「少し聞きたいことがあるのだけれど」

 そう声をかけて私を呼んだのは、今まさに泊まらせていただいている家主であるマーニー叔母様だった。現在も滞在させていただいている子爵邸は王都にも近く、彼女の息子はふたりとも王城の官僚として働いている。ちなみにふたりとも既婚でもうこの子爵邸は出てしまっているのだが、家が近いのでよく彼らの夫人と共に顔を出してくれるのだと言っていた。

 そんな父の妹であるマーニー叔母様は早くに夫である子爵様を亡くされており、息子ふたりを女手ひとつで育てた底力のある女性……ではあるのだが、父に似て少々気の弱いところがあり、私の婚約破棄騒動を聞いて卒倒したのは記憶に新しい。そんなマーニー叔母様がどこか申し訳なさそうに声をかけてきたので、私は驚きつつすぐ様彼女の元へ駆け寄った。

 ソファへと腰掛け、マーニー叔母様の侍女が淹れてくれた紅茶へと手を伸ばしつつそっと様子を窺う。困ったように眉尻を下げており、あまりいい話ではないことを察した。じっと話出しを待っていると、私と同じように温かい紅茶を一口飲んだ叔母がカップを置き、私の方をしっかりと見つめる。

「フローレンス公爵令息様のことだけれど、何か言われたりしたのかしら」

「何かとは何でしょう?」

 遠回しにそう聞かれ思わず首を傾げた私に、叔母が再び口を開いた。

「あなたたちがその、口づけているところを見たって人がいるの。今ふたりが婚約間近なのではないかと噂になっているわ」

 告げられた内容に心当たりがありすぎて一気に顔が熱くなる。きっと見られたのはスイーツ店でのものだろう。

「違うの、それは」

「ではそう見えただけで本当は何もないの?」

 何もない、と嘘をつけばいいだけだとわかっているのに、彼との口づけをなかったことにするのが何故か嫌だと感じた私は思わず口ごもってしまう。それに私とフェルナン様は一度だけとはいえ口づけ以上のこともしたのだ。あの日のことは私にとっていい思い出で、それすらも否定するようなことを言いたくなかった私は小さく首を左右に振った。

 そんな私の様子を見て叔母が大きくため息を吐く。

「フローレンス公爵家から、婚約の申し込みは来ていないのよ」

 ポツリと告げられるその事実に、ぎゅっとスカートの裾を握り締める。わかっている。私は今後経験することが難しいことに対する興味を埋めて貰っただけで、彼から気持ちを向けられている訳ではないのだ。

「直接何か言われたりもしていない?」

「何も言われてません」

(そりゃ、大事にされてるって思うこともあるけれど)

 しかし何か明確な言葉を貰った訳ではない。叔母の言う通り現状家にも私にも何も申し出がないのならば、これから先もないだろう。

 そもそも私にも彼にも婚約者がいないのだから、誰かに咎められることではないはずだ。流石にサプライズで用意した婚約者が他の令嬢を妊娠させて大多数の前で婚約破棄を突きつけられた私に、またも内緒で次の婚約者を準備しているということもないと思う。確かに恋人でも婚約者でもないふたりが誰に見られるかわからない場所でいちゃついているのはあまり好ましくはないだろうが、誰かに迷惑をかけている訳ではないのだ。それならば別に構わないのではないだろうか。

 そんな甘い考えが頭に過った私とは違い、世間は甘くはないらしい。

「すぐに悪い噂に変わるわ」

「……、え?」

「ふたりだけではなく、家をも巻き込んだ悪い噂が流れる。いえ、もう徐々にそういった噂に変わり始めていると思う」

 叔母のその言葉はまさに青天の霹靂だった。

 人目のある場所で口づけていたのだ、婚約間近という噂が流れたことはまだわかる。だが、それが何故家をも巻き込むような悪い噂になるのかがわからず愕然とした。そんな疑問が顔に出ていたのだろう。向かいに座っていた叔母が私の横へ座り直し、裾を握る私の手へそっと自身の手を重ねた。

「婚約間近とまで言われていたふたりが、いつまでたっても婚約をしなければなんて言われると思う?」

「ただ仲が良いだけかもしれないです」

「ただ仲が良いだけのふたりは口づけなんてしないのよ」

 当然の指摘に私は言葉を失う。その通りだ。私たちはすでに見られてしまっている。

「きっとすぐに貴女が弄ばれているという噂に変わるわ。忘れないで、ジュリア。相手は公爵令息で、そしてこんなことは言いたくないけれど、貴女は婚約破棄されたばかりの令嬢だということを」

