私は真っすぐに音の主がいるであろう木の上を指さした瞬間、男が焦った様子で動く気配を感じた。

『なっ!? 何故わかった!?

アシェル殿下が指示を出し、護衛が弓で木の上を射った。その瞬間、男は木の上から飛び降りると、口許にある笛を歯で噛んでにやりと笑った。

鳶色の瞳と、薄暗い灰色の髪の毛。

貴族に見えるように服装は正装で整えられているが、その腰には剣が携えられている。

そればかりではなく、腰のベルトには短剣もいくつもついており、明らかに不審者である。

男は前髪をかき上げながら、口に咥えていた笛を離すと言った。

「はっ。まだ何か秘密があるな? さすがは、傾国だなぁ」

『なんだ? 何故場所がわかった? ただの転生者じゃないのか』

騎士達は男を取り囲むが、男に焦った様子はない。

アシェル殿下が私を担ぐ手に力を入れたのが分かり、緊張しているのが伝わってくる。

「あー。こうなっては、今回は無理か。一旦引くかなぁー」

『ふふっ。なわけあるか。エレノアを連れていく!』

男は笛を吹き、次の瞬間木々の陰から獣人達が飛び出してきた。

これほどの人数の獣人をどうやってこの王城へと引き入れたのか。

私は声をあげた。

「どうやってこの獣人達を連れてきたのですか!」

「ん? 内緒」

『チェルシーから抜け道の地図はもらっている。隠し通路も、王族すら忘れている道も全部な』

私はどれだけチェルシー様は王城の中をゲームで探索したのだろうかとその記憶力に驚くばかりである。私の場合は、ただ楽しんでいたが、チェルシー様の場合は本格的に攻略し、そして探索していたとしか思えない。

そんなチェルシー様だからこそ、城の内部を自由に行き来できたのだろうし、竜の国を亡ぼすことも出来たのかもしれない。

けれど、この国に生きている人たちが苦しむ為に、自分の知っている知識を使うことなどあっていいはずがない。

獣人達は唸り声をあげ、涎を滴らせながらこちらを睨み付けてくる。

外側だけ見れば、獣人達は獰猛に襲い掛かってきているように見えるだろう。けれど、心の内は違う。

操られていることに苦しんでいる。

嘆き、悲しんでいる。

私には獣人達の心の中の悲鳴すらも聞こえてきていた。

『やめてくれ』

『これ以上、人を傷つけたくない』

『いっそ殺してくれ』

『あぁぁぁ。もう、嫌だ。嫌だぁ。痛い。苦しい。死ぬ』

操られているからこそ、自身が怪我をしないように動くことすらできない。痛みと苦痛、そして他人を傷つけることに対する罪悪感。

私はこぶしを握り締め、悲鳴のようなその声に、涙が出そうになるのを必死にこらえた。

「エレノア。こっちに来いよ。お前さえくれば、この獣人達も解放してやるよ」

『これからは豪遊しながら暮らしていけばいい。獣人はもう捨て駒だな』

非道な男の声に、私は涙を堪えたまま男を睨み付けると声をあげた。

「貴方のような方の元へは死んでもいかないわ!」

「エレノアは僕の婚約者だよ。お前のような極悪非道な男に渡すわけがないだろう!」

アシェル殿下の言葉に、私は嬉しく思いながら、男の心を読む。

『獣人を盾にして、この先にある隠し通路にエレノアと共に入れれば俺の勝ちだな』

「この先にある隠し通路に私は貴方とは行きません!」

心の声が聞こえた瞬間に反応した私に、男の表情が固まる。

私ははっきりと言った。

「貴方が逃げ切れることはないわ」

心の声を頼りにすれば、絶対に貴方を見失うことはない。

私は男を睨み付けた。

「男を捕らえるぞ」

アシェル殿下の言葉に騎士達はうなずき、剣をかまえ、獣人達を薙ぎ倒していく。

男の笛の音に操られた獣人達はこちらに襲いかかってくるが、洗練された騎士達はアシェル殿下と私を守るように戦い、獣人の柔軟な戦い方にもすぐに対応すると、戦い方を乱されることなく、剣をふるう。

「エレノア! しっかり掴まっていて!」

「はい!」

私はアシェル殿下にしっかりとくっつく。本当ならば私を下ろした方が戦いやすいだろうが、アシェル殿下は私をしっかりと抱えていた。

「妬けるなぁ。エレノア。来いよ。お前を絶対に幸せにしてやるから」

『どんな能力があるかは、後で確かめればいい。とにかく攫う!』

男の言葉に私は返事を返す。

「嫌です!」

次の瞬間、痺れを切らしたように男はアシェル殿下に攻撃を仕掛けようと、獣人を盾にして近づく。

騎士達は獣人を止めたが、男を止めることが出来なかった。アシェル殿下は男の剣を自身の剣で受け止めると言った。

「諦めろ! 逃げられはしない」

『くっ。獣人を傷つけずには無理だ』

獣人達は自身がいくら傷を負おうと、操られるままに痛みを無視して戦い続ける。

それは見ていて痛々しく、アシェル殿下の悔しさが私にも伝わってきた。

獣人達の苦しみが分かる私は、どうにかこの状況を打開できないかと考えを巡らせ、視線を獣人を操る笛へと向けた。

あれさえあれば、獣人達だけでも止められる。

『くそっ! ええい! こうなれば獣人が何人死んでも構わん! 俺の盾となれ!』

獣人達がアシェル殿下の前へと、飛び込んでくる。

アシェル殿下は切るのを躊躇った。

その瞬間男が剣を振り上げアシェル殿下へと振り下ろす。

「させないわ!」

私は両手を広げてアシェル殿下を守ろうと男へと飛びかかった。

「なっ!?

