第一章 すったもんだの勝負の行方


 株式会社グランツリヒト・東京とうきょう支社。その営業部では、毎月月末に、ミーティングで支社内での成績表が貼り出される。

 いのは、ホワイトボードの成績表を見て悔しそうに唇を噛みしめた。

(一位、鹿しま。二位、猪田……。また、二位だ!)

 知代は今月九件の契約を取っていた。これなら勝てると確信していたのに、同僚の鹿嶋は月末の締め日に滑り込みでプラス三件。合計十二件も決めていた。

 ぐぅの音も出ない完敗である。

「いや~惜しかったね~猪田さん。しかし九件も受注を取るなんてすごいことだよ!」

 知代の隣に来た課長のぐちがポンポンと知代の肩を叩く。

「なぐさめは結構です」

 すげなく言うと、瀬口課長は寂しそうにすごすごとデスクに戻っていった。

 知代がホワイトボードをにらんでいると、すぐ近くでは一位を取った同僚の鹿嶋が、営業や営業事務に囲まれて賞賛を浴びていた。

「ホント、飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことだよな!」

「ドイツの本社でも話題になってるって聞きました~」

「鹿嶋がいるおかげで、今回も東京支社が国内で一位だよ」

 皆が手放しで褒める中、鹿嶋はあくまで奥ゆかしく、はにかんでみせる。

「僕ひとりの力で契約を取ったわけじゃありませんよ。先輩のアドバイスや、事務の皆さんの支えがあってこその結果です」

 優しい声でそんなことを言うものだから、男女関係なく、皆が鹿嶋に感服した。

 ただひとり、知代を除いては。

さん臭い笑顔を振りまくんじゃない! ぬぁ~にが『僕ひとりの力で契約を取ったわけじゃありませんよ』だ! 私だって先輩にアドバイス貰ったし事務の皆さんのお世話になりっぱなしだよ! でも二位なの! 何よこの差は。ええわかってる、実力ですよね。はいはい実力の差ですよね。うう~悔しい!)

 知代がふんの表情で拳を握っていると、くだんの鹿嶋が後ろから話しかけてきた。

「猪田、すごいな。契約九件なんて自己新記録だろ? 女性営業としては最高新記録だって部長がおっしゃっていたよ」

「鹿嶋さんに勝てなきゃ、どんだけ数字を取ろうが同じですよ!」

 地団駄を踏む勢いである。何よりもこの男に褒められるのが嬉しくないのだ。その爽やかな笑顔すら、勝者の余裕に見えてしまう。

「今月こそいけるって思ったのに。会心の手応えを感じたのに……」

「営業成績は、タイミングや時の運にも左右されるからね」

 ポンポンと肩を叩かれる。

「気安く触らないでくださいー!」

 知代が鹿嶋からサッと離れると、周りにいた営業たちが口々に知代をたしなめた。

「せっかく鹿嶋が褒めてんのに、そこまでつっけんどんな態度を取らなくてもいいだろ」

「営業は勝負事じゃなくて仕事なんだから。猪田はムキになりすぎだよ」

「あ、あなたたちは、圧倒的に向上心が足りないです!」

 知代も負けじと言い返す。だいたいこの東京支社の営業は、全体的にやる気がないのだ。殺伐としている職場よりはマシだが、営業として何がなんでも数字を取ってやろうというハングリーさがない。確かに営業は仕事で、勝負とは関係ないのだが、営業は数字を取ってなんぼという考えを持つ知代には、彼らののんさがどうにも気に入らない。

「だいたい、悔しくないんですか? 鹿嶋さんと私は同期ですけど、入社してからずーっとこの人が成績一位なんですよ。私は悔しいです!」

「え~、だって、鹿嶋だもんな」

「そうそう。何やったって敵わないよ。頑張るだけ無駄じゃん?」

 これである。知代はグヌヌと唇を引き結び、不満顔をした。

(この東京支社が、鹿嶋さんひとりの力で保たれていることに、どうして危機感を覚えないのよ!?

 もし、本社命令で鹿嶋が他支社に異動となったら、たちまち困るのは残された営業なのだ。だから今のうちにせったくして、鹿嶋に追いつく努力をしなければならないのに。

(まあ私は、単に調子乗ってる鹿嶋さんの高い鼻をへし折りたいだけだけど)

 それにしても、十二件とは。グランツリヒトは研究用の試薬や化成品、臨床検査薬、そして研究器材などを手がける企業だ。受注先は当然、大学や病院、研究所が主になる。

 つまり、客幅が狭いのだ。その中で一ヵ月に十二件も決めてしまうのは、もはや神業にも等しい。

 一体どんな手で契約を取っているのだろう。自分もあれこれ考えて頑張っているのにと、知代は力なく肩を落としてしまう。

 すると、営業の先輩がわしわしと知代の頭を撫でた。

「まあ元気出せよ。うり坊」

 知代がまだ新入社員だったころ、教育係としてもお世話になったしまだ。

「うり坊言わないでください! あと頭は撫でるなとあれほど!」

「いや~ほら、丁度いいところに頭があるもんで、つい」

「もう、皆して私をチビ扱いして。まだまだ牛乳飲んでるんですからね。そのうち絶対、伸びますから!」

「二十六にもなって、未だ健気に牛乳飲んでるとか、笑えるからやめてくれ」

「もう~! 津島先輩嫌いです」

 知代がぷいっとそっぽを向くと、周りがドッと笑った。

「猪田のちっこさは、もはやアイデンティティーみたいなもんだしなあ」

「ま、今月も二位おめでとさん。来月も頑張れ」

「先輩たちも笑ってないで、数字取ってくださいよ!」

 知代が怒ると「いやまあ、ほどほどにな」とはぐらかされる。

(ほんとに暢気な支社だなあ。確かに、鹿嶋さんがいる限りは安泰なんだろうけど)

 のれんに腕押し状態の営業たちに、知代が小さくため息をついていると、鹿嶋と目が合った。

(何……?)

 彼はなぜか、ひどく冷めた顔をしてろんげに知代を睨んでいる。

 思わず知代は眉をひそめた。しかしそれは一瞬で、鹿嶋はすぐに知代から目をそらし、話しかけてきた瀬口課長と親しげに会話し始める。

(気のせい、だったかな)

 あんなに冷たい顔ができるのかと思うほど怖かった気がするのだが、いつもにこやかに笑顔を絶やさず、誰に対しても優しい鹿嶋だから、見間違いかもしれない。

 だいたい、鹿嶋が知代を睨む理由がないのだ。今まさに知代を負かしたのは、他でもない鹿嶋なのだから。


 猪田知代と鹿嶋利央りおの出会いは、三年前にさかのぼる。新卒でグランツリヒトへの就職が決まった知代は、その入社日に初めて鹿嶋と出会った。

 自分よりふたつ年上の同期。海外留学を経て、ドイツの大学を卒業してからの就職だったらしい。鹿嶋は今と変わらず、爽やかな笑顔を見せて挨拶をしていた。

『日本の高校を卒業してから、ドイツで六年過ごしました。久しぶりに帰った母国はめまぐるしく変貌していて、うらしまろうみたいになっています。仕事以外のことも色々教えてもらえたら嬉しいです』

 さらさらの黒髪は光に当たると少し茶色く、前髪を軽く後ろに撫でつけた髪型は、整った彼の相貌によく似合っていた。

 形のよい眉。涼やかな印象を持つ切れ長の目。薄い唇はにこやかな弧を描く。

 あまりの見目のよさに、女性はもちろん、男性までもが彼の姿に魅入みいられた。

 ――しかし、知代だけはムッとけんしわを寄せていた。

 なぜなら、新入社員は知代を含めて他にも数人いる。それなのに皆、鹿嶋に夢中で、他の新入社員のことなど眼中にないからだ。いや、同じ新入社員である同僚すら、鹿嶋に目を奪われている。

 知代にしてみたら、これほどみじめな入社日もないというのに。

『ドイツの大学なんてすごいね。どんな研究をしていたの?』

『語学力も高そうだねえ』

『本社が将来有望だって太鼓判をしていたよ。君には期待したいねえ』

 皆が口々に話すのは鹿嶋のことばかり。知代はまだ、自己紹介すらできていない。

 知代が下を向いた時、鹿嶋の涼やかな声がした。

『僕のことより、同僚になる皆さんの紹介を先に聞かせてください』

 柔和な笑みを浮かべた鹿嶋の一言で、ようやく他の社員たちの自己紹介が再開された。

 しかし、知代は情けをかけられたみたいで嫌な気分に陥った。思えば、あの瞬間から知代にとって鹿嶋は『敵』となったのだろう。

『――猪田知代です。新卒で入社しました。よろしくお願いします』

 笑顔のひとつも浮かべる余裕はなく、ムスッとしたまま簡潔に挨拶する。

『率直な意見なんだけど、君、すごく小さいね』

 営業の誰かが発したデリカシーゼロの言葉に、知代の額にはビシッと青筋が立った。

『高校生……いや、中学生くらいに見えるって言われない?』

『確かに! 俺のめいっ子とそっくりだわ~』

 ビシビシ。心底言われたくなかった言葉の数々に、知代の怒りゲージが増えていく。

 そして――

『小さくたって、いつかはトップの営業成績を叩き出してみせます!』

 知代は入社初日にして、伝説に残る大口を叩いてしまったのである。

 確かに、知代は小さい。むしろ小さいのが特徴のような人物である。

 百四十六センチという身長に、ベビーフェイス。セミロングの毛先にパーマをかけた髪型は大人らしさがあるものの、知代がやると背伸びしてオシャレした子供のようだ。常に眼鏡をかけているのも、どこか愛嬌がある。

