二人はニアとリア

「リア、あなたの長年の夢が叶いそうって聞いたわよ!」

「突然やってきてビックリするじゃない。ニアは相変わらずねぇ」

コーデリアの元に息せき切って駆けこんできたトニアに、コーデリアはそっと水の入ったグラスを差し出した。

「フランから聞いたわよ! 最近じゃ、あなたまで乙女の塔に出入りしてるそうじゃない」

「そうなのよ。新しい教育施設で使う教科書を作っているところなの。オルソン令嬢は私と同じ気持ちを抱いていらっしゃったみたい。驚くほど熱心なのよ」

「あの方は相変わらずお綺麗でいらした?」

「相変わらずどころか、ますます麗しくおなりになってたわ」

「きっとご婚約されたからでしょうね」

「ロバート卿でしたら、きっとあの方も幸せに暮らせるでしょうね」

ロバートとレベッカの婚約は、領内の噂として領民たちにもあっという間に広がったため、グランチェスター領は祝賀ムードいっぱいである。子供の頃からグランチェスター領で生活しているロバートは、領民からしてみれば親しみ深いグランチェスター家のお坊ちゃんである。そのヘタレな性格でさえ、領民からは愛すべき性質と捉えられている。

「あのお二人とアーサー卿が転げまわって遊んでいたのが、つい昨日のように思えるわ」

「小公子レヴィ様、ね」

「そうそう、グランチェスター家の男子を振り回してたわよね」

「あはは。そういえば昔、ロバート卿たちが、うちのエルマを盗み食いしてたのを見つけたことがあったんだけど、木に登って枝を揺すっていたのはオルソン令嬢だったわ」

「それでどうしたの?」

「貴族相手に叱るわけにはいかないから、こっそり侯爵夫人に『ロバート様、アーサー様、レベッカ様が私どものエルマをお召し上がりになっておられました。もしかすると食べすぎでお腹を壊すかもしれません。ご注意ください』って手紙を書いたわ」

「それでどうなったの?」

「翌日、侯爵夫人が直々にお越しになられて、『本来なら本人たちに謝罪させるべきなのですが、あの子たちは揃ってお尻が腫れあがっているので代わりに謝罪します』って仰って、代金を支払っていかれたわ。侯爵夫人は男女問わず、悪い子のお尻を叩くようね」

「他家のご令嬢なのに?」

「他家のご令嬢でもよ。まぁオルソン子爵夫人とは幼馴染でいらしたことだし、自分の娘同然だったのでしょうね」

ロバートとレベッカは、ハーラン農園がかつて盗み食いをしたことのあるエルマ農園であることに気付いていない。おそらく忘れたい黒歴史だったのだろう。

「そのうちロバート卿やオルソン令嬢とは再会することになるんじゃない?」

「あははは。もう二十年も前のことよ。あの方々は覚えていらっしゃるかしら」

「覚えてたとしたら、最高に面白そう。その時は私も近くで見ていたいわ」

二人は見つめ合って、ニヤニヤと笑い始めた。仲の良い二人だが、実は両名ともグランチェスター領の出身ではない。元々王都に住んでいた二人は、家が近所であったため子供の頃から親友同士だったのだ。

コーデリアは商家に嫁入りし、その一年後にはトニアがグランチェスター領に移り住んだことで、一時的に彼女たちの交流は途絶えた。だが、コーデリアが夫と離婚すると、トニアはコーデリアに対して「どうせ再出発するなら、新しい場所で始めた方が良いと思うわ。実家や婚家の関係者がいない方が楽でしょ?」とグランチェスター領に彼女を誘ったのだ。

元々トニアは、コーデリアにエルマ農園を一緒に運営してもらうつもりでいた。ところがグランチェスター領にやってきたコーデリアは、トニアの家に長く滞在することなく、女性たちの集落に家を借りて沢山の子供たちに勉強を教え始めた。話を聞いてみると、「子供が勉強したいと思う気持ちに男女は関係ないわ。女の子だって勉強はできた方が将来良い仕事に就けるでしょう? もっと私に実力があれば、高等教育だって受けさせてあげられたのに……」と、子供たちの教育についてコーデリアは熱心に語りだした。

