なんだか妙というか、不思議な成り行きだ。
ハルとリヨは
といっても、ハルは仮面をつけ直しただけだ。
リヨは厚手のコートを着て、マフラーをつけていた。少し動きづらかったのか、単に暑かったのか、どちらも脱いだ。眼鏡も外して、リヨはものすごくぴったりした革か何かのツナギ姿になった。両手には肘までを覆う頑丈そうな手袋をつけている。履いている長靴もところどころ硬そうだ。
リヨは長くてまっすぐな髪の毛を
ハルに曽祖父を殺されたので、リヨがそのお返しをしたいというのなら、マナトとしても理解できなくはない。でも、そういうわけじゃないという。
「マナト」
ヨリに声をかけられた。
「うん。何?」
マナトは隣を見た。ヨリはマナトと横並びになって、地べたにあぐらをかいている。手袋やマフラーこそ外しているが、コートは脱いでいない。前をはだけている。
「ほんとにもう平気なの?」
「何が?」
「
「誰の?」
「きみだってば」
「あぁ」
マナトは両腕を上げ、頭上で両手を組み合わせて、伸びをした。そのまま体を左右に揺すってみたが、なんともない。
「ぜんぜん痛くないから、治ったんじゃない?」
「見てもいい?」
「いいよ」
マナトは身をよじって、怪我をしたはずの背中をヨリのほうに向けた。
「……服は裂けてるし、血で汚れてるけど、傷痕っていうほどの傷痕は見あたらない。どうなってるの、マナトの体?」
「えぇ。どうって言われても、ずっとこうだし。そういえば、ヨリも歯って抜けたら生えてこない?」
「乳歯が抜けたあとに生える永久歯はね」
「永久歯? 大人の歯?」
「うん」
「前に、大人の歯が抜けちゃって、生えたことある。なんか、いるらしいよ。たまに、そういうやつ」
「昔、ルミアリスを信じる神官は、傷を癒やす魔法を使えたらしいけど」
「魔法? とかではないんじゃない? わかんないけど。とくに何もしてないし」
「ほっとけば治っちゃうんだ。うらやましい」
「でも、頭とか割れたら、死ぬと思うよ。死ぬ……かな? 頭は割れたことないからなぁ。一回、割ってみたらいいのかな」
「頭割って、死んじゃったらどうするの。やめときなよ」
「それもそうか」
マナトが笑うと、つられたのか、ヨリも少しだけ笑った。
自分から笑っておいて何だけれど、リヨがハルと果たし合いをしようとしているのに、ヨリはとくに心配していないみたいだ。くつろいでいるようにさえ見える。
「ハルとリヨ、どっちが勝ちそう?」
「わからない」
ヨリはあっさり即答した。
「ハルヒロには百年以上の経験があるわけだからね。普通に年をとって衰えてるわけでもなさそうだし。かなり強いはず。リヨも弱くはないけど、どうかな」
「ヨリだったら、ハルに勝てる?」
「やってみないとわからない」
「リヨはなんでハルと戦うの?」
「それは、見てればきっとわかる」
ヨリは右膝を立てて両腕で抱えこむと、リヨのほうに目をやった。
「リヨは、ヨリと違って器用じゃないんだ。ちっちゃいころはヨリの言いなりだったけどね。もう子供じゃないし、あの子はあの子のやり方で納得するしかない。意地っ張りなんだよ。ヨリも頑固だけどね。そこはひいお
「言っておくが」
ハルが二本の短剣を抜いた。右手には伸びる短剣、左手に持っているのは伸びないほうの短剣だ。
「おれは武術のたぐいを学んだことがない。身につけているのは、生き物を傷つけ、殺すための技術だけだ」
「わたしはエミ=ブブル師からオドラッドを習いました」
リヨは胸の前で左右の手を合わせた。正確には、人差し指の先と人差し指の先、中指の先と中指の先という具合に、指同士をふれあわせて、掌と掌はくっついていない。リヨは少しだけ足を開いて立っている。膝は伸びているようにも見えるが、わずかに曲げているようだ。
「オドラッドは、抵抗する者、という意味。赤の大陸の奴隷解放者、オドラッドが編みだしたと言われている。でも、オドラッドが実在した証拠は残っていない。一説によると、何人もの奴隷解放者に関する言い伝えをもとに、吟遊詩人や講談師たちがオドラッドという人物を形づくった。オドラッドではブラカ、ジャビといった