 せめて、あと四センチあればよかったのにと、伸びない背に悪態をつく毎日だ。

 それだけあれば、憧れの百五十センチに届くのに。成長期の頃から毎日かかさず牛乳を飲み、小魚を食べているが、知代の身長は十八歳の身体測定を最後に、一ミリも伸びてくれなかった。代わりに、なぜか胸が未だに成長している。今やFカップにまで育ってしまい、食べ物の栄養が全て胸に集約されているのではないかと思うほどだ。

 しかし、そんな小さい見た目に反して、知代は大変負けず嫌いで、仕事に対してもポジティブな性格をしていた。

 それはきっと、父親の影響が強いのだろう。

 知代の父は、平社員から実力のみで役員まで登りつめた叩き上げの営業なのである。そんな父の背中を見て育った知代は、いわゆる『さとり世代』と揶揄やゆされる世代ではあるものの、割と昔ながらの熱血精神を持っていた。

 一度物事に打ち込むと、とことん燃える性格で、知代の青春時代はほとんど勉強と部活の陸上を頑張る日々だった。

 誰もが面倒臭がる朝練も毎日こなし、放課後は塾の時間までみっちり練習に明け暮れた。

 そんな知代の強気な態度と、何事も諦めないバイタリティーの高さは、営業として適正があるようで、職場でもすぐに馴染むことができた。

 『猪田』という姓と、猪突猛進な性格でひたむきな営業スタイルから『うり坊』というあだ名をつけられて、ちまっこいとか、子供みたいに可愛いなど、からかわれることも少なくないが、おおむね、人間関係は良好である。

 趣味は、ひとりカラオケと、お笑いライブを観に行くこと。

 休日は思いきり歌ったり笑ったりするのが、知代のストレス発散法なのだ。

 今や後輩もでき、営業テクニックをきびきび教える様はベテラン然としていて、教育係としても頭角を現している。

 しかし、初対面の印象が最悪だった鹿嶋とは、なかなか打ち解けることができなかった。むしろ年々悪化する一方である。

 大口を叩いた入社初日から三年――。

 知代は未だに、成績トップを取ったことがない。もちろん、同僚である鹿嶋に取られているからである。


 月末のミーティングで成績表が貼られた日から三日後。

 全国の支社の中で、四半期の営業成績総合一位に輝いた鹿嶋は、ドイツの本社から記念品が贈られることになり、今夜はそんな彼の偉業を祝う宴会が予定されていた。

 鹿嶋の独走状態が気に入らない知代は、朝からくさくさした気分である。

 ピリリ。ピリリ。

 知代が研究棟からサンプルを貰って営業フロアに戻る途中、廊下で、スマートフォンが着信音を鳴らした。

「はい、猪田です」

 通話の相手は取引先の担当者だった。朝一番に連絡をしてくるなんて珍しい。しかし、先方の話を聞いて、知代は驚きに目を丸くする。

「え、試験用の血液試料がまだ届いていないんですか?」

 慌てて鞄からスケジュール帳を取り出し、パラパラめくる。

(この取引先の納品日は昨日のはず。なのに、どうして試料が届いてないの?)

 まずは卸売業者に連絡して、確認する必要がある。それと同時に、至急取引先に代替品を届けなければならない。

(ええと、確かこの取引先と契約した血液試料は、ウサギと……もうひとつ、なんだったっけ)

 猪田が必死に思い出そうとしていると、後ろから声をかけられた。

「納品遅れの原因は、冷凍車の故障だよ。ウサギとウシの血液試料は、うちの地下冷凍庫に少数保管されているから、今すぐ届けると伝えて」

「えっ……?」

 低く、かつぜつのよい男性の声。振り返ると、そこには首を真上にしないと顔が見えないくらいに背の高く、見目のよい男、鹿嶋が立っていた。

「ほら、電話、途中だよ?」

 ツンツンとスマートフォンを指さされ、知代はムッとしながらも、すぐに彼から背を向けた。

「……失礼いたしました。先ほど情報が入ったのですが、運搬用の冷凍車にトラブルがあったようです。代替品となりますが、弊社の研究棟で保管している試料をお届けいたしますので、今しばらくお待ちいただけますか?」

 電話の相手は快く了承してくれた。「別でトラブルが起きても臨機応変に対応してくれて助かりましたよ、ありがとうございます」と礼を言われて、通話を終える。

(よかった……。なんとかなった)

 ふぅと安堵のため息をついてから、後ろの気配がまだ消えていないことに気づく。

 知代は眉間に縦皺を寄せたあと、グルッと振り返った。

 ――鹿嶋利央。知代にとって天敵でありライバルである。

 憎たらしいほど顔がよくて、高身長で、営業成績トップを常にひた走る。おまけに誰に対しても親切で優しく、上司の覚えもおめでたい。

 どこから見ても完璧超人。『優等生』を絵に描いたような男だ。

 噂によると、一部の女性社員から『営業部の貴公子』と呼ばれているらしい。初めてその噂を聞いた時は思わず噴き出してしまったが、確かにそう呼ばれてもおかしくないほど、鹿嶋は所作が優雅で謙虚な性格をしている。

 皆はそんな鹿嶋を聖人君子として褒め称えているが、知代は違う印象を持っていた。

 世の中に、完璧な人間なんていないという持論を持つ知代にとって、鹿嶋は『できすぎ』なのである。あまりに隙がないゆえに、裏の顔を持っているんじゃないか、どこか胡散臭いなどと、つい穿うがった目で見てしまうのだ。

(鹿嶋さんにお礼を言わなければならないなんて、屈辱くつじょくも同然! でも、借りを作るのも嫌だし、仕方ない)

 知代は悔しそうにギュッと目をつむったあと、ぺこりと頭を下げた。

「フォローありがとうございました」

「いえいえ、同僚として当然のことをしたまでだから」

 爽やかな笑顔でサラッと言う。さすが営業部の貴公子などとうたわれるだけはある。だが、知代はムムッと彼を睨んでしまった。

「どうしてあなたが、私の取引先の納品が遅れていることや、トラブルの原因が冷凍車の故障であることを把握しているのか、色々問いただしたいですけどね?」

「うん。実は昨日の夜に、僕の取引先から冷凍車トラブルの連絡が来たんだ。というわけで、どちらも昨夜の時点で代替品の再配送は手配してあるんだよ。午前中には届くから、あとで取引先に確認するといい。ごめんね、すぐに連絡すればよかったんだけど、猪田の携帯番号を知らなかったんだ」

(確かに、鹿嶋さんには私の携帯電話を教えていなかった……。それにしても、相変わらずフォローが百点満点ですこと! でも、私だって先に知っていたら、ちゃんと動けていたのに……悔しい)

 知代はしかめ面を浮かべた。すると鹿嶋は困った笑顔で遠慮がちに話す。

「猪田なら、これくらいのトラブルは難なく解決できたよね。お節介だったかな?」

「い、いいえ。助かりました」

 苦渋の表情で礼を口にすると、鹿嶋は「よかった」とうなずいた。

 彼は、時々こうやって知代のフォローに回ってくれる。もちろん知代だけではなく、誰に対してもこのスタイルだ。

 しかし、知代は気に入らなかった。ついつい悪態を口に出してしまう。

「エースの余裕ってやつかもしれませんけど、他人のフォローばかりしていたら、いつか足をすくわれますよ。主に私に、ですけどね!」

 猪田知代は、陰口は絶対に言わない主義である。だが、本人を前にして悪口は言う。世間では、それを『喧嘩を売っている』と言うのだ。

 鹿嶋はニコニコ笑顔でそれを聞くと、はっきり返してきた。

「そっくりそのまま同じ言葉を返すよ。猪田も、最近は教育係として後輩の世話ばかり焼いてないかな。このままだと来月は二位も危ないかもしれないね?」

 うぐっと知代は言葉に詰まる。まったくもってその通りだ。しかし今年入ったばかりの後輩は心配だし、できるだけサポートしてあげたい。でもそろそろ自分の仕事も気合いを入れていかないと、また月末の成績発表で悔しい思いをすることになる。

「よ、余計なお世話です! 私はすでに五枚も覚書をいただいていて、契約書を交わすアポも取り終えているんですからね!」

「へぇ~、さすがだね」

「そのバカにした顔。信じてないですね!?

「いやそんな、滅相めっそうもない。さすがは営業成績二位をキープされている、やり手の営業さんだと思ったんだよ」

「嫌みかコラ! 今月こそ一位を取ってやるんだからっ! 首を洗って待っててください!」

「うーん、それなら、今月は少なくとも八件は契約を決めないとだね?」

「はち……っ!?

