「凄い……! こんなに大きな建物、アルヘル領にはありません」

 その日フェルナン様から誘われて足を運んだのは、王都でも有数の劇場だった。彼の手を借り馬車から降りた私は、田舎者丸出しでその劇場を見上げながら感嘆の声をあげる。歴史ある建物らしく、珍しい装飾こそないがひとつひとつの建造が趣を持っており見ているだけでわくわくする。少しはしたないかもと思いつつキョロキョロと辺りを見回していると、くすりと笑われた気がして慌ててフェルナン様の方へと顔を向けた。

「そんなに楽しいなら見慣れるくらい来ればいいだろ」

「ですがうちの領地に劇場はなくて」

「だからその、これから先も王都のこの劇場に足を運べばいいと言っている」

 ゴホンと、とわざとらしく咳払いをしたフェルナン様が私から少し顔を背けつつ更に言葉を重ねる。

「フローレンス公爵家はここの出資者でもあるんだ。だから俺と一緒ならいつでも席を確保出来る。まぁジュリアが王都にいるという前提の話になるんだが――」

「まぁ! この歴史ある劇場の出資までされているなんて流石です」

「違う。そこはただの前置きで」

「前置き?」

 パッと焦ったように再びこちらを向いた彼は、きょとんとする私を見て大きくため息を吐いた。

「いや、いい。ジュリアはそれでいい」

 若干項垂れてしまったようにも見えたが、すぐに気を取り直したのか私へと手を差し伸べてくれる。その手に自身の手を重ねると、ぎゅっと強く握られた。この包まれる感覚に、胸が高鳴ると同時に安心感を得る。彼に手を引かれながら劇場へと入り、中央階段を上った。外から見上げただけでも大きい建物だと思ったが、実際中に入ると想像よりずっと広く、まっすぐ伸びた中央階段のその先にまたまっすぐ伸びる三階へと続く階段がある。アルヘル伯爵家の邸宅だと、この距離ですでに家の壁を突き抜けてしまっているだろう。

(そんな劇場の出資って、ちょっと想像つかないわ)

 規模の大きさに戸惑いつつ彼の言う席へと向かって歩いていた時だった。

「ようこそお越しくださいました、フェルナン様」

 連れ立って歩く私たちに声をかけたのは少し年配の、そして見るからに特別な雰囲気を持つ男性である。

「支配人」

(支配人!?

 その男性の正体がこの大きな劇場の支配人だと知って慄いた私だが、ここで怯んでばかりもいられない。フローレンス公爵家が出資をしており、そしてフェルナン様へ声をかけてきたのなら仕事の話である可能性もあるだろう。私は彼の同伴者ではあるが、流石にそこまで踏み込む権利は持っていない。繋いでいた手を離すことに何故か一瞬躊躇ったものの、何事もなかったかのように笑顔を作り彼の手を離そうとし――たが、逆にぎゅっと強く握られ離せなかった。

「あの、フェルナン様。私は少し離れて待っておりますので」

「大丈夫だ、すぐに終わる。支配人、彼女がこの場にいても問題はないな?」

「そう、ですね。問題は特に……」

(それ絶対問題があるやつだわ!)

 支配人の戸惑った反応にそう確信した私が慌てて彼へと視線を向ける。ただの同行者である私に聞かせられない話なんていくらでもあるだろう。なのに相変わらずこのまま話し始めようとするフェルナン様に焦りつつ、私は背伸びし彼の耳元へ口を近付けた。

「フェルナン様の邪魔はしたくないのです。ひとりでも待つくらい出来ますのでご安心ください。あと……」

 これは口にするのを迷ったが、どうせなら全て言ってしまえと私は言葉を続けた。

「ちゃんと待っていたご褒美に、戻られたらまた手を繋いでくださいね」

「ンンッ!」

 私の話を聞き終えたフェルナン様の耳が一気に赤くなった気がするが、それと同時に握る手の力も弱まったのでその隙に一歩下がる。

「では一度失礼いたします」

 そう軽くお辞儀をし、私はふたりから遠ざかった。


「あまり遠くには行くべきではないわね」

 この広い劇場ならばうっかり迷子になることもあり得るだろう。その結果今日の演目を私だけでなくフェルナン様までも見られなくなるかもしれない。流石にそれは不本意なので、出来れば新しいどこかではなく通って来た道のどこかにいるべきだろうと思った。

「……となると、二階しかないのよね」

 中央階段を一階分下り着いたのは二階。ここは先ほど通り過ぎただけなのだが、三階の中央階段へと続く踊り場には絵画が飾られておりそれらを眺めようと思ったのだ。幸いにもフェルナン様たちは三階の踊り場で話されているので、彼の視界に入ったまま会話の聞こえない位置という迷子とは無縁の絶好のポジションである。もちろん私からも彼が話している姿が見えるので、話が終わり次第合流することも容易そうだった。