『くそっ!』

「エレノア!!!」

男は剣を止め、私の体を片腕で受け止める。

私はその瞬間、男の首からかかる笛を奪い取ると、勢いよくそれを吹いた。

獣人達は動きを止め、私は笛を出来るだけ遠くに向かって投げる。

「エレノア! さっすがぁ!」

笛を受け止めたのは妖精のユグドラシル様であり、ユグドラシル様はその笛に魔法を込めて粉々に壊した。

その瞬間、笛に込められていた魔法が砕け散ったのか、強風が吹き抜けていった。

「くそがぁ!!!」

男の声が響いた時、ユグドラシル様はにやりと笑うとパチンと指をならす。

「さぁ、報復される覚悟はある?」

『獣人達はかなりご立腹よ! 服従の笛が壊れたのだから、やっと戦えると、意気込んでいるでしょうね!』

魔法なのだろう。突然扉が光に包まれて出現すると、そこから甲冑を身につけた獣人達が颯爽と現れた。

「同胞を傷つけた者を捕らえよ! 怪我をした者達を救出せよ!」

『逃がさんぞ! 同胞の仇を取る!』

獣人達を指揮するのは、獣人の国の王弟であるカザン様であり、こちらにちらりと視線を向けるとウィンクしてきた。

一体何がどうなっているのか、私には分からなかったけれど、それでもどうにか男の腕から逃げ出さなければと身をよじった。

甲冑を身に纏ったカザン様の指揮により、操られていた獣人達は次々と押さえつけられ、身柄を次々に拘束されていく。

笛が壊れたことで放心状態となった獣人達は自分自身に起こった出来事を理解出来ていないような表情を浮かべている。

けれど、自分の体が自分の意思で動くようになったことに気付いた者からその場に膝をつき、涙を流している。

私はとにかく操られていたことから解放されてよかったと思った。

獣人達の心の声は、悲鳴が消え、解放された喜びを伝えてくる。

男の腕はぎゅっと私の腰を抱き、そして、私の耳元で囁いた。

「言っておくが、獣人はまだまだ捕らえている。中には子どももいる。ふっ。俺についてくる気になったか?」

『脅したくはないがしょーがねーな』

その言葉に、私は驚くと男を見た。

『本当に美しいな。宝石みてーだ』

獣人を物のように扱い、命を軽く見ている男に私はぞっとした。

それと同時に、自分が一緒にいけば幼い命を救えるかもしれないということに、私の気持ちは揺らぐ。

行きたくはない。

けれど、行かなかった時に本当に他の獣人を救えるかどうかはわからない。

どうすればいいのか、私が戸惑った時だった。

『エレノア!』

アシェル殿下の私の名を呼ぶ声が、一際大きく聞こえた。

視線を向けると、アシェル殿下と視線が交わった。

「アシェル殿下……」

絶対に、私を信じてくれる。

私を助けてくれる。

そして、アシェル殿下はきっと獣人の子ども達についても最善を尽くしてくれる。

たとえ男についていったとしても、本当に獣人がいるのかも、また、解放されるのかも保証はない。

それならば、私が選択するべきなのは、アシェル殿下を信じる道だ。

「アシェル殿下ならば、貴方がどんな企みをしていようとも、きっと他の獣人の子ども達も助けてくれるわ」

「はっ!? それはどうかな?」

『無理やりにでも連れていく!』

男は片腕で私を担ぎ、アシェル殿下の剣を受け止めると押し返す。

男の仲間達もその場に現れ、鋼がぶつかり合う音が響いた。

けれど明らかにこちらが優勢であった。

私はもがき、男の腕から逃れようとするが、男の力になすすべもない。

こういう時、自分の非力さが嫌になる。

『とにかく、隠し通路へと逃げるが勝ちだな』

男の声にぞっとする。

けれど、すぐに聞こえたアシェル殿下の心の声に、私は落ち着きを取り戻した。

『エレノア! 大丈夫だよ! 絶対に助けるから無理に暴れないで! 怪我したら大変だから!』

私はうなずく。恐怖を感じながらも何も出来ない自分に嫌気がさす。

その時、私は、はっとした。

『絶対にエレノアを助けるんだ!』

『恩人を攫われるわけにはいかん! 息子達に顔向けが出来んわ!』

『エレノア! 大丈夫よ! 妖精に不可能はないわ!』

今まで、心の声が聞こえることは、私にとって苦痛でしかなかった。

心の声というものは、私にとって恐怖であり、そして欲をありのままに送りつけられる、苦痛なものであった。

けれど、今、私の心に響く声は、今までに感じたことのない程、優しいものばかりだ。

傷つきながらも、自分を守ろうとしてくれる者の存在が私の心を強くする。

諦めない。

私は絶対にアシェル殿下の元へと戻るのだと、思った時であった。

