いつもビシッとしたスーツ姿が似合っているが、ラフな恰好も案外、いや、かなり似合っている。

 首元の緩いボートネックからは、形の綺麗な鎖骨がちらりと見えていて、まくった袖から見える腕はしっかりと男らしく、しなやかな筋肉のすじがうっすらと見える。

 スタイルはよく、ウェストは引き締まっていて、その先に伸びる足はすらりと長い。こんなにも素敵にデニムパンツを穿きこなす男性を見るのは初めてかもしれない。

(改めて見ると、鹿嶋さんって本当に恰好いいなあ。袖をまくってるところとか、男らしいし……)

 そこまで考えた時、ふと、あのホテルで鹿嶋が袖をまくったところを思い出した。

 紳士な鹿嶋がいつになく粗雑な仕草でシュルリとネクタイを外し、ワイシャツの手首のボタンを外し、袖をまくり……そして、知代に近づいて、大きな手で触れた、あの時を。

「知代? おい、知代」

 ボーッとしているところで、鹿嶋が知代の名を呼ぶ。

「はっ!?

 我に返った知代は、思わず顔を熱くしてしまった。どうしてあの夜のことを思い出してしまったんだろう。そして、どうして自分の胸はドキドキしているのだ。

(の、のぼせたかな。足湯って、結構のぼせるんだよね!)

 ぱたぱたと両手で自分の頬をあおぐ。

「えっ、えーっと。そうだ! 前に、鹿嶋さんが誘ってくれたお笑いのライブ。結局仕事が忙しくなっちゃって、行けずじまいでしたね」

「ああ、お笑いバトルショーか。そうだな。今は、それどころではなくなってしまったし、仕方ないだろう。またの機会に、ということで。……また、があればいいけど」

 ぼそっと言葉をつけ足す。

(そういうところが、ネガティブなんだよねえ)

 知代はしみじみ思った。鹿嶋は表面を繕っているだけで、本当の彼はこんなにも後ろ向きである。

 だからつい、知代は強い口調で言ってしまった。

「もう、そういう時ははっきり、次はいつにしようって約束取りつけるくらいしてくださいよ」

 すると、鹿嶋は驚いた顔をして、知代を見た。

「え……」

「え、じゃないですよ。私だって楽しみにしてたんですからね」

 一緒にライブを観に行くのは、つまりデートになるのではないか。そう思うと無性に照れてしまうけど、かといってこのまま黙って、話を流すのも嫌だった。

「鹿嶋さんに、スーパー銭湯しか趣味がないなら、お笑いも趣味に入れてくださいよ。お笑いバトルショーめちゃくちゃ面白いんですから、絶対ハマると思います」

「そうかな。俺も楽しめるかな?」

「絶対楽しめます! 私なんか毎回、お腹痛くなって苦しくなりながらも笑い転げてるんですからね!」

 知代が力説すると、鹿嶋はふっと唇の口角を上げた。

(あ……笑った)

 なぜだろう。会社ではいつも穏やかな笑みを浮かべている鹿嶋なのに。

 どうしてか、今初めて、彼が本当に心から笑ったのだと思った。

「だ、だからその、お笑いのライブは、近いうちに絶対行きましょう。はい!」

 照れ隠しに俯きながら、知代はサッと小指を立てて出す。

「この年で指切りか?」

 子供っぽいと思っているのだろうか。鹿嶋が困った顔をする。

「そうですよ。わ、忘れないように、です」

 ずいと知代は詰め寄った。

 どうしてこんなことを言っているのだろう。どうしてこんなにも必死に、鹿嶋を誘っているんだろう。

 知代はまだ、自分の気持ちがよくわからない。

 だが、鹿嶋がそっと小指を絡ませてきた時、ドキッと胸が高鳴った。

「わかった。……やっぱり、君はすごいな」

 きゅっと小指を繋ぎ合わせて、鹿嶋はしみじみと言う。

 知代は、これが足湯によるものなのか、それとも別の要因なのか、さっぱり理解できないまま、顔の火照りだけがぐんぐんと熱くなるように感じた。


 組織にルールは必要といえど、営業の仕事にはどうしても『なあなあ』の部分がある。本来は踏まなくてはいけない手続きや書類。それらを後回しにして先に動かなければならない時は、最後に帳尻を合わせればよいという考えも、少なからずある。

 結果が全て――というのは暴論だが、営業の世界は基本的にそういうものだ。知代だって、手順を省略したことは何度もある。

 監査室の存在は、想像していた以上に営業の足を引っ張った。

 一週間、二週間と過ぎて「まだいるのか」とあからさまにうざったそうな顔で、監査を睨みつける人も増えていった。

 そして三週間目に入って――。

 とうとう、爆発する者が現れた。

「いい加減にしろよ! なんでいちいち本部のお伺いを立てないといけないんだ!」

 西日が差し込む夕方の営業部に、山野の怒声が響く。

 パソコンで見積書を作成していた知代は、思わず後ろを振り返る。

 営業部の入り口あたりで、山野とランベルトが口論していた。

「お伺いを立てるのではなく、許可を得てくださいと言っているんです」

「そんな許可、他の支社も取ってねえだろ!」

「ええ、ですから。何度もメールで通達しているはずで……」

「誰も取らねえってことは、必要ない手順ってことなんだよ! なんでも決まり決まりってロボットみたいに繰り返しやがって。少しは現場の事情を考えやがれ!」

 我慢の限界が来たのだろう。山野はやけにヒステリックな様子で怒っている。知代は慌てて立ち上がって、周りを見た。まだ鹿嶋は営業先から帰っていないようだ。仕方がないと、自ら仲裁に向かう。