 諭すようにゆっくりと告げられた言葉が重く私に絡みつく。そんなこと思い過ごしだと、叔母が心配しすぎているだけなのだと言いたいのに、その言葉は結局私の口からは出なかった。

 フェルナン様が公爵令息だということも、そして私が先日の夜会で婚約破棄されたということも皆が知っている事実だったから。

(婚約破棄されたばかりの令嬢が、助けてくれた令息を慕ってもおかしくはないわ。そしてその令息と親しくなり口づけまでしていたのなら)

 それは叔母の言う通り、私たちの関係を邪推し面白おかしく噂しても不思議ではないだろう。その噂が私個人に対するものならばいい。けれど、フェルナン様の悪評に繋がる噂になってしまうことが私の心を苦しくさせた。それだけではない。もしその叔母の推測が正しければ、私はふたりの令息から蔑ろにされたということだ。そんな令嬢がいるアルヘル伯爵家も蔑ろにして構わないと思われてもおかしくはなかった。

「勘違いしないで欲しいの。私はもうジュリアに傷付いて欲しくないだけなのよ」

「はい。わかっています、叔母様」

 心配そうに揺れる叔母の瞳を見ながら私はしっかりと頷く。婚約破棄は傷付かなかった。けれど、もし叔母の言う通りになったなら。

(私は傷付かずにいられるのかしら)

 そんな考えが、私の中でぐるぐると廻ったのだった。


 叔母から忠告を受けてすぐ、彼女の推測が当たってしまったことを知る。いや、実際はそれ以上に酷いものだった。

 最初は確かに私たちの噂は婚約間近だの恋人同士だのというものだったはずだ。それなのに気付けば私が一方的に弄ばれているというものへと変わっていた。それだけではない。私が一方的に婚約破棄されたのは皆が見ていたはずなのに、私がより身分の高いフェルナン様へ乗り換え、そして失敗し彼にいいように遊ばれているという噂になっていたのだ。

「あの夜、平然としていたことが災いしたのね」

 知らない相手から突然突きつけられた婚約破棄。戸惑いはあれど、どう傷付けば良かったのだろうか。あの時泣いて縋れば良かったのだろうか?

(そんなこと無理よ、だってあの人の名前すら思い出せないんだもの)

 アホディオだかバカディオだかいまいち思い出せないそんな名前の元婚約者。万一私が彼のことを事前に知っていたとしても、婚約者がいる身でありながら他の令嬢との間に子供を作るような相手に縋れたかと聞かれるとそれは否だろう。そしてその結果もたらされた噂は、元から私がその元婚約者からフェルナン様への乗り換えを狙ったというものだった。

 それだけならまだ良かった。私が一方的に悪女のように言われるのならば、どうせまた社交界と縁遠くなる田舎令嬢の身だ。叔母には多少迷惑をかけるかもしれないが、叔母の息子ふたりは王城の官僚。きっと下手なことは出来ないし上手く処理もしてくれるはず。アルヘル伯爵家への影響も、領地に帰ってしまえばそこまで問題にはならないだろう。けれどフェルナン様はどうだろうか。

「彼は王都のタウンハウスに住んでるわ」

 悪意のある噂の渦中に居続けることになる彼を思うと、胸が痛いほど締め付けられる。

 彼の噂は、私を一方的に弄んでいるというもの。都合のいい女を捕まえ、自分の欲をぶつけるためだけの相手として使い捨てるつもりということらしい。また、影では罵倒し乱暴もするという噂まであった。きっとあの夜、私を助けてくれた時に言った言葉のせいだろう。あれは全て正論だったため一言も言い返す隙がなかった、というのが真相ではあるが、噂と言うものは不確かな増長をする。あのすぐに照れて素直な言葉が言えなくなる可愛い彼が、私のせいでそんな風に言われていることが悔しかった。

 フェルナン様にはまだ決まった婚約者はいない。公爵家嫡男という立場上相手の身分や人柄なんかもしっかりと調べられ、ちゃんとしたご令嬢が選ばれるはずだったのに、もし私との噂のせいで破談になってしまったらと思うと怖かった。

