ダムローへ向かうにあたって、タタをどうするべきかという問題が浮上した。タタにしてみれば、せっかく養殖場から脱出して、旧オルタナ、はこぶねまで逃げてきたのだ。養殖場があるダムローに行きたいだろうか。二度と戻りたくない、近づきたくもない、と思っていたとしてもおかしくはない。

 留守番させる案も出たが、タタはマナトたちから、とりわけマナトから離れたがらなかった。身振り手振りでダムローに行くことを説明すると、理解してくれているのかどうかは不明だが、うなずいてみせた。

 まあ、途中でタダが不安がったり、引き返そうとしたりしたら、そのときまたどうするか考えればいい。マントが長すぎて少々動きづらそうなので、首の周りに巻きつけるようにして、仮の裾上げをした。あとでハルが丈を短くしてくれるという。

 タタは小柄だが健脚で、マナトたちがとくにゆっくり歩かなくても平気でついてきた。話しているうちにどんどん単語を覚えて、マナトの質問に答えるだけじゃなく、タタのほうから色々訊いてくるようになった。よく、フシャシャッ、と笑うし、顔をしかめて、フィーフィー、と不満を示すこともある。どうやら「タァ」は、自分、という意味のようで、タタは、タァ、タァ、から発想したので、自分、自分、自分自身、みたいなことになってしまう。マナトは勢いで名づけてしまったが、いいのだろうか。タタが納得しているようだし、いいのか。

「おそらく、だが」

 マナトとタタのやりとりを見ていたハルが、こんなことを言った。

「おれたちが養殖場で目の当たりにした状況は、あくまでも一側面でしかないんだろうな。あれほど過酷な環境の中でも、ゴブリンたちはただひたすら苦しみ、絶望しているだけじゃない。互いにコミュニケーションをとって、精一杯、できうる限りの生活を営んでいる。あんな場所で喜びを見いだしたり、希望を抱いたりできるわけがない……そう決めつけるのは間違いで、結局、彼らを侮っているんだろう」

「たしかに」

 ヨリが同意した。

「タタは頭がいいから、傑出したスーパーゴブリンだって思いたくなるけど、そんなこともないだろうし。やっぱり、ゴブリンたちを一人でも多く、外に出してあげないと」

「タタはヨリたちがやろうとしていることを理解しているのかもしれない」

 リヨが低い声で言った。

「そして、自分も力になりたいと考えている。だから、ついてきた」

 やがて遠くから爆発音のような聞こえるようになってきた。

 間もなくダムロー旧市街だ。行く手に防壁の残骸が見える。ハルがつぶやいた。

「タダさん――タイダリエルか……」

「気になってたんだけど」

 ヨリが足を止めていた。

「ハルヒロにとって、あの聖者はタイダリエルなの? それとも、昔、知り合いだったタダっていう人なの?」

「それは――」

 ハルは仮面を外したら口があるあたりを手で押さえて言葉を失った。

 タタがじっとハルを見つめている。ちょこちょことハルに近づいていって、マントの裾をつかんだ。

 ハルはそれに気づくと、タタの頭をそっとでた。

「心配してくれているのか。やさしいな、タタ。でも、きみと比べたら、おれの迷いや悩みなんてくだらない。ただ進む気力をなくして、立ち止まっていただけなんだ。考えるのもおつくうで、悩むことから目を背けていた。迷っていたとさえ、たぶん言えない」

「ハル……ダイジョブ?」

「ああ。大丈夫だよ」

 ハルにもう一度、頭を撫でられると、タタは、フシャッ、と短く笑った。

「さっきの質問の答えだが」

 ハルはヨリに向き直った。

「おれにとっては、ルミアリスに仕える乱震の聖者タイダリエルになってしまっても、タダさんはタダさんだ。帰依者にしろ、隷属にしろ、ルミアリスやスカルヘルを信仰していたといっても、身も心もささげてあんなふうになることを望んでいたなんて考えられない。神と呼ばれる圧倒的な力を持つ存在が、彼らを強制的に服従させたんだ」

「つまりハルヒロは、あのままでいいとは思ってないってことだよね」

「そうだな。ヨリ、きみの言うとおりだ。正直、少しも思っていない。タダさんは変わった人だったが、自分の気持ちや、大切にしているものに忠実で、そこがぶれることは決してなかった。節を曲げるか、命を捨てるか。そんな二択を突きつけられたら、ためらわずに後者を選ぶ。そういう人だったんだ。タダさんだけじゃない。尊敬する先輩……戦友たちが、何人も……神によって、運命をゆがめられた」

