第三章 人の恋路に思わぬトラブル
「大変なことになってしまった~!」
がばっとベッドから起き上がるなり、知代は叫んだ。
酔っていたこともあって、ぐっすり朝まで寝てしまったのだが、ハッと起きた瞬間、昨夜のことを全て詳細に思い出してしまった。
(私はあの鹿嶋さんと、とてもふしだらなことをしてしまったんだ。どうしよう)
昨晩のことは、あまりに刺激的すぎて、一日で忘れることなどできるはずがない。
知代に触れてきたのは、ライバルだと思っていた鹿嶋利央。
繊細そうでしなやかな指が、壊れ物を扱うように触れてきて。
唇を重ねて、舌まで探られて。
胸だけではなく、更に恥ずかしいところまで全部見られて、弄られて……。
(う、わあ……!)
思わずベッドにバフッと突っ伏してしまう。
脳内がピンク色だ。こんなの生まれて初めてだ。朝っぱらから興奮して頬を火照らせているなんて、普段の知代なら考えられない。
(でも、だって! アレが、アレで、あんなにすごいなんて、思わなかった!)
男女の絡みがどんなものかは知識としては知っていたけれど、実際にされるとあんなにも刺激的で耐えがたい快感であるとは想像もしなかった。
(鹿嶋さん)
夜に見せた、鹿嶋の切ない表情。辛くてたまらないという顔をしながら、知代に謝りながら、彼はそれでも強引に触れてきた。
ドキドキと、胸が痛いほどに高鳴っている。あんな風に、強い感情をぶつけられたのはもちろん初めてだし、その相手がずっと背中を追いかけていた鹿嶋というのも恥ずかしくなってしまう。
「あう……」
羞恥のあまり、知代は顔を手で覆ってごろごろとベッドの上を転がってしまった。
そして、知代はハッとして起き上がると、慌てて自分の服をぺたぺた触る。昨日と同じビジネススーツで、上着こそ着ていないけれど、ちゃんと下着まで身につけていた。下のパンツスーツも、もちろん穿いている。
「よ、よかった」
何がよかったのかわからないが、とりあえず服を着ているのはよかった。大人向けの恋愛漫画によくある事後描写のように、裸でシーツにくるまれていたら悲鳴どころではなかった。
「さて……」
知代はきょろきょろとあたりを見回す。
(右よし、左よし。鹿嶋さんはいない。OK)
目指すは出入り口の扉。知代はすうと深呼吸をすると、覚悟したように頷いた。
「ずらかるか」
「どこに逃げようというんだ?」
「ぎゃーっ!」
ベッドから降りようとした瞬間、後ろから抱きしめられる。思わず声を上げてしまった知代は、勢いよく振り向いた。
なんと、鹿嶋は掛け布団の中に潜り込んでいたらしい。彼はネクタイのないワイシャツとスラックスという姿で、ニッコリと微笑んだ。
「おはよう、知代」
「お、おはようございます。……待って、昨日からチョイチョイ気になってたけど、どうしていつの間にか名前で呼んでるんですか?」
「ああ。だって俺と知代はもう、単なる会社の同僚じゃない。こんな風に、共に朝を迎えるような間柄になったんだからな。それなら、名前で呼んでもおかしくない」
「お~か~し~い~! 絶対おかしい!」
知代はイヤイヤと身体中をくねらせ、鹿嶋の腕から抜け出そうとした。しかし彼の力は存外に強く、ほどける気配がない。
「どっ、どういうつもりですか。何を
「嫌がらせで女の身体を暴くほど俺は悪趣味じゃない。夜にも言っただろ」
首筋をそっと人差し指でなぞられて、知代はビクッと震えた。そして、昨夜はその人差し指で身体のあらゆるところを弄られたのだと思い出す。
ぶわっと顔が熱くなって、知代は恥ずかしさに目を瞑った。
「こ、これが悪趣味じゃなくて何なんですか……っ!」
「そんなもの決まっている。さすがにわかるだろう?」
「わかりません!」
「ほんっとに、君は鈍感だな!」
「強調して言うなバカ! 何よもう、はっきり言ってくださいよ!」
なにせ知代はそれどころではなかったし、酔っていたから記憶も定かではない。確かに、遊びではないだの嫌いなわけではないだの言っていた気はするのだが。
鹿嶋は「はぁ」と呆れたようなため息をついた。
「俺はその……だな。つまり、君のことが……」
「私のことが?」
ジッと鹿嶋を見上げる。彼はどこか照れた様子で横を向き、ポソポソと呟いた。
「独占したいというか、俺のものにしたいというか」
「煮えきらんな……」
「こっ、こういうのは煮えきっても情緒がないだろう! このあたりでわかれよ!」
「う~ん……」
昨夜の記憶は大半が恥ずかしいものなので彼方に放り投げてしまいたいが、なんとか鹿嶋の言葉を思い出す。
(そうよ。確か鹿嶋さんは、これ以上嫌われないようにするにはどうしたらいいかわからないとか言っていた……ハッ、そういうこと!?)