 最悪結婚しなくてもいいと思っている私とは違い、嫡男である彼の結婚は必須。私の存在が足を引っ張っているのは確かだった。

「紳士的で、優しくて、ちょっと恥ずかしがりやで可愛いのに」

 嘘ばかりの噂。だがその嘘が事実を元に作られているせいで、真実味を増している。そのことが悔しかった。


 相変わらずフェルナン様からの誘いの手紙は何通も来た。

 美味しいお店への誘い、乗馬や遠駆けへの誘い。いつでも席を確保できる、と言っていたあの劇場へもまた誘ってくれた。私が喜んだことを覚えてくれているのだろう。そんな彼の優しさや気遣いに心が躍り、それと同時に今王都で流れている噂を思い出して胸が苦しくなった。断ることは心苦しく、謝罪の返事を書きながら無性に泣きたい気持ちになったが、噂の届かない田舎の領地へ戻る私とは違い、この王都でこれからも過ごす彼のことを考えれば、もう私たちは会うべきではないのだろう。

「フェルナン様……」

 自然と彼の名前が私の口から零れ落ちる。それと同時に溢れた涙も、断りの手紙に零れ落ちた。

 それはある昼下がりの出来事。恩のある彼へ嘘でも行きたくないと書けなかった私が、断りの理由を体調不良にしたからだろう。フェルナン様がお見舞いの花を持って叔母の邸宅まで来てくれたのだ。

(当然会うべきじゃないわ)

 叔母の侍女に頼み、出迎えられないことを伝えてもらう。この家が我がアルヘル伯爵家のものではないことを理由に、格上の公爵家である彼を貴賓室にすら通さず門前払いもした。いっそこれでフェルナン様の機嫌を損ね、嫌われてしまえば楽だと思ったのだ。そう思うくらい、私は彼に好意を抱いていた。のに。

「ジュリアお嬢様、こちらを」

 言伝を頼んだ侍女が見舞いの花束を私まで届けてくれる。黄色やオレンジの花で作られた花束とは別に、何故か一本だけを包んだ淡いピンクの薔薇も手渡された。

「ふたつ?」

「はい。ふたつ手渡されました」

 何故わざわざ別で包んであるのかを不思議に思っていると、少し困ったように侍女が微笑む。

「ピンクの薔薇の花言葉は感謝や幸福です。そして薔薇を一本だけ手渡す意味は、貴女しかいない、でございます」

「貴女しか、いない……?」

 その説明を聞いた私は反射的に窓へと駆け寄る。窓の外を見ると、丁度フェルナン様が馬車へと乗り込もうとしているところだった。今すぐこの窓を開けて彼の名前を呼びたい。きっと、何度も向けてくれたあのはにかんだような笑顔が見られるはず。それとも、元気そうな私を見て仮病だと気付き怒るかしら?

(でも最終的にはやっぱり笑ってくれると思うの)

 流石にそれは自惚れかもしれないけれど――


 結局私は窓を開けることも、彼の名前を呼ぶこともしなかった。もしそうしてしまったら、彼のこの優しさを悪意のある噂として彼に返してしまうことになるだろう。会うべきではないし、もう会えないのだ。彼を想えばこそ、そのことは明白だった。

 私の胸を占めるのは深い悲しみと、まるでぽっかりと穴が開いたかのような寂しさ。そしてなんだか無性に腹立たしいという怒りの感情だった。

「そもそも、悪意のあるその噂を誰が流したのかしら」

(婚約間近という噂は、あの時スイーツのお店での口づけを見た人よね)

 もしかしたら他の場所で手を繋いでいる姿を見られていたのかもしれないが、どっちにしろそれらは悪意のあるとは言えない噂だ。ならば誰だ。元の噂を上書きするように悪意のある噂へと塗り替えたのは。それに私はあくまでもしがない田舎者の伯爵令嬢だ。常に悪意に晒される高位貴族とは違い、田舎に帰るだけの私にまで悪意を向けた噂を流す理由はどこにあるのだろう。考えられるとすれば私を恨んでいる相手だが、田舎から出て来て知り合いもいない私を恨む相手とは?

「嫉妬、じゃないわよね。だったらフェルナン様の悪い噂を流すのはおかしいわ」

 ならば考えられるのはひとり、いや、一組だけだ。

 私は初めて感じる震えるほどの怒りのまま叔母のところへと向かった。

「マーニー叔母様! 私が今参加出来るお茶会はありますか!?

