先回りしたハルが、かんしやの横を歩く隷兵に音もなく襲いかかった。マナトは檻車の斜め後方の茂みからその模様を見ていたのだが、ハルが伸びる短剣で斬りかかって、それを隷兵がしゃがんでかわした。その寸前まで、というか、まさにその瞬間まで、ハルがどこにいるのか、マナトにはわからなかった。

 ハルは消えるのがうまい。本当に消えているわけじゃないはずなのに、消えているとしか思えないのだ。いったいどうやったらあんなふうに消えることができるのか。今度、教えて欲しい。

 でも、ハルは消えていて、いきなり現れたとしかマナトには思えないのに、隷兵はしっかりと反応したのだ。

 しかも、伸びる短剣をよけただけじゃない。隷兵はすぐに反撃した。

 すかさずハルめがけて投げつけたのだ。

 まだ食べきっていなかった、ゴブリンの腕を。

「――くっ……!」

 ハルはゴブリンの腕を払い落とした。その隙に、隷兵がハルの懐に入りこもうとする。ハルは跳び下がって距離をとった。隷兵はハルを追う。追いすがろうとする。

 檻車がまった。のオーク二人が異変を察知して、牽くのをやめたのだ。

 さっきまでマナトのそばにいたヨリとリヨが、横合いから檻車に駆け寄ってゆく。正確には、檻車の前方だ。ヨリとリヨは牽き手のオークたちを狙っている。

 隷兵、隷属のことはハルにざっと教えてもらった。隷兵はだいぶ厄介そうだが、ただの隷属はそこまでじゃない。体格のいいオークの隷属が相手でも、ヨリとリヨならあっという間に片づけてしまえるだろう。その後、ヨリとリヨはハルの援護に向かうことになっている。

 マナトは茂みから飛びだした。ハルたちの戦いの行方はもちろん気になるけれど、マナトにも仕事がある。

 檻車だ。前のほうじゃない。ヨリとリヨとは逆だ。マナトは全力疾走で檻車の後方へと向かった。

 ずっとおとなしくしていた檻車の中のゴブリンたちも、さすがに何だ何事だというふうにきょろきょろしたり、アァ、ウゥ、とうなったりしている。おりの後方は一部が開閉できる扉のようになっていて、鍵は掛かっていない。外側に掛け金がある。それを外すだけで開けられる。

 マナトはその掛け金を外し、扉を開けた。

「さあ、出て! 逃げて!」

 ゴブリンたちはマナトのほうに顔を向けたが、出てこようとしない。びっくりしているのか。何がなんだかわからなくて、まごついているのかもしれない。

「ええと……だからその、出て! 外に。この中にいたら、何だろ、そうだ、ほら、連れてかれて、食べられちゃうよ!? あぁ、あれか、言葉が……」

 マナトは自分の左腕にみつくふりをしてみせた。

「食べる! わかる? 食べられてたよね、さっき、仲間が!」

 ゴブリンたちはマナトをじっと見つめている。震えているゴブリンもいれば、何かぽかんとしているようなゴブリンもいる。マナトが言わんとしていることは、おそらく通じていない。

「ううん、それはまぁ、しょうがないっていうか……」

 マナトの言葉を理解してもらえないのはやむをえない。でも、ゴブリンたちは檻に閉じこめられていた。その檻から出られる。それは見ればわかるはずだ。

 どうしてだろう。なぜどのゴブリンも外に出ようとしないのか。

 もちろん、ゴブリンたちにとって、マナトは見知らぬ人間だ。怪しまずにはいられないだろう。だとしても、このまま連れていかれたら、食べられてしまうのだ。マナトが何者だろうと、何を言っていようと、とりあえず逃げるしかない。マナトがゴブリンなら、絶対そうする。

 説得しようにも話ができない。マナトは一番近くにいたゴブリンの腕をつかんだ。引っぱろうとしたら、嚙みつかれた。

「――あぃだっ!?

 手を放したら、ゴブリンはすぐ嚙むのをやめた。ゴブリンの歯はなかなか鋭いが、血は出ていない。少し痛いだけだ。たいしたことはない。

「やっ……だけど、出ないと……逃げたほうが……逃げ――ないの? え? なんで? 逃げようよ? ねえ、外に……困ったな、どうしよ、ううん……」

 マナトはあとずさりして、いったん檻車から離れた。

 考えもしなかった。

 ゴブリンを逃がすつもりだったのに、逃げてくれないなんて。

「イハァッ……!」

 突然、誰かが大声を出した。誰か。誰だ。ゴブリン。ゴブリンだ。檻の中にいるゴブリンのうちの一人が叫んだらしい。

 そのゴブリンは他のゴブリンたちをかき分けて顔を出し、マナトのほうを見ている。

「ニハァッ……!」

 いや、マナトじゃない。マナトの後ろか。

 マナトは振り返った。

「やばっ――」

 思わずつぶやきながら剣を抜いた。黒い。真っ黒ではなくて、やや青みがかっているだろうか。濃紺のうろこにんげんれいへいだ。養殖場にいた見張りか。きっとそうだ。あの養殖場までけっこう距離がある。あえて檻車が養殖場から離れたところで襲撃したのだ。それでも察知されてしまったらしい。