「……丁寧に教えてくれて、どうも」
「どういたしまして。そろそろ始めませんか、ハルさん」
「本当にやる気なんだな」
「もちろんわたしは本当にやる気です」
「わかった。いつでも始めていい」
ハルがそう言った途端、リヨの長身がゆらりと傾いた。リヨはすでに走りだしている。やはり、まっすぐじゃない。リヨは弧を描いてハルに迫った。
ハルは伸びる短剣を繰りだした。リヨはそれをクドゥスだか何だかという手袋で
リヨの動きは絶えず流れている。その流れは一瞬も止まらない。速まったり遅くなったり、刻々と変化する。マナトは
「にゅにゅっにゅににゅにゅーにゅーにににゅにゅっにゅーみたいな……」
「リヨのこと?」
「うん」
「ハルヒロは、シュッ、シュシュシュッ、パパンッ、パパッ、シュッ、シュシュッ、みたいな感じだね」
「おぉ。そんな感じする!」
「リヨって、相手にするとやりづらいよ」
「ヨリはリヨと戦ったことあるの?」
「リヨとはないけど、オドラッド使いとは何回かやった。強いっていうか、気持ち悪いんだよね。オドラッドは独特の打撃だけじゃなくて、投げもあるし。ぜんぶの技が攻めに
たしかに、リヨが攻めに攻めて攻めまくっている。ハルは下がったり、横に移動したりで、ほとんど前に出ることがない。
「でも――」
ヨリは唇をひん曲げて、顔をしかめた。
「ハルヒロは本気じゃないね。生き物を傷つけて殺すための技術って? あれがそうだとしたら、幻滅なんだけど」
なんだかヨリが怒っているような気がして、マナトはちょっと笑ってしまった。
「……何?」
ヨリに
「や、だって、ハルにリヨが殺されちゃったら、ヨリはいやでしょ?」
「いやっていうか……」
「いやじゃない?」
「それはまあ。妹だし」
「ハルがリヨを殺すと思う?」
「……思わない」
「じゃ、ハルは本気を出さないんじゃない?」
「ハルヒロは果たし合いを受けたんだよ」
「なんで受けたんだろうね? ヨリとリヨは、ハルの大事な仲間だった人の、孫……じゃないや、ひ孫なんでしょ。ハルはそういう人を殺したりしないと思うな。あれ? だけど、ハルは仲間だったランタを殺したんだっけ。変なの」
「事情があったんでしょ。どうしてもそうしなきゃいけなかった」
「だよね。え? ヨリは何か知ってるの?」
「知らないけど。百年前のことだもん」
「きっとハルは、殺したくなかったんだろうね。殺したくない相手を殺さなきゃいけないって、どういう気持ちなんだろ」
「……そんなの、想像したくもない」
「大変だったんだなぁ、ハル」
マナトから見ても、ヨリが言うように、ハルは本気を出していない。リヨに攻め立てられながらも、ときどき伸びる短剣で反撃するのだが、鋭さというか、これで仕留めてやる、というような意思がちっとも感じられないのだ。
ハルは殺したくない相手を殺して、今も戦いたくないリヨと戦っている。
「はぁ……」
マナトは思わずため息をついた。ヨリがちらっとマナトを見た。
「どうしたの」
「んん。わかんない」
マナトはなぜかあぐらをかいていられなくなり、腰を浮かしてしゃがむ姿勢になった。
「がんばれ、ハル」
「……がんばれ?」
ヨリは不満なのか、
「なんとなく」
「だめだ」
いきなりハルが伸びる短剣を捨てた。それだけじゃない。伸びないほうの短剣も手放してしまった。
リヨが初めて止まった。ただ、その止まり方も、急停止するのではなくて、ゆったりと低い姿勢になった。
「それは果たし合いをやめるということですか」
「ユメとランタの血を引いているきみを殺すなんて、おれには無理だ」
「ですが、ハルさんはひいお祖父ちゃんを殺した」
「そうだな。こんなことを言っていても、そうせざるをえない状況なら、おれはやるかもしれない」
「そうせざるをえない状況とは何ですか」
「ランタに頼まれたんだ。スカルヘルに支配されてしまう前に、殺してくれと。あいつはわかっていた。封じられていたスカルヘルが解き放たれて、自分が自分じゃなくなることを。そうなったら、人として死ぬことすらできなくなる。そこまであいつは見通していたのかもしれない」
