「エレノア。しっかりと交流を深めるのよ」
『はぁ。この子気味が悪いのよね……他の家の子もそうなのかしら』
「我が家の恥とならないようにしっかりとするのだぞ」
『見た目はこの上なく美しいというのに、ぐずな娘だ』
両親の言葉に、私は小さく返事をする。そして同じ馬車に乗って王城へと向かった。
前世の記憶がある上に、心の声が聞こえるという能力を持つ私は最初のころこそ、その生活に慣れずにいたけれど、十年もたてばさすがに慣れる。
ただ、両親に愛されていないということは前世の記憶があっても、胸にぽっかりと穴が開いているように感じた。
心の声さえ聞こえなければ、外面の良い両親に愛されていると思えたかもしれない。
けれど、全部聞こえてしまっているので、勘違いすることはできない。
馬車の中では、両親の心の声がずっと響いて聞こえていた。
『気味の悪い子。はぁ。見た目はいいのに、どうしてこうも暗いのかしら』
『もっとはきはきと出来ないのか? あぁ、男の子ならよかったのになぁ』
『はぁ。どうしてこんな子産んだのかしら。もっと出来の良い子ならよかったのに』
『俺に全く似ていないではないか。まさか俺以外の子なんじゃないだろうな。はぁ。そんなわけがないか……そうであれば離婚出来るというのになぁ』
似た者同士の夫婦だなと、常々思う。
私は外面だけはいい両親と共に王城に着くと、頭の中いっぱいにたくさんの人の声が流れ込んでくるのを感じた。
心の声が、頭の中で渦巻く。
前世の記憶を引用するならば、テレビやスマホやゲーム機を同時に大音量でつけているような状況である。
気分が悪くなるほどの音の激流であった。
けれど年数を重ねるごとに、この能力との付き合い方もわかってきてはいた。
それでも、大丈夫かと尋ねられれば大丈夫ではなかった。
うるさい。静かにして。何度もそう思った。
聞こえてくる人の声、自分に向けられる苛立ち、それらは私を疲弊させるのには十分であった。
だからあまり公の場に出たくはないのだけれど、公爵令嬢として生まれた以上は仕方がない。
私は、早く終わることを祈りながら馬車に揺られていたのであった。
そして、私は現在、泣きそうな状況に立っている。
「嫌になるわ。私。もう、本当に嫌」
ぐすぐすと呟きながら、私は王城の庭で道に迷って泣いていた。
王城の中は広くて、庭の同じところをぐるぐると回っているようであった。
十歳になった私は、今日は王城内で開かれたお茶会に参加していたのだけれど、いじわるな男の子達に追いかけまわされて、道に迷ってしまった。
大人達は別の場所でお茶を楽しんでおり、子ども達だけの集まりとして庭でお菓子を食べたり、遊んだりする場が用意されていた。
子ども同士の交流の場として開かれた場所だったのだけれど、貴族の令嬢や令息とはいえまだまだ子どもである。
基本的にはいい子の仮面を被ってはいるが、男の子達に目をつけられた私は、何故かずっと追い回されることになったのだ。
「おい。どこにいった?」
『見失った!? え!? 僕が一番に見つけるんだ!』
「はぁぁぁ。どこにいったんだよ」
『他の連中に見つかる前に俺が絶対に見つけてやる!』
また声が聞こえてきて、私は木の陰に身をひそめると、小さくなって声が遠ざかっていくのを待った。
最初男の子達は何も言わずに無言で近づいてきたかと思うと、小突いてきたり、さりげなくスカートを引っ張ったりしてきた。
子どものすることだからと我慢をしていたけれど、次第にそれはエスカレートして私を追い回し始めたのだ。
しかも頭に響いてくる心の声では、私のことを絶対に捕まえるとか、一番に見つけてやるとか、捕まえたら逃がさないとかそんな考えが渦巻いている。
