ハルによると、そこはもともと防壁に囲まれたオルタナという街で、大勢の人が住んでいたらしい。といっても、百年以上前の話なのだとか。
防壁の外から見た段階で想像したとおり、旧オルタナは三分の二が森で、あとの三分の一が
森や藪の中に、踏み固められた小道があって、ハルはそこを歩いていった。マナトに見てとれる足跡からして、人間が通っているうちにできた道だろう。おそらく同じ人間が何回も何回もここを通った。だとしたら、それはハルに違いない。
「ここは比較的安全だ。
「食べられる?」
「穴鼠はまずい。
「そのペビーって、どれくらいの大きさ?」
「こんなものかな」
ハルは振り返って、左右の手を肩幅より少し狭い程度に広げてみせた。
「大型の獣はずいぶん減った。南の天竜山脈にはたくさんいるが、あそこは竜の縄張りだから、基本的には足を踏み入れないほうがいい」
「どうしておっきい獣が減ったの?」
「乱獲だ」
「
「まさか。そうじゃない。神に従う者たちの仕業だ」
「神? あぁ。なんか、聞いたことあるかも。ヤクザが拝んでるとか。偉い人? 人じゃないか。カリザに三ツ目っていう
「危険な獣だな」
「カリザに像が建ってたよ。三ツ目の像。みんな恐れてて、ヤクザは神棚っていうのを作って、拝んでるって。神って、そういうの?」
「少し似ているかもしれない」
「でも、カリザの周りの山でだいぶ狩りとかしてたけど、結局、三ツ目はいなかった。あれ、ほんとなのかな」
「三ツ目はどうかわからないが、神はいる。光明神ルミアリスと、暗黒神スカルヘル」
「ルミアリス……と、スカルヘル? 二人いるんだ?」
「神は柱と数える。
やがてハルとマナトは開けた場所に出た。明らかに切り開かれている。藪どころか草っ原でもない。土が
「え、小屋があるよ?」
マナトは開けた土地の端のほうを指さした。その方向に、テントを大きくしたような形の小屋が立っている。
「おれが建てた。根や実、葉が食べられる植物をここで育ててる。菜園だ」
「獣に食べられちゃわない?」
「食い尽くされなければ、困りはしない。おれ一人だったからな」
「もう一人じゃないね」
「……そうだな」
ハルは菜園の外側を通って小屋のほうに歩いてゆく。マナトも菜園の植物を踏んづけないように気をつけてハルを追いかけた。
小屋のそばには木製の椅子と机が置いてあった。あたりに
ハルはマナトに椅子をすすめて、自分は机に腰かけた。マナトは椅子に座った。
鳥や虫の声が
「ハルは、ずっと一人?」
「人に会ったのは、ずいぶん久しぶりだからな。前回、ニホンからグリムガルに人が渡ってきたのは……四十八年前か」
「それっきりってこと?」
「彼らとは数年、交流があった」
「あぁ、彼らってことは、一人じゃなかったんだ」
「二人だった」
「どこにいるの?」
マナトが訊くと、ハルは首を横に振ってみせた。
「……グリムガルでは、ルミアリスに帰依する神兵たちと、スカルヘルに従う隷属たちが勢力争いをしている。別の勢力も、ないわけじゃない――はずだが……おれは長らく接触できていない」
「その、神兵?……と隷属って、人間?」
「人間だった者もいる」
「もう人間じゃないの?」
「グリムガルには、人間以外の種族もいるんだ」
「種族?」
「人間と同じくらい頭がよくて――人間にかなり似ている者たちもいれば、だいぶ違う者たちもいる。エルフとか、ドワーフ。有角人。ピラーツ人。セントール。ゴブリン。コボルド。色々な姿をした人間がいると思えばいい。色々な種族が。マナトのような人間は、その中の一種でしかない」
「ぜんぶひっくるめて、人ってことか」
「まあ、そうだ」
「人が……ルミアリスとかスカルヘルとかに、帰依? 従う?……と、人じゃなくなっちゃうってこと?」
「ああ。おれが知る限り、神兵も、隷属も、もはや人とは呼べない。別物だ」
「なんかこう、変わっちゃうの? 見た目とか」
「……そうだな」
