結婚は人生のゴールではない

ふとロバートとレベッカに目を遣ると、二人はナニヤラぼしょぼしょと小声で会話をしているのが見えた。どうやらあまりこちらの話を聞いていなかったらしい。

『そういえば、さっきからお二人は空気になってたわね。なんかあるのかしら?』

「お父様、お母様、どうかされましたか?」

二人はびくりとこちらを振り向いた。

「お前たち、サラが良い話をしていたというのに」

「聞いていなかったわけではないんですが、ジェームズが結婚を延期していた話が他人事とは思えなくて」

ロバートが困り顔で言い訳をした。

「どちらかというと、延期してもシンディさんを逃がさないために努力したジェームズさんの誠実さと気合いを見習っていただきたいくらいですけどね」

「確かにサラさんの言うとおりね」

レベッカは大きく頷いた。その様子を見てシンディは首を傾げた。

「申し訳ございません。あまりご領主様のご家族について存じ上げないのですが、ロバート卿は独身で、サラお嬢様はアーサー卿のお嬢様でいらしたかと思っておりました」

「うん。あってるよ。まだ籍は入れていないけど、レヴィとの結婚後には僕たちの娘になる」

「まぁ! やっとご婚約されたのですね!」

その場にいた侯爵、文官、執務メイドたちは一斉に爆笑した。

「おい、ロバート。お前は一般の領民にまで『やっと』と言わしめたぞ」

「やっぱり皆さん思っていらしたのですね。お父様……かなりカッコ悪いです」

すると発言したシンディが慌てだした。

「も、申し訳ございません。私が不敬な発言をしたせいで!」

「気にしなくていいよ。僕がヘタレなことは、周知の事実だったようだから」

「シンディさん、大丈夫よ。この件は全面的にロブが悪いから」

レベッカがにっこりと微笑んだ。

「ロブと話をしていたのはね、お二人の結婚式を城内で挙げるのはどうかなってことなの」

「僕たちは結婚式のために、グランチェスター城内にある古いホールを改築する予定なんだ。でも一回の結婚式にしか使わないのはもったいないと思っていたんだよね。僕たちの後にはなっちゃうけど、領のために尽くしてくれたジェームズと、そのジェームズを支えてくれたシンディ嬢に使ってもらえれば嬉しいよ」

「もちろん、お二人に別の計画があるなら無理強いするつもりはないのだけど」

ジェームズはシンディの方を振り向いた。

「僕はいいと思うけど、シンディはどう?」

「会場が素敵すぎて、私たちの親戚を呼べないかもしれません。花嫁が城に負けそうです」

シンディが焦ったように答えた。

「ホールは城壁に近い場所にあるし、式の後の披露宴はガーデンパーティにしちゃえばいいんじゃないかしら? 少しばかり羽目を外しても、誰も文句を言う人はいないと思うわ。もちろん実際に会場を見てもらってから決めても全く問題ないわよ」

「お母様、とても熱心ですね」

「待たされる気持ちは理解できるもの」

「お母様の待ち時間は十年以上ですからねぇ」

待つ側の年季の入り方が違うレベッカにしてみれば、シンディに幸せになってほしいという気持ちが強いらしい。そして、ロバートの方も待たせた自覚があるため、おそらくレベッカの言うことには黙って従うだろう。

「その件については、あくまでもお父様とお母様からの提案ということで、今日のところは終わらせた方が良さそうですね。そもそもお二人の結婚式の計画もまだまだ詰めなければならないことが多いでしょうから」

発言を静かに聞いていたシンディだったが、『城内にあるホール』と聞いて興味を示し、ロバートたちに質問と提案をしてきた。

「もしかして、ホールにはステンドグラスがまっていますか?」

「確か普通の窓ガラスだった気がするわ」

「折角ですしステンドグラスにしてみませんか? 私の父が得意にしているのはステンドグラスなのです。最近は注文してくださる方があまりいないので腕を振るう場所が無いのです」

『なるほど。色ガラスの製法について詰め寄るわけだわ』

「それって素敵ですね。いつか私が結婚するときにも使えるかも」

「サラはお嫁になんかいかないよね!?

