あの朝は寒くて目が覚めた。

 テントの中は冷たく湿っていた。父さんも母さんもいない。先に起きて外に出たのだろう。少しでもいいからあったまろうと、くたびれた毛布を頭までかぶったら、出入り口の幕が開く気配がした。父さんか母さんがテントに入ってきた。毛布の上からきつく抱きしめられて、母さんだとわかった。

「あのね、マナト。父さんと話しあったんだけど。街に行くことにしたから」

 母さんにそう言われたとき、どう思ったのだったか。マナトはよく覚えていない。でも、街に行くことを、街に住むというふうには理解していなかったような気がする。それまでも、街には行くことがあったし。

 父さんと母さんはハンターだった。ハンターというのは、弓矢とかボウガン、やりやナイフで獣を殺したり、魚を釣ったり、網だとか仕掛けでったり、木の実やら果物やらきのこ、山菜、香草、薬草なんかを集めながら、あちこち移動して暮らす人びとのことだ。

 マナトも物心がつくと自分のナイフを持っていたし、どれが食べられる木の実で、どの茸や草木は確実にやばいのか、注意しないといけない虫、蛇、等々、最低限のことはいつの間にか知っていた。父さんか母さんに教えこまれたのだろう。わからないときは二人にいた。母さんは毎回丁寧に答えてくれたが、父さんには、自分で確かめてみろ、と言われることもあった。ちょっとだけちぎってめて、なんともなかったら口の中に入れてみて、時間がっても変なことが起こらなければだいたい大丈夫とか、そういうやり方も、マナトは幼いころから心得ていた。

 ハンターはマナトたち以外にもいた。大物を狙う場合や、獲物を群れごと狩ろうとする際には、他のハンターたちと手を組むこともあった。ただし、長期間、他のハンターたちと行動をともにすることはなかった。複数回、組んだハンターもいるが、顔はなんとなくしか、名前はまるで覚えていない。

 ハンターたちが立ち寄る集落を、マナトは何箇所か覚えている。そうした集落には、十軒かそこら家が建っていて、小さな畑があって、いつ死んでもおかしくないような年寄りたちが住んでいた。温泉が湧いている集落もあった。その集落は、街の連中に襲われて占領されてしまったらしい。

 街は集落よりも大きい。ずっと大きい。数えきれないほど家があって、人が大勢いる。腐るほどいる。街にはいちが立っていて、物を売り買いできる。ハンターは、その手の市で毛皮や肉を売り、織物の服とかナイフとか、くぎとか接着剤とか、自分では作れないような物資を手に入れるのだ。でも、用がすんだら長居はしない。街住みのやつらはハンターを見下しているし、警戒してもいる。さっさと離れたほうがいい。

 父さんと母さんはハンターで、だからマナトもハンターだった。

 街に行くことにした。

 また街に行くんだ。

 マナトはそれくらいに受け止めていた。

 勘違いだった。

 大間違いだ。

 父さんと母さんに連れられて、まずニコウという街に行った。ニコウには前にも来たことがあって、トーショーグンとかいう金ぴかの建物を遠くから見物した。ところが、目的地はニコウじゃなかった。マナトたちはニコウを素通りしてそこから半日歩き、ツノミヤという街に辿たどりついた。

 ツノミヤは初めてだった。見たことがないくらい大きな街だった。どこもかしこも建物だらけで、どんなに細い通りにも人がいた。間違いなくものすごい数の人間が住んでいるはずなのに、道端や路地に死体が転がっていないのだ。街にははえがたかった死体がつきものなのに。からすは多かったが、何でも食らう犬や豚はうろついていなかった。もくもくと黒い煙を上げる化け物みたいな建造物がいくつも建っていて、街全体がぼんやりと煙っていた。人の話し声や怒鳴り声や叫び声、それに何だかわからない物音で、とにかくやかましかった。

 ツノミヤには有刺鉄線付きの塀に囲まれたハチマヤーコーエンという場所があって、鋼鉄製の頑丈な門の前に信じられないほど長い列ができていた。父さんと母さんがその列に並んでいる間、マナトはどこかで時間を潰していないといけなかった。でも、腹は減ったものの、退屈することはなかった。マナトと同じように、親が列に並んでいる子供が何十人もいたからだ。マナトはそいつらと適当につるんで、お互いのことを話したり、ツノミヤについて教えてもらったり、物を拾って歩いたりした。

 ツノミヤを取り仕切っているボスは市長と呼ばれていて、そいつはヤクザらしい。

 ヤクザのことはマナトも知っていた。ヤクザは髪をっていたり、変わった色に染めたりしていて、必ず入れ墨をしている。派手な色の服を着て、これ見よがしに武器を持っているし、数人かそれ以上で歩いているから、すぐわかる。街ではとりわけ気をつけないといけない。怖いやつらだ。ヤクザににらまれたら、何をされるかわかったものじゃない。

 街のボスが、ヤクザ?

 どういうこと?