 早速壁に飾られている絵画たちへと目を向ける。そこに飾られているのはどうやらこの劇場で上映している演目のもので、事前に今日観ると聞いていた演目もあった。私が見る演目以外の演目も多数あるようで、それはこの劇場の広さゆえに出来ることなのだろう。喜劇から悲恋、オペラや演奏会なんかもあるようで気付けばすっかり夢中になって見入っていた私だが、ふとじっとこちらに投げつけられるぶしつけな視線に気が付いた。

 視線の先を辿ると、濃い金髪の令息と、その男性の腕にしがみつくようにして腕を絡めている茶髪の令嬢がいる。このぶしつけな視線の正体は令嬢から向けられているもののようだったが、残念ながら私には心当たりがなく思わず怪訝な顔を向けた。

(もしかしてドレスがマナー違反なのかしら)

 また田舎臭さを出してしまっているのかと慌てて自身のドレスへと目線を落とすが、今日着ているドレスはこの劇場へ行くためにとフェルナン様が用意してくれたドレス。私の淡い金髪に似たイエローベースのドレスで、細部にはまるで彼の瞳のようなルビーと彼の髪色である黒曜石があしらわれており、あまり流行には敏感でない私ですら洗練された素晴らしいものだと理解出来た。そのドレスがダメな訳はなく、ならば考えられるのは私自身の田舎臭さだろう。ほぼ無意識に自身の腕に鼻を近付けスンスンと匂いを嗅ぐと、ブスッとした視線を投げていた彼女が急に吹き出した。

「本当に貴女ってみすぼらしいのね、気品という言葉をご存じないのかしら。オビディオと同じ伯爵位だなんて信じられないわ」

「同じ伯爵位って……。失礼ですが、私のことをご存じなのでしょうか?」

 クスクスと嘲笑しながら話しかけられるが、やはり私に心当たりはない。仕方なくそう聞くと、一瞬呆然とした彼女がすぐにわなわなと震え怒りを表した。

「それ、わざとなの? どうやって二階まで来たか知らないけれど、恥をかく前にさっさと帰りなさいよ!」

「どうやってって聞かれましても、この中央階段を上って来ただけです。それともおふたりは裏口から入られたんですか?」

「なんですって!? 本当に失礼だわ! 裏口だなんて、私の家が子爵家だからって馬鹿にしているの!?

「えぇっ、そんなつもりはありませんが」

 何故裏口が相手を馬鹿にすることになるのかが理解出来ず愕然とする。正直これ以上何を言っても令嬢の怒りを買うだけだと判断した私は、ずっと黙ったままの男性の方へ彼女を止めて貰おうと顔を向けた。しかし私と目が合ったはずの男性は、何故か放心したかのように私を見つめるだけである。その視線が、令嬢から向けられているのとはまた違った種類のぶしつけさを孕んでおり居心地が悪くなった。本能的に彼から距離を取りたいと思い、つい後退ろうとすると、その腕を何故かその令息に突然掴まれる。

「痛っ」

「ちょっとは見れるようになったじゃないか」

「は……?」

 思ったより強く掴まれた腕が軋み、痛みから小さく声をあげる。だがそんな私には気付かなかったのかニヤリと口角をあげた彼が更に一歩近付きゾワリと悪寒が走った。

「こんなところまで俺を追って来たということは、やはり俺のことが忘れられなかったのか?」

「ちょ、オビディオ!? 貴方何を言って」

「少し黙っていろよデシル。今俺はジュリアと話を」

「黙るのはそっちだろう、パウロ伯爵令息」

 ふわりと後ろから抱きしめられ、相手に抗議するような厳しい声色が耳元に聞こえる。その声色と背中越しに感じる温かい体温で、強張っていた私の体からふっと力が抜けた。

「フェルナン様……!」

「遅くなってすまない、もう大丈夫だから」

 私へ向ける顔も険しいフェルナン様だが、彼のこの顔が怒っているのではなく心配している顔なのだともう気付いているので、反対に私からは笑顔が溢れた。そして再び目の前のふたりへと視線を戻したフェルナン様は、私の腕を掴む男性の手首をギリッと力を込めて握る。

「彼女に触れるな。それから、開演も近いから俺たちはそろそろ失礼させてもらう。お前たちは精々二階だろうが俺たちは三階だからな。ここからまだ歩くんだ」

「ッ」

 フン、と鼻を鳴らしたフェルナン様を見て何故かふたりともがそれ以上の言葉を飲み込んだ。そして険しい表情で二階の通路へと小走りに去る。そんなふたりの背中を見ながら私は首を傾げた。