「もとに戻せないの?」

 マナトが尋ねると、ハルは首を横に振ってみせた。

「わからない、が……たとえば帰依者なら、ろくぼうこうかくを取り除かないと、神の支配から解き放たれることはないだろう。そして、六芒光核は脳のような生命活動をつかさどる場所に巣くっている。それを除去して生存を維持できるのか。控えめに言っても、至難だ」

「んん……」

 マナトはハルの話を頭の中でまとめてみた。いや、まとめるまでもない。ハルの言い方は少し回りくどかったが、難解というほどでもなかった。でも、結論をはっきり口に出すのは気が引ける。

 そういうことか。

 ハルは立ち止まって、悩むのも迷うのもやめていた。マナトもハルの立場なら、同じだったかもしれない。だって、ずいぶんひどい話だ。

「死ぬことでしか、神から逃れられない」

 ヨリはそう言うと、ため息というには強すぎる勢いで息を吐いた。

「彼ら、彼女らを救うには、殺すしかない。ハルヒロの戦友だったってことは、当然、ひいおちゃんともつながりがあった。そうでしょ?」

「ルオンの――」

 ハルはうつむいて、頭を震わせるようにうなずいた。

「きみたちの祖父が生まれたとき、みんなで祝った。誰も彼も、心の底から喜んで……あの日のことは、ありありと思いだせる」

「ひいお祖母ちゃんは暁村っていうところにいたんだよね」

「ああ。ルオンは暁村で生まれた」

「暁村で何かが起こって、ひいお祖母ちゃんはおちゃんを連れて逃げた。でも、そのときのことは教えてくれなかった。ヨリには何だって話してくれたのに、暁村をあとにして、船に乗ってグリムガルから離れるまでの間にあった出来事は、どうしても思いだしたくないみたいだった」

「……暁村には、幼子を抱えたユメを守るため、仲間が何人か残っていた。全員女性だったが……その中には、ルミアリスを信じる者と、スカルヘルに仕える者もいたからな」

「彼女たちは、殺しあった?」

「おそらく。ユメとルオンが巻きこまれなかったのは、奇跡だ。ただ、運がよかっただけじゃないだろう。誰かが二人を命懸けで逃がそうとしたに違いない。暁村で生まれた新しい命。ルオンはおれたちの希望だった」

「だから、ひいお祖母ちゃんは、何がなんでも生き延びて、お祖父ちゃんを守り抜かなきゃいけなかった」

「アラバキア王国暦七二〇年一月一日」

 リヨが書物でも読み上げるように言った。

「一族とカンパニーの共同事業として天竜山脈の南に進出を開始。同年三月七日、カンパニーがアラバキア王国残党との接触に成功したことをきっかけに、事業が本格化。当地には十七のじゆうしんぞくばんきよしており、しんぞくの王オブドゥーがその頭領だった。わたしたちの祖父ルオンは、七二二年九月九日、オブドゥーに一騎討ちを挑み、敗北。深手を負い、その傷はついに完治することなく、七二四年二月二十三日、ひいお祖母ちゃんたちにられて生涯を終えた」

 リヨの口調はどこまでも淡々としている。

「祖父が亡くなったとき、ひいお祖母ちゃんは涙なんて一滴も出なかったと言っていた。祖父は生きたいように生きた。自分がやるべきと信じることだけをひたすらやり抜き、少しも悔いてはいなかったと。だから、ひいお祖母ちゃんも悲しくはなかったのだと」

 でも、わずかに伏せられたリヨの両目は水気を帯びて光っていた。

「なぜ祖父は、身の丈四メートル以上の怪物めいたオブドゥーと、よりにもよって一対一で決着をつけようとしたのか。いくらなんでも無謀ではないかと幼心にわたしは思い、ひいお祖母ちゃんにそう尋ねました。ひいお祖母ちゃんの答えは、明らかにそれがもっとも犠牲を少なくし、かつ迅速に戦いを終わらせる方法だったから。オブドゥーを殺す必要すらない。ただ正々堂々打ち負かし、彼に代わって祖父が十七獣神族の頭領、王になれば、戦いを終わらせることができる。祖父はその可能性に賭けた。一刻も早く天竜山脈以南の地を平定して、グリムガルに行きたかったから。生まれ故郷に。何より、ひいお祖母ちゃんをグリムガルに連れていきたかった。けど――」