子供たちの教育がコーデリアの生き甲斐なのだと気付いたトニアは、それ以来ずっとコーデリアを応援している。彼女の授業料は無料ではない。だが、貧しい家の子供からは授業料を取らないこともあるため、トニアは農園の従業員の子供たちをコーデリアの私塾に通わせ、授業料を農園で負担してきた。結果的にコーデリアに教育された子供たちが農園の新たな担い手となり、農園経営にも大きくプラスになっている。トニアとしてはボランティア、あるいは従業員家族への福利厚生のつもりでいたが、どうやら先行投資になっていたらしい。

「私塾はやめてしまうの?」

「今の教え子たちを一緒に新しい教育施設に連れて行くつもりでいるわ」

コーデリアは興奮を抑えられないと言った風情で、嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「とうとうリアが望んでた教育施設ができあがるのね」

「まだまだこれからよ。まずはできることから小さく始めて、少しずつ対応領域を拡大していくつもりなのですって。侯爵閣下は領で運営する公立校にするのはどうかとまで仰せになったらしいのだけど、サラお嬢様がいきなりは無理とお断りになったそうよ」

「それは残念ね」

「あらニア、それは違うわ。いきなり領が公立校を作ることになったら、下準備だけで何年もかかってしまうのよ。失敗すればグランチェスター家の面目も潰れてしまうでしょ?」

「確かにそうね」

「サラお嬢様はとても現実的な施策を打ち出しているのよ。商会が運営するから小回りが利いてすぐに始められるし、将来公立校を作ることになったとしても、私たちの教育施設を参考にできるでしょ?」

「なるほど。やっぱりあのお嬢様は、とんでもない方だわ」

トニアはしみじみと、シードルをあっさり造って去っていったサラの姿を思い出していた。あれほど見た目と言動が一致しない人物は滅多にいない。

「あぁ私も早くサラお嬢様にお会いしたいわ。まだ八歳だと聞いたけど本当なのかしら? とても信じられないようなことばかり聞かされたわ」

「リアが信じられないのも無理はないわ。私もこの前お会いした時に驚いたもの」

「そういえば、ニアはお会いしているんだったわね。どんな方だった?」

「凄く美少女ね。美形ぞろいのグランチェスター家の中でも、彼女が一番でしょうね。オルソン令嬢が子供の頃よりも……ダメだわ参考にならない。少年のような姿しか思い出せないわ」

「確かにそうねぇ」

再び二人はくすくすと笑い始めた。

「でも中身は……変な言い方をするけど、私たちと同世代くらいの感じがするわ」

「え、私たちはもう四十代の半ばよ?」

「オルソン令嬢と同じように妖精の恵みを受けてるそうだから、外見と中身は一致しなくても不思議ではないのだけど、アーサー卿のお子さんってことを考えれば八歳で間違いないはずなのよね」

「それは、とても謎ね。神秘的ということなのかしら?」

「それもちょっと違うかも。平民としてお育ちだったせいか、とても庶民的な親しみやすい雰囲気の方よ。ただ、そのちょっと……」

「なぁに? ニアにしては歯切れが悪いわねぇ」

「なんというかね、うちの旦那と一緒にお酒飲んで笑ってても違和感ないような雰囲気というか」

「おじさんっぽいってこと?」

「そう、それよ!」

「美少女なのよね?」

「ええとびっきりの」

「なのに中年のおじさんっぽいわけ?」

「そうなのよ!」

「ちょっと意味がわからないわ」

こうしてコーデリアは、混迷を深めることになったのである。


ハーラン農園の経営者であるトニアは、騎士爵の娘として生まれた。男爵だった祖父はトニアが生まれる前に亡くなっており、父は王宮文官として王府で働いていた。祖父の遺産も相続していたことから、トニアは比較的裕福な家庭で育った。