「何だったのかしら」

「優先順位が高く身分もある人間しか三階には上がれないから悔しかったんだろ」

「なるほど。フェルナン様は出資者ですもんね!」

 優先順位も身分も負けていることを突きつけられて、面目が立たなかったということなのだろう。理解するのと同時に令嬢に言われた『どうやって二階に』と聞かれた意味も理解する。私のような田舎者が二階で観るなんて出来ないのだから、という嫌味だったらしい。

「ジュリア、本当になんて詫びればいいか」

 ふむふむと納得し何度も頷いていると、今度は眉尻を下げて申し訳なさそうな顔になったフェルナン様と目が合う。その表情に私は思わず吹き出した。

「ふふっ、フェルナン様に助けていただくのは二度目ですね」

「だが今回の接触は防げたはずだろう」

「そんなことないですよ。こんなところで知らない人に絡まれるなんて誰も想像出来ません」

 フェルナン様を励ますよう元気にそう答えると、今度は彼の表情が唖然としたものへと変わる。

「知らない、人?」

 驚いた表情のフェルナン様を不思議に思いながらこくりと頷くと、堪らずといった様子の彼が吹き出してしまった。

(そんなに有名なふたりだったのかしら)

 だが仕方ない。こちらは田舎出身のしがない伯爵令嬢なのだ。王都の貴族事情に詳しくなくても許して欲しい。

「はい。何故か向こうは私のことを知っているようでしたが、私に心当たりはありません。それより折角素敵なドレスをいただいたのに、私から田舎臭さが出ていたせいでこんなことになってしまって……」

 はぁ、とため息混じりにそう答えると、笑っていたはずのフェルナン様に今度はガッと勢いよく両腕を掴まれた。だがさっきの男性とは違い、フェルナン様に腕を掴まれてもちっとも嫌じゃない。

「それは違う! その、ドレスはよく似合っている。可愛い、から」

「! あ、ありがとう、ございます」

 じわじわと頬が赤くなりながらそう告げられ、釣られて私の頬も熱くなった。

「そろそろ行くか。演目が始まってしまう」

 顔を隠すようにくるっと後ろを向いたフェルナン様だが、その赤く染まった耳とうなじは隠せておらず、なんだか胸の奥がくすぐったかった。

「ご褒美は、ありますか?」

「ないだなんて言ってない!」

 きっとさっきのやり取りを思い出したのだろう。ぎゅっと手を握られると私の頬が自然と緩む。同じ力強さで私も彼の手を握り返すと、彼がビクッと反応したが握った手を離されることはなかった。


 そしてそんな劇場へのお出掛けから早数日。

「ジュリア、今日も出掛けるのか?」

「はい、お父様。今日は新しく出来たスイーツのお店に行く予定なんです。お土産買ってきますね」

「そうか。楽しんで来るんだよ」

 これがフェルナン様とのお出掛け何回目だっただろうか。観劇やオペラといったアルヘル領では観られないものや、移動サーカスという王都でも珍しいものにも連れて行ってくれた。ただぶらりと散歩に誘われることもあったし、そのどれもがフェルナン様と一緒だと不思議と楽しいものだった。途中突然知らない人に絡まれるというハプニングはあったが、冷静かつ紳士的にフェルナン様が撃退してくれたので問題はなく、むしろ彼の素敵なところをまたひとつ知れたと嬉しくもあった。

(領地には劇場といった施設はないけれど、移動サーカスのようにテントを張ればちょっとした観劇なら楽しめるんじゃないかしら)

 私より五歳年上のフェルナン様。それ故の余裕か、エスコートの手は落ち着きマナーも完璧。田舎で伸び伸びと育ったせいで、高級店ではあまり上手く振る舞えない私をさりげなくカバーし、普通の令嬢とは違うことをしても見守ってくれる。そんな彼が私の隣で表情をくるくると変える様子は可愛くて、いつも私の心臓をうるさくさせた。

(いつからか彼が来てくれるのを待っちゃうのよね)

 自分にそんな変化が訪れるだなんて思わなかったし、その変化もなんだか楽しくてくすりと笑みを溢す。

 そんなことを考えながら窓の外を眺めていると、門の前に馬車が停まったことに気が付いた。何度も見たフローレンス公爵家の家紋の入った馬車だった。

「来たわ!」

 彼が迎えに来てくれたことに心を躍らせ、部屋から飛び出そうとする私に父が苦笑しつつ一緒に出迎えに出てくれる。身分差があるというのもあるのだろうが、折角取り付けた婚約が娘の目の前で破棄されたことを引け目に感じているようで、しっかりフェルナン様を見極めたいらしい。

