えすえぬえす、が何かはイナリには分からない。フォックスフォンでも教わってはいないからだ。さておいて、なんだかイナリのファンであるのは確実であるし、自分の影響で覚醒フォンを購入したとまで言われては、イナリとしても無下に出来るはずもない。イメージキャラとしても、人としても、そうするのが正しくないことなどは当たり前に過ぎるだろう。まあ、イナリは人ではないけども。とにかくそういうことであれば、とイナリは優しく二人に微笑みかける。

「まあ、写真くらい構わんよ。一緒に、ということは誰かに頼まねば……」

「お困りですか!?

「ぬ!? その声は!」

聞き覚えのあり過ぎる声にイナリが目を向ければ、そこにはメイドが……五人いた。

「秋葉原でああ困った、そんな時!」

「優しく頼れる、そんな存在でありたい!」

「荒みがちな生活に安らぎを!」

「趣味と実用の両立に完全回答!」

「世界のために今日も征く!」

五人のメイドは流れるような動きでポーズを取り、ビシッと決める。視線まで完璧な辺り、相当な修練を積んだことが窺える。

「『使用人被服工房』メイド隊! ただいま参上です!」

瞬間、周囲の人々がドワッと沸き上がる。待ってました、と言わんばかりの歓声に口笛まで聞こえてくるあたり、どうにも皆慣れている感じがある。

「イナリさん、おはようございます!」

「うむ……朝から元気じゃのう」

「これもお仕事ですから! あ、それとフォックスフォンのイメージキャラ就任おめでとうございます!」

そう、使用人被服工房のエリと、その同僚たちである。武具を見る限り、全員ジョブが違うようだが……全員、エリ同様の実力を持つようにイナリには見えていた。つまり、結構鍛えられているということだ。

「うむ、ありがとうのう。それで、えーと……何の話じゃったか」

「写真ですよね!? 私たちが思い出に残るモアベターなものを撮らせていただきます!」

「ちなみにベストと言わないのは押しつけがましいのはよろしくないというメイド精神です」

「う、うむ」

もえばたあ、とは何じゃろか、とはイナリは言わない。なんかこう、流れに任せた方がいいような気がしていたからだ。あと「もえばたあ」とか言ったが最後エリが「萌えバター」と聞き取ってテンションを謎に上げただろうし下手をすると新商品が出来上がっていただろうから、イナリの直感は実に正しかった。

「そちらのお二人も如何ですか? よろしければ私たちに思い出作りのお手伝いをさせてくださいませ!」

「え、あ、あの……お願いします!」

「嬉しいです! あ、あの。良かったら皆さんとも写真を」

「大歓迎です、お嬢様!」

「皆様ー! 申し訳ありませんがお嬢様たちの思い出作りにご協力頂けると嬉しいです!」

そんなこんなでメイド隊の仕切りで少女たちの思い出が作られた……のだが。

他の誰かが「自分も」と言い出す前に約束があるからと抜け出せたのは、これまたメイド隊の見事な仕切りによるもので。

「うーむ。なんかまた世話になってしまったのう……」

イナリはそんなことを言いながらも、なんとかフォックスフォンへと辿り着くのだった。

◇◆◇

フォックスフォンの代表室。もはやイナリは顔パスであるが……広いその部屋のふかふかのソファーに座りながら、イナリは頭を抱えていた。その原因は、山のように積まれた企画書と、ズラリと並んだ試作品の数々である。

「いかがですか? 持ち込み企画に社員からの企画……どちらも凄い熱の入りようです」

満足げな顔で言う赤井に、イナリはどう答えたものかと言葉を選ぶ。

まあ、熱意は分かった。物凄く分かった。何故もう試作品があるのかは分からないが、出来がいいのもよく分かる。しかし、しかしだ。

「何ゆえわしの小さな像があるんじゃ? それも複数あるように見えるんじゃが……」

「はい。こっちはアクスタでこっちがフィギュアですね。企画だけなら似たようなのが幾つかありますけど、この二つは製作系の覚醒者が一晩でやってくれました」

そう、机の上に載っているのは両面アクリルスタンドと呼ばれるタイプのグッズと、小さく精巧なフィギュアだ。公式サイトの画像を参考にしたのか、笑顔が実に眩しい。

「よう分からんが、この『あくすた』と『ひぎあ』を欲しがる者がいる……と?」

「はい。過去の事例からいっても人気の覚醒者のものは結構売れます。詳細な図案は狐神さんの了承と監修を受けてからの予定ですが、まずは予約生産とするつもりです。あとは定番商品も押さえていくつもりですが具体的には……」

