「ご要望にはお応えしかねます」

目の前で静かに座っている男は、丁寧な口調ではあるが取り付く島もないといった風情である。この日、ソフィアは商会で販売する本の印刷を依頼するため、ロバートが自費出版する際に利用している印刷工房を訪れていた。平均よりも上乗せした価格を提示したにもかかわらず、工房主であるラエルは数字が書かれた書類を見ることもなくソフィアからの依頼を断った。

「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」

「この工房はワトプ商会の専属です。他の商会からのお仕事はお請けしておりません」

「ですが、ロバート・ディ・グランチェスター卿……いえ、ルイス・チェシャの書籍はこちらで印刷され、製本されたと伺っておりますわ」

「正確には私どもの工房で印刷し、隣にある別の工房で製本しております。協業関係にはありますが、職人としても工房としても独立した存在です」

「まぁ、あちらはお兄様が経営なさっているのにですか?」

「もともと別の工房であり、たまたま兄があちらに婿入りしたというだけのことです」

「でも、あちらはワトプ商会の専属ではございませんよね?」

「同じようなものです。彼らの仕事の大半はうちで印刷されたものの製本ですから」

「以前までワトプ商会の印刷物は、質が高いことで知られていました。特に製本された書籍は美術品としての価値も高く、貴族家の財産目録にも記載されるレベルですわ。貴族家であれば、手記など手書き原稿の製本を依頼したいと考えるかもしれません。しかしながら、ここ数年で少しずつ質が低下しているように思うのです」

「そ、それは!」

「ワトプ商会の指示であることは存じております。製造原価を下げたのですよね。この海賊王女シリーズの初版本を見れば、あなた方の技術力が低下したわけではないことはわかります」

ソフィアは背後に控えていた商会の従者から、ロバートが執筆した書籍を取り出した。ちなみに、主人公の王女は隣国に嫁ぐ途中で海賊に襲われながらも、海賊の頭目と恋に落ちて女海賊として活躍するちょっぴり大人向けの冒険活劇だ。ちなみにナイスバディな主人公のキメ台詞は「私は海賊女王になってみせますわ!」なのだが、隣に立つ夫が剣を肩に担ぎながら「そこは海賊王妃でいいだろ」とツッコミを入れるところまでがセットである。

「この本はチェシャ氏が直接依頼されたはず。ワトプ商会を介していらっしゃいませんわ」

「それは、個人の依頼だからです。他の商会を通じての依頼だったとしたら、やはりお引き受けすることは叶わなかったでしょう。ワトプ商会との契約には個人からの依頼についての項目がありません。貴族家からの個別依頼をお断りすることは難しいですから」

ラエルは深いため息をつきながらロバートの本をぱらりとめくり、美麗なイラストが印刷されたページを開いた。

「このように絵を印刷する技術は、当工房独自の技術なのです」

「図入りの本は他の工房でも印刷できるはずですが」

「それぞれの工房が独自の技術を用いております。しかしながら、私どもの技術は群を抜いて美しいと胸を張って申し上げることができます」

「確かに王女の髪の毛先まで生き生きと表現されていますわね。ここまで繊細に絵を印刷できるのは魔法だからでしょうか?」

「否定はいたしません」

「やはりそうなのですね。他の印刷工房も色々見て回りましたが、こちらの美しさは群を抜いていますわ。どのような魔法なのか詳細は存じませんが、ワトプ商会との不当な契約が残念でなりません。この技術を継承する魔力が足りなかったとは……」

「なっ、契約内容は秘匿されているはずです!」

他家の事情を勝手に探るのは礼儀に反することはわかっていたが、これほどの技術を持ちながらワトプ商会との契約に縛られる理由をどうしても知りたかったのだ。

「それについては深くお詫び申し上げます。ですが、それほどこちらの工房で印刷していただきたいのです」

ラエルはガックリと項垂れた姿勢で首肯した。

「質の悪い印刷物を製造することは私たちも不本意なのです。以前からワトプ商会は『印刷の費用が高すぎる』と文句を言っていましたが、それでも父の代までは『嫌なら他で印刷してくれ』と依頼を断ることもできました。しかし、専属契約を締結してからは、断ることもできません。何しろ他の商会からの仕事を請けられないのですから、職人たちに賃金を支払うこともできなくなってしまいます。本当ならこんな専属契約は破棄してしまいたい。ですが、私も兄も従兄弟たちも魔力が足りず技術を継承できませんでした。魔力持ちの職人は希少な存在です。私たちも力を貸してくれる職人を必死に探しましたが、結局ワトプ商会が紹介してくれた職人しか見つからなかったのです」