「お父様、私をずっと寂しいお一人様にするおつもりですか?」

「ロブ、みっともないわよ。ごめんなさいね、サラさんについてはちょっと面倒なのよ」

するとシンディも目を細めて微笑んだ。

「いえ、うちの父もそんな感じなので」

「それはジェームズさんも大変ね。ロブみたいにうるさいの?」

ジェームズは肩をすくめながら、ため息交じりに答えた。

「最初に挨拶に伺った日、ハンマーをもって私を待ち構えていましたよ。『シンディは職人として名を馳せる娘だ。文官の嫁になどできるか』と言われまして」

「それでジェームズさんはなんとお答えに?」

「はは。ちょっと恥ずかしいのですが、『職人としてのシンディを愛しているので結婚しても家事はさせません。メイドを雇います』と申しました」

その瞬間、サラの背筋をゾクリとした何かが走り抜けた。

『そうか、家事だ。この世界で女性の社会進出を妨げる最も大きな要因だ』

更紗の時代と大きく異なるのは、この世界の家事事情である。前世のような便利な家電がないため、洗濯や掃除には多くの時間を割かねばならない。しかも、家事は基本的に女性の労働だと認識されている。女性は家庭を守ると言えば聞こえは良いかもしれないが、多くの女性は一日の大半を家事に費やしている。女性が外で働ける場所が少ないのは、そもそも外で働ける女性が少ないということも理由の一つなのだ。

子供ができれば、さらに状況は過酷になる。前世のような保育園や幼稚園は存在しない。地域の女性同士が協力しあっていなければ、子育てもままならないのが現実だ。だからと言って子供を産まない選択もできない。結婚しても子供を産めない女性は、まるで欠陥品のように扱われ、冷たい目で見られる。

領内の女性にとって城のメイドは憧れの職業の一つであるが、それでも結婚したら退職してしまう女性の方が圧倒的に多い。不思議なことに男性の使用人の場合は、『結婚して落ち着いてからが一人前』のように言われる。

こうした状況で働き手である夫が亡くなった家庭の悲惨さは、サラの実の両親が証明している。寡婦かふが働く場所といえば、農家の手伝い、家政婦、商店の店員くらいだろう。酒場や娼館で働くという女性もいるが、年を取ってから寡婦になった場合は難しい。

年を取った女性の中には子供を預かって面倒を見る人もいるが、こうした女性に子供を預ける母親の主な職業は娼婦であるため、『子供を人に預ける』という行為そのものに眉をひそめる人もいるのだという。『自分の子供の面倒も見ないで何をやっているのだ。もしやふしだらなことをしているのか』という理屈らしい。実に馬鹿馬鹿しい話である。

アメリアのように子供が薬草取りなどで金を稼ぐことはある。しかし、主婦が家を空けて薬草を取りに行くのはやはり難しい。裁縫の腕前が良ければ内職という手もあるが、依頼そのものが限られている上に仕事を請けたい女性が多く、どうしても単価は低くなってしまう。つまり、需要と供給のバランスが悪いのだ。サラの母であるアデリアはそもそも裁縫が苦手であったため、内職を検討することさえしなかった。

そう考えると、ジェームズの発言は、この世界の男性としては驚きの宣言であった。そして新たな雇用を創出する行為でもある。

『女性の雇用創出と家事負担の軽減……この問題を解決すれば人手不足も解消できる可能性が高い気がする。だけど意識改革もセットでなければ意味がないんだろうな』

サラは思考の沼へと沈んでいきそうになったが、咄嗟とっさに自分を引き留めた。

『すぐに結論が出るような問題ではないわね。後でゆっくり考えることにしよう。でも絶対に忘れないわ。結婚は人生のゴールなんかじゃない。その先にはもっと長い現実が待ってるんだから』

「ジェームズさんは本当にシンディさんを愛していらっしゃるのですね」

サラがしみじみと言うと、ロバートが慌てだした。

「いや僕もレヴィのことを愛しているからね!」

レベッカはニコッと笑いながら、ロバートの発言を受け流した。

「お父様、十余年のヘタレにそのような主張をする権利はなさそうですよ」

「うっ……」

当然誰もロバートをフォローしたりはしないので、サラも気にせず話を続けた。

「人手不足が深刻な問題になりつつあります。文官はもちろん、職人も不足しそうです。商会でも従業員を雇用しないといけません。そう考えると職人としてのシンディさんを大切にするジェームズさんの愛は、領にも大きく貢献していますよね」

