夏帆を武蔵境の地に導いたのは一匹のありくいだった。正確に言えば、ありくいの夫婦ということになるが、それがわかったのはあとになってからだ。
「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です」。そのありくいは夏帆の夢の中に現れ、簡潔にそう告げた。そしてこくりと肯いた。ふさふさした立派な尻尾を持つ真っ黒なありくいだった。
夢――いや、正確に言えばそれを夢と呼ぶことはできないだろう。彼女はそのとき眠ってはいなかった。眠くもなかったし、意識はこの上なくはっきりしていた。白日夢というのでもないし、幻覚でもない。どう呼べばいいのか、彼女にはわからない。それはあくまで明瞭な現実の一部のように感じられた。何かの作用を受けて一時的に質感を変更された現実の一部。
最初は山手線の車内だった。彼女は原宿から品川に向かっていた。平日の午後二時過ぎだったから車内はすいていて、彼女はシートにゆったり腰掛け、携帯電話のメールをチェックしていた(例によって大半はジャンク・メールだ)。そのどこかの時点で――たぶん大崎の手前あたりだ――意識がふっと遠のいたようだった。まわりにあるすべての事物が急速にその輪郭を失い、混じり合ってひとつの混沌になった。身体全体が温かなゼリーに包まれたような感覚があった。そして一匹の大きなありくいが彼女の前に後ろ足で立ち、語りかけてきた。とてもクリアな声できっぱりと。
「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です」
雌のありくいだ、と夏帆はまず思った。どうしてそう思ったのだろう? 外見からありくいの雌雄を正確に見分けることが自分にできるとは思えない。でも彼女にはすぐにわかった。それが雌のありくいであることが。声のトーンがそう思わせたのかもしれない。あるいはその物腰や言葉遣いに、女性的な雰囲気がうかがえたのかもしれない。
武蔵境? どうして武蔵境なのだろう? 彼女は生まれてから武蔵境に行ったことは一度もない。そういう名前の駅が中央線にあるらしいことは知っていた。東京のずっと西側だ。しかしそこがどんな場所なのか、夏帆は何も知らないし、想像することもできない。彼女はありくいに尋ねたかった。どうして武蔵境なの、どうしてすぐにそこに引っ越さなくてはならないの、と。でも言葉は出てこなかった。ありくいはそれからしばらく何も言わず、ただじっとまっすぐ夏帆の顔を見ていた。それからふっとかき消されるように消えた。
ありくいの消滅とともに、夏帆を包んでいたゼリー状のものも消滅し、周囲の事物も徐々に元あったかたちを取り戻していった。そしてあとにはありくいの謎めいた言葉だけが残った。
「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です」
その夢は――とりあえず夢と名付けておこう、それ以外に適当な言葉を思いつかないから―――何度か繰り返された。歯科医の待合室で雑誌を読んでいるときに、スターバックスのスツールでカフェラテを飲んでいるときに、川辺の遊歩道をそぞろ歩きしているときに、その「夢」はやってきた。雌のありくいが目の前に現れて、いつも同じクリアな声で彼女にきっぱりと告げた。
「いいですか、あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに。そこがあなたのいるべき場所です」
状況も、告げられる文言も、それを口にする雌のありくいの真剣な表情も、澄んだ声音も、そのとき夏帆の身体全体を包むほんのりとしたゼリー状の感覚も、細部にいたるまでそっくり同じだった。まるで同じフィルムがリピート再生されているみたいに。そしてそれが日々の生活の中で何度も繰り返されるうちに、夏帆は次第に不安を覚えるようになった。どうして武蔵境なのだろう? どうしてありくいなのだろう?私は頭がどうかしてしまったのだろうか? 夏帆は美術大学を出て一人暮らしを始めてから、自分がよく独りごとを言うようになったことに気づき、そのことが少なからず気にかかっていた。頭の中でぼんやり思い巡らしていることを、あるいはときにはぜんぜん考えてもいないことを、無意識のうちについ声に出してしまうのだ。
ひょっとしてこのありくいの出現もそれに類する、意識のほつれみたいなものなのだろうか? 私の脳味噌はところどころで妙な具合に捻れかけているのだろうか? あるいは初めての一人暮らしのせいで私の神経は少しばかり損なわれつつあるのかもしれない。
夏帆は自分の名を名乗るとき、いつも「夏の船の帆と書いてかほと読みます」と説明する。すると人は決まって「じゃあ、夏のお生まれなんですね」と言う。そんなとき彼女はだいたい言葉を濁し、曖昧に微笑むだけだ。事情をいちいち説明するのに手間がかかるから。
実際には彼女が生まれたのは二月の半ば、年間でも最も冷え込む時期だ。そんな季節に生を受けたのに、なぜ「夏帆」という名前がつけられたのか? 夢見のせいだと父親は説明してくれた。夏帆が生まれる直前、父親は三晩連続してヨットの出てくる夢を見た。夏の海原を白い帆のヨットが軽快に滑走している風景だった。どの夢も見事に同じ光景だった。晴れ渡った空、同じ海、同じヨット、同じ帆、同じ風。その光景は何か重要なものごとを示唆しているように彼には思えた。だから生まれてきた娘に「夏帆」という名前をつけることにしたのだ。たとえ誕生したのが、今にも雪が降り出しそうな曇天の夕方であったとしても。
夏帆の父親は埼玉県浦和市(今のさいたま市。そう、海洋とは縁もゆかりもない内陸の地だ)で小児科医を開業していた。近所に大きな総合病院があったために、それほど繁盛していたわけではないが、穏やかな人柄で、対応も丁寧だったから、近所での評判は良く、一家が不自由のない生活を送れる程度には「顧客」がついていた。真面目で実直な性格で、占いや夢見をありがたがるような性格ではまったくない。だからその一連の夢は彼にとってよほど印象的なものだったのだろう。夏帆が生まれたあと、父親はヨットの出てくる夢を一度も見ていない(父親はその人生を通じてヨットに乗った経験は一度もないし、夏帆の見るところ海洋のロマンみたいなものにはおそらく一片の関心も抱いていないはずだ)。
その話を小さな頃からしょっちゅう聞かされていたから、まったく同じ夢を何度も続けて見るというのは、それなりの意味を持つ特別な出来事であるように夏帆には思えた。それはおそらく何かしらを意味しているのだろう。ひょっとしてそこには、彼女の人生を左右するような重要な示唆が含まれているかもしれない。
夏帆がその頃住んでいたのは花畑(はなはた)という町だった。東京都足立区の北の端近くにあり、十分ばかり歩けば埼玉県との県境になる。もちろん県境といっても道路に線が引いてあるわけでもなく、柵みたいなものが立ててあるわけでもなく、川をひとつ越えると電柱に貼られた地番が変化するだけのことだ。しかし生まれ育った浦和の実家を出て一人暮らしを始め、住所が埼玉県から東京都に変わっただけで、人生が何かしらぱっと新しく開けたような気がしたものだ。
夏帆が花畑を居住地として選んだのは、そこにたまたま父親の知り合いが住んでいて、適当な物件を紹介してくれたからだった。彼女は実家を出て、一人で絵を描く作業ができる環境を持てれば、べつにどこでもよかったのだ。しかし実際に住んでみるとそこがけっこう気に入った。名前のようにお花畑がそこらじゅうに広がっているというわけではないが、それでもどこかしらのどかさを感じさせる土地柄で、家賃は都心に比べればずっと安く、近所には散歩やジョギングに適した遊歩道もあった。公園に行けば、人なつっこい野良猫と遊ぶこともできた。借りたアパートの部屋はふたつあって、ひとつを寝室に、ひとつを仕事場に使った。夏帆の引き受ける仕事は主に雑誌のイラストレーションや広告の図案だったから、通勤をする必要はなく、竹ノ塚駅からの朝夕のラッシュアワーに遭遇することもなかった。一人暮らしを始めた最初のうち、収入は決して多くはなかったけれど、贅沢さえしなければ人並みの暮らしを維持することはできたし、親元を離れて自由に振る舞える素晴らしさを、心ゆくまで味わうことができた。
夏帆はその花畑という土地にも住まいにも、とくに不満は感じなかった。ファッショナブルな町とは言いがたいが、住み心地は悪くない。仕事も順調に捗り、収入も安定し、近所の人たちとも顔見知りになった。
そこに突然ありくいが出現し、武蔵境に越すように彼女に迫ったのだ。
夏帆の父方の叔父は五十代半ばだが独身を通しており、新小岩駅の近くで小さな洋食レストランを経営していた。気楽な性格で、酒をよく飲み、私生活ではかなりいい加減なところもあったが、それでも料理人としての仕事だけは若い頃から間違いなく堅実にこなしており、店もそれなりに繁盛していた。大柄で肉付きが良く、白髪まじりの針金のように硬い髪を短く刈っていた。兄弟とはいえ、夏帆の父親とは見かけも性格もまるで違う。夏帆は小さな頃からその叔父と仲が良く、しばしば店を訪ねていって食事をご馳走になった。彼女は武蔵境に越すことについて、その叔父に相談してみた。ありくいの話は出さなかった。そんなことを言い出したら話が面倒になる。笑い飛ばされるのがオチだ。あるいは頭のネジが緩んだと心配されるかもしれない。
「武蔵境?」と叔父は首を傾げ、あきれたように言った。「なんだってよりによって武蔵境なんかに越そうと思いついたんだ? おまえ、武蔵境がどういうところか知っているのか?」
夏帆は首を振った。「何も知らない。まだ行ったこともない」
「おれは学生のときに何度か武蔵境に行ったことがあるけどさ、あれはひでえところだぞ。まさに文明の果つるところだ」
「でも叔父さんの学生時代って、そうとう昔のことよね」と夏帆は言った。
「そりゃそうだが、今だってきっとそんなに変わっちゃいないさ。当時のおれはどっぷり麻雀浸けになっていたんだが、仲間の一人が武蔵境に住んでいてな、そこでときどき徹夜麻雀をやってたんだ。電車に乗って、大東京を端っこから端っこまで横切って、武蔵境くんだりまでわざわざ麻雀を打ちに行ったんだ。まったくおれも物好きだよな。しかし、なにしろ見渡す限り野っ原しかないところでさ、電車を降りると、駅の改札で狸が帽子をかぶって偉そうに切符切りをやってた」
夏帆は笑った。「まったくもう、いくらなんでも狸が切符切りをやるわけないでしょう」
叔父は記憶を辿るように、短い髪を手のひらでごしごしとこすった。「うん、まあそう言われてみれば、本当の狸じゃなくて、狸そっくりの顔をした人間だったかもしれない。しかし見渡す限り野っ原しかないというのは実にほんとのことだぜ。武蔵境なんて、だいたい名前からして辺境そのものじゃねえか。まっとうな人間の住むところじゃねえよ。日本語がまともに通じるかどうかさえ怪しいぜ。冗談抜きでさ。しかし、なんでまた武蔵境なんだ?」