ハルはうなだれて、ため息をついた。
「見た目だけなら、まだしも……中身まで変わる。何もかも。変わってしまったんだ。グリムガルは。変えてしまった……」
なんだかずいぶん落ちこんでいるようだ。
変わってしまった。
変えてしまった。
「――ん?」
マナトはちょっと首をひねった。気のせいだろうか。まるで、ハルが変えたみたいな言い方だ。そのときだった。
羽音と葉擦れの音が鳴り渡った。
鳥だ。
すごい数の鳥が一斉に飛び立った。
立てつづけだ。最初は天竜山脈の逆方向で、その動きに応じるようにして別の方角からも次々と鳥が舞い上がった。応じるようにして、というか、応じたのだろう。何らかの異変を察知した鳥が止まっていた木から飛び立つと、他の鳥たちもどんどん続く。森ではよくあることだ。
「ハル」
マナトは椅子から立ち上がった。
「ああ」
ハルも机から離れた。
「……油断していた。連中はここに寄りつかないと思ってたんだが」
「連中って?」
「オルタナから四キロほど北西に行ったところに、スカルヘルの隷属が住みついている。たぶん、やつらの一派だろう。逃げるぞ」
「菜園は? いいの?」
「気にするな。必要なら、また――」
ハルは言いかけてマントの中に手を突っこみ、短剣を取りだして逆手に持った。マナトは弓を手にして矢筒から矢を抜こうとしたが、ハルに止められた。
「やつらに矢はきかない。……今のおれは、ぼんくらだな。鈍ってるどころの騒ぎじゃない。まったく気づかなかった」
ハルは何に気づかなかったのか。マナトはすでに理解していた。
マナトたちの正面は、初めに鳥たちが飛び立った方向だ。そっちじゃなくて、向かって左のほうの森からだった。何者かが菜園に駆けこんできたのだ。
「違う」
ハルが
「隷属じゃない……だと? 神兵――」
人だった。もはや人とは呼べない。見た目も中身も別物だと、ハルは言っていた。たしかに、あれはなんとも奇妙だ。
頭があって、胴体から腕と脚が二本ずつのびている。形は人間だ。でも、つるっとした光沢のあるもので、全身が覆われているのか。磨いた金属板を体に貼りつけているようにも見えるが、それにしては滑らかすぎる。そして、目だ。目が二つある。その二つの目が、なんと光っている。
そいつは何か長い物を両手で持っている。
「神官か。ということは――来い、マナト」
ハルが駆けだした。言うとおりにしたほうがよそうだ。頭でそう考える前に、マナトの体は勝手に動いてハルを追いかけていた。
ハルは天竜山脈方向の森に分け入ってゆく。そっちにも何かいる。目。光る目が、こっちに向かってくる。でも、あいつは頭だけだ。金属みたいな光沢のあるもので、頭だけが覆われている。旗付きの槍を持っていたやつとは違う。服を着ている。白っぽい布を体に巻きつけているような、たっぷりした服だ。手に棒みたいなものを持っている。ただの棒じゃないか。棒の先に球状の物体がついている。あれで殴られたらかなり痛そうだ。
「ハル!?」
「神兵長だ」
そう言った直後、前を行くハルの背中が、唐突にマナトの視界から消えた。マナトは驚いたが、ハルがぐっと姿勢を低くして、右斜め方向にある木を回りこんでいったのはどうにかわかった。まるで山猫みたいな身のこなしだ。神出鬼没の
気がついたら、頭だけ光沢があるものに覆われていて、二つの目が光っている――神兵長、だったか。その神兵長の、前じゃない。横でもなかった。
後ろだ。
ハルは神兵長の背後に移動していた。
「すごっ!」
マナトは目を
ハルは後ろから左手を伸ばし、神兵長の目をふさぐようにして頭の右側を
ハルは間髪を
神兵長の二つの目はまだ光っていた。そのとき、神兵長にも口らしきものがあることにマナトは気づいた。人間だったら口がそこにあるべきところが横に裂けている。その裂け目が広がった。
「ひかりぃ! るみありすおぉ! ひかりあれ……!」
しゃべった。
かなり聞きとりづらかったが、声だ。神兵長が声を発した。