カストルは手元のメモを見ながら、サラの発言にフォローを入れる。

「ガラス職人だけではありません。少なくとも蒸留釜を作る職人、大工、化粧箱を造る木工職人、魔石を採掘する鉱夫、それに今後エルマブランデーを増産するのであれば、エルマ農園の農園主が自分たちで醸造所を持つかもしれません。もちろんサラお嬢様が製造工程を明かしても良いとお考えであれば、ですが」

当初、サラはエルマブランデーの製造方法を秘匿するつもりは無かった。できれば『蒸留酒』という酒の存在を広め、ブランデーやウィスキーなどさまざまな蒸留酒が出回ることを願っている。その一方で、当面は製造方法を秘匿し、グランチェスター領で独占しておくべきなのではないかという気持ちも持っていた。

「そこは悩ましいですね。しばらくの間は、私の商会で制御できる範囲だけにとどめておいた方が良い気もしているんですよ」

「当分は高値で取引されるでしょうから、利幅も大きいですしね」

「確かに商人にとって利益の独占は非常に魅力的ではあるのですが、技術を秘匿しておくべきか悩んでいるのはそれだけではないんです」

「というと?」

カストルは身を乗り出して食い下がった。先ほどからのサラの発言は、カストルの目から鱗を何枚もポロポロと落とし、商工業担当文官としての矜持や思い込みを打ち砕いていた。すでにカストルはアカデミーの教授を前に講義を受けている気分にさえなっていた。

「エルマブランデーを造る人が増えるのはとても喜ばしいですが、一定水準以上の品質は維持したいんです。粗悪品が市場に出回ると、エルマブランデー全体のイメージが悪くなります」

「イメージ、ですか?」

どうやらカストルをはじめとする文官たちはいまひとつ納得できていないようである。

「エルマブランデーは原材料費から考えても、安いお酒にはなり得ません。粗悪品でも市場に流通させるためには、大量のエルマ、醸造するための樽、蒸留するための燃料、熟成するための樽、ガラス瓶、そして人件費が必要です。もし、最初に飲んだエルマブランデーが粗悪品だったらどうなりますか?」

「高いお金を払ったのに、美味しくなかったらってことですよね。私だったら『こんなもんか』と思って、二度とエルマブランデーを買わないと思います」

シンディが答えてくれたので、サラは嬉しくなって彼女にニコリと笑いかけた。

「私もそう思います。そして悪い評判というのは、良い評判よりも伝わりやすく固定しやすいのです。一部の粗悪品のせいで、本当に美味しいエルマブランデーが忌避されるようなお酒になってしまうことを避けたいのです」

「確かにこんなに美味しいお酒なのに悪い評判が立ったら悔しいですよね」

こくこくと頷くシンディは大変可愛らしく、ジェームズはデレデレな表情を浮かべていた。

「良いイメージを守るという考え方は、貴族には馴染み深い考え方かもしれんな」

侯爵はボソリと呟いた。

「グランチェスター領から出荷される小麦も、特級、一級、二級と分ける。特級として出荷される小麦に二級品が紛れ込むことは許されない。仮にそのような事故があれば、グランチェスターの矜持にかけて返品や返金に応じる。必要であれば賠償金を支払うことすらいとわないだろう。それほど信頼というのは非常に得難い価値であり、一度失われてしまうと取り戻せないものなのだ」

「はい。祖父様の仰る通りかと存じます」

「だがサラよ。そうであるからこそ、高品質なエルマブランデーを造れる人材を早急に育成せねばならんのではないか?」

サラは深いため息を吐いた。

「やっぱり最後は人手不足に行きついちゃいますよね。そもそも、領の文官ですら人が足りていない状況です。十分な数の文官が揃っていたのであれば、ジェームズさんの結婚が延期になることもなかったでしょうし」