早くどこかへ行ってくれないだろうかと、小さくなっていたが、声が近くなってくる。
見つかりたくない。そう思った時であった。
風が吹き抜けていったかと思うと、植木の間に小さな穴がある事に気が付いた。
「こっちかなぁ」
『絶対捕まえてやる』
私は捕まって何をされるのかも分からず怖いので、その穴の中へと駆け込んだ。
その瞬間、光が眩しいくらいに輝いた。しばらくして、目を開けると、そこは広々とした小さな丘になっており、色とりどりの花が咲き誇っていた。
「わぁぁ」
風によって花弁が舞い上がり、甘い香りが風に乗って流れていく。
「綺麗……」
私はそう呟いた後、男の子達に見つかっていないだろうかと後ろを振り返ると、先ほど入ってきた穴はなくなり、男の子達の声も聞こえなかった。
「え?……おかしいわ」
辺りを見回すけれど、誰もいない。
違う意味で怖くなってきたけれど、そこは本当に美しく、私はしばらくの間ここで時間をつぶすことにした。
道に迷った以上、結局誰かに見つけてもらわないと帰れない。
それならば一人でここにいてもいいだろう。
それに何より、とても心地の良い静けさだった。
「……こんなに静かなのは久しぶりだわ」
空を見上げると青々とした空に、雲がのんびりと流れていく。
遠くの方から鳥の鳴き声や風が吹いて木々が揺れる音が聞こえるが、音と言えばそれくらいであった。
「気持ちいい。静かなの、久しぶりすぎて……幸せだわ」
毎日煩いくらいに他人の声が聞こえてくる。それによって私はかなり疲れていた。
独り言ちながら、誰もいないしいいかとその場に座って空をじっと見つめる。
その時であった。枝を踏む足音が聞こえ振り返ると、赤髪の男の子がこちらを見て驚いた表情を浮かべて止まっていた。
「わぁ。ここに人が入って来られるなんて、びっくりだよ」
男の子はそういうと私に向かって歩いてくる。
また追いかけられるのかと思ったが、男の子にそうした気配はなく、また何故か心の声も聞こえなかった。
「君、名前は? どこから来たの? ここってね、普通は入ってこられないんだよ。君、すごいねぇ」
男の子は当たり前のように私の横に座った。その見た目と服装から私はもしかしてと思いながら、聞かれたことに答えた。
「エレノア・ローンチェストと申します。公爵家より参りました」
「ん? あー。君がエレノアかぁ。あ、丁寧にしゃべらなくて大丈夫だよぉ。ここは秘密の花園だから」
「え?」
「秘密の花園! 僕はアシェル。ここではね、ただのアシェルなんだ。だから素性は関係ないよ。エレノア、ここはね精霊の庭でね、僕とか、君もかな? ちょっと疲れたら精霊が休憩すれば~って開けてくれるんだよ。それでね、ここでの記憶は、ここを出たら忘れちゃうんだ」
「え? 忘れるのですか?」
一体どういうシステムなのだろうかと思っていると、アシェルは言った。
「そう。休憩のための避難所みたいなものだからね。ここに入ったら思い出すけど。ふふふ。エレノアも疲れたんだね~。ふふふ」
笑うアシェルに私も思わず笑い返す。十歳なのにお互いに疲れているだなんて、おかしなことだと思う。
恐らく第一王子殿下だろうという思いはあったけれど、本人がただのアシェルだというのだからそこは尋ねない方がいいのだろう。
「アシェル様は」
「アシェルでいいよ。それにここでは身分も関係ないから敬語もいらないよ」
「えっと。うん。わかったわ。あの、アシェルはここによく来るの?」
アシェルは肩をすくめてみせると言った。