「契約内容は、『図画の印刷有無を問わず、ワトプ商会以外の商会から印刷の仕事を請け負うことを契約で禁止』『違反した場合、職人は二度と図画印刷魔法を使わず、魔法を他者に継承しない』で合っていますか?」

「その通りです。魔法的な制約が掛かっているため、他の商会と契約を締結した時点で職人は魔法を行使できなくなり、魔法の継承もできません」

「図画印刷魔法を使える方は、その職人だけなのでしょうか?」

「いえ、まだ父は存命ですし、叔父も使えます。ですが、両名とも高齢のため工房で仕事をするのが難しいのです。兄も私も父が四十を超えてから生まれた子でしたから」

「それなら私どもが魔力を使える別の職人を確保してみせましょう。無理に専属契約をお願いするつもりもありません。もっとも、当商会から大量に印刷物を依頼することになるとは思いますが」

「は?」

ラエルは口をぽかーんと開けたまま固まった。

「何故そこまでしていただけるのでしょう?」

「これほどの技術が次代に継承されない可能性を排除したいのです。次代の工房主として魔力量の多い子供をつくるため、ワトプ商会から紹介された奥様をめとられましたよね?」

「はい。兄は政略結婚を嫌って自ら工房主を私に譲り、幼馴染と結婚しました。幸い、私には付き合っている相手もおりませんでしたので」

「その方とワトプ商会から派遣された職人は愛人関係にあります。より正確に言えば、元々恋人同士だったそうです。まだお子様はいらっしゃいませんが、次代の工房主が正しくラエルさんの血を引いた方になるかについては疑問の余地が残るかと……」

「それは乗っ取りではありませんか!」

ソフィアは敢えて口にしなかったが、セドリックとシノビ一族たちの調査によれば、ラエルの妻は職人の子供を身籠った後に夫を亡き者にしようと企んでいた。次代の工房主を裏で操り、図画印刷魔法をワトプ商会の息のかかった人物に継承させることを目論んでいるのだという。

「魔力持ちの職人を手配するだけでは根本的な解決にはなりません。技術が失われないためには、図画印刷魔法が使える職人を多く育てるべきだと私は思います」

ラエルは黙って頷き、ソフィアの言葉に耳を傾けた。

「私どもでお手伝いできることは、他にもあります。一つは次代のお子様の魔力量を増加させる方法を提供すること、そしてもう一つは図画印刷を可能にする魔道具を開発することです」

「魔力量の増加に魔道具の開発?」

想像を超えた提案にラエルは再び固まった。完全に処理落ちである。

「子供のうちは魔力を枯渇させれば自然と魔力量が増加します。既にお兄様には双子のお子様がいらっしゃいます。どちらも魔力持ちのようですし、早い段階から魔力を使えるよう訓練すればよろしいかと。魔力を枯渇させる魔道具は当商会が無償で提供させていただきますわ」

「私だけでは判断できません。兄夫婦を呼んでまいりますので、少々お待ちください」

ラエルは自ら走って隣家である製本工房から兄夫婦を呼んできた。息を切らせて戻ったラエルは、そっくりな兄とその妻をソフィアに紹介した。

「ソフィア様、こちらが兄のリードです」

「リードと申します。こちらは妻のニーナです」

「はじめまして。ソフィアと申します。商会を設立したばかりの新参者でございます」

ソフィアが優雅にカーテシーで挨拶をすると、職人たちは一斉に焦った。駆け出しの商人であっても、貴族家の関係者であることは明らかである。しかし、意を決したようにリードが緊張した面持ちでソフィアに話し掛けた。

「ソフィア様、魔力持ちの商人を専属契約なしで派遣していただけるというのは本当でしょうか?」

「はい。その通りです」

「それとその……子供たちに……」

「ええ。子供の魔力量を増やす魔道具を提供いたします。魔力を繰り返し枯渇させることで、保有できる魔力量を増やすことができます。身体が成熟してしまうと魔力量を増やすことは難しいため、残念ながら未成年にしか使えない手段なのです」