そこから赤井の説明が詳細に続いていくが、イナリの頭はもういっぱいいっぱいである。何を聞かされても「うむ」しか言えない状態にされてしまいそうだ。だから、イナリは途中で「ちょっと待ってほしいのじゃ」と赤井を止める。

「はい。休憩にしましょうか?」

「いや、わしには正直まーったく分からん! たとえばこの『くりあはいる』一つとっても分からんのじゃ。理解する努力はするが、誰がどういう理屈で何を欲しがるのか今のわしには理解できん。こんなわしが話を聞くよりも、赤井に任せた方が良いと思うんじゃ」

「……ふむ。そういうことでしたら、私の方で検討して出したいと思います。狐神さんのほうで、出しても問題ないかだけチェック頂けますか?」

「うむうむ。それで構わん。いや、申し訳ないのう」

「いえ。そうなりますと……」

赤井は言いながら、書類や試作品の山を手がぶれるほどの速度で仕分けしていく。その人間離れした動きに「そういえば赤井も覚醒者じゃったのう……」などと思い出す。

そうして選び出されたのは、すでに試作品もある両面アクスタとフィギュアがリアルとデフォルメで二種。クリアファイルにキーホルダー、そして狐耳カチューシャとテーマソングである。

「こんな感じでいかがでしょう?」

「わしは歌わんぞ」

「え!? 横文字が凄い怪しいから押せると思いましたのに何故!?

「わしだってそんぐが歌だってことくらい知っとるわい。わしの歌なんぞ世界に披露してどうするんじゃ」

「絶対ウケますって! 販売数一位も余裕ですよ!?

言いながら赤井はサッとプレイヤーを取り出し再生を始めてしまう。

─コンコン♪ かわいい狐のかわいい─

「せいっ!」

「あっ、なんで止めるんですか!?

「なんじゃコンコンって! あとわしに自分でかわいいとか歌わせるつもりかえ!」

「いいじゃないですか! 私は是非歌ってほしいです!」

「それにしてもこの歌はないじゃろ」

「そんなにお嫌ですか……狐神さんの歌で救われるものがあるんですけども」

「何が救われるか言ってみるとええ」

「ヒット間違いなしの歌に関わる関係者の生活とか」

「ぬう、嫌なところを突いてきよる……!」

しかし嫌なものは嫌である。何故「コンコン」とか歌わなければならないのか。演歌を歌えと言われたならちょっと本気で考えたものを。まあ、今の時代でどんな歌がどの程度ウケるかは分からないのでそんなことは言えないのだが。

「まあ、仕方ありません。歌については再度歌詞と曲調を検討し提案しますね」

「諦めるって選択肢はないんじゃのう……」

「そりゃまあ、歌自体がお嫌いであれば諦めますけども」

「うーむ。そういうわけではないがのう」

「それに、こういうのは本人のスタイルを加味した方が良い物が出来上がるのは確かなので……黒の魔女の『深淵の闇より出でよ』を聞かれたことは?」

「ないのう……」

「一度聞いてみるといいですよ。自己愛の化身みたいな歌ですから。凄い脳に残ります」

「聞きたくないのう……」

そもそもイナリとしては「黒の魔女」とか言われても「誰?」という感じではある。覚醒者であれば誰でも知っているレベルには有名だが、イナリは覚醒者にそもそもあんまり興味を持っていないので知らないのだ。

