『かわいぃいぃぃぃーーーーーーー!』

『あいらしいぃいぃぃぃぃ!』

『……小悪魔?』

え?

私はハリー様の声に、小悪魔? どういう意味なのだろうかと困惑するのであった。


アシェル殿下は私を膝の上にのせて切った果物をフォークで食べさせてくれている。

診察は受けたものの、異常はなく、私が妖精のクッキーを食べたことを話すとそれが胃の中で消化が終わり、体から成分が抜ければきっと元に戻るだろうとされた。

執務で忙しいであろうアシェル殿下ではあったが、私のことを心配してずっと一緒にいてくれている。

「はい。エレノア」

『可愛いなぁ』

「あーん」

最初こそフォークで口に運ばれることに抵抗しようとしたのだけれど、あまりにもアシェル殿下が楽しそうなので、自分の羞恥心は抑え込むことにした。

もぐもぐと咀嚼していると、見ていた侍女や使用人らが一様に頬を赤らめながら嬉しそうに心の声で呟いていくものだから、子どもとはこんなにも愛されるものなのだろうかと驚いた。

自分が幼かった時、こんなことはあっただろうか。

父や母から聞こえてくるのは、打算の交じった声と、表と裏とが入り交じった不協和音ばかりで幼い日のことを思い出したいと思ったことはない。

けれど、今向けられるのは、優しい視線ばかりである。

「エレノア。おいしいですか? ふふふ。たくさん食べてくださいね」

『可愛いなぁ。可愛いなぁ』

「はい」

「ふふっ」

『あー。父上と母上がなんで幼いころ僕にちゅっちゅってめちゃくちゃキスしてきたか理由がわかる。子どもってこんなに可愛らしいんだなぁ。あー。可愛い。ちゅっちゅしたくなる気持ちがわかったよ』

その言葉に、私は視線を泳がせる。

ちゅっちゅって……それはさすがに本当の子どもではないので恥ずかしい。内心かなり動揺してしまう。

『エレノアとの子どもは……きっと可愛いんだろうなぁ……わぁぁ。恥ずかしい! 僕何考えているんだろう!』

アシェル殿下は一人内心で悶絶しているのに、表面上は笑顔を携えておりさすがだなと思った。

「でも妖精には困ったものですねぇ。エレノア。次回から気を付けないといけませんよ?」

『今回はまぁ一日くらいだろうからいいけれど、妖精っていうのはいたずら好きだからなぁ……でも、断ったら断ったで大変だろうし……むぅ。難しい』

私は確かにアシェル殿下の言うとおりだなと思った。

今度からは口に入れたりするものは十分気を付けないといけないけれど、断るにしてもうまく断らなければ大変である。

「はい。こんなことになるとは思いませんでした。妖精って、本当に不思議なことをするのですね」

そう伝えると、アシェル殿下も苦笑を浮かべながらうなずかれた。

「えぇ。まぁきっと君の願いを叶えて喜んでほしかったのでしょうね。というわけで、今日はエレノアが子どもなのだからたくさん甘やかしましょうか」

『我ながらいい言い訳だな。これでよしよししたり、お菓子あげたり、一緒に遊んだり、いろいろできる』

見た目は子どもだけれど、中身はいつものエレノアなのですが、と私は思いながらも、アシェル殿下があまりにも楽しそうなものだから、私も幸せな気持ちになった。

『お兄ちゃんとか呼ばれたい』

それは無理ですと、私は内心思うのであった。

それからは中庭へと出て皆でピクニックをすることになった。

侍女達は楽しそうにシートやお昼のサンドイッチやお菓子などを準備している。朝から色々な物を食べさせてもらっているので、お腹は結構いっぱいなのだが、皆があれこれと差し出してくるので頑張って食べている。