 濃紺の隷兵が駆けてくる。なんとなくだが、下がるとやられそうな気がした。マナトは前に出た。踏みこんだら、もう隷兵に剣が届きそうだ。

 近い。

 こんなに近かったのか。

 マナトは力任せに剣を振るった。

 振りきった。

 当たらなかった、というより、当たらない、と思った。案の定だった。

 一瞬、隷兵を見失った。次の瞬間、マナトは地面を転がっていた。

「――っっ……」

 蹴飛ばされたのか。右の脇腹あたりに何か食らわされた。それで転倒し、体があおけになったところで、腹を踏んづけられた。

「んんぐぅっ……」

 一回じゃない。隷兵は二回、三回と、立てつづけにマナトの土手っ腹に右足をぶちこんだ。腹が破裂するんじゃないか。すでに内臓がぶちまけられていたとしてもおかしくない。それか、体の中で内臓がぶっ潰れているか。

 せり上がってきて、何かが口からあふれた。

 噴出した。

 それが何なのか、マナトにはわからなかった。ただ苦くて、生臭かった。

「がぁっ……!」

 しゃにむに剣を振り回すと、隷兵はひらりと身をひるがえした。マナトは跳ね起きたが、下半身の感覚がなくてふらついた。そして隷兵にまた蹴られたのか、殴られたのか。

「ぁっ――」

 地面に背中を打ちつけて息が詰まった。呼吸ができなかろうと何だろうと、動かないとやられてしまう。隷兵といになったのか。首を摑まれて、なんとか隷兵の手を引っがしたのは間違いない。すぐに何発か顔面をぶん殴られ、左目が見えなくなった。隷兵にのしかかられ、どこかをわしづかみにされている。どこを鷲摑みにされているのか。

 至近距離で見る隷兵は、まあ、マナトは右目しか見えないのだが、人間という感じはしない。皮膚が濃紺の鱗状になっているだけじゃなくて、顔立ちが、何だろう、マナトはそれに似た生き物を見たことがない、強いて言えば、魚と昆虫の中間のような。

 魚?

 昆虫?

 その中間?

 どこが?

「――ああぁぁああああぁぁぁあああぁあぁあああぁぁああぁぁああぁぁあああぁぁ」

 割れる。

 割れる割れる割れる。

 割れちゃう。

 頭が割れそう。

 割れるって、頭。

 頭か。

 隷兵は両手でマナトの頭を鷲摑みにしている。握り潰そうとしているのか。

「シシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシシ……」

 何かそんな音を、声を発しながら。たぶん、これは隷兵の声なのだと思う。

 笑っているのだろうか。何、こいつ。

 何なんだよ。頭が割れる。割れるってば、本当に。

 だめだ。割れる。

「ウギィーギィッ……!」

 違う。

 違う声だ。

 隷兵じゃない。

 マナト自身でもない。

 別の声だ。

 ゴブリンか。

 隷兵に、後ろから何かがしがみついている。ゴブリンなのか。

 間違いない。あれはゴブリンだ。

 一人のゴブリンが隷兵の背中にしがみついて、その上、首筋に嚙みついた。隷兵の皮膚は硬い。かちかちじゃなくて、弾力みたいなものがあるのに、えらく硬い。あの皮膚に歯が立つものなのか。そこはちょっとわからない。でも、ゴブリンはとりあえず、嚙みつこうとはしている。

 隷兵は今まさに、両手でマナトの頭を握り砕こうとしていた。右手はマナトの頭を摑んだままで、左手だけ離した。

 その左手がゴブリンの頭に向かって伸びてゆく。ああ、危ない。

 潰れる。潰されちゃうって。ゴブリンの頭は、やばいって。

 マナトは頑丈なのだ。あのゴブリンは養殖場にいた。元気ではないだろう。体が丈夫だとは思えない。ただでさえ、マナトよりずっと小さいのだ。

 マナトは剣を持っていない。どこかにいってしまった。

 でも、短剣がある。

 隷兵に両手で頭を鷲摑みにされていたときはそれどころじゃなかったが、片手だけになったおかげで、ほんの少し余裕があった。

 だからマナトは、短剣のつかを逆手に握って抜くことができた。

 それを一息に、隷兵の顎の下、喉元にぶちこんでやった。

「コフッ……」

 隷兵の口からそんな音が漏れた。隷兵が、ひるんだのかどうかは定かじゃないが、マナトに加えている圧力が弱まった。マナトは隷兵をねのけようとしながら叫んだ。

「逃げろ……!」

 ゴブリンと目が合ったような気がした。言葉は通じなくても、マナトの気持ちは伝わった。そう感じた。

 ゴブリンが何かわめいて隷兵から飛び離れた。そうだ。それでいい。マナトは短剣を握り締めている右手に左手を添えた。そして、さらに力をこめようとしたら、隷兵の拳が降ってきた。もう、ああ、やばい、だけど、どうしたら。

 マナトはとっさに額で隷兵の拳を受け止めた。隷兵はたぶん、マナトの右目あたりに拳をたたきつけようとしていた。右目まで潰されたら終わりだと瞬間的に考えて、ちょっとだけ首を曲げて頭の位置をずらしたのだ。それで右目の視力は失わずにすんだが、何もかもがぐわぐわする。やばい。やっぱり結局、やばすぎる。

 誰かが隷兵をぶん投げてくれなかったら、きっと本格的に終わっていた。

 右目は見えたので、とはいえぼんやりとしか見えないのだが、リヨだとわかった。

 リヨが助けにきてくれたのだ。

 マナトは立とうとした。起き上がりたいのは山々だが、体を転がしてうつ伏せになるのが精一杯だった。なんでうつ伏せになんかなってしまったのか。失敗だったかもしれない。やけに苦しいんだけど。何がどうしてどこがこんなに苦しいのか。マナトには見当もつかない。とにかく、苦しくてたまらない。