「ちなみに秋葉原だと有名な『使用人被服工房』でも歌を幾つも出してますよ。最新曲の『GOGOメイド隊!』は結構な売り上げを記録してます」

「覚醒者はあいどるじゃったかのう……」

「アイドルみたいなものですよ。世界の平和と笑顔を守るスーパーアイドルです」

「……ふむ。そういう考え方は嫌いではないのう」

覚醒者という強い力を持つ者が自分たちという存在をカッコよく、かわいくアピールする。それもまた、現代社会における上手いやり方なのだろうとイナリは思う。

「というわけで狐神さんもファーストライブを目指しましょう」

「そのフリフリの図案を引っ込めい……!」

まあ、イナリがやるとかそういうのは、話は別なのだけれども。

◇◆◇

そんなグッズ会議から数日後。東京第五ダンジョンをアッサリとクリアしたイナリは、戦利品を前に驚愕で口を開けている職員の前で電話を受けていた。その顔も、職員に似て驚いた表情だ。

「えーと……すまん。よく聞こえんかった」

『全てのグッズが予約だけで予定生産数に届きました。かなり多めに見積もったつもりなんですが、先程二次生産分の予約受付を決定しました。フィギュアなんかまだデザイン公開してもいないのに『予約させろ』という要望が凄いです』

「裕福な人が多いんかのう……」

『良いことじゃないですか』

「そうじゃのう」

なんかよく分からないが、予約受付した分のグッズが予約分だけで完売になったらしい。イナリとしては「何故?」という話ではあるのだが、そう思ってしまうのはイメージキャラに選ばれるような覚醒者という現代社会のアイドル事情をイナリがまだ理解できていないということではある。仕方ないけれども。ともかく、なんだか凄いことになっているらしいことだけはイナリも理解できた。

電話を切ると、ふうとイナリは息を吐く。

「何やら凄いことになったのう……」

「ええ、本当に。こんな、こんな凄いことに……」

「おお、分かってくれるか」

「勿論です! 正直ドロップ品はたいしたことないですが、こんなネズミ柄の報酬箱なんか見たことないです!」

あ、そっちじゃったか。とはイナリは言わない。職員からしてみれば、当然そっちの話になるだろう。実際、ドロップ品は職員の言う通りに大したことのないものばかりだ。

スライムの破片に化けネズミの歯など、使い道は存在するが大した値段にもならないものがどっさりだ。買い手も少ないので粉砕処分などにされることも多いくらいだ。

だが……報酬箱は違う。金、銀、銅のようなものではなくラッピングされた箱など職員は初めて見た。まあ、イナリからしてみれば「またこういうのか」になってしまうのだが、何やら特別なものであることはイナリにも分かっている。だからこそ適当に包み紙を破って開ければ……中から出てきたのは一本のナイフだ。何かを削りだして作ったように見えるソレを職員が鑑定すると、なんとも微妙な顔になる。

「えーと……化け鼠のナイフ、ですね。たぶん下級中位くらいの品だと思われますが」

「うむ、要らんのでおーくしょんとやらに出しといてくれるかの? わしは魔石だけ持って帰るでの」

「はい、おつかれさまでした」

化け鼠のナイフ。攻撃力は低く、装備した者の敏捷にほんの僅かに補正があるという武器だ。

市場価値として十万から二十万程度だろう。駆け出しの覚醒者にとっては中々に良い武器かもしれないが、その程度ではある。

まあ、東京第五ダンジョンからこんなものが出ただけでもそれなりではあるか……などと職員は思う。

狐神イナリ。フォックスフォンのイメージキャラとして売り出し中の彼女がこんな不人気ダンジョンに来ただけでも驚きだが、攻略速度も凄かった。先日の秋葉原ダンジョンにおける彼女が一人で攻略したという噂も真実なのではないかと思えてしまうほどだ。

「凄い覚醒者は散々見てきたと思ったけど……上には上ってことかなあ」

いいものを見た。そう呟きながらアイテム運搬係を呼ぶ職員だが、自分の覚醒フォンに連絡が来たのに気付き職員は「え?」と声をあげる。

「狐神さんですか? 先程お帰りになられましたが……引き留めろって、ええ!? だってもう姿見えませんよ!?

職員が無茶を言うなと叫んでいる間にも、バスを待っていたイナリの覚醒フォンに安野から着信が入る。

「もしもし、わしじゃよ」

『あ、狐神さん! 今どちらに!?

