◇◇◇
その微笑を見た者達は、息を呑んだ。
艶めかしい、赤い唇がゆっくりと弧を描き、アーモンド形の大きな瞳がこちらを見つめる。
アシェル殿下の婚約者となったエレノア嬢は妖艶姫として名高い令嬢で、その魅力はその艶めかしい肢体と美貌であった。そんなエレノア嬢が、微笑んだ。
微笑む姿は、ここ最近、アシェル殿下の横であれば見ることが出来るようになった。
けれど、そういった類の微笑ではない。
今、エレノア嬢が浮かべた微笑で、何人の男の心臓が射貫かれたであろうか。
恐らく一番、混乱しているのはジークフリート王子であろう。
顔を真っ赤にして心臓を押さえ、ワインを落としたことにさえ気づかずに、呆然とエレノア嬢が去っていた方向を見つめている。
自分自身に何が起こったのか分からずにいるその表情は、惚けている。
そして数人の男性は両手で顔を覆い身もだえている。
何という破壊力のある微笑であろうか。
よくよく観察してみれば、女性の中にもその微笑に射貫かれたものがいるようで、顔を赤らめながら、エレノア嬢について何やら集まって語りだす集団さえいる。
アシェル殿下は大変な方を婚約者にした。
僕はそう思いながらも、落ちたワイングラスを片付けるように執事に命じながら、呆然としているジークフリート王子の横で、そのワインから微かに異臭がすることに気付く。
何だろうかと臭いを嗅ぎ、微かに毒の臭いをかぎ取る。
これは、アシェル殿下に盛られるように最初に計画されていた毒である。
僕は遠くに逃げていく伯爵の姿を目でとらえ、それからエレノア嬢の立ち去った方向を見つめる。
偶然か、必然か。
「っくそ……なんだ、これ、顔が、熱い」
ジークフリート王子の呟きに、僕はどうしたものだろうかと頭が痛くなってくるのを感じる。
他国の王子と女性の取り合いなど出来る限りしてほしくはない。だからこそ、ジークフリート王子には胸に秘めていただきたいと思うのであるが、どうなるだろうか。
「この俺が? まさか、たかだか一人の女なんかに?」
心の声がだだ漏れているジークフリート王子に、僕はため息をつきながらもその場から離れる。
執事には、片付けた後に毒などが入れられていなかったか調べるように伝えてある。
ジークフリート王子が飲まなかったことが幸いではあるが、速やかに片付け処理しておかなければ国際問題になりかねない。
その時だった。
会場内に彼女が帰って来るのが見えた。僕はアシェル殿下の指示通りにエレノア嬢を迎えに行く。
◇◇◇
私は化粧を軽く直して会場に帰ると、私の元へと向かってくるハリー様と目があった。
『ぼん、きゅ、ぼん』
頭のよさそうな見た目をしているのに、ハリー様の思考回路は未だに理解不能である。
ハリー様と一緒にアシェル殿下の元へと帰ろうとしていると、そこからは心の声の嵐のようであった。
『美しい、せめて一夜の夢だけでも!』
『エレノアタン! エレノアタン! 愛してるぅ~』
『あーもう、最高すぎる。はぁぁぁ! 女神だ! 女神が降臨した!』
『あぁぁぁぁぁ。アシェル殿下がうらやましいぃ!』
男性らの心の声の嵐に、私は頭を押さえたくなるのを必死で堪えると、表情をすんっと消し、男性達が話しかけにくい雰囲気を体に纏うと、アシェル殿下の所へと一目散に帰ろうとした。
とにかく一時でも早くアシェル殿下の所へ帰りたい。そう思ったのだけれど、そんな私の目の前に、ジークフリート様が現れた。
さっき、貴方危なかったのよ? 感謝してほしいのだからと思いながら、だからそこをどいてと言いたくてたまらない。
「エレノア嬢。こんばんは。本日もとてもお美しいですね」
『わぁぁぁっぁ。何だこれ、何だよこれ。顔が、熱い。俺、どうしたんだ? こんな女、どこにでも、どこにでも……いないか。くそっ。何だよこれ』
心の中で大混乱しているジークフリート様に、私は一体どうしたんだろうかと思いながら小首をかしげる。
「ありがとうございます」
とりあえずはそう答えたのだが、心の中は更に荒れていく。
「よろしければ一曲お付き合いいただけませんか?」
『こてんって、こてんって効果音が聞こえたぞ!? え!? 何だよこれ』
姿勢としては、ジークフリート様は私に手を差し出している。