「ちょっとしたわけがあって」と夏帆は言葉を濁した。
「そっちに男ができたとか?」
「そんなのじゃないわよ」
「ふうん。ま、とにかくおれはね、新宿より西側の東京ってのが、どうにも肌に合わねえんだ。昔からそうだった。あちこち気に食わんとこだらけだ。行くたびにいらいらさせられる。なにしろ景色が単調で退屈だし、人間はつんけんしていてるし、ぴかぴかのドイツ車が多すぎる。眩しくって目が痛くなる」
夏帆は笑った。どこまで話を真に受ければいいものか。「とにかくそんなわけで」と叔父は言った。「武蔵境に越すことについて、おれとしちゃあんまり賛成はできないね。おれは以前、竹ノ塚駅前で三人組のヤンキーにカツアゲ食らったことがあるから、花畑のあたりについても決して良い印象は持っちゃいないけどさ、それでも武蔵境よりはよほどましだ。しかしまあ、どうしてもっていうのなら止めはしないよ。おまえさんももう立派な大人なんだもの、好きなところに行って好きなことをして暮らす権利がある。その結果として、たちの悪い狸にたぶらかされて結婚するような羽目になったところで、そりゃしょうがあるまいさ。要するに自己責任ってやつだ。まあともかく、おれの知り合いの不動産屋を紹介してやろう。そいつはずいぶん顔が広くて、武蔵野方面にもツテがあるはずだから、頼めばたぶん何か適当な物件を世話してくれるだろう」
「ありがとう。それは助かる」と夏帆は言った。「あっちの方に土地勘はまったくないから」
「武蔵境ねえ」と叔父は言って溜息をつき、首を何度か振った。「しかし、ありゃ本物の狸に見えたんだがなあ」
引っ越しは五月半ばにおこなわれた。転居を祝福するかのように、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。絵に描いたように美しい初夏の日曜日だ。美大時代の気の良い男友だちが、借りたトヨタ・ハイエースを運転してやってきて、引っ越しを手伝ってくれた。家財道具一式といってもたいした量ではない。男女二人で運びきれる程度のものだ。
叔父の知り合いの不動産屋が、地元の同業者を介して見つけてくれたのは、武蔵境の駅からバスに乗って十五分ほどのところにある平屋の一軒家だった。夏帆はそこに案内され、一目でその家が気に入った。家屋はかなり歳月を経たものだが、細かいところまで手入れが行き届いており、古びてはいるがそれほどやつれた様子もなく、全体的に清潔そうに見えた。南に面して狭く長い縁側があり、こぢんまりとした庭がついていた。庭には古い灯籠があり、松の木が一本ひょろりと高くそびえ、木製の垣根に沿って山吹とツツジがかたち良く茂っていた。一人暮らしには家がいささか広すぎるかもしれないが、持て余すというほどの規模でもない。初めて目にする家ではあるが、なぜか仄かな懐かしさのようなものが感じられた。古い記憶にどこかでひっそりと繋がっているような。
「女の人が長年にわたって一人でここに住んでいたんだけど、庭仕事をしているときに腰を痛めてね、年齢ももう八十を過ぎていたから、一軒家の一人暮らしはさすがに厳しくなり、都内の介護施設に入ることになったんだよ」と不動産屋の男が説明してくれた。明るすぎる色あいの青いブレザーを着ていることが少しばかり気になったが、それを別にすれば感じの良い、親切な人物だった。
「その人の持ち家なんだが、なにしろずいぶん几帳面な性格の人でね、おまけに掃除好きだったから、ごらんのとおり年季の入った家ではあるけれど、これという問題もなく、住み心地良く保たれているはずだ。洗濯機とか冷蔵庫とか、そういう器具やら家具が置きっぱなしになっているけど、もしよければそのまま使ってもらいたいということだ。まだまだじゅうぶん使えるものだし、捨てちまうのももったいないからね。もし不必要だということなら、もちろんこっちで費用を持って処分するけど」
家賃はこれまで住んでいた花畑のアパートのおおよそ一・五倍だったが、それでもこのあたりの相場からすればかなり格安ということだ。夏帆はその場で借りることに決めて、契約書に署名した。彼女の描いた絵本が少しずつ売れるようになり、そのぶん収入も安定してきたし、そこそこ貯金もできるようになっていた。それくらいの家賃なら問題なく払っていけるだろう。
不動産屋の男は満足げに言った。「家主さんは、これまで長く暮らしてきた愛着ある家だから、家賃の額は低くおさえていいから、できるだけ身元の確かな人に貸してもらいたいということだった。くれぐれも変な人には貸さないでくれと。我々の商売にとってはそういうのはなかなかやっかいな注文なんだがね、まあ、あんたなら身元も知れているし、家主さんにもきっと喜んでもらえるだろう。掃除とかは好きかね?」
「好きです」と夏帆は即座に答えた。それは嘘だったが(料理はまずまず得意だが、掃除は苦手だ)、なんとかこの家はできるだけ綺麗に維持していこうと思った。ここらで生活のスタイルを変えてみるのも悪くない。
JRの武蔵境駅は新しい大きな駅ビルに建て替えられており、改札にはもちろん狸なんていなかった。というか、改札はIC化されており、無人だった。駅前には立派な商業ビルが並び、野原なんてどこにも見当たらなかった。叔父が若かった時代から、町は大きく発展したのだろう。夏帆は携帯電話を取りだして、駅の改札と、駅前の光景を一通り写真に撮った。「武蔵境は今はこんなに賑やかになったんだよ」と叔父に見せなくては。そこはもう「文明の果つるところ」じゃないのだ。足立区花畑なんかより遥かに都会ではないか。
夏帆がそう言うと、「おまえな」と電話口で叔父は溜息をついて言った。「それはきっとたちの悪い狸に化かされているんだ。あいつらときたらなにしろ狡猾だからな、気をつけた方がいいぜ。でっちあげの幻影を本物の現実のように見せることができるんだ。ある朝目が覚めたら野っ原の真ん中で寝てた・・・・・・みたいなことにならねえようにな」
夏帆は言った。「狸のことはとにかく、おかげさまで武蔵境への引っ越しはなんとか無事に完了しました。とても感じのいい住まいだから、ついでがあったら遊びに来てよ」
「武蔵境まで来いってか? いやいや、ごめんだね。何があろうと、あんな吹きっさらしのドツボみたいなところには二度と行きたくねえや」
「ねえ、叔父さんはなにか、武蔵境に個人的な恨みでもあるんじゃないの? そういうのって、いくらなんでも偏見が強すぎるよ」
「うーん、そうだな」と言って叔父はいくらか口ごもった。頭を手のひらでごしごしこすっているような音が聞こえた。「おれはそこで打った麻雀でとことん搾り取られたからな。まったくひどい目にあった。ほとんど素っ裸にされたんだ。その恨みみたいなのはまだ少しばかり残っているかもな」
武蔵境の新居での三日目の夜に、例のありくいが姿を見せた。夢の中で、あるいは夢らしきものの中で、夏帆とありくいは向かい合って座っていた。ありくいはきちんと正座していた。ありくいが正座して座布団に座っているなんて、ちょっと驚かされる光景だ。ふさふさした太い立派な尻尾が、大事そうに足もとにくるりと巻かれていた。
「こんにちは」とありくいは言った。
「こんにちは」と反射的に夏帆も挨拶を返した。
ありくいは言った。「礼儀としてまず名前を名乗るべきなのでしょうが、残念ながらわたしには名前みたいなものはありません。ただの一介のありくいです。世間的にはオオアリクイと呼ばれている種類のものです。生まれはブラジル奥地のジャングルで、そこではわたしたちは主にシロアリを食べて生きておりました。シロアリの巣を見つけて、そこにこの長い舌を差し込んで、ぺろぺろと舐め取ります。一度に何千匹、何万匹のシロアリを食べます。それがわたくしたちの主食、大事な栄養源となります」
ありくいはそう言うと、全長一メートルはあろうかという鞭のように細い舌をするりと差しだした。そして宙に一度くるりと輪を描いてから、再び口の中に収めた。その動きはしなやかで俊敏だった。
シロアリを主食とする? しかし日本にはそんなにたくさんシロアリの巣が存在するのだろうか、と夏帆は思った。
「はい、そのとおりです。残念ながらこの日本にはブラジルほどたくさんシロアリはおりません」とありくいは言ってこくりと肯いた。「ですから新しい環境に順応し、シロアリを食べなくても生きていけるような身体に作り替えられたのです。まあ、そこらで蟻の巣を見かけますと、すかさずぺろりと食べておりますが、日本の普通の蟻はブラジルのシロアリのようにおいしくはありません。ブラジルのシロアリは大ぶりで、ぷちぷちとして甘みがあります」
ありくいはブラジルのシロアリの味を思い出すように、目を細めた。
このありくいは人の心が読めるのだと夏帆は思った。
「ええ、わたしたちありくいは相手の心を読んで会話します」とありくいはつぶらな目を大きく開いて言った。「言語で会話するのではなく、思いをそのまま全体として、パッケージとして伝え合うのです。というわけで、わたくしたちの間に言葉の壁というようなものは存在いたしません」
夢の中で夏帆は湯飲みを両手で持って、温かい緑茶を飲んでいた。ありくいは何も手にしてはいなかった。ひょろりと長い嘴のような口は、湯飲みからお茶を飲むのには適していないのだろう。何か勧めた方がいいのだろうか、と夏帆は思った。細長いグラスで飲めるようなものを?
「いいえ、どうかおかまいなく」とありくいは小さく首を振って言った。「夏帆さんがこうして、ここ武蔵境に越してきてくださっただけで、わたくしどもはじゅうぶん心満たされております」
わたくしども? と夏帆は思った。複数形?
「わたしと夫です」とありくいは夏帆の心を読んで言った。
「結婚しておられるのですね?」
「はい、結婚してずいぶん長くなります。どれくらい長いのか、年数まではわかりかねます。わたくしたちありくいは数をかぞえるのが苦手なのです。しかしとにかく、ずいぶんと長い歳月二人で苦楽を共にして参りました。ちなみに、わたくしどもありくいは一夫一婦制を固く守っております。ありくいの世界には、人間のみなさんとは違って、別居とか離婚とかそういうものはいっさい存在しません。一度結ばれれば、死ぬまで別れることはありません。いいえ、それどころか、どちらかがさきに死んでも、結婚生活はそのまま維持されるのです。のこされたものが他の誰かと再婚するなどということはありません。偉そうなことを言うようですが、それは愛に対する冒瀆というものです」
夏帆は黙って話を聞いていた。
ありくいの奥さんは言った。「本来は夫婦揃って、お礼のご挨拶にうかがわなくてはならないところなのですが、わたしの夫はなにしろおそろしく内気で、恥ずかしがり屋でして、なかなか人前には姿を見せようとしません。それで今夜のところは、わたしがこうして一人でお邪魔したような次第です」
お礼の挨拶?