頭だけなのに。
「神に仕える連中は、この程度では死なない」
ハルは神兵長の頭の角度を変えた。切断面を自分のほうに向けて、そこに短剣を突き入れた。
「あぁっ。ああぁっ。ひかりがぁ。るみありす、ひかりがみえる、ひかりぃ……――」
ハルは何をしたのか。短剣で神兵長の頭部の中を引っかき回した。おそらくそれだけじゃない。きっと頭部の中に何かがあるのだ。それを短剣で傷つけて破壊することで、頭と胴体を切り分けられても死なない神兵長が死んでしまう、何かが。普通の動物で言えば、脳とか心臓のような、生命活動を維持するのに不可欠なものが。
神兵長が黙った。目の光も消えた。
ハルは神兵長の頭を捨てるなり、また山猫のように身を沈めて左方向にすっと移動した。そっちには、別の――神官や神兵長とは違う、見たところ、人間なのか。でも、肌が褐色というか灰色っぽい。ひょろっとしていて、耳が
ハルはその尖り耳を神兵長とはいくらか異なる方法で仕留めた。背後をとるところまでは一緒だったが、首の付け根のところから斜めに突き上げるように短剣をぶちこんだようだ。ハルは尖り耳の頭を押さえて短剣をぐぐっと動かした。すると尖り耳の目は光を失い、ぐったりしてくずおれた。
「マナト、何をしてる。ついてくるんだ」
ハルが左手を振って手招きした。マナトはふたたび走りだしたが、大丈夫なのかな、とも思っていた。ハルのあとを追いながら、マナトは左右だけじゃなく、後ろにも目を配っていた。二人は追跡されている。一方向じゃない。敵はあちこちにいる。このあたりは
「光!」
「光よぉ!」
「光!」
「光あれ!」
「ルミアリス!」
「光よ! ルミアリスよ!」
「我に加護を!」
マナトに理解できる言葉もあれば、ちょっとよくわからない言葉もある。
「ディエデンダ!」
「アーフィンケ!」
「ロルバロル!」
でも、きっと同じようなことを叫んでいるのだろう。語調が似ている。
すごい数だ。
五人とか六人ではとてもきかない。追っ手は十人以上。ひょっとしたら、数十人かもしれない。
マナトは山犬の群れや大勢のヤクザに追い回されたことがある。追われるのはわりと平気だが、逃げきれるのか、捕まるんじゃないかという懸念はあった。というか、普通に考えたらまず捕まる。
それなのに、不思議だ。最初に神兵長と尖り耳を始末して以来、二人は追いつかれそうで追いつかれない。よっぽどツイているのか。運だけなのだろうか。マナトはひたすらハルについていっているだけだ。逃走経路を選択しているのはハルだから、ハルが上手に逃げている、ということなのだろう。
「余裕でついてくるな」
ハルがちらりと振り返って言った。
「すごいじゃないか、マナト」
「えぇ。ハルこそ。息も切れてないし」
「……そっちもだろう」
「やぁ、けっこうきつくなってきたけど。きつくはないかな。まだいけるけど」
「助かるよ」
「助かってるの、絶対こっちだよ?」
行く手に防壁が見えてきた。谷間のように落ちこんでいる部分がある。ハルはそこから外に出るつもりだろう。
「ハル! 右!」
マナトが声をかけると、ハルは「ああ」と短く応じた。ハルもわかっているようだ。まだ距離はあるが、向かって右のほう、防壁の上に人影がある。人影。人じゃない。旗付きの槍を持っている。神官だ。先回りされたらしい。
ハルはかまわず防壁の谷間を駆け抜けてオルタナの外に出た。マナトも続いた。
右を見ると、神官が防壁から飛び降りたところだった。神官だけじゃない。頭だけが光沢のあるもので覆われている神兵長が一人、目が光っているだけのやつも何人か防壁の上にいて、神官を追おうとしている。
ハルがどうしてか速度をゆるめた。おかげでマナトはハルに追いついてしまった。
「いいか、マナト、聞け」
「うん。聞く」
「
「え、ハルは?」
「やつらをどうにかする」
「一人で?」
「おれは問題ない」
「ううん……」