 リヨは戦っているらしい。

 ヨリに名を呼ばれたような気がする。

 それから、ハルにも。

 たしか、大丈夫か、とかれた。

 マナトは、うん、大丈夫、と答えたつもりだが、どうだろう。答えられたのか。返事をしようとしただけかもしれない。

 下を向いていたら何も見えないから、まあ、どのみちよく見えないけれど、どうにか顔だけは上げている。

 そのはずだったのに、いつの間にか目の前に地面があった。

 かんしやが通るせいか、草はそんなに生えていなくて、わだちができている。雨が降ったら、どろどろになりそうな地面だ。

 顔を押しつけたらかなり痛そうなので、マナトは両腕を重ねて額のあたりにあてがっていた。腕があたっている箇所が、ずいぶん痛い。

 きついなぁ、これ。

 きっつ。

 きつすぎて、笑ってしまう。

 笑うと、体中、痛いんだけど。それがまた、笑える。

 笑ってばかりもいられないから、マナトはまた顔を上げた。左目はまだ見えないが、右目は問題なさそうだ。体もどうにかこうにか動かせなくもない。マナトは起き上がった。つんいになることは、なんとかできた。

「あぁ……」

 ゴブリン。ゴブリンが。檻車の扉の外に、ゴブリンたちがいる。何人かは外に出たらしいが、まだおりの中にとどまっているゴブリンのほうが多い。圧倒的に多い。

 一人のゴブリンが扉のところで中に呼びかけている。出てこいとか、逃げようとか、急げとか、きっと仲間たちにそういったことを言っているのだろう。

 あのゴブリンだろうか。隷兵にしがみついてみついた。あれは、あのゴブリンかもしれない。マナトには見分けがつかないけれど、そんな気がする。

「マナト!」

 呼ばれて、見上げるとヨリがいた。

「――わっ、ひどっ!」

 ヨリが痛そうに顔をしかめて叫んだので、マナトは笑ってしまった。

「痛いの、こっちなんだけど」

「よく笑ってられるね……」

「や、治ってきたし。痛いは痛いけど。あちこち痛い……ふふっ……」

 リヨが長身をかがませて半分檻に入りこみ、ゴブリンをつかんでは外に放り投げている。ゴブリン同士、押したり引っぱったりしながら、扉のほうに向かったりもしている。檻の中のゴブリンはだいぶ少なくなった。隷兵二人とオークの隷属二人はどうなったのだろう。見あたらない。片づいたのか。

「ここから離れるぞ!」

 ハルが駆けてくる。

「冗談でしょ!」

 ヨリが即座に言い返した。

「養殖場にはまだゴブリンたちがいるはず! 最低でも彼らを解放しないと!」

「マナトはどうする!?

「平気!」

 マナトは一気に立ってみた。立ててしまったので、我ながら驚いた。

「おぉ――ぶふっ……」

 口から何か出た。

!?

 ヨリがそう言うなり、肩を貸してくれようとした。マナトはヨリを押しのけた。

「や、うん、平気、平気……ごふっ……」

「平気なわけないでしょ!?

「し、死なないから、たぶん、このくらいじゃ……ぼほっ」

「普通なら死んでいてもおかしくない!」

 ハルに叱りつけられた。普通なら死んでいる。マナトは普通じゃないのか。実際、ジュンツァたちとは違っていた。違っても、仲間だと思えれば仲間だ。普通だろうと、普通じゃなかろうと。ただ、ハルが、普通なら、なんて言うのはなんだかおかしい。笑える。

「ぐほっ、ぼふっ、かふぉっ……」

「ちょっと、この人、笑いながら血を吐きまくってるんだけど……」

「べふっ……そ、そんなに痛くないから、平気……」

「だめだ、マナトを連れて安全なところまで避難する!」

 ハルがすくい上げるようにしてマナトを横抱きにした。

「いいな、ヨリ、リヨ! 頼むから、ここはおれの言うことを聞いてくれ!」

「だったら、ハルヒロはマナトを運んであげて! リヨ!」

 ヨリはリヨを呼び寄せて駆けだした。

「行くよ、養殖場……!」

 リヨはヨリについてゆく。ハルはマナトを抱えたまま、二人を追いかけた。

「どうしてこうなる……!」

 マナトとしては、下ろしてもらって自分の足で走りたい。でも、まだそんなに速くは走れそうにない。というか、走ったらきっと血を吐いてしまう。まさか自分が走ると血を吐く体になるとは思わなかった。笑っちゃうんだけど。いやいや、我慢しないと。さっき笑ったら血を吐いた。何をしても血を吐きがちだ。血を吐きがちとか。どんな人間なのか。おもしろすぎる。いや、だから、笑うのはだめだ。笑うの禁止。笑いそうになることは、できるだけ考えないようにしないと。

「あ、剣――短剣も……」

「どうとでもなる!」

 怒られてしまった。ハルも大変だ。マナトはごとのようにそんなことを思った。他人事じゃないのに。大変な目に遭わせているのは誰なのか。マナトだ。マナトだけじゃないのかもしれないが、原因の半分ほど、半分以上は、マナトが作っている。笑うとは何事だ。自分を戒めようとすれば戒めようとするほど、どういうわけか笑えてくる。

 笑ってないで真面目にやれと、ジュンツァたちに数えきれないほど注意された。ふざけているつもりはなくても、笑っていると不真面目に見えるようだ。気をつけないと。気をつけてはいるのだが、どうしても笑いたくなる。

 もう笑うしかない。

 笑わないけど。

 笑ってたまるか。

 行く手でヨリとリヨが、繁殖場の門を開けようとしている。

「――ヨリ……!」

 ハルが怒鳴った。壁か。養殖場の壁の上だ。れいへいが走ってくる。別の見張りか。見張りの一人はマナトたちが襲撃した檻車のところに駆けつけてきたけれど、他にも見張りがいた。隷兵が壁から身を躍らせて、ヨリとリヨに飛びかかる。