「はい、実を申しますと、夫とわたしはこのお宅の床下に住まわせていただいているのです」
「床下に?」夏帆は思わず畳の床に目をやった。
ありくいの奥さんは言った。「はい、そうなのです。このことは最初にきちんとお断りするべきだったのですが、何かと慌ただしく、立て込んでおりまして・・・。でもわたくしどもは余計な音を出さないように気をつけて、ずいぶん静かにこっそりと生活しております。ですからあなたにご迷惑をおかけするようなことはないと思うのですが」
「いえ、迷惑なんてことはぜんぜんありません」と夏帆は言った。「床下に何かが―――誰かが住んでいるなんて、まったく気づきもしませんでした。なにしろとても静かで」
それは本当のことだった。夜が更けるとこのあたりは、すべてが死に絶えたように深く静まりかえり、物音ひとつ聞こえない。まるで深い海の底にいるみたいだ。静かすぎて、かえってうまく寝付けないくらいだった。床下に何かが生息している気配など微塵も感じられない。
「それをうかがってほっとしました」ありくいはいかにもほっとしたように大きな目をくるりと
一度回した。
「しかしどうして武蔵境なのですか?」と夏帆は思い切って尋ねた。「どうしてあなたは私に、武蔵境に引っ越すように勧めたのですか?」
ありくいの奥さんは困ったように深く息をつき、首を振った。「それをあなたに説明するのはとてもむずかしいことになります。なぜならわたくしどもありくいの感覚の成り立ちは、あなた方人間のそれとは大きく異なっているからです。その違いを説明するとなると、とても長い話になります。ブラジルの悲哀に満ちた歴史やら、生命というものの根本的意味やら、進化の成り立ちやら、時間の定義、そういう面倒なことも避けがたく絡んできます。たとえ長い時間をかけても、わたしにはうまく説明できそうにありません。わたしは恥ずかしながら、ものごとを順序立てて論理的に説明するのがとびっきり苦手なのです。それに比べて、わたしの夫はなにごとによらず解析し、説明するのが得意でして、ですから彼が一部始終を説明してくれるといいのですが、先ほども申し上げましたように、なにしろ内気きわまりない気質のものですから、床下から出てくることができません。まったくお恥ずかしいことなのですが」
どう言えばいいのかわからなかったので、夏帆は何も言わず、湯飲みから少しぬるくなったお茶を一口飲んだ。
「しかしとにかく、わたくしどもありくいの感覚の構造はとても特殊なものなのです。わたくしたちの舌の形や機能がとても特殊なのと同じようにです。それはどうかご承知おきください。ごく簡単に言ってしまえば、わたくしたちありくいの場合、未来とか、現在とか、過去とか、そういう時間の区別がもうひとつ明確ではありません。ですから、どうしてあなたが足立区花畑からこの武蔵境の地に急いで引っ越してこなくてはならなかったか、それはただそうするべきだとわかっていたから、としか説明のしようがないのです」
夏帆はありくいの言ったことをなんとか理解しようと努めた。しかしそんな説明では、何がなんだかわからなかった。
「つまり、あなたには未来が見えるということ?」と夏帆は尋ねた。
ありくいの奥さんは首を振った。「いいえ、いいえ、そういうのではありません。わたくしどもには未来を予測することなんてできません。そんな立派な能力は持ち合わせておりません。ただ未来と現在と過去とをうまく区分けすることができないというだけのことなのです。それらはそれぞれを暗示し合いながら混じり合い、わたくしどもの内側に同時存在しております」
まるで謎かけみたいだ、と夏帆は思った。謎解きの糸口をいくつかもらっても、ほとんど実際の役には立ちそうにない。糸口自体が、謎の本体にするすると呑み込まれていくのだ。そして謎の一部になってしまう。
「ごめんなさい」とありくいの奥さんは、夏帆の目をまっすぐ見て申し訳なさそうに言った。「わたしの説明がまずくて、おかげで話の筋が余計にわかりにくくなってしまったみたいですね」
「でもとにかく、私は花畑を離れた方がいいということが、あなた方にはわかっていたのですね?」
「はいそうです」とありくいは言った。「そのとおりです。実のところ、あなたは一刻も早く花畑を離れなくてはなりませんでした。そこには危険が迫っていたからです」
「危険って、どんな危険?」
ありくいの奥さんは軽く目を伏せた。そして言った。「その詳細を具体的に明らかにすることは、わたしにはできません。しかしわたしの夫は、それが近づいてくる音を折に触れて耳にしました。とりわけ静かな夜更けなんかに。わたしにはそれを聞き取ることはできませんでしたが、夫は人並み外れて鋭敏な一対の耳を持っているのです」
「どんな音をご主人は耳にされたのですか?」
「大きなエンジンの音です。どうん、どうん・・・・・・というような野太い機械音。巨大な心臓の鼓動を思わせる不気味な音です。それはどうやら大型のモーターサイクルのエンジン音のようです。夫はそう申します。そう言われても、わたしの耳には何も聞こえないのですが」
「大型のモーターサイクル?」
「わたくしどもはモーターサイクルに詳しくありません。なにしろブラジル奥地のジャングルで育ったものですから、その手の新しい機械に関する知識はほとんど持ち合わせていないのです。しかし夫はわたしよりよくものを知っておりますし、それはほぼ間違いなく大型のモーターサイクルのエンジン音だと申しております。特殊な種類のものです。それは最初のうちはずっと遠くの方から聞こえていたのですが、徐々にあなたの住まいに接近しているようだと夫は申します。そしてその何かはあなたの身に決して好ましい影響を及ぼさないだろうと」
夏帆は言った。「そこに何か不吉なものが聞き取れたということかしら?」
ありくいは肯いた。「そのとおりです。わたしの夫は昔から不吉なもの、不穏なものを感じ取ることに長けております。おかげでわたくしたちはこれまで、危ういところでずいぶん命拾いをしてきました。なにしろブラジルの奥深いジャングルには、思いも寄らぬ危険が満ちておりますし、そこで生き延びていくのは容易(たやす)いことではありません」
その「大型のモーターサイクルのエンジン音」については、夏帆には思い当たるところがあった。
彼女は言った。「そこまではわかりました。きっとご主人は優れた聴力をお持ちなのでしょう。ご忠告には感謝します。しかしどうして行く先が武蔵境でなくてはならなかったの?」
「そこなのです」とありくいは言って右手で自分の膝を軽く叩いた。「わたしの夫は、ジャングルの中でどこに行けば安全かを探り当てる能力に生まれつき恵まれているのです。わたくしたちありくいは、こうして柄も比較的大きく、鋭い爪持っていますが、爪はそもそも穴を掘るためのものです。戦うためのものではありません。大きなジャガーに待ち伏せされたらひとたまりもありません。ですからわたしたちにとっては、安全な場所を確保することが何より大切な仕事になります。そしてわたしの夫はその安全な場所を見つけ出すのが誰よりも得意なのです」
「そして私にとっての今回の安全な場所は武蔵境だった?」
「そのとおりです。夫は東京の地図を広げて、それを前にししばらくの間黙考し、それから『ここだ』と言いました。そして武蔵境をまっすぐ指さしたのです、大きな鋭い爪で」
「そしてあなた方ご夫婦も、私と一緒に花畑から武蔵境に越してこられたわけですね?」
ありくいはまたそっと目を伏せた。「はい。なぜならあなたにとって良きことは、わたしたち夫婦にとっても同じく良きことであるからです」
どうして? どうして私にとって良きことが、あなた方ありくいの夫婦にとっても良きことなの? 夏帆はそう尋ねたかったけれど、思い直して言葉を呑み込んだ。状況はあまりにも謎めいており、そして入り組んでいる。これ以上なにかを質問し、それに対して回答が返ってきても、そこで提示された新たな情報を私は処理しきれないかもしれない。考えを巡らすことに私は疲れ始めている。頭がうまく働かない。とにかくありくいの夫婦と私とは、今のところ(なぜかはわからないが)利害が一致しているらしい。あるいはなんらかの危機的要因を分かち合っているらしい。まあ、とりあえずはそれでいいではないか。
「それで」と夏帆は言った。「こうして武蔵境に移ってきてからは、そのモーターサイクルのエンジン音は聞こえなくなったのですか?」
「はい、夫が言うにはそれはもう聞こえないということです。もちろん今のところはということですが」
「それはよかった」
「でも油断はなりません」とありくいの奥さんは厳しい声で言った。「ジャガーのやつは執念深く、驚くばかりに知恵が働きます。やつらは、わたしたちが『これでもう安心』と油断したときを見計らって突然襲いかかってくるのです。ジャングルでは決して注意を怠ってはなりません」
ジャングルでは、と夏帆は思った。
そこでありくいの奥さんは消えた。というか、すべてが一瞬にして消滅した。気がついた時、部屋の中はすっかり明るくなっており、夏帆は布団の中に横になっていた。窓のカーテンの隙間から眩しい陽光が差し込み、庭の木の枝からは鳥たちの賑やかな声が聞こえた。早朝だ。口の中が小型の砂漠を丸ごと呑み込んだみたいにからからに渇いていた。彼女は布団から出て台所に行き、冷たい水をグラスに三杯続けざまにごくごくと飲んだ。渇きが癒やされ、それでようやく一息つくことができた。
あれは夢だったのだろうか? 夏帆はやかんに水を入れてガスにかけ、それが沸くのを待つ間、台所のテーブルの前に座り、指先でこめかみをゆっくりさすりながら自らに問いかけた。
それが夢だとは思えなかった。夢にしては情景が細部まであまりにもリアルで克明だったし、自分とありくいの奥さんが交わした長い会話を、そっくりそのまま思い出して順番に辿ることもできた。そして時間が経過しても、それらの記憶は薄れてはいかなかった。むしろ逆に鮮明に、くっきり明確になっていくようだ。通常の夢ではそんなことは起こらない。
しかしながらといって、それが純然たる現実だとも思えなかった。現実にしてはあまりに話が突飛すぎる。なぜブラジルのジャングルの論理が、この東京にそのまま持ち込まれなくてはならないのか? ありくいのご主人は本当に大型モーターサイクルのエンジン音を耳にしたのだろうか? それが意味することを、彼は承知しているのだろうか? だいたいありくいの夫婦がどうしてブラジルのジャングルを離れ、まったく環境の異なる武蔵境の一軒家の床下で暮らさなくてはならないのか? 過去と現在と未来がありくいの意識の中に混在しているというのは、いったいどのような状態なのか? 考えれば考えるほどわけがわからなくなってくる。