「わかっていると思うけど、フェルナン様と私はなんでもないですからね?」

「あぁ、わかっているよ。ジュリアと彼が何の関係もないということは。それでも一応、父親だからね」

 きっと娘に初めて出来た異性の知り合いということで気になるのだろう。

(私たちの間に何もない、ということは……ないのだけれど)

 つい先日私から望む形で体を重ねてしまったものの、私とフェルナン様は婚約者同士ということもなければ恋人ということもない。あれはあくまでも今後経験することがない私のための行為だったという認識でいる。

「だって彼から何も言われてないし……」

「ジュリア?」

「あ、いえ、なんでもないです」

 私の呟きは聞こえなかったのか少し不思議そうな父に慌てて顔を左右に振った私は、小走りに玄関へと向かった。


「今日は王城へ行かないか」

「王城、ですか?」

 新しく出来たスイーツを食べに行こう、と誘われていたはずの目的地が突然変わったので思わずそう問うと、彼がこくりと頷く。だが、今日の私のドレスは城下町へスイーツを食べに行くためのもの。貴族街のお店と聞いていたので比較的しっかりとしたデイドレスだが、流石に王城へ行けるほど着飾ってはおらず戸惑ってしまう。

「ですが、私はその……」

 王城へ行けるようなドレスを着ていません、という私の戸惑いをどうやら勘違いしたらしい父とフェルナン様が焦ったように同時に口を開いた。

「大変申し訳ございませんが、娘はまだ登城できるほど心の傷が癒えておりません」

「あぁ、あの場所が君にとって辛い場所だということはわかっている」

「えっ」

 どうやら私が婚約破棄をされた場所、ということで傷付いていると思っているらしいふたりに唖然としてしまう。何度も言うが王城は確かに私にとって突然婚約者から婚約破棄を告げられ、傷物令嬢というレッテルを貼られた場所ではある。が、同時に私自身婚約者がいることすら知らず、当然彼に未練なんてあるはずもない。知らない人から謂れのないことを突きつけられたというだけの場所だ。

「そんな場所に娘を連れて行くなど父親として許可は出しかねます」

「その気持ちもわかる。だが俺はジュリアに嫌な思い出の場所を残して欲しくないんだ」

 私そっちのけで話すふたりをぽかんと眺めていると、更にフェルナン様が力説を始めた。

「いい思い出にして欲しいんだ。出来れば、俺と塗り替えた思い出を共有してはもらえないだろうか」

 その説得が効いたのか、純粋な父がチョロいのか。目元にじわりと涙を滲ませ今度は逆にこくこくと何度も頷き始める。

「フェルナン様がそこまで仰るのなら、父として送り出しましょう」

「そうか……! 必ず彼女の素敵な思い出にしてみせる」

「娘をどうか、よろしくお願いします」

 そしてそのまま話がまとまりかけて焦ったのは私だった。

「お、お待ちください! 私、王城には」

 だから行けるようなドレスではないのです、という言葉は、フェルナン様が私の手を両手で握ったことで最後までは口に出来なかった。

 まるで乞うように、そして大切なもののように手を包まれる。それは私自身が特別な宝物のように錯覚してしまいそうなほどで、熱い想いを孕んだような視線をルビーのような瞳でじっと向けられた。

「突然の申し出で驚かせてしまったことを謝罪する。だがもうあんな思いはさせない」

「いえ、そういうことではなくて」

「一部のスペースを貸し切ったんだ、邪魔は入らないから安心して楽しめる」

 貸し切った、という言葉に愕然とする。一部とはいえ王城を貸し切ることが出来るだなんて通常では考えられない。だが彼の言葉が本当だとすれば、多少ドレスが見劣りしても楽しめるということだった。

(だったらまぁ、いいのかも)

 ふむ、と少し考えた私は、一体どうやって貸し切るなんて出来たのかということが気になったこともあり、彼の手を取ったのだった。


 そんな経緯で向かった王城。

 王城へ入るため、門兵である騎士のところを通る時はみすぼらしいと思われないか不安だったが、フローレンス公爵家の家紋の入った馬車だったお陰か特に咎められることもなくあっさりと登城出来た。

「ジュリア、手を」

「ありがとうございます。フェルナン様」

 先に馬車を降りた彼が差し出してくれた手を取り、続いて馬車を降りる。彼がそのまま手を繋いで歩き出したので、私もぎゅっと握り返し彼の横を歩いた。

 体を重ねた日から変わったことがいくつかある。そのひとつが、この手を繋ぐという行為だった。体を重ねる前も手を繋いだことはあったが、頻度が格段にあがったのだ。段差がある場所はもちろんだが、こういった整備された場所でも手を繋ぐことは珍しくなく、あまりにも当然のように手を繋がれるので、私もなんだか慣れてしまい自然と握り返すことが日常になりつつあった。

(私たちは何でもないのにね)