「ここで百年以上生きてる。ただ、きみを
「百年以上――百年っ?」
「行け」
ハルが顎をしゃくるようにして方舟の方角を示した。それから
マナトも回れ右して、剣を
「……マナト!?」
ハルはぎょっとしたみたいだ。
「手伝うだけ!」
ハルはつい笑ってしまった。
「危なくなったら逃げるし、大丈夫!」
「大丈夫って……」
「いっぱい来るしさ。ほら、さっき通った壁の穴? からも」
防壁から飛び降りた神官、神兵長一人、目が光っているやつらが四人、五人か、それに加えて、ハルとマナトが脱出してきた場所からも、神兵長が飛びだしてきた。目が光っているやつらも、続々と出てくる。
「ハル、あの目が光ってる人たちって――」
「神兵だ」
ハルは短剣を左手に持ち替え、マントの中からもう一本、別の武器を出した。形は少し違うけれど、それも短剣だ。ハルは両手に短剣を一本ずつ持った。待ち構えずに、神官めがけて駆けてゆく。神官、神兵長、五人の神兵たちは、ハルに群がろうとしている。七対一だ。多勢に無勢にも程がある。加勢したいが、防壁の谷間から出てくる連中をどうにかしないと、ハルはもっときつくなるだろう。
マナトは防壁の谷間から出てきた神兵長に突進した。その神兵長の光沢のあるものに覆われた頭には、二本の角が生えている。グリムガルには色々な種族がいるとハルが言っていた。角が生えている人もいるのだろう。二本角の神兵長は、右手に先っぽが丸くなった棒を持っている。棒の長さはせいぜい腕一本分くらいだ。左手で持っている円形の物体は防御用だろう。円い盾か。あれで殴りつけることもできそうだ。
「ロルバロル……!」
二本角の神兵長は円い盾を前に出して詰め寄ってきた。
もしマナトが剣で斬りつけたら、二本角の神兵長は円い盾で防ぎ止めるか、受け流すかする。そしてすかさず、マナトを棒で一撃しようとするはずだ。
わざわざ付き合ってやる筋合いはない。マナトは二本角の神兵長が左手に持つ円い盾をぎりぎり
マナトは防壁の谷間を目指して走った。神兵が二人、いや、三人か、光が何だとか光はどうしたとか叫びながら、一団となって押し寄せてくる。
なんか、こういうのって、怖いことは怖いんだけど、怖くなってくると、逆に怖くなくなるっていうか。
高い場所から飛び降りるのとも似ている。わ、高っ。危ない、と思う。くっ、と胸が狭くなって、鳥肌が立ったりもする。ざわっとして、飛び降りないほうがいいと感じるのに、飛び降りたくてたまらない。
両親は、マナトのそういうところを心配していた。ハンターは慎重じゃなきゃいけない。恐れを知らないハンターは、自分の手に負えない獲物を狩ろうとして、しっぺ返しを食う。ハンターは臆病なくらいがちょうどいい。両親はたぶん、マナトはハンターに向かないと思っていた。
でも、怖いけれど怖くないのだから、しょうがない。この話をすると、ジュンツァやアム、ネイカも首をひねっていたし、マナトはちょっと変なのかもしれない。マナトは怖いのがそれほど嫌じゃないのだ。むしろ、けっこう好きなのかもしれない。怖いと、笑えてくる。間違いなく怖いのに、怖くなくなる。いや、怖いことは怖いのだが、楽しい。
そう。
楽しい。
怖ければ怖いほど、楽しくなってくる。
楽しいからといって、マナトは何も考えていないわけじゃない。神兵が三人。それぞれの動きを見て、どう出てくるか予想して、ああしようとか、あいつがこうしてきた場合はこうしようとか、別のやつはこんな感じだろうから、どうしようとか。考えてはいるものの、判断は一瞬だ。方針だけは明確だった。
よける。
逃げるのではない。背中を向けて逃げたら、追いすがられて、やられる。とにかくよけて、よけて、よけまくってやる。
三人の神兵は、それぞれ、髪の長い女性が先の丸い棒、体格のいい緑色の肌のやつが剣と板状の盾、尖り耳が長い棒を持っている。全員リーチがばらばらだ。体格にも違いがある。二本角の神兵長もやってきた。四対一か。四対一。笑える。四対一だ。
