誰かの声が聞こえたような気がして、目を開けた。
暗い。
まだ夜なのか。
でも、真っ暗じゃない。
床が何かぼんやりと光っている。地面というよりも床だ。この床。石か。コンクリ。コンクリートか何かだろうか。その床で何かが光っている。何が光っているのだろう。
「……え?」
こんなところで眠っただろうか。どうもおかしい。ここはどこなのか。
「起きたか」
そう声をかけられてから、近くに誰か立っていて、その誰かが自分を見下ろしていることに気づいた。
「……誰――ジュンツァ? アム? ネイカ? 違う……?」
上体を起こしながら目を凝らした。床が
「おれは――残念ながら、ジュンツァ? でも……アムでも、ネイカでもない」
人、なのだろう。しゃべるくらいだし。
「……だろうね」
「友だちか」
「何が?」
「ジュンツァ。アム。ネイカ。きみの友だちか」
「友だちっていうか……ううん、何だろ。仲間?」
「そうか」
「あんた……知ってる? ジュンツァたちがどこにいるか。たぶん……近くにいるはずなんだけど」
「いや、悪いけど、おれは知らない」
「そうなんだ」
少しぼんやりしていて、ジュンツァやアム、ネイカの名を出したのはよくなかったかもしれない。相手はまったく知らないやつだ。知らないやつには一応、用心したほうがいい。もしかしたら、カリザあたりのヤクザかもしれないし。
カリザには顔見知りがいくらかいて、名前を知られていたりもする。何人かのヤクザには目をつけられているし、できれば見つかりたくない。
ジュンツァたちは大丈夫なのか。
自分はどうなのだろう。
ここがどこかなのかもわからなくて、すぐそこに知らないやつがいる。
どうしてこんな場所にいるのか。見当もつかない。いったい何があったのだろう。
いつものように、ジュンツァとアム、ネイカと一緒だったはずだ。
おそらく、家にいた。自分たちの家に。
他のやつらが近づいてこないカリザの奥のほうで、ようやく探しあてた。柱や梁がしっかりしていて、二階建てで、屋根も壁も壊れていなかったし、窓硝子も割れていなかった。あの家にいたはずだ。
ジュンツァがいて、アムもいた。ネイカも。
何か食べながら、話した――ような気もする。はっきりとは覚えていないけれど、それから、家を出た――のだろうか。
ここは家じゃない。ということは、外に出たのだろう。
一人で?
「立てるか」
知らないやつに
「……うん。いや。わからないけど。立てそう……かな」
「ここにいてもしょうがない。出よう」
「出る?」
思わず「いいの?」と確認してしまった。出してくれるのか。閉じこめられているわけじゃない。そういうことなのか。
「ここにいたいなら、かまわないけどな。おれはそろそろ行くよ。きみはどうする?」
「どうする……って――」
ひとまず立ち上がってみた。知らないやつはもう移動している。歩いて、遠ざかってゆく。ずいぶん静かな足音だ。体重が軽いのか。とても用心深いのか。
知らないやつを追いかけた。知らないやつは壁際にいるらしい。追いついてくるのを待っているようだ。
「ここから出られる」
「……どういうこと?」
「ただ外に出ればいい」
知らないやつは壁に入っていった。
消えた。
いなくなった。
「えぇ……」
慌てて知らないやつが入っていった壁に手をつくと、手応えがなかった。すっと向こうに抜けた。手をつくつもりだったのに。
「何これ……」
本当に壁なのか。暗くても、そこに何かが立ちはだかっていることはわかる。壁だ。でも、よく見ると、その部分は違う。
まるで何もないかのようだ。壁に四角い穴があいていて、その向こうに真っ暗な夜、暗闇が広がっている。そんなふうにも思える。
思いきって入ってみた。
すると、抜けた。
「……うわ」
そこは階段だった。ぐるぐると
何段か下に知らないやつがいた。
あらためて思う。
こんなやつ、知らない。
そいつは黒っぽいフードつきのマントを身につけていて、顔はわからない。
面で隠しているからだ。
「来たな」
やつは仮面をつけている。
「下りよう」
「……いや、あの――」
「何だ」
「ここ、どこなの?」
「昔は〝
「くい? 棒のこと?」
「おれたちは、
「はこぶね? 船……?」
「下りよう」
仮面の男は螺旋階段を下りはじめた。とりあえず、ついてゆくしかない。
「ねえ、ちょっと」
「ああ」
「訊いてばっかりで悪いんだけど……あんた、誰?」
「おれか。そうだな……」
仮面の男はなかなか答えない。黙って螺旋階段を下りる時間がしばらく続いた。
「マナト」
いいかげん
仮面の男が足を止めた。
「……マナト?」
妙な反応だ。「うん」とうなずいてみせると、仮面の男は振り返った。
「きみの名前――なのか? マナト……?」