 ヤクザはおっかなくて悪いやつらだとマナトは思っていたから意外だったが、じつはそんなにめずらしくもない。よくあることのようだ。みんなそう言っていた。

 父さんと母さんは丸二日近く列に並んで、やっとヤクザの市長に会うことができた。まあ、会えたといっても、面会したのは市長本人じゃなくて代理のヤクザらしいが、父さんと母さんはツノミヤに住みたいとそいつに頼んだ。それで、オッケー、いいよ、ということになって、市民登録とかいう手続きをすませた者には、ヤクザの市長から仕事とタコ部屋が与えられるのだ。

 タコ部屋というのは、市営団地と呼ばれている集合住宅の一室だ。テントよりはよっぽど広いが、天井が低くて、マナトは大丈夫でも、父さんと母さんはまっすぐ立つと頭がつっかえてしまう。

 仕事のことについては、訊いても詳しくは教えてもらえなかったが、日が昇ると父さんも母さんもタコ部屋を出て、夜になったら帰ってくる。二人はどうやら、あのもくもくと黒煙を上げる化け物じみた建物に通っているらしい。その建物は、工場、という名前らしい。工場には作業長というヤクザがいて、そいつに命令されたことを、言われたとおりにやるらしい。これを、労働、と呼ぶらしい。労働するのが、父さんと母さんの仕事らしい。途中で休みが一回あって、飯も出る。なんとか食える飯だと、父さんは言っていた。

 労働という名の仕事が終わると、紙の券がもらえる。

 ただの紙切れじゃない。金券。金だ。

 金はツノミヤとその周辺で物と交換できるから、父さんと母さんはそれで食い物を手に入れ、タコ部屋に持ち帰る。ツノミヤの市では、肉や野菜、果物だけじゃなくて、味の濃い汁物とか、麺物とか、かゆとか、団子みたいなやつとか、ものとか、揚げ物、串焼き、いろいろな食べ物がふんだんに売られていた。寝る前にオイルランプをつけて、みんなで飯を食うのが一番の楽しみだった。

 ただ、父さんも母さんも、そんなには食わなかった。少しだけ口をつけて、あとはマナトに食べさせた。父さんと母さんが工場に行っている間、マナトはヤクザに絡まれないように気をつけながらツノミヤの街をうろついて、食べられそうな物を見つけたら何でも口に入れた。それでも基本的にはいつも腹をかせていたから、父さんと母さんは気を遣ってくれたのだろう。

 それだけじゃなくて、二人とも、そこまで食べられない、という事情もあった。

 ハンター時代から、二人はときどき足を引きずっていたし、父さんは左手の握力がほとんどなかった。母さんは両肘と右手首、左膝がとくに悪いみたいだった。たまに父さんか母さんの歯が抜けると、みんなで笑い話にしたものだが、よく考えると歯が少なくなったら食べ物をちゃんとむことができない。タコ部屋に住むようになってから、二人はずいぶん細くなった。もっとも、その前から二人は痩せていた。

 ハンターはわなりよう以外だと獲物を追いかけないといけないし、そういうとき二人は難儀していた。マナトが必死に獲物を追いたてて、二人が待っているところに誘導したりもした。獲物が急に反撃してきて、危なかったこともある。父さんが助けてくれて、マナトはうれしかったし、むしろ楽しかったくらいだが、二人は肝を冷やしていた。

 父さんと母さんは、もうハンター暮らしは無理だと感じて、ツノミヤの街に住むことにしたのだ。

 二人とも、そのうち死ぬ。きっと、そんなに長くない。

 マナトはそう思っただけで、口に出したりはしなかった。父さんも母さんも、自分たちは死ぬだろうなんて言わなかったからだ。たぶん、死ぬのは仕方ないと、二人とも思っているだろう。誰でも、何だって、生きていれば死ぬ。生き物なら、死ぬのはあたりまえだ。でも、マナトがいるものだから、二人は困っているのかもしれない。マナトもいつか死ぬけれど、それまでどうやって生きていったらいいのか。一人でハンター暮らしをするのは難しいし。どのハンターも最低二人組だ。できたら三人は欲しい。四、五人いれば、もっと楽だ。

 街でなら、マナト一人でも生きてゆけるんじゃないか。

 そんなふうに考えて、父さんと母さんはツノミヤの街に住むことにしたのに違いない。



 ある日、母さんが新聞という紙を持ってきて、それに書いてある字を読んで聞かせた。母さんは字が読めるんだと、父さんは誇らしげだった。父さんは数を表す字と、他にいくつかの字を覚えているくらいで、字が並んでいる文章は読めない。母さんは頭がいいんだと、父さんは歯のないしわしわの顔をくしゃくしゃにして笑っていた。

 ある日、母さんが本という紙の束を買ってきた。紙がばらけないのが不思議だった。どの紙も字でびっしり埋まっていた。昔、読んだことがある本なのだと、母さんは言っていた。ずっと、もう一度読んでみたかったらしい。それで、父さんがこつこつ金をめて、母さんに買ってあげた。母さんは泣いて喜んでいた。泣いたままだと字が見えないし、本がれるからまいったと、母さんは笑っていた。読みたいし、読めるのに、読めないなんて。マナトと父さんも大笑いした。