ピーンときて、知代はポンと拳を叩く。
「つまり鹿嶋さんは、私に永遠のライバルになってほしいということですね!」
「は?」
「互いにいがみ合う敵同士じゃなくて、共に手を取り合い、仕事の技術を高め合う。そんな理想のライバルになりたかった……的な」
口にするとちょっと恥ずかしい。知代が照れながらもじもじ言うと、なぜか鹿嶋は口の中に大量の春菊を詰め込まれたような、苦々しい顔をした。
「なんでそうなる」
「え、違うんですか?」
はーっ、と鹿嶋が長いため息をつく。
「猪突猛進で仕事一筋の『うり坊』が、頭の中までイノシシ並みだったなんて……」
「あっ、今のはわかりますよ。悪口ですね!?」
「悪口じゃない、事実だ。まったく」
鹿嶋は疲れたように頭を振る。同時に腕の力が緩んだので、知代はサッと彼から離れた。
「と、とにかく永遠のライバルは確実に違うから。それよりも、朝食でも食べに行かないか?」
「なんで鹿嶋さんと朝ごはん食べないといけないんですか。嫌ですよ」
キッパリハッキリ断る知代に、鹿嶋は若干傷ついた顔をする。だが、すぐに目を据わらせ、知代の首根っこをグイと掴んだ。
「い、い、か、ら! つきあえ!」
「い、や、で、す! 断固拒否!」
「奢るぞ。表通りのハワイアンカフェ。十段パンケーキふわくしゅクリームつき」
「うっ、表通りのふわくしゅクリームパンケーキ……!?」
それは社内の女性社員で話題になっている、人気のパンケーキだ。十段もあるから食べきれないと思いきや、口当たりの軽さとふわくしゅクリームのおかげでぺろりと食べられるらしい。知代はずっと食べたいと思っていたが、値段が高いので二の足を踏んでいた。
「更に今なら、ハワイアンブレンド・スペシャルカフェオレも追加でつけよう」
「行きます! どこまでもお供しますっ!」
ビシ、と敬礼する知代に、鹿嶋は「ゲンキンなヤツ……」と呟く。
「じゃあ、用意しろ。シャワーを浴びたり化粧がしたいなら、ロビーで待ってるから」
鹿嶋はベッドを降りると、ソファにかけていたネクタイを締め、スーツの上着を着る。
そんな彼を見上げて、知代は首を傾げた。
「鹿嶋さん……。なんか、ちょっとキャラ変わってないですか?」
知代に対し、嫌みなことを言う時ですら柔和で穏やかな口調を崩さなかった鹿嶋が、昨晩からずっと言葉遣いが粗野でぶっきらぼうで、『紳士』からは程遠いような……。
鹿嶋はビジネスバッグを持つと、軽く知代に振り向く。
そして、
「変わったんじゃない。元々、こうなんだ」
「え……」
「俺は完全無欠な聖人君子なんかじゃない。皆には、内緒な?」
「…………!」
ぼっと顔が熱くなった。まるで悪人のような笑みに、
確かに意外かもしれない。けれども……。
(な、なんで私、顔が熱くなってるの!)
頬に手を当てて、下を向く。なんというか、今の鹿嶋は直視できないのだ。まっすぐに顔を見たら、途端に口から心臓が飛び出てしまいそうなほどドキドキしている。
「も、もう、なんでこの私が、鹿嶋さんなんかに、胸をときめかせなくちゃいけないの!」
鹿嶋が先に部屋を出たあと、知代はシャワーを浴びて身なりを整え、ロビーで待つ鹿嶋の元へと急いだ。
表通りにある、話題のハワイアンカフェ。
大きいお皿に、十段重ねのパンケーキ。更にふわくしゅの生クリームがこれでもかというほどかけられていて、周りはたっぷりのフルーツで飾ってある。
「ふわぉっ」
ナイフでパンケーキを切ると、くしゅっと柔らかい音がした。生クリームとナッツ、メープルシロップのかかったそれを頬張ると、パンケーキは口の中でとろけるように消えていく。
「か、噛む必要のないパンケーキだ!」
驚きに目を見開く。これはセンセーショナルなパンケーキだ。革命的である。
「そんなに感動するようなものなのか?」
向かい側で同じパンケーキを食べる鹿嶋が不思議そうに首を傾げた。
「いやこれで感動しないで、何に感動するっていうんですか」
十段重ねなんて、見た目もなかなか迫力がある。にもかかわらず、まるで雲を食べているような食感がたまらなく、また甘さが控えめなのもいい。
ふわくしゅの生クリームは濃厚なミルクの味で、パンケーキと一緒に食べると天国にも昇れそうだ。
「はぁ~、おいしい」
ぱくぱくと食べ進めていると、向かいでくすりと笑う声がした。
ふと、知代は顔を上げる。
鹿嶋は、今までに見たことがないほど、穏やかでふんわりした笑顔を浮かべていた。
「…………!」
その表情があまりに甘やかだったから、驚いた知代は思わず口に入れたナッツを呑み込んでしまう。
(え、何? どうして私、こんなにドキドキしてるの?)
昨夜、あんなにも濃厚な夜を過ごしてしまったからだろうか。彼の一挙一動を、つぶさに見てしまう。
今までは憎たらしい同僚だったのに、どうしてか、その気持ちが薄らいでいた。
昨夜のことがあまりに衝撃的だったから?
(待って。あんなにも無理矢理なアレだったのに、私、なんで)
かーっと顔が熱くなっていく。その照れを紛らわせようと、知代は慌ててパンケーキを頬張った。
すると、何かに気づいたように鹿嶋が声を出す。
「クリーム」
「え?」
再び顔を上げた瞬間、自分の唇に、鹿嶋の親指が触れてきた。
「ついてるぞ」
そっとクリームを拭って、親指を舐める。
「急がなくてもパンケーキは逃げないから。落ち着いて食べるといい」
優しい声に、知代はみるみると顔を熱くした。
(な、なんで、なんで、なんでよ!)
鹿嶋が別人になっている。こっちが『本性』だと言っていたが、普段の会社で見る鹿嶋とぜんぜん違う。
(いや! 普段ももちろん優しい人だし、やたら親切だし、聖人君子だけど……っ)
なんというか。優しさの種類が違うと言おうか。
会社での鹿嶋が『よそ行き』なら、今の鹿嶋は完全に、身内に対する態度のように思えて……。
(ちょっ、まっ、落ち着いて私。とにかくパンケーキ、パンケーキ食べないと!)