 リヨの声が揺れて、乱れた。一瞬だった。

 一つ息をつくと、リヨはまた平板な声音で話を続けた。

「祖父は賭けに敗れて願いはかなわなかった。オブドゥーがようやく打倒されたのは祖父の死から十五年後の七三九年三月十七日。祖父を除いて、オブドゥーに一騎討ちを挑んだ者は一人もいない。最後には数百人の精鋭がオブドゥーを包囲し、なぶごろしにした。あれはむごたらしかったとひいお祖母ちゃんが。それから二十三年。ヨリとわたしがようやくグリムガルへ。本当は、ひいお祖母ちゃんを連れてきてあげたかった。できることなら祖父も一緒に」

「……リヨ。何の話?」

 ヨリがあきれたように顔をすくめると、リヨは頭を下げた。

「ごめんなさい」

「おれは――」

 ハルは右手を持ち上げて開き、ゆっくりと握った。

「神が憎い。みんなを救いたい。でも、無理だ。あの人たちを……この手で、あの人たちの息の根を止めるなんて」

「無理じゃないよ」

 ヨリはくちもとをゆるめた。目はちっとも笑っていない。ダムローを囲む防壁の残骸をにらみつけている。

「ヨリとリヨがいる。ぜんぜん無理じゃない。ヨリたちは、養殖場をぶっ潰してゴブリンを解放するし、お祖父ちゃんの誕生を祝福してくれた人たちを、神のしもべなんかじゃなくて、人としてちゃんとこの世から送りだす」

「ハル!」

 マナトはハルに向かって右拳を突きだした。

「手伝う! 今のところ、けっこう助けられてばっかりだけど、そのうち助けられるようになるから!」

「……いや」

 ハルはマナトの右拳に自分の右拳を押しあてた。

「マナトにはもう助けられている。きみと出会ってからというもの、まるで長らく止まっていた時間が動きだしたかのようだ」

「ホゥイッ!」

 タタがマナトのをして、右手を握り締めて突き上げた。ハルはタタの拳にも拳を軽くぶつけた。

「そうだ、タタ。きみも仲間だ。昔のおれにも仲間がいた。忘れていたわけじゃない。忘れられるはずがないから、せめて思いださないようにしていた。おれは、自分自身がやるべきことから逃げ回っていたんだ――」

 養殖場からゴブリンたちを逃がす。それに、ハルの戦友だった帰依者や隷属たちを、神の支配から解放する。やることが増えて、マナトは元気が出た。できるかどうかはよくわからないが、行くべき道があればとりあえず進んでゆける。一人きりだったらそんな気にもなれないかもしれないけれど、ハルがいて、ヨリとリヨがいて、タタもいるのだ。

 マナトたちは壁の残骸を越えてダムロー旧市街を進んだ。タタがいた養殖場は完全に破壊されていて、掘られた穴もれきで半分埋もれていた。ゴブリンの姿はなかった。ゴブリンの遺体すら見あたらなかったのは、正直ちょっと意外だった。タタは当然、思うところがあるだろうが、養殖場跡を黙ってしばらく眺めていただけで、何も言わなかったし、何かしようともしなかった。

 爆発音めいた音は、西へ、新市街方向に歩を進めれば進めるほど、大きくなってきた。タイダリエルことタダが暴れているのだ。ほぼ一定のリズムで、あの巨大ハンマーみたいな両腕を何か硬いものにたたきつけているらしい。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,――」

 やがて帰依者たちの歌声も聞こえてきた。

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,――」

 爆発音と歌声が入り混じって、一つの音楽のように聞こえなくもない。

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,――」

 歌声も、爆発音も、かなり大きい。そうとう近づいているはずだ。

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.――」

 このあたりは木々やはいきよに遮られて、だいぶ見通しが悪い。ただ、下草が踏まれていたり、茂みの枝が折れていたりするから、ごく最近、ここを通った者たちがいたことは間違いない。帰依者たちが歩いていった跡だろう。

 急に視界が開けた。その先には、石じゃないのか、緑色の壁が立ちはだかっていた。壁は左右にどこまでも続いている。いや、左のほうの壁は一部が突き崩されていた。タイダリエルの仕業なのか。きっとそうだ。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,――」