庭師達は綺麗に咲いた花々を摘んで飾り付けを手伝ってくれていた。

小さなガーデンパーティーみたいだななんて思って、私は花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

「とってもいい香り。ありがとう……ふふふ。私、こんな風に皆で一緒にピクニックをするの初めてですごく嬉しいわ」

そう伝えると、皆が微笑んでくれた。

『可愛らしいわぁ。でも、ピクニックしたことがないのかしら?』

『初めてのピクニック!? っていうことは、楽しい思い出にして差し上げないと!』

『エレノア様は、本当に純粋な方ね。私達にもお優しいし、素敵な方がアシェル殿下の婚約者になってくれて本当に嬉しいわ』

皆優しいなと思う。

その時、アシェル殿下と共に、おもちゃをたくさん抱えたハリー様がやってきた。

『ぼん、いや……小悪魔』

『エレノア可愛いなぁ。よーし! 今日は遊ぶぞ!』

仕事はいいのだろうかと思うけれど、一緒に過ごすのが楽しみで、私は口にするのをやめた。

本当に子どもに戻ったわけではないのに、皆でボールで遊んだり、鬼ごっこをしたり、それが本当に楽しかった。

こんな風に遊んだことがなくて、私は、走り回って煩くなる心臓に、驚いた。

「ふふふ。楽しい。こんなに走って心臓がばくばくするの、初めてだわ!」

そう伝えると、皆が一様に心の中で声をあげた。

『かーわーいーいー!』

『あー! もう。可愛らしすぎるわぁ!』

『天使かな? 天使だね。うん。エレノアは天使! はい! もうそれが正解!』

『小悪魔いや、天使』

遊びに使っていたボールをアシェル殿下が勢いよく投げてしまい、中庭の噴水の中へと落ちてしまう。

「私が取ってくるわ!」

私はそれを追いかけて噴水の縁に手を掛けながら、ボールに手を伸ばした。

「楽しい……」

顔がにやけてしまう。水の上に浮かんだボールが水の流れに押されて中央へと行ってしまう。

手を伸ばしても届かない。

噴水の水に手が触れ、その冷たさが心地よかった。

「ふふ。いたずらっこな水ね。ボールを返してちょうだい」

すると、それにこたえるようにボールが私の方へと流れてきた。

後ろからアシェル殿下と侍女達が慌てた様子で駆け付けるのが聞こえた。

「エレノア! すまない。つい投げすぎてしまった」

『エレノアが可愛すぎて思わず力が入りすぎちゃったよ。ごめんね!』

「エレノア様。私達が取りますので!」

ボールは私の所へと戻ってきて、手に取って持ち上げると、濡れているはずなのに、どこも濡れておらず乾いていた。

「不思議なこともあるのね。ね! もう一度ボールで遊びましょう?」

いいだろうかと思ってそう尋ねると、アシェル殿下も侍女達も満面の笑顔で頷いた。

太陽の日差しの下で遊ぶことがこんなにも楽しいなんて。私は初めて知ったその楽しさに、妖精に心から感謝した。

たくさん遊んだその後、アシェル殿下と一緒にサンドイッチを昼食に食べた。

私の為に小さなサンドイッチも用意されており、私は色々な味を楽しむことが出来た。

そんな中意外で驚いたのは、アシェル殿下は細身なのに、大きなサンドイッチをぺろりと食べていくところであった。

「ん? どうしました?」

『さっきからこっち見ているけれど、何かな?』

私は慌てて首を振ると言った。

「いえ、あの、たくさん召し上がられていたので、すごいなぁと思って」

「そうですか? まぁサンドイッチになると、ついパクパク食べてしまうので」

『そう。僕って結構食べるんだよね。でも大丈夫だよ! 動いているから太らないよ!……あれ? エレノアの口元、クリームが付いている』

その言葉に、さっき甘いサンドイッチを食べた時に付いたのだと、私は慌てて拭こうと思ったのだけれど、それより先に、アシェル殿下の指が私の口元を撫でた。

「可愛い」

『あ、無意識に拭いちゃった。しまった! あー。どうしよう。え? どうしよう』

可愛いと言われたことに対して私の心は大混乱であった。

アシェル殿下にそう思ってもらえたことは嬉しいけれど、口元のクリームをぬぐってもらうという大失態に私はあわあわとしてしまう。

その時、庭を風が吹き抜け、花弁が舞い上がった。

それはまるで花弁の雨のようで、美しく、私はそれを見つめた。

「綺麗」

そう呟いた。