トニアの母は彼女が十三歳の頃に儚くなっており、晩婚であった父は後添えを貰うことなく父娘おやこは仲良く暮らしていた。一人娘のトニアはいずれ王都の邸を含む父親の財産を受け継ぐ立場にあった。貴族籍に名前は載っていないものの、両親からは貴族の血を受けついでおり、魔力量は少ないが魔法も発現していた。

ある日、男爵位を継いだ従兄いとこがトニアに縁談を持ってきた。老齢となった父が、トニアの将来を心配し、男爵家にお相手を探してくれるよう頼んだらしい。やってきた見合い相手は、伯爵家の三男坊であった。トニアより二歳年上で、派手な服装を好む青年であった。トニアとしては可もなく不可もなしといった感じの相手であったが、ひとまずトニアの婚約は成立した。

婚約者は社交の場に頻繁に顔を出す生活を送っていた。トニアも何度か舞踏会には参加したが、社交界において騎士爵の娘というのは非常に曖昧な存在で、身分的には平民であるため正式なデビュタントとしては扱われない。

有力な貴族の次男や三男の娘であれば、正式に社交界デビューすることもあるが、その場合でも形式上は本家の養女になる。トニアの従兄もトニアに養女の話を持ち掛けたが、たとえ男爵であっても爵位を持つ貴族家の養子縁組というのは、それほど簡単な話ではない。貴族家の養子縁組には王室の許可が必要になる。形式的な手続きにもかかわらず手数料が高いのは、おそらく貴族階級の人間を容易に増やすべきではないという配慮なのだろう。無事に王室からの許可が下りれば養子縁組は成立するのだが、貴族家が養子を迎えた際には、『お披露目パーティー』を開催しなければならない。義務ではないが、社交界の暗黙のルールとなっている。要するに男爵家の養女になるには、お金と手間がかかるということだ。伯爵家の令息とはいえ、騎士爵に過ぎない婚約者のためにそこまでする意義を、トニアは見出せなかった。

正式に社交界デビューしていない女性は、参加者の付属品として扱われる。これは妻であろうが、愛妾あいしょうであろうが同じである。いっそクルティザンヌ高級娼婦の方が、複数の男性からダンスに誘われるだけマシかもしれない。女性から蔑みの目を向けられつつも、ドレスやアクセサリーなどを注視してもらえるのだから。トニアは誰からも相手にされることなく、まるでそこにいないかのように会場の隅でぽつんと立っていることしかできなかった。数回参加しただけでうんざりしたトニアは、婚約者の社交に付き合うことをしなくなった。

あるときトニアは、婚約者の青年の社交費用を父が負担していることに気付いた。父に尋ねると、それがトニアと婚約する条件だったと聞かされた。父の言葉にトニアは愕然とした。確かに自分の容姿は平凡である。だが、お金を支払ってまで婚約してもらわなければならないほど酷いとは思っていない。相手が爵位の継承者なのであれば、婚約の条件に金銭の支払いが発生するのは理解できる。だが、自分の婚約者は騎士爵である。自分が結婚することで本家である男爵家にメリットがある政略結婚ならば、仕方がないと納得もできただろう。しかし、この結婚には男爵家にもメリットがまったくなかった。

この事実にショックを受けたトニアは、商家に嫁いだ親友のコーデリアに相談することにした。一つ年上の彼女は、幼い頃からの大親友である。

「ねぇリア。私は自分が美人じゃないってことは知ってるけど、そんなに酷い顔?」

「いきなり何を言いだすのよ。あなたは十分可愛いじゃない」

トニアはコーデリアに婚約者との事情を説明した。

「完全にトニアが相続する財産目当てじゃない。そもそも、その男は何で収入を得ているの?」

コーデリアから指摘され、改めてトニアは婚約者について考えてみた。婚約者は名義上、伯爵家の所領を管理する文官の職に就いている。だが王都を中心とした社交に明け暮れている婚約者が、伯爵家の所領に向かうところをトニアは見たことが無い。王都を離れるのは、有力な貴族家が領地で開催する狩猟大会などのイベントか、同世代の貴公子たちと旅行するときだけだ。