「まったくだ。早急に募集をかけるよう手配するしかなかろう」

横領の件を王室に明かしたことで、グランチェスター領には後ろ暗い隠し事は(サラ絡みのことを除けば)無くなり、今は新たな文官を堂々と雇用できるようになった。

「優秀な方が来てくださると良いですね」

「今から募集しても来るのは夏が過ぎてからだろうね」

サラが呟くと、ロバートが応えた。確かにアカデミーの卒業式は初夏に行われるため、いわゆる新卒の文官は夏が過ぎなければ着任しない。

「文官経験のある方を中途で採用するのはダメなのでしょうか?」

「他領や王都で一度文官を辞めた人を雇うということかい? それはどうなんだろう。何か問題があって辞めたのかもしれないじゃないか。やむにやまれぬ事情があって辞したのであれば、紹介状を持っているだろうし」

どうやら文官を辞めるというのは非常に重いことらしい。前世のように気軽に転職というわけにはいかないようだ。

「それでも私は経験者の雇用も検討すべきだと思います。今のグランチェスター領が最も必要としているのは即戦力です。トマス先生のような例もあるのです。せめて前職を辞めた理由くらいは確認すべきでしょう。どうせ新卒の文官でも一通りの身元調査はするのですから、経験者も同じように調査すればいいと思うのです。たとえば、イヤな上司と喧嘩して辞めざるをえなくなったとしたら、紹介状なんか貰えないでしょう?」

「言われてみれば確かにそうだね」

これにはジェームズとベンジャミンも目を輝かせた。

「サラお嬢様、素晴らしい考えです」

「いやぁ『即戦力』ですかぁ。実に良い響きの言葉ですね」

サラはニヤニヤと黒い微笑みを浮かべながらロバートと文官たちに言い放った。

「八歳の令嬢やそのガヴァネスに執務をお願いするより百倍くらいまともな発想だと思います!」

「ぐはっ」

当然のことながらロバートと文官は撃沈し、侯爵とレベッカは爆笑の発作に襲われた。そしてシンディは、混沌とした雰囲気の中でやっと心の底から笑うことができた。

『緊張が解けたみたいで良かったわ』

「実はシンディさんには、もう少しお願いしたいことがあるのです」

「何でしょう?」

「エルマブランデーだけではなくて、エルマ酒も瓶に詰めて売り出したいのです。そのため、丈夫な瓶が欲しいのです。可能であれば茶色か緑色の色ガラスで分厚い酒瓶を作れないでしょうか?」

「可能だと思いますが、栓はどうされますか?」

「ワインのようにコルクで」

「ではワインのボトルをイメージすればよろしいでしょうか?」

ここに来てからシンディの感情は忙しく乱高下しているが、仕事の話になった途端に職人の表情になる。サラは、そんなシンディに好感を持った。

「概ね問題ありません。なで肩のシルエットでワインのボトルよりも厚めに、瓶底のくぼみも大きくしてほしいです。それと、コルク栓は針金で巻いて押さえるつもりです」

「理由を伺ってもよろしいでしょうか?」

「強く発泡するお酒を売りたいのです。発泡酒は、常に内側から外に向けて圧力がかかってしまうため、瓶を厚くする必要があるのです。瓶底のくぼみも、通常のワインのようにおりを沈めてグラスに入らないようにするというより、圧力を分散させる意味合いの方が大きいです」

シンディが不思議そうな顔をして質問を重ねた。

「あの、圧力とはどういうものでしょうか?」

『なるほど、そこから説明が必要か』

「シンディさんは瓶を作る際、息を吹き込んで膨らませますよね?」

「はい」

「それは息を吹き込むことで、空気……つまり〝風〟が熱で柔らかくなった瓶を外側に押し広げているのです」

「わかります」

「エルマ酒の中には、底の方から細かい泡が浮かんでくるものがありますよね。これはエルマ酒の中に溶け込んでいる風が浮かび上がってきている現象なのです」

「えっと、水の中に管を差し込んで息を吹き込んだ時のような泡ですか? というかお酒に風って溶けるんですか?」

「はい、その通りです。詳しい話は錬金術の講義みたいになってしまうのでこれ以上の説明はしませんが、要するにエルマ酒の中に溶け込んでいる風が外に出て行こうとするのを瓶で抑える必要があるので、厚くて頑丈な瓶でなければならないのです」