『エレノアの方が綺麗だけどね』

アシェル殿下の言葉に、私は顔を真っ赤に染め上げてしまう。

しばらくの間、私は顔をあげることが恥ずかしくて出来なかった。


私は夜になっても子どもの姿から戻ることがなく、仕方がないとベッドに子どもの姿のまま入った。

ただ、いつもよりも広く感じるベッドの中で体は疲れているはずなのに眠ることができずにいた。

そんな時、ふと何か気になり体を起き上がらせた。

なんだろうか。

胸の中がふわふわとするような感覚があり、外に出ろと何かに呼ばれている気がする。

私は少しだけならば大丈夫かとテラスの窓を開けると、そこにはユグドラシル様が座っていた。

「ふふっ! 願い事が叶って楽しかった?」

『楽しくないわけがないわよね!』

私は少し考えるとうなずいた。

楽しかったのだ。

皆が自分に笑顔を向け、そして本当の子どものように接してくれる。

不思議な感覚であった。

生まれてから両親が自分に興味がないことは分かっていた。だから、両親に甘えることも、甘えさせてもらったこともなかった。

外面の良い両親は、私を可愛がっているふりはしていた。けれど、実際に一緒にどこかへ出かけて遊んでもらった思い出も、愛情を注いでもらったことも、なかった。

だからこそ、人から受ける優しさが心地よかった。そして、心の声さえ聞こえていなかったら、私も両親に甘えられたのだろうかと思う。

皆の好意が温かすぎて、くすぐったくて、だからこそ妖精には感謝していた。

「ありがとう。本当に、楽しかったわ」

ユグドラシル様が嬉しそうにくるりと飛んだ時であった。

突然顔つきが鋭くなると、庭の方へと視線を向けた。

「あの女……」

『腐った臭いがする。あの女……』

私も庭へと視線を移すと、そこにはチェルシー様がランタンをもって立っていた。

こちらに気づいているわけではなく、何故か庭をさまよっている。

「チェルシー様?」

私が思わず呟くと、ユグドラシル様は顔をひどく歪めて言った。

「いい? あの女には近づかないことよ。あの女からは命をもてあそびほふった、腐敗臭がするわ。あれは、おぞましい類の人間よ」

『気持ちが悪い……あれは人間以外の生き物も殺しているわね』

その言葉に私の背筋はぞっとした。

「何かを、殺したってこと?」

その言葉に、ユグドラシル様はうなずきながら言った。

「そうよ。しかもかなりの数の生き物をね。人間だけじゃないわ。おそらくは高貴なる生き物も……」

『じゃないとこんな腐ったような臭いにはならないわ』

チェルシー様はいったい何を殺したのだろうか。

そう思った時であった。

チェルシー様がこちらを見上げると、嬉しそうに手を振ってきた。

「エレノア様ぁぁぁぁ!」

『子どもになったのは本当だったのね。うふふ。今なら簡単に殺せそう。でも、悪役令嬢がいないと物語は楽しくないわよねぇ~』

ぞっとした。

チェルシー様は本当に狂っているのだ。

私はそれを感じて、チェルシー様に見えないようにテラスの内側へと入る。

「あら、聞こえなかったかな? まぁいいか」

『それよりも、一体どこに隠れているのかしら? そろそろ庭の精霊とかも攻略したいのになぁ』

チェルシー様はいったい何を考えて生きているのであろうか。

この世界はゲームではないと、ちゃんとわかっているのであろうか。

私はチェルシー様からは見えない位置で座り込むと、ユグドラシル様はその横に来て言った。

「いい? あの人間には近づいちゃだめよ」

『あの人間、あんな臭いをまき散らしていたら、そのうち、あれがくるかもしれないわね』

あれとは何だろうか。

私がそう思った時、ユグドラシル様はにこりと笑うと金の粉を私の目の前へと振った。

「おやすみ。貴方は私のお気に入りよ。じゃあね」

『よい夢を』

意識は途切れ、夢の中へと落ちていく。

「ベッドに運んであげてね。それじゃあね」

ユグドラシル様は飛び去り、テラスに現れた一人の精霊は大きくため息をついた。

「あの女から逃げているというのに、……まぁ、いいか……エレノア」

月の光をきらきらと浴びながら、精霊はエレノアをベッドへと運ぶとその髪をなでた。

「またな」

精霊は夜の闇へと消えていった。


朝目覚めると、窮屈な服に私は驚き、そして自分の体が元の姿に戻っていることに気が付いた。