 迎え撃ったのはリヨだ。リヨは全身をぐるっと斜めに回転させ、長い脚で隷兵を蹴り払った。隷兵は吹っ飛ばされたが、すぐに起き上がってリヨに迫ろうとする。でも、隷兵が迫るまでもない。リヨのほうから隷兵に攻めかかっている。

 ヨリはかんぬきを外し、門扉を開けようとしている。オーク二人がかりでも開け閉めするのに手間取っていた。すんなりとは開かない。

「――E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

 何か聞こえる。

「ハル……」

 マナトがうながす前に、ハルはあたりを見回していた。

「まずい。聖歌だ。ルミアリスの――」

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

 歌。

 マナトもデッドヘッドかんとりであとで聞いた。

 あの歌だ。

 ただし、歌い方が違う。大違いだ。砦跡では大勢がぶつぶつ、ぼそぼそと歌っていた。今、聞こえる歌声はそうじゃない。

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

 声を合わせて、高らかに歌っている。

 音量がそんなに大きくないのは、距離があるせいだ。

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 まだ遠い。

 でも、近づいてきつつある。

「下ろして……!」

 マナトはハルの腕をほどいた。ハルは拒まずにマナトを放してくれた。自分の足で立ってみると、さっきよりはだいぶましだった。腕にも、脚にも、ちゃんと力が入る。きこみたくなったりもしない。

 ハルはちらっとマナトの様子を確かめると、隷兵と派手に格闘しているリヨのほうに向かった。

「ヨリを止めてくれ! おれは隷兵を始末する……!」

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,Lumi na oss'desiz,……」

 歌声が押し寄せてくる。

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

 マナトは門扉を目指して走った。

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 脚がへこへこして、なんとも奇妙な走り方になってしまう。あちこち痛いことは痛いのだが、この程度なら耐えられなくはない。

「ヨリ、ヨリってば、一回逃げよ、ヨリ、ね……!?

「いいから開けるの手伝って!」

にんなんだけど、一応」

「走ってきたでしょ、一応!」

「そうだけど……」

「考えがあってやってる! 無茶してるわけじゃない、手伝って!」

「え、そうなの? わかった!」

 マナトはヨリと一緒になって門扉を引き開けはじめた。見ると、門扉の下端が地面に少しめりこんでいる。開くのか、これで。さっき開いていたし、開かないことはないのか。

「んんんんんんんんんんんんんんん……!」

「あんまり無理しないでよ!?

「手伝えって……言ったのは、ヨリ……だよ……!?

「そうだけど――」

「あぁ、開きそう! なんか引っかかってて、ここ通り越したらいける感じ!」

「じゃあ、一気に……! ふんっっ……!」

 ヨリとの共同作業であるポイントを突破すると、その先はわりあいすんなり開いた。門扉は両開きで、かんしやは両方開けないと通り抜けられないが、人なら片側だけで問題ない。

「――で? どうするの!?

「リヨ、ハルヒロ……!」

 ヨリは養殖場の中に入らず、二人を呼んだ。隷兵は倒れている。死んでいるのかどうかはわからない。そもそも、全身が悪腫化しているという隷兵は、死なないのかもしれないようだ。隷兵が死なないというか、悪腫が死なないというか? ハルが説明してくれて、マナトなりになんとなく理解したつもりだったのだが、頭がこんがらがっている。とにかく、隷兵はただ倒れているだけじゃなく、頭やら腕やらが胴体から切り離されていたり、粉砕されたりしているみたいで、起き上がってはこない。

 当然、リヨとハルは無事だ。リヨはヨリに呼ばれた途端、黙って走りだした。

「早く離脱しないと……!」

 ハルもぼやきながら駆けてくる。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

 歌声はもうだいぶ近い。

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

 帰依者たちの姿はまだ見えないが、かなり近づいてきているような気がする。

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

「みんな中に入って!」

 ヨリはそう言うと門扉の向こうに駆けこんだ。リヨが迷わずヨリに続いたので、マナトもつられた。間もなくハルも養殖場に飛びこんできた。

 養殖場の内部は、壁で囲った土地全部が掘り下げられているわけじゃなかった。壁から六歩か七歩くらいは地面と同じ高さで、その先が切り立った崖みたいに落ちくぼんでいる。どうやって下りるのだろう。門から少し離れた場所に木か何かで足場が組まれている。あそこから下りられそうだ。

 壁の外ではあまり気にならなかったが、かなり強烈な臭気が漂っている。悪臭の発生源は、言うまでもなく養殖場内に掘られたこの巨大な穴だ。

 穴はそう深くない。せいぜいマナトの背丈の倍程度だろう。その気になればいくらでもよじ登れそうだが、ゴブリンたちはなぜ逃げないのか。穴の底は、少し高くなっているところと、ひどく汚そうな泥水がまっているところがある。痩せた裸のゴブリンたちは、少し高くなっているところに固まって座っているか、寝そべっている。うずくまって、何か食べているらしいゴブリンもいた。あの取っ組みあいをしているゴブリンたちは、もしかして、めているのではなく、交尾しているのか。座っているゴブリンたちは、微動だにしないかというと、そうじゃない。口を動かしている。何かしやくしているらしい。

 よく見ると、うずくまって食事中のゴブリンは、同じゴブリンを食べていた。死んでしまった仲間にみついたり、肉のついた骨や内臓をほじくり出したりしているのだ。

「門を閉める。急ぐよ!」

 ヨリも穴の底のゴブリンたちの様子を目の当たりにしたはずなのに、まったく動じていないようだ。リヨと二人で開けた片側の門扉を引っぱり、閉めようとしている。わざわざ閉めるつもりなのか。