「ひいお祖父ちゃんが、人として死ぬには、ハルさんに殺させるしかなかった」
「他にも方法はあったのかもしれないが、あのときは何も考えられなかった。おれは息の根を止める寸前、あいつに謝ったよ。あいつは最後の最後まであいつらしかった。『こっちの
「ハルさんは死なない」
「不老不死というわけじゃないとは思うが、簡単には死ねないだろう」
「ずっと覚えている」
「忘れることはなさそうだ」
「悔いていますか」
「いいや」
ハルは首を横に、はっきりと振ってみせた。
「おれが悔いたりしたら、あいつの判断が間違いだったということになる。あいつはあいつ自身のために、正しい決断をした。だから、おれは悔いていない。もしあのときに戻れたとしても、同じことをする。おれは必ず、あいつを殺す」
「ハルさん」
リヨは手袋の留め金か何かを外した。まず左手の手袋が、次に右手の手袋が、地面に落下した。手袋の下も、素手ではなかった。リヨの両手には細い布が巻きつけられている。あの布は重くも硬くもないだろう。リヨの手を保護するだけで、クドゥスとかいう手袋と違って、武器にはならない。
「わたしと戦ってください」
ハルが答えずにいる間に、リヨは靴も脱いだ。手と同じように、リヨの足にも細い布が巻かれている。
ハルは仮面を外して、地べたにそっと置いた。ハルの顔が、さっきとは違う。白すぎるほど白いままだし、編み目状に青い血管が浮いている。それでいて、何か変わったような印象をマナトは受けた。初めに目にしたハルの素顔は死に顔か作り物のようだったが、今のハルは依然として生気こそ乏しいものの、死人には見えない。ハルは仮面に続いてマントも脱ぎ捨てた。
「おれでよければ、手合わせ願おう」
「ここからは全力でいきます」
リヨの体が傾いた。もうリヨは駆けている。ここからは全力。ということは、ここまでは全力じゃなかったのか。
何かものすごい音がして、ハルが吹っ飛ばされた。
「っ――」
ハルは空中でぐるぐる回った。その途中、打ち落とされた。リヨがすっ飛んでいって、自分で吹っ飛ばしたハルに、空中で後ろ回し蹴りを食らわせたのだ。
ハルは背中から垂直に落ちた。そこに、というか、そこにもリヨは襲いかかった。リヨは斜めに回転した。その回転に合わせて振り回した両腕を、ハルに
ハルの体が跳ね上がった。
浮いた瞬間、またリヨの両腕がハルを強打した。
マナトがあんなことをされたら、死ぬかどうかはともかくとして、気を失ってしまいそうだ。ハルはどうやって切り抜けたのか。マナトはまばたきをしないで見ていたのに、さっぱりわからない。
ハルがヨリに組みついた。いや、組みつこうとしたハルを、すかさずリヨが投げ飛ばしてしまった。投げられたらいくらか距離が生まれそうなものだが、相手がリヨの場合はそうならない。リヨは自ら投げ飛ばしたハルに一瞬で詰め寄って、今度は何をしようとしたのか。定かじゃない。とにかく、ハルがリヨの右腕と左脚を立てつづけに、というか、ほぼ同時に手で打ち払った。片腕と片脚を払われたリヨは、おそらくその勢いを利用して、軸が斜めになった後方宙返りをした。
リヨはゆらゆらと頭を上下させながら、ハルを中心にした円を描こうとするように移動している。移動しているので脚はもちろんだが、腕も、それから指や手首に至るまで、片時も静止していない。
ハルは猫背で、膝をいくらか曲げ、動かない。唇の左端から血が垂れている。
「オドラッドは本来、徒手空拳の抵抗術だから――」
ヨリが言った。全身にちょっとだけ力が入っているようだ。
「クドゥスもハドゥマもないほうが力を出しきれる。ただ、使い手の体が耐えきれなくて、壊れちゃいがちだけどね」
「ヨリはリヨが心配?」
マナトが
「あの子が自分で選んだことだから。
「六熾って、あのヨリが使うやつか」
「リヨは
「そっか。リヨは、六熾だとヨリみたいに強くなれないと思ったんだ」
「ヨリみたいになろうと思うのが間違ってる。リヨのくせに」
「でも、ヨリみたいに強くならないと、リヨはヨリに守ってもらわなきゃいけないね」