 突然ノックもなく飛び込んで来た私に目をぱちくりとしばたたかせた叔母は、一瞬だけ顔をしかめる。その表情でピンときた。

「あるんですね、私でも参加出来るお茶会が」

「ジュリア宛に来ているものがあるにはあるのだけれど」

 私の勢いに黙っていることは出来ないと思ったのか、歯切れ悪く叔母が口を開き片手をあげる。その合図で彼女の侍女が銀トレイに乗せた一通の招待状を私へと渡してくれた。その招待状に書かれた差出人は『デシル・リナレス』と表記されている。それだけでなく、わざとらしく『次期パウロ伯爵夫人』という表記もあるがどちらの名前にも心当たりがない。

「でも、断ってもいいのよ。貴女がこれ以上傷付く姿は見たくないの」

「ありがとうございます、叔母様。ですが私は今腹が立っているのです。何か言ってやらないと気が済みません。この方のことは知りませんが、もしこのお茶会に私の元婚約者たちが参加するのであれば行きたいのです」

 そう力強く断言した私を見て、何故か叔母様の表情が心配そうなものから少しだけ明るいものへと変わった。そして苦笑混じりに口を開く。

「ジュリアの表情を見ると大丈夫そうね。でも無理をせず、何かあったらすぐに言うと約束はして貰います。あと、貴女の元婚約者の名前はオビディオ・パウロ伯爵令息よ」

「え」

 オビディオ・パウロという名前にぽかんとした私は、再び招待状へと視線を向ける。そこには確かに『次期パウロ伯爵夫人』という表記があった。と、いうことはつまり。

「そしてジュリアの婚約者と恋仲だったのが」

「デシル・リナレス譲?」

 私の質問にこくりと頷いた叔母に私も苦笑してしまう。言われてみればあの夜会の日、オビディオ、デシルと呼び合っていた――ような、気もする。興味がなかったので全然覚えていなかった。

(こんなの宣戦布告じゃない)

 でも私も丁度その喧嘩を買いたいと思っていたのだ。

「このお茶会、参加します!」

 私は叔母にそう宣言したのだった。


* * *


「まさかここで着ることになるなんてね」

 あっという間に来たデシル嬢主催のお茶会。そのお茶会へ参加するために私が選んだドレスは、フェルナン様と初めて出掛けた時に彼から贈られたオーダーメイドの赤いドレスだ。

 デイドレスにしては少し派手な赤いレースで胸元を飾ったそのドレスは、次の流行と説明された通り、初めて参加した夜会でもあまり見なかった袖にふんわりとしたボリュームをもたせたデザインのドレスだった。ボリュームのある袖ではあるが、胸元と同じ赤いレースが使われシースルーになっているお陰で見た目にもあまり重さは感じない。また、レースの色味が派手な代わりに細部で使われているリボンが黒のベルベット生地でシックになっており全体で見ると落ち着いたデザインになっていた。もちろん髪には同じく彼に貰った黒曜石の髪飾りを着けている。

(このフェルナン様の瞳と同じ赤いドレスと髪色と同じ黒曜石の髪飾りは、私にとっての戦闘服ね)

 彼の色が私の力になっている、なんて考えは流石におこがましいかしら? なんて考えながら、私はアルヘル伯爵家の家紋が入った馬車に乗り込んだ。私がここにいれば彼の評判をもっと落としてしまうかもしれない。だからこのお茶会が終わったらアルヘル領へと帰るつもりでいる。

「こんなお茶会でも、このドレスを着る機会があって良かったわ」

 アルヘル領ではお茶会や夜会なんてパーティーは開かれない。誰かから誘われるようなこともこの十九年間なかったので、きっとこれからもないだろう。まさか戦闘服として着るとは思わなかったが、ある意味今日このドレスが私の元にあったのはまるで彼がそばにいてくれているようで心強かった。

「……なんだ。私、フェルナン様のことが好きだったのね」

 当たり前のように彼の存在を感じ、自分を鼓舞出来る。自身の評判より彼の評判が気になり、一緒にいるだけで楽しくて何でも聞いて欲しいし話して欲しい。彼と体を重ねた時に感じた幸せだって、きっとその時にはすでに根底にこの感情があったからなのだろう。彼が本当は照れ屋で、でも言い方とは裏腹に表情や耳の赤さなどからとても素直で可愛い人なんだと証明したいのだ。