知代は一心不乱にパンケーキを食べる。どれだけ口に入れても飽きることはない。後を引くおいしさはまさしく絶品である。
コクと深みのあるコーヒー豆を使ったカフェオレも、とてもおいしい。
でも、せっかくの機会なのに、知代はあまり味わうことができなかった。
なぜなら、モグモグと食べる知代を見て、鹿嶋はずっとニコニコしているのだ。
その笑顔はまぶしくて、あまりに生き生きしていて――。
どうしても、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
休み明けの月曜日。
営業部にどよめきが起きた。
なぜなら、鹿嶋は誰もが見とれてしまいそうなほどキラキラした笑顔を見せて、実にフレンドリーな態度で知代に話しかけていたからだ。
「猪田、おはよう。今日は大学の研究室に行く予定だったね。駅まで送っていこう」
「イ、イエ、結構……」
「あの大学に行くには、地下鉄に乗らないといけない。ここから地下鉄の駅までは遠いし、車で行ったほうが時間短縮にも繋がって効率がいい。違うかな?」
「ううっ!? ……はい、じゃあ、お言葉に甘えます」
知代は、駅までは歩いていこうと思っていたが、確かに車で送ってもらうほうが早いし、時間を短縮した分、社内の雑務を片づけることもできる。
意地と効率を天秤にかけて、効率に傾いた知代はガックリと肩を落とした。
「そういえば猪田、今度の土曜日、空いてる?」
「ええっ!? あ、あ~その~……そう。カラオケに行く予定だから私。ひとりカラオケ」
「猪田は、ひとりカラオケに行くのが趣味なのか?」
「そ、そう。そうよ、悪い? 演歌を熱唱するのが、私のストレス発散方法なの」
「それは是非聞いてみたいな。でも、漫才バトルショーのチケットが取れたんだよ。君、お笑いも好きだったよね。今度一緒に行かない?」
「ま、漫才バトルショー!?」
知代はぐるりと振り向いた。
漫才バトルショーとは、都内某所にあるホールで行われている有名なライブイベントだ。
若手からベテランまで、マイナーから人気タレントまで、とにかく参加者が幅広く、多くの客層に人気がある。知代一推しの漫才芸人もよく参加していて、知代は毎回チケット販売の抽選に参加しているのだが、常に敗退。ネットのライブ映像を見るしかなかった。
「あ、あの、めちゃくちゃ競争率の高いチケット争奪戦に勝ったというの!?」
「いや、あのイベントを主催している会社の株主になったんだよ。年に二回の配当で、主催しているイベントのチケットを優先的に購入できるシステムがあるんだ」
「そっ……えっ? か、株主?」
株ってそんなに簡単に買えるものなの? あと、どれほど投資したらその配当がいただけるの? 投資関係にはまったく手をつけていなかった知代は、鹿嶋のすさまじい行動力が理解できない。
「ね、行こう」
ニコッと微笑み、知代の手をそっと握る。優しい瞳の中には、隠しきれない甘やかさがあった。
知代でさえドキッとするのだ。唖然とした顔で鹿嶋を見ていた女性社員たちは「ヒャワ~」と叫んで口元を両手で隠す。
「かっ、かっ、考えておきます。手は、離してください」
「ああ、ごめん、つい」
鹿嶋は柔らかな笑みを浮かべたまま、惜しむように手を離した。
「ちょ、あの、鹿嶋さん……?」
「なんだかちょっと、雰囲気変わってません? 具体的に言うと、先週に比べて糖度百二十パーセント増しみたいな」
そろそろと近づいてきた毛野と平良が、
すると鹿嶋は嬉しそうな顔をして、知代の肩をポンポンと叩いた。
「ええ。僕たち、先週の飲み会で親睦を深めまして、お互いの能力を尊重し合う相棒として、これからは仲良くやっていこうって話に落ち着いたんですよ」
「え!?」
「まあ!」
「ほほ~」
寝耳に水の話で
「ちょっと初耳! 何が仲良くよ、私はそんなつもりないですから!」
「永遠のライバルだって言ってたじゃないか。つまり、死ぬまで共にいようってことだよね?」
「違う~! た、確かに永遠のライバルは言ったけど! あれはものの例えみたいなもので……」
「そうなんだ~! やっとふたりは仲良くなれたんですね!」
毛野が嬉しそうに手を叩く。
「うんうん、鹿嶋と猪田がコンビを組めば、我が東京支社は向かうところ敵なしだな!」
「うり坊も、これからはもーちょい落ち着いて、鹿嶋とうまくやるんだぞ」
「うり坊言うな!」
先輩の津島がぐりぐりと頭を撫でてくるから、知代は怒り出す。
「先輩。こう見えて猪田さんは二十六歳なんですから、子供扱いしたらダメですよ」
さりげない仕草で、鹿嶋は知代の前に立つ。
「こう見えてってどういう意味ですか。こう見えてって」
「う~ん、もうちょっと、背がねえ」
腕を組み、わざとらしく残念そうなため息をつく鹿嶋に、知代は噛みつく。
「背が全てだというの!?」
「確かに猪田さんって、二十六とは思えないくらいお顔が童顔……いや、可愛いですよね。お肌もモチモチだし、羨ましい!」
「童顔も気にしてるんだから言わないで! お肌は、ちゃんとお手入れしてるんです!」
これでも肌には気をつけているのだ。仕事柄、遅くまで会社にいる時もあるし、食事も手早く済ませたいあまり、栄養バランスを度外視する時がある。
「気を緩めたら、お肌はあっという間よ。毎日の地道なケアが大事なの」
「体験に基づいた説得力のある意見が言えるところは、年相応ですよね」
「それも失礼~!」
知代が怒り出すと、周りにいた皆が笑った。
やがて朝のミーティングが終わり、営業は外回りの準備を始め、事務はそれぞれの持ち場に戻る。
知代も出かける準備をしていると、肩をぽんと叩かれた。
「先に社有車のガレージで待ってるからね」
そう言って、颯爽と出ていくのは鹿嶋。
知代はグヌヌと苦々しい顔をして、必要なものを手早く鞄に詰め込む。
「どうやらお互いに角が取れて、雰囲気がよくなったようだな」
「どこがですかっ!?」
横から津島に声をかけられて、知代は勢いよく振り向く。
「い、いやあ、なんというか。互いに信頼し合ってる感じじゃないか。鹿嶋も猪田も同じくらい仕事ができるから、元々気の合う素地が出来上がっていたんだろうし」
「そんな素地、できてません。これは……そう、新手の
ビシッと指摘して、津島の目が点になる。