ただ、頭の中で効果音が聞こえるとは、ジークフリート様も何かしらの力でもあるのだろうか? それとも何かの造語なのだろうかと考えるが、そこで一つの考えが頭をよぎる。
毒には口を付けていないと思っていたが、飲んでいたのだろうか。
そして意識が混濁しているのではないか。
そう思い、私は思わずジークフリート様の差し出された手を握る。
手はかなり熱いように感じて、私は尋ねた。
「ジークフリート様、大丈夫ですか? 手がとても熱いようですが、熱があるのでは」
「いえ、大丈夫です」
『手がぁぁっぁぁっぁぁっぁぁぁっぁぁぁっぁ』
いよいよ大丈夫かと心配になり、顔を見上げる。
『上目遣いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっぃ』
『ぼん、きゅ、ぼん!』
「え?」
思わずジークフリート様から手を離し、ハリー様を振り返る。
心の声についつられてしまったと思うが、目が合ったハリー様は首を横に振った。
これは、ダンスを踊ってはダメだと言うことだろうかと思っていると、ジークフリート様が多少鼻息荒く私の手をもう一度取った。
「いきましょうか」
『頑張れ俺、頑張れ俺。って、恋愛初心者じゃないんだから……しっかりしろ! 俺!』
その時だった。
私のもう片方の手をアシェル殿下が引き、自分の胸の中へと私を抱き込んだ。
突然のことに私が動揺していると、アシェル殿下の心地の良い声が聞こえる。
「エレノア嬢。そろそろ、戻ってきてください」
『ジークフリート殿……何のつもりだよ。やめて、エレノア嬢は、僕の婚約者だよ! 減るから!』
少し速く鳴る心臓の音が聞こえた。
急いで迎えに来てくれたのだろうかと、そう思うだけで、私の心はきゅんとした。
「アシェル殿下。迎えに来てくださったのですか?」
私は思わず嬉しくて、顔が緩んでしまう。
その瞬間、周りの声が歓喜のような悲鳴で溢れ、私は驚いた。
『わらったぁぁぁ』
『可愛い! 可愛い! 可愛い!』
『なんだ!? 女神か!?』
『はぅぅぅぅぅ』
『ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!』
一体何だろうかと思っていると、ジークフリート様の声は少し違った。
「アシェル殿。今、エレノア嬢にダンスを申し込んだところです。よろしければ、一曲お願いをしたいのですが」
『なんだ、この感情……。くそ。なんだよ。さっきの笑顔』
「エレノア嬢は少し疲れているみたいなので、またの機会にお願いします」
『だめだめ! エレノア嬢が減る!』
アシェル殿下とジークフリート様は笑顔なのに、にらみ合っているように、どちらも退かない。
私はどうしたものかと思っていると、ハリー様と視線が合う。
ハリー様はちらりと、外へと向かうように私に視線で伝えてくる。
『ぼん、きゅ、ぼん』
私はコクリとうなずくと、アシェル殿下の手をとって言った。
「すみません。少し人に酔ってしまったようで、庭でも散歩にいきませんか?」
「ええ。もちろん。では、ジークフリート殿。これで失礼しますね」
『あぁ良かった。だって、エレノア嬢がもしもさ、もしも……ダンス踊ってジークフリート殿と引っ付くとか、本当に嫌だし……』
「では、またの機会に」
『くそっ……エレノア嬢……』
切なげに名前を呼ばれ、何がどうなっているのだろうかと私は困惑する。
ジークフリート様は自分でも以前心の中で自負していたように自分の見た目がいいと分かっている男性である。だから気を引くために見せた笑みも、一瞬目に留まるくらいだと思っていたのに違ったのだろうか。
私は疑問に思いながらもアシェル殿下と共にその場を後にする。
会場の外へと出ると、空気は少しだけ冷ややかで、鼻から空気を吸い込むと、体の火照りが少し和らいだ。
舞踏会の音楽の音や人々のざわめき、そして心の声も遠ざかり、エレノアはほっと息を吐く。
微かに、風に乗ってバラの香りがした。
「エレノア嬢」
「はい」
アシェル殿下を見上げると、アシェル殿下は私と向き合い、そっと指で私の頬を撫でた。
『何で……さっき、ジークフリート殿に笑顔を向けたんだろう』
指は冷たくて、私はどきどきとしながら固まっていると、私の髪に指をからめそれから一房にアシェル殿下はキスをした。