「まあ、頑張って」

 ぽん、と知代の頭に大きな手が乗る。

「気安く頭に触るな! 背が低い私に対する嫌がらせか!」

「いや、丁度いいところに頭があるものでつい。ひじ置きにもなるし」

「肘を置くな~! くぅ、今月こそ絶対に見返してやりますから!」

 知代は前かがみになって鹿嶋の腕をかいくぐり、ずれた眼鏡を直してビシッと指をさした。そして営業部に向かって全速力で走る。

 完全に尻尾しっぽを巻いて逃げる図だ。

(悔しい、悔しい! 何よ人のことを子供扱いしたり頭を肘置きにしたり! あんなのどこが『貴公子』なの! 小一時間ほど問い質したいわっ!)

 だが、鹿嶋は本当に、分けへだてなく親切で優しく、頼りがいもある営業のエースなのだ。ただ唯一、聖人君子然とした鹿嶋が知代に対してだけは例外で、どこか挑発的なところがある。十中八九、知代がいちいち喧嘩を売るからだろう。

 知代が鹿嶋にすぐつっかかるのは社内でも有名で、犬猿の仲、とまで言われていた。しかし同時に、営業成績トップツーを常に鹿嶋と知代が占めているため、ふたりの名字と知代の名前の響きから、『猪鹿蝶コンビ』とも呼ばれていた。

 知代としては、勝手に変なコンビ名をつけるなと言いたい。あんな大嫌いなヤツと一緒にされるなんて、願い下げだ。

 気に食わない。顔がよくて背が高くて仕事ができて、傲慢さはひとつとして見せず、常に謙虚な態度を取っているところがまったくもって気に食わない。

 たいそう女性に人気があるが、お誘いは全て断っているらしい。だが、そのストイックな姿勢も人気に繋がっている。

(ああいうタイプは絶対、裏表が激しいに決まってる。だって私に対する態度が全てを物語っているもんね。紳士は普通、人の頭を肘置きにしないし!)

 知代はぷりぷり怒りながら廊下を歩き、ふと、足を止めた。

「……でも、私がトラブルにうと、なぜかいつも、先回りして助けてくれるのよね」

 今回のことだってそうだ。鹿嶋が知代のことを嫌っているのなら、最初から助け船なんて出さないはず。

 鹿嶋の親切心なのだろうか。それなら余計に放っておいてほしいと思う。

(普通は助けてもらったら喜ぶんだろうけど、私からしたら、どうしても勝者の余裕に見えてしまうんだよね。悔しい!)

 とにかく、鹿嶋よりもいい成績を取ってぎゃふんと言わせてやるのだ。

 そしてあの憎たらしいヤツの鼻を明かしてやる。

「今度こそ絶対に勝ってやる!」

 背中に炎を背負っているのが見えそうなほど熱い闘志をみなぎらせて、知代はのしのし営業部に戻った。


 終業のチャイムが鳴って、営業部の皆はいそいそと飲み会に向けて支度をし始める。その中で、知代はひとりコソコソと帰ろうとしていた。

 普段は、コミュニケーションを取るのも仕事のうちと、飲み会などにも積極的に参加している知代だが、鹿嶋を祝う宴会に参加するなんて絶対に嫌だ。『おめでとう』という言葉を口から出そうとしたら、勝手に『今に見ていろ』と言ってしまいそうなほど、知代は悔しさで憤っているのだから。

「まったくもう、皆して鹿嶋鹿嶋って。確かに十二件はすごいけど! でも、悔しいんだもん、仕方ないじゃない」

 ブツブツと小声で悪態をつきながら、知代は会社のエントランスに向かう。

 今日の宴会は全員参加とは言われていないし、鹿嶋を祝いたい人だけで存分に祝ったらいいのだ。

 そう思って玄関から出ようとすると、後ろから「猪田さん!」と声をかけられた。

 振り向くと、営業部の事務の女性社員ふたりがこちらに向かって走ってきている。ひとりは同期の。そして後輩のたいだ。

「猪田、宴会に参加しないの?」

「私が参加しても、場がしらけるだけですし」

 知代がそう言うと、彼女たちは互いに顔を見合わせた。

「鹿嶋さんと猪田さんが犬猿の仲というのは有名ですし、私たちも承知しているんですけど……」

「それを踏まえても、今夜の宴会は一緒に来てもらえないかな?」

 やけに必死な様子でお願いされる。知代は首を傾げた。

「どうかしたの?」

「最近、営業さんの一部が、やたらと事務に声をかけてくるんです。私たちは適当にあしらうからいいんですけど」

「今年入ってきたばかりの子が心配で……。ちょっと目をつけられてるみたいなんだよね」

 知代は眉をひそめた。

(受注は殆ど鹿嶋さん任せで、自分はナンパだなんてふざけてる。まったく、どこのどいつかしら。女の子口説くヒマがあるなら一件でも契約を取りなさいよね)

 はあっ、と軽くため息をついた。

 東京支社の営業の一部は、鹿嶋が数字を取るのをいいことに、自分は成果ゼロ――なんてこともある。

 知代なら危機感を抱くところだが、彼らはそうでもないらしい。頭の痛い話である。

「その事務の後輩は迷惑がっているということ?」

「そうなの!」

「ホントにしつこいんですよ。終業後を狙って、更衣室の前で待ち伏せしてる時もありますし」

 知代は呆れ顔をした。その必死さを、どうして仕事で発揮できないのだろう。

「わかった。私は皆の傍にいて、しつこく声をかける営業がいたら、厳しく牽制けんせいするね」

 鹿嶋のための宴会なんて絶対に行きたくなかったが、可愛い後輩のためなら行くしかない。

 知代は仕方なく――本当に仕方なく、宴会に参加することにしたのだった。


 うたげの会場は、会社からほど近い居酒屋。畳の広間を貸し切って、瀬口課長が乾杯の音頭を取る。宴会の主役である鹿嶋は控えめな笑顔を見せて「このような場を設けていただき、ありがとうございます」と礼を口にした。

 ここには彼の功績をねたむ者はいない。もちろん、終始彼を睨んでいる知代を除いては、である。

(やっぱり参加するんじゃなかったなあ)

 宴会が始まって、皆がわいわいと酒を飲み交わす中で、知代はため息をついた。

(せめて酒が弱いとか、辛いものが苦手とか、なんか弱点でもあれば可愛げがあるのにね)

 知代はビールを飲みながら、ジーッと鹿嶋を見つめる。知代から離れた場所に座っていた鹿嶋は、上司に勧められるまま、笑顔で酒を飲んでいた。

 その時、営業の男が近づいてきて、知代の近くにどっかりと座る。

ねんちゃん、飲んでる~?」

 どうやら彼が、事務の後輩――知念にしつこく声をかけている営業のようだ。

やまさんだったんだ)

 知代は密かに思う。同じ日に入社した同期で、こう言ってはなんだが、成績の振るわない営業のひとりである。

 知念は、困った顔をしてうつむいた。

「ねえねえ、これが終わったらさ、ふたりで二次会行こうよ。実はさ~、この近くにいい感じのイタリアンバーがあってさ……」

「はい、そこまでです」

 ふたりの間に割って入った知代は、ジロリと山野を睨んだ。

「この宴会は合コン会場じゃありませんよ。ちゃんとわきまえてください」

 山野は、途端に面白くなさそうな顔をする。

「あ~あ、しらけるなあ。なんで猪田がこの宴会に参加してんだよ。てっきりバックレると思ってたのに」

「私だって遠慮したかったですけど、あなたみたいな人がいると聞いたから、仕方なく参加したんです。言っておきますけど、しつこい男は嫌われますよ」

 知代は真面目な顔できっぱりと言った。

「更衣室の前で待ち構えるなんて、女性にしてみたら恐怖でしかありません。今後繰り返すようなら、総務のコンプライアンス委員会に報告しますからね」

 山野の睨みに臆せず、堂々と言い放つ。すると彼は苦虫を噛み潰したような顔をしたあと、あからさまに知代をバカにしたような嘲笑ちょうしょうを見せた。

「万年二位のやり手営業さんは言うことが違うな~。真面目で勤勉、結構なことだよ。でもさあ、他人の世話焼いてるヒマあるなら自分の心配でもしたらどうだ?」

 それは明らかな敵意。知代はムッと眉間に皺を寄せる。

「どうせ誰も鹿嶋に勝てないんだ。いつまでもギャンギャン噛みついてないで、そろそろ婚活を視野に入れたほうがいいんじゃないか。ちっこくても、いい年だろ。『うり坊』?」

 知代は唇を噛みしめる。明らかにセクハラ発言だし、知代が気にしている身長のことを殊更強調するなんて性格が悪い。だが、ここは宴会の席だ。知代が逆上したら、場は完全にしらけてしまうだろう。だから、ここは我慢するしかない。

 それに知代はわかっていた。

 営業部には、知代を好意的に見てくれる人と、そうじゃない人がいるのだ。後者は主に営業の男性陣で、女だてらに成績二位をキープしている知代が気に入らないのである。

 それならもっと仕事を頑張って、知代よりもいい成績を取ればいいじゃないかと思うものの、そうできないから、やっかむのだろう。

 だからこそ、知代は反論ができない。何を言っても無駄だし、正論は更なる反発を生み出すだけだからだ。

「まあ、うり坊みたいな女はどんな男も願い下げだけどな。気が強いわ可愛げもないわで、売れ残るのが目に見えてるよ」

 言いたいことを言ってスッキリしたのか、山野は上機嫌な様子で元の席に戻っていく。

 知代は、いつの間にか拳を握っていることに気がついた。わかっていても悔しいのだ。どうしてそこまで言われなければならないのだろう。黙って我慢しなければならないのだろう。