「鹿嶋さんは私を手なずけようとしているんです。漫才バトルショーなんてめちゃくちゃ行きたいけどっ! あれが何らかの企みだとしたら、私はどうすれば!?」
「いや、そんなわけないだろ。……ハァ」
先輩は疲れたようなため息をついた。
「猪田って、営業はうまいけど……残念だよな」
「残念!?」
予想外の悪口をしみじみ言われて、知代は目を丸くした。
――鹿嶋利央。誰からも頼られて、上司の覚えもめでたく、将来有望な営業のエース。
知代は、夕飯がてらに寄った蕎麦屋で、ずるずるととろろ蕎麦をすすりながら考える。
人望があって、人格者で、誰に対しても親切で優しく、謙虚な性格。おまけにとびきり顔がよく、背も高く、スタイルもいい。
まさに完璧である。結婚相手としてこれ以上はない優良株だろう。実際に、彼を狙っている女性は東京支社どころか、鹿嶋の評判を聞いた他の支社、更には取引先にもいるのだと、噂好きの女性社員が言っていた。
「まあ、そりゃ……意識ゼロですっていうのは、嘘になるけれど……」
ずるっと蕎麦をすすって、知代はしかめ面で呟く。
知代だって、いっぱしの女である。今年で二十六歳になるのだし、そろそろ結婚を視野に入れた男性とのおつきあいも悪くないとは思っている。
(でも、鹿嶋さんは、なんか違うんだよね)
恋愛対象として見る見ないの前に、知代は鹿嶋に追いつきたいのだ。
ずっとライバル心を燃やしていたのはそのせいで、何を考えるにしろ、全てのスタートラインには、彼を乗り越えてからじゃないと立てないと思い込んでいた。
(それに、鹿嶋さんが私をどう思ってるかも、ぜんぜんわからないし)
確かに、あの思い出すのも恥ずかしい夜を越えてから、鹿嶋の態度は変わった。皆は『仲良くなってよかったね』程度の認識でしかなかったようだが、割と露骨に変わったのではないかと思う。
具体的に言うと、良い意味でも悪い意味でも遠慮しなくなった。
他人行儀じゃなくなったのは、決して悪い気分じゃない。でも、彼の本意がわからない。
あの夜、知代に触れた理由さえ――彼は肝心なところを曖昧にしている。
「嫌がらせじゃないなら、他にどういう意図があるっていうのよ」
箸を置いて、温かい蕎麦茶を飲んで、ブツブツ呟く。
思えば、鹿嶋と知代は出会った日からライバルだった。
すかした顔でなんでもテキパキこなす年上の同僚が気に入らなくて、知代は最初から毛を逆立てて威嚇する猫のようだった。彼は最初から親切だったし、知代がミスをした時もすばやくフォローしてくれる。なのに、知代は親切にされたくなかった。手助けされるのも嫌だった。年下扱いも、爽やかな笑顔も、鹿嶋の何もかもが知代の感情を逆撫でした。
『どうしてそこまで毛嫌いするの?』
同期の毛野が、不思議そうに尋ねたことがある。
知代だって理由はわからない。おそらく遺伝子レベルで気が合わないのではないだろうか。
でも、どうしてか……鹿嶋に嫌われるのだけは、心の底で怖がっていた気がする。
――『これ以上知代に嫌われたくない』
ふと思い出すのは、鹿嶋の呟き。
つまり、知代も鹿嶋も、お互いに『嫌われたくない』と思っていたのだ。
それは……どうして?
「う~……」
考え込みすぎて、頭から湯気でも出てきそうだ。きっかけがあればパッと答えに至れそうなのに、なぜか難しく考えてしまう。
知代は残りの蕎麦を食べ終えて、息をつく。
「仕事なら、こんなに悩んだりしないのになあ」
まっすぐに走って、諦めずに何度も足を運んで、地道にプレゼンを重ねて契約を取る。取れない時ももちろんあるが、営業に近道はないというのが知代の信条だ。
それで言うなら、鹿嶋に対するモヤモヤした気持ちの答えも、一朝一夕に出るものではないのかもしれない。
「ま、そのうちわかるかな」
問題を棚上げしている気もしないでもないが、いつか鹿嶋がハッキリと気持ちを口にしてくれるかもしれない。
知代はそう結論づけて、ごちそうさまの合掌をした。
鹿嶋の知代に対する態度がやけに甘くになってから数日後。その日の朝は、なぜかいつも以上に営業部のフロアがザワザワしていた。
いつも朝礼前はデスクでのんびりお茶を飲んでいる瀬口課長が忙しそうにバタバタ走り回っている。
「おはようございます。……どうしたんですか?」
デスクに鞄を置いた知代が瀬口課長を呼び止めると、彼はクルリと振り返り、ずれた眼鏡を直した。
「どうもこうも、監査室が来たんだよ!」
「監査室?」
「日本の本部にある、監査室だよ!」
かんさしつ……と知代は呟く。株式会社グランツリヒトの本社はドイツにあるのだが、各国には支社を統括・管理する『本部』がある。監査室は、その本部にある部署のひとつだったはずだ。支社が不正行為をしていないか、社内規定に反していないかを調査する役割を持っている。
「どうして監査室が東京支社に? うち、別に何もしてないですよね」
「僕にも皆目見当がつかないよ。とりあえず変なケチをつけられたくないから、猪田さんも掃除を手伝って〜!」
「……課長が朝からバタバタしてたのは、掃除してたからなんですね」
なるほど、と知代は納得する。慌てるあまり、逆に散らかしているような気もするが。
すると、近くでコホンと誰かの咳払いが聞こえた。
「今焦るくらいなら、普段から整理整頓を心がけていただきたいですね」
「へ……?」
聞き慣れない声に振り向くと、そこには金髪碧眼の男がいた。
「どっ、どなた様ですか?」
知代は慌てて距離を取り、尋ねる。
外国人だ。さらさらした金髪はまばゆく、透き通るような青色の目をしている。背は鹿嶋と同じか、それ以上か。肩幅も広く、外国ブランドの高級そうなビジネススーツを嫌みなく着こなしている。
彼は、その場にいる女性社員を
「おはようございます。私の名は、ランベルト・ルートヴィヒ。日本グランツリヒト本部、監査室から参りました。以後、よろしくお願いいたします」
「ルートヴィヒさん。外国人なんですね」
「はい、生まれはドイツです。こちら名刺です」
「あ、頂戴いたします……って、ぐえ!」
ランベルトから両手で名刺を受け取った瞬間、後ろから瀬口課長に首根っこを掴まれる。
「なんですか、痛いですよ!」
「頼むから猪田さん、くれぐれも言動には気をつけて~! こちらのルートヴィヒさんはね、監査室の室長であると同時に、グランツリヒトの会長の孫なんだから!」
「ま、孫?」