『許さない』

「え?」

顔をあげ、空を見上げると、そこには恐ろしい形相でこちらを睨み付けるチェルシー様の姿があった。

『ずるいずるいずるいずるい』

チェルシー様の頭の中はその言葉で埋め尽くされており、私を仄暗い瞳でじっと見つめてくる。

『ヒロインは私、私、私……悪役令嬢なのに……お父様、お父様……なんで……』

バグが起こったかのように、心の声はひび割れている。泣いているような、悲鳴を上げているようなその心の声に、私の胸は痛くなる。

苦しんでいるのが、心の声を通して届く。

『あぁもう! チェルシー。邪魔だな』

それなのに、お父様と縋られている男は、まるで他人事のように冷ややかな声であった。

冷たくて、人間を人間とも思っていないような声は、今まで聞いてきた声のどれよりも冷ややかであり私は人間とはこうも他人に対して冷徹になれるのだと知った。

それなのに。

『お父様! お父様! 私、私、わ、私が……私はヒロインだから』

チェルシー様の声に涙が零れてしまう。

もし私が、チェルシー様の立場として生まれ変わっていたらどうだったのだろうか。自分はヒロインだという立場で、異世界というわけのわからない世界で。

もしもなんてことはない。

それに、自分の人生をどう歩むかは自分自身である。それは分かっている。結局自分がどう行動したかによって運命は変わっていくということは分かっている。

けれど。

「チェルシー様……」

涙が零れてしまう。

きっと彼女は大きな罪を犯し、たくさんの人を傷つけてきた。

時間は戻ることはないし、犯した罪は消えない。

けれど、今の彼女は悲鳴を上げて泣き叫んでいる。

チェルシー様の瞳からは黒い涙が零れ落ち、そしてその翼は大きく広がると、悲鳴と共にその身は黒い鱗に覆われていく。

「お父様! チェルシーを置いていかないで!」

「うるさい! お前は命令に従い、ここの奴らを全員殺せ!」

「いや、いやいやいやいや! なんでその女を連れていくの!? 違うでしょう!? お父様は、お父様にはチェルシーが必要なはずよ!」

そう言ってチェルシー様は男の元に一気に下降するとその腕に縋りついた。

「えぇい! 離せ! お前は他の奴らを全員殺せと命じただろう!」

「お父様。お願い! お願い! 置いていかないで!」

「うるさい!」

男に腕を振り払われた瞬間、全身に痛みと苦痛が広がっていったのだろう。

声にもならない悲鳴がうずまく。

そしてその姿は次第に化け物に変わっていってしまう。

人の心が薄れていく。

「おどうざまぁぁぁぁ」

縋りつくチェルシー様を男は振り払うと言った。

「命令だ! 他の奴らを殺せ!」

「あぁぁぁぁぁ」

チェルシー様は獣人、人間、敵味方関係なくその大きな翼から闇をまき散らし、薙ぎ倒していく。

そしてチェルシー様から生えた巨大な爪が私に向かって振り下ろされた時、私の目の前には、大きな翼をもった竜の王子ノア様が立っていた。

突然の登場に、私は唖然とする。

何故ここに?

ノア様は剣を引き抜くと、その剣は銀色に美しく輝いていた。

「今、楽にしてやる」

恨みがあるはずなのに、ノア様の声は優しかった。そして次の瞬間、チェルシー様の体を剣が貫く。

「ぎゃかぁぁっぁぁっぁっぁぁっぁぁっぁ」

『いややぁぁぁっぁぁっぁぁ』

悲鳴が響き渡った。

ユグドラシル様は今だとチェルシー様からあふれていた闇を光の弓矢で次々に打ち消し払っていく。

この隙にと男が私を隠し通路へと引きずり込もうとした時、アシェル殿下が私の腕を引き、そして男をけり倒した。

「くそっ!」

『逃げるしかないか!』

男は必死に隠し通路へと逃げようとしたのだが、そんな男の首をノア様は尖った爪のある手で持ち上げ、地面にたたきつけた。

私はアシェル殿下にしがみつきながら、男と、そしてチェルシー様へと視線を向ける。

男はノア様に押さえつけられており、チェルシー様は地面に倒れていた。

「あ……アシェル殿下……ちぇ……チェルシー様が」

「あぁ……」

真っ黒な血が、チェルシー様の周りに血だまりを作る。

肉が腐ったような腐敗臭が広がり、血だまりはごぽごぽと音を立てていた。

私は思わず、アシェル殿下の腕から抜け出て、チェルシー様の元へと駆け寄った。

「チェルシー様!」

「……ははっ……」

チェルシー様は笑っていた。

『なんでかなぁ……私、バカだから……あぁ……違うな……私は愚かだったんだ。自分のことばかりで、人が死んでも、現実じゃなくて、ゲームみたいで、だから、私は死ぬんだ』