「だいたいな。監査が長すぎるだろ。もう三週間だぞ? もしかしてアレか。名古屋支社に対する忖度そんたくか?」

「違います。以前より、監査とはこのくらいの時間をかけて」

「営業の邪魔をすれば、その分売り上げが下がることくらいわかるだろうが! いいよなお前らは、社員のあら探しして給料が貰えるんだ。楽な仕事だよなあ」

 その言葉に、営業部フロアの緊張感がビリッと増した。ランベルトはもちろんのこと、監査室のメンバーも苦々しい表情を浮かべる。

「しかもアンタは会長様の御曹司だ。黙ってても金には困らない。なのに毎日毎日、営業の足を引っ張ってご苦労なことだよ!」

「さすがに言いすぎですよ。少し頭の熱を冷ましてください」

 知代はふたりに近づき、努めて冷静な声でたしなめる。

「猪田……」

 山野が向けるその目は『お前だって不満を持ってるだろ』と訴えていた。

 気持ちはわかる。正直言って監査を歓迎したくはないし、早く役目を終えて引き上げてほしいと思っている。しかし、知代は首を横に振った。

「たとえやりづらくても、煩わしくても、それがこの会社のルールなんです。社員である以上、社内規範に基づいた行動を取るのは、いち社会人として当然のことですよ」

 そう言ってから、知代は彼に笑いかけた。

「私たちは、品行方正に振る舞いながら名古屋支社に勝つんです。相手がどんな手を使ってこようが絶対に勝ってみせるんです。それでこそ、私たちはカッコイイんですよ。違いますか?」

 知代の言葉に、あたりはシンとした。目の前の山野は驚いた顔をしたあと、ポリポリと頭を掻く。

「そ、そうだな。ハンデを負ってでも勝つのが、名古屋支社に対する最大の意趣返しだよな」

「そうですよ。今のところ、営業成績も好調ですし、この調子で残りの期間も頑張りましょう」

「う~ん、うり坊に諭される日が来ようとは。わかったよ。……すまなかったな。ちょっと言葉が悪かった」

 彼はランベルトにぺこりと頭を下げると、自分のデスクに戻っていく。

(よかった。なんとか収拾がついた)

 知代はホッと安堵したあと、改めてランベルトに頭を下げる。

「お騒がせしてすみませんでした」

「いえ……。あなたは、すごいですね」

 ランベルトが感心したように言うので、知代は首を傾げた。

(そういえば、鹿嶋さんも似たようなこと、言ってたな)

 ――『君は、すごいな。俺にはできない』

 ふと、鹿嶋の声を思い出す。だが、やはりどう考えても知代自身、自分がすごいことをしたとは思えなかった。

「事を荒立てたくない気持ちはお互い様でしょう」

「ええ、そうですね。……猪田さん、今から、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「私、ですか?」

 とうとう自分の仕事に監査が入るのだろうか。しかし、いずれ来るだろうと予想していたことだ。

「わかりました。見積書を作らなくてはいけないので、三十分くらいで済むのでしたら大丈夫です」

「結構ですよ。それでは参りましょう」

 ランベルトが先にフロアを出て、知代も後ろに続く。後ろから「猪田さ~ん、くれぐれも噛みついたらダメだよ~」と、瀬口課長の弱気な声が聞こえてきた。

(課長ったら、私が誰かれ構わず噛みつくイノシシ女だと思ってるのかな。そうだとしたら酷い誤解だ。私が噛みついていたのは鹿嶋さんだけだし)

 鹿嶋にしたら迷惑だろうが、知代は基本的に友好的な性格をしているのだ。友達と言い争いなど滅多にしないし、自ら喧嘩を売りに行くような好戦的な性格でもない。

 まあ、不条理なこと、理不尽なことに対しては真っ向から文句を言うタイプではあるが。

 ランベルトは階段を下りて、セルフサービス式の社内カフェに入った。

 コーヒーマシンでホットコーヒーをふたり分れて、こちらに振り向く。

「空いている場所に座りましょう」

「え、あ、はい」

 てっきりミーティングルームで話をするのだと思っていた知代は、肩すかしを食らって戸惑う。

(監査は、もっとギスギスした雰囲気を想像していたのに。ルートヴィヒさんも気さくな感じで、調子が狂っちゃうな)

 知代は近くのテーブル席に腰かけると、向かいにランベルトが座った。そしてコーヒーをテーブルに置く。

「先ほどはすみませんでした。私も、もう少し言い方を変えればよかったですね」

 しおらしく謝ってくるので、知代はますます戸惑う。

「べ、別に、たいしたことしてません。さっきも言いましたが、私は事を荒立てたくないだけです」

 どうやらランベルトは、知代を監査したいのではなく、先ほどのやりとりに対する謝罪がしたかったようだ。

 彼は、知代が想像していたよりもずっと、誠実で律儀な性格をしているらしい。偏見を持っているわけではないのだが、やはり会長の孫という立場から考えて、多少なりとも選民意識、もしくは傲慢さがあるのではと考えていたのだ。

 知代は心の隅で反省しつつ、彼に微笑みかける。

「ルートヴィヒさんは社内モラルを守るために社員を監査するのが仕事でしょう。なにも意地悪がしたくて――足を引っ張りたくて指摘しているわけではない、というのは見ていてわかりました。他の監査室の方々も同じでしょう」