つまり、
「グランツリヒトの御曹司ってこと~!?」
知代の近くにいた女性社員たちがキャーッと黄色い声を上げた。ランベルトは困ったような笑みを浮かべ、ぽりぽりと頬を掻く。
「う~ん。私の出自は伏せておきたかったのですが……。まあ、時間の問題でしょうし、仕方ないですね。それよりも、こちらに赴いた用件を伝えましょう」
ランベルトはコホンと咳払いをして、小脇に抱えていたバインダーを広げた。
「ここ二年ほど、日本グランツリヒトの売り上げは東京支社が突出しています。これについて、複数の支社が『東京支社の営業部が重大な不正行為をしているのではないか』と監査室に問題提起しました。……と、まあ、そういう経緯から、しばらくの間監査に入らせていただきますね」
ニッコリと。ランベルトは
対して、唖然としているのは東京支社営業部だ。皆が言葉を失う中、最初に抗議の声を上げたのはもちろん知代だった。
「待ってください! 誤解です。不正なんてうちは一切していません!」
「ええ、ですので、それを調べるために監査するのですよ」
「東京支社の営業成績は、営業部のみならず、総務部、出荷部、支社全体が懸命に働いた結果なんです。それを不正と疑うことは、私たちの毎日を侮辱するのと同じです!」
知代はランベルトを見上げ、ハッキリと意見を口にした。
後ろで瀬口課長が「猪田さ~ん、そういうトコを気をつけて~って言ったんだよぉ~」と泣きそうな声で抗議しているが聞かなかったことにする。
(営業成績が突出してるから不正ですって? そんなの数字が取れない支社の妬みじゃない。なのに真に受けて監査するなんてふざけてる)
一歩も引いてなるものかと、知代はランベルトを睨んだ。
彼はそんな知代をジッと見つめると、ふっと柔らかな笑顔を見せる。
「あなた、お名前は?」
「わ、私は猪田知代。営業部の営業です」
「ああ……あなたが、噂のコンビの片方なんですね」
納得したように、ランベルトが言う。
「う、噂ってなんですか」
「東京支社に凄腕の営業コンビがいるという噂ですよ。ひとりはたびたび本部でお会いしていましたが、もう片方の営業さんは名前でしか知らなかったんです。可愛らしい相棒ですね、鹿嶋さん」
ランベルトが、知代の後ろに目を向けた。
「え?」
自分の後ろにいるのは瀬口課長だけかと思っていたが、更にその向こうに、鹿嶋がいた。
皆の輪から外れるようにポツンと立っており、感情を全てなくしたような表情で、じっとランベルトを見つめていた。
「仕事に『可愛い』は余計でしょう。猪田さんはとても優秀な同期ですよ」
鹿嶋はニコリと微笑み、ゆっくりした足取りでこちらに近づいた。
「うお、美形が並ぶと迫力あるな……」
近くにいた津島がボソリと呟く。
「きらきら金髪王子様と、黒鋼のような黒髪紳士……ぐはっ」
端のほうにいた女性社員が、なぜか鼻を押さえてかがみ込む。
「僕も猪田さんの意見はもっともだと思います。つまり、監査室はこう言いたいのですか? 『疑われたくなければ、ほどほどに手を抜いて仕事をしろ』と」
普段の鹿嶋らしからぬ、挑発的な発言。周りが驚いた顔をしてざわつく。
だが、ランベルトはあくまで柔和な態度を崩さず、親愛を示すように両手を広げた。
「まさか。そんな『出る
挑発を、挑発で返す。
ランベルトの発言にも、周りはザワザワした。なかなか過激なことを言うと知代も思う。優しげな顔に騙されそうになるが、ランベルトはなかなか食えない人物のようだ。
「ですが、考えてみてください。二年も、東京支社はトップ争いをしています。これはある意味、偉業と言えるほどの功績ですが、同時に前代未聞でもあるんです」
「過去に前例がないから、他の支社が不正を疑うのも仕方がない。……そういうことですか?」
鹿嶋は静かな口調で問い返す。ランベルトも鹿嶋も、まるで談笑でもしているような微笑みを浮かべており、口調も穏やかだ。それなのに知代を含めた全員が、固唾を呑んでふたりのやりとりを見守っている。なんというか、水面下でものすごい緊張感が走っているような気がするのだ。
「もちろん、私個人としましては、東京支社が不正をしているとは思っていません。ですので、これをいい機会にしてみてはいかがですか?」
「……どういうことですか?」
さすがに意味がわかりかねるのか、鹿嶋が軽く首を傾げる。
「組織というものは、長く存在するほど規律が緩んでいくものです。少しなら、これくらいならと、いつの間にか独自のルールを作っていませんか? 監査は、そういったものを見直すきっかけになるということです」
独自のルール。確かにそう言われると、少なからずそういうところはあるかもしれない。
本来踏まなければならない手順を省略したり、書類で確認するところを口頭報告で済ませたりと、不正ではないものの規定に沿ってもいないという、曖昧な部分を正したほうがいいと彼は言っているのだ。
「なるほど。襟もとを正せというわけですか」
「そうですね。しばらく目障りでしょうが辛抱してください。何もなければ、数日で済みますから」
そう言って、ランベルトはパンパンと手を叩いた。すると、営業部の扉が開いて、監査室のメンバーがわらわらと入ってくる。
「では、順番に各自パソコンを調べていきますね。私は、課長さんの聞き取り調査を行います。それでは皆さん、しばらくの間、よろしくお願いします」
最後まで笑顔を絶やさないランベルト。だが、反論は受けつけないと、その青い瞳が物語っていた。
東京支社に監査が入って一週間が過ぎた。
何もやましいことはないのだから、監査が入ったところで気にしなくていいだろう。……そう、知代は思っていたが、話はそう簡単にはいかないようだった。
「ここの手順ですが、主任のチェックが入っていませんね」
「ええと現在、主任は産休を取っているのですが、課長が主任の仕事を兼ねているので、課長のサインしか入ってないんです」
「それならテンプレートの更新を。これではチェックに抜けがあると判断されます」
営業事務が困った顔で監査の言葉を聞いている。
そんなことを言われても、テンプレートを作り直すには本部の許可がいるし、そのためには
(何をやるしても、組織っていうのは時間がかかるんだよね)
はあ、と知代はため息をつく。