 ある日、母さんがマナトに字を教えてくれた。父さんと母さんが仕事に行っている間、マナトはあまり外には出ずに、タコ部屋で新聞だの母さんの本だのを見ているようになった。腹が減ってしょうがなかったが、マナトが字を覚えると母さんが喜んでくれる。母さんが喜べば、父さんも嬉しい。父さんも母さんもそのうち死ぬから、生きているうちに少しでも喜ばせたかった。

 ある日、父さんが寝床から起き上がれなかった。母さんもつらそうだったが、なんとか工場に行った。母さんはあったかい汁物を買って帰ってきた。父さんは食えるわけねえだろと笑って、マナト、代わりに食え、と言った。マナトが汁物をすすっていると、うまいか、と父さんに訊かれた。うん、うまいよ。マナトが答えると、父さんは笑った。そうか、うまいか、よかったなあ。マナトも心の底から、うまいしよかった、と思った。母さんも笑った。よかったねえ。よかった、よかった。みんなで笑えるだけ笑った。父さんはもうすぐ死ぬから、今のうちに笑ったほうがいい。

 オイルランプを消して、真ん中の父さんに、左右から母さんとマナトがしがみついて寝ようとしたら、タコ部屋にヤクザが怒鳴りこんできた。

「おめえ、なに勝手に仕事休んでくれちゃってんだよ。ふざけてんのか、おめえ。ただですむと思ってんのか、おめえ。すむわけねえだろ、バカおめえ」

 ヤクザは光を放つ道具を持っていた。その道具で部屋の中を照らして様子を確認すると、毛布の上から父さんを踏んづけた。

「あんだよおめえ、ガキがいるじゃねえかよ。ガキいるんだったらそのガキも働かせろよ、おめえ。おやが働けねえんだったら、そのぶんガキが働けばいいじゃねえか。そんなこともわかんねえのかよ。バカなのかおめえ。バカが」

 マナトがヤクザに殴りかかろうとしたら、母さんが組みついてきて止められた。父さんは抵抗することも、悲鳴を上げることも、うめごえを発することも、身じろぎすることすらなかった。

「いいか、おめえ。明日は出てこいよ、おめえ。出てこねえとどうなるか、わかってんだろうな、こら」

 ヤクザも父さんを蹴りまくったりはしなかった。毛布越しに父さんの体の上に足を置いて、押さえつけているだけだった。

「あとおめえな、ガキも市民登録させろ。元気そうなガキじゃねえか。ガキには仕事させろ、仕事。まったくよ。不法住民があとを絶たなくって、こっちは困ってんだよ。あんまり困らせんな。わかったか、バカ」

 ヤクザが出ていって静かになると、父さんが笑いだした。あのヤクザ、天井に何べんも頭ぶつけてたな。そうそう、と母さんも笑った。タコ部屋の天井が低いなんてわかってるはずなのに、頭ぶつけてたね。バカは自分だよね。マナトも笑えてきた。

 真ん中の父さんにマナトと母さんがまたしがみつくと、父さんは、大丈夫だ、と言った。一日休んだからよくなって、明日は仕事に行ける。大丈夫だ。

 でも、次の日も父さんは起き上がれなくて、母さんもって動くことしかできなくなった。母さんはそれでも仕事に行こうとしたのだが、今度はマナトが本気で止めた。まあ、これじゃどうせ働けないしねえ、と母さんは笑っていた。

 マナトもハチマヤーコーエン鉄門前の列に並んで、市民登録をしたほうがいいのかもしれない。そう思って相談してみたが、父さんは、ううん……とうなるだけだったし、母さんも首を横に振ってみせて、いい、いい、と答えるのが精一杯のようだった。夜になると、昨日のヤクザが現れた。

 ヤクザは父さんも母さんも蹴らずに、マナトをタコ部屋の外に連れだした。タコ部屋のドアが並ぶ市営団地の廊下は、二人すれ違うのがやっとなほど狭いものの、天井はヤクザが立ってもつっかえない程度には高かった。

「いいか、ガキ」

 ヤクザはマナトの肩を抱いて小声で言った。とんでもなく刺激の強い口臭で、鼻が曲がりそうだった。

「悪いことは言わねえから、ちゃんと市民登録して仕事もらえ。おめえだったら、長く働ける。おめえの父ちゃんと母ちゃんはもうだめだ。あいつらくたばったらよ、このタコ部屋は別の市民に割り当てられるんだからな。父ちゃんと母ちゃんがおめえ連れてツノミヤに来た意味考えろ。わかったか?」

「口が臭い」

 耐えられずに言うと、ヤクザにぶん殴られた。

「ガキ。クソが。俺はこのへんの担当だから、また様子見にくるからな。おめえの父ちゃんと母ちゃんが死んだら、市役所に報告しなきゃならねえ。死体は市役所の別の部署が処理するからよ。おめえは市民登録して、市長のためにきりきり働け。まっとうに生きろ。おめえの父ちゃんと母ちゃんも、きっとそう思ってる。おめえのためにはそれが一番だってな。じゃなきゃ、ツノミヤ来てねえだろ。なあ?」