「うん。だって僕ってば疲れることばっかりなんだ! だからさ、ここでは我慢せずにしゃべるし、思ったことは全部言うよ。ふふふ。僕ってさ、実は外ではかなりの猫かぶりなんだ。だからここでは猫被るのもしないんだよ」
「まぁ! ふふふ。大変なのね」
「そうだよ。本当にさ、皆ってばいつも僕に理想を押し付けてくるんだから。まぁ、別にいいんだけどね。エレノアは?」
「私は……男の子達に追いかけまわされて、逃げていたらここに来てたの」
「追いかけまわされた? あー。なるほどね」
アシェルはにやりと笑うと言った。
「エレノア可愛いから、皆君と仲良くなりたかったんだろうね」
「え?」
私は驚いているとアシェルは笑いながら言った。
「うん。君ってすっごく可愛い。美人だよね。僕が見てきた誰よりも美人で可愛い! だから皆、君と仲良くなりたくなっちゃうんじゃない?」
「そう、なの? 分からないけど……それなら、追いかけまわすんじゃなくて友達になろうって言ってほしいわ」
そう思わず言うと、アシェルはまた大きな声で笑った。
「あはははは! 可愛い女の子に声をそのままかけるのも、勇気いるし、ついちょっかいを出したくなるんだよ。まぁ僕の場合はそんなこと出来る立場じゃないからやらないけど」
そういうとアシェルは立ち上がり、葉っぱを手で払うと私に手を伸ばした。
「向こうに小川があるんだ! 一緒に遊ぼう!」
「え?」
私がどうしようかと迷っているうちにアシェルは私の手をグイッと引っ張ると立たせて、走り出した。
足がもつれそうになりながら、アシェルに手を引かれて私は花々の中を走る。
「こっち! ここでは遊んだもの勝ちなんだ! 行こう!」
「ちょっと! 待って!」
「ははは! ここで誰かと会うなんて初めてだから嬉しいや! ほら、こっち! 紹介したい場所はたくさんあるんだ!」
アシェルが連れてきてくれたのはとても美しい小川であった。中を覗いてみると、色々な色の魚が気持ちよさそうに泳いでいる。
そしてよくよく見てみれば、川底には金色の砂があり、光をキラキラと反射させていた。
「ここには美しいものがたくさんあるのね」
そう伝えて顔をあげると、なんとアシェルが着ていたマントを脱ぎ、シャツと短パンだけになっていた。
「まぁ」
「エレノアもこっちにきて一緒に水で遊ぼうよ。気持ちいいんだよ」
そう言われても、私が着ているのはドレスであり、そう簡単に脱げるわけがない。それに脱いでしまえば下着になるわけで、まだ子どもとはいえ、人前で肌着をさらすわけにはいかないという思いがあった。
「えっと……」
「あー。女の子だもんね。なら、足だけでもつけたら? 気持ちいいよ」
そう言われ、私は足だけならいいかもしれないと、靴と靴下を脱ぎ、ゆっくりと足を水に浸した。
「冷たっ!」
思っていたよりも水は冷たかった。
私の声を聴いてアシェルは大きな声で笑っている。
最初こそ冷たかったけれど、水にしばらく浸していると慣れてくる。
「冷たいけど、気持ちいいわ」
「でしょう? 僕もここで遊ぶのは大好きなんだぁ~。ほら、見てて!」
そういうとアシェルは川底から金色の砂を持ち上げて、さらさらと水へと落としていく。
太陽の光を反射して美しく光る。
「すごく綺麗!」
「うん! それにね、冷たくて気持ちいいし、さらさらしているんだよ。ほら、手を出して」
「えぇ」
アシェルが川ぞこの砂を持ち上げると、私の手へとそれを落とした。それは冷たくて、それでいて触り心地の良いものであった。
「不思議」
「まぁ、精霊の秘密の花園だからね」
「秘密の花園?」
「そう。最初にね、精霊に出会って教えてもらった。何でも、子どもの時にしか入れなくて、記憶にも残らないんだって。不思議だよね」