 家を出る前にした父との会話を思い出し、そんなことを考える。婚約者でも恋人でもなく、だが堂々と手は握る。一度きりの関係はあったが、あれは私たちが口にしなければ誰に知られることもない。けれど、手を繋ぐという行為は違う。出掛ける先々で手を繋いでいれば目撃者が増えるだろう。王都の友達同士というのは手を繋いで出掛けるのが普通なのだろうか、いや、そもそも私たちは友達なのだろうか。

「友達?」

 自身が呟いたその言葉に違和感を覚える。ツキリと僅かな胸の痛みに首を傾げた時だった。

「着いたぞ」

 フェルナン様のその言葉にハッとし顔をあげると、そこは美しい薔薇園だった。

「綺麗……!」

「ここはそもそも事前に申請しないと入れないんだ。だからジュリアにとって嫌な相手は誰も来ない、もうあんなことは起こらないから安心していい」

 彼の説明に貸し切りの答えを知る。申請をしないと入れない場所ならば、他の人の申請と時間や日にちをずらせば貸し切りになるだろう。それに申請しないと入れないということはつまり人数制限や用途の制限をしたいということだ。もちろん彼は貴族の中でもっとも権力のある公爵家嫡男。他の申請を却下させた可能性もあるが、最初から一組しか入れないという可能性もある。私にわかるのは、今この美しい空間がふたりだけのものだということだった。

「少し散策しよう」

「はい」

 彼の提案ににこりと笑って頷くと、彼の口角が僅かにあがる。その僅かにあがった口角から彼も楽しんでいるのだと確信し私の頬が更に緩んだ。

「色んな色の薔薇が咲いているんですね」

「色だけじゃない。ここには希少な種類の薔薇も含め様々なものが咲いている」

「だから事前に申請しないと入れないのですか?」

「あぁ。それもあるだろうな」

 それも、とわざわざ強調した言い方に引っかかりを覚える。私が不思議に思い彼を見上げると、わざとらしくフェルナン様がゴホンと咳払いをした。どうしてか緊張した面持ちの彼の耳がじわりと赤らんでいくのを見て、私も何故かドキリとする。薔薇園を少しそわそわした気持ちで歩く。無言が続くが決して嫌なものではなく、チラリと彼の様子を盗み見ながら進み続けた。しばらく歩き、着いたのは少し開けた空間。薔薇園ほど花に囲まれてはいないものの、手入れされた生け垣の間に美しい大輪の薔薇が咲き誇り、ここも同じくらい美しかった。そしてその場所の景色に見覚えがある。私、以前にもここに来たことがあったのだろうか?

「ジュリア」

「はい、フェルナン様」

 一瞬記憶を遡ろうとしていた私は、フェルナン様に名を呼ばれ慌てて彼の方へと向き直る。すると、どこから出したのか薔薇の花束を渡された。

「これは……」

「その、君はまだ婚約破棄をしたばかりだからなかなか言い出せなかったんだが、俺はジュリアのことを」

 婚約破棄という単語を聞き、私の中にあった疑問が一気に繋がる。そうだ。ここはあの夜会の日にフェルナン様が連れ出してくれた裏庭だ。

(どうりで見覚えがあるはずだわ)

 あの時はもう暗くなっていたので気付かなかったが、こんなに美しい庭園だったのかと改めて実感する。そして同時に婚約破棄された場所がすぐ近くにあるということだ。今日迎えに来てくれた時も、嫌な思い出の場所を残して欲しくないと言ってくれていた。そしていい思い出に塗り替えるとも。

 薔薇園を歩き抜けわざわざここに来たのも、薔薇の花束を渡してくれたのもその塗り替え演出のひとつなのだろう。美しい薔薇を堪能し、その薔薇を贈られたならば知らない相手から一方的に告げられた婚約破棄なんかよりよっぽど印象に残る。言葉通り彼は、この場所で私の思い出を素敵なものへと塗り替えてくれたのだ。

「嬉しいです、フェルナン様!」

「! も、もう伝わったのか?」

「はい! 今私にとってこの場所が婚約破棄された場所ではなく薔薇を贈られた場所になりました!」

 弾む気持ちのままそう告げると、パァッと表情を明るくしたフェルナン様の目が段々と細くなる。心なしか口角も下がってしまった。

「……薔薇を、贈られた場所?」

「え、えぇ。薔薇を贈っていただきましたので」

「婚約を申し込まれた、ではなく?」

「あら? 私フェルナン様にお伝えしていなかったのかもしれませんが、あの婚約は父が勝手に取り付けたもので私は自身が婚約していたことも知らなかったんです。ですのであの方から婚約を申し込まれた訳ではないんですよ」