「……え? なんで?」

 疑問に思いながらも、マナトも二人に手を貸した。ハルも手伝ってくれたので、門扉はすぐに閉めることができた。

「ここでやりすごす気か……?」

「とりあえずね」

 閉め終えると、ヨリはさっさと門から離れた。

「状況次第だけど、キャランビットとウーシャスカを呼ぶ手もある。あの子たちはまだ成長しきってない若い翼竜だし、二人乗りはきついけど、短い距離なら飛べなくはない。自分の目で、しっかりと見ておきたかったし――」

 ヨリは穴の縁をすたすたと歩いてゆく。足を進めながら、ヨリは養殖場のゴブリンたちを見すえている。

 姉に従うリヨは、穴の底に目をやったり、前を向いたりだ。直視しつづけるのがつらいのかもしれない。

 マナトもショックを受けていた。

 檻車のゴブリンたちを見た段階で、ある程度、予想はついていたが、想像していたよりも悪い。悪いとかいいとか、そういう問題なのか。ここまでひどいなんて。むしろ、不思議だ。ゴブリンたちはなぜ生きているのだろう。こんな場所で生きられるものなのか。

 人間なら、と考えてしまう自分がいた。人間だったら、とうてい生きられない。絶対、死んでしまう。ここで生きているゴブリンは、果たして自分たちと同じ人間なのか。人間だと言えるのか。たとえば、マナトはあのゴブリンの中の一人と仲間になることができるだろうか。ヨリに怒られそうだが、無理なんじゃないか。

 だって、穴の底のゴブリンたちは、ヨリやリヨ、マナト、ハルのことを、まるで気にしていないようだ。

 こっちを見上げるゴブリンもいないわけじゃないが、多くはない。穴の底に何人のゴブリンがいるのか。数十人ではきかない。数百人か。もっとなのか。いずれにせよ、たまにマナトたちに視線を向けるゴブリンがいても、すぐ目をそらしてしまう。

 べつにどうでもいいから、気にならないのか。

 そんなわけがない。同じ人間なら、気になるはずだ。

 彼らをとって食うれいへいや隷属じゃなく、見覚えのない人間たちが、こうやって養殖場に入ってきたのだ。あいつらは何者だ。どういうことなのか。何が起こっているのだろう。そんなふうに考えないのは変だ。だいたい、ちょっと前に彼らの仲間が連れ去られている。どうして何事もなかったかのように、仲間の死体を食べたり、寝転がったり、交尾したりしていられるのか。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 帰依者たちの歌声が降り注ぐように聞こえてくる。これだって、ゴブリンたちにとっては異常事態のはずだ。聞こえていないということはありえない。おびえたり、騒ぎたてたり、何か少しくらいは反応してもいい。反応しないなんて、おかしい。

「……ゴブリンたちは」

 ハルがつぶやくように言った。

「ここで生まれて、ここで死ぬか、出荷されて食われてしまう。並の生き物は、繁殖するどころか、生きながらえることすらできない環境に……たまたま、適応できてしまった。彼らはとてつもなくタフな種族で、どんなところでも子孫を残してゆける。その特性が、暗黒神スカルヘルの隷属に利用された……」

「考えてみた」

 ヨリが足を止めた。もうすぐ壁の角だ。リヨとマナト、ハルも立ち止まった。ヨリは振り返らなかった。

「ヨリがここで生まれて、ここで育ったら。みんな、死んじゃった仲間の死体を食べて生きてる。だったら、ヨリもそうする。外に出たいと思っても、穴から出ようとしたら、見張りにつかまって食べられる。だから、そんなことはしない。そんなことは考えないようにする。たまに隷兵がやってきて、仲間を連れていっちゃう。逆らったところで、食べられるだけだし、おとなしくしてるしかない。連れていかれるのは、自分かもしれない。いやがって精一杯暴れても、どうせかないっこないから、そのときが来たらもうしょうがない。どうせ、ずっとここにいても、仲間の死体を食べて、そのへんにはいせつして、眠って、また仲間の死体を食べて、その繰り返しだし。死ぬか、食べられるまで、生きるだけ。ただそれだけ。ヨリがここで生まれてたら、きっとそうだった。ヨリも同じだった。今のヨリみたいにはなれない。ヨリは、たまたまひいおちゃんのまごとして生まれて……リヨがいて、他のきょうだいもいて、周りにいろんな人たちがいてくれて、それで、こうなった。こうなることができた。だけど、もしここで生まれていたら、何もかも違ってた。ヨリも、あのゴブリンたちと同じだった」

 マナトはどうだろう。

 自分だったら違う、と言えるだろうか。

 そうは思えない。

 マナトだって、ここで生まれていたら同じだった。いつも笑っている両親に育てられ、二人に守られて暮らしていたから、マナトはいつだって笑える。死ぬ寸前まで笑っていた両親や、ジュンツァたちのおかげで、マナトはマナトとして生きているのだ。

「E'Lumiaris, Oss'lumi, Edemm'lumi, E'Lumiaris,……」

「Lumi na oss'desiz, Lumi na oss'redez, Lumi eua shen qu'aix,……」

「Lumi na qu'aix, E'Lumiaris, Enshen lumi, Miras lumi,……」

「Lumi na parri, E'Lumiaris, Me'lumi, E'Lumiaris.……」

 歌声は響き渡るほど大きい。

 帰依者たちは近くまで来ている。

 ひょっとしたら、壁のすぐ向こうにいるかもしれない。

「自由になりたいとか、状況を変えたいとか、自分自身が変わろうとか――」

 ヨリはマナトたちのほうを振り向いたのではなく、穴の底に目をやった。

「そんなふうに考えること自体、あの人たちには難しいのかもしれない。あの人たちを救うには、どうしたらいいの。ヨリにはわからない。でも、ここから出たゴブリンが子供を生んだら、その子たちは親とは別の生き方ができるかもしれない。少なくとも、ここで生まれてここで死ぬよりは可能性がある。やっぱりヨリは、一人でも多くのゴブリンをここから出したい」