「猪田、ごめん。私たちが頼ったりしたから……」

 毛野が辛そうな顔で謝ってきた。知代は慌てて笑顔を作り、「気にしないで」と手を横に振る。

「さすがにコンプラ委員会に告げ口するって言えば、あの人も行動を改めると思いますよ。しばらく様子見してもらえませんか? 何かあったらすぐに私に言ってくださいね」

「あ、はい! 本当にありがとうございます」

 知念がぺこりと頭を下げた。

「やっぱり、猪田さんはすごく頼りになるよね」

「本当だよね。あの人ったら言いたい放題で。本当に腹が立つったらなかったよ!」

 知代の代わりに周りの女性たちが怒ってくれる。それだけで、知代はこの宴会に参加してよかったと思った。自分は嫌われても、他の皆が笑顔になってくれるならそれでいい。

 その時、知代の隣に誰かが座った。思わず横を見て、顔がヒクッと引きつる。

「げっ」

「いきなり『げっ』とは、ずいぶんなご挨拶だね」

 そこにいたのは、なんと鹿嶋だった。周りの女性社員たちが一気に華やぐ。

「わあ~っ、鹿嶋さん、こっちまで来てくれたんですね!」

「四半期トップ、おめでとうございます~」

「乾杯しましょう、乾杯!」

 先ほどまでのテンションの低さはどこに行ったのか。女性社員たちはキャッキャと鹿嶋に新しいおしぼりを渡し、グラスにビールを注ぎ、取り皿に料理を盛り始める。

 対して知代は、ずりずりと後ろに下がった。そして、鹿嶋がビールの入ったグラスを受け取ったところでサッと逃げようとする。

 だが、ガシッと首根っこを掴まれた。

「猪田、乾杯だって」

「みなさんで仲良く乾杯したらいいんじゃないですかね~。私はいなくてもいいですよね~」

「冷たいなあ。猪田は、僕を祝う度量もないのかな?」

 にっこりとほほまれて、知代は「うぐっ」と言葉を詰まらせる。

 本音を言えば祝いたくない。だが、周りにいる女性社員たちに、狭量なところを見せたくない。

 知代は苦渋の思いでグラスを取った。

「せっかくだし、猪田に乾杯の音頭を取ってもらいたいな」

「何が『せっかく』なんですか!?

 女性社員にビールを注いでもらった知代は、全力で鹿嶋に噛みつく。すると彼はニコッと爽やかな笑顔を見せた。

「まだ、猪田からお祝いの言葉、貰ってないから」

飄々ひょうひょうとした顔をして憎たらしい! 私が祝いたくないと思っているの、鹿嶋さんなら気づいて当然だよね。百パーセント故意だよね。やっぱり性格悪いじゃない!)

 いつもなら食ってかかるところだが、ここは宴会の席。そして仲のいい女性社員たちもいる。子供みたいに癇癪かんしゃくを起こす知代なんて、恰好悪くて見せられたものではない。

「いいですね~。じゃあ猪田さん、ばしっと決めてくださいよ!」

 事務のひとりがニコニコと言った。その期待に満ちた笑顔に、知代は「仕方ない……」と力なく肩を落とす。

「え~本日はお日柄もよく。鹿嶋さんの四半期一位、大変喜ばしい功績でした。わーすごい。どんどんぱふぱふー。ヨッ東京支社のエース。この調子でガンガン会社に貢献したらいいと思いますー」

「どうしてかな。猪田の言葉が棒読みに聞こえるんだ。感情ゼロっていうか、気のせい?」

「はい乾杯ー」

 鹿嶋の言葉を聞き流して、知代は無表情でグラスを掲げた。苛立ちを押し込めた先にあるのは、もはや無の境地である。

 知代はやけ酒よろしくビールを胃に流し込んだ。

「はぁ……」

 コン、と空になったグラスをテーブルに置いて、知代はため息をつく。

「なんで勝てないんだろ」

 アルコールが回ってきたのだろうか。思わずそんな弱音を吐いてしまった。

「私だってさ、頑張ってるのに。色々試行錯誤してるのに。どうしてか、いつも鹿嶋さんは一歩先を進んでいるんだよね。この差はなんなんだろう……」

 まだまだ努力が足りないのだろうか。営業センスを磨く必要があるのだろうか。それとも、顔のいい鹿嶋を見習って、ひとつ自分磨きをしてみるべきか。

 あと一歩で追いつくような気がしているのに、鹿嶋の背中は変わらず遠い。

 ――『どうせ誰も鹿嶋に勝てないんだ。婚活を視野に入れたほうがいいんじゃないか』

 ふと思い出すのは、先ほど知代をののしった山野の言葉。

「婚活か……」

 知代はぼんやり呟く。すると耳聡みみざとい事務の人たちが「婚活!?」と反応した。

「え~っ、もしかして猪田。婚活するの!?

「そうですよね。そろそろ意識しちゃいますよね。私も街コンとか行ってますし!」

 どうやら大好物の話題だったらしい。知代は慌てて手を横に振った。

「ち、違うよ! 今は仕事が楽しいし、所帯を持つ気にはなれないですよ」

「でも、結婚したくないわけじゃないんでしょ?」

 なかなか鋭いツッコミである。知代は恥ずかしくなって俯いた。

「そ、そりゃ……まあ。一生を仕事に捧げるつもりはないですよ」

「そうよね~! だけど猪田さんのお相手ってなると、相当いい男じゃないとダメだね。釣り合わないもん」

 皆が同意するように「ね~」と言い合う。

「なんでですか。私は別に、高望みするつもりはないですよ」

「でも、自分より仕事ができない男なんて嫌じゃない?」

「別にそうでもないです。他に長所があるかもしれないでしょう。互いに足りないところを補い合うのが夫婦ってものですし」

 知代はビールのおかわりを飲んでから、淡々と言う。

 結婚観は人それぞれだが、知代は、自分の短所を受け入れてくれる人がいいなと思っている。もちろん定職には就いてほしいけれど、仕事のできるできないは二の次だ。

「私は料理が苦手ですから料理が得意だと嬉しいですね。あと、私ってこんな性格だから、大らかな人が相性いいかも。優しくて、親切で、包容力があって、心の温かい人で……」

 知代は頬に両手を当てて、まだ見ぬ未来の旦那様をほやーんと想像する。

「それって、鹿嶋さんじゃない?」

 いらない一言で、未来の旦那様の顔がパッと鹿嶋になった。

「冗談でもやめてください……」

「そ、そんな死にそうな顔で言うことないじゃない」

 思わずテーブルに突っ伏した知代に、毛野が慌てて言う。

「言っとくけど、鹿嶋さんってめちゃくちゃ高スペックなんですからね! 本人を前にして言いますけど!」

 平良がバンバンとテーブルを叩いて、鹿嶋は「恐縮です」とはんなり笑顔で言った。

「人の失敗は絶対怒らない心の広さ! さつのような優しさ! 誰に対しても親切な態度! おまけにイケメン! 更にトップクラスの営業マン!」

 びしびしと指摘する平良。ニコニコ顔の鹿嶋。鶏なんこつの唐揚げを無心で食べる知代。

「こんな高スペックフルコースの鹿嶋さんだから、もちろんモテモテです! バレンタインデーのチョコ貰いすぎ事件により、コンプラ委員会から社内でのチョコ渡し禁止令が出たほど……ちょっと猪田さん聞いてます!?

「聞いてないです」

「鶏なんこつばっかり食べてないで聞いてください。だけど鹿嶋さんは、数々の告白を全て断ってきました。そのストイックさがまた素敵なんですけど……。これだけいいところを並べられて、それでも猪田さんは、鹿嶋さんと結婚したくないんですか!?