 今まで気付かなかった、けれどずっとそこにあった気持ちを自覚し私から笑みが溢れる。気付いてしまえば何故今まで気付かずにいられたのかと不思議なくらい大きく育っているこの気持ちを胸に、私は初めてひとりで王都の景色を眺めたのだった。


 お茶会の開催場所は、わざわざ彼女が『次期伯爵夫人』と記載したようにパウロ伯爵家の庭園だった。いかに自分が結婚間近で、彼から大事にされているのかということをアピールしたいのだろう。それはどう考えても私たちの悪い噂を当て擦ったもので、私の中にあった疑惑が確信に変わる。悪意のある噂を流したのは彼らで間違いない。

「いらしてくださりありがとうございます」

 来場者ににこやかに挨拶しながら出迎えているのは濃い金髪の令息と茶髪の令嬢。そしてそのふたりに見覚えがあった。

「劇場で会った……!?

 やけに絡んでくるなと思ったら、どうやらあの時のふたりが元婚約者と新しい婚約者の令嬢だったようだ。

(そういえばオビディオ、デシルってあの劇場でも呼び合っていたかも)

 その今更過ぎる気付きに、まるで点と点が繋がるようだ。そしてそれと同時に何故フェルナン様が過剰に反応し気遣ってくれていたのかの理由にも思い当たる。彼もふたりが私の元婚約者たちだと気付き心配してくれていたのだ。

「あら、来てくださったのね。ジュリア様」

 思わずあげた私の声で気付いたらしく、デシル嬢とオビディオ様がこちらへと顔を向ける。相変わらずその顔には悪意が滲み出ているようで、私は息を呑んだ。だが、ここで怯んでいる場合ではない。

「お招きくださりありがとうございます」

「今日はまた一段と……ぐっ」

 全身着飾った私を、劇場で会った時以上にねっとりとした視線で見つめたオビディオ様。そんな彼の脇腹をデシル嬢がグリッと肘で突くと、小さな呻き声があがる。

「いらしてくださり嬉しいわ。ジュリア様には謝りたいと思っていたの」

「謝りたい、ですか?」

 何に対しての謝罪かわからず、警戒を強めた私ににこりと口角をあげるデシル嬢。彼女の目が全然笑っておらず私はごくりと喉を鳴らす。

「だって私がオビディオから愛されたせいで貴女の結婚がなくなってしまったじゃない? 田舎臭いとは思っていたけれど、まさか結婚出来る年齢の相手がほぼいないくらいの領地だったなんて私知らなかったのよ」

 バサリと広げた扇で口元を隠しながらそんなことを言われる。その目は相変わらず嘲笑を滲ませており、当然だが悪びれた様子はなかった。

(でも、同じ土俵に立ってあげる必要なんてないわ)

 落ち着いてゆっくりと息を吸う。あの夜フェルナン様は堂々と相手を言い負かしていた。私に言い負かせるとは思わないが、少しくらい彼の真似をしてもいいだろう。

 事実を正論でコーティングして、直球で!

「そうですか。私はむしろデシル嬢の方が心配ですわ」

「私の……?」

「えぇ。だって正式な婚約者がいたのに、不埒な令嬢と無責任に関係を持つような夫だなんて地獄だもの」

「なっ、自分が選ばれなかったからって何よ! それに私は彼と結婚するの。どこが無責任だと!?

「二人目はどう責任を取られるのかしら」

 言い返されるだなんて思わなかったのか、デシル嬢が一瞬で怒りを露わにする。そんな彼女に私はあくまでも冷静にそう聞いた。

「そうね、私と彼の二人目の赤ちゃんならきっと可愛い……」

「あら、お子さんの話ではないわ。二人目の『令嬢』はどうされるのかなって思ったの」

「二人目の、令嬢?」

 ふふ、とわざとらしく笑ってやると、訳がわからないと呆然とした顔を向けられる。

 そんな彼女の腹部を軽く指さし、私は更にわざとらしく小首を傾げた。

「忘れたのかしら? 私と『婚約中』に浮気して相手の令嬢を妊娠させたのよ。デシル嬢と『婚約中』に、また別の誰かを妊娠させているかもしれないわ」

「なっ! お、オビディオ!?

「誤解だ! 俺はまだ他には……」

「まだ!?