「だから、エルマ酒を瓶に詰めて売ると割れやすいんですね」

「そうですね。丈夫な瓶を使わないと、放置しておくだけで勝手に割れたりします」

「色にも意味があるのですか?」

「日の光でエルマ酒が変質しないようにする対策です」

「なるほど。承知しました」

シンディはジェームズからメモを借り、必要事項を記入していく。

「それで大変申し訳ないのですが…」

「はい?」

「百本ほど先に納品いただけないでしょうか?」

サラが申し訳なさそうにシンディに依頼すると、シンディは目を剥いた。

「えっと、聞き間違いでしょうか。今、百本と仰いました?」

「はい申しました」

「しかも〝先に〟ということは、もっと必要ということですよね?」

「はい」

「つい先ほど、エルマブランデー用の瓶のコンテストを開催するというお話もありましたが、当然別ですよね?」

「……はい」

自分でも無理を言っている自覚はあるため、サラはどんどん居たたまれなくなり、声もだんだんと小さくなっていく。

「ご無理を申し上げてる自覚はございます。もちろん急ぎですから、特別料金もお支払いします。買い叩くことは絶対にしないとお約束します」

するとシンディはくすくすと笑い出した。

「サラお嬢様が私どものお得意様になっていただけることは理解しました。材料さえ揃う目途が立てば、製作は可能です。納品の順番というか、優先順位を決めてください」

「本当ですか!?

「はい。最初からそんなに大口の注文をされる商家はありませんので、驚いてしまっただけです。うちで良いんですか?」

「他にガラス職人というか工房を知りませんので、仕事を出しにくいというのはあります。もしかしたらコンテストの結果次第では他の工房に仕事を発注するかもしれません。でも、シンディさんが作ってくれた花瓶は私のお気に入りなんです!」

サラはにっこり微笑んだ。

「ずっとジェームズから『サラお嬢様は規格外で凄い方だ』って聞いてたんです。でも、実際に会ってみたら、私が勝手に想像していたよりも何倍も凄い方でした。そんなサラお嬢様に私の作品を気に入っていただけてとても嬉しいです!」

こうしてサラは、エルマ酒を詰める瓶を入手することに成功した。つまり、瓶内二次発酵という禁断の酒造りを決行できるようになったということだ。

『ミケ、待ってなさい。あなたには超めんどくさい酒造りをさせてやるから!』

エルマブランデーをはじめとするさまざまな商品開発が進んだことで、いよいよ商会を本格的に始動させるべき時期がきたことをサラは実感した。しかしサラは大事なことを忘れていた。ミケが魔法を使うには、サラの魔力が必要になるということを。

『最初にオープンする店舗はそれほど大きい必要はないけど、上級の貴族が出入りしても問題がない場所と相応しい内装は必須よね。祖父様が用意してくださった本店を見に行こう。店舗として不向きな物件であれば、事務所兼倉庫にすればいいわ。アメリアさんの商品は、専門店として別店舗を構えるべきだとは思うけど、顧客の反応を見てからでも遅くないはず。とはいえ、倉庫だけは確保しておくべきでしょうね。少なくとも小麦は備蓄として在庫を抱えておく必要がある』

「祖父様、近いうちに商会の本店を見に行きたいのですが」

「そうだな。そろそろ動き出すべきだろう」

『そういえば商業ギルドにもいかないと』

侯爵が手配した商会の代理人は、商会を登記したついでに商業ギルドへの加盟も申請していた。ところが、商会長自身が手続きをすべきだとギルドの加盟を保留されてしまったのだ。これまで多くの商会の登記やギルドへの加盟手続きを代行してきた代理人は異議を唱えたが、商業ギルドのギルド長が『商会長との面会が必要』という態度を崩さなかった。仕方なく代理人は一旦引き下がり、侯爵にその旨を報告した。

アヴァロンにおいて『ギルド』とは、国に正式に認可された組織である。正式なギルドであればアヴァロンの法律に違反しない限り、王や領主からの命にも異議を申し立てる権利が法律で保障されている。もちろん国から正式に認可されることは容易ではないが、正式なギルドは領主の権威にも対抗できる。つまりグランチェスター侯爵が商業ギルドに対して、特定の商会を加盟させるよう命じることはできないということだ。