「第五だんじょんを終えてきたところじゃよ? 今はバスを待っとる」

『よかった! 至急第五ダンジョンまで戻ってください! 迎えのヘリが向かっていますので!』

「……あれかのう」

何やら遠くから爆音と共に向かってくるヘリコプターを見ながらイナリはなんとも言えないような気分になる。いきなりあんなものを迎えに来させるということは、十中八九面倒ごとだろうが……一体何が起こったというのか?

「何の用かは今聞いてもええんかの?」

『私も正確には把握してません。けれど……東京第一ダンジョンで何かがあったようです。トップランカーの人々は忙しい人も多くて、私が伝手がある中で一番強そうなのが狐神さんだったもので……!』

「ふーむ」

そんなことを聞きながらも、イナリはすでに東京第五ダンジョンの敷地に戻り、ヘリもどんどん近づいてきていた。

まあ、そういう事情であれば断るわけにもいかないし、東京第一ダンジョンという場所にはイナリも興味があった。今まで一度もクリアされたことがないという性質上、白カードのイナリでは予約すら出来なかったのだ。そこに関する話だというのであれば、話を聞く価値は充分すぎるほどにある。だから、イナリは電話の向こうの安野にこう答える。

「まあ、何かあってわしの力が必要というのであれば……わしを頼ってくれたこと、後悔はさせんよ」

東京で最難関と言われる東京第一ダンジョンで何が起こったのか。

それは分からないが……頼られて無下にするほど、イナリは薄情ではないつもりでもあった。

その電話からしばらくたった後に迎えに来たヘリには、なんだか久々に会った気のする二人が乗っていた。

「おお、お主等は確か……丸瀬と高野……じゃったかの?」

「丸山と宅井だ」

「俺の名前、『た』しかあってねえ……」

そう、丸山正と宅井雄一。あの廃村までイナリに会いに来た二人であった。どうやらこの二人が迎えらしいとイナリは悟り、しかし一応確認する。

「で、お主等が迎えということでええんかの?」

「ああ。詳しいことは道中で説明する。乗ってくれ」

そうしてイナリがヘリに乗れば、そのまま何処かへ向かって飛び始める。そのヘリの中で、丸山が「さて」と早速話を切り出す。

「時間がないから要点をまとめて伝えさせてもらう。今回の仕事は捜索だ。可能ならば救出も視野に入れてほしい」

東京に幾つかある固定ダンジョンは全て、定期的に「大規模攻略」と呼ばれるものが行われる。これは必ずしもダンジョンの攻略を意味するものではなく、ダンジョンの中のモンスターを間引く意味合いが強い。

というのも、ダンジョンは一定期間モンスターを倒さない期間が続いたとき、中のモンスターを地上へ溢れ出させる性質を持っているからだ。モンスター災害と呼ばれるそれを繰り返させないための大規模攻略だが、東京第一ダンジョンに関してだけは違う。このダンジョンは攻略されたことがなく、便宜上他の固定ダンジョンと同じ扱いをされているが実際には臨時ダンジョンかもしれないのだ。

そして、その東京第一ダンジョンの大規模攻略が、どうやら失敗した……というのが今回の話がイナリへと来る理由となった、そもそもの原因だ。

「なるほどのう。ちなみにその話がわしに回ってきた理由は?」

「……十大クランの一角が失敗したからだ」

日本十大クラン。公式的な記録があるわけではなく、そう呼ばれているというだけではあるが誰もそれに異論を唱えることがない程度には圧倒的な力や規模を持つ十のクランのことだ。

『富士』『天道』『ブレイカーズ』『閃光』『ジェネシス』『武本武士団』『サンライン』『ドラゴンアイ』『魔道連盟』『越後商会』。それぞれ方針もやり方も違えど、十大クランと呼ばれるに相応しい実力を持っている。