「婚約中ならいいけれど、結婚した後に二人目の令嬢の妊娠が発覚したらどうするのかしら。最初の妻であるデシル嬢とは離縁して二人目の方の責任を取るのか、それとも愛人として家にその令嬢と子供を受け入れるのかもしれないですわね」

 別に何か確証があって言っている訳ではない。私はただ、『自分がされた』という『事実』を元に可能性と言う正論をぶつけただけなのだから。

「ねぇ、本当にそこの彼は無責任ではないと言えますか?」

 それも、直球で。

 デシル嬢から一切目を離さず、畳みかけるように言葉を重ねる。私を馬鹿にしたような態度だった彼女も、私の言葉で少しずつ疑いが芽生えたようだった。もう一押し。噂を流した本人たちの信頼が潰えれば、彼らが流した噂だって信じる価値なんてないとそういう話へ持っていける。そこまで話が発展したならば、少なくとも今聞き耳を立てている人たちには、彼らが口にした言葉が信頼出来るものではないと知ってもらえるだろう。あともう一押しすればきっと、なんて思いもう一度畳みかけようと私が口を開いた時、オビディオ様が声を荒げ私の言葉を無理やり遮る。

「それはお前の負け惜しみだろ!」

 令嬢同士の言い合いではなく、男性の怒号が響いたことでその場がシン、と静まり返った。一瞬怯むが、グッと拳に力を込め睨むように彼を見上げる。

「違います。私はただ、そんな無責任で不誠実な方が言った言葉に真実味なんてないと」

「いや、負け惜しみだ。あと僻みもあるんだろ? だってお前は俺からあの傲慢で口の悪い令息に乗り換えようとして失敗したんだからな」

「そ、んなことっ」

「残念だったな。公爵夫人になれると思って粗暴なあの男に従ったんだろうが、結局お前に残ったのは傷物令嬢という事実だけ。まぁ都合のいい女だったんだろ、あの男にとっても」

 その言い分にまるで脳が沸騰しそうなほど熱くなった。怒りで握った拳が震える。

(何も知らないくせに)

 私はこんな男に婚約破棄されても痛くも痒くもない。そもそも傷物のレッテルを貼った張本人が何を言っているんだという疑問すら湧く。この婚約破棄の件ではオビディオ様に対し怒る感情すらないというのが本当だった。けれど。

(フェルナン様は、いつも私を優先して大事にしてくれていたわ。誠実に向き合ってくれていたのよ)

 頼りになるのにどこか可愛くて、寄り添えばその温かさに癒やされる。握った手は大きいし、足だって私より長いけれど、彼と歩いていて歩幅を気にしたことなんて一度もなかった。それはいつもフェルナン様が私に合わせてくれていたからだ。そうやって気遣ってくれる彼が、この程度の男に貶められるだなんて許せなかった。

「フェルナン様は貴方とは違います!」

「じゃあお前は婚約を申し込まれたのか?」

「それは」

 嘘を吐く訳にはいかず奥歯を噛みしめる。

「人前で口づけまでして愛を求めた結果が、どうだ? お前は今たったひとりでここにいる」

 見せつけるようにデシル嬢の腰を引き寄せたオビディオ様が、私たちの会話に耳をそばだてていた他の来場者に向かって声をあげた。

「確かに順番は間違えてしまったかもしれませんが、私はデシル嬢と婚約し結婚も間近です! そんな我々を妬み、自分が相手にされないことの非がまるでこちらにあるように言いがかりをつける。そんな女性と婚約したいと思いますか? 私は思わなかったからデシル嬢を選んだんです」

 堂々とそう宣言され息を呑む。私を見る目が冷たいものばかりだと気付き、一気に心が冷えた。

(そうだわ、このお茶会の主催はデシル嬢だった)

 私以外の招待客は元々彼らと親しい人たちなのだろう。私の味方になってくれる人などおらず、それどころか私が失態を犯すのを面白おかしく待っているのだ。

「まぁ、そんな性格の悪い彼女となら、あの一方的に相手を追い詰める言い方しか出来ない粗暴な男とお似合いだと思ったんですがね」

「や、やめっ」

「男女関係なく傷付け慣れているフローレンス公爵令息は遊ぶだけ遊んで婚約すらせず、彼女を捨てることを選んだみたいだ」

「ちがっ、そんなのっ」

「口も悪く態度も悪く女癖までも悪いときた! そんな男と結婚したい女性なんていないでしょう、跡継ぎの生まれない公爵家の未来が知れる」

 場の空気が一瞬で悪意のあるものへと変わる。それはこの場にいる私を嘲笑うだけでなく、この場にいないフェルナン様が私を弄び捨てたのだと決定付けるに十分な悪意だった。

 こんなはずじゃなかった。彼の名誉だけでも回復させたかったし、あわよくば彼のいいところを知って欲しいと思っていた。途中までは上手くいっていたはずなのに、やはり社交なんて縁遠い田舎者にはかなわないということなのだろうか。

(どうして? 目の前にいるのは私なのに、私への悪意なら聞き流せるのに……!)