 すると、ランベルトは驚いた顔をしたあと、嬉しそうに微笑む。

 顔がいい上に、さらさらの金髪が似合うからだろうか。まるで黄色い花がふんわりと咲き誇るような笑顔に、知代は言葉を失ってしまう。

「ありがとうございます。私の仕事を理解してくださった営業さんは、あなたが初めてですよ。とても嬉しいです」

「そ、そうなんですか?」

「ええ。それから、どうか私のことはランベルトとお呼びください。本部では皆、私のことをそう呼んでいますから」

「そうなんですか? では、お言葉に甘えて……」

 ランベルトはコーヒーを一口飲み、頷いた。

「先ほどの営業さんが口にした通り、監査は社員の手を止めてしまいます。仕事の邪魔をしていると言われても仕方がない。正直に申しますと、あれくらいの言葉は毎回聞いています」

 穏やかな口調で言うが、知代はかける言葉が思いつかなかった。

 監査のたび、毎回、あのように言われているのか。

 厄介者のような目で見られ、煙たがられる。会社の中で、おそらく最も嫌われている部署。

 ――それが、監査室なのだろう。

「こんなことを聞くのは失礼かもしれませんが、あなたのような立場なら、監査室から別のところに異動することも可能ではないですか?」

 知代が遠慮がちに聞くと、ランベルトは「そうですね」と頷く。

「ですが私は『こういう立場』であるからこそ、誰もやりたがらない仕事を率先してやる必要があると思います。たとえ嫌われても、監査室は外してはならない部署ですからね」

 それは、会社という組織を守るため。

 ランベルトは御曹司という恵まれた立場でありながら、自らいばらの道を歩いている。他でもない自分の意思で、彼は監査室に所属することを決めたのだろう。

「とても、ご立派な考えだと思います」

「社交辞令でないのなら、嬉しいですね」

「もちろん社交辞令なんかじゃありません。私、ちょっとランベルトさんのこと誤解していたみたいです」

 そう言ってから、知代はニッコリと笑顔になった。

「お仕事頑張ってください。でも、監査は長くても一ヵ月以内で終わらせてくださいね。あまり長々と時間をかけるようなら、こちらから本部に申し立てさせていただきます」

 知代の挑発的な物言いに、ランベルトはぷっと噴き出す。

「そうですね。安心してください、監査はもうすぐ終わりますから」

 知代は「よかった」と胸を撫で下ろした。少なくとも残り二ヵ月はいつもの調子を出せそうだ。

 ランベルトとコーヒーを飲みながら、しばしとりとめのない世間話をする。

 現在の本社では、れつな派閥競争が行われていて、ランベルトの祖父である会長が頭を悩ませているとか。

「今、本社を最も賑わしている話題は、会長の後継者問題ですね。慣例に則って血族から選ぶか、本社で最も優秀な者を選ぶか。それぞれで派閥を作っていがみ合っているんですよ、実に愚かしいことだと思います」

「ドイツでもそういう争いってするんですね」

「国は違えど、人の本質は同じですからね。利権争いも絶えません。会長が日本のエースを本社に招きたいと言い出したのは、アジア人という、どこにも属さない堅実な社員を入れることで、新しい風を吹かせたかったのかもしれないですね」

 ふぅ、とランベルトが疲れたようなため息をつく。

「もしかして、その争いにランベルトさんも巻き込まれているんですか?」

「ええ、無関係というわけではありません。ですが、私は裏方のほうが性に合うので、目立つ役割は兄たちにお願いしたいんですよね。そのために日本へ来たわけですし」

「あ~、なるほど。日本に来たのは隠れみのってことですか」

 ずっと疑問に思っていたことが氷解してポンと拳を打つ。

 どうしてドイツの御曹司が、日本の、しかも監査室に勤めているのかと不思議に思っていたのだ。つまり彼は、面倒な後継者問題、派閥争いに関わりたくなかったのだろう。

「でも……正直言って、ランベルトさんは日本じゃ目立つでしょう。女性からも人気があるんじゃないですか?」

「う~ん、猪田さんは本当に、なんでも素直に聞いてきますね」

 ランベルトが複雑そうな笑顔を浮かべる。

「まあ、この見た目はどうしても目立ちますからね。日本の女性は、外国の男性に憧れを抱いている人が多いのか、魅力的に見えるようです」

 かしかしと頭を掻いて、残りのコーヒーを飲み込む。

 そしてランベルトは、酷く意味ありげな視線を知代に向けた。

「でも、私個人としては、あなたみたいな女性がタイプなんですけどね?」

「へっ?」

 一瞬、何を言われたかわからなかった。一呼吸置いてから意味を理解し、知代は慌てて両手を横に振る。

「いやいや。い、今のはドイツ的なジョークですか? ダメですよ、誰かれ構わずそんなことを言っては」

「冗談のつもりはないんですけどねえ」

「意外です。ランベルトさんでも、そういうナンパっぽいこと言うんですね」

 自ら進んで監査室に入るくらいなのだから、超がつくほど真面目な性格だと思っていたが、どうやら認識を改める必要があるようだ。

 ランベルトはクスクス笑って「これは手厳しい」と言う。

 コーヒーを飲み終えて立ち上がり、ランベルトと知代は紙コップをゴミ箱に捨てる。

 別れ際、ランベルトは知代をまっすぐに見て言った。

「『相棒さん』のこともありますから、今日はこのあたりで。もし、コンビを解消するようなことがあったら、いつでもお知らせくださいね。次は遠慮しませんから」

「は、はあ」

 ランベルトは何を言っているのだろう。相棒さんとは、鹿嶋のことだろうか?