「それは知っている」

 てっきり勘違いしているのかと説明するが、どうやら知っていたらしくあっさり告げられる。ならば彼は何の話をしているのだろうと首を傾げた私に、明らかに脱力してしまったフェルナン様は少し俯きながらため息を吐いた。

「それで、ここはジュリアにとっていい思い出に塗り替わったんだろうか」

「もちろんです。フェルナン様と散策出来て、そしてこんなに素敵な花束までいただけてとてもいい思い出になりました!」

 彼の問いに大きく頷きながらそう断言すると、ふっとフェルナン様の表情が柔らかくなる。そしてゆっくりと彼の顔が近付き、ちゅ、と掠めるように唇が一瞬だけ重なった。

「ならこの口づけも思い出のひとつに刻んで欲しい。願わくばこれもいい思い出のひとつだと嬉しいな」

 くすりと悪戯っぽく笑った彼が再び私の手を握り、来た道を戻り始める。

(避けようと思ったら避けられたのに)

 だが避けたくないと思ってしまったのは何故だろう。この感情はさっき『友達』と考えた時に抱いた違和感に似ているとそう思った。


* * *


「予定通りスイーツも食べに行くか」

 王城散策を終え、フローレンス公爵家の馬車へと戻ろうとした私にフェルナン様がそう提案してくれる。時刻はまだ昼過ぎ、帰宅するにはまだ早いと思った私はすぐに頷いた。

 そうして向かったお店は、城下街のど真ん中に位置しており、まるで屋敷のような作りをしている。

「凄い、王都にはこんなに大きなお店があるんですね」

 呆気に取られながら見上げてそんな感想を漏らした私は、今の発言はあまりにも田舎者丸出しだったかと慌ててフェルナン様の方へと視線を移した。

「店内が狭いと席同士が近くなってしまうからな。隣の会話が聞こえるような騒がしい店は貴族たちに好まれない。とは言っても、あえて席同士をぎゅうぎゅうに配置して騒がしくする方が好まれる店もあるけどな」

 嫌な顔をされるかしら、なんて心配になったことが申し訳ないくらい平然とそう説明してくれる彼に思わず心が躍る。彼のこういうところが私は――なんだろう。

「騒がしい方が好まれるって、どういうお店なのでしょう?」

「酒屋とかだな。楽しくお酒を飲もうとして店に入り、そこが静まり返っていると騒ぎ辛いだろう」

 そう言われ想像してみる。確かに本来騒がしい場所が静かだと逆に落ち着かなさそうだと思った。それに酒屋なら田舎のアルヘル領にもある。主に豊作を祝ったり領民たちを労ったりする時に使われるその場所は、子供も大人もごちゃ混ぜで騒ぎ、大鍋でシチューを作って配ったりと小さなお祭りのようだった。その楽しいお祭りで誰も騒いでいないとなれば、それは確かにフェルナン様の言う通りで寂しいだろう。

「なるほど、納得しました。私も行った時に静まっていたら残念に感じると思います」

「……え、ジュリアはまさか行ったことがあるのか?」

「? はい。もちろんです、定期的に行きますよ」

「て、定期的に行くのか!?

 アルヘル領でのそのお祭りを思い出しながらそう言うと、何故か愕然とした顔を向けられる。

(私が行っていたらおかしいのかしら)

 だがアルヘル領の酒屋は老若男女で楽しむ場所で、それも豊作を祝ったり領民たちを労ったりすることも多いのだ。そこへ領主の娘に行くなというのはおかしいだろう。むしろ領主の一族だからこそ足を運び積極的に労いの声をかけるべきはずだ。

「はい、私こそが行くべき場所です。これからも積極的に行くつもりです」

「積極的に行くだって!? ちょ、本当に意味がわかって言っているのか? 酒屋というのは酒を飲むだけの場所じゃないんだぞ」

「もちろんわかっています」

 子供も来るのだ、お酒しかないと子供が楽しめない。私はちゃんと理解していると告げるため大きく彼へと頷いて見せた。

「そんな、花を買う場所でもあるとわかって……?」

「花、ですか?」

 ショックを受けたように僅かに後退りしながらフェルナン様が呟いた言葉に引っかかりを覚えるが、アルヘル領名産の牛の乳がふんだんに使われたシチューが出るのと同じことかとすぐに納得する。

(確かに王都だとこれといった名産はないものね)

「えぇ、花だって求められればいつでも大丈夫です」

「いつでも!? そんな、確かにあの時ジュリアは初めてで……っ、いやダメだ、それは絶対にダメだ!」

「えぇ?」

 ダメだと念押しされ戸惑ってしまう。お酒とジュースに美味しいシチュー、それらが並べられたテーブルに花が飾られていればきっと可愛いと思ったのだが、そんなにダメなことなのだろうか。

(それとも花がアルヘル領の名産ではないからダメなのかしら?)