「したくないです。だいたい、女の子にモテる男なんか絶対ヤダ。気が休まらないですから」

 こくこくとビールを飲むと、隣の鹿嶋が「へえ」と相づちを打った。

「それは、自分が嫉妬深いから?」

「……別に嫉妬深いつもりはないけど、自分の旦那が女性にチヤホヤされてるなんて、いい気分じゃないですよ」

「なるほど、肝に銘じておくよ」

 鹿嶋はビールをグラスに注ぎながら頷いている。どうして鹿嶋が肝に銘じなければならないんだと、知代は眉をひそめた。

「それにしても、猪田は僕に勝てないのがそんなに悔しいのか?」

「当たり前です。私は入社した時からずーっと、一位を狙ってきたんだから」

 たまには譲れというのだ。いや、実際に譲られたら絶対に知代は怒るだろうが。

「じゃあ、仕事以外のことで勝負をしてみるのはどう?」

 何を言っているのだろう。知代が首を傾げると、鹿嶋は人差し指を立てた。

「ここで僕と勝負をして、猪田が勝てば、その苛立ちも多少は紛れるんじゃないかなって思ったんだよ」

 まさか鹿嶋からそんな提案をされるとは思わなくて、知代はキョトンとする。だが、すぐにキッと鹿嶋を睨んだ。

「そういう問題じゃない。私は単に、あなたよりも営業成績を上げたいだけで――」

「勝負に勝ったほうが、負けたほうにひとつ命令できるという条件つきなら?」

 知代は目をぱちくりさせた。

 勝ったほうが、負けたほうに命令できる。それは酷く魅力的な提案だった。知代はジロリと鹿嶋を見上げる。

「命令の種類はなんでもいいってことですか?」

「もちろん。土下座しろでもおごってくれでも、好きな命令をすればいいよ」

「じゃあ……『今後一切、仕事以外の用事で猪田に話しかけない』でもいいの?」

 その言葉に、周りがザワッと騒ぎ出した。

「猪田、そこまで言うほど、鹿嶋さんが嫌いなの?」

 理解できないのだろう。毛野が困惑した表情で尋ねる。知代は唇をとがらせ、頭を掻いた。

「別に大嫌いってわけじゃないけど、鹿嶋さんは私に対して、他の人と違ってやけに意地悪な時があるんです。だから、そういうのはやめてほしいって言いたいの」

「猪田がいちいち鹿嶋につっかかるからだろ~」

 酔っ払った営業が笑いながら茶々を入れて、知代はしかめ面をする。

「そうそう。いくら聖人君子な鹿嶋でも、顔合わせるたびにかくするようなヤツが相手じゃなあ」

「ええい! 鹿嶋さんが話しかけないなら私も一切相手にしないわ! これでいいでしょ!」

 腕を組み、むんと鹿嶋を睨みつける。だが――。

(え……?)

 鹿嶋が、またあの目をしていた。無表情で冷たい瞳。感情がごっそり抜け落ちたような顔で、ジッと知代を見つめている。

「か、鹿嶋さん?」

 知代が声をかけると、彼はすぐさまいつもの調子で、優しい笑みを見せた。

「わかった。それじゃあ僕が勝ったら、猪田を貰う」

「は?」

 知代は眉をひそめた。ついでにカクッと眼鏡がずれる。彼は何を言っているのだろう。

「どういうこと? 意味がわからないのだけど」

「……要は、猪田が勝てばいいって話だよ。そうだろ」

 いつも口調だけは穏やかな鹿嶋が、どこかぶっきらぼうで、淡々と言う。

 知代は渋々頷いた。

「まあ、そう言われたら、そうなんだけど」

「なら、何で勝負するか決めよう。ここは宴会らしく、酒で勝負しないか?」

「お酒? つまり、飲み勝負ってこと?」

 ずいぶんと古典的というか、ひねりのない勝負だ。とはいえ、この場所で勝負できるものといえば酒くらいしかない。トランプやゲーム盤など、居酒屋にあるはずがないのだから。

「ルールは、同じ酒を同じ量、同時に飲むというのはどうかな。最後まで『大人として』飲めたほうが勝ち」

「大人として……。つまり、節度を保てたほうが勝ちってこと?」

「そう。吐いたり寝込んだり、テンションがおかしくなったら、その時点で負けってこと。アルコールで無理をするのは禁物だからね」

「なるほど。そうですね、身体を壊したら元も子もないし。わかった」

 なんだか勢いのままに始まってしまった飲み勝負。節度を保てているかどうかのジャッジは、同僚が行うことになった。

「酒の種類は猪田が決めていいよ。得意な酒があるなら、そちらでどうぞ」

 鹿嶋が余裕たっぷりな笑顔を見せる。知代はムッとして唇を尖らせた。

「ずいぶん自信があるようだけど、お酒に強いのは自分だけとは思わないことですね」

「そういえば、鹿嶋さんも猪田さんもお酒で酔っ払ったところ、見たことないかも」

 平良が思い出したように言った。

 そう、忘年会や歓迎会など、鹿嶋も知代も宴会に参加しているが、ふたりは一度も酔ったところを見せていない。知代は宴会のたびに鹿嶋を観察しているが、彼はずっとシラフで言動もしっかりしている。

 寝込んでしまった上司や同僚を世話するのはいつも鹿嶋で、知代も同じように酔っ払った女性社員を介抱していた。

 そんなふたりがタイマンで酒勝負。同僚や後輩はもちろん、上司までもがふたりに注目した。

「じゃあ、お言葉に甘えて、ジンでお願い」

 周りがどよめく。ジンはスピリッツという蒸留酒のひとつで、アルコール度数が高いことで有名だ。

「ジンとは、ちっこいくせに生意気な……」

 先輩の津島がボソッと呟いて、知代は『ちっこいは余計だ』と思う。

 実際のところ、ジンが得意かと言うとそうでもない。たまにジントニックやマティーニなどのカクテルで飲む程度で、ジンそのものを飲んだことはない。

 しかし、度数の高い酒なら、決着が早いと思ったのだ。

(大丈夫。ジンベースのカクテルなら飲み慣れてるもの。酒に強い鹿嶋だって、さすがにジンを何杯も飲めるはずがないはず)

 知代がふふんと得意げに腕を組み、隣に座る鹿嶋を見上げた。

(……あれ?)

 鹿嶋は、笑みを浮かべていた。その表情に焦りはない。ジンなんて水のように飲み慣れていると言わんばかりだ。

「わかった、ジンだね。飲み方はどうする?」

「ス、ストレートで!」

 知代がたんを切るように言うと、鹿嶋は頷く。

「じゃあボトルを頼もうか。ショットグラスをふたつ貰おう」

 さっそく鹿嶋は店員を呼んで注文した。

(ものすごい余裕ぶりなんだけど、大丈夫かな。……大丈夫よ。虚勢を張ってるだけかもしれないし!)

 知代は握り拳を作って気合いを入れる。要は意識を保てたらいいのだ。気を張っていればそうそう潰れることはない。

 知代は大学時代、サークルの飲み会に何度も参加していた。体質で酔いやすい人もいるが、知代はアルコールに強い素質を持っていたらしい。その頃から、酒で潰れることはなかった。いわゆる『ザル』であると自負している。

 しばらくして、店員がジンのボトルとグラスを持ってきた。鹿嶋はそれを受け取り、ボトルのふたを開ける。

 ツンと漂う、強い酒精の匂い。

同僚の誰かがごくりと固唾かたずを吞んだ。

 鹿嶋はふたつのショットグラスに透明の酒を注いで、ひとつを知代の前に置く。

「それじゃあ一杯目、行こう」

「よしきた!」

 知代は気合い充分、ショットグラスを両手で持ち、くっと一口で飲みきった。

「おお~!」

 同僚たち――ギャラリーが、パチパチと拍手する。知代が隣に目を向けると、鹿嶋も一息でグラスを開けたようだ。

「まだまだ余裕!」

「僕もこれくらいでは酔えないなあ。じゃあ二杯目、注ぐよ」

「このままボトルを開けたらどうします?」

「そうだなあ。じゃあ次は僕の好きな酒でってことで。ウィスキーでも頼もう」

 鹿嶋はあくまで飄々としている。可愛げのないヤツだと思いながら、知代は二杯目のジンを喉に流し込んだ。

 ――三十分後。

「う~~~」

 何杯目かわからないショットグラスを空けて、コンとテーブルに置く。

 知代の身体は熱く火照ほてって、ビジネススーツが息苦しくて仕方ない。

(ストレートのジンってこんなに強かったの。カクテルと段違いだ)

 酒を飲むペースが速いというのも、酔いが回る原因になっているだろう。

(頭がグラグラする。こんなに酔うなんて、生まれて初めてかも)

 気を緩めると、途端に視界がぐにゃりとゆがむ。強烈な睡魔がひっきりなしに襲ってくる。

(これはヤバイかも……。鹿嶋さんはどうなっているのかな)

 くらくらする意識にむちを打って、知代は隣をチラと見た。

 コン、とテーブルにショットグラスを置いた鹿嶋は、まったく顔色が変わっていなかった。

(えっ……もしかして、まだ、シラフ……なの!?

 同じものを同じだけ飲んでいるはずなのに。彼はもしかして『ワク』なのだろうか。『ザル』よりも酒に強い者のことを指す言葉だ。

 もしかして、負ける?