 知代は疑問を覚えながらも、頭を下げてから営業部に戻る。

(なんにしても、ランベルトさんと話せてよかったかも)

 こうやって話をしなければ、ずっと彼を誤解していたままだっただろう。監査自体は歓迎できるものではないので複雑なところだが。

(それでも、嫌な人だと誤解されたままなのは、悲しいもんね)

 少なくともランベルトは信用に足る人間で、誰かに忖度したり、意図的に監査を長引かせることはしない。彼なりに誠実に仕事をしているのだとわかって、少し嬉しかった。

 営業部に戻ると、最初に瀬口課長が飛んできた。ランベルトに喧嘩を売っていないか、ランベルトに噛みついていないかと何度も確認されて、いい加減鬱陶しくなった知代が「そんなに私が見境なく突撃してると思うなら、今から課長に頭突きしましょうか!?」と凄むと、課長はすごすごとデスクに戻っていった。

 ようやく静かになったと、知代は見積書作成の続きに取りかかる。そして午後八時を過ぎた頃には全てを作成し終えて、知代は帰り支度をし始めた。

「ふぁ~」

 見積書を複数作ると、どうしても肩が凝る。知代は疲れ目をしょぼしょぼさせながら、肩を揉み、ビジネスバッグを手に取った。

 営業部には誰もいない。事務の社員はすでに五時の定時で帰っている。

(今日は疲れたし、夕食はがっつり食べようかな。肉とか……牛とか)

 そんなことを考えながら、会社を後にする。

 ロビーを出て夜空を見上げると――星がひとつ、ふたつ、瞬いていた。

 もうあと一週間で七月が終わる。夏はこれからが本番だというのに、今年は仕事に熱中しているせいか、あまり夏の暑さを実感していない気がした。

 知代は、背伸びをしてグルグル肩を回したあと、歩き出す。その時――。

「んっ、鹿嶋さん?」

 社有車のガレージ側から、見慣れた男性が現れた。こんな時間まで仕事をしていたのだろうか。自分も人のことは言えないが、鹿嶋も相当仕事のムシらしい。

 いや、それくらいしないと、営業成績トップをひた走ることはできないのかもしれないが。

「知代……」

 ぼんやりした様子で歩いていた鹿嶋は、知代の声に顔を上げる。

 そして、いきなり駆け寄ってきたかと思うと、知代の手を乱暴に引っ張った。

「ちょっ、痛! んむ!?

 営業所の暗がりに連れ込まれて、ぐるりと視点が変わったその瞬間。知代の唇は、鹿嶋の唇によって塞がれていた。

 息ができない。言葉が発せない。

 鹿嶋の唇も、知代の手首を握りしめる手も、氷のように冷たい。

 まるで彼だけ、冬の季節に置き去りにされたようだった。

「ん……っ」

 いつの間にか抱きしめられて、唇を、離してくれない。

 深いキスは永遠と思うほど長く、知代は酸欠で頭がクラクラした。

 やがて、鹿嶋は惜しむようにゆっくりと唇を離す。知代は慌てて深呼吸をして、肺に新鮮な酸素を送り込んだ。

「な、なんですか! い、いきなりキスとか、しかもこんなところで!」

「知代も、ああいう男がいいのか」

「は?」

 何を言っているのだ。知代は目を丸くする。

「津島さんから聞いたんだ。君がランベルトと楽しそうに話をしていたと」

「ええっ」

 知代はびっくりして驚愕の声を出した。

 険悪な雰囲気でなかったのは間違いない。しかし、そんなに楽しそうに見えたのだろうか。

(というか、私とランベルトさんがカフェで話しているところを見られていたの?)

 まったく気づかなかったし、なぜ鹿嶋に告げ口のような真似をしたのかもわからない。

「違いますよ。営業部で揉め事があって、仲裁したら、コーヒー奢ってくれたんです」

 弁解すると、鹿嶋は不機嫌そうにフイと横を向いた。

 知代は思わずムッとする。

(何よ。都合が悪くなると、すぐにそうやって私から目をそらす。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに。鹿嶋さんって実はすごく面倒臭い人だよね)

 知代は、思ったことはだいたい口にする。そのほうが心の健康にいいからだ。

 それなのに鹿嶋は、心に何かを抱えているのは見てわかるのに、唇を引き結んで黙り込むことが多い。

「……知代は」

「なんですか?」

「あの夜のことを、どう思っているんだ」

 突然の問いかけ。なにが言いたいのだろう。知代は訝しげになる。

 あの夜とは間違いなく、ラブホテルで鹿嶋に愛撫された日のことを言っているのだろう。

「私としては、酔っ払ったあげくホテルに連れ込まれて、なんというか恥ずかしい思いをしたという記憶しかないのですが」

 口に出してみると、なんとも言えない情けなさがある。若気の至りという言葉が合うのだが、知代の年齢的に、もはや若気で済ませていい問題でもない気がする。

 知代の言葉に、鹿嶋はますます不満げな顔をした。

「あの夜のことは、いっそ忘れたいほどの嫌な記憶なのか。思い出したくもないのか」

「少なくとも、いい思い出とは言いがたいですね」

 知代は憤然と腕を組み、鹿嶋を睨む。あんなのは殆ど騙し討ちだ。鹿嶋自身、あれは最低な手段だったと言っていた。

(だからといって嫌だったわけじゃない。ただめちゃくちゃ恥ずかしいだけなんだよね)

 そもそも、あの夜が吐き気を催すほど嫌な思い出だったなら、鹿嶋とこんな風に暢気に話ができるわけがないのだ。先日スーパー銭湯で会った時だって、見かけた瞬間に全力で逃げ出しただろう。

 そう、相手が鹿嶋でなければトラウマになってもおかしくない出来事だった。

(でも私は、鹿嶋さんだったから許せたんだ。それは、どうして?)

