プロローグ
サラとレベッカが執務棟に到着したのは夕刻であった。
学友たちとは乙女の塔を出た時点で解散しているがトマスとレベッカからバッチリ宿題が出されている。二人とも熱心な教育者なのは間違いない。
『私への宿題はお母様が開催するお茶会の企画を提案することだから、仕事のようなものね』
トマスからの宿題は数学なので片手間で終わることはわかっている。数学の記号もほぼ前世と同じなので、数学の知識をもたらした転生者が過去にいたのだろう。
『あれ? なのになんでグラフは無かったんだろう?』
サラは不思議に思ったが、深く考えたりはしなかった。考えてもわからないことは『そういうもの』と放っておく癖が付いたような気がする。
この世界にグラフが根付いていない理由は単純で、数学の知識を持った転生者がこの世界に来た時代には、印刷の技術がまだ確立していなかったからである。辛うじて初歩の数学は継承されたが、知識の大半は失われてしまった。そう考えると『本』がどれほど文明の発達に不可欠なものなのかがよくわかる。
サラが執務室のドアをノックしようとした瞬間、執務室内から大きな声が響き渡った。
「やった─────。おわった─────」
サラはレベッカの方に振り返り、ニヤッと笑った。レベッカも今は素の笑顔である。
『たぶん、これはきっと……』
いつもより大きな音でノックしても中から反応がない。と言うより、歓声で聞こえていないようだ。仕方ないので、サラは扉を勝手に開けて中に入った。
執務室内ではメイドたちまで一緒になって、手を取り合って喜び合っていた。ロバートは目敏くレベッカとサラを見つけ、サラを抱え上げつつレベッカの肩を抱いた。
「お、女神たちが降臨されたぞ!」
すると文官とメイドたちが一斉にこちらを振り向いた。
「サラお嬢様、レベッカ嬢、終わりました! ついに過去の帳簿も終わりましたぁぁぁ」
ジェームズが、サラとレベッカを抱いたロバートの元に駆け寄ってきた。その後ろにはベンジャミンもいる。
「本当に良かったですね。皆様、お疲れさまでした」
「サラお嬢様、レベッカ嬢、執務メイドたちのおかげです。本当にありがとうございました」
「急な昇進からの激務、疲労で次々と倒れる仲間たち……もう本当にダメかと思いました」
ジェームズの目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
『何だろう……前世で見たテレビ番組が思い浮かぶんだけど。大御所女性歌手の壮大なテーマソングが聞こえてくるよ!』
「私の力など微々たるものでしかありません。最初にやり方を定めただけです。実際に手を動かしたのは皆様なのですから、どうか胸を張ってくださいませ」
サラはマリアにエルマ酒とエルマブランデーを持ってくるよう伝えた。こんな時は、彼らだって飲みたいに違いない。
「ところで実際の収支はどうだったのですか? 追加の納税は必要でしょうか?」
「いえ、五百ダラスほど多めに納税していたことがわかりました」
ベンジャミンが答える。彼の目も真っ赤である。
「それは
ロバートがベンジャミンの説明を補足した。
「サラ、税金を多めに支払ったとしても、それを返せと言う領主はいないよ。修正した上で、さらに金額を上乗せして国への寄付とするだけだ」
「そういうものなのですね」
「それが貴族というものだよ。面倒だけど」
『追加の納税が無いとはいえ、修正申告なんて外聞が良いことでもないし、寄付金を多めに支払って終わりにするのがイイってことか』
そこに侯爵とジェフリーもやってきた。執務室のお祭り騒ぎに面食らっていたが、事情を聞いて一緒に喜び始めた。
「ロバート、苦労をかけたな」
「いえ、父上。すべてはサラとレヴィ、それに文官やメイドたちが頑張ってくれたおかげです」
「そうだな。お前たちもよくやってくれた」
文官や執務メイドたちは一斉に頭を下げ、サラとレベッカはにこりと微笑んだ。
「新しい帳簿と執務メイドの導入効果は大きい。貢献度が高いのは明らかだな」
「祖父様、最初に膨大な資料を仕分けしてくださった本邸の使用人たちもいるのです。どうかお戻りになられたら、彼らにもお褒めの言葉を掛けてくださいませ。実際に仕分けに加わっていない使用人たちも、少人数で城内のお仕事を動かしてくれました」