 翌朝、目が覚めると、父さんが冷たくなっていた。母さんはマナトより早くそのことに気づいていたみたいだが、黙っていた。マナト、よく寝てたから、起こしたくなかったんだよ。母さんはそう言って、少しだけ笑った。

 夜、ヤクザがタコ部屋のドアをたたいた。入ってはこなかった。マナトがドアを開けると、そろそろ死んだか、とかれた。まだ、と答えると、そうか、とだけ言って、ヤクザは帰っていった。

 その次の日、母さんは息をしていたが、目をつぶったまま、マナトが声をかけても返事をしなかった。タコ部屋の中をすごい数のはえが飛び回っていて、叩き潰しても叩き潰してもきりがなかった。

 夜、ヤクザがタコ部屋のドアを叩いた。マナトはドアを少しだけ開け、まだだ、とだけ言って閉めた。ヤクザはしばらく廊下にいたようだが、何回かドアを蹴っただけで、それ以上、何もせずに帰っていった。

 その日、マナトは眠らなかった。まだ暗いうちに、母さんの呼吸が完全に止まった。死んでから、母さんが父さんと手をつないでいたことに気づいた。

 蠅の大群を追い払うこともしないで、マナトは考えた。ヤクザが言ったように、市民登録をしたほうがいいのか。父さんと母さんが死んだことはすぐばれる。ここにはいられない。ツノミヤの市民になって、市長のために工場で毎日労働する。休みは一回。飯をもらって食う。そして、金をもらう。その金で飯を買って食う。たまに新聞や本を買って読み書きを覚える。

 マナトはタコ部屋から父さんの死体を引きずって運びだした。

 母さんの死体も同じように外に出した。

 なかなか大変だったが、二人とも死ぬまでにだいぶ小さくなっていたから、マナト一人でもなんとかなった。

 それから、父さんと母さんの死体を市営団地の前に並べて、手を繫がせた。

 ちょっと迷ったが、新聞と本は母さんの胸の上に置いた。

「じゃ、行くよ。父さん、母さん」

 二人に笑いかけてから市営団地をあとにすると、マナトは北に向かって進んだ。ハンターだったころに使っていた背負い袋の中に、自分のナイフやかなづち、火打ち石、いくらかのくぎ、缶入りの接着剤、等々、最低限の道具は入っていたから、きっと生きてはゆける。生きてゆけなければ、死ぬだけの話だ。

 明るくなる前にツノミヤの街を出るつもりだったが、道が柵で封鎖されていて、ヤクザたちが警備していた。ツノミヤに入ったときは、ヤクザたちはいたと思うが、柵なんてなかった。どうやら柵は開けたり閉めたりできるらしい。夜は閉めて、勝手に通り抜けられないようにしているみたいだ。

 柵を守っているヤクザたちに頼んだら、通してもらえないだろうか。無理だろう。金を払えば、もしかしたら通れるかもしれない。でも、マナトは金を持っていない。

 しょうがなく道端に座って柵が開くのを待っていると、ヤクザが近づいてきた。

「ガキ、そこで何してやがる? あぁ? ツノミヤを出てえ? ガキこら、てめえ、何かやらかしやがったな? おら、ちょっとこっち来い、クソガキ」

 捕まりそうになったので、マナトは逃げた。逃げたらヤクザたちが追いかけてきた。追っ手のヤクザはどんどん増えた。タコ部屋を訪ねてきた猛烈に口が臭いヤクザの姿も見かけた。一度、何人かのヤクザに囲まれて、めちゃくちゃに殴られたが、隙をついてなんとか逃げた。道はどこもヤクザだらけのような気がして、マナトはドブ川に逃げこんだ。ドブ川に架かっている橋の下に穴があった。マナトでもかがまないと入りこめないような穴だった。でも、穴はずっと先まで続いていた。真っ暗で、ヤクザの口臭より臭くて、いろんなものがうごめいていた。

「ウスラボケ!」

 暗闇の向こうで何かが怒鳴った。高い声だった。

「……は?」

 わけがわからない。マナトが立ち止まると、高い声が「仲間じゃねえぞ!」と叫んだ。

「おい、やっちまえ!」

 何かが押し寄せてきて、マナトはあっという間にがんじがらめにされ、汚い泥水に沈められた。深さは膝よりもずっと低かったが、上から押さえつけられると泥水が口や鼻に入ってきた。息ができなくなって、マナトは必死に暴れた。しばらくすると何もわからなくなった。



 目が覚めると、体も髪も服も湿っていたものの、泥水の中じゃなかった。マナトは手首や足首を縛られて、硬い地面の上に寝転がっていた。そこは真っ暗じゃなかった。火があった。だ。ハンター暮らしをしていたころはよく父さん、母さんと三人で焚き火を囲んだ。でも、どうやらここは屋外じゃないらしい。