「うん。本当に不思議。でも、来られてよかった。アシェルは精霊に出会ったのね。うらやましいわ。精霊ってどんな姿だったの?」
その言葉にアシェルは肩をすくめた。
「さぁ。会ったのは覚えているけれど、姿は覚えていないんだ。夢みたいな感じ。本当におかしなところだよねぇ。むぅ。覚えていられたらいいのになぁっていつも思う」
「覚えていないのに来れるの?」
そういうとアシェルは小さく息を吐いてから私の横へと座り、足で水をぱちゃぱちゃとしながら言った。
「ほら、人間って限界があるでしょう? んーとさぁ、僕って本当に外面がいいんだよぉ。それでさぁ、だからー。うん。それでどうしようもなくなるとここに来るんだ」
アシェルが足で水を蹴り、しぶきが上がる。
私はそれを見つめながら、小さく頷いた。
それ以上アシェルは何も言わずにしばらくの間水で遊んでいた。私も水をぱちゃぱちゃと鳴らしながら、二人で静かな時間を過ごす。
静かな時間が心地よかった。
「アシェルは頑張り屋さんなのね」
「え?」
私は水の中を泳いでいく魚を目で追いながら言った。
「だから、精霊もアシェルのことを心配して、ここに招いてくれたのだと思うわ」
アシェルは、私の言葉に少し照れくさそうに顔を背けた後、私の方へと今度は顔を向けてにっと可愛らしく笑って言った。
「それを言うなら、エレノアはきっと精霊に本当に好かれているんだろうね! だって、王族以外を精霊が招いたなんて話聞かないもんなぁ~。ふふふ。エレノアが可愛いから精霊も招いちゃったのかな?」
「まぁ。そう言ってもらえてふふふ。嬉しいです」
その言葉にアシェルはまた笑い、私達はしばらく笑い合った。
「あーあ。外に出てもエレノアのこと、覚えていられたらいいのに」
「私もアシェルのこと、覚えていられたらいいのになぁ」
私達は笑みを交し合う。
一緒にいて心地のいい相手に初めて出会ったような気がした。
けれど、時間はあっという間に過ぎていってしまい、終わりの時間はすぐにやってくる。
咲き誇っていた花の花弁が閉じ、そして空にはいつの間にか美しい月が昇る。
「あー。終わりかなぁ」
「夜? もうそんな時間なの?」
アシェルは首を横に振った。
「違うよ。そろそろ帰る時間だよっていう合図。エレノア。ありがとうね」
「……そうなの。うん。アシェル。ありがとう」
私達は、握手を交し合った。
星が瞬き輝いた。
私は目を開けると、男の子達の声に肩をびくりと震わせた。
「どこだ~? おかしいな」
『わぁぁぁ。どこにいったんだよぉ!』
男の子達が近くにいると思い、その場から離れようと思った時だった。
「見つけた!」
『こんな所にいたのか! この機会を逃したらもう会えないかもしれない! 逃がさない!』
一人の男の子と視線が合い、私は立ち上がると逃げようとしたのだけれど腕を掴まれそうになる。私は思わず目を伏せて縮こまった。
怖かった。
子どもとはいえ男の子の力は強く、いじめられるのだろうかという恐怖を抱いた時であった。
「君達。女の子に対して何をしているのだい?」
『あー。怖がっているじゃないか。それも分からないの? むぅ。可愛い女の子を追いかけまわしたくなる気持ちはわかるけどさー。それはダメだよぉ』
優しい声だなと思った。どこかで聞いたことがあるようなその声に、私は何故だろうかと思う。ゆっくり目を開くと、目の前に私を守るように男の子が立っていた。
「第一王子殿下! あ、えっと……申し訳ありません。少し話がしたくて」
『可愛い女の子だったから、絶対名前聞きたくって追いかけまわしてたとか、かっこ悪くて言えないし! あぁ! タイミングが悪いよ!』
私は、本当にそれだけだったのだろうかと、今まで逃げ回っていたのが急に馬鹿らしく思えた。