毎日の仕事の中で、どうしてもおざなりになるところ。それが事務処理だ。特に確認作業はどうにか早くできないかと皆が思っている。
だから、気心の知れた部署で独自に簡略化するのは自明の理と言えた。しかし、それが組織としてOKかといえば間違いなくNGだろう。ただ、普段は目を瞑っているにすぎないのだ。
「取引先への電話連絡は、社用スマホの使用を徹底してください」
「あれは終業時間を過ぎたあと、外への持ち出しが禁止されているので……」
「当然です。仕事を持ち帰らないことと、規則で定められていますよ」
向こうのほうでは、営業の先輩が監査室の人に叱られていた。
「んなこと言われても、向こうから電話かかってくんだから、仕方ないじゃん」
ボソッと悪態をつくのは、知代のことを嫌っている営業――山野だった。彼は知代と目が合うと、バツが悪そうな顔をしてデスクに戻っていく。
(ま、私のことを嫌おうが、そうでなかろうが、今の状況は居心地悪いよね)
知代でさえ、やりづらいなあと思うのだ。しばらくの間、こんな日が続くのかと思うと気が滅入る。ランベルトという室長は物腰こそ柔らかだが、ルールに反することは徹底的に許さないという、強い意志を感じる。そのうち知代にも指摘が来るだろう。
「はあ」
思わずため息をついていると、営業部のドアがガチャッと開いた。転がるように駆け込んできたのは、件のランベルトにこってり絞られているはずの瀬口課長だった。
「課長、早かったですね。もう聞き取り調査が終わったんですか?」
「あ、あ、あわ、うり坊ちゃ……じゃなかった猪田さん。まだ営業に出かけていなかったんだね、よかったよ~」
「今うり坊って言いましたよね。課長まで言うんですかソレ!」
「あわわごめんよ~焦っちゃって! それより大変だよ! 今、うちの支社長が四半期会議を終えて帰ってきたんだけど~!」
ばたばたと両手を振るたび、彼の寂しい髪の毛がふわふわ揺れる。それを見ながら、知代は「落ち着いてください」と言った。
「会議がどうかしたんですか?」
「えっとね、今期の営業成績で東京支社が一位を取らないと……鹿嶋くんが本社に異動させられてしまうんだよ!」
「は?」
知代の目がテンになった。もちろん、営業部にいた他の人たちも全員、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「どういうことでしょう」
その場にいた鹿嶋が冷静な口調で尋ねた。一呼吸遅れてから、知代は瀬口課長に突進する。
「そそそ、そうよ。どっ、どういうことですか! 本社って……ドイツってことですよね!?」
知代の迫力に押された瀬口課長はブルブル震えながら「そうだよ~!」と肯定した。
「実は、以前から本社に相談を受けていたんだ。日本から腕利きの営業が欲しいってね。日本人は勤勉で真面目な性格が多いし、営業成績も上々だから、評価がよかったんだ」
「それはまあ、喜ばしいことではありますけど」
聞いていた津島が相づちを打つ。
「でもさ~、腕利きの営業ってことは、支社のエースってことでしょ。言わば稼ぎ頭だから、東京支社も含めて皆渋っていたんだ」
瀬口課長の説明に、知代は「確かに」と同意する。
東京支社のエースは鹿嶋だが、他の支社にもエースと呼ばれるやり手の営業が在籍している。成績トップを手放すということは営業成績が落ちるも同じなのだ。どの支社も嫌に決まっている。
それに、本社転勤といえば栄転も同然だが、二度と日本に帰れなくなるという噂があり、どんなに優秀な営業も本社に行くのは嫌がっていた。
「でも、本社の要請も続いているし、そろそろ答えを出さないとなあ~と話し合っていたところで、あの
知代は、今日の会議の光景が目に浮かぶようだった。
東京支社と名古屋支社の支社長は、前々から仲の悪さで有名なのだ。知代と鹿嶋の関係が可愛いく見えるくらいに、ライバル関係を超えていっそ険悪である。
「四半期成績なら名古屋にも表彰された営業がいるし、その人は外国で就業していた経験もあるから、そっちのほうが適任だと支社長が言い出して、酷い大げんかをしでかしたんだ」
「相変わらず不毛なやりとりですねえ。それで、どうして鹿嶋が本社転勤なんて話になったんです?」
津島が本題を尋ねる。知代も「うんうん、それですよ!」頷いた。瀬口課長はションボリした顔をして、ツンツンと人差し指同士を合わせる。
「それが……名古屋支社と東京支社、次期で一位を取れなかったほうがエースを本社に差し出すっていう勝負になってしまったんだよ」
「はぁ~?」
「子供の喧嘩っすか。内容が内容だけに笑えないっつうか」
呆れ顔の知代と、ため息をつく津島。
「いやいや! 社員の転勤を勝負で決めるなんておかしいっす!」
他の営業も騒ぎ出した。瀬口課長は困り顔で「僕に言われても」とボヤく。
「これ、絶対、名古屋支社の陰謀でしょ。うちから鹿嶋さんがいなくなったら、間違いなく売り上げ一位は名古屋支社の独占になる。それを狙って、わざとうちの支社長を挑発して口論に持ち込み、勝負の
「陰険なヤローだなぁ」
「でもヤバイですよ。ただでさえ名古屋とは接戦なのに、うちには……」
営業のひとりが煩わしそうに後ろを睨んだ。そこには、監査室の人たちがいる。
「って、もしかして。この監査室の調査タイミングも、名古屋支社の企み?」
知代がハッとして言うと、皆が「それだっ!」と同意した。
「他の支社とも手を組んで、名古屋支社が本部に報告したあと、タイミングを計っていたんだ。監査室が動いたのを確認してから、支社長と口論に持ち込んだんだよ」
「やり方が汚い~!」
「向こうは独自ルールでやりたい放題、こっちは監査室の監視つきで品行方正に営業しろと? そんなの不利に決まってるじゃないか!」
営業と営業事務がわあわあと騒ぐ。
知代は、チラリと鹿嶋のほうを見た。彼は何か考えているのか、腕を組んで心あらずといった様子だ。
名古屋支社には、鹿嶋に負けず劣らず腕利きの営業が在籍している。もちろん油断できる相手ではない。一日たりとも無駄にはできない。
(決まってしまったことに文句を言っても仕方ない。今はとにかく、やるべきことをやらないと)
よし、と知代は手をパンと叩いた。
「皆、嘆いても事態はよくなりません。すでに勝負は始まっているんです。こうなったら全力で数字を取り、今期も東京支社が一位を取ってやりましょう」