「仕事してるところを見たことがないわ」

「やっぱり! そういう貴族って多いのよ。無職だと外聞悪いから自領の文官職家事手伝いってことにしてるだけ。実際にはただの無職よ。騎士にも文官にもなれない無能者ね」

「ええっ。じゃぁ結婚したらうちの資産で養うことになるの?」

「多分そういうことだと思うわ」

「どうしてお父様はそんな相手と結婚させようとするの?」

「想像だけど、ご自身が儚くなられたあとに、残されたニアが平民になっちゃうのを心配しているのではないかしら。騎士爵の妻なら一応貴族だもの」

「私は平民でも構わないのに。貴族の社交には興味が持てないし。アレってなんなの?」

「私も貴族の娘だったけど、実家は貧乏だったからデビューしてないわ。まぁ、家同士のつながりを深めたり、結婚相手を探したりする場所でしょう」

「それなら無職の騎士爵が参加する意味ないじゃない」

「ニアの婚約者が見栄っ張りなだけじゃない?」

その夜、帰宅した父にトニアはハッキリと宣言した。

「お父様。私はお金を払ってまで、あの程度の男と結婚したくありません。あの男は見栄っ張りの怠け者です。お父様に万が一のことがあれば、数年でうちの財産を食いつぶすでしょう。そうなった時に、あの男が私を捨てないと思いますか?」

実はトニアの父や従兄も『コイツ金の無心しすぎだろ』と思っていたらしく、トニアは無事に婚約を解消することができた。しかし、婚約を解消した直後、トニアの父は突然の病であっけなくこの世を去ってしまった。父もなく夫もいないトニアは、ひとまず従兄の手を借りて父の遺産を相続する手続きを始めた。そして、さまざまな書類を精査しているときに、父が生前グランチェスター領にあるエルマ農園に投資していたことがわかった。グランチェスター領には、かつて父と一緒に旅行したことがあった。そこで食べたエルマがとても美味しかったことを思い出した。

『お父様、憶えていてくださったのですね』

こうしてトニアは、父に導かれるようにグランチェスターに移住し、自分でエルマ農園を経営していく決意をしたのである。それまで働いた経験すらない十代の少女の決意を従兄は無謀だと反対したが、トニアの決意は固かった。

なお、この頃のトニアは『美人でもない自分には、財産目当ての男しか寄ってこない。だったら一生独身で良いわ』などと考えていた。その数年後、農園に農具を納めていた鍛冶職人が、大きな体躯に似つかわしくない小さな可愛らしい野花の花束を持ち、顔を真っ赤にしながらトニアに愛を告白することになるなど想像もしていなかった。最初のうちは『どうせこの男も自分の財産目当てだろう』とトニアは相手にもしなかったが、男は毎日のように花束や小さなプレゼントを持って農園に訪ねてきた。仕方なくトニアが王都での出来事を説明したところ、その翌日に男は『自分はトニアの財産を一ダルたりとも受け取らない』という誓約書と、工房の経営が赤字でないことを示す帳簿まで持ってきてトニアの前に跪いた。

そして半年ほど経ったある日、トニアはとうとう熊のような大男の求婚に頷いた。完全に根負けである。こうして、仲の良い夫婦となった二人は、二男一女を授かることになる。


女性たちの集落で子供たちに勉強を教えているコーデリアは、王都に暮らす領地を持たない男爵家の長女であった。幼少期はそれほど貧しくはなかったと記憶しているが、父が投資に失敗して多くの財産を失ってからは暮らし向きが一気に悪くなった。