どくどくと、黒い血がチェルシー様のお腹から溢れ出てくる。けれど、そのおかげか、黒い鱗に覆われていたチェルシー様の顔半分は、元に戻っていた。

その姿は歪であり、今、チェルシー様が息が出来ているのが奇跡と呼べるほどであった。

「チェルシー様……」

思わず私がチェルシー様の手を握ると、こちらをちらりと見て、苦笑を浮かべた。

『ずるいなぁ……こんな時でさえ、綺麗だなんて……あぁ、あー。お父様、大丈夫かしら……ふふっ。バカだなぁ。お父様は私のことなんて、疾っくの昔に見限っているのに。私だって捨て駒にすぎないんだから』

ノア様は男の足を切りつけた。

「やめろ! お前、お前! ふざけるな!」

「ふざけるなはこっちのセリフだ」

ノア様は冷静に男の身動きが取れないように足の腱を切った。

「うわぁぁぁ。っくそ。お前……お前、お前の同胞を殺したのは俺だけじゃない! 俺のせいじゃねぇ!」

男は声をあげるけれど、ノア様はそれを無視すると、男のうなじを剣の柄で叩き、気を失わせた。

「ぐっそ……」

『俺は、俺は……絶対に、エレノアを……』

その心の声を最後に、男は意識が途切れて、何の心の声も聞こえなくなった。

ノア様は私の方へと歩いてくると、チェルシー様を見下ろして言った。

「……生き残るか、死ぬかは、この女の気力しだいだ」

『禁忌に手を出すとは、愚かなものだな』

生き残ったとしても、罪から逃れることはできないだろう。私はそれでもチェルシー様の手を握ると、涙を流しながら叫んだ。

「頑張って。貴方は、貴方はちゃんと自分の罪と向き合うべきよ!」

この流れる涙は、チェルシー様に対しての憐みの涙ではない。獣人達の心の声が、ノア様の心の声が、私の心を酷く揺さぶった。

死んで罪から逃れるな。

「貴方は大罪を犯したのよ。それは、許されることではないわ」

私の言葉に、チェルシー様は笑う。

『知っているわよ……』

チェルシー様は悔しそうに顔を歪ませて、涙をこぼした。

『なんで……悪役令嬢のくせに……なんで……私は……私は何で……』

次の瞬間、チェルシー様の意識は途切れた。

「エレノア」

アシェル殿下は私の横に立つと、そっと支えて立たせてくれた。

「とにかく、一度安全な場所へ移動しよう」

『大変な舞踏会になったな……エレノア……大丈夫かな』

私はその言葉に小さく頷いた。

アシェル殿下は私のことを抱き上げ、ハリー様にその場を収束させるように指示を出した。

「大丈夫。エレノア終わったんだよ」

今になって震えが止まらなくなった私の背中を、アシェル殿下はずっと優しく摩ってくれた。

「はい……アシェル殿下、ありがとうございます」

「いや……うん。大丈夫。大丈夫だよ。さぁ、一度部屋に戻ってゆっくりしよう」

私はアシェル殿下に連れられて部屋へと戻った。その後は部屋に戻って安堵したからか意識が飛んでしまい、目覚めるとすでに朝日が昇っていた。

その後私は部屋に報告に来てくれたハリー様から、操られていた獣人達はカザン様の指揮の下、捕らえられ調べられることとなったこと、そして男の仲間だと思われる者達は捕まり牢へと入れられたことを聞いた。

男には名前がなく、自分のことをナナシだと名乗った。そして、今回の首謀者として捕らえられた。

チェルシー様は意識を失ってから現在も意識不明のまま眠り続けているのだという。

その体は、半身が腐りかけており、生きながらに苦痛が続いているだろう。

生きているのが不思議なほどだと、医者は言っていたそうだ。

アシェル殿下はその後カザン様達との話が終わってから私のことを心配して部屋に来てくれた。

それからしばらくの間、アシェル殿下とは他愛ない話をして過ごした。

私は、今回の一件を通して当たり前が当たり前ではないのだと、アシェル殿下と過ごす時間の大切さを感じたのだった。


ノア様は、本来ならばあの場には来られないはずだった。けれど妖精ユグドラシル様の手によって、獣人の事は獣人が、竜人の事は竜人が片をつけるのが道理であると呼び出されたらしい。

竜の国は滅ぼされてしまったが、その主犯であるナナシとチェルシー様を捕らえられたことで、ノア様は少しだけ報われたようなそんな表情を浮かべていた。

心の声も落ち着いていて、恨みに呑まれることなく前を向いているようで私はほっとした。

事件から数日が経ち、私はアシェル殿下と共に客室にてノア様と向かい合って座っている。

「ノア様……助けていただきありがとうございました」

そう告げると、少し困ったような表情をノア様は浮かべていた。

『恩を……少しは返せただろうか……それにしても、手を伸ばせばそこにいるのに、手が届かないな』

どういうことだろうかと小首をかしげると、横にいたアシェル殿下が私の腰に手をまわしてにこやかな表情で口を開いた。

「ノア殿のおかげで、エレノアを助けられた。本当に感謝する」

『ダメだよ。エレノアは僕のだ』

アシェル殿下の心の声に、内心ドキドキしながら、そんな心配必要ないのにと心の中で笑ってしまう。

「いや、本来ならば軟禁状態の俺が行くことは叶わなかった。エレノア嬢がユグドラシル様を元々助けたことが今回のきっかけ。俺としては同胞の仇をとれた。こちらこそ感謝しかない」