 もしかしたらそうなのかもしれない。豊作を祝うのならば、領地で採れたものを中心に用意すべきだとフェルナン様は進言してくれているのだ。それならば理解出来る、という答えに行き着いた私は再び口を開いた。

「では乳にします」

「変わらん! ダメに決まっているだろ!」

「えぇえ!? これもダメなのですか!?

「当たり前だろ!」

「ですが牛の乳は我がアルヘル領の名産品のひとつですよ?」

「……待て、ジュリアは何の話をしているんだ」

 私の説明を聞いたフェルナン様が突然ピシッと固まってしまう。どうしてそのような反応になったのかがわからず怪訝な顔を向けると、「あー」と唸るような声を零しつつフェルナン様が両手で顔を覆った。

「アルヘル領の酒屋ならいいが、王都の酒屋には行かないでくれ」

「どうしてですか?」

「花は、その……女性の隠語だからだ」

「えっ!」

 教えられた内容に思わず目を見開いてしまう。隠語。花が、女性の隠語。

(つまり花を買うって、女性を買うって意味だったの?)

 そう知った上で自身が口にした内容を振り返ると、まるで誰かに買ってもらうべく積極的にそういった場所へ出入りし、体がダメなら胸だけでの奉仕をしようとしているように聞こえていたことに気付く。それと同時に必死に阻止しようと焦っている彼の姿も思い出し、まるで嫉妬のようなその反応が嬉しいと思った。

(嫉妬だったらいいのに、なんて)

 そんなことを考えてしまう自分を少し不思議になりつつ、彼の赤く染まった耳へと視線を向ける。それと同時にあることに気付いた。その隠語を知っているということは、そういった目的で酒屋を利用したことがあるということではないだろうか。そういった場所と無縁ならそもそも知識なんて増えないし、公爵家の彼がわざわざ酒屋へ行く理由なんて、気付いてしまえばもうそうとしか思えない。

「フェルナン様は知っていたんですね」

「へ?」

「フェルナン様は花が女性のことだって知っていたんですね」

「そ、それは」

「フェルナン様は、花が、女性のことだと!」

「ご、誤解だジュリア! 俺は買ったことはないから!」

 ムスッと唇を曲げ、取り繕うことなく思い切り不機嫌な顔を彼へと向ける。態度の悪い私を見て怒ったっておかしくないのに、その私を見たフェルナン様は何故か途中で思い切り吹き出した。

「私、怒っているんですけど」

「ははっ、本当だ。怒ってるな。そりゃ俺だって男だからそういった場所があることくらいは知っているが、俺自身が利用したことはないし今後も利用しないと約束する」

「……本当ですか?」

「あぁ。ジュリアがそんな顔をするなら絶対利用しないし、それにその……俺の自惚れでなければ嫉妬だろ? 怒ってくれるなんて嬉しいな」

 クスクスと笑みを溢しながら言われた嫉妬が嬉しいという言葉にドキリとする。一般的にあまりいい言葉ではないはずのその言葉を、嬉しいと言われるのはどこかくすぐったく、それでいて私自身が嫉妬していることを改めて自覚させられたからだ。

(私もさっき嫉妬だったらいいのに、なんて思ったもの)

 もしかしたら彼と同じ気持ちなのかも、だなんて考え、私の機嫌はすっかり直ってしまった。

「それにしても、フェルナン様は色んなことをご存じなんですね」

「まぁ知識くらいはないとな。前にも言ったが俺は評判だって良くないし」

「見る目がない人ばかりです」

 私のその返事を不思議に思ったのか突然フェルナン様が黙ってしまい少し驚く。私にとってただ思ったことを言っただけのつもりだったので、どうして突然黙ってしまったのか理解出来なかった。言い方が悪く怒らせたのかも。そんな不安が胸を過り焦りながら言葉を重ねる。

「え、だってフェルナン様はいつも優しいですし」

「優しいとか言われたことはないんだが」

「えぇ? でも私の思い出を塗り替えるためにわざわざ庭園を貸し切ってくださって、薔薇の花束だってプレゼントしてくださいましたよ。さっきだって私が嫌なら行かないと約束してくださいました」

「だが俺は口だって悪いだろ。気の利いたことだって上手く言えず、言いたい言葉も伝わらない」

 確かに初めて会った時の彼の言葉は決して上品とは言えないものだったが、明らかに相手に非があったし私をあの婚約破棄の場から連れ出してくれた。あの時の彼らの言い分が不快だったため割り込んだのだとしても、連れ出すという行為はどう考えても私を助けるためのもの。言葉こそ悪かったかもしれないが、行動は私が好感を持つのに十分だった。

(それに、彼の耳はとても素直で可愛いもの)

