第六話 エルイード様の出征



 エルイード様のお部屋に入ると、エルイード様は戦争遊戯をやる大テーブルにも、お仕事をするデスクにもいらっしゃらなかった。

 お部屋も暗くなっていて、私は燭台を手にしてお部屋の奥に入っていった。

 向かう先はベッドだ。天蓋のカーテンは閉じられておらず、開きっぱなしだが、ベッドに大きな影が見える。あれよね。

 私はそちらの方に歩み寄り、サイドテーブルに燭台を置くと、エルイード様のベッドに上がり込み、そのまま膝立ちで彼の側に寄っていった。

 エルイード様は頭からシーツをかぶったお姿でうずくまっていらした。子供をオバケだぞーっと脅かす時のような格好だ。エルイード様は大きいから子供はより驚き恐れるだろうね。じゃなくて。

 私はえいやっとエルイード様の背中に抱きついた。彼はぷくぷくしているから抱き心地がいい。それに大きいから安心感がある。私は彼の背中に自分の頭を押しつけながら言った。

「ご心配召されますな。エルイード様。王太子殿下とお話をして参りましたから」

 エルイード様の背中がビクッと震える。少しソワソワするような気配がした。私が王太子殿下にどう従軍拒否を伝えたのかどうかが気になるのだろう。

「残念ながら、エルイード様の出征はお断りできませんでした。今回の戦いは王国の存亡がかかっているそうですよ」

「王国の存亡?」

 さすがのエルイード様が驚きの声を上げる。私は王太子殿下からうかがったアイバル国とハルバート王国が連合した事情をお話しした。いつの間にかシーツから顔を出したエルイード様は顔色を変えていた。

「た、大変ではないか!」

 さすがに各国の軍事情報にお詳しいエルイード様。王国がどんな窮地に陥っているかがすぐに分かったようだ。

「そうです。ですから、王太子殿下はエルイード様のお力をどうしてもお借りしたいというご意向です。エルイード様のご協力に王国の存亡がかかっているとまで仰いましたよ?」

 エルイード様が真剣な顔で息を呑む。エルイード様は王太子殿下と親しい。殿下が冗談でそんなことを言う方ではないと分かるだろう。これで出征する気になってくれればいいけど。

 しかし、エルイード様の眉は下がってしまう。俯き、小さなお声で彼は言った。

「しかし……。私には……」

 そうよね。エルイード様に決断していただくには王太子殿下のご期待だけではやっぱり足りないのだ。

 王太子殿下のご期待は、エルイード様にとって重圧でもあるからだ。子供の頃から常に王太子殿下はエルイード様を尊敬し、期待し、重圧をかけてきた。エルイード様も殿下のご期待、そしてお義父様や国王陛下からの期待に応えようと頑張ってこられたことだろう。

 しかしある時、エルイード様は重圧に潰されてしまったのだ。おそらくはお見合い相手のご令嬢からの心ない言葉や行動によって。それまで懸命に支えてきたものが折れてしまった。重圧に潰されてしまったのだ。

 エルイード様に再び立ち上がっていただくには二つのことが必要だった。一つは周囲の方々からの重圧の軽減。長いこと引き籠もったせいで周囲の期待も薄れ、特にお見合い相手は貧乏伯爵家の四女にまでお鉢が回ってくる有様になった。それはエルイード様に余裕を与えた。だから社交にも職務にもだんだんと復帰することができたのである。

 もう一つは私のような者の存在。エルイード様に期待を押しつけず、彼のために頑張る存在。彼を支えて彼を引っ張って励ましてくれる存在。そういう存在が彼の再起にはどうしても必要だったのだ。いや、今でもまだ多分必要だろう。

 エルイード様を一人で戦場に出し、周囲からの期待を背負わせたら、些細なことで彼は再び折れてしまうかも知れない。それを防ぐには彼を私が守らねばならなかった。そう。私は再び彼の背中に頭を押しつけながら言った。

「ご安心下さいエルイード様。私も一緒に戦地に参ります」

「え!」

 エルイード様が驚愕する。

「王太子殿下に同行を願い出て許されました。大丈夫です。私が常にお側におりますからね」

 顔を上げると、目をまん丸くしてしまったエルイード様と目が合った。私はニッコリと微笑む。

「その方が私も安心です。エルイード様を一人で行かせて王都で気を揉んでいるよりは。ですから、私がお側でお助けしますから、エルイード様は存分に軍略の才を発揮して王太子殿下をお助けなさいませ」