「だが今回、『越後商会』による大規模攻略隊が五日たっても連絡がない。通常であれば、どんなに遅くても三日で帰還するはずなのに……だ」

「確か覚醒ほんはダンジョンの中でも通じるんじゃろ?」

「そのはずだ。だが、例外がないなどとは誰にも言えない」

「道理じゃ」

覚醒フォンだってダンジョンから出たものを利用した技術だ。そのダンジョンの中に、覚醒フォンの仕組みや力を上回る、あるいは封じるものがあったところでイナリは不思議とは思わない。たとえばイナリが結界を張っただけでも覚醒フォンは使用不能になる可能性だってある。

「越後商会は十大クランの中では経済活動に偏っていて実力は一番下だ。だが、それでも十大クランと呼ばれるに相応しい実力はある。なのに今回、連絡を絶った。正直、これだけでも大事件なんだが……今回行方不明になったメンバーに、越後商会のクランマスターが居るのが更に問題なんだ」

言いながら丸山が出してきた資料には、可愛らしい少女の写真が貼られている。

おかっぱ頭の黒い髪と眼鏡が印象的なその少女の名前は「越後えちご八重香やえか」。弱冠二十歳にして巨大クラン「越後商会」を動かす、やり手でもある。

覚醒者の能力を活かした流通業を主力とする越後商会は、ジョブ「商人」を持つ八重香の超人じみた処理能力に支えられている部分が少なからず存在している。勿論八重香が留守にしたところで企業としてもクランとしても越後商会は動く。動くが……十大クランでもある越後商会のマスターの座は、日本中の誰もが欲しがるものだ。

あまり考えたくはないが八重香が死んでしまった場合……かなり大規模な内部争いと、それに伴う流通への大規模な影響も考えられる。それを防ぐためにも、八重香には生きていてもらわなければいけないのだ。

「……と、ここまでが覚醒者協会日本本部からの話なんだが。今の越後マスターが死んで椅子が自分に回ってくることを妄想してる連中なんてのもいる」

実際、そうした連中の手引きによるものかトップレベルの覚醒者にはすぐには外せない仕事が殺到している。たとえば魔法系ディーラーの中でもとくに有名な「黒の魔女」も今は北海道に行っている。それに、この話をあまり大きく広めたくもない事情もある。

「十大クランの攻略隊が東京第一ダンジョンで全滅した。そんな話が表沙汰になれば、経済への影響がエグいらしい。だから『苦労したがなんとかなった』という話に持っていく必要がある」

「ふむ……」

そこでイナリに白羽の矢が立ったということのようだ。とはいえイナリだって死人を黄泉から連れ戻すことは流石に出来ない。それに、何よりも。

「人の口に戸は立てられぬぞ? わしがこの子を救ったところで、必ず何処ぞより話が漏れるじゃろうよ」

「ああ、別にいいらしい。今はとにかく、生きていてほしい……とのことだ」

「ま、確かにのう」

それに関してはイナリとしても同意だ。生きていればどうにでもなる。後のことは、全部終わった後に頭のいい連中が考えればいい。イナリは、そのくらいシンプルに自分の中で今回の件を整理したのだった。

東京第一ダンジョン。かつて渋谷と呼ばれた区域に出現した東京最高難易度のダンジョンは、モンスター災害において上位に入る被害者数を叩きだしたダンジョンでもある。

迷宮型と呼ばれる東京第一ダンジョンは毎日その構造を変化させ、地図がその当日しか意味をなさない構造になっている。だからこそ未だにクリア者が出ないとも言えるのだが……厳戒態勢のそのダンジョンの入り口前に、今イナリは立っていた。

「本当は俺たちもついていきたいんだが……東京第一レベルになると、ほとんど役に立てん」

「まあ、だからこうして日本本部から委託受けるような真似して稼いでるんだけどな」

丸山が宅井に肘鉄をして「うっ」と言わせているが、まあこの二人も良いコンビなのだろうとイナリは思う。そして何よりも、ついてこられても守る手間が増える分邪魔でしかない。何故なら、この東京第一ダンジョンからは凄まじいほどに強大な力が流れ出して来ている。恐らくは、あの廃村に現れたダンジョンのようにゲートを破壊しようとしたとして、渋谷ごと吹き飛ばすつもりでやらなければ難しいだろう。

(なんという……恐るべき力よ。斯様なものを人の子らは制御できていると本当に信じているのじゃろうか……?)