「……外の世界に解き放って、あとは彼ら自身に委ねるのか」

 ハルがうつむいて言った。ヨリに反論したわけじゃないと思う。自分自身に問いかけているような口調だった。

「ね」

 マナトはハルに尋ねた。

「ハルはどうしたいの?」

「……おれには、望みなんてない。何も――」

「だったら、何もしたくない?」

「……そうじゃないが。いや……そうだな。実際、ずいぶん長い間、おれは無為に過ごしてきた。何もしてこなかった」

「それはどうして?」

「おそらく、こんな……おれのような者にできることなんて、何もない。そう感じていたからだろう」

「そっか。ハルはずっと一人だったんだもんね」

「……一人」

「うん。でしょ? こっちはあんまりないんだけど。一人だったのって、父さんと母さんが死んだあとくらいかな。あのときはなんか、変な気分だった。でも、すぐジュンツァたちと会って、仲間ができたら、ぜんぜんそんなことなくなってさ。一人だと、話したりとかもできないし、つまんなくて、やばくない?」

「……まあ。たしかにな」

「けど、ハルはもう一人じゃないからね。どっか行けって言われるまでは、一緒にいるつもりだから」

「どこかへ行けなんて、言うわけが――」

 不意にハルが口をつぐんだ。

 静かになった。歌だ。

 あれだけやかましく鳴り響いていた歌声が、急にんだ。

 まだ日は沈んでいないはずだが、壁のせいでやけに暗く感じる。

 静寂が重くのしかかってくるようだ。

 歌声は過ぎ去って聞こえなくなったのではない。むしろ最高潮だったと思う。つまり、帰依者たちは養殖場に最接近している。ここからは見えないが、門の付近を通過しようとしていたのではないか。

 帰依者たちは歌うのをやめただけなのか。今も無言で行進を続けているのだろうか。

 耳を澄ましても、足音のようなものは聞こえない。隔てる壁もあることだし、聞こえなくてもおかしくはない。でも、帰依者たちの列は動いていない。なんとなくだが、マナトにはそう思える。

「……かりぃ……かりぃ……」

 声が聞こえた。

 たぶん、男の人の声だ。

 ハルが左手の人差し指を立てて、右の掌をマナトやヨリ、リヨに向けた。静かに、動くな、という合図だろう。

 もっとも、指示されるまでもなく、マナトは身動きもできずにいた。なぜかはわからないが、体がこわばっている。呼吸もちゃんとできない。

 怖いのだろうか。怖いのは嫌いじゃない。

 恐怖とは違う。だったら、この感覚は何なのか。

「ひっかりぃ……ひっかりぃ……ひっかりぃ……」

 光。

 男の人の声は、光、という言葉を繰り返しているようだ。ただ光と言っているのではなく、節をつけて歌っているのか。

「ひっかりぃ……ひっかぁーりぃ……ひっかりぃー……ひかりぃ……ひかりーぃ……」

 何か、からかっているような、悪ふざけをしているような調子にも聞こえる。帰依者たちの合唱とはまったく違う。

「……っ……ぇっ……ぇっ……ぅっ……っ……っ……」

 笑っている。

 男の人は歌うのをやめて、笑いだした。

「あっ、はっ、はっ、はっ……ひぃーっ、ひっ、ひっ、ひっ……うっ、っ、っ……」

 笑い声がマナトの体の中に入りこんできて、肺や心臓や胃を握り潰そうとしている。そんなわけがないのに、そう感じる。

「光よォォォォォ……!」

 男の人が、今度は叫びだした。

「光だァァァァァァァァァァァァァァァ……!」

「ひ、か、り」

 別の声が続いた。一人とか二人とかじゃない。帰依者たちか。

「ひ、か、り」

「ヒ、カ、リ」

「ひっ、かっ、りっ」

 声だけじゃない。帰依者たちが地面を踏んでいる。光、光、光、と唱えながら、踏み鳴らしている。

「ひっ、かぁっ、りぃっ……!」

 男の人も声を張り上げる。彼の声は他の帰依者たちの声とは違っていて、簡単に、はっきりと区別できる。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 震えている。地面が。いや、地面だけだろうか。壁か。

 壁だ。

 養殖場の壁が振動している。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 声以外に音がする。かなり大きな音だ。たたいている。壁を、何かが。外側からだ。あたりまえか。マナトたちは養殖場の中にいるのだ。内側からは、誰も、何も、壁を叩いたりしていない。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 誰かが、何者かが、壁の外側、おそらく門の近くあたりに、何らかの方法で衝撃を加えている。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 一撃ごとに、壁が揺れる。ぎっしり、ぎっちりと積まれている石と石の間から、ちりが噴きだす。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 石がずれそうだ。

 というか、ずれはじめている。

「離れるぞ」

 ハルが身振りで遠い角を示して、マナトの背中を押した。

「破られる。もたない。すぐだ。離れろ、早く……!」

 ヨリとリヨが駆けだした。マナトも走った。足がもつれなくてよかった。ハルは最後尾についた。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 壁が砕け散った。もちろん、壁全体じゃない。門の近くのほんの一部だ。そうはいっても、養殖場内に飛び散った石の量といったら半端じゃなかった。いったい何をどうすれば、あの石壁があんなふうに壊れるのか。