 マナトは何人もの人間に取り囲まれ、見下ろされていた。

「本当だったら殺してる。おまえまだガキだから殺さなかった」

「おまえら何? ヤクザ?」

「違う。ヤクザなわけないだろ。おまえもヤクザじゃないな」

「ヤクザに追っかけられて、ボコられた」

「何したんだよ」

「べつに、ツノミヤ出ようとしただけなんだけど」

「なんでツノミヤ出たい」

「父さんと母さん死んでもうタコ部屋にいられないし、市民登録して働くのはやだ」

「それは俺らもだよ。みんな、父さんとか母さんとか工場で働いてて、死んじまった」

「じゃ一緒だ」

 そこには七人いた。マナトを入れると八人だ。多少体格が違ったり、男だったり、女だったりしたが、だいたい同じような境遇で、全員、親がいなかった。ウスラボケ、と言ったら、カナリヤ、と返すのが決まりで、ちゃんと返せないやつは仲間じゃない。カナリヤ、というのは鳥の名前らしい。どういう鳥なのかは誰も知らなかった。話しあってなんとなく決めたらしい。

 カナリヤたちは、ドブ川の横穴やマンホールの中、工夫しないと通り抜けられない建物と建物の間、崩れかけていてヤクザが立入禁止にしているビルなんかをにしていた。一箇所にとどまるとヤクザに見つかって、最悪、殺されるから、あちこち移動して生活している。

 飯は主にいちで調達する。金は持っていないので、露店に並んでいる食い物を、盗めたら盗む。でも、気づかれたらヤクザを呼ばれて追われるから、よくよく注意しないといけない。狙い目は、食べ残し、売れ残り、腐りかけだ。それらは、市の裏手に並べられた専用のおけに、ゴミとして捨てられる。ゴミでも何か使つかみちがあるみたいで、二日おきに市役所のヤクザが集めにくる。その前に食べられそうなゴミを回収する。

 ただ、ゴミは競争が激しい。

 ツノミヤでカナリヤたちみたいな暮らしをしている者はけっこういて、ガキの集団だけじゃなく、数人組の大人もいたりする。みんな食べられるゴミが欲しいから、どうしても奪い合いになる。めることもあるけれど、あまり騒ぐとヤクザがすっ飛んでくるから、程々にしておかないといけない。程々にしておきたくても、相手が本気でかかってきたら反撃するしかない。それでおおをしたカナリヤが一人、動けなくなって、そのまま死んだ。カナリヤたちはマナトを含めて七人になった。

 百人以上のヤクザが「掃討作戦」を決行したときは、すごい数のゴミあさりが殺された。カナリヤも一人、ヤクザに捕まって袋叩きにされ、ぐちゃぐちゃの死体が市のど真ん中にさらされた。

 六人になったカナリヤたちは、いよいよツノミヤを出ることにした。入るのはそうでもないのに、出るとなるとあちこちにヤクザがいたり、柵があったりして、かなり難しかった。カナリヤたちの他にもツノミヤを出たがっているやつらがいて、そいつらと手を組む話も持ち上がった。でも、そいつらの中に裏切り者がいて、ヤクザに密告した。結局、密告したやつも含めて、そいつらは皆殺しにされた。

 最終的には、昼間、大勢がぞろぞろツノミヤに入ってきたときに、六人で一気に突っこんだ。ヤクザたちにだいぶ追いかけ回されたが、どうにか振りきった。

 六人いれば、なんとかなる。マナトはそう思っていた。体が悪かった父さんと母さん、マナトの三人でも、ハンター暮らしができたのだ。カナリヤたちは六人もいて、しかもまだ若い。生まれてから何年と何日ったとか、はっきりわかっているカナリヤは一人もいなかったが、たぶん十年くらいだろう。

 ジュンツァは物知りで、読み書きもわりとできる。そのジュンツァが言うには、人間は三十年も生きたらかなり長生きなほうらしい。ということは、少なく見積もっても、みんなあと十年は生きられるだろう。まあ、十年後には、父さんや母さんみたいに歯が抜けはじめるかもしれない。しわしわになって、だんだん手や足がちゃんと動かなくなる。満足に食べられなくなってきたら、遠からず死んでしまう。

 アムという女は、髪の毛が鳥の巣みたいになっていて、あるヤクザにぶん殴られて抜けた前歯を気にしていた。

「ヤクザは長生きなんだよ。ツノミヤの市長は三十五歳だって。三十五年も生きてんだって。すごくない?」

 アムは別のヤクザと付き合いたかったらしいが、抜けた前歯をバカにされたから無理だと思い、石を投げてぶつけたらキレられて蹴飛ばされたらしい。

 マナトはアムの前歯が抜けたまま生えてこないのが不思議だった。どうしてその前歯は生えてこないのかと訊いたら、子供の歯が抜けて生えてきた大人の歯は、抜けたらもう生えてこないのだとジュンツァが教えてくれた。たしかに、父さんも母さんも歯が抜けたら生えてこなかった。ただ、マナトも怪我をして何本か歯が抜けたことはあるが、すぐ生えてきた。そのことを話すとみんなずいぶん驚いていたけれど、ジュンツァだけはそうでもなかった。