『この男のものでなければな……幸せそうな姿を見れば、気づいてしまったこの気持ちなど、無意味なものだ』

どういうことだろうかと思いながらも、その後話は進み、ノア様は元の屋敷へと帰っていった。どこか私を見つめる瞳が寂しげに見えたけれど、その心は前を向いており私はほっとした。

恨みでは人は前に進めない。

でも、きっとノア様ならばこれからちゃんと前を見て未来へと歩んでいけるだろう。

「ノア様は……きっと大丈夫ですよね?」

私がそう呟くと、横にいたアシェル殿下は少しだけむっとした表情で口を開いた。

「エレノア。あのね、他の男の心配はしなくていいよ」

最近のアシェル殿下は思ったことをそのまま私の前では口にするようになった。だから副音声のような心の声は聞こえないのだが、その代わり、私は首をかしげてしまう。

「えっと……私何か間違えましたか?」

「違うんだよ。そういう意味じゃないんだ。何ていえばいいのかな。男っていうのはね……いや、知らない方がいい。エレノアはそのままでいて。あぁぁぁぁ。僕って心が狭い男だよ。本当にさ!」

ぶつぶつと呟くアシェル殿下が可愛らしくて、私は思わず笑ってしまう。

けれど、不意に思い出すのだ。

まだ眠っているままのチェルシー様と、ナナシという男について。

一応事件は収束したが、これからチェルシー様とナナシは裁判にかけられることになる。

私はそれとしっかりと向き合い、ちゃんと結末まで見届けなければならない。

そう思った時であった。部屋の中ににぎやかな声が響き渡り、ユグドラシル様と獣人のカザン様が楽し気な様子で入ってきた。

ノックはどこへいったのやら。

私はなぜか意気投合している二人を見て、少しだけ心が明るくなった。

カザン様とユグドラシル様はとても楽しげな様子で部屋に入ると、当たり前のようにソファーへと腰を下ろした。

この二人はとても賑やかで、貴族社会で生きてきた私にとってその賑やかさは心地のよいものだった。

そんな二人は、侍女が用意したお茶を一気に飲み干すと真剣な表情へと変わり、カザン様が静かに口を開いた。

「アシェル殿の協力のおかげで、ナナシに捕まっていた他の者達も、無事に救出が出来た。本当に感謝する」

ユグドラシル様もうなずき、言葉を足した。

「他に捕まっている子達がいないかちゃんと確認して、他にはいなかったから、これで取り敢えず一安心ね」

ナナシの言っていた獣人の子ども達も無事に救出されたことに私は安堵した。

聞くところによれば、あの事件の日からアシェル殿下はカザン様とユグドラシル様と協力をし、ナナシのこれまでの動きを徹底的に調査していたという。

サラン王国側からは自国内部で起こった事件ということで獣人の国へと正式に謝罪文を送り、今回の一件を速やかに対処する意向を伝えた。

ただし、今回事件が起こったのはサラン王国ではあるが、ナナシの国籍は不明であり、他の国でも悪行を重ねていたこともあり、サラン王国側に全ての責任があるわけではないとのことを、獣人の国側も了解しているとのことだった。