「アーフィンケ……!」
当たる寸前に、マナトは前を向いたまま頭を低くした。
膝が自分の胸にぶつかるほど低い体勢になると、長い棒は当たらなかった。
頭には。
髪の毛にはふれた。
マナトはかまわず尖り耳の神兵に体ごとぶつかっていった。体当たりじゃない。剣だ。マナトは剣を持っている。神兵の土手っ腹に剣をぶちこんだら、ちょっとびっくりする刺さり方をした。えぇ? 刺さる? こんなに? ほとんど一瞬で、
「――っ……!」
マナトは右手で握った剣の
「アーフィンケ、ルミアリシェル……!」
尖り耳の神兵は、腹を刺されて右手を斬り飛ばされたのに、起き上がろうとしている。首を
「力、強っ……」
「イグランッシャ……!」
緑肌神兵は矢継ぎ早に剣を繰り出してくる。打ち合いたくないが、たぶん躱しきれない。マナトは必死に剣で緑肌神兵の剣を打ち返した。緑肌神兵は片手持ちで、マナトは両手持ちしているのに、力負けしそうだ。だいたい、でかいし。あの剣も、長さはともかく、厚くて重い。よくも片手であんなふうに軽々と振り回せるものだ。
「光よ……!」
しかも、そこに女性神兵が突っかかってきたものだから、たまらない。
「――わっ……!」
マナトは反射的に横っ飛びし、地べたに身を投げだした。そうしていなかったら、女性神兵の先が丸い棒をもろに食らっていただろう。
転がって起きようとしたら、尖り耳の神兵が躍りかかってきた。
「アーフィンケ……!」
「ちょっ――」
マナトは尖り耳の神兵を蹴りのけた。うまい具合に、尖り耳の神兵が女性神兵にぶつかってくれた。
「ディエデンダ……!」
けれども、緑肌の神兵が跳んでくる。マナトを踏んづける気か。
「や、だからっ――」
踏み潰されるわけにはいかない。マナトが慌てて
「ロルバロル! ルミアリス……!」
「ばっ……」
やばい。
これ、そうとうやばいかも。
自分が何をよけようとしているのか、実際、何をよけているのか、マナトはすぐにわからなくなった。何が何だかわからなくても、迫ってくるものからひたすら身を躱すしかない。どれもこれもマナトを打ち砕こうとしている。もしくは、
「――ぐっ……!?」
剣がマナトの手から離れそうになって、離すまいとしたら、両腕ごと体が左方向に持っていかれた。緑肌神兵の剣を防ごうとして、受けきれなかったのだ。
次の瞬間、どんっ、と強烈な衝撃を受けた。蹴られたのか何なのか。息が詰まって、吹っ飛ばされた。起き上がる前にマナトは思った。やられる。まずい。起きないと。
息がちゃんとできない。
体は、動く。
なんとか動いてくれている。
マナトは二本角の神兵長から遠ざかろうとした。緑肌神兵からも、女性神兵からも、尖り耳の神兵からも、離れたい。少しでもいい。離れたほうがいい。
壁。
防壁がある。
近い。
すぐそばだ。
「へへっ……」
マナトは笑った。
少なくとも、笑おうとした。
石積みの防壁は指や足が引っかかるところがいくらでもあって、簡単によじ登れた。神兵長や神兵たちに背を向けることになるから、あまりよくないんじゃないかと、よじ登りはじめてから思った。どうなのだろう。そうはいっても、振り向いて確かめるより、登ってしまったほうがいいか。というか、もう登りきった。
マナトは防壁の上にしゃがんだ。振り返って見下ろすと、神兵長や神兵たちがいた。光る目でマナトを見上げている。
「あれ……」
登ってこないんだ。
自分が手ぶらだと気づいたのはそのときだった。そうか。だから、すいすいよじ登ることができたのだ。木登りは得意だが、剣を持ったままだとさすがにこうはいかない。剣はどこにいったのか。剣だけじゃなくて、弓も、矢筒もない。
胸が痛い。かなり痛い。苦しいけれど、呼吸はなんとかできる。
あった。
剣。
二本角の神兵長の後ろに落ちている。拾わないと。いい剣だし。胸が痛い。何だろう。骨とか、折れてる?