とはいえ、このダンジョンを吹き飛ばすわけにもいかない。システムも警告文を出して来ている。つまるところ、正攻法……推奨される方法で挑まなければならない。

「うむ。では早速行くとしようかの」

「ちょ、ちょっと待った。武器は? 防具もないみたいだが」

「ん? ああ。自前のがあるでの……狐月」

イナリが呼べば、その手に刀形態の狐月が現れて、発せられる神気とでも呼ぶべきものに丸山たちが気圧される。こんなものがあるなら確かに要らない。そう思わせる力が狐月からは発せられていた。

「凄い刀だ……見てるだけで分かるぞ……!」

「なんてこった。あんなものがあったのか!」

そんな驚愕の声が聞こえてくるが、実際今、狐月はどうもあらぶっているように見えた。その理由をイナリはなんとなく察していたが……そのまま、振り返ることもなくゲートへ入っていく。変わった景色の先は、石の壁の迷路じみた場所。そして濃厚な、死の匂い。

「ああ、いかん。いかんな。此処は穢れに満ちておる。お主が荒ぶるのも酷く当然じゃろうのう、狐月よ」

「キイヒヒヒヒヒヒ!」

「キヒャヒャヒャヤ!」

赤い帽子を被ったゴブリン……レッドキャップが二体、迷宮の壁や天井を凄まじい跳躍力で跳ねながらイナリへと向かってくる。ゴブリンなどと一緒にするのが失礼なレベルの身体能力と、それを使いこなす頭脳。魔法すら使うと言われる、レッドキャップたちは小剣を振りかぶって襲い掛かってくる。そして……イナリの狐月で首を切断され、一撃の下に絶命した。

「速い、のう。しかし残念なことに見えずとも斬れるんじゃよ。動きがバレバレじゃからの」

そう、イナリの目ではレッドキャップの動きは追い切れていなかった。いなかったが……レッドキャップの体格と速さと得物の射程が分かり、相手の狙いが読めれば……そこに斬撃を「置く」ことは、イナリにとっては、然程難しくはない。

とはいえ、最初からこんなものが出てくるようでは奥はどうなっていることやら分からない。

イナリは狐月を持ったまま、通路を進んで。

「おおっ!?

壁から飛び出した無数の突撃槍の如く太い針の群れが、イナリを展開した障壁ごと反対側の壁へと押し付ける。

「な、なんじゃあ? 罠……? これ、わしじゃなきゃ串刺しになっとるじゃろ」

イナリは障壁を張ったしイナリの巫女服を貫けるようなものとは思えないのだが、一般的に人間がコレに刺されたら高確率で死ぬだろう。元の場所に戻り消えていく針だが、イナリがじっと見ると「なんか変な力の流れがあるような……」というくらいで、見た目には普通の壁にしか見えない。

「なんとまあ。こんなのは初めてじゃ。しかし、此処に死体がないということは上手く対処したのかもしれんのう」

中々やるのう、と言いながらイナリは歩き、床の隙間から湧いてきた粘液モンスター「ウーズ」に無言で狐火を放って燃やす。

「ブググググ……!」

「あめいば、とも違うようじゃが。音がぼこぼこ五月蠅うるさいのう」

言いながら歩き、襲い掛かってきたレッドキャップの首をはねる。このタイプはそうすれば殺せると分かっているから、一切迷いはない。落ちた魔石も、今は回収しない。人命救助の成否がかかっているからだ。そうして曲がり角を曲がった瞬間。

「なんとぉっ!?

イナリは突撃してきたイノシシモンスター、スタンプボアに弾き飛ばされる。しかし、スタンプボアはただイナリに突撃してきたわけではない。その背には、一体のレッドキャップ。ニヤリと笑って隙を逃さず飛ぶレッドキャップに、イナリは即座に狐火を発射して撃ち落とす。

「ゲッ……」

立ち上がり即座にスタンプボアに飛び乗ったレッドキャップは、弓形態の狐月を持っているイナリに目を見開く。それはすでに、弦が引き絞られて。