その後の話し合いにより、ナナシは、今回の一件にて獣人の国の刑罰が適用されることとなり、カザン様と共に獣人の国へと連行されることが決定した。

法で裁かれ、その上で、処罰が下されることとなる。

チェルシー様は、サラン王国の人間であることからサラン王国側の法で裁かれることが決定された。

「チェルシー様は、目覚めるのでしょうか?」

私がそう呟くと、ユグドラシル様は難しい顔をして言った。

「無理かもしれないわね。もはや生きているのが奇跡レベルだもの。目覚めたとしても、体は動かないでしょうよ」

『いつ死んでもおかしくないわ……』

ユグドラシル様の言葉に、私は膝の上に乗せている手をぎゅっと握り、ゆっくりと息を吐いた。

人の生死をこの世界で初めて身近に感じる。

アシェル殿下はそんな私の手を優しく握ってくれた。

温かな手の体温を感じ、私が力を少し抜いた時であった。

『うふふ。なになに。いちゃいちゃしてぇ~。可愛いわねぇ~』

『はぁぁ。ラブラブというやつか。若さがうらやましいなぁ』

二人の心の声に私は一気に顔がほてってしまう。

恥ずかしさから手を離そうと思ったのだが、アシェル殿下は私に笑みを向けると、手を先ほどよりも指を絡めてしっかりと握った。

恋人つなぎというやつに、私の心臓はうるさいくらいに鳴る。

『エレノア。もう少し繋がせていてね。牽制しておかないと、エレノアを攫われたらたまったもんじゃないからね』

アシェル殿下は心の声で私にそう伝えてくる。

攫われるとはどういう意味だろうかと思っていると、ユグドラシル様からもカザン様からも意味深な視線を向けられて、私は少し緊張してしまう。

心の声はぴたりと聞こえなくなり、何故か、ユグドラシル様とカザン様とアシェル殿下は笑顔で見つめ合っていた。

「まぁ、エレノアが幸せならいいのよ」

「そうだな」

「もちろん幸せにしますよ」

三人はそういうとまた笑い合い、私はどういう意味なのだろうかと、首をかしげるのであった。


事件の一件から一週間ほどが経ち、私たちの生活は落ち着きを取り戻していた。

妖精や獣人達もそれぞれの国に帰り、平和が訪れる。

ユグドラシル様はこれからも時々遊びに来ると言っていたので、またそのうち顔を見せてくれるだろう。ただし、妖精特製クッキーの持参はご遠慮いただいた。こちらでお菓子はたくさん準備するのでと伝えると、とても嬉しそうに帰っていったのでよかった。

カザン様も、また子どもたちを連れて遊びに来てくれると言っていたので私はまた皆に会えることも楽しみだなと思っていた。リク、カイ、クウも私に会いたいと言ってくれていたそうなので、再会が楽しみである。

そして、ナナシの刑については、裁判が行われたのちに知らせてくれるとのことだった。

最終的にチェルシー様は、現在の眠っている状況で何かをした場合、何が起こるかわからない危険性があるとのことで、王宮から離れた神殿に幽閉されることになった。目覚めたとしても、神殿に幽閉され、その生涯が終わるまで奉仕作業をすることになるだろう。

ユグドラシル様もカザン様もとても別れを名残惜しそうにしてくれて、私も寂しく思った。

何故かアシェル殿下は複雑そうな顔で『心配が尽きないよ。はぁ、早く結婚したい』と呟いていた。

私としても早く結婚はしたいけれど、王妃教育がまだまだ終わっていない私としては現実的にまだ学びの時間が必要だということは分かっていた。

そして今日は王妃教育の一環として、アシェル殿下と一緒に街の視察に来ているのだが、街の人々の視線が今までとは違っていて、私は恥ずかしいけれど、どうにか顔をあげて平静を装っていた。

『あの人が、エレノア様かぁぁ。アシェル殿下は幸せだろうなぁ』

『妖精に愛される乙女だって噂の人だよなぁ……妖精より美しいじゃないか?』

『うっはぁぁぁ。獣人の王子達がメロメロになるはずだ』

ナナシの事件から噂が広がり、街では私の様々な話が持ち上がり、枝葉のような広がりを見せていた。

『男を虜にしてしまうなんて罪な女ねぇ。でも、あの美しさならしょうがないわぁ~』

『男達が取り合って最終的にアシェル殿下の勝利とかなんとか噂があったが、アシェル殿下よくやった! あんな美しい人が王妃になるなんて、っはぁ! 最高だな』

街の商店街を視察していると、様々な声が聞こえてくる。

男性から向けられる生々しい感情ではなく、どこか称賛を含んだような言葉が聞こえてきて、私は何となく恥ずかしいけれど、どこか嬉しさも感じていた。

アシェル殿下の横に立つのにふさわしい女性になりたい。私はそう思うようになっていた。

「エレノア? 大丈夫かい? もし、不安なこととか、心配なこととかあったら言ってね?」

こちらを気遣ってくれるアシェル殿下の優しさが嬉しくて、私はもっと頑張らなければと思った。

アシェル殿下の横に立つということは、国民に愛される王妃を目指すということでもある。私に本当にそれが出来るのだろうかという不安はあったけれど、実際に街を視察して、私の決意は固まりつつあった。

今まで、人から向けられる心の声が怖かった。

けれど、私の横にはアシェル殿下がいつもいてくれる。

そして、アシェル殿下の横に立って、私には初めて見えてきた景色があった。

心の声が聞こえることは不幸なことばかりではないのだ。そしてその心の声は、時には私に不利益をもたらすけれど、決して敵ではないのだということに今回の事件を通して気が付いた。