いずれにせよ、夏帆はあのモーターサイクルのどろん、どろん・・・・・・という不吉なエンジン音をもう二度と耳にしたくはなかった。そしてそれにまたがっているであろう男の顔を、もう二度と目にしたくはなかった。その音を聞くと彼女の胸の鼓動は速く激しく高まり、額には脂汗がうっすらとにじんだ。もしそれが夢だとしても、あるいは現実だとしても、ありくいの夫婦がそのモーターサイクル男の接近を鋭敏に感知し、阻止してくれるのであれば、それは夏帆にとっては願ってもないことだった。夢であれ現実であれ、ありくいの夫婦は実在しているのだ。夏帆はそう考えることに決めた。彼らはそこに間違いなく実在している。どうしてそうなるのかはわからないけれど、彼らはたぶん彼女にとっての守り神のようなものだろう。彼女を守るためにブラジルのジャングルから、はるばる武蔵境に送り込まれてきたのだ。まったく理屈の通らない話ではあるけれど、そう決めてしまうと思いのほか安らかな気持ちになれた。夏帆はもう一度布団の中に潜り込み、目を閉じた。そしてそのまま昼過ぎまでぐっすりと眠った。
その日の昼下がり、夏帆は縁側から庭に出て身を屈め、這いつくばるようにして縁の下の通風口を覗き込んでみた。奥の方は真っ暗で、吸い込む空気は黴臭かった。懐中電灯で奥を照らしてみようと思ったが、そんなことをしたらありくいの夫婦が居心地悪く感じるかもしれないと思ってやめた。きっと彼らはそこで人目を避け、ひっそりと静かに暮らしているのだ。そしてときどき気晴らしにそのへんの蟻を食べ(それがシロアリでないことは不満そうだったが)、夫はモーターサイクルのエンジン音に耳を澄ませている。それでいいではないか。彼らはそこにいるのだ。そのままにしておこう。余計なことをして邪魔をしない方がいい。
それから二週間がこともなく過ぎた。夏帆は日々、時間をかけて家の近所を散策して回った。そして日常生活に必要な品を購入できる店を見つけて、ひとつひとつ頭に入れていった。スーパーマーケットのある商店街までは少しばかり距離があったが(バスで停留所ふたつ)、すぐ近くに大きめのコンビニエンス・ストアがあり、そこでとりあえず簡単な用は足りそうだった。商店街まで行けば蕎麦屋があり、コピー機を置いた文房具屋があり、悪くなさそうなパン屋と洋菓子屋があり、雑貨を揃えた百円ショップがあり、テイクアウト専門の惣菜屋があり、チェーン店の薬局があった。買い物の便からすれば、足立区花畑よりむしろ住みやすいかもしれない。いずれにせよ気の向くまま通りから通りへと、新しい生活環境を探索してまわる作業は楽しかった。知り合いもまったくいない未知の土地での一人暮らしだが、とくに心細いとは思わなかった。夏帆は一人っ子だったし、小さなときから一人きりでいることに馴れており、とくに苦痛には感じない。もの静かな孤独は彼女にとって、古くからの親しい友人のようなものだった。更に友人がほしければ、そのうちに猫を一匹飼ってもいいかもしれない。
くれぐれも狸に化かされないようにな、という叔父の忠告の言葉を思い出して、夏帆は一人でくすくす笑ってしまった。まったくもう、いったいどこに狸がいるのよ、叔父さん。今の武蔵境にはもう野原なんてぜんぜんないんだから。
その二週間のあいだ、ありくいの奥さんは一度も夏帆の前に姿を見せなかった。夜中に息を殺してじっと耳を澄ませても、床下からは何ひとつ音は聞こえてこない。静かだ―——静かすぎるくらい静かだ。そこで大きなありくいの夫婦が生活を送っているなんて、想像もつかない。私が目にしたのはやはり幻影だったのだろうか――そう疑わずにはいられなかった。私の想像力が無意識のうちに一匹のありくいを出現させたのかもしれない。しかしありくいの奥さんの姿かたちや、彼女が口にしたことがらはあまりにもリアルで具体的だった。
正直なところ、自分の無意識がそれほどの深みを持つものだとも、自分の想像力がそこまでパワフルなものだとも、夏帆には思えなかった。私はごく普通の、どこにでもいるあたりまえの人間なのだ。いちおう美術大学を出て、イラストを描いたり絵本を描いたりして生計を立ててはいるが、クリエーターとしてとくに傑出した資質を持っているわけではないし(と彼女は思う)、芸術家と呼べるような立派な存在ではない。そんな緻密かつ豊潤な幻影を見る――それも何度も繰り返し見る――なんてことはまずあり得ない。そう、それは幻影なんかじゃない。夢でもない。ありくいの奥さんはちゃんとそこに実在したのだ。そのことに間違いはない。夏帆はそう思う。
二週間たってもありくいの奥さんが姿を見せなかったとき、夏帆はスケッチブックを開いて、新しい絵本の草稿を描き始めた。仲の良いありくいの夫婦が、残忍なジャガーに狙われ、ブラジルのジャングルを出て、日本に移住してくる話だ。そして彼らは武蔵境のとある一軒家の床下で暮らすようになる。
ありくいの姿を絵にするのは難しくなかった。実物のありくいに会ったばかりだし、その姿かたちをありありと正確に思い出すことができたからだ。ふさふさとした尻尾、鋭い大きな爪、くるりと丸い黒い瞳、まるで生きている鞭のようにしなやかな動きを見せる長い舌。
その話がそれからどのように発展していくのか、夏帆にはプランがまるでなかった。ありくいの夫婦が武蔵境の一軒家の床下に居を構えるところまでは書いたのだが、その先に進むことができなかった。彼らがどうして移住先に日本を選んだのか(そこにはシロアリはあまり多くいない)、そして住む土地が武蔵境でなくてはならなかったのか、その理由も説明できなかった。どれだけ知恵を絞っても、これというストーリーは浮かんでこない。しかしそこまでの話の展開はなかなか面白かった。ありくいの絵もよく描けていた。とくにありくいの奥さんの表情や仕草が、自分でも感心するくらい生き生きと描けていた。絵本を開いた子供たちもきっと、ありくいのことが好きになってくれることだろう。そういう気がした。動物園に実物のありくいを観に行くかもしれない。
ありくいの夫に関しては、まだ実際の姿を目にしたことがないので、想像を働かせて描くしかなかった。彼女の本の中では、ありくいの夫は大柄で、黒縁の眼鏡をかけ、クルミ材のパイプを吹かしていた。もちろん実物のありくいの夫はそんなかっこうはしていないだろう。煙草だって吸わないだろう。しかし絵本の中で雄のありくいと雌のありくいの違いを出すためには、そのような外見上の誇張がある程度必要だった。
「ありくいが主人公になる絵本を書き始めたところなんです」と夏帆は電話で、親しくしている編集者の町田さんに告げた。
「ありくい」と町田さんは意外そうな声で言った。「どうしてまたありくいなの?」
「わかりません。ただありくいの姿が頭にふっと浮かんだんです。仲睦まじいありくいの夫婦の話」
「その夫婦に子供はいるのかしら?」
「いないみたいです」と夏帆は少し考えてから言った。「というか、少なくとも今のところは」
「書き上げたら知らせてちょうだいね。楽しみにしているから」
ありくいの奥さんがその三日後に姿を見せた。
「お久しぶりです」とありくいの奥さんは言った。「できるだけお邪魔はしないようにと心がけていたものですから。お仕事をなさっていたみたいですし」
ありくいの奥さんは前回と同じように、座布団の上にきちんと正座して座っていた。礼儀正しいのだ。夏帆はやはり前回と同じように、湯飲みからぬるくなったお茶を飲んでいた。
「夫は毎夜じっと真剣に耳を澄ませていますが、例のモーターサイクルの音はもう聞こえてこないということです」とありくいの奥さんは言った。「どうやらここは安心できる場所のようです」
「それはよかった」と夏帆は言った。「それを聞いてほっとしました。ご主人によろしくお伝え下さい」
「ありがとうございます。伝えておきます」
「床下の住み心地はいかがですか?」
「悪くありません。もちろんジャングルに比べると場所は狭いですから、それなりに不便はありますが、あたりには悪いジャガーもおりませんし、おかげさまでぐっすりと深く睡眠を取ることができます。わたくしたち夫婦にとって、これは何よりありがたいことです」
「立ち入ったことをうかがうようですが、あなた方にお子さんはいらっしゃるのですか?」
「子供は二匹おりました。かつては」、ありくいの奥さんは深い憂いを込めてそう言った。「しかしわたしがうっかり目を離していた隙に、悪いジャガーにみんな食べられてしまったのです。半年前のことですが」
「それはお気の毒です」と夏帆は言った。ほんとうに気の毒だ。
「それもあって、わたくしたちはブラジルのジャングルを離れようと心を決めたのです。なんといっても生まれ故郷ですから、立ち去りがたくはあったのですが、これ以上そのような悲しい目にはあいたくないと思いまして」
夏帆は言葉もなく肯いた。ありくいの子供たちをむしゃむしゃと貪り食べるジャガーの姿は、子供向けの絵本には相応しくないだろうと夏帆は思った。ジャングルでは当たり前のことなのだろうが、視覚的に残酷すぎる。
「実を申しますと、今日はあなたさまにお願いがありまして、こうして厚かましくうかがったような次第です。お仕事の邪魔でなければよかったのですが」
「いいえ、大丈夫です。ご心配なく。今はこれといって仕事はしていませんから」と夏帆は言った。
「シロアリのことです」とありくいの奥さんは簡潔に言った。それからしばし沈黙に沈んだ。
「はい」、夏帆は反射的にそう返事をした。
ありくいの奥さんは目を伏せ、溜息をついた。とても長くつづく、身体の奥底から絞り出されるような溜息だ。
「わたしはべつにかまわないのです」と奥さんは言った。「わたしはたとえシロアリが食べられなくても、仕方ないとあきらめることができます。手に入る代用食を食べて暮らしていくことができます」
代用食とはいったいどんなものなのだろうと夏帆は疑問に思ったが、口は挟まないことにした。
「しかしわたしの夫は、シロアリを食べられないことを心底、辛く悲しく感じています。以前も申し上げましたように、日本ではシロアリを見つけるのが簡単ではありませんし、もし見つかったとしても、その大きさも風味もブラジルのシロアリには遠く及びません。毎日何度となく夫は嘆くのです。ああ、もう一度でいいからあのジューシーなブラジルのシロアリを心ゆくまで食べてみたいものだ、と。そして思い出してはぺろりと舌なめずりをします。しかしそう言われても、わたしはもうブラジルには帰りたくありません。邪悪なジャガーがわたくしたちのかわいい子供たちを捕まえて、食べてしまいました。二匹ともいっぺんに。そして今ではわたしたちをもつけ狙っています。それがジャングルのありようなのです。夫がどう言おうと、そんなところにのこのこ帰るわけにはいきません。そうじゃありませんか?」
ジャングルのありよう――そういえばあのモーターサイクルの男は弱肉強食の世界について語っていた。いや、食物連鎖についてだっけ?