 悔しさから視界が滲む。ここで泣いたらもっとみじめになる。それどころかこの涙さえフェルナン様に飛び火してしまうかもしれない。そうわかっているのに溢れる涙が堪えられず、いまにも零れるとそう思った時、私の涙ごと隠すように視界が大きな手のひらで覆われた。あの劇場で私を助けてくれたように、背後から私を抱きしめるこの温もりを私は知っている。

 真っ暗な闇の中でたったひとつの希望のように聞こえてきたのは、ここにいるはずのないフェルナン様の声だった。

「俺は婚約したい」

「……え?」

 決して大きな声ではないのに、どこか余韻を残すように響いたそんな一言に思わず怪訝な声をあげる。

(聞き間違いよね? 今聞こえるべきは自身の弁明か相手への糾弾だもの)

 だがそんな私の願いを壊すように、再びその場に響いたのは「むしろ今すぐ結婚したい」という、もっとその場にそぐわないものだった。

「おい、突然来て何を」

「伯爵家如きが公爵家相手にそんな言葉遣いをするのか?」

 私を背に庇うように前に出てオビディオ様と相対したフェルナン様のその言葉で、その場にいた全員が口を閉じた。分が悪いと思ったのだろう。

「そもそも婚約者がいる状態で他の令嬢に手を出したのはお前だろ。自分が振ったと思っていた相手が自分を認識していなくてプライドが傷付いたようだが――その程度の男だという自覚をそろそろするべきだな」

 辛辣な言葉を吐いたフェルナン様の顔が今度はデシル嬢の方へと向く。私からはフェルナン様の背中しか見えないが、ビクッとした彼女を見てフェルナン様が睨んだのだろうとそう思った。そのまま私たちの様子を見世物のように見ていた他の招待客へもぐるりと視線を向ける。そして大きすぎるため息をゆっくりと吐いた。

「ここにはくだらない人間しかいないのか? 誰かひとりくらいまともなやつがいてもいいだろう。言っておくが、お前たちの顔は覚えたからな」

 忌ま忌ましそうにそう告げるフェルナン様に、それぞれ顔を青くして視線を外す。公爵家相手に陰口を叩き笑いものにしようとしたことがバレてまずいと思ったのか、彼の圧に負けたのかはわからないが、状況が一気にひっくり返ったことは間違いなかった。

 静まり返る空気の中、最初に我に返ったのはオビディオ様だったが、私を背に庇い彼と相対したフェルナン様は腕を組んで声に苛立ちを乗せる。その声色と言われた内容に怯んだのか、すぐに黙ったオビディオ様へ舌打ちをしフェルナン様が私の方へと振り返った。そしてギロリと私を睨む。

「そもそも何故ひとりで乗り込むんだ」

「何故って……。だって招待されたの、私だけでしたし。あ、もしかしてフェルナン様も招待されていたのでしょうか?」

「いや、俺に招待状は――じゃなくて、そもそも君はエスコートという文化を知らないのか!?

(怒られているのに怖くないわ)

 完全にお説教モードに入ってしまった彼に思わず小さく笑ってしまう。心配ゆえに棘のある言い方をしてしまう、どうしても素直になれない私の好きな彼だった。

「そもそも俺に対する何かをジュリアが気にする必要なんてない」

 だから、と一度言葉を区切ったフェルナン様が私の方へと手を差し出した。

「無理してこんな場所にいる必要はないんだ。それより俺とどこかへ行かないか?」

「どこか、ですか?」

「あぁ、どこかだ」

 少し意地悪そうに口角をあげるフェルナン様に、私の口角もあがってしまう。

(思えば初めてあったあの夜会でも、どこへ連れられるのかなんて教えてくれなかったものね)