だからこそ私は、しっかりと前を向いて、心の声と向き合っていくことを決意した。

自分の能力と向き合い、そしてその上でアシェル殿下と共に歩んでいきたいと思った。

視察の帰り、私はアシェル殿下と一緒に街を見下ろせる小高い丘へと登ると、そこで少しだけ二人きりの時間を設けてもらった。

夕日に照らされる街はとても美しく、私はまっすぐにこうやって街を見下ろすのは初めてだなと感じる。

風が、草木を揺らして、通り過ぎていく。

「エレノア? どうしたの? 何か、心配事でもあったの?」

私の様子をうかがうようにそう尋ねてくれるアシェル殿下に、私は向き合うと、勇気を振り絞って言った。

「私、アシェル殿下が好きです」

「え?」

突然の言葉にアシェル殿下は顔を真っ赤に染め、そして頬を赤らめながら嬉しそうに言葉を返してくれる。

「あー。もう! もう! 突然どうしたの? そんなに可愛いこと言って、何? 僕を試してるの?」

『だめだ。頭の中でも考えちゃう! わぁぁ。もうこれはもうエレノアが可愛いのが悪い!』

アシェル殿下は可愛い。いつも私はその可愛らしい心の声に翻弄される。だって、こんなに可愛い人に出会ったのは初めてなのだ。

アシェル殿下に出会ってから、私は心の声が聞こえることが悪いことばかりではないのだと知った。

アシェル殿下がいてくれたから、私はこの能力があってよかったと思えた。

アシェル殿下が、好き。

私はアシェル殿下を見上げると、その頬に手を伸ばした。

「貴方に出会えて、私は幸せです」

アシェル殿下の顔は夕日に照らされているからか、いつも以上に赤らんでいた。

「エレノア」

「え?」

私の唇にアシェル殿下の唇が触れた。

突然のことに私は驚いて固まってしまう。

「エレノアが、可愛いのが悪い。もう。僕だって大好きだよ。君以上に可愛い人なんて知らない。本当に、僕の婚約者になってくれてありがとう」

恥ずかしかったけれど、私は勇気を振り絞ってアシェル殿下に抱き着いた。

アシェル殿下の心臓の音と、心の声が聞こえる。

『え、エレノア! 僕だって男なんだからね! もう……エレノアが可愛すぎる。むぅぅぅ』

人の心の声がこれまでは怖かった。

自分に向けられる欲望や、非難、落胆。全てが怖かった。

けれど、アシェル殿下は大丈夫。こんなにも可愛い人はいないし、そしてアシェル殿下からならばどんな声が聞こえても大丈夫な気がする。

「アシェル殿下、私、頑張ります。だから、これからもよろしくお願いいたします」

「うん。もちろん。僕こそよろしくお願いします」

私たちは笑い合い、そして街を見つめた。

綺麗だった。世界がこんなにも美しいのだと私はちゃんと見てこなかったから気づいてさえいなかった。

『ぼん、きゅ、ぼーーーん。殿下をよろしく』

最後の最後に、遠目からこちらを見守っていたハリー様のその声が聞こえて私は心の中で返事をした。

『はい。可愛いアシェル殿下を大切にします』

自分のあだ名はずっと〝ぼん、きゅ、ぼーん〟なのだなぁと、いつかハリー様にもう少し可愛いあだ名にしてもらえないか提案してみようと思うのであった。

◇◇◇

王城内の美しい中庭に立つ精霊エルは、月のない空を見上げ鼻を鳴らした。

「……臭いな……」

人間にはかぎ取れないであろう、おぞましい程の血と憎しみの臭い。それが混ざり合い、酷い腐敗臭を生み出している。

「……このままだと、あれを呼び寄せるぞ……」

エルはため息をつくと、その足をエレノアの部屋へと向ける。

音もなくエレノアの部屋へと入ったエルは、眠っているエレノアの額の妖精の口づけの跡に、自分の唇も重ねた。

「困ったらいつでも呼べ」

寝息を立てていたエレノアの瞳がゆっくりと開く。

「……エル様?」

体を起き上がらせたエレノアは小首をかしげ、夢うつつにエルを見上げた。

エルは指を鳴らし部屋の中に明かり代わりにと、小さな光をたくさん浮かべる。

まるで蛍のような美しい光が舞う様子にエレノアは瞳を輝かせた。

「綺麗」

エルは光に手を伸ばすエレノアの頭をやさしくなでると言った。

「綺麗なのはそなただろう。お前ほど美しい魂の形を、私は見たことがない」

『人の魂だというのにおかしなことだ』

「え? ふふ。そんなわけありません。私なんて、どこにでもいるような人間です」

優しい微笑みを浮かべてエレノアがそういうと、エルは我が子を見るような優しい瞳で言った。

「お前のような子を私は知らないよ。けれどね、その美しい魂は、お前に困難をもたらすだろう」

『あれはおそらくお前にも寄ってくるだろう』

困難と、〝あれ〟という言葉にエレノアは背筋を伸ばし、エルの方を真っすぐに見た。

「困難とは、どんなことですか?」

以前まで、どこか人に対して諦めたような様子だったエレノアが、今ではこうも輝く瞳を持っていることにエルは嬉しく思い微笑んだ。

「人を惹きつけるお前だが、人ではないモノも引き寄せるだろう。困ったことがあればいつでも私を呼ぶがいい」

『美しさの代償か……どうか健やかであらんことを』

「人ではないモノ?」

「あぁ。この世界には様々な生き物がいるが、あれは、生き物とは別物だ」