尖り耳の神兵が何かやっている。右手か。マナトが斬り離した右手を、切断面にくっつけようとしているらしい。くっつくのだろうか。くっつくか。わからない。マナトはくっつけたことがない。
「あぁ……」
マナトは頭を振った。少しぼんやりしている。痛いし。胸が。でも、大丈夫だ。我慢できる。痛いのは、そのうち治るし。骨くらいなら、折れても、まあ。折れたこと、あるし。何回か。何回も、あるし。
父さんも、母さんも、仰天していた。
えっ、マナト、折れた骨、もうくっついてるんじゃないの。すごいな、マナト。えっ、すごいの、これ? いや、すごいって。すごい、すごい。
三人で笑ったっけ。
思いだしている場合じゃない。
二本角の神兵長が防壁を蹴った。すると、女性神兵と緑肌神兵が武器や盾を捨てた。登ってくるつもりのようだ。
「マナト……!」
ハルの声がした。見ると、ハルは旗付きの
「時間を稼げ、すぐ助ける……!」
「大丈夫!」
マナトは自分で言っておいて笑ってしまった。大丈夫? どこが?
オルタナのほうに目をやると、神兵長か神兵か、どちらかは判然としないが、森の中で動く人影がちらほら見えた。防壁の谷間から、頭部が光沢のあるもので覆われた神兵長が駆けだしてくる。神兵長に続いて、神兵たちも出てきた。せっかくハルが何人か減らしたのに、増えてしまった。
「マジかぁ……!」
本当に、笑える。ジュンツァに何回も注意された。変なところで笑いすぎだと。けどさ、仕方なくない? なんか笑えて、笑っちゃうんだから。
「――よし!」
マナトは防壁から飛び降りた。よじ登ってくる緑肌神兵と女性神兵につかまらないように、できるだけ遠くへ跳んだ。二本角の神兵長を飛び越えられるだろうか。飛び越えられなかったら、ちょっとよくない。
「ブロブラル! ルミアリス……!」
二本角の神兵長が円い盾を掲げた。先が丸い棒でマナトを打ち落とそうとしている。マナトは笑った。やっばい、これ。空中だし、よけようがない。いや? そうでもない?
「――っ……」
マナトは両腕で膝を抱えこむような姿勢になった。少しでも体を縮めれば、神兵長の先が丸い棒が当たりづらくなる。
かもしれない。
どうだろう。
「ごっ――……!」
だめか。
体の左側を強打されて、マナトは地面に叩き落とされた。一瞬、気が遠くなったが、剣、剣だ、剣を拾わないと。あった。剣。剣だ。
「かぁっ……!」
マナトは剣を両手持ちして、跳ね起きながら力任せに振るった。すると、当たった。神兵長の先が丸い棒を、マナトの剣が打ち返した。偶然だ。笑うでしょ、こんなの。
「ぬっ! くっ! つぁっ……!」
あちこち痛いような気もするが、気にしてなんかいられない。マナトは剣を振って、振って、振った。下がったら、なんだかこう、負けのような。剣を、とにもかくにも剣を振り回しながら前に、前に、前に出るのだ。
マナトは下がっていない。たぶん、二本角の神兵長は下がっている。
押している、と思った途端、横合いから何かがぶつかってきた。
「おっ――」
マナトは横倒しになって、間を置かずに、おそらく足蹴にされた。なんて馬鹿力だ。半端じゃない脚力。きっと緑肌神兵だ。
蹴り転がされて、そのあたりは草っ原というか、
「んっ……!?」
左肩から背中にかけて、ガツッとやられた。
痛いというか、熱いというか。
何だろう、これ。
もしかして、斬られた、とか?
「マナトォ……!」
どこかでハルが叫んだ。
逃げればよかったのかな。そんなことを、ちらりと思った。言われたとおりにしたほうがよかった?