それよりも第一王子殿下と呼ばれたということは、第一王子のアシェル殿下だろうかと私はちらりと見上げた。
「そうかい。失礼だけれど、もう少し丁寧に接する練習をすべきだよ」
『はぁ。可愛いもんねぇ。でもさぁ、かっこ悪いよぉ。あー。どう収めるべきかなぁ』
アシェル殿下は私に視線を移すと、優しく手を差し伸べて言った。
「ご令嬢。そろそろお茶会も終わる頃合いでしょうし、ご両親のところまで案内します」
『もう家に帰してあげるのが正解でしょう。あー。可愛い女の子だから追いかけたくなる気持ちはわかるけど、ちょっと方法が悪すぎるよ。怖がっているじゃないか。むぅ。ちょっと怖がらせるのはダメだよ!』
「あ、ありがとうございます。第一王子殿下」
男の子はアシェル殿下に注意されたことで顔を青くしている。
私は良いのだろうかと思いながらアシェル殿下のその手を取り、そしてその場を後にした。
手が触れた瞬間何かを思いだしそうだったのに、忘れてしまった。
アシェル殿下は同じ年とは思えないほどに落ち着いていた。ただ、心の声は少し面白い子であった。
『さぁ、大人達のお茶会はどうかなぁ~。お父様とお母様には、今回のお茶会には顔を出さなくていいって言われていたのに、顔出すことになっちゃったなぁ~。まいっかぁ』
王子とはいえ、子どもなのだなぁと心の声を聴きながら思っていると、不意にアシェル殿下がこちらをふりかえってきた。
「エレノア嬢。今日は楽しめましたか?」
『どうだったのかな? もしかしてずっと追いかけられてた? それなら、楽しめたどころじゃないよねぇ』
私は楽しめてはいないけれど、それを言うのもいけない気がして頷いた。
「はい。楽しませていただきました」
アシェル殿下はその言葉にじっと私のことを見つめてくる。
『あー。これはやっぱり楽しめてなかったやつだ。うーん。そうだ』
「エレノア嬢。少し寄り道をしましょう。こっちです」
「え?」
アシェル殿下に手を引かれて私が着いた場所は、小さな料理場のような場所であり、そこで一人の少年が何かを作っていた。
「ハリー! お菓子ちょうだーい」
『また今日も作ってるよ~。よく飽きないよなぁ~』
ハリーと呼ばれた方は、可愛らしい花柄のエプロンと三角巾をつけており、丁度オーブンから何かを取り出したところのようであった。
キッチンの中は甘い香りで満たされていて、私は一人で男の子がお菓子作りをしていることに驚いていた。
『……人形?』
人形とは何だろうかと思い、ちらりとあたりを見回しても人形らしいものはなく首をかしげると、ぎょっとした顔をハリー様は浮かべた。
『!?』
その様子を見て、首をまたかしげざるを得ない。
「アシェル殿下。お菓子ですか? はい。そちらに焼きあがったものがありますので。あ、でも少しお待ちください。私が先に毒見をしますので」
ハリー様はそういうとこちらへとお菓子を盛った籠を持ってきた。そしてそれを一つ自分が食べてから、アシェル殿下に手渡した。
「あの、それで、そちらの方は……どなたですか?」
『人形』
「ん? ローンチェスト家のエレノア嬢だよ。お菓子をあげようと思って。ハリーなら今日はお休みだって聞いてたし、ここにいるかなって」
『甘い香り~。おいしそう』
もしかして人形と呼ばれているのは私の事だろうかと思うけれど、私はれっきとした人間である。
私は頭を下げて一礼をすると、挨拶をした。
「ローンチェスト家から参りましたエレノアでございます。よろしくお願いいたします」
「アシェル殿下の側近をしていますハリーです。僕の手作りで良ければどうぞ」
「手作り……すごいですね。ありがとうございます」