「しかし夫の嘆きを日々聞き続けるのは、ありくいの妻としてまことに胸の痛むことです」とありくいは立派な尻尾をぐいと伸ばして言った。「できることなら、なんとかしてあげたいと思います」
話の行く先が見えないまま、夏帆は小さく肯いた。
「なんとかしてあげたい・・・・・・それがわたしの正直な気持ちです。なんといってもわたくしたちは二匹で一体なのですから」
二匹で一体。夏帆はありくいの夫婦がひしと抱き合って眠っている姿を想像した。それはきっと大きな黒い毛むくじゃらのボールのように見えることだろう。どこが顔でどこが尻尾だかも定かではない。絵に描くのはむずかしいかもしれない。
「そこであなたさまに折り入ってお願いがあるのです」と奥さんは言った。
「お願い」と夏帆は抑揚を欠いた声で反復した。
「まことに言いにくいことなのですが、わたしがお願いするのは、この国の法律に抵触するであろうことなのです」
「法律に抵触すること」
「はい、犯罪とかそういう重大なものでは決してありませんが、法律にかなったこととは申せません。実は、あなたに運んでいただきたい荷物があるのです。本来であればわたしが取りにいくべきものなのですが、わたしはこのとおりありくいですので、通りを歩いて行くことができません。バスにも乗れません。そんなことをしたら誰かに見とがめられて、すぐに警察に連絡されてしまいます。そしてたぶん投げ縄か麻酔銃を使って拘束され、動物園に送られることでしょう。そしてわたしがもし動物園に送られ、檻に閉じ込められたなら、夫は一人きりになってしまいます。そんな事態は何があろうと避けなくてはなりません。そうですわね?」
「だから私があなたの代わりにその荷物を取りにいく――そういうことなのかしら?」
ありくいの奥さんはくいと肯いた。「はい、そのとおりです。厚かましいお願いであることはじゅうじゅう承知しております。しかしわたくしどもありくいの夫婦にとりまして、この地に夏帆さん以外に頼れる相手はだれ一人としていないのです」
たしかにありくいがバスに乗るのはむずかしいだろう、と夏帆は思った。「でも、その荷物を運ぶことは法律に反しているのですね?」
「はい、そうなのです。惜しむらくは」
「それで・・・・・・その荷物の中身はいったい何なのですか?」
「シロアリです」とありくいの奥さんはきっぱりと言った。
「シロアリ」と夏帆は相手の言葉を繰り返した。
「生きたシロアリではありません。言うまでもなく」とありくいの奥さんは言った。「死んだシロアリです。ブラジルのシロアリ。それをオイル漬けにして、瓶詰めにしたものです。もちろんオイル漬けですから、生の新鮮なシロアリほどおいしいものではありませんが、それなりの風味は楽しめます。しかしそれを日本に持ち込むことは許されていません。ブラジルのシロアリはこちらの食品衛生法に適合していないからです。しかし裏のルートでこっそり輸入している業者がいます」
夏帆はありくいの奥さんの話をいったん遮った。夏帆は言った。「すみません。ちょっと待って下さい。話がよくわからないのですが、輸入するって、いったい誰がブラジルのシロアリのオイル漬けを必要としているのでしょう?」
「ブラジルのシロアリを好んで食べるのは、わたくしたちありくいに限ったことではないのかもしれませんよ。人間の中にも、一風変わった嗜好をもった人は少なからずおられるようですから」
「この日本に、シロアリのオイル漬けを好んで食べる人がいるということ?」
ありくいの奥さんは静かに首を振った。「そのへんの事情はわたしにもよくわかりません。ただそうではないかと推測しているだけです。需要があれば供給があるということです。なにはともあれ、シロアリの瓶詰めを日本に密かに供給している人たちが存在しています。そしてそれを買い求める人たちがいます。禁制品の密輸と言っていいかもしれません」
「それを私に取りにいってほしいということ?」
ありくいの奥さんはこくりと肯いた。「はい、ご好意に甘えるようで、まことに申し上げにくいのですが、そうしていただけるとこの上なくありがたいのです」
夏帆はそれについて考えを巡らせた。当然のことではあるけれど、密輸された禁制品を運ぶなんてまったく気が進まなかった。それを手にしているところを警察に見つかったりしたら、間違いなく面倒なことになる。あるいは逮捕されるかもしれない。しかし爆弾や自動小銃やヘロインのような社会にとって有害なものとは違い、品物はなにしろ死んだシロアリのオイル漬けだ。重罪に問われるようなことはまずあるまい。そして夏帆には、できることならありくいのご主人のために役に立ってあげたいという素直な気持ちがあった。なんといっても彼は――奥さんの話が真実だとすればだが――あの気味の悪いモーターサイクルの男が夏帆に近づかないように、夜ごとその鋭敏な耳を澄ませてくれているのだから。
「で、そのシロアリの瓶詰めはどこで手に入るのかしら?」と夏帆は質問した。
「はい、武蔵境の駅の近くで手に入ります」
武蔵境の駅の近く? それを聞いて夏帆は少しのあいだ言葉を失った。それから言った。「そんなに近くで?」
「はい、都合の良いことに、この武蔵境にその輸入業者の拠点のひとつがあったのです」
いや、おそらくそれは偶然ではあるまいと夏帆は思った。シロアリの瓶詰めの密輸業者の拠点がたまたまこの武蔵境にあったなんて、あまりに都合が良すぎるではないか。これはおそらくそもそもの最初から計画されていたことなのだろう。ありくいの夫婦はシロアリの瓶詰めを手に入れることをひとつの目的として、夏帆を武蔵境まで導いてきたのではないだろうか。しかしたとえそうであったとしても、そのことをあえて追求するつもりは夏帆にはなかった。ありくいたちの動機がいかなるものであれ、彼女は武蔵境という新たな土地と、一軒家の新居が思いのほか気に入っていたからだ。そしてまた夏帆は、ありくいの奥さんにそこはかとない個人的好意を抱くようになっていた。
ありくいの奥さんはその「輸入業者の拠点のひとつ」の場所を教えてくれた。それは武蔵境の駅の近くにある商店街の真ん中あたりにあった。新しくできた駅ビルに押されて、緩慢な衰退の途を避けがたく辿っている古い商店街だ。
「そのお店は、包丁や鋏を研ぐことを表向きの商売にしております」とありくいの奥さんは大きな太い爪で畳の縁を遠慮がちにこすりながら言った。「見逃してしまいそうなくらい小さな店ですが、『とぎや』と平仮名で書かれた立派な看板が表に出ています。屋号みたいなものはありません。ただの『とぎや』です。しかしそれはあくまで表向きのことで、店の奥の方で密かにいくつかの禁制品をとり扱っています。ですからそこに行くときには必ず包丁か鋏を持参するようにしてください。そしてそれらを研いでもらってください。そうしておけば誰からも疑いの目で見られることはありませんから。そこまではおわかりいただけたでしょうか?」
「わかったと思います」と夏帆は言った。
「それから、そのお店に行くのは暗くなってからにしてください。そのようにしてもらいたいというのが先方の強い要望です。昼日中には訪ねてきてもらいたくないということです。ずいぶん用心深い人たちのようです。まあそれだからこそ、長い年月にわたって警察に目をつけられることもなく、法にかなっていない商売を続けていられるわけなのでしょうが。それから品物を受け取っても、支払いをする必要はありません。それは前もって済ませてありますから」
ずいぶん手回しが良いと夏帆は思った。しかしそのような費用はいったいどこから出ているのだろう? 中身はシロアリだから原価はおそらく安いものだろうが、司直の目を逃れて禁制品を運び込むわけだし、そのリスクを考えればそれなりの値段がつけられているはずだ。ありくいの夫婦にはそれを支払えるだけの資力があるのだろうか?
「それで私は、そのお店にいつ品物を受け取りにいけばいいのでしょう?」と夏帆は尋ねた。
「品物は既にその店に届いています。夏帆さんのご都合のよろしいときに、いつでも取りにいけます」
「でもできれば早いほうがいいのね?」
ありくいの奥さんは小さく微笑んで肯いた(彼女が微笑むのを夏帆が目にしたのはそれが初めてだった)。「はい、正直に申しまして、そのとおりなのです。夫はシロアリの瓶詰めの到着を今か今かと待ち望んでいます」
二日後、月曜日の夕暮れどきに、夏帆はバスに乗って武蔵境の駅まで行き、そこから少し歩いて、ありくいの奥さんに教えられたその古い商店街を訪れた。肩にはキャンバス地の大型バッグをさげていた。画材を入れるために学生時代からずっと使っている袋だ。シロアリの瓶詰めがどれくらいの大きさ、重さのものか、ありくいの奥さんに尋ねるのを忘れていた。それほど大きなものではないだろうと予測はできたが、いちおう用心して大きめの丈夫な袋を用意した。
商店街のおおよそ三分の一ほどの店は既に廃業し、灰色のシャッターが無表情に下ろされていた。そして生き残っている店もさして繁盛しているようには見えなかった。ただその中では乾物屋と漬物屋が品揃えが悪くなさそうだったので、そこでちょっと買い物をしたかったが、買った食品をシロアリの瓶詰めと同じバッグに入れて持ち帰ることを考えると、あきらめざるをえなかった。
教えられた店は確かに商店街の真ん中あたりにあった。間口が狭く、ほとんど見逃してしまいそうな目立たない店構えだが、ありくいの奥さんが言っていたように、「とぎや」と彫られた木製の看板だけは、店構えに比べて不釣り合いなほど大きく、堂々としていた。看板のほかには「包丁・ナイフ・はさみ・その他各種刃物、研ぎます」と書かれたボール紙が入り口に言い訳程度に貼り出してあるだけだ。どう見ても商売熱心な店とはいえない。
店の中は薄暗く、人気はなかった。夏帆は一度深呼吸をしてから、立て付けの良くないガラス戸をがらがらと横に引いて開けた。店の中に入ると微かな耳鳴りがした。たぶん静かすぎるせいだろう。あるいは天井の古風な蛍光灯が、切れ目のない細かいノイズを放っているのかもしれない。入った正面に小さなショーケースが置かれ、その中には様々なサイズの包丁が並んでいた。お客が持ち込んだ刃物を研磨すると同時に、商品を販売しているのだろうが、どの品物も遠い昔からむなしく売れ残っているもののように見えた。研磨のための作業台みたいなものは見当たらない。おそらくそのような作業は店頭ではなく、店の奥の人目につかないところで行われているのだろう。
「ごめん下さい」と夏帆は奥に向かって遠慮がちに声をかけてみた。
返事はない。誰も姿を現さない。
「ごめん下さい」と夏帆は声を大きくして言った。
しかしやはり反応はない。
夏帆はどうしたものかとあたりを見回し、ショーケースの端の方に振って鳴らすベルが置かれているのに気づいた。大人数の家庭や、あるいは寄宿舎なんかで、食事の用意ができたことを全員に知らせるときに使われたような旧式のベルだ。夏帆はそれを手に取って眺めた。持ち手にも金属部分にも長く使い込まれてきた形跡があった。彼女はそれをためしに宙で小さく振ってみた。すると不躾なほど大きな音があたりに響き渡った。