「ソフィアには商業ギルドにも向かうよう申し伝えます。新しい商会にもかかわらず、そこそこ規模の大きな商売をせざるを得ないのです。商業ギルドに加盟しなければ、従業員を雇用するのも難しそうです」

「確かにそうだな。だが、求人については、アカデミーに募集を出すという方法もあるぞ」

「なるほど。それも良いですね」

『うーん。こっちにも即戦力欲しいな。執務室のメイドさん引き抜いたら怒られるよねぇ。そもそもグランチェスター城のメイドって、この辺りの女性には憧れの職業だし、誘っても無理だろうな。だけど貴族相手に接客できる人材って、どうしたらいいかしらね』

サラが黙りこくって思考の海に沈む様子は、グランチェスター城で働く人々にとっては慣れた情景なのだが、初めてサラを見たシンディは八歳の少女が落ち込んでいるようで心配になった。

「サラお嬢様、どうかされましたか?」

「あ、ごめんなさい。少し考え事をしてしまいました」

「考え事ですか? 何かお困りのことがあるのでしょうか?」

親切なシンディを心配させないよう、サラはニコッと微笑みを返した。

「シンディさんをはじめ、多くの方に作っていただく商品の売り方を考えていたのです。高級品が多いので、貴族など富裕層の方を相手とした商売が多くなるはずですが、接客できる人材をどう確保したものかと思いまして」

「だから商業ギルドに登録するんだろう? 商家で働きたい人は商業ギルドを通じて応募してくるはずだし、商業ギルドは仕事の内容に応じて能力がある人を斡旋あっせんしてくれると聞くが」

何故そんなことで悩むのかがわからないといった風情で、ロバートがサラに尋ねる。

「確かにそうなのですが、別の商家や商会と繋がりがありそうなのが怖い気もします」

「あぁ。そういうことを心配しているのか。ある程度は仕方ないだろう。それに、重要な役職の場合、魔法による機密保持契約もできる」

「魔法の機密保持契約って、他言しようとするとどうなるんですか?」

「まず口に出せないし、他人に告げようとしただけで酷く苦しむ。それでも強行すれば死ぬ」

「ええぇっ!? 機密は守りたいですが、そこまでの強制力は求めていません。できれば信頼関係で守っていただきたいんですが」

「これは機密を知っている人を守るための魔法でもあるんだ。無理に話そうとすれば死んでしまうことがわかっているから、聞き出す側も家族を使った脅しなどの強硬手段がとれなくなるんだよ」

「はぁ」

『この世界はそういうところが怖いよっ!』

「正直、執務室のメイドさんを数名派遣してもらいたいと思っちゃいますね」

「それはサラの希望でも叶えてあげられないなぁ。本当に彼女たちは貴重なんだよ」

「ですよね」

深くため息を吐いたサラの様子に、シンディが質問を重ねた。

「その『執務室のメイド』になるにはどうしたらいいんでしょう? もちろん誰にでもなれるものではないことはわかっていますが、私の周囲には仕事を欲しがっている女性が大勢いるんです」

「大勢の女性?」

シンディの発言は、サラの琴線に触れた。

「はい。うちの工房は領都の外れにあるのですが、近くには貧しい一人暮らしの女性や、夫を亡くして子供を育てる母親などが多いのです」

「それは何か理由があるのでしょうか?」

「アクラ川の支流が近くにあるので、ガラスだけでなくさまざまな技を持った職人たちが工房を構えているのです。必然的に飯炊きや洗濯など下働きの女性たちも集まっています」

「あぁ、なるほど」

「とはいえ職人には気が荒い人や、横暴な人も少なくありません。中には女性の一人暮らしを狙って乱暴なことをしようとする不心得者ふこころえものもおりますので、こうした女性たちはお互いを助けるため、同じ区域で寄り集まって暮らしているのです」