 なぜ鹿嶋ならよかったのだろう。

 一ヵ月前、置き去りにした疑問の続きを考える。

 知代が険しい顔をして考え込んでいると、鹿嶋はぎゅっと拳を作った。

「知代が、俺に対抗意識を燃やしているのは、営業で俺を負かしたいからだろう」

「それはまあ、はい。私の目標のひとつですし」

「じゃあ俺さえいなくなれば、知代のひとり勝ちだ。近くには、君に興味を示す御曹司が機をうかがっている。……俺さえ、いなければ。全てがうまく回る」

「鹿嶋さん、何を言ってるんですか?」

 知代は戸惑い、鹿嶋に尋ねる。

 なんだか、鹿嶋の様子がおかしい。いつもと雰囲気がぜんぜん違う。

 それは表の鹿嶋とか、本当の鹿嶋とか、そういう違いではなくて。

(なんだか、すごく焦っている感じだ。どうしたんだろう)

 知代は心配になってしまい、鹿嶋を見上げて手を握る。

「鹿嶋さん、何かあったんですか?」

「何もない。ただ、知代は俺がいないほうが幸せなんだろうと思ったんだ」

「意味がわからないです。ちょっと落ち着いてください。いつもの鹿嶋さんらしくないですよ」

 知代がなだめようとすると、鹿嶋は限界を示すように自分の前髪を掴んだ。

「いつもの俺らしさって何だ! これが、俺だ! こんな……っ、二十八にもなって、情けなくて子供みたいでバカみたいなのが俺なんだよ。自分でも嫌になるくらいだ!」

「鹿嶋さん……」

 知代は言葉を失う。彼にどんな言葉をかけたらいいのか、わからなかった。

 あの夜の後から、どこか、考えないようにしていたのかもしれない。ずっと問題を棚上げにしていたのかもしれない。

 仕事を言い訳にして、他にやることがあるからと目をそらして。

 どうして鹿嶋があんなことをしたのか――その理由を考えることから、逃げていた。

 でも、鹿嶋はずっと考えていたのだろうか。そして苦しみ、後悔していたのだろうか。

「今日名古屋の支社長から連絡が来て、言われたんだ。俺は、ドイツの本社に行ったほうがいいと」

「……は?」

「俺がいるせいで、他の支社は常に東京支社と比較されて本社から厳しい評価を下される。足並みを揃えて突出した存在を作らないのが、ビジネスの世界で長く生き残るすべなのだと言っていた」

「な、なにそれ。単に仕事できる鹿嶋さんが目障りだって言いたいだけじゃないですか」

「けど、それは……知代も同じだろ?」

 鹿嶋は感情の乗らない瞳で、静かに知代を見つめる。

「軽蔑される覚悟で身体に触れても、君の態度は以前とまったく変わらなかった。あの夜の出来事が無意味に思えて辛かった。いっそ、かつの如く嫌われたほうがマシだった」

 確かに嫌う可能性はあった。賭けに負けたとはいえ、はいそうですかと素直に身体を許す女性がどこにいるのだという話である。

 でも、知代は嫌じゃなかった。

 次の日、鹿嶋と話した時は恥ずかしくて仕方なかったけれど、嫌いとは思わなかった。暢気に朝ごはんを一緒に食べるくらいだった。

 そして休みが明けて、突然態度が甘くなった鹿嶋にドキドキしたりもした。先日会った時は、私服姿の鹿嶋に緊張しながらも、彼と穏やかに話す時間は楽しかった。

(どうしてだろう。もう少しで答えが出そうなんだけど)

 辛そうな表情をする鹿嶋の前で、知代は腕を組み、考え込んでしまう。

 するとその時、とんでもない言葉が耳に届いた。

「知代も、俺みたいなヤツはさっさとドイツに転勤して二度と日本に帰ってくるなと思っているんだ。目障りで、本当は紳士でもなんでもない、酔った女に乱暴する男など、目の前から消えてしまえと」

「何を言っているんですか。そんなわけないでしょう!」

 思わず大声で怒鳴ってしまい、今度は鹿嶋が驚いた顔をする。

 知代は勢いのまま鹿嶋の胸ぐらを両手で掴み、つま先立ちになる。

(前から気づいていたけれど、ここまでネガティブで面倒な人だったなんて! 表側の紳士で素敵な鹿嶋さんなんて、ハリボテもいいところ! ちゃんと言ってやらないと気が済まない!)

 キッと鹿嶋を睨み上げ、戸惑う彼に啖呵を切った。

「勝ち逃げのままドイツに行くなんて、絶対許しませんからね!」

「え……」

「まだ一度も勝ってないのにお別れするなんて嫌に決まってます。だって私はずっとずっと、鹿嶋さんの背中を見てきた。追いかけていた。いつか……絶対、鹿嶋さんの背中に追いついて、私は――あ」

 ハタと、気づく。口をポカンと開けて、知代は石になってしまったように固まった。

「ち、知代?」

 いきなり動きを止めた知代に、鹿嶋がおずおずと声を出す。

(そういうこと、だったんだ)