 マナトたちは一番近い角を曲がって、その先の角を目指していた。さすがに度肝を抜かれたのか、穴の底のゴブリンたちがわめいたり右往左往したりしている。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 また壁が破壊されて、一回目と同じくらいの石がき散らされた。石は穴の中にも落ちてゆく。石の直撃を受けて倒れるゴブリンもいる。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 壁はどんどん突き崩されてゆく。マナトたちが通りすぎた角のほうめがけて破壊は進行している。ふんじんが立ちこめているせいで、壊れた壁の向こうはよく見えない。

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……! ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 これは帰依者たちの仕業なのか。そうじゃないのか。

 もしかして、あの声の男が一人でやっていることなのか。そんなことができるのか。

 遠かった角が、もうそこまで遠くない。

 穴の底のゴブリンたちは、とにかく門から遠ざかろうとしている。い登って穴を出ようとしているゴブリンもいる。逃げようとしているとか、ここから逃げだそうとしているというより、パニックに陥っているようだ。

「ヨリ、リヨ! 竜を呼べ……!」

 ハルが前を行く二人に言った。

「あの人は――あれは、普通じゃないんだ! 戦ってどうにかなる相手じゃない……!」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……! ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 だいぶ離れたのに、まだ男の声が聞こえる。男が、光、と発声するごとに、養殖場の壁が壊されてゆく。

 ヨリとリヨが竜笛を出した。二人は足を止めずに竜笛を口に当てて吹いた。笛の音は聞こえないけれど、吹いているのだと思う。

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……! ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 男の叫び声と、壁がぶっ壊れる音しか聞こえない。

 壁はもう、マナトたちが通りすぎた角のあたりまで崩壊している。大半のゴブリンは穴から這いだそうとしている。

 遠かった角が間近だ。

「時間が掛かるか……!?

 ハルが声を張り上げていた。たぶん、キャランビットとウーシャスカ、翼竜が飛んでくるまで、まだ時間が掛かりそうか、ということだろう。ヨリが首を横に振ってみせた。

「山にいたはずだから、まだ……!」

「わかった、突き当たりで竜を待とう!」

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……! ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

 男は叫び、壁は壊されている。

 マナトたちはとうとう突き当たりの角まで来た。

「ヨリ」

 リヨがヨリに声をかけて頭上を指し示した。マナトもその方向を見上げてみた。いる。

 飛んでいる。

 一頭だけか。いや、二頭いる。

 きっと翼竜だ。キャランビットとウーシャスカに違いない。

 ヨリはあたりを見回した。何か考えている。すぐに結論が出たみたいだ。

「ここには下ろせない、壁を越えないと」

「登れ!」

 ハルは、行け、とばかりに手を振った。ヨリが、リヨも、壁をよじ登りはじめる。マナトも二人に続いた。ハルはマナトのあとで登りだしたはずなのに、登りきったのは同時だった。ヨリとリヨは壁の向こう側を少しだけ伝い下りると、そこから飛び降りた。マナトは上から一気に飛び降りたくてうずうずしたが、考え直してヨリとリヨのをした。ハルはちょっとだけマナトに遅れて壁の向こうに着地した。

 ヨリとリヨは壁から離れて、いくらか開けた場所に翼竜を呼び寄せようとしている。といっても、そろそろ日が暮れそうな空を仰いで、片手を挙げているだけだ。もっと何かしなくていいのか。

 あれだけで問題ないらしい。キャランビットとウーシャスカはぐるっと旋回してきたようで、南寄りの西のほうから飛んできた。速度を緩めながら降りてきて、二頭とも滑らかに着地した。勢い余ってつんのめることも、たたらを踏むこともない。翼竜たちはまるで事情を察しているかのように翼を畳みきらないで、さあ乗れ、とばかりに体勢を低くした。キャランビットには当然、ヨリが、ウーシャスカにはリヨが乗った。

「マナトはウーシャスカに! ハルヒロはヨリとキャランビットに乗って!」

 ヨリが指示した。ハルは返事もそこそこにヨリの後ろに乗った。何人も乗れるような竜では本来ないみたいだから、できるだけくっついたほうがいいのだろう。ハルは遠慮がちだったが、ヨリがハルの腕をつかんで、こう、それから、こう、という具合に、ヨリのおなかにしっかりと両腕を回させた。マナトもそうしようとしたら、リヨに肩をがっちりと押さえられた。

「前に」

「あぁ。後ろじゃなくて?」

 マナトが確かめると、リヨはうなずきながら繰り返した。

「前に」

「うん、前ね!」

 マナトがウーシャスカにまたがろうとすると、リヨは体を後ろにずらしてスペースを作ってくれた。竜の背に直接乗るわけじゃない。革か何かでつくられたくらが固定されている。人はそこに乗るのだ。もっとも、やはり一人乗りしか想定されていないようで、マナトがぎりぎり前に詰めても、リヨのお尻は鞍からはみ出しているのではないだろうか。そんなこともないのか。どうなのだろう。

 後ろからリヨの体が倒れかかってきて、マナトの背中とリヨの体の前面がぴったりと接した。リヨはマナトより背が高い。リヨの顎がマナトの右のこめかみあたりに当たっている。この状態だと、リヨの上半身は右側にやや傾いているだろう。それはあまりよくなさそうな気がしたから、マナトは首を左に曲げた。これでリヨは顔をまっすぐ正面に向けられるはずだ。