家計の支出を抑えるため、父親は兄と弟の家庭教師だけを残し、コーデリアのガヴァネスを解雇した。弟は勉強の時間になると、コーデリアのドレスの後ろに隠れてしまうくらい勉強が嫌いな子供だった。将来独立しなければならない次男がコレではマズイと思った両親は、コーデリアを授業に同席させれば良いと考えた。だが、コーデリアが横にいるだけではダメだった。弟は勉強ができないわけではないのだが、理解するまでに少しだけ時間が掛かるのだ。ところが家庭教師はそれを理解しておらず、勉強に向いていない子だと思い込んでいた。

さすがに心配になったコーデリアは弟の代わりに授業のノートを取り、授業が終わった後に弟が理解するまで丁寧に教えることを繰り返すようになった。きちんと内容を理解できるようになると弟も勉強の面白さに気付き、以降はぐんぐんと成績が上がっていくようになる。二年も経つと、兄弟の学習範囲はほぼ同じになった。兄と弟は四歳ほど年齢が違うため、この事実は兄のプライドを大いに刺激した。要するに面白くなかったのである。

ある日、家庭教師からの質問に兄だけが正解できなかったことが切っ掛けとなり、兄と弟は大喧嘩を始めた。兄は弟に向かって「コーデリアがいなければ何もできない」と難癖をつけ、弟の方は「これが僕の実力だ」と言い張った。この時、兄は十四歳で、アカデミーに入学できる年齢のリミットが迫っており、逆に弟は十歳で最年少入学を目指していたことも状況を悪化させた。

自分が原因で兄弟を仲違いさせていることに心を痛めたコーデリアは、勉強の席に同席するのを控えるようになった。兄弟の家庭教師は優秀なコーデリアが勉強できなくなることを惜しみ、自習できるよう本を貸したり、質問に答えたりといったやり取りをこっそりと続けてくれていた。

年が明けてアカデミーの入学試験に挑んだ兄は不合格で、弟の方も最年少入学を果たすことはできなかった。アカデミーへの通学は義務ではないため、爵位の継承には影響しない。だが貴族令息は伝統的にアカデミーで横の繋がりをつくるため、大きな痛手であることは間違いない。継嗣けいしがアカデミーに入学できなかったことで家庭教師は解雇された。男爵は彼に紹介状を書くことすらしなかったという。

その頃、コーデリアにも転機が訪れた。実家の経済状況がますます悪化したため、経済的な支援と引き換えにコーデリアが大きな商家に嫁ぐことになったのだ。まだ十三歳だったコーデリアは、婚約者として相手の邸に移り住み、商家の嫁としての振舞いを学ぶことになった。婚家の居心地は実家よりも良かったことは間違いない。義理の父母はとても親切で、コーデリアを本当の娘のように扱ってくれた。もちろんコーデリアも婚家の役に立ちたいという想いから、実家の伝手つてを辿って貴族家との繋がりを深めるよう協力した。

十六歳で成人を迎えたコーデリアは、そのまま婚約者と婚姻した。長男の婚姻を機に義理の両親は家督を夫に譲って引退し、コーデリアの夫が商家の主となった。才気走るコーデリアは、一を聞けば十を知るような女性であった。夫の仕事を正確に把握し、先回りするようにさまざまな段取りを済ませておくコーデリアのことを、夫も最初のうちはよくできた妻だと感心していた。だが結婚から三年も経つと、夫との仲が少しずつ変化していった。先読み能力に優れたコーデリアの行動が、夫の鼻につくようになっていったのである。

妻に何もかもお膳立てされていると感じるようになった夫は、使用人たちが自分よりもコーデリアに仕事の報告をすることが気に入らなかった。コーデリアがいつまでも妊娠せず、精力的に商家の仕事をこなしていることも気に入らなかった。そして何より、有力な貴族とのコネクションをコーデリアが管理していることが忌々しかった。

そのうち夫は外に愛人を作るようになり、たびたび外泊するようになった。少しずつコーデリアを通さない仕事が増え、中には無謀な投資が必要な事業もあったが、夫は自分の手でやり遂げることに意義を感じているようだった。コーデリアは夫に愛人がいることにも、たびたび事業で損失を出していることにも気付いていた。だが、貴族令嬢として育ったコーデリアにとって夫に愛人がいることはなんら不思議なことではなく、夫の事業内容も概ね把握していたことから致命的な問題になる前に赤字を補填できていた。