 何かきっかけがあれば答えに至れる。そんな予感をしていた。それが今だ。

 ハッと我に返った知代は、ふと、自分の両手を見つめる。乱暴にも鹿嶋の胸ぐらを掴んでいるではないか。パッと両手を上げて離れた。

 どきどき、どきどき。

 胸の高鳴りが止まらない。身体中の水分が蒸発するみたいに、顔が熱い。

 この会社で初めて会った時から、ずっと鹿嶋を追いかけていた。

 敵わないから諦めろと言われても諦められなくて、いちいち張り合うなと注意されても拘った。

 ――ランベルトは確かに素敵な男性だった。女性の人気も頷けるほど。

 でも違った。知代が求めていた人は、誰にでも優しい親切な人でも、紳士な男性でもない。

(私、鹿嶋さんが……好き、だったんだ)

 意地を張っていたのも、事あるごとに噛みついていたのも、鹿嶋が気に入らないから、嫌いだからだと思い込んでいた。

 でも、そうだとしたら、あの夜の出来事は許せないはず。鹿嶋に触れられたことが嫌ではなかった時点で、答えはもう出ていたのだ。

「私……バカだ……っ」

 顔から火が出そうなほど恥ずかしい。三年も鹿嶋のライバルを気取って、そんな簡単な気持ちにも気づかなかったなんて。

 でも、一度気づくと、もうダメだった。知代の顔は今までにないほど熱くなって、頭から湯気でも出てきそうである。

「知代、どうしたんだ。さっきから様子がおかしいけど」

 低く、耳通りのいい声に、慌てて顔を上げる。

 するとそこには、心配そうに知代の顔を覗き込む、鹿嶋がいた。

「うぎゃー!」

「うぎゃー?」

 シュバッと後ろに飛び退いた知代は、思わずファイティングポーズを取ってしまう。

「ま、待ちたまえ鹿嶋さん。しばしお待ちを。まずは私自身のイシューをアサップでアジェンダする必要があります」

「なんだその、謎のビジネス用語の羅列は」

「シャラーップ! とにかく。今日はこれにてめんつかまつる!」

「御免仕るって、時代劇か……?」

「いいからっ! とにかくあれですよその、まだまだ暑いけど、冷たいものばかり飲んでお腹を壊してはいけませんよ。健康第一! 明日また会いましょう!」

 知代は一方的に口早でまくし立ててから「あっ」と重要なことを思い出す。

「そうだ鹿嶋さん。私は絶対、鹿嶋さんをドイツ本社なんかにあげませんからね。必ず全国一位を取って、名古屋支社の鼻を明かしてやりましょう!」

 ぐっと拳を握って意気込むと、鹿嶋は戸惑った表情で「あ、ああ」と頷いた。

「それじゃ、お仕事お疲れ様でした。夏バテ防止に、オクラと納豆のねばねば丼がおすすめですよ!」

 言いたいことを言って、知代はダッシュでその場から離れる。

 全力で走りながら、知代は顔をペチペチ叩いてのぼせそうな頭を冷まそうとした。

(恥ずかしいよ! 二十六にもなって初恋とか、私のメンタルは中学生ですか!)

 思えば、知代の青春は勉強と部活漬けだった。

 陸上部だったので、早朝から朝練に励み、塾の時間ギリギリまで身体を動かしていた。そして塾では、歴代の成績トップになかなかなれず、躍起になって必死に勉強していた。

 つまりは、恋をするヒマがなかったのだ。

 それでも今になって初恋を自覚してしまうとは。しかも相手は鹿嶋だ。

 走っている間、まるで走馬灯のように、彼と出会ってから今までのことを思い出す。

 何度も噛みついた。何度も意地を張った。からかわれては怒って、いつも喧嘩を売るような挑発ばかりして。

(う~わ~!!

 知代は急ブレーキのようにピタリと止まると、その場で座り込む。

「恥ずかしい……穴があったら入りたい……」

 なんて幼稚な愛情表現。怒鳴ってわめくことで、彼の気を引こうとしていたのだ。構ってほしい子供と同じことをしていたということだ。

 それで羞恥を覚えないほうがおかしいだろう。アラサーに片足を突っ込んだ女がしていい行為ではない。

「ひぃぃ、どうしよう……」

 知代がうずくまって泣き言を口にしていると、ポンと肩を叩かれた。

 思わず顔を上げると、そこには懐中電灯を持った警察官がふたり、心配そうに知代を見ていた。

「お嬢ちゃん、気分が悪いのかい? こんな夜中に、子供がひとりで歩くのはよくないよ」

「お父さんかお母さん……いや、お友達でもいいよ。誰か、信頼できる人はいるかな。迎えに来てもらおうね」

 知代はグスッと鼻を鳴らした。そして半泣きになりながら叫ぶ。

「私は、これでも、二十六歳社会人ですー!」

 警察に未成年扱いで心配されるなんて情けない。だが、悲しいかな知代の背は低く小柄なのだ。遠目では子供に見えても仕方がない。

 しかも童顔である。胸だけはやけに育ってしまったが、逆に言えば大人の女らしいところは胸しかない。

「こんな私に……恋してもらえる可能性……ゼロじゃない」

 見た目は微妙。今までの立ち振る舞いを考えると、知代に対する印象もよくない可能性が高い。

 だが、ひとつだけ光明があった。それは、先ほど鹿嶋も口にしていた、あの夜の出来事だ。

 鹿嶋は、知代に優しく口づけをして、この身体に触れてきた。

 最初は嫌がらせだと思っていたが、彼は違うと否定していた。

 ――『これ以上知代に嫌われたくない』

 歯を食いしばるように、辛そうな声で零した鹿嶋。

(もしかしたら鹿嶋さんは、少なからず私に好意を持ってくれているのでは……!?