アシェル殿下は手際よく皿を準備すると、ハリー様の作っていたクッキーを並べていく。
二人の連携力は素晴らしく、私が何もできないでいる間に、さっと紅茶の準備までしてしまった。
「エレノア嬢。こちらへどうぞ」
『さぁ食べよう! 食べたらさっきの嫌なことなんて忘れるさ』
「紅茶もどうぞ」
『人形』
「何もお手伝いできずすみません。あの、ありがとうございます」
アシェル殿下もハリー様も私が準備を手伝えなかったことなどまったく気にしていないようであった。
そして、二人に促されるままに私はお菓子を食べた。心の声は聞こえるけれど、三人の時間はとても穏やかで、久しぶりにゆっくりと過ごすことが出来た。
「とても美味しいです」
そう伝えると、ハリー様ではなくアシェル殿下が自慢げに言った。
「ハリー。本当にお菓子作り上手なんだよ。すごいよねぇ」
『ふふ。笑ってくれて良かったぁ』
私は、今日は王城に来てよかったなと、心からそう思った。
アシェル殿下はとても優しくハリー様は何を考えているのかよくわからない人だった。
一緒に過ごす時間がこれほどまでに楽しいと思える人と出会ったのは初めてで、私はまた会いたいなと思った。
その後アシェル殿下には両親のところまで案内してもらい、両親からは、よくぞアシェル殿下と知り合いになったと喜ばれた。
私は、その日の夜今日の事を振り返りながら鏡の前でアシェル殿下は優しかったなと思い出していた時、何かを忘れている気がした。
だから、じっと鏡に映る自分の顔を見つめていた。
何かを思い出せそうで、でも思い出せない。
なんだろうかと思った時であった。
「え?……エレノア……エレノア?」
私は衝撃を受け、頭が痛くなった。エレノアという名前、美しい顔、そしてこの国の名前。
全てが記憶の中のアプリゲームと一致していく。
「そんな……」
鏡に映る少女が、自分ではないキャラクターへと姿を変える。
「エレノア……悪役令嬢……エレノアなの?」
自分の顔を両手で触り、そして私はその日倒れ、三日三晩うなされたのであった。
そして、私はベッドの上で目が覚めた。
起き上がり、しばらく私は目をぱちぱちと瞬かせ、そして両手で顔を覆うと、ゆっくりと息を吐いていった。
「はぁぁっぁぁっぁ。私、なんで忘れていたのかしら」
幼い日の頃の夢を見た私は、ベッドから起き上がると鏡の前へと移動し、そしてそうだったと思い出す。
十歳の頃にあった王城でのお茶会。あの後、アシェル殿下に親切にしてもらったことに感謝した後、鏡に映った自分の姿、そしてアシェル殿下の名前に何か思い出せそうなのに思い出せないと、悩んだのだ。
そして、私は思い出し、気づいたのだ。
自分が悪役令嬢のエレノアにそっくりだということに。
それが衝撃的すぎて今の今まで幼い頃にアシェル殿下とハリー様に出会っていたということもすっかり頭から抜け落ちていた。
これまで忘れていたことにも驚いたが、突然思い出したことにもびっくりしてしまう。
「アシェル殿下は覚えているかしら?」
そう呟き、そして、今の今まで忘れていた自分が恨めしくなる。
けれど、瞼を閉じると、先ほどの夢が頭をよぎった。
「はぁ。……幼い頃のアシェル殿下も……とっても優しかったわ」
思い出してよかったと思いながら、エレノアは朝の支度を侍女と共に始めた。そして朝食を食べるために中庭を通る廊下を歩いていた時だった。
花の香りが鼻先をかすめ、ふと、足を止めた。
「……何かしら。何かもう一つ、忘れている気がするのだけれど……」
思い出そうとしても、思い出せない。
けれど何故か、花の香りを胸いっぱいに吸い込むと、懐かしさを感じた。