 例の歌声と爆発音も、そっちの方向、左前方から聞こえてくるような気がする。

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,――」

「行ってみる?」

 ヨリがいた。ハルは答えない。迷っているようだ。

「危なそうだったら、すぐ逃げちゃえばいいよ」

 マナトが言うと、タタがぴょんと跳ねた。

「アブナァ、スニゲェ、イィー!」

「……わかった」

 ハルはうなずいた。

「おれが先導する。ヨリ、マナト、タタ、リヨの順でついてくるんだ。みんな周囲に注意を払ってくれ」

「了解」

「うん! タタ、後ろね」

「アィッ」

「はい」

 ハルが緑色の壁に向かって歩きだした。ヨリはほとんどハルにくっついている。

 マナトはタタの顔を見た。タタはとくに緊張している様子もない。たぶん、マナトのほうが興奮している。タタは好奇心が強そうだが、それ以上に度胸が据わっているのだ。

「行こう」

 マナトが声をかけると、タタは「アィッ」と短く応じた。置いていかれたらまずい。マナトは急いでヨリを追いかけた。タタがついてくる。もちろん、リヨもだ。

 ハルは緑色の壁を背にして左方向に進むようだ。この壁はなぜこんな色をしているのだろう。さわった感じだと、こけに似ている。壁自体は硬いが、やはり石積みではなさそうだ。土をどうにかして固めたような壁に、苔がびっしりと生えているのか。

 マナトは壁の上や旧市街側にも目を配りながらヨリに続いた。

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,――」

 爆発音は相変わらずだいたい一定の間隔でとどろく。歌声は、よく聞くと、わずかに大きくなったり小さくなったりする。

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.――」

 たとえば、百人の帰依者たちが合唱しているとして、全員がずっと声をそろえて歌っているのではなく、そのうちの何人か何十人かは歌ったり歌わなかったりする。そんな感じだろうか。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,――」

 帰依者たちはばらけているのかもしれない。たぶん、タイダエルの近くにはいるのだろうが、人数もそれなりに多いはずだし、一箇所に集まっているわけじゃなくて、ある程度、分散しているのだろう。

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,――」

 もしかしたら、帰依者たちは、ダムロー新市街に住みついているという隷属たちと戦っているのかもしれない。戦いながら、歌っているのか。

 ハルが止まった。

 その先は壁が破壊されている。壁の上にも、旧市街側にも、変わったところはない。この一帯には帰依者も隷属もいないようだ。マナトたちしかいない。

 ハルがふたたび移動しはじめた。ヨリの次に、マナトも壊れた壁の向こう側へと足を踏み入れた。

 天井のない掘りたてのトンネルか、大きな洞窟みたいだ。壁の向こうの建物も、基本的には壁と同じ材質で出来ているらしい。しかも、隙間なく建物が乱立している。タイダエルは、その建物を片っ端からぶっ壊して突き進んでいるのだ。帰依者たちは、タイダエルが切り開いたというか、叩き砕いて作った道を行進しているのだろう。

「めちゃくちゃ……」

 ヨリが言った。

「タダさんだからな」

 ハルはそう応じると、左手を上げてマナトたちをいったん停止させた。何か気になることでもあるのか。

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,――」

 ずっと前のほうで土煙が巻き上がっている。爆発音、いや、破砕音はむことがない。きっとあの土煙の中にタイダエルがいる。建物を壊しつづけている。

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.――」

 ハルが上げていた右手を前方に振ってみせ、歩きだした。ヨリが、マナトとタタが、リヨが続いた。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 破砕音が、歌声が、どんどん大きくなる。振動も感じる。タイダエルの馬鹿でかいかなづちのような両腕で打ち砕かれ、削られて、土壁の大きな、あるいはそこまで大きくもない破片がごろごろしていて、平らではないにしても、さして苦もなく歩ける程度の状態にはなっている地面が、破砕音に合わせて震動している。それだけじゃない。土煙交じりの風が吹きつけてくる。マナトは目を細めた。きこみそうになって、腕で口を押さえる。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 土煙のせいでもやっている。ハルがまた左手を上げて足を止めた。

「ひはぁはああぁぁぁっ……!」

 はっきりと聞こえたわけじゃない。でも、聞こえた。笑い声か。タイダエルだろうか。

「っ――」

 マナトは息をのんだ。タイダエルのものらしき笑い声を聞いて驚いたわけじゃない。この先にタイダエルがいる。それはわかっている。覚悟はできていた。だから、そうじゃなくて、いきなり後ろから誰かがマナトの左肩をつかんだのだ。