「聞いたことがある。たまにそういうやつがいるんだ。マナトはそれなんだな」

それって何?」

「なんかそういうやつがいるんだって」

 ツノミヤを出てから、左目しか見えないネイカが口癖みたいに言うようになった。

「ニホンは広いんだから、どうせなら遠くに行こうよ」

 初めマナトは、ニホンというのが何のことだかわからなかった。ネイカが言うには、ニホンはこのセカイのことらしい。このセカイはニホンで、ニホンは広いのだとか。ジュンツァは一度、ニホン全体の古い地図を見たことがあるらしい。ニホンは北にも南にもずっと広がっている陸地で、離れた島もあって、その島もニホンらしい。

 遠くに行くかどうかはともかく、ツノミヤからはできるだけ離れたほうがいい。街はこりごりだし、山野で食ってゆくにはハンター暮らしをするしかない。

 マナトはカナリヤたちにハンターの生き方を教えた。ジュンツァはのみこみが早くて、何をやらせてもすぐ覚えたし、めきめき上達した。ジュンツァは体格もよかった。一番長身で、おそらくマナトたちよりいくらか年上だった。

「きっと俺が一番早く死ぬな」

 ときおりジュンツァは、にやりと笑ってそんなことを言った。

「おまえら俺よりも先に死ぬなよ」

 六人でハンターのごとをして移動しながら暮らしていたら、一人のカナリヤが熱を出して動けなくなった。何を食わせても吐いてしまうし、みるみるうちに痩せこけていった。これは死ぬなと感じた次の日、やっぱり息をしなくなった。

 死んだカナリヤをどうしようかと、五人で相談した。どっちみちもう死んでいるわけで、すぐに腐る。そのへんに置いておけば獣や虫が食らって、骨くらいしか残らない。それでいいんじゃないかとマナトは思ったし、見えない右目を布で覆って隠しているネイカも賛成したが、他の三人は違う意見を持っていた。

 鳥の巣頭で抜けた前歯が気になるアムは、なんかかわいそうじゃん、と言うのだった。

「このままにして、ただなんかアムたちだけどっか行くって、何だろうな、かわいそう。だって一緒に行きたかったんじゃない? 本当は。死んじゃったから行けないし、連れてくのも無理だけど。腐るし。けど、このままはなんか、かわいそう」

 お別れをしよう、とジュンツァが言いだした。

「こいつは死んでるから俺たちが何か言っても聞こえないし、アムが言うように連れてもいけない。どうするのがいいか、俺にもわからないけど、何もしないのはすっきりしないんだ」

 地面に寝かせた死んだカナリヤを、生き残った五人が囲んで座った。五人で死んだカナリヤのことを話しているうちに、からすが集まってきた。

「あいつら、おまえを食べるつもりだぞ」

 マナトはそう言って笑おうとしたのだが、笑う気分にはなれなかった。目の前で死んだカナリヤが鴉たちに食べられるのはどうもいやだと感じた。みんな同じ考えで、穴を掘って死んだカナリヤを埋めてやったらどうかという話になった。それがいい。そうしよう。五人で地面を掘り起こし、底に死んだカナリヤを横たえて土を戻すと、これでいいんじゃないかという気がしてきた。これがいい。

 五人のカナリヤはハンター暮らしを続けながらあちこちに行った。マナト以外はもともとハンターじゃないから、暑いとか寒いとか疲れたとか眠いとか、文句が多かった。年長者のジュンツァでさえ、ときどきつらそうだった。

 暑い季節だと裸になっても暑くてしょうがないし、寝つけないほど寒い夜なんてめずらしくもない。雨ばかり降る時期は、晴れ間がのぞいていても急に空が黒い雲に埋め尽くされて真っ暗になり、土砂降りに見舞われたりする。雨降りが続くと川が氾濫して、あちこち水浸しになり、どこもかしこもどろどろで、普通に歩くのも難しい。ジュンツァが言っていたのだが、大雨で沈んだ街がいくつもあるらしい。

 毒気で汚染されている場所は、木々や地面の様子が変だったり、鳥も虫もいなかったりして、ふだんは一目瞭然でも、雨が激しいと見分けがつきづらい。うっかり入りこんでしまうと、毒気に当てられて悪い病気になる。死ぬこともあるらしい。

 それに、森の中には、絶対に手を出してはいけないどころか、いきなり出くわしたら死ぬと思ったほうがいい獣がいる。けっこう、それなりにいる。

 とくにおおぐまおおいのししおおざるはやばい。ハンターが十人以上集まっても簡単には狩れないし、大猿は群れを形成しているから、一頭でもったら、群れ全体が敵になる。父さんと母さんから聞かされた話だが、大猿の群れは集落を襲って、人間を食ってしまうこともあるのだとか。

 あとは、おおやまねこも恐ろしい。ハンターが何人かで暮らしていて、突然、一人だけいなくなることがある。これは大山猫の仕業だと考えられている。大山猫は野営しているハンターたちに音もなく忍び寄って、一人だけかっさらい、食べてしまう。一人食べられたら、数日後、また一人食べられる。結局、一人も残らない。大山猫はそういう狩りの仕方をするという。