 知代がそう思った瞬間、カクッと首が落ちてしまった。

「はいっ! 判定入りました。鹿嶋さんの勝利で~す!」

 毛野が手を上げて言った。すると、あたりがわっと騒ぎ出す。

「おお~! すげー勝負だったな!」

「鹿嶋と猪田は営業力だけでなく酒も強いんだな。しかし、やっぱり鹿嶋はすごいなあ」

「ホント羨ましいよ。俺もそれくらい酒飲めるようになりたいわ」

 皆が賑やかに鹿嶋を褒め称える。知代はよろける身体でグヌヌと下唇を噛んだ。

「お酒でも負けるなんて~悔しい~!」

「猪田さんも充分すごいよ。女の人でここまで飲める人、あんまりいないよ?」

「さすが営業部ナンバーツーだよね。どんどんジンを空けちゃう猪田さん、恰好よかったよ~!」

 事務の人たちが口々に知代を褒めてくれる。

「みんなぁ……ありがとー。嬉しい~。らいすきだよぉ~……」

 さすがにろれつが回らない。知代が舌っ足らずにお礼を言っていると、近くにいた先輩たちがボソボソとささやき合った。

「酔っぱらいのうり坊、めちゃくちゃ可愛くね?」

「シャツのボタンを外してるけど、アイツ結構……いや、かなり胸でかいんだよな。ちっこいくせに」

「いまちっこいって言った」

 知代はジロリと先輩たちを睨んだ。小声すぎて何を言っているのかわからなかったが、悪口だけには耳聡いのだ。

 その時、鹿嶋がコホンと咳払せきばらいをした。

「さて、宴もたけなわですが……部長、どうしますか? そろそろ帰り支度をしないと終電に間に合いませんよ」

「お? あ、そうだな。そろそろお開きにするか~」

 少し離れた場所で課長と飲んでいた部長がパンパンと手を叩く。

「猪田さん大丈夫? 肩貸そうか?」

 周りの女性たちが心配そうに声をかけた。

「ん~~肩?」

「あ、僕が支えますよ。酔っぱらいの介抱は慣れているので任せてください」

 知代のすぐ近くで鹿嶋の声がする。ふわりと、甘いフレグランスの香りがした。

「ありがとう。鹿嶋くんなら任せても大丈夫ね」

「店の前でタクシー呼んだらいいよ。それじゃ、お疲れ様~」

 女性たちの声が遠くなっていく。知代がとろとろと眠気を感じていると、耳元で鹿嶋の声が聞こえた。

「ほら、立てる?」

「うー。私を子供扱いしないで。立てるに決まって……いたっ」

 勢いよく立つと、ゴンッと柱にぶつかる。

「ほんとしょうがない酔っぱらいだな。まあ、あれだけ飲めば仕方ないか」

 ぐい、と肩を抱き寄せられる。その時、鹿嶋はぽそりと小さく呟いた。

「――悪いな。こんな、最低な方法しか取れなくて」

「さいてい?」

 酩酊めいていして頭が働かない。知代が尋ねると、鹿嶋は首を横に振った。

「なんでもない。さあ、行こう」

 鹿嶋に支えられながら、居酒屋を後にする。

 外に出た途端、初夏のぬるい風が頬を撫でて、知代はよたよた歩いた。

「はあ~。これが冬だったら、冷たい空気で、頭もシャキッとしそうなのに~」

 恐ろしいほどの眠気が襲いかかっているものの、まだ意識はちゃんとある。

 知代は鹿嶋の胸を押して離れると、おぼつかない足取りで駅に向かおうとした。

「そんじゃ、お疲れ様でした~」

 ここから駅まで五分もない。電車に乗ってさっさとアパートに帰り、ぐっすり寝てしまおう。知代がそんなことを考えていると、ガシッと肩を掴まれる。

「何がお疲れ様だ。賭けの話を忘れたのか?」

 低い声。迫力のある言葉遣い。まるで別人のような鹿嶋の態度に驚きつつ、知代はハテと首を傾げた。

「賭け……。え~と、そんな話を、していたような」

 なんだか酷く昔の話に思えた。彼は勝負の話をしている時、知代になんと言っていただろう。

「確か、私を貰うとかなんとか……意味不明なことを、言っていた……ような」

「そうだ。これから賭けの報酬を貰う」

「報酬と言われても、私は何をあげればいいんですか? 言っとくけど、お金はありませんっ」

 ろれつの回らない口できっぱり言うと、鹿嶋はひとつため息をついた。

「まったく。……酔っ払って身体が熱いのはわかるが、シャツのボタンを外しすぎだ、バカ」

「バカって言ったな~!?

「ああ、バカだよ。君は油断しすぎだ。今回はやむを得ず下らない賭けに走ったが、今後一切、ジンは飲むなよ」

「バカって言った……絶対許さん……覚えてろ……」

「……聞いてないな」

 はあっ、と鹿嶋が呆れたようなため息をつく。

「まあ、ここまで酔い潰したのは、他でもない俺なんだが」

 ポツリと呟き、鹿嶋は知代を抱き寄せたまま、どこかに向かって歩いていく。

 ふわふわ、ふわふわ。

 足元が軽い。まるで宙を浮いているみたい。

 ぼんやりした頭で、知代は空を見上げた。あたりはすっかり夜のとばりが降りていて、真っ暗な空にぽっかりと白い月が浮かんでいる。

 今日は、三日月。弓のように美しい弧を描いている。

 知代が空を見ながら歩いていると、やがて鹿嶋は白っぽい建物の中に入っていく。

(ここ、どこだろう。駅じゃない……よね。あれはタブレットかな……?)

 ロビーらしき場所で、知代がぼんやり見ている中、鹿嶋はシンプルなカウンターの上に設置されたタブレットを操作し始める。

 その間、きょろきょろとあたりを見回すも、自分たち以外に人はいない。

(誰もいないなんて変なの)

 知代がそんなことを考えていると、タブレットの操作を終えた鹿嶋は知代の肩を抱きかかえ、再び歩き出した。次はエレベーターだ。

「ねえ、ここ、どこなの?」

「ホテルだ」

「ホテル……なるほど」

 知代はようやく納得して、ぽんと拳を手の平に打つ。先ほどのタブレットがあった場所、なんとなく見覚えがあると思っていたが、ビジネスホテルのロビーにそっくりだったのだ。

 しかし、知代は疑問を覚える。

「なんでホテル?」

「…………」

 鹿嶋は答えない。エレベーターが目的の階に到着して、彼は無言で廊下を歩く。

 そして、部屋番号を確認したあと、カチャリと部屋の扉を開けた。

「わあ」

 知代は目を丸くして、あたりを見回した。

 内装は綺麗で、ビジネスホテルのシングルルームよりも広い。そして奥のほうに、キングサイズのベッドがある。

「ひゃっほーい。ベッドだ~!」

 知代はふらふらの足取りでベッドに近寄ると、靴のままドサッと寝っ転がった。その勢いのまま、片手で眼鏡を外して脇に置く。

「気持ちいい~、ふかふか~」

 横になってふとんに頬ずりすると、眠気が一層強くなる。しかし知代は残り少ない気力を振り絞って目を開けた。

「うう、今すぐ寝たいけど、お化粧を落とさなきゃ。このまま寝るのはヤバイ……」

 しかし、とても面倒臭い。酔っ払った身体は重くて、どうしても起き上がれない。

「まあいいかあ。明日は土曜日だし……。寝る子は育つって……言うし」

 スヤァ……。

 うっとりと夢の世界にダイブする。その瞬間――後ろのほうで、シュルッと衣擦れの音がした。

「ん?」

 億劫そうに振り向くと、ベッドの近くに立っていた鹿嶋が、ネクタイを外している。その顔は怖いほど無表情で、酷く乱雑な仕草でスーツの上着を脱ぎ放った。

 こちらに近づきながら、首元のワイシャツボタンをひとつふたつと外していく。更に手首のボタンも外して、ぐるっと腕まくりをした。

「鹿嶋さん、なんか顔、怖いですよ?」

「怖い? ああ、そうだな。怒ってるからだろう」

 鹿嶋はベッドに膝を乗せ、知代に近寄った。思わず知代は後退あとずさる。

「あんなに男がいる中で泥酔するほど酒を飲み、こんなホテルまでのこのこついてきた警戒心のなさ。その無防備さに、腹が立って仕方がない」

 そう言いながら、鹿嶋は知代の手首を握る。逃がさないと言わんばかりに。

「でも、一番許せないのは、俺自身だ。こんなやり方しかできなかった俺の卑怯さが、たまらなく許せない」

 眉間に皺を寄せた鹿嶋は、いつになく辛そうな顔をしていた。まるで後悔するかのように、知代から視線をそらして俯く。

「かし……ま、さん……?」

 知代は、鹿嶋が何を言っているのか理解できない。

 だが、今までにないほど鹿嶋が急接近してきたので、知代は目を丸くする。

「それでも決めたんだ。もう、足踏みをするのは終わりにしようと」

 ふわりと、甘いフレグランスの匂いがした。その瞬間、知代の唇に柔らかいものが触れてくる。

(――え)

 目を丸くし、ようやく事態を理解する。自分は今、鹿嶋と……キスを。

「んむぅうう!?

 手をばたつかせると、両手を掴んでベッドに押しつけられる。足を振り上げると、鹿嶋の足でからめ捕られる。

 何よりも混乱が勝って、何も考えられない。ただ、抵抗だけはしなくてはと、知代は身体をよじり、首を横に振る。

「知代」

 小声ではあったが、鋭いやりのような力強い声色に、知代はびくりと震える。

「これは、賭けの報酬だよ」

「賭け……の?」

「そうだ。酒で勝負をして、知代は賭けに負けて俺は勝った。言っただろう――君を貰う、と」

 知代はハッとして思い出す。

 そうだ。確かに言っていた。『僕が勝ったら、猪田を貰う』と。

「あ、あ、あれは、こっ、こういう意味だったんですか!?