 でなければ、理由もなく身体に触れたりしないだろう。知代ならしない。

 と、いうことは、この恋はそう絶望的でもないということだ。

 基本的にポジティブ思考の知代は、唐突に立ち上がる。

「なんだ、そっか!」

 警察官が驚いたようにたじろいた。

「つまり鹿嶋さんがどこにも行かないように、今は仕事を頑張ればいいってことね!」

 ぐるっと警察官に振り返って言うと、拳を握りしめる。

「そうよ。何事も望みを捨ててはいけない。成功はこの手で掴め! よし、恋も仕事も頑張るぞ!」

 体育会系らしく「ファイッオー!」と気合いを入れた知代は、さっそく帰り道を走る。

 景気づけに、今夜は肉を食べよう。気分的には焼き肉だ。

 ばたばたと走り去る知代を見送った警察官は、帽子を被り直しつつ、ボソリと「新手の酔っぱらいかな」と呟いた。


 次の日。

 営業部では、知代の働きぶりに皆が目を丸くしていた。

「お電話ありがとうございます。はい、その時期でしたら納期を早めることは可能です。ご検討いただきありがとうございました! さっそくお伺いいたしますね」

 社用スマートフォンを耳と肩で挟んでアポを取りつつ、視線の先はパソコンのモニターに、指は忙しくキーボードを叩いている。

「よしっ、見積書完成! 課長、追加の社用スマホは午前中に届くと聞いていますが、もう受け取りましたか?」

「えっ、あっ、うん。大丈夫。もうパスコードの設定も使用者の登録もしてあるよ~」

「ナイス、仕事が早い! ありがとうございます。じゃあB班の皆、各自社用スマホを持って行きましょう。準備はできてる?」

「見積書OK!」

「サンプルゲット済みです!」

「試薬データ、印刷しました!」

 知代が普段からフォローしている後輩たちが順番に手を上げる。

「よし完璧。ではB班行ってきます!」

 気合い充分。知代は営業部を飛び出していった。

「先輩、なんか今日は、いつも以上に猪突猛進……というか、はりきってますね」

「何か今、聞き捨てならないことを言わなかった?」

「い、いえいえ。でも、何かいいことでもあったんですか?」

 後輩が慌てたように尋ねてくる。

(いいこと……)

 ほやんと頭に思い浮かべるのは、鹿嶋の姿。

「わー! ない!」

 ぶんぶんと首を横に振って、小走りでガレージに急ぐ。その途中、津島と顔を合わせた。

「おっ、うり坊。今日は朝からいつも以上に突進してるなあ」

「おはようございます。これから営業に向かうだけですよ」

 知代は少し面白くなさそうに唇を尖らせる。何度うり坊と呼ぶなと言ってもしつこく呼んでくるのだ。もうすっかりこのニックネームも定着しているし、そろそろ諦めたほうがいいのかもしれない。

「元気なのはいいけど、気をつけろよ。猪田はこう……絶好調になると、逆にポカミスが増えるところがあるからな」

「う……気をつけます」

 痛いところを突かれて、知代は殊勝に頷く。先輩が言う通り、知代は調子がいい時ほどろくでもないミスをすることがある。今日は後輩も連れているし、恰好悪いところは見せられない。

「大丈夫ですよ。忘れ物チェックはちゃんとしましたから」

「そっか、なら安心かな。んじゃ、頑張ってこい!」

「行ってきまーす」

 先輩に見送られて、今度こそガレージに向かった。


 営業の仕事をつつがなく終えて、夕方頃に東京支社へと戻る。

 今日の結果はまあまあといったところだろう。後輩には日報を書いておくように指示して、知代は研究棟へと向かう。

(えっと、新しいカタログと、サンプルと、最近導入したっていう噂の実験器について聞いておきたいな。それから、ええと……何か忘れてるような……)

「知代」

 後ろから声をかけられて、振り向く。そこには鹿嶋が立っていた。

「あ、鹿嶋……さん」

 彼の名を呟くと、途端に恥ずかしくなった。ぐんぐんと顔に熱が上がっていき、急激に酸素が少なく感じる。

 鹿嶋は少しバツの悪そうな顔をして、ゆっくりとこちらに近づいた。

「その、昨日は、ごめん。ちょっと、いやかなり、取り乱した」

「あ……」

 鹿嶋の謝罪を聞いて、ようやく知代は昨夜のことを思い出す。正直、自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、鹿嶋の様子がおかしかったことなど忘れてしまっていた。

「い、いいですよ別に。気にしてませんから」

「あれから、かなり反省したんだ。俺は本当に、こんな年にもなって八つ当たりなんて、何をやっているんだろうと。……正直、幻滅しただろ」

「何をバカな! そんなわけないです!」

 聞き捨てならないことを聞いて、知代は慌てて顔を上げて否定する。

 正直言って、外面を捨てた本当の鹿嶋は面倒なところもある普通の男性だ。でも、だからといって嫌いになるわけがない。

 たとえ恰好悪くても、情けないところがあっても、そういうところさえ今は愛しいと思っている。

(だって、私にも短所はある。お互い様だもん)

 胸に手を当て、そう思った。

 鹿嶋は「よかった」と呟き、照れたように頬をぽりぽり掻いた。そして、クリアファイルに挟まれた書類を知代に渡してくる。

「ほら、コレ。申請、今日までだっただろ」

 鹿嶋が何か言っているが、知代はそんな鹿嶋をじっと見つめてしまい、話が入ってこない。

(それにしても、鹿嶋さんってめちゃくちゃ顔がいいなあ。いぶし銀というか、硬派なのに綺麗でキラキラして目を引くんだよね。実際モテるんだし、本社でも話題になってるって噂だし……)

「日時はわかっているか? 休みの日だから億劫かもしれないけど、知代は……」

(どうしよう。鹿嶋さんが恰好いい。好きって自覚すると、あんなにも気に入らないと思っていた鹿嶋さんの全部が魅力的に見える。恋ってすごいな。魔法みたいだ)

「知代? 知代、聞いているのか?」

「えっ、なんの話!?