そして結婚から八年が経過した頃、夫は突然コーデリアに離婚を突き付けた。愛人が妊娠したため、正式に後継ぎにしたいと申し出たのである。

「その女性が妊娠したことは承知いたしました。ですが、私たち夫婦の子供として届け出た方が良いのではないでしょうか。無理にお母様と引き離すことも望みませんので、別宅に子守や家庭教師をつけて育成すればよろしいかと」

夫はこのに及んでも冷静なコーデリアが気に入らなかった。

「お前は嫉妬すらしないのだな。そもそも妊娠すらできないような嫁など要らん。嫁の座にしがみつかず家を出ていけ!」

「旦那様、申し訳ございませんが、私が嫉妬しなければならない理由が思いつきません。私たちは政略結婚です。それに、あなたが女性を囲うようになってからは夫婦関係もないのですから、妊娠しないのは当然です。逆に私が妊娠したら、そちらの方が大問題だと思いませんか?」

理路整然と返答したコーデリアに、夫はますます激高していく。

「少しばかり仕事ができるからといって、夫の私を蔑ろにするからこのようなことになったのだ。もっと夫を敬い、夫を立てようという気持ちは無いのか!」

「あなたを蔑ろになどしたことはございません。そもそもあなたを立てるため、事業で損失を出したときにも、黙って補填したではありませんか」

この件を指摘したのは失敗だったと、後からコーデリアは反省したが、この頃はコーデリアも若かったので仕方ない。完全に夫は逆上した。

「お前のそういう取りすましたところがまったく気に入らん。外に子供を作ったのはオレだから、一応慰謝料は払ってやる。とにかくこれ以上お前と夫婦でいることが耐えられないんだ」

こうしてコーデリアの結婚生活は終わりを告げた。離婚そのものは悲しくなかったが、一緒に仕事をしてきた従業員たちが自分との別れを惜しんで泣いてくれたことが切なかった。

実家の両親は既に亡くなっており、爵位は兄が継いでいた。彼はアカデミーに入学できなかった件でコーデリアを未だに逆恨みしており、婚家から支払われた慰謝料を懐に入れたにもかかわらずコーデリアが実家に戻ることを許さなかった。気の毒に思った弟が部屋を貸してくれたが、お世辞にも裕福とは言えない弟に世話になり続けるわけにはいかなかった。途方に暮れたコーデリアは、かつての親友であったトニアに手紙を書いた。エルマ農園を経営する彼女であれば、取引先の商家などの仕事を紹介してくれるかもしれないと考えたのだ。

ところがトニアは、自分の仕事を手伝わせる気満々でコーデリアをグランチェスター領に呼び寄せた。

「いらっしゃいリア! しばらくはゆっくりして、これからのことを考えて頂戴。私としては農園を手伝ってほしいけど、無理強いをする気はないわ」

「ありがとうニア。私は体力がある方じゃないから、農園の手伝いができるか不安なのだけど」

「うーん。帳簿付けの手伝いとか、商家との交渉を手伝ってくれるだけでも嬉しいわ」

だがコーデリアが見たところ、事務に人手は足りているようだ。

『あまりニアに世話をかけたくないわ。取引がある商家を紹介してもらうことはできるかしら』

などとコーデリアが今後についてつらつらと考えていると、トニアの子供たちがじゃれ付いてきた。あまりにも愛らしいので、ついつい笑ってしまう。コーデリアは実家にいる頃から大事にしていた数冊の絵本を、子供たちに読み聞かせるようになった。不思議なことに生まれたばかりのフランも、コーデリアが本を読み始めると静かになるのだ。次第に子供たちも絵本に興味を持ち始め、文字を読みたがるようになった。そんな子供たちを見ていると、コーデリアは弟に勉強を教えていた頃の自分を思い出した。