しばらく沈黙の間があり、それから奥の方からごそごそという、何かが目覚めて動き始めるような物音が聞こえてきた。そしてベニヤ張りの粗末な仕切りのドアが音を立てて狭く開き、男が一人身をよじるようにして姿を見せた。長身の痩せた男だった。年齢はたぶん七十を過ぎているだろう。頭はほとんど禿げ上がり、僅かに残った髪は灰色の埃をかぶった雑草のように見えた。耳は尖って大きく、鼻孔がぐいと広く膨らんでいる。まるで深い地中から這い出てきて大量の新鮮な空気を求めている動物のように。
その特異な容貌は夏帆を怯えさせた。男の姿は子供の時に見た怖い夢を思い出させた。できることならすぐさまその店から飛び出してしまいたかった。そして急いで家に帰り、玄関の扉の鍵をしっかり閉めてしまいたかった。しかしありくいの奥さんと交わした約束は守らなくてはならない。シロアリの瓶詰めを持って帰ると私は請け合ったのだ。そしてありくいのご主人も、その品物が届くのを待ち焦がれているのだ。ここで震え上がって逃げ出すわけにはいかない。
店主らしき老人は白いタオルを手にしており、それで額の汗を拭った。暑い日でもないのに、汗が顔全体に浮かんでいた。店の奥で体力を使う何かの作業をしていたのかもしれない。
「ああ、なにか刃物をお持ちになったのですか? 研ぐべきものを?」、老人はタオルで顔の汗を一通り拭き終えると、夏帆にそう尋ねた。年齢に似合わず、輪郭のくっきりとした深い声だった。
そこで初めて夏帆は、自分が包丁もナイフも鋏も持参してこなかったことに思い当たった。ありくいの奥さんに何か刃物を持っていくように指示されたというのに、ほかのあれこれに気を取られて、そのことをすっかり忘れていた。なんて不注意で気が利かないんだろうと、夏帆は自分を呪った。
「いいえ、なにも持っていません」
男は表情を寸分も変えることなく、じっとまっすぐ夏帆の顔を見つめた。そして言った。「何もお持ちではない。それでは、お嬢さん、本日はどのようなご用でこちらにいらしたのでしょう?」
お嬢さんと呼ばれて、夏帆は思わず顔を赤くした。誰かにそんな言葉をかけられたことは絶えてなかったから。
「シロアリです」と夏帆は声を一段落として言った。「シロアリをいただきにあがったのです」
「シロアリ?」と男は言って首を傾げた。太い二本の眉がぐいと強く真ん中に寄せられた。「はて、いったい何のことでしょう? 何かお間違えではありませんか? ごらんのとおりうちは刃物を研ぐことを専門にしておりまして、虫のようなものは扱っておりませんが」
夏帆の顔はますます赤くなった。頬が焼けそうに感じられた。どう説明すればいいのだろう? まさか自宅の床下に住「んでいるありくいに頼まれてここに来たとは言えない。
「ブラジルから輸入したシロアリの・・・・・・つまり瓶詰めをここで扱っておられるとあるところで耳にしたものですから・・・・・・それで」と夏帆はつっかえながらなんとか事情を説明しようと試みた。
「あるところ?」と耳の尖った老人は言った。
夏帆は黙って肯いた。
「あなたのお名前は?」と男が尋ねた。
「夏帆といいます」
「カホさん?」
「そうです。夏の船の帆と書きます」
男はタオルでもう一度顔を拭った。寄せられていた眉はいつの間にか元の位置に戻っていた。「ああ、あなたがカホさんであれば、たしかに預かりものはございます。しかしその中身はシロアリではありません。ブラジリアン・ナッツです」
「ブラジリアン・ナッツ?」と夏帆は言った。
「ブラジリアン・ナッツは栄養価が高く、美容にも効果があり、日本でも人気がある木の実です。南米でしかとれないもので、なかなか貴重なのです」
おそらくブラジリアン・ナッツと偽装してシロアリをひそかに運び込んでいるのだろう。「それでは、そのブラジリアン・ナッツをいただいて参ります」と夏帆は言った。
「シロアリではありませんが」と店主は言った。「それでもよろしいですか?」
「それでけっこうです」
店主は唇をまっすぐ固く結んで、またしばらく夏帆の顔を見ていた。彼女の顔だちの細部までを記憶に刻み込もうとするかのように。そして言った。
「いいですか、シロアリという言葉は二度と口にしてはなりません。この場所には相応しくない不適切な言葉です。そしてもし再びここにおいでになることがあれば、そのときには包丁かナイフを必ず持参していただきたい。それがここのルールです。おわかりになりましたか?」。出来の悪い生徒を諭す教師のような声音だった。
「わかりました」と夏帆は身を縮めるようにして言った。「これからは気をつけます。申し訳ありません」
店主は彼女の謝罪を鷹揚に受け入れたように見えた。それから何も言わずにくるりと後ろを向き、ベニヤ張りのドアを開けて店の奥に入っていった。夏帆があとに一人で取り残された。脇の下に汗が滲んでいる感触があった。落ち着かなくてはと彼女は思い、何度か深呼吸をしてみた(あまり役には立たなかったけれど)。ショーケースの中に並んだ刃物たちが、店主の代わりに彼女を油断なく見張っているようだった。この血の巡りの悪い娘は、ちょっと目を離したらまたなにか間違ったことをしでかすのではないかと。
十分ばかりが経過した。そのあいだ店の奥からはどのような音も聞こえてこなかった。神経を集中して耳を澄ませていると、深い沈黙の中でまたつううううんという微かな耳鳴りが戻ってきた。夏帆にはその耳鳴りが不吉な兆候として感じられた。たちの悪い病菌を持って窓の隙間から忍び入ってくる虫の羽音のようだ。
店頭に戻ってきたとき、店主は段ボール箱をふたつ抱え持っていた。ひとつの大きさは縦横二十センチ、高さが三十センチほどだ。彼はそれをショーケースの上にそっと並べて置いた。段ボール箱には商品名や注意書きらしきものが印刷されていたが、その文字はどうやらヘブライ語のようだった。もちろん何が書かれているのか夏帆には理解できない。しかしその中身がシロアリであれ木の実であれ、ブラジルから運ばれてきたはずの荷物に、なぜヘブライ語の表記がなされているのだろう?
「さあ、これをお持ちなさい」
「それで、あの、サインとかお支払いとかは?」と夏帆は念のために尋ねた。
店主はなにも言わずに目を細め、首を小さく振った。そんなものは不要だ。品物は引き渡したのだから、それを持ってさっさと帰ってくれ、一刻も早く私の目の前から消えてしまってくれ――そう言いたげな目つきだった。
店主は最後に言った。「少々重いものですが、くれぐれも落としたりしないように。そしてたとえなにがあろうと、どんな状況に置かれようと、絶対に箱を開けないように。テープの封を切ったり剣がしたりしてはなりません。絶対にです。よろしいですね?」
「わかりました」と夏帆は言った。
夏帆は持参したキャンバスのバッグにそのふたつの箱を詰めた。手に持ってみると、店主が言うように箱は見た目よりも重かった。どことなく謎めいた奇妙な重さだ。これまで経験したことのないような種類の重さだ。いずれにせよ、大きめの入れ物を持ってきて正解だった。まるで前もって計ったかのように、ふたつの箱はバッグの中に隙間なくぴたりと収まった。彼女はバッグを肩にかけ、立て付けの悪いガラス戸を開けて「とぎや」の外に出た。後ろは一度も振り返らなかったが、店主が彼女の後ろ姿をじっと見つめている気配があった。背中にひりひりした鋭い視線を感じた。脇の下にかいた汗が今ではじっとりと冷えていた。
尖った耳と太い眉を持ったあの不思議な見かけの男は、実はなにもかもちゃんと承知しているのだと、夏帆は駅前でバスを待ちながら思った。シロアリのことも、ありくいの夫婦のことも、そしておそらくは私のことも。
家に帰って重いバッグを肩から下ろし、さてこの箱をどのようにしてありくいの奥さんに渡したものかと、夏帆は思案した。ありくいの奥さんは私に会いたいときに夢の中に(あるいは夢に近いなにかしらの中に)姿を現すけれど、私の方から彼女に会いに行くことはできない。往き来はあくまで一方通行だ。だとしたら私としては、ありくいの奥さんが私の前に姿を見せるのを待つしかあるまい。ご主人が荷物の到着を待ちわびているということだから、彼女が現れるまでにそう長く時間はかからないはずだ。一刻も早くそれを手に入れて、夫に食べさせたいだろうから。たぶん明日の朝にでも。
しかしその段ボール箱を家の中に一晩留めおくことに、夏帆は不安を感じずにはいられなかった。たとえば夜中に段ボールの箱が開かれ、中からむくむくと太ったシロアリが次々に這い出てくる・・・・・・そんなおぞましい光景が彼女の脳裏をよぎった。なにはともあれ、中に何が入っているのかわからない、得体の知れない荷物と同じ屋根の下で眠ることはできない。なんとか外に出してしまわなくては。でも、どこに?ひとしきり考えてから、彼女はそのふたつの箱を注意深く抱え持ち、縁側に持って行った。そしてそこに並べて置いた。思いつく限り、それがいちばん適当な場所だった。縁側は家の外にあるが、頭上には屋根が張り出していたし、夜の空は晴れ渡って星がきれいに見えるほどだった。夜中に雨が降って箱が濡れるようなこともあるまい。そしてありくいたちはおそらく夜のうちにこれらの箱を見つけるはずだ。夜は彼らが床下から這い出して人知れず活動する時刻だから。
夏帆はいつにも増して厳重に家の戸締まりをした。いくら厳重に鍵をかけても、シロアリたちは――もし箱の中身が生きたシロアリだとしたら――どこかの隙間から家内に侵入してくることだろう。なにぶん大昔に建てられた木造家屋だし、いくら戸締まりをしたところで、そこらじゅう隙間だらけなのだ。しかしそれでもふたつの箱を屋外に出してしまったことで、夏帆は少しは安らかな気持ちになれた。
時刻は八時をまわったばかりだった。眠るにはまだ早すぎる。夏帆は仕事机に向かって画帳を広げ、そこに柔らかい鉛筆で「とぎや」の店主の顔を描いてみた。できるだけ記憶が鮮明なうちに、絵にしておかなくてはならない。なにか心に強く残る出来事や情景があれば、とりあえずすぐに絵にしておくこと――それが彼女の子供の頃からの習慣だった。日記を書くかわりにスケッチをする。
おおむね禿げあがった細長い頭。コウモリのようなかたちの、先がぴんと尖った耳。耳たぶはほとんどないみたいに見える。額は広く、何本かの深い皺がそこに刻まれている。眉は太った毛虫みたいに黒く太い。ほとんど表情を浮かべないが、その眉毛だけはこまめに動き、微妙にその位置を移動させた。両目は細く、眼球はその奥の方に用心深く仕舞い込まれている。外からは容易にうかがえない。そして横にべったりと大きく広がった鼻孔。口は小さく、唇はまるで女性のように薄く繊細だ。夏帆は自分が描いた男の顔をあらためてじっくり眺めた。どう見ても不可思議な顔だ、と彼女は思う。余った部品を集めてこしらえられた顔のようにも見える。とにかくバランスがとれていないのだが、その顔が総体として発する意思は一貫して固有のもので、そこには揺らぎがない。
夏帆はむずかしい顔をしてその絵をしばらく眺め、出来を細かく点検した。自分で言うのもなんだが、ずいぶんよく描けている。あの男の顔そのままだ。彼女は子供の頃から人の顔の特徴を素早く的確に捉えるのが得意だった。学生時代には人物画でいつも良い点をもらったものだった。たぶん似顔絵画家になってもじゅうぶん生活していけたことだろう。しかしその男のポートレイトは出来が良い分だけ――実物にそっくりな分だけ――彼女を落ち着かない不穏な気持ちにさせた。