「私の子供たちはまだ三歳なのですが大丈夫でしょうか?」

「使用するときは大人たちが傍にいてあげてください。慣れないうちは目を醒ますのに数日かかることもありますが、健康に大きな影響はありません。魔力が動くことに身体が慣れれば一晩で回復できるようになります。貴族家では、子供が魔法を発現すると魔力が枯渇するまで使わせるのが良いとされています。ですが、どこまで魔力量が増えるかは人それぞれです」

「つまり、図画印刷魔法が使えるほど増えない可能性もあるということでしょうか?」

「その通りです。確約はできません」

再び深刻そうな表情を浮かべた兄弟の横で、それまで黙って話を聞いていたニーナが「あのぉ」と小さな声をあげた。

「どうされました?」

「図画印刷魔法を魔道具化するというお話もあると伺っているのですが」

「はい。図画印刷魔法を魔法陣に落とし込めれば魔石を動力にする魔道具は開発可能かと存じます。しかしながら、魔法を詳細に開示いただかなければならないので、私どもに開発を任せるかどうかは慎重にご検討ください。無理強いはいたしません」

深刻そうに顔を見合わせる兄弟の横で、ニーナは首をちょこんと傾げて隣に座っている夫のシャツをつんつんと引っ張った。

「ねぇ、リード。図画印刷魔法さえ使えれば、誰でも簡単に図画印刷できるわけじゃないよね?」

「もちろん印刷の知識や経験は不可欠だ。実際、ラルフが横で指示を出さなければ、あの職人はまともに魔法を使えないんだぞ」

「それなら魔法を開示しなさいよ。あなたたちの技術は図画印刷魔法だけじゃないのだもの」

「だが……」

「私の工房は私の技術だけがすべてよ。魔法なんて関係ないけど、父さんやおじいちゃんから受け継いだ技術で支持してもらっているわ」

ソフィアはニーナの発言に頷いた。

「そうですね。装丁家であるニーナさんの技術は当商会でも高く評価しています。まさに芸術品だと思っておりますわ。こちらの印刷工房での契約が成立しなかった場合でも、ニーナさんにお仕事を依頼したいと思っておりましたの」

「それはとても嬉しいです。父への依頼は多いのですが、私にはあまり依頼がありませんから」

ニーナは少し沈んだ表情を浮かべた。

「お父様のお仕事の半分以上はニーナさんが手掛けていることは存じていますよ」

「え、バレてたんですか!?

顔を赤らめているニーナに対し、ソフィアは微笑みながら静かに頷いた。実はソフィアは装丁家であるニーナのファンである。グランチェスター城内には、彼女が手掛けた本が数冊あり、どれも素晴らしい出来栄えであった。

「それぞれの本の内容に沿った素晴らしい装丁ですわ。私はニーナさんが求める紙、革、布、宝石などあらゆる素材を目の前に揃えてみせるつもりですの。私の商会は女性の鍛冶師とも取引があるのですが、装丁に必要な金具を相談することもできましてよ」

「なんて素敵! では、魔獣の素材や小さな魔石も手に入りますか?」

「お望みであればドラゴンの皮や爪でも剥いでご覧にいれましょう。ニーナさんがこだわりの強い職人であることも存じておりますわ」

「それでは、特別な人にしか閲覧できないような魔法陣を依頼することも可能でしょうか?」

「私どもの錬金術師にご相談ください。おそらく可能でしょう。ですが、私はそうした特別な本だけでなく、廉価で手に入れられる簡素な本も作りたいのです」

「それは問題ありません。若い職人たちにも仕事は必要ですから」

鼻息を荒くしている妻を窘めるように、リードがすかさず発言した。しかし、ラエルは困ったような表情を浮かべる。

「待てよリード。魔法の継承問題は解決しても、契約の違約金はどうするんだ?」

「それはお前たちの工房の問題だろ。オレはもう他所よそに婿入りしてるんだぞ」

「おい、そりゃないだろ」

ラエルは呆然とした表情で天井を振り仰ぐ。

「違約金の額を伺ってもよろしいでしょうか?」

「二千ダラスです」

「この規模の工房にその金額とは。契約時に異を唱えなかったのでしょうか」

「金額を決めたのは父なのです。この契約の破棄を申し出た側が違約金を支払うことになっています。明らかに立場の弱い私どもは、ワトプ商会が勝手に契約を破棄することのないよう高額な違約金を定めたのです」