「だから、そうだけど。仲間内では、マットとかマナとかって呼ばれてるかな。でも、名前はマナトだよ。父さんと母さんにはそう呼ばれてたから」
「父さん……きみのご両親は?」
「死んだよ。とっくに。仲間もみんな、親はいなかった」
「きみは、いくつだ?」
「いくつ? あぁ、年? ええ……と、はっきりとはわかんないけど、十二とか? 十四だったっけ。十三かな」
「若いな。思ったより」
「適当だけどね。親が死んでから……三年? 四年? くらいかな。それくらいは
「……マナト」
「うん」
「おれの、知り合いに――」
男は仮面の奥でため息をついた。
「……ずいぶん前なんだが、偶然、きみと同じ名前の、友だちが……仲間がいたんだ」
「へぇ。そうなんだ。偶然」
「奇遇というんだ。こういうのは」
「きぐう?」
「思いがけない、不思議な巡りあわせのことだよ」
「奇遇か。初めて聞いた。あ。そうだ。あんたは?」
「名前か」
仮面の男は階段の手すりを
「ハル」
仮面の男は手すりを放した。
「そんなふうに、おれを呼ぶ人がいた」
「ハル」
繰り返してみた。
ハル。
春のことだろうか。季節の名だ。冬の寒さがやわらぐ。代わりに雨が降る。
それとも、何かを貼りつける、貼る、なのか。
「じゃ、そう呼んでいい? ハルって」
「かまわない。おれはきみをマナトと呼ぶ。問題ないか?」
「問題って」
何かどうもおかしなしゃべり方をするやつだ。少し笑ってしまった。
「ないよ。問題なんか。だって、マナトだし」
「そうか。下りよう、マナト。ここがどこなのか、知りたいだろう」
ハルという名らしい仮面の男は、ふたたび階段を下りはじめた。
ここはどこなのか。さっき、ハル自身が方舟とやらの中だと教えてくれた。方舟とは何なのだろう。
マナトはハルの背中を追いかけた。訊きたいことはある。いくらでもあるのだが、どうしてかうまく言葉が出てこない。
やがて螺旋階段の終わりが見えてきた。まさしく終わりだ。その先には何もない。
ハルは黙ってその何もない螺旋階段の終わりに入っていった。目覚めた場所と同じだ。どうやら、そこから入ることができるらしい。あるいは、出られるのか。
マナトもそこから出た。
外だった。
今度は本当に外だ。そこは屋外だった。
日が落ちた直後なのか。日が昇る前だろうか。空の半分以上が雲に覆われている。太陽は見あたらない。向かって右のほうの
ここは丘の上だ。
マナトは振り向いた。建物がある。高い建物だ。ビルというよりも、塔だろうか。上のほうは崩れていて、
「……え。どこなの、ここ」
丘から少し離れたところに
「きみがいたところとは、別の世界だ」
ハルは丘を少しだけ下りて、大きな白っぽい石の前に立っていた。この丘には、それと似たような石がたくさんあった。
「グリムガルと呼ばれている」
「……別の、セカイ。グリム、ガル……」
マナトはハルが言ったことをそのまま口に出してみた。
何のことやらさっぱりだ。
グリムガル。
別の世界。
「どういう……え? どうやって……こんなとこ、来た覚えないんだけど。別の世界って、何? 世界……ニホンじゃないってこと?」
「ニホンは、国だ。おれもかつて、そこにいた。何も覚えてないけどな。ニホンの話は聞いているから、まったく知らないわけじゃない」
「ハルも……ニホンの人?」
「そうらしい。ニホンから、このグリムガルに来た」
「だから……それ――どうやって?」
「おれにもわからない。きみと同じようにグリムガルにやって来た者たちは、とてもたくさんじゃないが、けっこういたんだ。みんな、わからないと言っていた。来る前のことは記憶にあっても、何かが起こったのか――何かしでかしたのか、とにかく、そのときのことは、誰も覚えていない。全員だ」
「……ちょっと待って」
マナトはしゃがみこんで、頭を
「じゃ、ハル以外にも、いるの? 同じような……ニホンの人が?」
「いた、と言うべきかもしれないな」
「今は……いない?」
「久しぶりなんだ」
「何が? 久しぶりって」
「ニホンからグリムガルに渡ってきた者は、方舟のある部屋に転送される。そういう仕組みが方舟にはある。そういう装置がある、と言ったほうがいいか。おれたちのころは、数年ごとに、何人か……ときには十人以上、いっぺんに渡ってくることもあった。でも、だんだん頻度が低くなって、人数も少なくなっていった」
「久しぶりってことは……しばらく渡ってこなかった?」
「そうだ」
「どれくらい?」
「四十年以上――」
ハルはそう言って、一つ息をついた。
「最後に渡ってきてから、五十年近く経ったか」
「五十年? それって……長いよね? 人って、そんなに生きないでしょ。父さんと母さんだって、死んだとき、たぶんだけど、三十歳とかなってなかったよ。ハル、長生きすぎない……?」