『できれば近寄りたくないモノだ』

エルの言葉に、エレノアはじっとエルのことを見つめると尋ねた。

「それはどのようなモノなのでしょうか。私に出来ることはありますか?」

「お前の唯一と力を合わせなさい。きっと一緒ならば乗り越えられるだろう」

『一人でなければ大丈夫だ』

頷いたエレノアに、エルは手をかざして言った。

「さぁ、おやすみ。良い夢を」

エルに手をかざされた瞬間、瞼が重たくなりエレノアは夢の世界へと落ちていく。

ベッドに横たわったエレノアにエルは布団をかけなおし、それからその寝顔を眺めた。

眠っている姿はまるで美しい人形のようであり、エルは小さく息を漏らす。

「人間に生まれたというのに、こうも美しいというのは……難儀なものだ」

エルは立ち上がると、光に包まれて元の中庭へと戻る。

夜の静かな中を歩いていくと、また、あの臭いが漂ってきた。

「……人間とは恐ろしい生き物だ」

これほどの業を生み出せる生き物はそういない。エルはエレノアにあれが近づかないことを祈ったのであった。


黒い霧の中からあれと呼ばれたものは目覚め、臭いを頼りに移動する。

あたり一帯には、動物が腐ったような臭いが立ち込めていた。

腐敗したその心地の良い香りは、空になった胃袋を刺激して音を立てさせる。

地鳴りのようなその音に、動物たちは逃げ、植物たちは枯れ落ちる。

「あぁぁぁぁぁ。いい、臭いだ」

久しぶりのごちそうの臭いに、その重い足取りは少しだけ速くなる。

ずぷずぷという音がどこからか聞こえ、黒い霧の中から、舌なめずりが響く。

「腹が減った……はぁ……久しぶりに、満たされそうだが……ん?」

鼻を動かし、遠くの人間の街へと視線を向ける。

「なんだ? この、臭いは……」

自分の空腹を満たす良い香りの腐敗臭ではない。けれど、どこか心が惹かれるようなそんな臭い。

だがその時、また腹の音が煩いくらいに鳴り響く。

「あぁぁあ。だめだ。だめだ。とにかく今はこっちだ。はぁぁ。良い香りだ」

腐った臭いというものは、どうしてこうも食欲をそそるのか。

あれと呼ばれたものは動き出した。それを食べるために。

そして、そんな腐敗臭を身にまとって眠っていたチェルシーはその悍ましい気配に目を、今、覚ました。

「……はは、ははははは! 生きている。私、生きているのね……」

そう呟いたチェルシーは自分の状況と部屋を見回してにやりと笑みを浮かべた。

「ふふふ。なるほどねぇ~。エレノアと私の立ち位置が入れ替わった。つまり、ゲームのアップデート後が、ここからスタートするっていうわけかしら?」

にやっと笑ったチェルシーには、自分の死が目前に迫っていた時の後悔の色など微塵もない。

「どうせ私は大罪人だもの……最後まであがいてやろうじゃないの」

体は動かない状況であり、しかも部屋の中に腐った臭いが充満している。

激痛が走り、今の状況が悪いことはチェルシーにだってわかる。

「さぁ、来なさいよ。私だって、やればできる女なんだから! 悪役令嬢エレノアがゲームの中でできたなら、私にだって出来るはずよ!」

第一部が略奪ゲームならば、アップデート後の第二部は防衛ゲームである。

闇の悪魔に呑まれたエレノアに、攻略対象者との好感度を上げて心を奪われないようにする異色作。攻略キャラも増えてはいるが、登場させるかどうかはヒロイン次第。

「ふふふ。やってやろうじゃないの」

チェルシーはにやりと笑みを浮かべ、それが来るのを待った。

「私はヒロインだったけれど、悪役令嬢にだってなれるわ……」

その時、部屋の中が黒い霧で包まれ、闇が訪れた。

鼻が曲がりそうなほどにひどい臭いが部屋の中に立ち込める。しかし、それ以上に自分が腐りかけ、異臭を放っていることにチェルシーは気づいていた。

「大丈夫……絶対に大丈夫よ」

黒い闇の中からこちらをじっと見つめてくるその瞳に、チェルシーの背筋は寒くなる。

「さぁ、ゲームスタートよ」

それでも、チェルシーは引くことはない。

「くっくっく……食べがいがありそうだな」

それと対峙した今、チェルシーに逃れるすべはない。


私はただならぬ寒気を感じ、顔をあげると慌てて辺りを見回した。けれど、見渡せば美しい花々が咲き誇る庭が見えるだけだ。

何かぞわりとするような、肌に張り付くような何かを感じた。

「何?」

腕をさすりながら、もう一度辺りを見回すが、特に何もない。

「エレノア? どうしたの? 何かあったの?」

アシェル殿下の問いかけに、私は首をかしげると、すぐにアシェル殿下に向き直って答えた。

「いいえ。なんでもありません。ただ……嫌な感じがして」

そう伝えると、アシェル殿下は私の手を優しく握ってくれた。

「何かあっても、僕がエレノアを助けるからね?」

その言葉に、私は笑った。

「はい。ありがとうございます」

暖かな日差しを感じながら一緒に過ごす時間がとてもいとおしい。

願わくばこの平穏な時間が長く続きますようにと、心から祈る。

けれど、現実とはそう上手くいくようには出来ていない。


アプリゲームがアップデートされて物語が続いていることに、この時のエレノアはまだ気づいてすらいないのであった。