 マナトは言ってみれば生まれながらのハンターだから、そういうものだと思っている。どうしようもない相手に見つかったら、そのときはもうしょうがない。どんなに用心していても、やられるときはやられる。いちいち怖がってなんかいられない。でも、マナト以外のカナリヤたちは、どうしても気になってしまうのだろう。

 とくに、夜は恐ろしいようだ。

 夜は、というより、夜の森が恐ろしい。常にやばい獣に狙われているように思えて、なかなかぐっすり眠れない。

 カナリヤたちははいきよを探すようになった。人が住みついていない廃墟には、だいたい住めない理由がある。もろくなっていて、ややもすると崩れて生き埋めになってしまうとか。なんでかはわからないが、そこにいると具合が悪くなるので、生き物が寄りつかないとか。大猿の群れがいるとか、駅を大熊がねぐらにしているとか。人もやばい獣もいない廃墟はとてもめずらしいが、まったくないわけじゃない。そういう場所で寝起きして、ハンター暮らしをするのだ。

 もっとも、廃墟は狙われやすい。そこに廃墟があると、人も獣も、とりあえず入ってみる。何か使えるものがないか探ったり、住めそうなら住もうとしたりする。しっかり残っている建物は、ことに要注意だ。ハンターくらいならまだいいのだが、ヤクザ崩れみたいなやつらもいて、そいつらは獣じゃなく、人間を標的にしている。

 メバシという大きな街の南に大規模な廃墟があって、カナリヤたちはそこで死にかけたヤクザ崩れに行きあった。

 そのヤクザ崩れは仲間に見捨てられ、ビルの地下で寝そべっていた。ひどく痩せ細っていて、両足が腐り、水たまりの泥水をすすることしかできず、十日ともたずに死にそうだった。たまたま鹿肉をたくさん持っていたから、マナトが二切れほど分けてやると、えらく感謝された。

「ひでえことばっかりしてきたのに、死ぬ間際に鹿肉を恵んでもらえるとはなぁ。最後にいいことがあったから、もういつ死んでも悔いはねえ。ありがとなぁ」

 ヤクザ崩れは、ナガノという大きな街を仕切っているゴンノド会とかいうヤクザ組織に所属していたらしい。でも、何か不義理をして破門されたせいで、ナガノにいられなくなった。それで、同じようなヤクザ崩れと一緒に集落や隊商を襲ったり、小さな街の住人をさらったりして、人間を殺して食っていたのだという。

「そうだ。礼になるかどうかわからねえが、いいことを教えてやるよ。メバシとナガノの間くらいのとこに、カリザって場所があるんだ。カリザはそこそこ名が通ってるから、知ってるかもな。でも、こいつは初めて聞くはずだぜ。カリザのずっと奥のほうに、立派な家が何軒か残ってるんだよ。俺はいつかそこに住むつもりだった。いい女、見つけてよぉ。俺だけの家を手に入れて、そこで死にたかったんだ――」



 カナリヤたちはカリザを目指した。メバシから西に向かう道に沿って進めばカリザだということはすぐに判明した。ぬかるみにまって立ち往生しているケートラを押して出してやったら、その運転手が教えてくれたのだ。ケートラ乗りはメバシとナガノを往復して、荷物を運んでいるらしい。道は山賊が出るから気をつけろと、言わずもがなのことを言われた。山賊はヤクザ崩れというかヤクザそのもので、通る者を襲って身ぐるみ剝いでしまう。近くの街で使える金を払ったり、何か価値のある物資を渡したりすると見逃してもらえるらしいが、カナリヤたちは金なんか持っていない。持っているものは基本的に必要だから持っているので、ほいほいくれてやるわけにはいかないのだ。山賊は武器をたくさん所持している。人数も多い。戦っても勝ち目がないから、けるしかない。

 カナリヤたちはなるべく道から離れて、山の中を進んだ。雨がよく降る時期で、カナリヤの一人が熱を出した。せきをして、ずっと震えている。自分のことは置いていけとそのカナリヤは言ったが、そういうわけにもいかないから、マナトとジュンツァが代わる代わる背負って歩いた。そのカナリヤは女のアムやネイカよりも体が小さかったし、軽いから平気だと言ってやると、そんなわけないし、と咳をしながら笑った。

 小さなカナリヤはよく笑うカナリヤだった。もしかしたら、マナトよりも笑うカナリヤだった。背は低いし、肩幅が狭くて、胸は薄いが、手の指がやけに長くて器用だった。

 マナトが背負っていたとき、小さなカナリヤはささやくようにツノミヤでの話、ツノミヤを出てからの話をした。あれは大変だったとか、最悪だったとか、そういうことばかりだったけれど、最後には必ず、でも楽しかったよね、と言って小さなカナリヤは笑った。マナトが、楽しかったな、と応じて笑うと、小さなカナリヤはもっと笑った。笑いすぎて、咳が出て、その咳が止まらないものだから、笑わせるなって、と抗議しながら、小さなカナリヤは笑った。それでまた咳をした。