昨日は余裕のあった服も、今では体のラインがはっきりとわかるほどにぴっちりくっきりとしてしまっていて、なんとも恥ずかしい。

だからこそ急いで侍女を呼び着替えを済ませると、アシェル殿下が朝一番で様子を見に来てくれた。

ぴっちぴちの洋服姿を見られなくてよかったと、内心私は思ったのであった。

「エレノア!」

『よかったぁ。元に戻っている。ふふっ。昨日のエレノアもすごく可愛かったけれど、元に戻れて本当によかった』

内心子どもの姿のままがよかったと思われたらどうしようかと思っていたので、アシェル殿下の心の声に私はほっと胸をなでおろした。

アシェル殿下は私の頭を優しくなでると、朝食を一緒に食べてくれた。

その後は昨日の分の執務もたまっているようで、名残惜しそうに別れたのであった。

『あぁぁぁ。仕事さえなければずっと一緒にいられるのに。でも、ずっと一緒にいるためには国を安定させないといけないし、はぁ、世知辛いよなぁ』

そんなことを考えながら執務へと戻っていくアシェル殿下の背中を見送りながら、私は婚約者がアシェル殿下で本当によかったなと思うのであった。

私も妃教育を受けたのちに、その後昼食を済ませ、休憩時間に、昨日見た中庭へと向かった。

昨日、チェルシー様が何を捜していたのかが気になったのである。

たしか、隠しキャラクターで中庭の精霊というものがいたらしいとは思うが、そのことについてあまり記憶にはなかった。

庭は美しく、私はほっと息を吐いた。

「綺麗ね」

噴水の水がキラキラと輝き、庭の花々は気持ちよさそうに風にそよぐ。

ゆっくりと流れていく時間を感じながら、目をつぶり風を感じていた時、日が陰ったかと思うと、横にスラリと背の高い銀色の服を着た人がいた。

澄んだ泉と同じ青色の瞳。

長い銀色の髪が風に揺れる。

「え?」

私が驚くと、その人は言った。

「私を捜しに来たのだろう?」

その言葉に、精霊かと気づき、思わずまじまじと見つめてしまう。

「えっと、まさか、本当に出てきてくれるなんて思っていなかったので……」

そういうと、精霊はかすかに微笑みを浮かべた。

「私の名前はエル。この庭の精霊だ。エレノア」

『愛しいエレノア』

「エル様ですか? あの、私の名前をご存じだったのですか?」

そう尋ねると、エル様は私の頭を優しくなでると言った。

「あぁ」

『心の清らかな愛しい子よ』

その時であった。庭の奥の方にチェルシー様の姿が見えて、エル様は大きくため息をつくと言った。

「エレノアまたな。あれはどうも気色が悪い」

『あのようにおぞましい存在には近づきたくはない』

そういうとエル様は姿を消し、私の目の前へとチェルシー様が走ってきた。

「はぁ、はぁ、はぁ。あの、ここに、今、誰かいませんでしたか!?

『今精霊いたわよね! くっそぉ。やっぱり略奪よ! ふふ! 楽しくなってきたわぁぁ!』

テンションの高いその心の声に、略奪されるほど親しくないのだがと、私は何とも言えない気持ちになった。

私は鼻息を荒くするチェルシー様を見つめながら、思わず、ずっと気になっていたことが零れ落ちた。

「チェルシー様は、誰が好きなのですか?」

その言葉にチェルシー様はかすかに眉間にしわを寄せるが、すぐに笑顔に戻った。

「え? 私ですか? 私はみんなと仲良くしたいだけですよ」

『略奪って最高よねぇ』

定型文のようなその言葉をチェルシー様は呟くが、私としてはそれで納得できるわけではない。

「……ずっと気になっているのです。チェルシー様は素敵な殿方がいるとその方の方へと意味深な視線を向けられますよね?」

一人を愛するのではだめなのであろうか。

どうしてたくさんの人へと愛を求めるのか。

ここは現実である。ゲームではない。

たくさんの人の愛を求めたところで、それがすべて叶うわけがない。

「えっとぉ。あの、何か勘違いをされているみたいです」

『あらあら、悪役令嬢は可愛そうねえ』

「え?」

チェルシー様はこてんと可愛らしく小首をかしげてにっこりとした笑顔で言った。

「私はヒロインなので、愛されるのが当たり前なのですよ? だから、みんなを平等に愛してあげないと」

『いずれ貴方の手元にいる男性は全員私のものよ! ふふふ。悪役令嬢よりもちろんヒロインがいいでしょう?』

意味が分からなかった。

平等に愛す?

愛されるのが当たり前?