「ありがとう」

 リヨが小声でつぶやいた。みみもとささやかれる形になって、くすぐったかった。

「飛んで、ウーシャスカ」

 翼竜に命じるリヨの声音はどこまでもやさしくて、今度はくすぐったいのとは違う、なぜか心臓がどきっとした。

 ウーシャスカが走りだすと、リヨの体がマナトから少し離れた。

「マナトはしがみついたままで」

「うん」

 びっくりするほど上下動が激しい。でも、必死にしがみついているだけなら、なんとかなりそうだ。

 マナトと違って、ヨリは翼竜の動きに合わせて体勢を変えているのか。それでいて、頭の位置はあまり変化しない。マナトの頭頂部のやや右あたりに、リヨの顎が押しつけられている。鞍は座る部分だけじゃなくて、乗り手が足を掛けるところや、竜の首のほうにせり出して、そこから突き出た握りのようなものもある。リヨは足掛けに両足を引っかけ、握りを摑んで、腰を上下させているようだ。翼竜の動作に合わせている。人間を乗せている翼竜の負担を、少しでも減らそうとしているのだろう。マナトは自分の体重に加えて、ただしがみついていることしかできないから、ウーシャスカの重荷になっている。

「ごめん、ウーシャスカ……!」

 すまないとは思うけれど、今すぐ何ができるというわけでもない。マナトがリヨの真似をしたところで、かえってウーシャスカの妨げになるだろう。

「大丈夫」

 リヨが囁いた。

「ウーシャスカにできないことは、させないから」

 ぞくぞくっとした。

 ウーシャスカが一段と強く地面を蹴った。

 今、飛んだ。

 竜に乗るのは初めてだし、空を飛んだことがないマナトでも、はっきりとわかった。ジャンプするのとは明らかに違う。

 飛ぶって、こういうことなんだ。

 ぐいぐいと、持ち上げられているようでもあり、引っぱり上げられているようでもある。どちらともとれる。

「わぁっ……!」

 マナトは思わず叫んでしまった。

「気持ちいい……!」

 リヨが笑ったような気がした。笑い声が聞こえたわけじゃない。リヨの顔も見えない。でも、そんな気がした。

 リヨとウーシャスカに迷惑をかけたくない。マナトはひたすらウーシャスカに取りすがっている。できることなら一体化してしまいたい。頭を動かせないから、どうしても視野がかなり狭くなる。ウーシャスカが飛んでいるのは間違いないが、どのくらいの高さの、どこをどんなふうに飛んでいるのか、正直よくわからない。ヨリとハルを乗せたキャランビットも見えないし、色々と気になる。いっそ目をつぶっていたほうがいいだろうか。

「ひっ! かぁっ! りぃぃっ……! ひっ! かぁっ! りぃぃっ……!」

「――え……」

 男の声が聞こえる。

「ひ、か、り」「ヒ、カ、リ」「ひっ、かっ、りっ」

 それに、帰依者たちの声も。

 この、どかん、というとどろきは、壁を破壊する音か。

「あっ――……」

 ウーシャスカは降下しているようだ。考えてみると、もちろんずっと飛んではいるが、上昇しつづけていたわけじゃない。けっこう上がったり下がったりしていた。ぐるっと回っていたような感じもする。前のほう、どれくらい前なのか、ちょっと距離感が摑めないが、とにかく前方にキャランビットがいる。ウーシャスカはキャランビットのあとを追っているのだろう。地上の見え方からすると、そこまで高くない。

 というか、低い。このまま落ちてしまうんじゃないかと思えるほど低くて、マナトはつい笑ってしまった。

「もしかしてっ――……」

 あれは上から見る養殖場なのか。ウーシャスカは上空から養殖場に突っこんでゆこうとしているのだろうか。突っこむというほど急角度で降りてはいないか。養殖場の壁はたぶん、三分の一以上壊されている。帰依者たちが見えた。とりであとには何百人もいたとハルが言っていた。たしかにそれくらいはいそうだ。破壊された壁の外側にうじゃうじゃいる。男の声がしない。聖者は壁を壊すのをやめたのか。あれか。

 まだ崩壊していない壁の手前あたりに、何かが立っている。

 人、なのか。

 あれが聖者なのだろうか。

 姿、というか、形、というか。ひどく奇妙だ。上半身は逆三角形で、その左右の上端から、腕らしきものが垂れ下がっている。腕というよりも、大きなかなづちみたいなものが。逆三角形の下端からやけにほっそりした二本の脚が生えていて、頭はあるようでもないようでもある。

 聖者は体をねじって、見上げているのか。どこが顔なのか、目があるとしたらどこについているのか、マナトにはわからないが、こっちを見ているように感じられた。

「はっ! はぁっ! はぁぁっ……!」

 あの声だ。光、光、と叫んでいた男の声。あれと同じ声だ。

「ハルヒロかぁ!? おまえハルヒロだなぁ……! 光が恋しいか、ハルヒロォォ……!」

 ヨリとハルを乗せたキャランビットが、そして、リヨとマナトを乗せたウーシャスカが、間を置かずに聖者の頭上を通りすぎた。

 マナトの体感では、翼竜たちはすれすれのところを飛んだ。聖者が跳び上がって翼竜をたたき落とそうとするんじゃないか。

 ただ、実際は意外とそこまで降下していなかったのかもしれない。聖者は何もしてこなかったし、キャランビットもウーシャスカもみるみる高度と速度を上げて、マナトは逆に高すぎて怖くなった。高いし、速い。速いって。

「何がそんなに楽しいの」

 リヨが耳許で囁いた。

「ひゃはっ」

 マナトは思わず奇声を発した。

「……ちょっと、リヨ、それやめて!?

「それとは何」

「ひひっ、だ、だからっ、くすぐったいから……! くふふっ……」

「ごめんなさい」

「や、謝ることないけど! きゃははっ……うぅ、なんか変な感じになってきた……大丈夫、我慢するから! くくくっ……」