 王太子殿下は「そんなことは前例がない」と反対なさったが、エルイード様の才能を存分に発揮していただくには必要なのだと私が力説して、最終的には渋々許可を下さったのだった。

 私だってそんなことは前代未聞だと分かっているし、正直戦場に行くのは恐ろしいけど、エルイード様のためだ。私はエルイード様のためならなんでも頑張れる。そして私が頑張ればエルイード様も頑張って下さる。そうすればエルイード様はきっと見事に王国を勝利に導いて下さるだろう。

 私はそう確信し、ドヤ顔でエルイード様を見つめていた。のだが。

 ぶにっと、挟まれた。顔を。

 左右から大きな手が私の顔を押し潰した。唇を突き出した変な顔になってしまう。そして少し痛い。ちょっと。何? え?

 見るとエルイード様が私の顔をその両手でグッと潰していたのだ。私は慌てる。

「え、エルイード様いだいでず」

 うまく声が出せない。しかし私を間近で見据えるエルイード様のお顔は、これまで見たことがないくらい真剣で、怖いお顔をなさっていた。緑色の真剣な瞳が私を睨んでいる。

「バカなことを言うでない!」

 ビシャっと叩きつけるようにエルイード様が私を叱責した。つまり私は怒られた。エルイード様から怒られるという前代未聞の事態に私は呆然とする。

 しかしエルイード様は怒りに満ちていることが分かる熱さを持った手で私の顔を挟んで潰しながら、私をさらに怒鳴りつけた。

「戦場は遊戯と違って遊び場ではない! 死と隣り合わせの場所なのだぞ! 女子供の行くところではないのだ!」

 ……一応、伝説に残る女騎士の話もあるから、女性が戦場に出ちゃダメだということはないと思う。でも、私はしゃべれないので黙っていた。

「まして君が! 私の大事なルクシーダが戦場に向かうなんてダメだ! 絶対に許さぬ!」

 滅多に聞かれぬ夫からの愛の言葉に場違いにトキメキながらも、私は困ってしまう。許さぬと言われても、私にはエルイード様に出征していただく方法が他に思い浮かばなかったのだから仕方がないではないか。

 しかし、エルイード様は決然と仰った。

「戦場には私一人が行く!」

「え!?

「私が行って、ルクシーダが住まうこの王都を護ってみせる!」

 おおおおお。私は夫の勇ましい宣言に感動して打ち震えた。まだ顔を潰されていたから声は出せなかったけどね。

 エルイード様はだけど、そう叫んだ後に少し俯いてしまう。

「私などにできることはないかも知れぬが……」

「そんなことはございません!」

 私はエルイード様の手が緩んだ隙に、私の頬から引っぺがすと、エルイード様にえいやと飛びついた。

「エルイード様なら大丈夫です! エルイード様は賢くて落ち着いていて、頼りになってそして勇敢な私の自慢の旦那様なんですから!」

 私が嬉しさでエルイード様のお顔を自分の胸の中に埋めていると、エルイード様が慌てる気配がした。

「私は勇敢などではない。る、ルクシーダ。離れて……」

「いいえ! ご自分のためではなく、他人のために奮える勇気こそ、本当の勇気なのです! エルイード様はいつも私のために勇気を出して下さいます! エルイード様は私の勇者様です! そんな貴方が私は大好きです!」

 私はエルイード様を胸から解放する。真っ赤になっているエルイード様に、私は我慢できずに思いきり口付けた。

「……! ルクシーダ……」

 エルイード様は驚きながらも、でも真っ赤なお顔で私をまっすぐに見つめて下さった。彼の手が優しく私の後頭部を撫でる。私たちはもう一度、そっとキスをした。

 いい雰囲気。そう。ここは暗いお部屋のベッドの上。空気を読んだフレインたちはお部屋を出ている。このまま、その、シテしまってもいいのではなかろうか。今日はまだお出かけから帰ってきたばかりでお風呂にも入っていないのが気になるけれど、でも、チャンスなのでは。

 と、私は思ったのだけど、エルイード様は私を抱きしめては下さったけど、押し倒しては下さらなかった。

「やめておこう。決心が鈍る。戦地に向かう前の騎士は禁欲すべしと聞いたしな」

 エルイード様が冗談めかした口調で仰った。そういう風に言うということは、彼も私とここで結ばれようと、少しはその気になって下さったということでいいのかしら。

「ルクシーダ。帰りを待っていてくれ。きっと勝って凱旋してくるから。そうしたら、その時は二人で、本当の夫婦になろう」

 エルイード様とは思えぬしっかりしたお言葉だった。私はそのお言葉を聞いて頷いた。そう、彼は戦地に行くのだ。戦場で生死を分けるのは生への執着の強弱だと聞く。彼が、私と結ばれることに未練を持ってくれれば、それが執着になるかも知れないわよね。