トニアの子供たちが遊びにいく川の近くにはさまざまな職人の工房があり、そこで多くの女性が下働きとして働いていた。女性たちの多くはコーデリアと同じように離婚したり、あるいは夫と死別したりしていた。この女性たちで集まって暮らす集落があると聞いたコーデリアは、気になって中を覗いてみることにした。

集落の中心には、老人が営む木工工房があった。その親切な老人は小さな小屋をいくつも建て、困っている女性に格安の家賃で貸していた。老人は仕事をしながら温かい眼差しで子供たちをも見守り、木切れで子供が遊べる玩具をいくつも作っては工房の前にある広場で遊ばせていた。

トニアの子供たちも集落に住む子供たちと交流があった。

「ねぇねぇリア様、あの子達にもリア様の絵本を見せてあげたいんだけどダメ?」

「いいわよ。どの本がいいかしら?」

ちょっぴりおませなトニアの長女におねだりされたコーデリアは、数冊の絵本を持って女性の集落を訪れた。そして多くの子供たちが、トニアの子供たちと同じように、文字の読み書きを覚えたがるようになったのである。

ある日、広場で絵本の読み聞かせをしていると、木工工房から老人が出てきた。

「そろそろ雨が降ってくる。昔、娘夫婦が住んでいた離れがあるから、そちらで続きを読んでやるといい」

老人は工房の傍らにある建物を指で示した。コーデリアが中に入ってみると、掃除が行き届いていることに気付いた。聞けば、集落の女性たちが交代で老人の工房やこの離れを掃除しているのだという。ここに住んでいた老人の娘夫婦は、子供が生まれて手狭になったため、もう少し領都に近い場所に新しい家を建てて引っ越したのだそうだ。

コーデリアは、椅子に腰かけて絵本の読み聞かせを再開した。子供たちも床に座り込んで、キラキラと目を輝かせながら聞き入っている。中にはいろいろな質問をしてくる子もいる。その瞬間、コーデリアは天啓に導かれるように自分がやりたいことを見つけた。

『そうだ。私は子供たちに勉強を教えよう!』

家庭教師から教わったことを弟に説明する時間が、コーデリアはとても好きだった。ガヴァネスになりたいわけではない。ただ子供たちに読み書きを教え、自分たちで新しい知識を得るための方法を教えたいのだとコーデリアは思った。

こうしてコーデリアは老人の離れを借り、集落の子供たちを中心に勉強を教える私塾を始めたのである。授業料は無料というわけにはいかないが、集落の女性たちの子供であれば、物々交換や掃除などの労働提供でも支払を受け付けた。集落には元々は名家のご令嬢だったり、貴族の婚外子だったりとさまざまな女性が住んでおり、時折マナーや話術などの講師を務めてくれることもあった。

こうした女性たちの協力もあって、コーデリアの私塾から大きな商家のメイドに就職するような子供もぽつぽつ現れ始めた。そして、私塾で初等教育を受けたジェームズがアカデミーに合格すると、それが評判となって集落外からも私塾に通う子供が一気に増えた。

教え子が増えたことで離れが手狭になってきた頃、コーデリアは大家である老人から木工工房と離れをまとめて譲り受けた。自分の余命がいくばくもないことを知った老人は娘夫婦を呼び、工房と離れの土地と建物をコーデリアに譲ると宣言したのである。なお、娘夫婦の子供たちもコーデリアの教え子であったため、彼らは喜んでコーデリアに譲ることに同意してくれた。

数日後、老人は家族や集落の女性たちに見守られて静かに息を引き取った。遺言に従って土地と建物はコーデリアが相続した。老人の葬儀が終わり、静まり返った家の中を片付けていたコーデリアは、老人の寝室の隅に大きな木箱があることに気付いた。老人の娘夫婦に渡さなければならないものかもしれないと思い、慌てて木箱の蓋を開けた。すると、中には積み木など子供向けの知育玩具が山のように入っていた。これを見たコーデリアは胸が一杯になり、自分の両親が亡くなった時よりも大きな声で一晩中泣き明かした。