 小さなカナリヤはカリザまでもたなかった。雨続きで、埋める場所を見つけるのに苦労した。木の根元の緩んだ土をかき分けて掘って、そこに小さなカナリヤを寝かせた。みんなで泥をかけてやった。カナリヤは、ジュンツァ、アム、ネイカ、そしてマナトの四人だけになった。

 カリザには街があって、ヤクザが大勢いた。しかも、ヤクザたちは仲がよくなかった。何とか会とか、何とか組とか、それぞれ別々のグループに属しているヤクザが勢力争いをしているらしい。大きないちがあって、物が集まっていた。街ではよく見かけるケートラだけじゃなくて、牛車や馬車も街の通りを行き交っていた。

 カナリヤたちは疑った。ヤクザ崩れにだまされたんじゃないか。

 カリザはそこまで広い街じゃない。でも、そのわりに市の規模が大きい。人がやけに多くて、ヤクザだらけだ。

 ヤクザ崩れは、カリザのずっと奥のほうに立派な家が何軒か残っていると言っていた。奥とはどこなのか。

 カリザの南のほうには、シガタケ、とかいうヤクザの親分が住む、殿てん、と呼ばれる大邸宅がある。北には、ブンゲ組、というヤクザ・グループの武装基地があって、危なすぎるからとても近づけない。

 それでもカナリヤたちはあきらめなかった。ときどきカリザに立ち寄って物資を調達し、ハンター暮らしを続けながら、奥地の家を探した。何度かカリザのヤクザとめたが、そのたびに山に逃げこんで切り抜けた。

 カリザ周辺では、三ツ目、という呼び名の大熊が恐れられていて、ハンターが少なかった。三ツ目はその名のとおり目が三つあって、立ち上がると育ちきった人間三人分より背が高いらしい。しろくろまだらの毛むくじゃらで、一度、カリザの街の中心部にまで入りこんできて人を襲ったことがある。そのときは三十人もい殺されたのだとか。

 そこまでの獣なら、足跡だとか爪痕だとか寝跡だとかふんだとか、すごい痕跡を残すはずなのに、そういうものは見あたらなかった。だからマナトは平気だったが、他のカナリヤたちはだいぶ怖がっていた。カリザの連中はそれ以上に三ツ目を恐れていた。

 カリザの街には三ツ目に殺された三十人の慰霊碑が建てられていて、三ツ目の像まであった。いつだったか、酔っ払いが三ツ目の像に小便をひっかけたら、ヤクザに捕まって殺されたらしい。本当かどうかは知らないが、シガタケの御殿にも、ブンゲ組の武装基地にも、三ツ目をまつる神棚というものが設けられていて、三ツ目がふたたびカリザにやってこないように、こわもてのヤクザたちが毎日お祈りしているという話だった。

 結局、ブンゲ組武装基地よりもずっと、ずっと北の山の中で、それを発見した。昔の道から少し登ったところに家の残骸が二軒分あって、そこからさらに進むと、家が二軒、潰れている。その奥に一軒だけ、二階建ての頑丈そうな建物が残っていたのだ。

 一帯はうつそうとした森で、すこぶる視界が悪い。ずいぶん近づかないと、そこに建物があることすらわからなかった。扉にも窓にも鍵が掛かっていて、どうやってもこじ開けられなかったから、カナリヤたちはまど硝子ガラスを割って中に入った。ほこりが積もって、が巣を張っていたが、誰かが住んでいたときのまま、色々な物がすっかり残されていた。あのヤクザ崩れは存在を知っていたみたいだ。それなのに手つかずだった。きっと、他には誰もここのことを知らない。カナリヤたちだけの家だ。

 これからみんなでここに住もう。ここで暮らそう。ジュンツァも、アムも、ネイカも、マナトも、わざわざそんなことは言わなかった。言うまでもなかった。この山には三ツ目がんでいるのかもしれないが、それが何だというのか。柱もはりも腐っていない、屋根があって、壁もあって、暖炉まである家を、自分たちだけの居場所を手に入れたのだ。みんな、他のカナリヤたちのように、カナリヤたちの親のように、ヤクザ崩れや、街に住んでいる人びとや、ヤクザたち、そして獣たちのように、いつかは死ぬ。それまでは、この家で生きる。そして、死んだらこの家の近くに埋めてもらうのだ。

 カナリヤたちの家には、二台の寝台が置かれた部屋が二つもあった。ジュンツァは一階の暖炉がある部屋の長椅子で寝るという。マナトは一階の寝室で、アムとネイカは二階の寝室で眠ることにした。

 初めて寝台の上で横になって目をつぶった夜、マナトは父さんと母さんのことを思いだした。父さんと母さん、三人でハンターをしていたころにこの家を見つけていたら、どうなっていただろう。そんなことを考えた。きっと二人とも大喜びしていたに違いない。笑って、笑って、寝て起きても笑って、笑いつづけただろう。