この絵を、今描いているありくいの絵本に使うことはできるだろうか? その物語に組み込むことは可能だろうか?うまくいけば話の面白いアクセントになるかもしれない。いや、どうだろう。この男の特異な相貌は、小さな子供たちを怯えさせるかもしれない。その顔を夢に見る子供も出てくるかもしれない。
夏帆は画帳を閉じ、洗面所に行って鉛筆で汚れた手を石鹸で洗った。そして冷蔵庫から飲みかけの白ワインの瓶を出して、グラスに注いだ。夕食はまだとっていないが、食欲は感じなかった。お腹がすいていなくはないのだが、食べたいものがひとつとして思い浮かばなかった。あえて言えばアイスクリームが食べたかったが、冷凍庫には製氷皿と保冷剤しか入っていなかった。
翌日の朝、夏帆が縁側に出てみると、そこに置いておいたふたつの箱は姿を消していた。ありくいたちは夜のうちにちゃんと荷物を見つけて持っていったようだった。夏帆は安堵の息をついた。やれやれ、これであのわけのわからない箱とはいちおう縁が切れた。その中身はシロアリの瓶詰めだったのだろうか、それとも「とぎや」の店主が言ったようにブラジリアン・ナッツだったのだろうか? どちらにせよ彼女はありくいの奥さんに頼まれたことを指示されたとおりに実行しただけだ(刃物を持っていくことは忘れてしまったが)。責任は果たした。あのふたつの箱の中になにが入っていようがそれは彼女の問題ではない。もちろんありくいたちが箱の中身をあらため、その結果に満足していれば、それに越したことはないのだが。
その答えはほどなく判明した。
ありくいの奥さんが現れたのはその日の昼前だった。彼女は縁側に腰を下ろしていた。それはどう見ても夢ではなく、また幻影でも白日夢でもなかった。その光景は紛れもない現実の一部だった。夏帆が洗濯ものを庭に干し終えて振り返ったとき、日の当たる縁側にありくいの奥さんは座っていた。
「今日はほんとうに素敵な洗濯日和ですわね」とありくいの奥さんは言った。
夏帆は驚いてうまく声が出なかった。彼女は洗濯ものを入れてきたかごを抱えたまま、ただこっくりと肯いた。昼日中にこうして現実の世界に出てきて、誰かに姿を見られたらどうするのだろう? あのおうちにはありくいがいると、すぐに近所の噂になってしまうだろう。
ありくいの奥さんはそんなことは気にもしていないのか、初夏の日の光をたっぷり全身に浴びて、いかにも気持ちが良さそうだった。ずっと床下で暮らしていると、ときどきはこうして太陽の光を浴びたくなるのだろう。
「品物は昨夜のうちにありがたく受け取りました」、ありくいの奥さんは大きな爪で体毛を梳きながらそう言った。「夫もたいへん喜んでおりました。すべて夏帆さんのおかげです。勝手なお願いをして、お手間を取らせました。手続きに何か不都合なことはありませんでしたか?」
夏帆は言った。「不都合というようなものはありませんが、ただ箱の中身はシロアリではなく、ブラジリアン・ナッツだとお店の人に言われました。中身がご希望どおりのものだと良かったのだけど」
「ご心配なく」とありくいの奥さんは言った。「箱の中身はわたくしたちが希望したとおりのものでした」
「よかった」と夏帆は言った。
「やはりブラジルのシロアリは味が違うと夫が申しておりました。たとえもう生きていない、オイル漬けのシロアリであっても、口にすると生き返ったような気がすると。実を申しますと、夫はここのところあまり体調が優れなかったのです。体重を落とし、艶やかだった毛も色褪せ、多く抜け落ちてしまいました。それを恥じて床下からなかなか出ようとしません。でもシロアリのオイル漬けのおかげでずいぶん元気を取り戻せました」
「それはよかった。なによりです」と夏帆は言った。本当になによりだ。床下でありくいに死なれでもしたら、その始末はたいへんだろうから。
ありくいの奥さんは少し間を置いてから言った。「それから主人の申すところでは、例のあのモーターサイクルの音はまったく聞こえないということです。ですからその点についてはご安心ください。今のところ、この武蔵境の地で夏帆さんの平穏は無事に保たれています」
夏帆はしばらくのあいだ黙って考え込んだ。ありくいの奥さんに尋ねたいことは山ほどあった。彼らはなぜ夏帆を選んで接近してきたのか?シロアリの密輸ルートが存在することを彼らはどのようにして知ったのか?誰がその輸入の費用・代金を支払ったのか――彼らが自分で支払ったのか、それとも誰かが彼らの代わりに支払ったのか?しかしそんな質問をしたところで、おそらく具体的な答えは返ってこないだろう。それでもひとつだけ、どうしても知っておかねばならないことがあった。夏帆は尋ねた。
「これから先もこの取引は続くのでしょうか? つまり私がまたあそこに、〈ブラジリアン・ナッツ〉を引き取りにいくことになるのでしょうか?」
ありくいの奥さんは悲しげに首を振った。「ああ、それはわたしにも予測のつかないことです。シロアリの輸入はとても微妙な調整を必要とする作業で、いつでもできることではないのです。この次に日本に荷が入ってくるのがいつになるか、正直なところそれは誰にもわかりません」
「しかしもしそれがまた入ってくることになったら、私がやはりあそこにそれを引き取りにいくことになるのですか?」
ありくいの奥さんはこっくりと肯いた。「申し上げにくいのですが、そういうことになるのではと思います。というのは、夏帆さん以外にわたくしどもを頼れる相手は一人もいないからです。どうかそこのところをご理解ください」
「あなた方のお役に立ちたいとは思いますが、私としては法律に逆らうような真似はしたくないのです。もし警察沙汰になったら、そして裁判にでもかけられることになったら、私の人生は大変むずかしい局面を迎えることになります」
「はい、そのことはまことに申し訳なく思っています」とありくいの奥さんは言った。「いやだ、そんな危ないことはもうやりたくないと言われても、わたくしどもには返す言葉もありません。ただもし夏帆さんにわたくしどもを助けてくださる気持ちがおありなら、わたくしどもはどのような犠牲を払っても、全力をつくして夏帆さんの身を守る覚悟でおります」
「私の身を守る? それはつまり、あのモーターサイクルの男から私を守る、ということかしら?」
「それもあります」とありくいの奥さんは言って、そっと目を伏せた。「それが夏帆さんにとって目下のいちばんの脅威になっているようです。しかしそれだけではありません。お気の毒ですが、あなたの身にはこれからもいくつか大小の危険が訪れることでしょう。わたくしどもの目にはそれが見えるのです。彼方の地平線に黒い不吉な雲が湧き上がるのを人が見るようにです。そしてわたくしたちありくいは、ありくいの力をもってそれをなんとか阻止することができます。黒雲を阻み、よそに追いやることができます」
ありくいの力、と夏帆は思った。どんなものかはわからないが、その言葉にはなぜか不思議な説得力があった。そこには魔術的な何かが含まれているのかもしれない。ブラジルのジャングルに伝わるありくいの魔術・・・・・・。
「これからしばらくのあいだ、わたしが夏帆さんの前に姿を見せることはないだろうと思います」とありくいの奥さんはあらたまった口調で言った。「大事なお仕事もおありのようですし、みだりにお邪魔はしないようにいたします。わたしがこの次に姿を見せるのは、たとえば夏帆さんにあらたな危機が迫ったことをお知らせするときか、それともまたあの〈ブラジリアン・ナッツ〉が『とぎや』に入荷したときになるでしょう。どうなさるか、それまでに心を決めておいてください。姿は見せませんし音も立てませんが、わたくしどもは常にこの家の床下におります」
それだけ言うとありくいの奥さんは口をつぐみ、一瞬のうちにするりと姿を消した。まるで空間の継ぎ目に吸い込まれていくみたいに。あとの世界には、洗濯もののかごを抱えた夏帆が一人で残された。
それから――本人が予告したとおり――確かに長いあいだ、ありくいの奥さんは姿を見せなかった。夏帆は雑誌社や出版社から依頼されたイラストレーションの仕事をこなし、その合間にありくいの絵本を描き続けた。大きなジャガーに子供たちを喰い殺された気の毒なありくいの夫婦。彼らは失意のうちにブラジルのジャングルをあとにして、貨物船で日本に密航する。生まれ育ったジャングルを離れるのは、また好物のシロアリを失うのはつらいけれど、愛する子供たちを失った哀しみは耐えがたいものだ。そしてその邪悪なジャガーは子供を殺しただけでは飽き足らず、今度はありくいの夫婦を狙っている。夫婦はブラジリアン・ナッツを詰めたコンテナの陰に隠れて横浜港に入港する。そして武蔵境の一軒家の床下に住み始める。なぜ武蔵境か?夫が地図を指さし、「我々はここに住む」ときっぱり宣言したからだ。ありくいの夫は運命を読むとくべつな才能を持っていた。ありくいという生き物にはだいたいみんなその種の才能が備わっているのだが、夫は生まれつき人並み外れて強い才能を持ち合わせていた。
夏帆はそこまでの物語を書き上げ、それに見合った絵をつけた。なかなか悪くない出来だ。外交的でキュートなありくいの奥さん、無口で内省的なその夫。奥さんは小柄で細身、夫は大柄でたくましい。その設定もうまくできていた――仲睦まじいありくいの夫婦。そして悪者としての凶暴なジャガー。しかしそこから話をどのように進めていけばいいのか、うまいアイデアが浮かばなかった。シロアリのオイル漬けを密輸する話は盛り込むべきか? あの「とぎや」の不気味な店主は登場させるべきか? 悩むところだ。話としては面白くなりそうだが、夏帆が書いているのは両親が小さな子供たちに読んでやるようなお話だ。ネガティブな話題はできるだけ避けたい。「ねえ、おかあさん、ミツユってどういう意味?」みたいな質問を導く話はどんなに面白くても、両親にもまた出版社にもまず歓迎されない。
まあいい、べつに急いで仕上げなくてはならない仕事ではないのだ。出版社から依頼を受けて書いているわけでもない。気の向くまま、自分の書きたい話を自分に合ったペースで書ているだけだ。無理に書き進める必要はない。
ありくいの奥さんが姿を見せたのは、最後に会ってから三ヶ月ほどあとのことだった。とんでもない夏の暑さが引いて、吹く風に微かな秋の匂いが感じられるようになっていた。ありくいの奥さんは前と同じように、夏帆の前にきちんと正座して座っていた。場所も同じ広い座敷だ。ただ明かりは前のときよりも暗く落とされていた。そしてありくいの奥さんの顔にもうっすら陰りのようなものがうかがえた。毛艶も前ほど良くない。
「長いことご無沙汰しておりました」とありくいの奥さんは頭を下げて言った。
「お元気でしたか?」と夏帆は尋ねた。
「はい、私はこうしておおむね元気に暮らしておりますが、主人の体調がなかなか上向きません。シロアリをいただいたときはいくぶん活力の回復が見受けられたのですが、それを食べ尽くした頃からまた寝込むようになりました。少し外に出て身体を動かしたらと言うのですが、外の世界に出ることを怖がってなかなか腰を上げようとしません。そのようなわけで、わたしとしましては夫の身の上が心配でならないのです。もしなにかあって、この見知らぬ土地にわたし一人が残されるようなことになったら・・・・・・」