 黙ってついてこい、と言われて黙ってついて行った結果、警戒心はないのかと怒られたあの夜会の日。もしあの日に戻ったとしたら、私はまた彼の後をついて行くのだろうか。

(きっと迷わずついて行くわ)

 そしてそれは、当然今もだ。

「はい、貴方とならばどこへでも!」

 私がぎゅっと彼の手を握ると、ふわりと花が綻ぶような笑顔を溢れさせたフェルナン様がそのまま手を引き歩き出す。今日も歩幅は私に合わせてくれており、ついて行くのに苦しくはなかったが、彼が来てくれてから胸の奥がドキドキと苦しいくらいに暴れていた。

「来てくださってありがとうございます。……それと、何度もお誘いを断ってしまい申し訳ありませんでした」

「いや、どっちもジュリアが何か言う必要はない。心配で俺が勝手に来ただけだし、誘いだって、今こうやって一緒にいられるなら何度断っても構わない」

 そう言い切るフェルナン様にきゅんと胸が痛いくらい高鳴った。彼を好きだと自覚してしまったからか、今まで気付かずにいられた色んな感情で心臓が忙しなく脈打つ。

「それにしても、どうしてここに?」

 少し冷静になりたくて彼に手を引かれながらそう聞くと、一瞬ギクリとフェルナン様が体を強張らせる。聞いてはいけないことだったのかしら、なんて不思議に思っていると、しどろもどろになりつつ彼が口を開いた。

「違う、違うんだ」

「何が違うのでしょう?」

「その、監視を付けていたとかじゃないんだ」

「監視」

 あまりにも想定していなかった回答に思わず目をしばたたかせる。そんな私の様子にどんどん居心地が悪そうにしたフェルナン様は、まるで弁明するように言葉を重ねた。

「俺たちのことが噂になっていることは気付いていて。だからジュリアが傷付いたり……というかその、あの噂を信じて領地に帰ってしまわないようにしないとと思って」

「領地に、ですか?」

「王都の観光は大体済んだだろ。いつ帰ると言い出してもおかしくないと……いや! もちろんジュリアが帰ってしまったなら追うつもりはあったんだが!」

「まぁ。私を追ってアルヘル領へ?」

「いや違う。ストーカーじゃ、ストーカーじゃないんだ……」

 どんどん項垂れていく彼の様子がなんだかおかしい。

「もしフェルナン様が我が領地へと来てくださったなら、私がちゃんとご案内いたしますので楽しみにしていてください」

 にこりと笑ってそう言うと、今度は少し呆れた顔を向けられる。

「そうじゃないだろ。だから君は危機感がないと言うんだ」

 ため息混じりにそんなことを言われても困ってしまう。だって相手は他ならぬフェルナン様だ。こうやってまた私を助けに来てくれ、繋がれた手が大きく熱い。いつまでも彼と歩いていたいと思い、ひとりでなんとか出来ると思ってこのお茶会に乗り込んだのにと苦笑してしまう。気持ちを自覚したからか、握られたこの手が相変わらず優しいからか。今彼が側にいてくれることに、危機感どころか心の底から安堵していた。

 それに。

「さっき言ってくださった言葉は本当ですか?」

「さっき?」

 私の問いにフェルナン様が首を傾げる。思い当たっていなさそうな彼に、自分の願望から来る幻聴だったのかと一瞬頭を過ったが、私は思い切って口を開いた。

「婚約したいと……私と、結婚したいと言ってくださったことです」

「ちがっ、あれはジュリアに言ったんじゃなくて!」

「私に言ったんじゃない……」

「いや! それも違くて!」

 いつもわりとすぐに染まる耳だけでなく頬も額も赤く染めたフェルナン様が、その場にバッと跪く。僅かに呻き声をあげて頭を抱えるが、すぐに私を見上げた。

「あれはあの馬鹿どもに言ったんだ。ジュリアには今から改めてちゃんとプロポーズしたいから忘れてくれ」

「それ、もうほぼプロポーズなのでは?」

「そっ、うかも、だが! あー、だからその。――ジュリアが好きだ。こんな俺だが選んではもらえないだろうか?」

(可愛いわ)

 それなのに格好いい。少し口が悪くて素直じゃないのに誰より素直なそんな彼が。

「私も、大好きですっ」

 跪いている彼に抱き着くと、地面に着いた私の膝を軽く払いながら抱き上げる。そして彼に抱き上げられたまま私たちは、初めて想いが通じ合った口づけを交わしたのだった。