 恥ずかしい時だけでなく、嬉しい時も染まる彼の耳。フェルナン様は気付いていないだろうし、可愛いなんて言うべきではないとわかっているから口にはしないが、こんなに可愛らしい彼の評判が良くないなんて私にはどうしても信じられなかった。

「伝わらなかったなら何度でも伝えればいいだけです。私はそんなフェルナン様が好きですよ」

「好……っ!? そ、それを言われるのは二回目だが、その、その意味は」

「石言葉にも詳しかったことには驚きましたが、本当に多方面へと学びを伸ばされていて尊敬します」

「じゅ、ジュリア、その俺も」

「そういえばあの時アイオライトの石言葉、『愛を』の続きは何なのですか?」

 今日も彼の耳に輝くアイオライトのピアス。以前この話が出た時、気になる部分で話を閉じられたことを思い出して再度聞いてみる。すると気合いを入れたようにゴホンと咳ばらいをした彼が、私へとまっすぐ向き直って真剣な声で話し出した。

「――俺は、ジュリアに貰ったこのアイオライトの石言葉と同じで、君への愛を貫……」

「あのぅ、入られますか?」

「え!」

 フェルナン様の言葉を遮るよう物凄く申し訳なさそうに声をかけられ、思わず声をあげる。慌てて周りを見渡すと、どうやら私たちが扉の前で話し込んでいたせいで行列が出来てしまっていた。

「ごめんなさい、入ります!」

 私たちの後ろに並んでいた令嬢に慌てて謝罪し、フェルナン様の手をガッと握った私は焦りながら店内へと入る。話の続きが少し気になったが、だからといって誰かに迷惑をかけてもいいという訳ではない。まさかこの時、彼の瞳が悲しみを通り越し死んだ目になっているなんて思いもしなかった私は、いつかまた改めて聞いてみればいいかと楽観的に思いながら席に向かってひたすら歩いたのだった。


 店内で私が食べたのはレモンが爽やかなケーキだった。今日のこのお店に誘ってくれたのはフェルナン様だったが、どうやら彼はあまり甘いものが得意ではないようで、紅茶ばかりを飲んでいた。

(私が喜ぶと思って連れて来てくれたんだわ)

 甘酸っぱいケーキを楽しみながらする他愛のない話はとても楽しく、気付けば時間はあっという間に過ぎた。帰りにはいつの間に用意してくれていたのか叔母や父、そして叔母の家の使用人たちにもお土産を買ってくれており、そのお土産が馬車に積まれるのを呆然と眺めてしまう。最近よく手を繋いでいたこともあり、その光景を眺めながら彼の手を握るとすぐにぎゅっと握り返された。その手が熱く、チラリと彼の耳を盗み見ると相変わらずじわじわと染まり始め、胸の奥がきゅうっとする。

 フェルナン様と色んな場所へと足を運んだ。領地にはないもの、普段足を踏み入れない場所。領地でも出来るが彼とだからこそより楽しくなれることもしたし、新しい店で一緒にスイーツだって食べた。あと彼と行っていない場所はどこが残っているのだろう。

 王都を案内すると提案してくれた彼と色んな経験をする度、少しずつ帰る日が近付いてくることを実感する。そしてその事実が寂しいとも感じていた。もちろん私が領地へと帰ったところで縁が切れる訳ではないだろう。手紙を出せば、フェルナン様なら少しぶっきらぼうな返事をくれる気がする。それでも片道一か月という距離は決して近くなく、こうやって彼と出掛けることは滅多に出来なくなるはずだ。そう思うと、今隣にいられるということがとても貴重で、とても大事な時間だった。

 そんな時間に浸りたくて、彼へと体を寄せる。いつもより近く、だが体を重ねたあの日よりは遠いこの距離がもどかしく感じていると、フェルナン様に小さく名前を呼ばれ顔をあげた。

「んっ」

 王城の庭園で交わしたように、彼から口づけられ慌てて少し距離を取る。

「こ、ここには人目がありますが!」

「可愛いジュリアが悪いだろ」

「そんなことっ」

 顔が熱い。きっと私の頬もさっきの彼の耳のように赤く染まっているのだろう。

(それなのになんで今は飄々としているのよ)

 彼の照れるポイントがわからずなんだか悔しい気持ちになるが、だが決して嫌ではなかった。

 高鳴る鼓動に苦笑しつつ、再び彼との距離を詰める。流石に再びの口づけはなかったが、私を可愛いと言い反応をおかしそうに見つめるフェルナン様が可愛いかった。このむず痒く、だが穏やかで心地良い時間に浸る。この時の私は確かに幸せを感じていた。


 ――だから、気付かなかったのだ。

 この世界には、穏やかな時間だけが存在する訳ではないということを。ほんの少しの悪意で全ての時間が砕けてしまうということに、私はまだ――