「うやぁーっ……!」
マナトは
神兵長や神兵たちが、周りにたくさんいることはわかる。何人いるのかはよくわからない。さすがにそこまではわからない。
怖くはない。なんだかもう、ちっとも怖くない。
楽しくもないから、笑えない。
何だよ、これ。何やってるんだよ。だめじゃないか、こんなの。
やっぱり、逃げればよかったのかな。
「――んがっ……」
急に剣がマナトの右手から離れて、どこかに飛んでいってしまった。
二本角の神兵長が、マナトの胸をまたいでいる。神兵長は先が丸い棒を振り上げ、光る目でマナトを見下ろしている。
空を何かが飛んでいる。鳥だろうか。それにしては大きいような。近いというか、低いのかもしれない。一匹。一羽? 違う。二匹か二羽の鳥だか何だかは、神兵長の頭上を横切って、すぐに見えなくなった。鳥。鳥がどうしたっていうんだ。
「アルベラロ・ルミアリス・レル……!」
神兵長が何か言っている。
何を言っているのだろう。マナトには見当もつかない。女性神兵が伏せるようにしてマナトに顔を近づけた。
「ルミアリスに帰依しなさい。そうすれば、あなたは永遠に救われる」
思わずマナトは女性神兵と目を見あわせた。神官や神兵長のように、光沢のあるもので頭部が覆われていて、目の部分が光っているよりも、人の目自体が光を放っているほうが、かえって不気味だ。その光の奥に、六つの突起を持つ図形が見えた。神官の旗に描かれていたものと同じ形だ。
「弱き者よ、光に帰依しなさい」
女性神兵が言った。不思議とやさしげな口調だった。
帰依。何だろう。帰依って。よくわからないが、従えとか、仲間になれとか、そういう意味だろうか。
マナトは笑った。笑うと体中が痛くて、いっそう笑えた。
「絶対、いやだ」
「ならば死ね」
女性神兵が
神兵長がうなずいた。振りかぶっている棒の先、あの丸い部分で、殴るつもりなのか。あれをどこに
もしかして、死ぬ? このままだと、死んじゃう感じ?
マナトは逃げようとしたが、どうもこれは間に合いそうにない。
「――っ……!」
ハルが背後から神兵長の頭を二本の短剣で挟みこむようにして
「マナト……!」
ハルは頭部を失った神兵長を蹴り倒すなり、女性神兵の首を斬り飛ばした。今の、どうやって? マナトの目には、ハルの右手に持っている短剣が、ぎゅんっと伸びたように見えた。短剣の剣身が瞬間、長くなって、女性神兵の首をすっぱり斬り落とした。そんなことって、ある? ただ、女性神兵は
「起きられるか、マナト……!?」
ハルはマナトにそう問いかけながら、緑肌神兵めがけて短剣を伸ばした。
間違いない。ハルが右手の短剣を振りだすと、剣身がぎゅんっと長くなった。緑肌神兵はそれをかろうじて盾で受け止めたが、前に出てこられない。ハルがぎゅんぎゅんぎゅんぎゅん短剣を伸ばすものだから、緑肌神兵は防戦一方になっている。短剣というより、縄か何かみたいな。縄は伸び縮みしないか。何なんだ、あれ。
「マナト!?」
「――おゎっ! うん……!」
起きられるか、と
ハルは緑肌神兵に短剣を伸ばして後退させると、
マナトは自分の剣を探そうとした。どこに飛んでいったのか。ない。見つからない。とりあえず、剣はいいか。よくはないけれど、防壁の谷間から出てきた連中がやってくる。何人いるのだろう。あとからあとから出てくる。それだけじゃない。防壁の上にも神兵がいる。いや、あれは神兵長か。神兵も何人かいる。
「オークめ!