「守りたくなくても、守るくらいはするよ」
ヨリは抱えこんでいる右膝を胸にぐっと引き寄せた。むっとしているみたいだ。
「リヨはヨリの妹なんだから」
マナトはくすりと笑った。間髪を
リヨがハルに襲いかかった。
さっきまでとは何か違う感じがした。
ハルがリヨの長い右腕を左手で
ハルはリヨの右膝を踏み台にして、体を持ち上げた。
膝蹴りだ。
ハルは右膝でリヨの顔面を狙った。でも、リヨは体がものすごくやわらかい。背骨がそんなふうに曲がるなんて驚きだ。リヨは上体を
マナトにはそのあとの展開を十分に見てとることができなかった。何がどうしてそうなったのか、ハルがリヨを羽交い締めにしようとしていた。リヨがするりとハルの腕から抜けだし、逆にリヨのほうがハルを羽交い締めにした。そうかと思ったら、二人は絡み合ったまま地面に倒れこんだ。
「ハルヒロはもうリヨを見切った」
ヨリが
「オドラッドは一見、変則的で、単調とは程遠いけど、規則性がある。師匠のエミ=ブブルと比べて、リヨはまだまだ読みやすい。経験を積めばすぐ追い抜くだろうけど、現時点ではエミ=ブブルのほうが強いから」
「ハルはどう?」
「あれは、強いとかじゃない」
「じゃ、何?」
「化け物」
どういう意味なのだろう。
リヨとハルはなかなか起き上がらない。地面の上を転げ回りながら、互いに相手を押さえつけようとしたり、腕や脚、首を
不意にリヨが跳び起きた。
ハルは少しだけ遅れて立った。
リヨが両手でハルの顔面を挟みこんだ。そうか。挟むだけじゃない。挟んで、ひねりを加えている。マナトは震え上がった。怖くて、笑うしかない。あんなのを食らったら、ものすごいことになる。首の骨が折れる。頭が弾けてしまう。
ハルの首も変な方向に曲がった。頭は破裂していない。さすがにそれはない。でも、顔がぐちゃぐちゃになっている。皮膚がめくれて、血が飛び散った。
「どうした」
そんな状態で、ハルが声を発した。リヨは一瞬、
リヨの左脚に、ハルの両腕、両脚が絡みついた。ハルはリヨの左膝とか左足首の関節を壊そうとしたようだ。そうはさせまいと、リヨはハルが組みついている左脚を地面に叩きつけた。ハルはリヨの左脚から離れなかった。
「これがきみの、全力か?」
「っ――」
リヨがむきになった。冷静じゃなくなったのが、マナトにもわかった。リヨは飛び跳ねて斜めに回転し、左脚というか、ハルで地面を蹴った。それでもハルはリヨの左脚と一体になったままでいる。リヨは左脚を高く振り上げて、
間を置かずにリヨが三回目を実行する前に、ハルが何かをした。たぶん、リヨの腹部、
それでほんの一瞬、リヨの挙動が乱れた。
ハルはその間に、リヨの体を素早くよじ登るようにして移動した。リヨはハルに押し倒され、組み敷かれてしまった。
「おぉっ……」
マナトは思わず立ち上がった。
リヨは
ヨリがため息をついた。
「……あんな戦い方、普通、できない」
リヨとしてはハルを
「すまない……ユメ……ランタ……」
ハルはすぐにリヨから離れて、途切れ途切れに言った。首が右後方に傾いていて、顔は見るも無残な有様だ。それなのに、ハルは平然と立っている。いや、平然と、とは言えないか。それともやはり、平然としている、と言うべきだろうか。
「おまえたちの……
声が切れ切れなのは、首が折れているせいで発声しづらいのだろう。それが気になったのか、ハルは両手で頭を支え、顔を正面に向かせた。そのまま少し押さえていただけで、大丈夫になったらしい。
ハルは手を放してマナトとヨリに向き直った。そのときにはもう、ハルの首が傾いてしまうことはなかったし、顔にも変化があった。
血だらけだが、筋肉や血管、皮膚が、ぶつぶつと泡立ちながら再生されつつある。
マナトも傷の治りがいいほうだが、あそこまで速くはない。というか、そもそもあんなふうには治らない。
「ヨリ。きみもおれと戦いたいか」
「リヨと一緒にしないで」
ヨリは顔を伏せた。肩が落ちている。
「……ひいお
「もちろんだ」
ハルはそう答えてからうなずいた。
「おれも話したい。久しぶりに、あいつのことを」