「それは心強いですね。でも、お話を伺う限り、彼女たちは仕事があるからそこに住んでいらっしゃるのではないですか?」

シンディはそっと首を横に振った。

「もちろん仕事がある女性は多いですが、仕事ができなくなって困窮している女性もいるんです」

「それは働けない年齢になるということでしょうか?」

「年齢だけの問題ではありません。工房の下働きは楽な仕事ではありません。身体を壊して動けなくなったりしてしまえば、解雇されてしまいます」

当然と言えば当然である。前世のように雇用保険や年金はない。もちろん労災や生活保護だってあるはずがないのだ。

「それと……」

「どうされました?」

「あ、いえ、幼い方の耳に入れて良いのかどうか迷うのですが、職場で暴力を振るわれてしまう人も少なからずいるのです。怪我をして動けなくなってしまったり、心を病んでしまったりすると職場に復帰できなくなります」

「なっ!」

サラは驚いて言葉を失った。このような言い方をするからには、人の尊厳を奪うような暴力であるに違いない。サラはそのままぐりっと侯爵とロバートに鋭い視線を投げかける。

「祖父様、お父様! グランチェスターは、そのような無体が許されるような領なのですか? 法整備はどうなっているのです!」

「サラ落ち着け。当然、グランチェスター領にもそうした暴力を取り締まる法律はある。女性からの訴えがあれば、領の巡回兵が調査に向かい、しかるべき措置を取る。有罪が認められれば、暴力を振るった側に損害賠償が命じられる。加害者が財を持たない場合には、領が代わりに被害者に賠償金を支払い、加害者には賠償金を完済できるまで苦役くえきが課せられる」

だが、シンディは首を横に振り、先ほどまでの緊張が嘘だったかのように反論した。

「畏れながら侯爵閣下、発言をお許しください」

「構わん。申せ」

「あの程度の賠償金では意味が無いも同然です」

「賠償金はどの程度なのですか?」

サラは食い気味に侯爵に尋ねた。

「被害者世帯の年収と同額だ」

「それは……厳しいでしょうね。せめて下限の金額を設定してください。その法律をいつ誰が作ったのかは存じませんが、貴族や富裕層が被害者になることしか想定していなかったのでしょうか。一人暮らしの貧しい女性や母子家庭ですよ? 世帯年収なんてたかが知れているはずです。しかもそんな被害にあったら、同じ職場で働き続けるのは難しいのはわかるじゃないですか」

「お嬢様の仰る通りです。暴力を振るわれた女性が新たな生活を始めるには少なすぎるため、長期にわたって暴力を受けていても訴え出ない女性もいます。特に子供を抱えていると、いきなり職を失うわけにはいかないですから」

「酷すぎる……」

女性たちが置かれている状況があまりにも過酷で、サラはぽろぽろと涙を流した。そして同時に想像もした。もし前世の記憶が戻らず、あのまま王都のグランチェスター邸にいれば、自分は無事でいただろうかと。

「す、すみません。やはりこのような話を幼い方のお耳に入れるべきではありませんでした」

シンディはサラが泣き出したのを見て狼狽した。

「気に病まずとも良い。サラは見た目ほど幼くはない。領内にそうした弱者がいることを哀しんでいるだけだ。いや、私を責めているのやもしれんな。民を守るべき領主でありながら、そのようなことを見過ごしておったのだから」

「私は祖父様を責めることはいたしません。神ではないのですから、すべての人を救うことができないこともわかっています。ただ、知ったのであれば善処はできるかと」

「そうだな」

侯爵の発言にサラは鼻をぐずぐず言わせつつも微笑んだ。

この年の領法改正により、暴力に対する損害賠償金には下限が設けられ、特に性的暴力に対する罰則が強化された。サラが強く主張したことで、性的暴力は男性から女性だけでなく同性あるいは女性から男性に対するものも含まれることとなった。

性的な暴力を振るった加害者の氏名や職業は公表され、額、頬、首筋などに性的暴力の加害者であることを示す焼き印が押されるようになった。焼き印を押す場所や数は、被害者の数や暴力の程度によって増えていく。この焼き印は火属性の魔法で押されるため、治癒魔法で消そうとすると、即座に焼き印を押した領に通知が届く仕組みになっているのだという。ちなみにサラは焼き印の話を聞いて『異世界やっぱり怖い』と思ったが、加害者に同情する気にはならなかった。