 我に返って尋ねると、鹿嶋が呆れたようなため息をついた。

「今度の日曜、都心のホテルで論文の発表会があるだろ。休みの日だけど、できるだけ勉強しに行ったほうがいいと課長が言っていたじゃないか。申請は今日が締め切りだったけど、大丈夫か?」

 鹿嶋の言葉を聞いて、知代はさーっと顔を青ざめさせる。

「論文の発表会の申請! 忘れてた……!」

 先ほどから何か忘れている気がすると思っていたが、それだったのだ。

「ヤ、ヤバイ! どうしよ。もう五時……申請時間過ぎてます、よね?」

 論文の発表会には取引先も多く参加するから、自分の顔を売るためにも参加しようと思っていた。しかし一般参加の申請が今日までだったことを、知代はすっかり失念していた。

 ――『絶好調になると、逆にポカミスが増えるところがあるからな』

 今朝、先輩に言われたばかりの言葉を思い出す。

「ああ……私のバカ……!」

 頭を抱えて自分をなじった。本当に足をすくわれた感じだ。こんな初歩的なミスをしてしまうなんて。

 すると、知代の頭にポンと温かい手が乗る。

「そんなに落ち込むな。申請ならふたり分、しておいたから」

「え……、ホント……!?

「嘘を言ってどうする。まあ、知代には余計なお世話かと思ったが、一応やっておいてよかった」

 知代は、ぼうっとした目で鹿嶋を見上げた。

 いつだって、彼はさりげなく知代をフォローしてくれる。

 そのたび、知代は鹿嶋に噛みついていた。余計なことをするなと怒っていた。でも、鹿嶋はいつもニコニコと微笑んでいた。

 最近、彼の笑顔を見ていない気がする。

 知代を見る時はいつも苦しそうで、辛そうだ。その原因が知代にあるのなら、申し訳ないと思うし不安は取り除いてあげたい。

「……ありがとうございます、鹿嶋さん」

 知代はぺこりと頭を下げた。

(今度こそ鹿嶋さんを助けたいと思っていたのに、逆に助けられてしまうなんて。本当に私は情けない。やっぱり、敵わないなあ)

「いつも助けられてばかりで、ごめんなさい」

 自分が目指していたのは、鹿嶋を負かすことではなかった。

 知代は、鹿嶋の隣に立ちたかったのだ。一方的に頼るのではなく、同じ実力をつけて肩を並べて歩きたかった。

 ――知代は、鹿嶋に頼られたかったのだ。

 互いに力を合わせて、頼り頼られる、気の置けないパートナーになりたかった。

 しかし蓋を開けてみれば、いつだって知代は鹿嶋に助けられてばかり。自分が鹿嶋を助けたことなど、数えるくらいしかない。

 知代がひとりで落ち込んでいると、鹿嶋は難しそうな顔をして腕を組んだ。

「知代……、何か悪いものでも食べたのか?」

「えっ、ひゃっ!」

「熱はない、か。どうしたんだ? 顔が真っ赤になっているぞ」

 いきなり額に手を当てられ、知代はますます顔を熱くさせる。

「もしかして……やっぱり、昨日のことを気にしているのか? それで注意力が散漫になっているのか? だとしたらすまない。謝らせてくれ」

 鹿嶋が頭を下げる。

 彼は、昨夜いきなり知代の手を引っ張りキスをしたことを後悔しているようだ。

 知代は慌てて首を横に振り「違うの!」と否定する。

「そういうんじゃないの。昨日のアレはぜんぜん気にしてないっていうか、いや! それは無関心って意味じゃなくて、むしろキス自体は嬉しかったような気もするし、ドキドキしたけど……って、そういうことが言いたいのではなく!」

 早口で言い募る知代を、鹿嶋はますます心配そうに見つめた。

「知代、本当に大丈夫か。なんだか、いつもよりもずっとしおらしいというか、さっきも素直に礼を言うなんて初めてじゃないか? やっぱり、何かあったんじゃ……」

(う……鋭い。しかも図星だし。だけど!)

 知代は唇をきゅっと引き結ぶ。今ここで告白をするわけにはいかない。ここは会社だし、どうせならもっとロマンチックな雰囲気の中で、自分の気持ちを口にしたい。

(こういう時はええと……そう! デートよ。デートに誘って、自分を恋人にしたらお得ですよとプレゼンするの。そして営業……じゃない、告白する。これで行くしかない!)

 今は名古屋支社との勝負中で、本当は恋愛などしているヒマはない。

 だが、知代は仕事は好きだが仕事人間というわけではない。

 恋をしてしまった以上、当たって砕けたいのだ。いや、砕けたくはないが、やはり自分の気持ちはちゃんと口にしたい。鹿嶋がどんな答えを言うにしろ、何の努力もしないで諦めるなど、知代にできるはずもない。

(よし。デートで告白するぞ。私は決めた!)

 知代の信条は有言実行。こうと決めたらすぐに動く。イノシシ思考で結構だ。

「鹿嶋さん!」

「ん?」

「今度の日曜日、論文発表会のあと、最寄りの駅前に集合! いいですね!」

 ビシッと指をさして指示し、知代はダッシュで研究室に走っていく。

「……え?」

 ひとり残された鹿嶋は、戸惑ったような声を出した。