「ほうほう。そうだったか。では私の私財から、全員に特別賞与を渡すとするか」
レベッカはそっとサラに近づき、耳元でこっそりある言葉を囁いた。静かに頷いたサラは、トコトコとロバートに歩み寄って優雅なカーテシーを決めた。
「お仕事お疲れさまでした。どうか、これからもグランチェスター領のため、頑張ってくださいませ。それと、私のような小娘を信じてくださったことにも感謝いたします。お父様」
「サラ! 今なんて言った?」
「お父様、お仕事お疲れさまでした?」
次の瞬間、ロバートは両目からダバダバと涙を流した。これにはサラもちょっと引く。
「え、なんで?」
慌てるサラをロバートが抱え上げ、そのままギューッと抱きしめてオイオイ泣き始めた。
「サラが僕の娘になったよぉぉぉぉ」
「ロブ、サラさんのドレスが汚れちゃうから、せめて鼻水は拭きなさい」
レベッカはそっとハンカチを差し出す。見れば、そこにはロバートの名前が刺繍されていた。
この世界の貴族の習慣として、貴族女性が刺繍を入れたハンカチをプレゼントするのは、相手に好意を持っているという意味がある。ハンカチは親しい間柄や、友人にもプレゼントするものなので、ありきたりな贈り物と言えないこともない。ただし、相手の名前を堂々と刺繍するとなると意味が大きく異なってくる。基本的に名前を刺繍する行為は家族にしか許されておらず、母親、姉妹、娘、そして妻や婚約者でなければ男性の名前を刺繍することはない。例外は家族からの依頼を受けて代わりに刺繍する使用人くらいである。そうでない女性が男性に名前の刺繍を入れたハンカチを贈るのは『あなたの妻になりたい』という大胆なプロポーズを意味する。そのため、男性が女性から自分の名前が入ったハンカチを受け取るということは、相手の気持ちを受け入れたという意味になるのだ。その気がない場合には、その場で贈り物を返さなければならない。貴族家の男性は女性からプレゼントを受け取った際、包装されていたとしても必ずその場で中身を確かめるのがマナーだ。うっかり自分の名前が刺繍されたハンカチを受け取ってしまうと、プロポーズを受け入れたと見做されてしまうためである。
ちなみに、うっかり自分の名前が刺繍されたハンカチを男性が落としてしまい、それを別の女性が拾ってしまった場合、女性は自分をエスコートしてくれている男性にハンカチを返すよう依頼しなければならない。これは淑女教育の初歩に含まれる内容である。その場に他の男性がいない場合には、ハンカチを落とした旨を相手に伝えて一度テーブルや床にそっと置き、女性はその場を立ち去るか後ろを向いていなければならない。実に面倒である。
「レヴィから初めてもらった名入りのハンカチで鼻水なんて拭けないよ」
「馬鹿ね。刺繍くらいこの先いくらでもやってあげるから拭きなさい」
「むりぃ。これは宝物にするぅ」
「仕方ないなぁ、もう」
サラは自分のハンカチをロバートに差し出して、涙を拭いた後に鼻に当てた。
「もう拭いちゃいましたから使ってくださいね。お母様からいただいたハンカチは大事に箱にでも仕舞っておいてください」
「そうするぅぅ」
この情景を文官やメイドたちはほっこりと見つめていたが、侯爵は自分の息子の醜態に頭を抱えた。ジェフリーは腹を抱えて笑いたいのを必死に堪えているため、肩がプルプル震えている。
そこに台車に積まれたエルマ酒の樽と二瓶のエルマブランデー、そしてエルマの搾り汁が届けられた。さすがにマリアが運べる重さではないため、男性の使用人が運んでくれたようだ。
「エルマブランデーをお持ちしました。エルマ酒の方はロバート様とレベッカ様、そして養女になられるサラお嬢様へのお祝いとして、フランさんのお母様からの贈り物だそうです」
「ではフランさんのお母様がお造りになったものなの?」
「そう伺っています。エルマの搾り汁は、搾りたてだそうですよ。先ほど届いたばかりでしたから」
その様子を見ていた侯爵は大きな声で宣言した。
「よし、今日の仕事はここまでだ。皆、遊戯室で飲むぞ。食事もこちらに運ばせろ!」
部屋に一斉に歓声が上がった。