立った。バクの鉤爪は、すんなりとタウロの中に入っていったわけじゃない。タウロはすこぶる硬くて、かなり抵抗があった。もっと、もっと、もっと突き刺すには、むしろ鉤爪じゃないほうがいい。たとえば、くぎのようにまっすぐなら。飛がそうイメージすると、そのとおりになった。バクの鉤爪はまっすぐな爪となって、タウロの中にどんどん入っていった。

 これ以上は刺さらない、というところまで爪が達すると、バクは引き抜いて、すぐにまた刺した。タウロはもだえ、暴れたが、バクはやめなかった。何度も抜き刺しした。何回となく刺しては抜き、抜いては突き刺した。ウッシーが両手で首筋をかきむしった。

「あぁあっ、やっ、やめっ──」

 タウロが前脚を折った。それでも立ち上がろうとしたが、立てずにいる。身をよじっているけれど、バクを振りほどくこともできない。

「ククッ……! グハハハハッ……! ガァハハハハハハハハァ……!

 バクはたかぶっている。飛もそうだ。やれ。もっとやれ。とことん、やってしまえ。

 タウロは人外だ。血は出ない。それでも生き物のように、体の中には色々な組織がある。バクがそれを壊してゆく。どうしてこんなに楽しいのか。楽しい? 楽しいのだろうか。バクと飛は楽しんでいるのか。それとも、うれしいのか。気分がいいのは間違いない。

 タウロは刻一刻と弱ってゆく。あんなにも勇ましくえていたのに、今やブルゥゥゥゥ、ヒィィン、フィィィンと鳴くことしかできない。ほとんどバクにされるがままだ。チーターに首をまれて樹上に連れ去られたインパラみたいに、観念しているようですらある。

 ウッシーも這いつくばって、タウロ、タウロ、タウロと、人外の名を呼ぶことしかできない。あのずうたいのでかい男が、震えて涙ぐんでいる。

 飛とバクは勝利を確信していた。勝つんじゃない。勝った。

 あとは、そう、食べるだけだ。

 タウロを倒すよりも、タウロを食べるほうが難しい。だって、あの大きさだ。バクと同じくらいか、バクよりも大きいか。どうやって食べろと? 無理なんじゃないか。物理的に食べられない。

「いいか……!? いいのか、とび……!? 飛……! オレは……ッ!

 バクは爪でタウロを破壊しつづける。初めのうちはタウロに両脚を巻きつけていたが、もうまたがっているだけだ。タウロは四肢を半分畳むように折って、ほぼ横倒しになっている。ウゥゥゥ、ウゥゥゥと、弱々しく鳴いているというより、バクの爪で刺された拍子に声が漏れる。もしくは、声のような音が。

「おまえの言うとおりにする! おまえが決めてくれ、飛……ッ!

「やめろおおおぉぉぉぉぉぉ……

 ウッシーはいずる力も残っていないようだ。弱々しく、なんとか、ようやくという感じで、飛に向かって片手をのばした。やめろ、ではなく、やめてくれ、と言っているように、飛には聞こえた。ウッシーは哀願している。どうか、お願いだから、タウロを食べないでくれ、と。

 バクはきっと、飛の言うとおりにする。

 決めないと。これは飛が決めるのだ。

「オトギリ・トビ……!」

 あいよしが天井からり下ろされているスクリーンを指さした。愛田の唇が三日月みたいな形になっている。愛田は笑っている。

「この世は食うか、食われるかだ……!」

 黙れ。黙ってろ。今、考えているんだ。

 食うか、食われるか。食われるよりは、食わないと。食われるわけにはいかない。だったら、食うしかない。そもそも、食いたいのか。食いたくないのか。食べたい。バクは明らかに食いたがっている。飛だってそうだ。食べたい。腹が減っているんだ。胃も腸もからっぽで、食わずにはいられない。食べるのは、飛じゃないのに。でも、食べたい。食べたらどんな気持ちか。飛は知っている。バクがどんなに喜ぶか。もちろん、飛にとってもそれは喜びだ。だから、食べたい食べるしかない。そうだろう?

「やれ、バク」

「ああぁ……っ!

 ウッシーが絶叫した。バクは返事をしなかった。それどころじゃなかった。待ち焦がれていたのだ。バクはタウロにかぶりついた。まるで何十日も断食してえに餓えていたかのようだ。全身がしびれた。痺れているのに体が動く。食べたいからだ。次から次へと食べずにはいられない。飛は両手で顔を覆った。何だ、これ。何かが体中を駆け巡って突き抜けてゆく。これはいったい何なんだ。刻一刻と満たされてゆくのに、全然足りない。もっと欲しくなる。どこかに行ってしまいそうだ。どこにも行きたくない。行くわけにはいかない。だって、食べたい。食べないと。もっと、まだまだ、食べないと。食べたい。食べられなくなるまで、食べたい。食べられなくなっても、食べたい。食べつづけたい。

「……フゥーッ……ゥーッ……うそ……嘘だろ……嘘だ……フゥゥーッ……

 膝をついて頭を抱えているのは、バクなのか。それとも、とびなのか。

 タウロが、いない。跡形もなくなった。

 飛は──バクなのか、それともやっぱり、飛なのか──床を両手でさわって確かめたかった。何か残っているんじゃないか。まだ食べられるものがあるはずだ。顔を床に近づけて、めたい。でも、無駄だ。そんなことをしても意味がない。

 食べてしまったからだ。すっかり平らげた。

 あのタウロを? ぜんぶ腹に入れたのか? 嘘だ。嘘だろ? たしかに食べた。けれどもタウロを、あれだけの量を食べきったとは、どうしても思えない。だって、おかしいじゃないか。まだ満腹じゃないどころか、えている。まだまだ食べたくて仕方ない。

 飛は下を向いていた。体育館の床に目を落としている。二階のランニングコースを見たくない。あそこには人外がいる。選抜生たちの人外が。食べられるものが。食べたらうまいに違いない、人外たちが。見てしまったら、我慢できなくなる。そんな気がする。

 誰かが手をたたいた。

 ゆっくりと、拍手している。

 飛は顔を上げた。あいよしが手を打ち合わせていた。

「おめでとう、オトギリ。おまえが戦抜の勝者だ」

──っ……

 食欲がいっぺんにせた。飛は愛田をぶん殴ってやりたかったけれど、自制した。

 ウッシーがうつ伏せで倒れている。顔が横を向いていた。目は半開きだ。泡を吹いている。背中が上下しているから、呼吸はしているようだ。意識はないだろう。

 ウッシーことしろごうけんは、人外を失った。バクが食べた。

 人外を失ったあるじがどうなるか。飛は知っていた。今まさに、その状態をの当たりにしている。

 虚心症だ。