「……お帰りをお待ちしております。私も、楽しみにしていますからね!」

 そして私とエルイード様はもう一度長いキスを交わしたのだった。


  ◇◇◇


 エルイード様が出征なさることは社交界での話題になった。なにしろ引き籠もりでこそなくなったものの、まだまだ内気で臆病な方だと見做されている方が出征を決めたのである。このことで、今回の戦役が容易ならざるものであることを感じた方も多かったようだ。

 エルイード様の決意に王太子殿下は欣喜雀躍きんきじゃくやくしたそうだ。私にもわざわざお手紙を下さり「エルイードのことは必ず守り無事に帰すから心配するな」と仰られた。ありがたいお言葉だが、本来王太子殿下こそ無事に帰ってきてもらわなければならないお立場だろう。王太子妃殿下と生まれたばかりの王子のためにも。

 エルイード様は青い顔をしながらも出征の準備を進められた。「戦争は事前の準備で勝敗が決まるのだ」と仰って。王太子殿下のところで作戦を検討しているとのことで、殿下のところにお泊まりになることさえあった。

 そして王太子殿下率いる三万の軍勢は王都の者たちの歓声に見送られて東の国境の防衛へと出撃したのである。国王陛下以下王族が城壁の上から大女神様のご加護を願う祈りを捧げる中、銀色に輝く長い隊列は街道をまっすぐに東に向かっていった。私も王族として城壁の上にいたから、エルイード様とは朝にお屋敷の門のところでお別れしただけだ。

 エルイード様は銀色の鎧に青いマント。鹿毛の駿馬しゅんめに跨って私に手を伸ばした。勇ましいご格好でもエルイード様はエルイード様。不安そうに目を泳がせて私の手を握りながら、お義父様や一族の者たちの激励に頷いていらした。

 いよいよ出立の時、私は彼の鋼に包まれた手を握り言った。

「武運長久をお祈りいたします。ご無事のお帰りを」

 喉まで「やっぱり行かないで下さい!」と出かかったけど我慢する。騎士の嫁のつらいところである。

 エルイード様は私の不安そうな顔を見つめ、不意に少し微笑まれた。

 そして、私の頭を引き寄せ、馬上から身を屈めて私の額にキスをなさった。器用なものだ。本当に乗馬はお得意らしい。

「そんな顔をするでない。必ず帰ってくる。未練が、あるからな」

 そうしてエルイード様は出立していかれたのである。この銀色の隊列のどこかにいらっしゃるはずだ。私は彼の唇の感触が残る額を押さえ、ちょっと涙ぐみながらも、改めて大女神様にエルイード様へのご加護を願ったのである。


 王国軍が出征していってから、私は精力的に働いた。

 前線で武勇を働くのが男の役目であるなら、後方支援は女の役目だ。三万の大軍を支える食糧、武具弾薬を用意するというのは並大抵のことではない。お義父様たちが頑張って下さってはいるけど、私たち妻だって安穏としているわけにはいかない。

 私は貴族婦人に大号令をかけて各領地で物資を集めてもらった。ここはもう遠慮なく次期公爵夫人の威光を使わせていただいた。公爵領が率先して王国軍の物資を調達するんですもの、貴女たちにできないわけありませんですわよね? とばかりにプレッシャーをかけたのだ。

 そうやって集めた物資をお義父様に頼んで編成してもらった輜重しちょう部隊に任せてドンドン前線に運んでもらう。今回の戦いは容易ではないと王太子殿下は言っていた。ならば物資はいくらあっても足りないくらいなはずだ。

「補給を十全に整えてこそ、軍隊は実力を発揮することができるのだよ」

 と戦争遊戯でエルイード様は何度も言っていらした。あの戦争遊戯はそういうところもしっかり再現されていて、私は何度もエルイード様の縦深陣に誘い込まれて物資が切れて撤退するところを一網打尽にされたものだ。

 物資を送ると同時に、私はあえて殊更に、王都で派手に社交を開催してみせた。王族や高位貴族にも呼びかけて何度も大規模な舞踏会や観劇会などを開き、諸国から王都に駐在している大使を招待した。