ラエルはそっと立ち上がり、金庫から契約書を取り出してソフィアに提示した。ソフィアは契約書をすべて読み込み、念のため魔法で秘匿されている情報がないことも確認した。

「実に愚かですね」

「あ、いや……すみません。私どもは無学な職人なものですから」

「いいえ。そうではありません。この契約であなた方を縛れると考えたワトプ商会が愚かなのです」

「それはどういう意味でしょう?」

「だって『契約違反』ではなく『契約破棄』に対する違約金なのでしょう?」

「それは、契約に違反すれば図画印刷魔法が行使できなくなってしまうという罰則があるから……あ、そうか。もはや罰則にすらなっていないのですね」

ソフィアはにっこりと笑って頷いた。

「自分たちしか魔力持ちの職人を派遣できないと思っている時点で愚かなのです。しかも『違反すれば魔法が行使できなくなる』など自分たちの首を絞めているとしか思えません」

「ですが、確かに職人は希少ですし、その、お願いするとしても報酬がとても高いですから」

「職人の報酬はワトプ商会がお支払いになっているのですか?」

「いえ、こちら持ちです。最上位の職人の二倍の報酬を支払っています」

「ワトプ商会は随分と驕っているのですね。それを言えば魔力持ちの職人も同じですわね。ほとんどは魔道具の作成に関わっている職人ですから。確かに高給取りではあるのですけれど」

ソフィアは苦い表情を浮かべる。何しろ魔道具を大量生産するため、魔力持ちの職人たちと面倒な交渉を沢山重ねたのだ。中には鼻持ちならない職人も大勢いた。

「私どもがもう少し多くの魔力を持っていればよかったのですが……」

肩をすくめてしょんぼりしたラエルは、少しだけ小さくなったように見える。そして、リードもそんなラエルを切なそうに見つめていた。

「あなた方だけの秘密を暴露するのも不公平ですわね。少しだけ私も手の内を明かしましょう。実は魔力持ちの職人はこちらにいるのです」

「既にお越しになっているのですか?」

ソフィアはふっといたずらっ子のような微笑みを浮かべた。

「そうではなく。ラエルさんご自身に魔力持ちの職人になっていただきます」

「ですが、私の魔力量は本当に僅かしかないのです」

ソフィアは従者に預けていたバッグを受け取り、その中に手を入れて中から小さな金属製の箱を取り出した。

「これは魔力補助の魔道具です。この箱を持って魔法を使うと、魔力が不足していても中に組み込まれた魔石が自動的に魔力を補ってくれます」

「ええぇ!?

「もし、ラエルさんかリードさんが図画印刷魔法の使い方をご存じであれば、実際に試してみてください。おそらく魔法自体は発現されているのですよね?」

「はい。私たち兄弟はどちらも魔法を使うことはできるのですが、完成する前に魔力が尽きてしまうのです」

「未成年のうちに魔法を使い始めていたら、もう少し魔力量も増えていたかもしれませんね」

「実は私が図画印刷魔法を発現できたのは十八歳を過ぎてからだったのです」

「そういうことでしたか。なかなかうまくいかないものですね」

一行は作業場の方に移動し、ラエルはソフィアに言われるまま魔道具を手に持って図画印刷魔法を使ってみた。

「こ、これは凄い。魔力がまったく尽きないぞ」

「本当か!? オレもやってみる」

ソフィアは前世の記憶のおかげで気付いた。図画印刷魔法と呼んでいるが、実際には魔法で印刷版を作る魔法であった。ラエルとリードは興奮気味に印刷の作成を試しているが、彼らが使っている魔道具の中に仕込まれている魔石の市場価格を聞いたらひっくり返るかもしれない。何しろワトプ商会との違約金がはした金にしか思えないくらいの価格なのだから。

「それで、私どもの仕事を請けていただけるかしら」

「ですが、この魔道具は無償で提供してくださるわけではないですよね?」

「残念ながら無償というわけには参りません。ですがひと月分の使用料を、職人一人分の報酬と同額にいたしましょう。魔力が尽きた場合には、当商会にお持ちいただければ追加料金無しで交換いたします」

ソフィアが魔道具と魔力のサブスクリプションを提案すると、ラエルとリードは手を取り合って喜んだ。

「それなら私たちでも支払えます。ソフィア様は一族の窮地を助けてくださった救世主です!」

「それで、ニーナさんはどうかしら?」

「ソフィア様が用意してくださる素材次第とお答えいたします」

なるほど、こちらは一筋縄ではいかないらしい。だが、その目は爛々らんらんと輝いている。

「さすがにこだわりの職人ですわね。私も商人の矜持として、用意できないとは言えませんわ」