「エレノア嬢……貴方は美しいのですから、あまり笑顔を振りまいてはいけませんよ。妙な輩を引き寄せるといけない」
『ジークフリート殿……とかさぁ。あーもう。僕ってば心が狭いー! くっ……もう少し余裕が欲しいよ。大人の余裕が欲しいよ! どうやったら身につくんだよ! もう』
「は……はい」
顔に熱がこもる。
心臓が脈打ち、どきどきが止まらない。
私はこのままでは心臓に悪いと話を変えるために口を開いた。
「あ、あの、アシェル殿下、その、体調は大丈夫でしょうか?」
「ん? 体調?」
「はい。だって……」
しまったと、口をふさぐ。
慌てていたので思わず先ほど口にされた毒について大丈夫か心配になり口にしてしまった。
けれどこれは、私が口にしていいことではなかった。
私がアシェル殿下が毒を飲んだことを知っているなんて、ありえない話なのだから。
『体調? 僕の?……毒の事を、もしかして言っているの?』
私は静かに心を落ち着けると、手が震えそうになるのをぐっと握って堪えて顔をあげて言った。
「アシェル殿下は、いつも皆様の為にと頑張ってくださっているでしょう? ですからいつも頑張りすぎではないかと……アシェル殿下の体調が心配になったのです」
先ほどとは違う意味で心臓がばくばくと脈打つ。
心の声が聞こえているということをまだ告げる勇気はなかった。
アシェル殿下はふっと笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。心配してくれてありがとうございます」
『なんだ。そういう事か。ふふふ。エレノア嬢は優しいなぁ~。よーし! 心配を掛けない程度にこれからも頑張っていかないとね!』
そうアシェル殿下の心の声が聞こえてほっとした。
よかった。そう思いつつも、これからは一緒にいる時間も増えるのだから気を付けなければと、未だに震えそうになる手に力を入れながら思ったのだった。
◇◇◇
庭へと向かうアシェル殿とエレノア嬢の背中を見送りながら、別室へと一度下がる。
そして、自らの影を呼んだ。
「状況を確認してこい」
「はっ。ジークフリート殿下の飲み物に毒をもっていった男についてはどうされますか?」
「あぁ……それはアシェル殿が対処するだろう。その様子次第にしよう」
「はっ……あの」
「なんだ」
「エレノア嬢は、毒に気付かれたのでしょうか」
その言葉に、顎に手を当てて考えると、先ほどの彼女の笑顔を頭に描き、顔が熱くなるのを感じていた。
「殿下?」
「い、いや。なんでもない」
今まで自国でも他国でも美しい女性には出会ってきた。その中には自分に色目を使う者もおり、それなりに色恋沙汰は経験をしてきたと思っていた。
だが、エレノア嬢のあの瞳を見た瞬間、今まで感じたことのない感情が胸の中に生まれたのだ。
「エレノア嬢がどうかされましたか」
「……いや」
そう言葉を濁すと、小さく息をつく。
思い悩んだところで、彼女はすでにアシェル殿の婚約者である。どうこうできるものではないと頭の中で自分に言い聞かせる。
「エレノア嬢であれば、国交的にもよきお相手ですが」
「なっ!? アレス。彼女はアシェル殿の婚約者だ」
「えぇ確かに、今は。ですがシナリオさえ作ってしまえば、不可能ではありません」
その言葉に、眉間のしわを深くする。
可能性がゼロなわけではない。それは自分でもわかっていた。
自分はこれから国の外交的な部分を担っていくであろう。であるなら、サラン王国との繋がりは必要であるし、公爵家の令嬢であれば釣り合いもとれる。
道は難しいかもしれないが、そう思うものの、頭の中で隣国との関係性を思い描いた後に首を横に振る。
「いや、合理的ではない。お前も、忘れろ。いいな」
「っは……」
「いけ」
アレスは消え、部屋の中で大きくため息をつくとソファーへと腰掛けた。
そして机の上にあったワインを一口飲むと、また大きくため息をつく。
「合理的ではない……のに、なんだこの感情は」
コツリと、机の上へとワインを置く。
両手で自分の顔を覆いながら、頭の中で何度も繰り返し流れるエレノア嬢の笑顔を思いだし、思い通りにならない心に、ため息をつくしかなかった。
忘れるべきだ。
ジークフリートは、何度もそう心に言い聞かせた。