「何故?」

アシェル殿下に会うまで、私は一人に愛されるのさえ難しいと感じた。

外見ではなく、内面の自分を見てくれる人。

本当の私を見ようと対話し、そして笑顔で私を包み込んでくれる人。

そんな稀有な人は、アシェル殿下だけだ。

真っすぐで、心の中は可愛らしい人。

私は、アシェル殿下だけでいい。

だから、アシェル殿下を取らないでほしい。

「私は、たくさんの愛なんていらないわ」

「え?」

『悪役令嬢が何を言っているの?』

私はチェルシー様を真っすぐ見つめると、はっきりと告げた。

「私はアシェル殿下を愛しています。彼ただ一人でいい。チェルシー様とは根本的に考え方が違うようですね」

真っすぐに自分の言葉を伝える。

すると、驚いたようにチェルシー様は顔をゆがめ、それから大きな声で笑い始めた。

「あははっははっははっ!」

『悪役令嬢が、一人でいいですって? 大量の愛を求めて、たくさんの男を侍らせる悪役令嬢が?』

その笑い声は奇妙なものであり、ぞっとするような雰囲気すらあった。

「エレノア様ったら、ご冗談を。だってその美しさで、その瞳で、いったい何人の男を虜にしてきたのです?」

『清楚アピールはやめてほしいわぁ』

「なっ!?