知代が力強く言うと、山野が不満そうに頭を掻いた。
「んなこと言っても、鹿嶋や猪田みたいに仕事できるヤツばっかじゃねえんだ。俺なんか先月は一件も取れなかったのに、更に監査が入って窮屈な状況で、いい成績が取れるわけないだろ」
諦めたように言って、下を向く。
「無理だ。この支社は鹿嶋と猪田でもってるんだ。ふたりがいつもの調子で数字を取らなきゃ名古屋に負ける。俺たちがどれだけ頑張ろうと……」
山野は、すっかり意気消沈している。知代はポケットから手帳を取り出すと、ビリッと一枚破いた。そして彼の胸に突きつける。
「この取引先に連絡してください。ここは複数の研究所を統括しているセンターで、まだまだ契約が取れるところです。少なくとも三件はいけると思います」
すると、山野はムッとしたように知代を睨んだ。
「ここは猪田の取引先だろうが。お情けで仕事を貰うほど、俺は落ちぶれてないつもりだ!」
「情けじゃありません。これは役割分担です!」
知代が大声で言うので、山野はたじろぐ。
「この取引先を山野さんが担当してくれたら、私は新しいアポを一件取ることができる。新規開拓をすることもできる。山野さんは新規を取るよりルート営業が得意でしょう? だから適材適所なんです」
「お前、どうしてそんなに俺のことを知ってるんだよ。だいたい俺は、猪田のことが……」
「三年、一緒に働いてきたんです。山野さんが私をどう思おうと、私はずっと山野さんの仕事を見てきた。わかって当然です。だって……同じ支社で働く仲間でしょう?」
知代の言葉に、山野は目を丸くした。周りもシンとする。
「取引先のチョイスも適当に決めたわけじゃありません。この会社の担当者は、山野さんと同世代なんです。年上のおじさんを相手にするのは苦手だけど、同世代なら仲良くなれるって、前にミーティングで言ってましたよね?」
「うっ!? お、おう、まあな」
「だから任せます。三件、もぎ取ってください」
しっかりと山野の目を見てお願いすると、彼は照れたように顔を赤らめた。そしてプイと横を向くと、知代が手に持つ紙を取り上げる。
「……三件、なんて、舐めたこと言うなよ」
「え?」
「猪田が取る予定だった契約数よりも多く決めてやる! 首を洗って待ってろよ!」
耳まで赤くした山野が口早に言って、知代はぱあっと表情を明るくした。
「はい。私をびっくりさせてください」
「まったく生意気なヤツだよ。うり坊のくせに」
「うり坊は余計!」
知代がすかさず言うと、周りが楽しそうに笑った。
「そうだよな。適材適所、役割分担。うり坊の言う通りだ。後輩ども! 俺がプレゼン仕込んでる会社にそれぞれ行ってくれ。自信がないなら、しばらくはついてやるから」
津島が皆に声をかけ、後輩たちは「はいっ」と一斉に声を上げる。
「私は至急、本部に提出する稟議書を作成します。課長、いいですよね?」
「えっ、あっ、いいよ~」
「監査室に注意されたところをリストアップします。社内メールで回して情報共有します」
事務たちもはりきって走り出す。
「なんだか熱くなってきたなあ。よし、気合い入れるかっ」
他の営業たちも口々に意気込みを言って、鞄を持って出ていった。
(よかった……。皆、頑張ろうって気持ちになってくれたみたい)
知代はホッとして、自分も営業に行く準備を始めた。
その時――ふと、鹿嶋と目が合う。
彼は一連の騒ぎの中で、自分の転勤がかかっているというのに、ずっと静かにしていた。いつもの彼ならどんな状況でも、皆を引っ張って士気を高める言葉をかけるはずなのに。
鹿嶋は、じっと知代を見ていた。
(あ。また、あの顔だ……)
感情を全て捨てたような表情。喜怒哀楽の読めない黒い瞳は、まっすぐ知代に向けられている。
「鹿嶋さん、大丈夫ですか?」
声をかけづらかったが、一応、彼の気持ちを
だが、彼は知代から目を背け、デスクに置いていたビジネスバッグを手に持つ。
「君は、すごいな」
「え……?」
「俺にはできない。やっぱり君は東京支社で、皆の心をひとつにまとめる、リーダーなんだろう」
「なんですかそれ。嫌みですか。うちの中心人物は鹿嶋さんでしょ」
知代は半眼になって、鹿嶋を睨む。
すると彼はゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。俺は単に数字を取ってくるから便利というだけ。この支社において、俺の存在意義は売り上げのみだ。でも、知代は違う」
形のよい目を伏せて、鹿嶋はため息をついた。
「知代は皆を笑顔にする。前向きにさせる。……俺とは違う。俺は、皆にどんな言葉を重ねようとも『鹿嶋に任せておけば大丈夫だ』と、責任を押しつけられるだけだ」
「鹿嶋さん……」
知代は戸惑いながら、彼を見た。
もしかして、それが本音なのだろうか。ずっと、そう思っていたのだろうか。皆から期待を寄せられることを、苦痛に感じていたのだろうか。
鹿嶋は慌てたように首を横に振ると、知代に背を向けた。
「すまない。今の言葉は忘れてくれ。……行ってくる」
足早に去っていく。そんな鹿嶋の後ろ姿は寂しそうで――。
(そういえば、鹿嶋さんって誰にでも優しかったけど、特別仲のいい人はいなかった気がする)
知代はきゅっと下唇を噛む。
優秀で、凄腕で、誰からも親しまれる優しい鹿嶋。しかしそれは表面上のもので、実際は少し意地悪で口調も粗野なところがある。
彼の『本当の顔』を知っている人はどれだけいるのだろう。
少なくとも――この支社には、いない気がした。
なんだか大変なことになってしまったなあ。
突然入った監査に、営業部のエースを賭けた勝負。
つかの間の休日、知代はお気に入りのトートバックに着替えやバスタオルを入れて、とある場所に向かって自転車を走らせていた。
どんな困難も、その困難に見合うだけの努力を重ねれば、どうにかなるというのが知代の信条である。
予習復習練習。
基本的にその三つをこなしていれば、勉強もスポーツも、大抵のことはクリアできたのだ。しかし、こと仕事に至っては、予習復習練習ではどうにもならない困難もあるということを、知代は知った。
それが、今回のようなケースである。営業部の成績なんて、知代ひとりの力でどうにかできるものではないし、監査だって、知代だけが決まりを守ればいい話ではない。