ハルはひゅひゅっと短剣を伸ばして緑肌神兵に盾を使わせると、その隙に距離を詰めた。一歩目から、ハルは速い。二歩目はもっと速いし、直線的な動きじゃないから、見失いそうになる。手強い、と言っていたのは、いったい何だったのか。ハルはあっという間に緑肌神兵の背後に回りこんでしまった。そうして、右手の伸びる短剣と左手の短剣で、ぐるっと巻きこむみたいに緑肌神兵の首を刈り飛ばしてしまう。鮮やかと言うしかない手並みだ。あんなことができたら、さぞかし気分がいいだろう。
ハルはマナトを見た。
「走れ――」
そのあとにも何か言おうとしたに違いない。言わなかったのは、二本角の神兵長が立ち上がったからだ。
「ルミアリス……! ブロブラル……!」
「えへっ……」
マナトは
神兵長は二本角の頭を両手で持って首に押しつけていた。
いや、くっつかないでしょ。いくらなんでも、それは。
でも、そういえば尖り耳の神兵は、マナトが右手を斬り飛ばしたのに、さっき長い棒を両手で持っていた。あの短時間で、くっついたのか。くっつけたのだ。ということは、頭もくっつく? それはちょっと、どうなのだろう。手と頭は別物だ。ぜんぜん違う。
違わないのか。
神兵長は、角が二本生えている自分の頭から、手を離した。
間違いなく離して、もう手で押さえていないのに、頭がとれてしまわない。
くっついた。
「
ハルがマナトにはよくわからない、何かそんなようなことを言って、右手の短剣を伸ばした。神兵長は、短剣と呼んでいいのか迷うようなハルの短剣を、左腕で防いだ。受け止めようとしたのだろうが、神兵長の左腕は伸びる短剣に斬り飛ばされた。そんなことはおかまいなしで、神兵長はハルに突進した。
「これだから……!」
ハルは右足で神兵長の胸を蹴ってのけぞらせると、間髪を
逃げないと。
マナトは駆けだそうとした。今度はハルの言うことを聞こう。
「光よ!」
「イグランッシャ! ディエデンダ!」
「ルミアリス! ロルバロル!」
「アーフィンケ! ルミアリシェル!」
「ルミアリスの加護のもとに……!」
押し寄せてくるし。
神兵長が。
神兵たちが。
そして、全身が光沢のあるもので覆われた神官も。
神官が
――こういうときは、笑うといいんだ。
父さんの、歯が抜けてしわしわになった顔が浮かんだ。
――笑ったら、力が抜けるからね。
母さんも負けじと
――どんなときも、笑っていれば耐えられるし、乗りきれるから。
マナトはずっとそう両親に教えられてきた。幼いころは泣くこともあったけれど、そんなときも両親はなんとか我が子を笑わせようとした。何より、二人がいつも笑っていた。つられてマナトも笑った。
わかっていた。
とても笑えるような気分じゃないときもあった。実際、両親とも、どこも痛くない、少しもつらくない日なんて、ほとんどなかったはずだ。苦しくてしょうがないときは、無理やり笑っていた。やけくそのように笑っていることもあった。
でも、笑わないよりは、笑っていたほうがいい。
笑えないよりも、笑えたほうが、
みんな、いつか死ぬ。マナトだって死ぬ。
死ぬ寸前まで、父さんと母さんがそうだったように、笑える限り、笑っていたい。
「にひっ……」
だからマナトは強引に笑顔を作った。そうすると、少しだけ楽しくなってきた。楽しくなれば、体は動く。
ハルはマナトを先に行かせるつもりだ。ハル自身はマナトの後ろにつく気だろう。だったら、マナトはできるだけ速く走らないと。前を向いて振り返らないほうがいい。そう思ってはいるのだが、気になってつい後ろを見てしまう。近いし。神兵長。神兵たち。かなり近くまで迫ってきている。
「――って……」
オルタナじゃなくて、その逆方向から、何かがぶっ飛んできた。
水平じゃない。
斜めだった。
下降しながら、つまり、それは空から斜めに落下してきたのだ。
生き物だ。
羽がある。
大きい。
鳥。
いや、違う。鳥なんかじゃない。だって、人間よりもずっと大きいのだ。
さっき、何かが飛んでいた。
二本角の神兵長。
その頭上を、鳥のようなものが横切った。
鳥にしては大きなものが。
もしかして、あれだったのか。
「竜だと……!?」
ハルが叫んだ。
竜。
あれが竜か。
羽があって、脚が二本ある。
竜はその脚で神兵長や神兵たちを蹴って、
マナトは見た。竜の背から、何かが、というか、誰かが飛び降りた。人? 人間なのだろうか。マントこそつけていないものの、ハルみたいに厚着している。顔は、よくわからない。ハルのような仮面とは違うが、がっちりした眼鏡のようなものをつけて、顔の下半分も何かで覆っている。
竜は防壁にぶつかりそうだったが、どうにか激突しないで高度を上げてゆく。