「きみの親は早死にだと思うけど、おれは……そうだな、きみの言うとおりだ、マナト。たしかに、おれは長く生きすぎている」
「……五十年。その……五十年前? グリムガルにニホンの人が渡ってきたとき、ハルは子供だった?」
「いや」
「だったら……ハルは何年、生きてるの? だって……ニホンでは、三十年なんか生きたら、かなり長生きなほうだよ? どうせみんな死ぬし、何年とか、何歳とか、真剣に数えてない」
「おれも真剣に数えるのをやめたよ、マナト。きみたちとは事情が違うだろうけど。だいぶ事情が違うようだ。たかだか四十数年の間に……ニホンで何があったんだ。本当に、四十数年しか経っていないのか? なんだか、もっと……」
ハルは仮面で隠した顔をうつむけて、独り言を言うように何か
仮面をとったハルは、どんな顔をしているのだろう。
マナトの両親は、死ぬ前には痩せ細って歯が抜け、
ツノミヤの市長は三十五歳を超えている、と聞いたことがある。見たことはない。
空の彼方がさっきよりも明るい。
日が暮れたあとじゃなくて、これから日が昇るようだ。
マナトは真っ白な円い月を見つけた。ニホンの空に浮かんでいた月は、たしかもっと欠けていた。でも、最後にちゃんと月を見たのはいつだったか。
ジュンツァやアム、ネイカはどうしているだろう。三人はカリザの家にいるのか。無事だろうか。
なぜこんなことに。
マナトは立ち上がって深呼吸をした。大きく伸びをし、体を左右に曲げる。髪の毛がだいぶ長い。そういえば、しばらく切っていない。ネイカに「そろそろ髪切ったら」と言われたことを思いだして、マナトは少しだけ笑った。邪魔だし、そろそろ切ったほうがいいかもしれない。
「……何をしてる?」
ハルが
「何って」
マナトは足を広げて上体を思いきり反らし、前屈した。それを繰り返した。
「体、動かしてる。体さえちゃんと動けば、すぐには死なないし」
「……まあ――そういうものか」
「ハルも、長生きしてるわりに、身のこなしが軽いっていうか、いい感じだね。だから長生きなんじゃない?」
「どうかな、それは……」
「あのさ、何か食べられるものない? 森があるな。あっ。山がある。高いね!」
マナトが高い壁のようにそびえる山並みを指さすと、「あれは天竜山脈だ」とハルが教えてくれた。
「竜が住んでいる。神に仕える者たちも、あの山には立ち入れない」
「リューって何? 獣? 食べられる?」
「……竜を食べるのは難しいだろうな。逆に食われるのがおちだ」
「へぇ。そうなんだ。でも、森には獣がいるよね」
「ああ。まあ……」
「そこまでやばいやつじゃなかったら、つかまえて殺しちゃえば、煮たり焼いたりして食えるでしょ。あと、キノコとか、山菜とか、木の実とか。森は森だし、山は山って感じだけど、ニホンとは色々違うのかな」
「腹が減っているなら、さしあたり食べられるものくらいは、おれが用意できる」
「マジ? よかった。じゃ、なんとかなるか」
「……きみは、落ちこんでいないのか?」
「落ちこむ?」
マナトは笑った。
「なんで? 生きてるのに?」
膝を曲げ伸ばしして、首を回してみた。軽く跳ねても、思いきり跳躍しても、平気だ。どこも痛くないし、おかしなところもない。
「仲間のことは気になるけど、生きてるだろうし。生きてれば、また会えるかもしれないしさ。会えないかもしれないけど。どうしても会いたきゃ、会いに行けばいいし。行けないのかな? 無理だったりする?」
ハルは首を横に振った。
「……すまないが、わからない。ただ、おれの知っている限り、ニホンに帰った者は一人もいないはずだ」
「そっか」
マナトは胸が一杯になるまで空気を吸いこんだ。
そして、思いきり吐きだした。
「まあ、意外と、グリムガル……だっけ? ここのほうが居心地よかったりするかもしれないし。仲間も一緒だったら、もっとよかったんだけど。なんでここにいるのかもわからないんだから、しょうがないよ」
「……ポジティブなんだな」
ハルは仮面の奥で
「一つ、訊いていいか、マナト」
「うん」
「ニホンは、西暦何年だった? もし、質問の意味がわからなかったら、べつに答えなくていい」
「セーレキ……」
マナトはこめかみに指を当てた。
セーレキ。
何年。
ツノミヤの街で両親とタコ部屋に住んでいたころ、何かそういったことを聞いたか、見るかしたような気がする。
「西暦……二千百年? 二千百……曖昧だけど、母さんがそういうことを話してたか……新聞に書いてあったのかな。でも、かなり前だよ」
「二千百……」
ハルは仮面の口にあたる部分を手で押さえた。
「そうか。おそらく、グリムガルでもニホンでも、時間は同じだけ経過してる。この四十数年で、ニホンはずいぶん変わってしまったらしい――」