「そうだ」

「そ、そんなの聞いてない! あの時ちゃんと説明してもらってたら、勝負を断ったのに!」

「察しの悪い君が悪い」

 鹿嶋は感情の乗らない声で言い、唇が触れるか触れないかの距離で、鋭く知代を睨んだ。しかし知代も負けじと睨み返す。

「卑劣です」

「何とでも言えよ」

「ソリは合わなかったけれど、こんなだまし討ちをするような人とは思わなかったです!」

「……そうだな。最低な手段なのは認める」

 鹿嶋は知代の両手を掴む手に力を込めた。それは痛いほどで、知代はぐっと唇を引き結ぶ。

(いくらなんでも、こんな手に出るなんて想像もしていなかった。そんなに私のことが嫌いだったの? わずらわしかったの? なら、ハッキリとそう言ってくれたらよかったのに)

 確かに、入社当初から何かにつけて、知代は鹿嶋につっかかっていた。

 営業成績でいちいち張り合って。何度も悔しいと唇を尖らせて。

 ……でも、鹿嶋はずっと笑っていたのだ。頭をワシワシと撫でて『来月に期待しているよ』と、応援なのか挑発なのかわからないことをよく言っていた。そして知代はいつも『子供扱いしないでください!』と怒っていた。

 だから、鹿嶋は知代を見下しはすれ、嫌悪しているとは思っていなかったのだ。

(でも……これは因果応報なのかもしれない)

 颯爽さっそうと前に進む鹿嶋が憎たらしかった。いつまでも追いつけない自分に腹が立った。

 だからつい鹿嶋に噛みついてしまって、知代の鹿嶋嫌いは営業部でも有名になった。

(自分が嫌えば相手も嫌うのは道理。私は知らないうちに、鹿嶋さんの態度に甘えていたのかもしれない)

 こんなにも知代を嫌悪していたのに、それを今まで隠し通していたのだから、鹿嶋は間違いなく大人だったのだろう。子供っぽく意地を張らずに、知代も彼にならって大人の態度で接していればよかった。嫌いなら、最初から無関心でいればよかったのだ。

 それなのに……知代は、どうしても我慢できなかった。

 営業には、知代をうとんじる一派がいる。今日の飲み会のように、嫌みを言われることも少なくない。でも、それには耐えられた。相手にしないのが一番だからと流すことができた。でも鹿嶋には、できなかった。

(それは、どうして……?)

 考えてもわからない。ただひとつ理解できるのは、鹿嶋は知代をけがしたいほど嫌っていたということだ。

 じわりと涙がにじむ。この涙が、鹿嶋に騙されたことに対してか、嫌われていたことに対してなのか、それすらもわからない。

 その時、鹿嶋は酷く切ない表情をした。

 今にも泣き出しそうなほど悲しげで、悔しそうに唇を噛んでいる。

 たまらなくなったように「はぁ」と息を吐いて、知代の頬をそっと撫でた。

「君は、先ほどの勝負の賭けで『自分が勝ったら今後一切、仕事以外で話しかけるな』と言っただろう」

 確かに、言った。仕事のみのつきあいに徹したら、今以上に鹿嶋を嫌わないで済むと思ったから。

「あれを聞いた時に感じた俺の絶望を、君は理解できるか」

 その強い声色は、殺意にも似ていた。知代は小さく唾を飲む。

「あの言葉は――俺にとって死刑宣告と同じだった。だから俺は、知代を貰うと言ったんだ。もう限界だと思ったから」

 唇が、重なる。先ほどのような奪うものではなく、それは不思議と優しさに溢れていた。

 知代を嫌っているはずなのに、どうしてそう思ってしまうのだろう。

 ちゅ、と唇でついばむ音がする。

 柔らかくて、温かい。嫌っている相手からのキスなんて不快でしかないはずなのに、なぜか心がドキドキする。

 でも、無性に悲しかった。

 自分勝手な話だけれど、知代は――鹿嶋に『嫌われたくない』と、心のどこかで思っていたらしい。

 だから、問わずにはいられなかった。

「私のこと……そんなに、嫌いだったの?」

 かすれた声は、涙声にも似ていた。

 すると、鹿嶋は顔を近づけたまま、呆気あっけに取られたようにポカンと口を開けた。そして、なぜかみるみると不機嫌な表情になり、ギロリと知代を睨みつける。

「バカか君は」

「バ、バカッ!?

 思ってもみなかった暴言に、知代は目を丸くする。

 鹿嶋は疲れたように片手で顔を覆うと、重々しいため息をついた。

「鈍いとは思っていたが、ここまでとは……」

「ちょっと口が悪すぎじゃない? 私は鈍くないですよ」

「そんな頓珍漢とんちんかんな疑問を口にした時点で充分鈍感だよ。まったく」

 ス、と鹿嶋の顔が首に近づき、知代はびくりと身体を震わせる。

「嫌っていたら、こんなことをするわけがない。それくらい、わかれ」

 ぬめる舌先が、ツツと首筋を伝う。

「ひっ、ぁ……っ」

 思わず首をすくめた。それでも彼の動きは止まらない。

「きっ、嫌いだからこそ、こんなことして、私をおとしめようと……っ」

「君の中で俺はどれだけ悪趣味なんだ。もういい、少し黙れ」

「だまっ……!?

 傲慢な命令口調に知代はカチンとくる。だが、唇に人差し指を当てられた。

「君は、ただ感じていればいい。俺の気持ちを、言葉にできないほどの感情を」

 射殺されてしまうのではないかと思うほど、知代を見つめる鹿嶋の瞳は鋭い。

 どきんと、胸の鼓動が大きく音を立てた。

「――思い知ればいいんだ」

 唇が、落ちてくる。

「んっ……」

 知代の唇を柔らかくみ、舌先でちろちろと唇を舐める。

 もう両手は押さえつけられていない。足も自由だ。身をよじればすぐにでもベッドから抜け出せそうな感じがする。

 けれども、知代はもう抗わなかった。

 絶望したわけじゃない。悲しいからじゃない。

 自分でも理由はわからないけれど、そう。

(私、安堵してる。『よかった』って思ってる――)

 鹿嶋は知代を嫌っていなかった。それがたまらなく嬉しかった。喜びの気持ちは、知代に抵抗させる力をなくさせた。

 なぜ? やっぱり、理由は不明のままだ。ただ、鹿嶋とのキスは嫌ではない。まるで自分の本能がこれを待ち望んでいたみたいに、鹿嶋のキスは心地よかった。

「ふっ……ぁ……っ」

 何度もキスを重ねて、知代は酸欠にあえぐ。

 ちゅ、ちゅ、と軽いリップ音。やがて唇の隙間から温かい舌が入り込んで、奥に縮こまった知代の舌を搦め捕る。

 小さな水音は、段々とぬめりを帯びて、いやらしくも大胆な音に変わっていく。

 くちゅ、ちゅく。

 鹿嶋が知代の口腔で舌を動かすたび、生々しい音が鳴る。

 恥ずかしくて、ドキドキしている。まさか鹿嶋とこんなことをしてしまうなんてと、頭の中がぐるぐる混乱している。

「ぁ、かしま……さん」

 どうしたらいいかわからない。知代はあてもなく手を動かした。すると鹿嶋は知代の手をぎゅっと握り、唇からあごへと、舌を辿らせる。

「あ……っ」

 ぴくんと身体が震えた。鹿嶋の熱い舌は蛇のように知代の肌を滑っていく。

 顎から頬、そして耳朶じだ。くすぐるような舌先の動きに、知代は身体をくねらせる。

 びくびくと震えて、お腹の奥で快感の火が小さくともる。

 耳の軟骨を確かめるように舐め、耳朶を柔らかく食む。更にはぐじゅぐじゅと音を立てて、耳の中を舐め回した。

 ごうごうと、耳をまさぐる音がする。

「あ、うぅ……ンっ」

 知代はぎゅっと身体を縮こませた。身体を硬く強張らせていないと、妙な声が出てしまいそうになるのだ。

 耳なんて舐められるのは生まれて初めてで、こんなにもくすぐったいとは思わなかった。しかし脇腹や足裏をくすぐられるのとは違って、そわそわした不思議な感覚もある。それは例えようもなく甘やかで、しかしこの気持ちよさの正体に気づいてはいけない気もして、知代は唇を噛んで耐えた。

 鹿嶋は耳朶にキスを落としてから顔を上げ、知代を静かに見つめる。

「そんなに顔を真っ赤にして。まったく、我慢強さは折り紙つきだな」

 呆れたように言ってから、鹿嶋は首筋に舌をわせた。

「ぁ、あ、……あぁっ」

 身体が戦慄わななく。鹿嶋が首筋を舌で辿るたび、ゾクゾクした感覚に襲われる。

 自制しようとしても利かない。壊れてしまったのかと思うほど、身体の震えが止まらない。

 ちゅっ。ちゅ。

 首筋に強く吸いつかれ、ジリッとした痛みを感じる。しかし、それすらも甘やかで。

 彼が顔を動かすたび、柔らかい髪が頬を撫でてくすぐったく、恥ずかしい。

「知代……」

 鹿嶋が小さな声で知代の名を呼んだ。いつの間にか瞑っていた目を開くと、真剣な表情をする鹿嶋と目が合う。

「これは、遊びでも嫌がらせでもない。俺はね、知代。ずっと君に触れたかったんだ」

「私……に?」

 どうして。彼が何を言いたいのか、まったくわからない。

 彼が『触れたい』と言ったその言葉の理由さえ、想像がつかない。

 鹿嶋は眉間にぐっと皺を寄せ、強く唇を引き結んだ。

「知代、俺はどうすればよかったんだろう。こんな最低な手に走る前に、どう振る舞っていればよかったんだろう。考えても考えても、もう、わからないんだ」

 鹿嶋の目は、悲しみに包まれていた。

 知代は何も言い返すことができない。

 ただ、切なくも強い感情が、止めどなく知代の心に流れ込んできた。

「これ以上知代に嫌われたくない。だけど、君が俺を置いて離れていくなら――無理矢理にでも俺のものにする」

 奪うように唇を重ねる。

 熱い舌が知代の口腔を荒々しく犯し、半ば引きちぎるように襟シャツを脱がした。

「は、ぁっ」

 あらわになった肌に羞恥を感じて、知代の顔は熱くなる。

 低い身長にそぐわない豊かな胸が、ふるんと揺れた。

(や、やだ! 私ったら、ブラがめちゃくちゃ可愛くない……!)