チームワークと社員全員のモラル。意識を統率するというのは難しく、部長や瀬口課長も頑張っているが、今まで『適当』で済ませていたものを全てきっちりやるのは相当骨が折れるだろう。
しかも、もし東京支社が負けたら、鹿嶋は海外へ異動してしまうのだ。
知代の心の中は、ここ最近ずっとモヤモヤしている。鹿嶋が自分の目の前から消えることを想像すると、胸が痛くなるのだ。
「なんだろう。ずっとこのまま、変わらずにいられると……思っていたのかな」
そんなわけあるはずがないのに。
なんとなく、あの東京支社で鹿嶋と首位を争い、減らず口を叩き、ライバルでいる日々がずっと続くと思っていた。
そんな知代の日常が、ある日突然打ち切られる。そして、鹿嶋がいない日常に取って代わられる。
「……はぁ」
自転車を漕ぎながら、重いため息をついた。
「ダメダメ。ネガティブ思考よくない! 全国一位取ればいい話なんだもの。いつも通りにやってれば大丈夫!」
自分自身を鼓舞するように、知代は思いきりペダルを漕いだ。
やがて到着した目的地は、いわゆるスーパー銭湯である。
ひとりカラオケとお笑いが趣味である知代は、もうひとつ『スーパー銭湯フリーク』という一面を持っていた。
「今日は奮発して、ヘッドスパもやっちゃおうかな~」
ロビーに入り、フロントの近くにある支払機に会員カードを差し込む。
その時、「知代?」と聞き慣れた声がした。
「え……その声は」
慌てて振り向くと、そこにはなんと鹿嶋が立っていた。
「かっ、鹿嶋さん!? どうしてここに!」
「どうしてって、ここは俺の行きつけのスーパー銭湯なんだけど」
「私も行きつけなんですけど! って、ええ~本当に!?」
知代はびっくりして、大声を出してしまった。
「まさか鹿嶋さんがここの常連客だったとは……。というか鹿嶋さんとスーパー銭湯が繋がらなさすぎて戸惑いが強い……」
足湯コーナーで、足を湯に
「そんなに意外か?」
「勝手なイメージだけど、休日はオシャレなカフェでブレックファーストを食し、映画館でオシャレな映画を見て、
「もういい。知代が俺に持っていたイメージが、なんとなく理解できた」
鹿嶋は頭痛を覚えたように頭を押さえる。
気のせいだろうか。鹿嶋は、いつもより元気がないような気がした。
(いや、それも当然かも。だって自分が賭けの対象になっているんだもの。私だったら絶対に嫌だし)
天下無敵に見える鹿嶋だって、当然疲労が溜まる時だってあるだろう。
広い風呂に入ってゆったりしたい。当たり前だが、彼も自分と同じ人間なんだなあと思う。
「……スーパー銭湯通いは、俺にとって唯一とも言える『趣味』かもしれない」
ぽつ、と呟き、鹿嶋はぼんやりと前を見つめる。
「ふぅん。他に趣味はないんですか?」
知代がちゃぷちゃぷと足で湯を掻き混ぜながら聞くと、鹿嶋は静かに首を横に振る。
「ないな」
「じゃあ大学時代は……って、そっか、鹿嶋さんはドイツに住んでたんだっけ。向こうではどんなことをして余暇を過ごしていたんですか?」
何気なく聞くと、鹿嶋は困った顔をして俯く。
「何も、してなかった気がする。部屋でぼんやりしたり、時々参考書を読んだり……」
今度は知代が呆れた顔をした。なんだその無趣味ぶりはと思ったのだ。
すると鹿嶋がふっと自嘲めいた笑みを浮かべて、知代を見る。
「今、つまらない男だと思っただろう」
「え、いや、そこまでのことは……いや、近いことは思いましたけど」
「どうしてだろうな。幼い頃から、何事にも熱中できず、気持ちはいつも冷めていたんだ。普段の『鹿嶋利央』を知る人は、本当の俺を知ったら幻滅するんだろう。……親でさえな」
湯を見つめ、小さく呟く鹿嶋は、酷く寂しそうに見えた。
「そんな俺でも唯一好きな趣味を見つけた。それがここだ。ゆっくり湯に浸かって、仮眠室で静かに過ごすだけで、仕事の疲れが癒やされていく。一度知ると、やみつきになってしまった」
「あ~うん。その気持ちはわかります。私も長風呂派ですから。あと、ここって、漫画も読み放題、映画も観放題なんですよね」
とにかくスーパー銭湯でダラダラするのが好きなのだ。生産性のない趣味かもしれないが、鹿嶋と同じく、知代も休日くらいは癒やされたい。
(それにしても、鹿嶋さんってホント、蓋を開けてみると味わい深い人だなあ)
知代はそっと横目で鹿嶋を見た。
彼の本性を知る前は、ただのいけすかない優男と思っていた。親切でフォローが的確なところはありがたいが、男性としての興味は皆無だった。
しかし、あの夜を経て、知代は少なからず鹿嶋を意識している。そして、なんとなくだが彼の本当の姿が見えてきた。
分け隔てなく、誰にも優しい。紳士的で、性格のよい鹿嶋利央。しかし彼はそう見せているだけで、本当は誰よりも冷静で、淡泊なところがあって、そして……。
(割と、ネガティブだよね)
コソッと心の中で呟く。そう、鹿嶋は悲観的なところがある。思えばあの夜、知代に無理矢理触れた時も、とことん自分を追い詰めて、ネガティブ思考を極めた結果の暴走だったようだ。
だが、それにしても。
知代は、じーっと鹿嶋を凝視した。
さすがに視線に気づいた鹿嶋が、居心地悪そうにチラと知代を見る。
「なんだ。さっきからじろじろと」
「あ、いやその。その私服、どこかのハイブランドものだったりします?」
「いや。そんないいものじゃない。近くのアウトレットモールで、適当に選んだ服だ」
「ふぅん……」
知代はぼんやりと相づちを打つ。すると、鹿嶋は軽く笑って、知代を見た。
「君の私服は、言っては悪いが、地味だな」
「むっ」
ビキッと知代の額に青筋が浮く。
「余計なお世話。だってスーパー銭湯ですよ。オシャレして行くような場所じゃないでしょ」
「それは確かに、俺も適当だしな。……しかし、仕事の時とほとんど変わらないと言おうか。一般的な男心として、デートでそんな恰好をされたら落ち込んでしまいそうだ」
「心配しなくても、デートの時くらい、ちゃんとおめかししてみせますよ」
「ふぅん、それは是非、見てみたいものだ」
ふ、と目を和ませた鹿嶋は皮肉の混じった言葉を口にし、静かに前を向く。
(まったくもう。よそ行きじゃない素の鹿嶋さんって、結構意地悪なんだよね)
心の中でぶつくさ文句を言いつつ、知代は鹿嶋の横顔を見つめた。
(そういえば、鹿嶋さんの私服姿、初めてだ)