チェルシー様は私の目の前に来ると、指で私の胸を示しながら言った。

「こんな美しい武器を使えば、さぞ、男たちは喜んだでしょうね?」

『悪役令嬢のこの完璧な美貌は本当にうらやましい限りだわぁ』

私は顔を真っ赤にして声をあげた。

「し、失礼ですよ!」

「あら、ごめんあそばせ。だって、そんないやらしい体をしているのに、ふざけたことをおっしゃるから」

『淫乱女は淫乱女らしく振舞いなさいよ』

私は悔しくて、何故こんなにも見た目で判断されなければならないのかと唇をかんだ。

その時。

庭の雰囲気は一瞬にして変わり、背筋をひやりとした何かが駆け抜ける。

それはチェルシー様も同じだったようだけれど、その雰囲気にチェルシー様は嬉しそうににこやかに笑った。

『やっと庭の精霊が出てくるのね! あーもう! 待ちに待ったわ!』

その声に、先ほどの精霊だろうかと私は思っていたら、庭の噴水が高い所まで一気に噴射され、そしてキラキラと太陽の光に水が反射してきらめく。

美しいのに、なぜかぞっとするような雰囲気に私は身震いした。

「……臭い人間が……」

透き通る水のように美しい精霊エル様が現れ、チェルシー様は瞳を輝かせるが、私からしてみれば、何故そうも喜べるのか理解ができなかった。

明らかにエル様は今怒っている。

「精霊様……お会いしたかったです。私に会いに来てくださったのですね」

『やっと現れたわ! エレノアが邪魔だけれど、まぁいいわ』

エル様は自分に近づいてくるチェルシー様を見て、嫌そうに眉間にしわを寄せると、鼻を手で覆う。

「臭い……人間よ。私に近づくな」

『くっ……エレノアを困らせる人間の女め……』

エル様はそう言うと、チェルシー様から一歩後ずさった。

けれどチェルシー様はフフンと鼻をならし、私の方をちらりと見た。

『ふふん! 悪役令嬢から解放してあげるわ!』

私は大丈夫なのだろうかと思っていると、チェルシー様はキラキラとした瞳でエル様を見つめて言った。

「精霊様。出会えて光栄です。あの、私はチェルシーと言います。あなたのお名前を教えていただけませんか?」

『ふふん! まずは真名を手にいれなきゃね!』

エル様はその言葉に嫌そうに顔を歪めた。

「汚らわしいお前に教える名はもたぬ」

『烏滸がましい人間だ』

けれど、チェルシー様は負けない。

悲しげに顔を歪めると、もじもじとしながら言った。

「そうですか。では、仲良くなったら教えてくださいね」

『何かしら? すごい壁を感じるわ。こんなに難易度が高いの?』

「うるさい。教えることはない。二度と私の前に現れるな。この庭に入ることも禁ずる」

『なんとも気色の悪い人間だ』

「え?」

次の瞬間チェルシー様の姿が消えた。

私は驚いてキョロキョロとあたりを見回すが、チェルシー様の姿はなく、そんな私の様子にエル様はクスクスと笑い声をたてた。

「あいつはもうこの庭には入ってこれぬ」

『気色の悪い人間は不必要だ』

エル様は楽しげに微笑みを浮かべると私の頭を優しく撫でながら言った。

「エレノア。あれはかなり質の悪い人間だ。出来るだけ近寄らぬようにな」

『悪臭の根元のような人間だな。あれはいずれあれに呑まれるだろう』

「え? ですが、彼女はいつも私の前に立ちはだかるのです。いずれ、決着をつけなければならない時がくるかもしれません」

私の言葉にエル様は微笑み、優しい声で言った。

「ならば、必ずそなたの唯一と共に、対峙することだ」

『あやつならば、そなたを任せられる』

「唯一?」

その時、庭の奥からアシェル殿下の自分を呼ぶ声が聞こえた。

エル様は嬉しそうに私の背中を押す。

「さぁ、唯一の元へ帰りなさい」

『可愛いエレノア。幸せにおなり』

「え?」

気がつくと、私は庭の入り口に立っており、アシェル殿下がこちらに向かってかけてくるのが見えた。

「アシェル殿下?」

「エレノア!」

『よかったぁ。チェルシー嬢が喚き散らしながら現れた時には、本当にびっくりしたけど、よかったぁ』

どうしたのだろうかとアシェル殿下の方へと歩み寄ると、アシェル殿下はほっとした様子で私の手を握り、にっこりと微笑んだ。

その笑顔がとても可愛らしくて、私の心臓が跳ねる。

「よかったです。チェルシー嬢が、〝エレノア様が精霊に連れ去られた〟とかなんとか言って現れたので、驚いて、でも、無事でよかったです」

『エレノアが無事でよかったぁ。もう。本当に心配したよ! はぁ。チェルシー嬢のこと、本当にどうにかしないと……このままだと、仕事が進まない』

なるほど、チェルシー様はエル様に弾き出されてイラついたのだろう。だからこそアシェル殿下の元へとそれを伝えて、私を捜させたのだ。

私はじっとアシェル殿下を見つめた。

エル様は唯一の元へと戻りなさいと言った。

そして現れたのはアシェル殿下である。

私の唯一とは、アシェル殿下のことなのだろう。

唯一とは何なのか。

おそらくは、ただ一人の人とか、大切な人とか、運命の人とか、そういう意味合いなのだろうと私は思い、顔が熱くなるのを感じた。

「エレノア?」

『顔が赤い。体調が悪いのかな? え? 大丈夫かな?』

アシェル殿下にはいつも心を救われる。

優しくて純粋な人。

見た目は完璧な王子様なのに、内面は可愛らしい人。

「アシェル殿下。迎えに来てくださりありがとうございます。先ほど、庭の精霊様にお会いしたのです」

「え? 庭の精霊って……怖くなかったですか? この庭の精霊は気難しいと聞いていますが」

『庭の精霊に会えるなんて……僕ですら会ったことないのに、エレノアはすごいな……ということは、チェルシー嬢は精霊に庭から弾き出された、のかな?』

私はエル様のことを思い出しながら伝える。

「とても優しい精霊様でした。ただ、チェルシー様のことは、あまりお好きではないようです」

「ぶっ。そ、そうですか」

『チェルシー嬢はなぁ、そりゃあ、無理だろうなぁ……』

私はじっとアシェル殿下を見つめて言った。

「唯一の人の所へと帰りなさいと、幸せにおなりと言っていただきました」

「唯一?」

『え? えーっと、それって、あれかな? 運命の人というか、番というか、伴侶というか……』

アシェル殿下は頬を赤らめると、私の手をぎゅっと握って微笑んだ。

「私のこと、ですか?」

『僕だよね? 僕ってこと、だよね? わぁぁぁ。恥ずかしい! エレノアの運命の人って、あぁ! そうならすごく嬉しいけどさ、恥ずかしいね! なんだろうこれ!』

心の中で大騒ぎをしているアシェル殿下に、私は手を握り返すとうなずいた。

「はい。私の唯一は、アシェル殿下だと思います」

素直にそう伝えると、アシェル殿下は嬉しそうに笑って私をぎゅっと抱きしめた。

「エレノア。大好きです」

『わぁぁぁぁ! 恥ずかし! でも、嬉しい! エレノアが、可愛い!』

アシェル殿下の心臓の音と心の声は心地が良く、私はずっと聞いていたいと抱きしめられながら思った。