 そんなことを考えている場合ではないのだが、思わず両手で胸を隠してしまう。

「ま、待って待って。違うの、嫌なんじゃなくてその、む、胸がですね」

「知代……もう止められない。触れさせてほしい」

「あっ、違うの! ブ、ブラジャーが、可愛くないんです!」

 本当に、そんなことを言っている場合ではないのだが、これが知代の趣味と思われても困る。胸が大きいと、どうしても下着は実用重視になってしまうのだ。

 知代の胸はFカップ。白いシャツから下着が透けて見えないように、地味なベージュ色で飾り気ゼロのノンワイヤータイプだ。

 休日はもう少し可愛いブラを選んでいるのだが、平日は毎日この調子である。

 だってまさか、男性に見られる日が来るなんて思いもしなかったのだ。

 すると、小さく笑う声がした。

「知代も、そういうことを気にするのか」

「ど、どういう意味ですか」

「いや。可愛いと思ったんだ。やっぱり俺は、知代が欲しいよ」

 胸元をまさぐり、ぷつりとフロントホックを外す。そのままするりとブラは取られて、知代はホッと安堵した。

(よかった……あんまり見られなかった……)

 しかしそれもつかの間、自分の上半身が真っ裸という事実に気づき、再び顔を赤らめる。

 まろみのある乳房も、赤い乳首も、全て鹿嶋の視界に収まっているのだ。

「ひっ……ぁ……っ」

 急激に羞恥心が募り、知代は目を瞑る。すると少し冷たい鹿嶋の両手が乳房に触れて、思わず「ひゃっ」と悲鳴を上げてしまった。

「や、ぁ、かしまさ……っ」

 薄目を開くと、鹿嶋は真剣な顔をして知代の乳房を掴んでいる。

(鹿嶋さんが、あの鹿嶋さんが。私と犬猿の仲って言われているはずの鹿嶋さんが、わ、私の胸を、触ってる……っ!)

 この感情を、なんと表現すればいいのだろう。知代の語彙力では思いつかない。

 たまらなく恥ずかしいのは確かだが、腹の奥で湧き上がるこの感覚はなんだ。

 胸がドキドキして、やけに身体が熱くて、嬉しいようなそうでもないような。

 だってこんな関係になるなんて想像もしていなかった。自分と鹿嶋はこれからもずっと営業成績で張り合うライバル同士だと思っていたから。

 プライペートでは会ったこともない、彼の私服姿さえ知らない。

 ほぼ他人も同然だった、仕事上のつきあいでしかないはずの、鹿嶋。

 そんな彼に裸を見られて、しかも胸を揉まれているなんて、昨日の知代だったら夢にも思わない出来事だろう。

「あ、ぁっ、こんなの、あぁっ!」

 ふにゅ、と胸を掴み、揉みしだく。それだけで知代はビクビクと身体を震わせた。

「……声が可愛すぎる。感じているのか、知代」

 静かに問いかける、鹿嶋の声。

(感じている……。私は、感じているの?)

 なにせ、男性に胸を触られるなんて生まれて初めてなのだ。これが快感なのかすら、知代にはよくわからない。

 だが、感じていると認めるのは非常に悔しいと思った。なんとなくだが、鹿嶋に負けた気がする。

「かっ、感じて、ない、もん!」

 びくびくと震えながら、知代は負けん気を起こして唇を引き結んだ。

 すると、くすりと笑う声が聞こえた。顔を上げると、鹿嶋が優しく微笑んでいる。

(あ……やっと、笑っ……た)

 どうして? こんなにも嬉しい。知代は自分の気持ちに戸惑う。

「そうか。なら、もっと本気を出さないとな」

「ほ、本気、とは?」

「そうやって強がるところ、ものすごく可愛いから。めちゃくちゃに――感じさせたくなる」

 きゅっと両方の乳首を摘ままれた。

「ひぁあああっ!」

 それは落雷にも似た衝撃。けれども例えようもなく甘やかで、身体中がしびれる。

「ほら、感じて。気持ちいいだろ」

 きゅ、きゅ、とこよりを作るように乳首を擦る。ジンジンとした甘い痺れは強くなる一方で、知代はイヤイヤと首を横に振った。

「やっ、あ、だめぇ、それ、だめぇ!」

「あー、声が発情してる。知代の声やばい。可愛いすぎて、イキそうになる」

「なっ、なに言ってるの。じゃなくて、はっ、だめなの。いや、乳首、んんっ」

 こんなところが、こんなにも気持ちいいなんて。

 知らない。こんな感覚は、知らない。

 じくじくとお腹の奥がうずく。くすぶっていた官能の炎にまきをくべるように、快感は更なる快感を呼ぶ。

「指でここまで敏感なんて。舐めたらどうなるんだろうな?」

「へ……」

 知代は泣きそうな顔をして、鹿嶋を見上げた。自分に覆い被さる彼は、まるで悪人のような笑みを浮かべている。

 会社での鹿嶋の姿が、イメージが、ガラガラと音を立てて崩れた気がした。

(こんな顔も、できるんだ)

 自分は鹿嶋を勘違いしていたのかもしれない。

 誰にでも優しくて、紳士で、聖人君子を地で行く秀才。一度として怒ったことはなく、穏やかな性格で、面倒見がいい。

 会社での鹿嶋は、表面にすぎない。今の、感情をき出しにした鹿嶋が、彼の本性。

 ずっと隠していた。知代に見せまいとしていた、鹿嶋の本能。

 『本物』の聖人君子なんて、いるわけがない。知代だって、普段の鹿嶋がどこか『よそ行き』であることを察知していた。

 でも、本性を露わにした鹿嶋は獰猛どうもうなケモノのようで、とても男らしい力強さを感じる。 ――ドキドキした。

 猛禽類もうきんるいのような鋭い瞳に射貫いぬかれて、知代はこくりと固唾を呑む。

 彼の口が大きく開いて、赤い舌がとろりと落ちる。

 生々しくもいやらしさがある、唾液がまとわりついた舌が、知代をあおるように動く。

 思い出すのは、耳や首筋を舐められた感触。くすぐったくも甘やかで、身体中が疼く、あの舌の愛撫。

「あ、ぁ、あ……」

 あの舌が乳首に触れるのだろうか? そう思うだけで、下肢がじわりと濡れる。

「え? あ、なに……っ」

 どうしてそんなところが濡れたのだろう。知代が疑問を感じたところで、鹿嶋の舌先が乳首を伝った。

「あぁぁああっ!」

 びくんと身体が戦慄く。思っていた通りの――いや、それ以上の快感が身体中を駆け抜けて、知代は強い痺れを感じた。

 気持ちがよくて、おかしくなってしまいそう。

 小さな乳首を舐める舌。乳輪をくるりと辿って、先端をチロチロと舐められる。同時に、彼の両手が知代の乳房を掴み、大きく揉みしだく。

「ひっ、ぁ……だ、めえ」

 知代はイヤイヤと首を横に振った。もう、どうしたらいいかわからない。

「ほら、気持ちがいいんだろ。素直に言えばいい」

 執拗しつように乳首を舐めながら、鹿嶋がニヤリと意地悪に笑う。

 ムッとして、知代は固く目を瞑った。

(気持ちいいなんて、絶対言いたくない!)

 こんなところで意地を張る必要はないのだが、やっぱり悔しい。鹿嶋が思う通りに自分が感じているなんて、気づかれたくない。

「本当、強情。そういうところがたまらないよ」

 ふふ、と小さく笑って。

 鹿嶋は執拗な愛撫ですっかり硬くなった乳首に吸いついた。

「あぁあっ!」

 どうして、どうして。こんなに我慢してるのに、これ以上はないと思っているのに。

 鹿嶋は次から次へと、抗えない快感を与えてくる。

 ちゅくっ、ちゅっ。

 いやらしいリップ音を鳴らして、乳首を吸い、舐める。

 そのたびに身体が痺れて、抵抗できなくなる。気持ちがよくて、もっとしてほしいなんてはしたない望みが生まれて、逃げられなくなる。

 知代は快感を逃したいあまり、鹿嶋に抱きついた。