 タタだろうか。マナトのすぐ後ろにいるのはタタだ。振り返ると、タタじゃなかった。リヨだ。リヨが右手を伸ばして、タタ越しにマナトの左肩を摑んでいた。リヨはマナトのほうを見ていなかった。来た方向に顔を向けている。

 マナトもそっちに目をやった。前方よりは土煙が薄い。おかげでしっかり見えた。それがどういう形をしているのかは見てとれた。

 小さくはない。マナトたちの中で一番上背があるリヨよりも、ずっと高い。背が高い、と言っていいのか。どうだろう。それは生き物なのか。色は黒っぽい。葉の落ちた樹木のようでもある。ただの枯れ木じゃない。果たして一本の木なのか。まるで、何本もの木が成長しながら寄り集まり、絡み合って、そのまま枯れようとしている。まれにそんな木を森の奥で見かけることがある。言ってみれば木のお化けのような。ちょっと気味が悪い。木のお化けが、どこからか歩いてきたのか。移動してきたのは間違いない。だって、マナトたちはそれがいる場所を通りすぎた。さっきまで、それはそこにいなかった。

 当然、それは木のお化けなんかじゃない。マナトもそのことは理解していた。でも、だとしたら何なのか。

 腕、だろうか。黒っぽい腕。すごい数の腕。どうしてマナトがそう思ったかというと、手が、五本の指を備えた手のようなものが、その腕の先についていたからだ。どの黒っぽい腕の先にも、手がついているように見える。黒っぽい腕、数えきれない腕たちの集合体。でも、一箇所だけ、腕じゃない。真ん中より上のほうに、黒っぽい腕たちに囲まれて、その合間から、何か白いものがのぞいている。

「顔……?」

 マナトはつぶやいた。顔。顔だ。人の顔。うっすらと目を開いている。たぶん、女の人だ。黒っぽい腕の集合体。顔がある。あれは何だろう。

「チビ……」

 ハルの声がした。見ると、ハルも後ろを振り返っていた。チビ。ちび?

「鬼神だ、なんでこんなところに……」

「鬼神って――」

 ヨリはハルに何か訊こうとしたのかもしれない。でも、途中でやめて、赤い剣を抜こうとした。

「よせ、相手が悪すぎる!」

 すかさずハルがヨリを制止した。

ざんかいのチェグブレーテ、彼女は言わば、ダムローの領主だ……!」

 鬼神。領主。親玉ということか。ダムローにみついている隷属たちの。乱震の聖者タイダエルは、光明神ルミアリスに仕える帰依者たちの上役なのだろう。慚悔のチェグブレーテは、暗黒神スカルヘル側の聖者タイダエルみたいなものか。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 歌声が、破砕音が響き渡っている。

 鬼神の腕が、というよりも手が、無数と言いたくなるほど多くの手が、その指が、曲がったり伸びたりしはじめた。

 何しろ大きい。やばそうだ。きっと、絶対、やばい。それなのに、マナトは恐怖を感じていなかった。怖くないから楽しくもない。変な言い方かもしれないが、本物だという気がどうもしないのだ。鬼神、慚悔のチェグブレーテとやらは、本当にそこにいるのか。

「チビって言った」

 ヨリは赤い剣のつかを握ったまま、放そうとしない。

「ひいおちゃんから聞いたことがある。チビちゃんって呼ばれてた人がいるって。でも、その人は神官だったはずじゃない?」

「……そうだ。彼女は神官だった。おれの目の前で、彼女は、自分の仲間を……たぶん、彼女が誰よりも信じて、愛していたに違いない男を――レンジを……」

 そのときだった。

 ひょっとしたら、ハルが、レンジ、という名を口にしたことが何か関係しているのか。鬼神の顔、そのうっすらと開かれた両目に、黒い液体がにじんだ。涙なのか。黒い涙が白い頰を伝い落ちる。彼女は泣いていた。

 途端にマナトは身震いした。

 彼女はそこにいる。鬼神。かつてはチビという名で、ハルの戦友だった。神官で、おそらくルミアリスの帰依者になったはずなのに、どうしてか今はスカルヘルに従っている。

 慚悔のチェグブレーテ。

 ああ、黒い腕、手、腕、腕、腕、腕をうごめかせて、彼女が進みだす。

 黒い涙を流しながら、迫ってくる。