 これには「こんな戦いでは王国は小揺るぎもしませんよ。平常状態なんです」と見せて牽制する意味もあった。お忙しい国王陛下やお義父様にもあえて出ていただいて、各国の大使に王国の健在ぶりをアピールした。

 こんな風に駆け回っていると、お義父様などは大喜びして下さり、国王陛下もこっそりお褒めの言葉を下さった。王国のお役に立てたのならなによりだ。

 戦いの様子はほとんど聞こえてこなかった。厳重に秘されているのだ。ただ、お義父様のご様子からすると戦況はそれほど悪いとは思えなかったわね。「エルイードは無事だ。頑張っている」というお話だけは定期的に聞いていた。

 エルイード様なら大丈夫。

 私はその事だけを信じて、遠征軍の助けになることを頭を捻って考え続けた。

 戦いが始まって一カ月経っても状況は聞こえてこなかった。長期戦になっているらしい。戦いが始まったのは春先だったが、一カ月、二カ月、三カ月経ってさらに夏が終わろうという頃になっても戦争は終わらなかった。

 私は何人もの領主夫人と面会し、物資の供出を頼んだ。場合によっては公爵家が買い上げる形にもしたわね。もっとも、ほとんどの領主夫人は協力的だったけどね。近隣諸国から公爵家の名前で輸入もして、それも前線に送り込む。公爵家が破産してもいい。私のドレスなんて中古で構わない。そんな勢いで私は公爵家の予算をエルイード様のために使い込んだのだった。

 エルイード様のことは心配で心配でたまらなかったけど、お義父様の表情は明るかったからご活躍なさっているのだろうと信じていた。もちろん、毎日大女神様にご武運とご無事をお祈りしていたわよ。


 そして戦争が始まって半年後のある日。王宮で舞踏会を開催して、例によってご婦人方と前線の支援のための話し合いをしていた時のことだった。この夜会には国王陛下も出て下さっていた。陛下はかなりお疲れでいらっしゃるのに「弱気は見せられぬ」と私の意図に応じて頻繁に夜会にお顔を見せて下さっていたのだ。

 すると宴もたけなわというタイミングで、突然ホールのドアが開かれた。少し無作法な開けられ方だったのでご婦人方は驚きの声を上げ、私や国王陛下を守っている護衛の者がサッと私たちを庇う。

 しかし入ってきたのは王国軍の兵士。しかも軍旗を持った兵士だった。軍旗を持っている兵士は伝令で、その軍旗には「最優先での行動を許す」という意味がある。

 軍旗を見た国王陛下は顔色を変え、護衛を押し除けて前に出た。伝令の兵士も陛下を見つけて駆け寄り、陛下の足元に跪いた。

「国王陛下に申し上げます!」

 兵士の大きな声が響いた。間違いなく戦場からの伝令だ。周囲の者たちが息を呑む。国王陛下は姿勢を正すと、重々しいお声で仰った。

「許す!」

「は!」

 伝令の兵士は大きく息を吸い込みホール中に響き渡る大声で叫んだ。

「王太子殿下率いる王国軍は二日前! アルケードの野でアイバル国、ハルバート王国連合軍と激突! これを!」

 顔を上げた伝令の兵士の表情に歓喜が満ちる。

「徹底的に撃滅しましてございます! 我が軍の、我が国の大勝利でございます!」

 その瞬間、固唾を呑んで見守っていた周囲の者たちが一斉に叫んだ。歓喜の叫びだ。

「やったー!」「キャー!」「ウォオオオー!」「凄い!」「なんと!」

 なんて声が重なって響き渡り、ホールの天井を震わせた。貴族仕草を放り投げて万歳をする者。抱き合う夫妻。泣いているご婦人もいた。私も親しい婦人と抱き合って喜んだわよ。

 そしてひとしきり喜びを爆発させた後、私たちは国王陛下に向かって拍手をした。

「おめでとうございます! 国王陛下!」

「国王陛下万歳! 王国万歳!」

「王国に栄光あれ!」

 私たちはそう叫びながら拍手をして陛下を讃える。国王陛下は最初はそれに右手を上げて応えていたが、やがて驚いたことに、穏やかな表情のままハラハラと静かに涙を流し始めた。私たちが呆然と見守る中、陛下はしばし瞑目され、そしてゆっくりと仰った。

「皆に礼を。大女神のご加護と皆の協力により王国は勝利せり。……ありがとう」

 万感の思いが詰まった国王陛下のお言葉に、誰もが感動の涙を浮かべた。

「国王陛下万歳!」「王国に栄光あれ!」

 ホールは再び大歓声に包まれたのだった。