「それは、やはり専門のお医者さんに診てもらった方がいいんじゃないかしら?」
ありくいの奥さんはそれを聞いて強く首を振った。「いえいえ、それはできません。このあたりにありくいの身体のことを理解してくれるようなお医者は一人もいないはずです。わけのわからない医者に見せたら、きっと取り返しのつかないことになってしまいます。なにしろわたくしどもの身体は、あちこち普通ではない働き方をしておりますから。いちばん効果があるのは、ブラジルのジャングルの奥に生えているいくつかのとくべつな薬草を集め、それを歯でよく噛みほぐしてから、ぐつぐつと煎じて濃厚な薬草茶をつくり、朝晩飲ませることなのですが、残念ながらそのような薬草はこの日本では手に入りません」
「だとしたら、どうすればいいのかしら?」
「やはりあとはシロアリを手に入れるしかないと思います。夫はシロアリを口にすれば、かなり元気を取り戻すことができると思うのです。シロアリの瓶詰めが――彼らの言う〈ブラジリアン・ナッツ〉の詰め合わせが――手に入ったという知らせが先日『とぎや』さんからありました。もしお嫌でなければ・・・・・・」
「私にその瓶詰めをまた取りにいってもらいたい、ということなのかしら?あの『とぎや』さんまで」
ありくいの奥さんは大きく肯いた。前髪が垂れて目にかかるくらい深々と。「はい、やはり夏帆さんにおたよりするしかわたくしどもには方策がありません」
夏帆は溜息をついて、しばらく考え込んだ。ありくいの奥さんはそのあいだずっと顔を伏せて畳の縁を見つめていた。
「わかりました」と夏帆は心を決めて言った。「気は進みませんが、それ以外にご主人の体調を戻す手立てがないのであれば、仕方ありません」
ありくいの奥さんは畳に額がつくほど深く頭を下げた。「わたくしども夫婦にとって、夏帆さんは命の恩人です。いつか必ず恩返しはいたしますので」
「恩返しのことはともかく、こうしてずるずると法律に反する行いを続けるのは、私にとってもあなた方ご夫婦にとっても良くないことだと思います。危険が大きすぎます。できればこれを最後にして下さいね」
「ほんとうにおっしゃるとおりです。なにか別の方法を考えなくてはなりません。もっと安全な方法を。それにあの『とぎや』の店主とも、これ以上関わりを持たない方がいいような気がするのです」
夏帆はありくいの奥さんの顔をまっすぐ見つめた。そして言った。「あなた方は、どのようにしてあの店の存在を知ったのですか?」
「ありくいの世界には、ありくいの情報網のようなものがあります」とありくいの奥さんは声をひそめて言った。「世界中のありくいたちが情報を交換しあっているのです」
「インターネットみたいに?」
「そう言えなくもありませんが、わたくしどもの世界にはインターネットなんかが登場する遥か以前から、そういうネットワークが存在していました。そのネットワークを通して『とぎや』の存在を教えられたのです」
「あなた方は『とぎや』の店主に会ったことはありますか?」
ありくいの奥さんは首を振った。「いいえ、わたくしどもは『とぎや』の店主に実際に会ったことはありません。しかしどう言えばいいのでしょう、実際に会ってはいなくても、その人物には良くないヴァイブレーションが感じられるのです。少なくとも夫はそのように申しております。その男にはじゅうぶん気をつけなくてはならないと」
良くないヴァイブレーション、と夏帆は思った。それは夏帆自身もじゅうぶん感じ取っていたことだった。しかし、それはそうと、このありくいの夫婦はビーチ・ボーイズの『グッド・ヴァイブレーションズ』を聴いたことがあるのかしら? ビーチ・ボーイズとありくいの取り合わせは、視覚的にかなりユニークだ。絵にしてみたら面白いかもしれない。しかし今の小さな子供たちは、おそらくビーチ・ボーイズなんて、名前も音楽も耳にしたことがないだろう。「ねえ、おかあさん、びーちぼーいずってなに?」という質問を子供がする光景を夏帆は思い浮かべた。まあいい、ビーチ・ボーイズのことはとりあえず忘れよう。
ありくいの奥さんは目を細めて言った。「急な話ではありますが、明日の夜に〈ブラジリアン・ナッツ〉を引き取りにいっていただくことは可能でしょうか? 明日の夜、なにかご予定はおありですか?」
予定表を開いてみるまでもない。明日の夜もあさっての夜もしあさっての夜も、夏帆には予定はなにひとつない。
「明日の夜はあいています」と夏帆は言った。その声は思いのほかかすれていて、自分の声のようには聞こえなかった。きっと誰か別の人間が私の代わりに、私の唇の動きにあわせてしゃべっているのだ。
「それではどうか、どうか、よろしくお願いいたします」とありくいの奥さんは神妙な声で言った。「それから差しでがましいようですが、夏帆さんは包丁やナイフの類いをじゅうぶんにはお持ちではないようなので、わたしの方で適当な刃物類を用意させていただきます。それをお持ちになって、お店で研いでもらってください。先方はそれを望んでいます」「わかりました」と夏帆は言った。たしかに夏帆がこの家の台所で使っている包丁や小型の調理用ナイフは量販店で買った安物で、わざわざ研磨専門店で研いでもらうような品質のものではない。
ありくいの奥さんは一息ついて、それから念を押すように言った。「それでは明日の夜、この前と同じ段取りでお願いいたします。よろしいでしょうか?」
夏帆は黙って肯いた。
ありくいの奥さんは言った。「たびたび無理なお願いをして恐縮なのですが、主人も楽しみにしておりますもので、なにぶんよろしく」
そしてありくいの奥さんは消えた。一瞬の空白がそのあとに訪れ、夏帆は引きずり込まれるように深い虚無の眠りに落ちた。
秋のはじめらしい、静かな雨の降るひっそりとした夕暮れだった。夏帆は薄いレインコートを着て野球帽をかぶり、ビニールの雨傘をさして近くのバス停まで歩いた。前と同じキャンバスのトートバッグを肩にかけて。バスには近所の女子校の生徒のグループが乗っていて、賑やかにしゃべり笑い合っていた。紺のブレザーコートに、グレーの短いスカート、白いソックス、鞄からさがっている色とりどりのフィギュア。彼女たちは見るからに楽しそうだった。私にもあんな時代があったのだろうか、と夏帆はふと思った。あったような気もするし、なかったような気もする。
夏帆は基本的に、学校というものが好きになれなかった。毎朝起きて服を着替え、鞄を持って学校に行くのがいやでたまらなかった。美術の時間だけはいくぶんリラックスすることができたが、あとの授業は苦痛だった。体育の時間はまさに地獄だった。でもクラスメートや両親や教師の手前、学校での生活をある程度楽しんでいるように振る舞わなくては、と自覚していた。それが自分に課せられた責務なのだと。どうしてそんな風に思ったのか、自分でもよくわからない。あるいは私は義務感が強すぎるのかもしれない。そして義務として何かを楽しんでいるふりをするのは、決して容易いことではないし、もちろん楽しめることでもなかった。
生まれつき他人との距離の取り方が下手なのだろう。夏帆はそう思う。私が表面的に楽しげにふるまっていれば、周りの人たちはそれを見て満足し、私を普通の人間として抵抗なく受け入れてくれる。そうして自分のポジションが定まったら、あとは破綻がないようその所定の位置を維持していけばいい。その結果、彼女は毎年皆勤賞をもらい、比較的良好な学業成績を保ち、ほどほどの数の友だちをつくることになった。しかしそれでも学校が嫌でたまらないことに変わりはない。そして心を許せるような深い友だちは一人も見つからなかった。
そう考えると、私とありくいたちは意外にまっとうな、実のある関係を保っていると言えるかもしれない。私とありくいの夫婦とを隔てる距離は物理的には無いに等しいものだが(彼らはなにしろ床をはさんですぐ下に住んでいるのだから)、私たちのあいだには日常的交際はない。必要に応じて時折ありくいの奥さんが夢の中に(あるいは現実の隙間のような空間に)姿を見せるくらいだ。ご主人にいたっては姿を目にしたこともない。それなのに私は彼らのために法に反した行為(密輸品のトラフィック)を続けているし、彼らは全力をつくして私の身の安全を守ろうとしている(少なくとも彼らはそう主張する)。考えてみればずいぶん奇妙な関係ではあるが、そこには間違いなく相互的な信頼感が働いている。
バスが終点に着くと、女学生たちは全員そこで降り、それに続いて夏帆もバスを降りた。雨は静かに降り続き、あたりはもう暗くなりつつある。できることならこのまま家に帰ってしまいたいと彼女は思った。でもやりかけたことはやりとげなくてはならない。それが今私に課せられた責務なのだ。夏帆は溜息をついて、「とぎや」のある商店街に向かってゆっくり歩き始めた。
武蔵境なんてまさに文明の果つるところだ、と新小岩の叔父さんは言った。駅の改札で、狸が帽子をかぶって偉そうに 切符切りをやっているくらいだものな、と。うん、たしかに そのとおりかもしれないよ、叔父さん、と夏帆は思う。なにしろありくいがシロアリの密輸品を買っているくらいだものね。
夏帆は「とぎや」の店主にまず持参した包丁を見せた。
その朝目が覚めると、白いタオルにくるまれたその二本の包丁が枕元に置かれていた。ありくいの奥さんが用意してくれたものだ。一本は菜切り包丁でもう一本は出刃包丁、どちらも長いあいだしっかり使い込まれたものらしく、木製の取っ手は部分的にうす黒くなっている。手入れはあまりされておらず、刃先が鈍くなっていることがわかる。ありくいの奥さんはいったいどこでこんなものを見つけてきたのだろう?近所の家の台所からくすねてきたものでなければいいのだが、と夏帆は思った。この上窃盗罪まで加算されたら目も当てられない。
耳の尖った長身の店主はタオルをほどいて包丁をひとつずつ手に取り、蛍光灯の明かりの下で専門家らしくあちこちの角度から点検した。刃先に指先をそっと這わせた。そして熟練の教師が生徒の答案にまずまずの合格点を与えるときのように短く一度肯き、抑揚を欠いた平板な声で言った。「手入れはだいぶ怠っているが、まっとうに作られた昔の品物なので、きちんと研いであげればまたよく切れるようになる。そう、驚くほどに」
「お願いします」と夏帆は言った。
「奥に行って研いでくるから、ここでお待ちになって。それほど長い時間はかからないと思うから」
店主はそう言って安っぽいベニヤ張りのドアを開け、タオルにくるんだ二本の包丁を手に店の奥に姿を消した。夏帆は前回と同じように店頭に一人で残された。店の中はひどく静かだったから、また軽い耳鳴りが戻ってきた。夏帆は腰を下ろしたかったが、椅子は見当たらなかった。ショーケースの奥に簡単なスツールがひとつ置かれていたが、それはきっと店主が腰掛けるためのものなのだろう。夏帆は立ったまま壁にもたれ、両腕を組んだ。どこかの隙間から冷ややかな雨の匂いが店内に忍び込んできた。
壁に掛かった大きな丸い時計もまったくの無音だった。黒い秒針が音もなくするすると、すべるように文字盤の上を回転していた。一周するのにちょうど六十秒かかる。当たり前の話だ。しかしそれが間違いなく正確に六十秒なのかどうか怪しいものだと夏帆は思った。時計に限らず、この店の中に置かれているすべての物が、巧妙に彼女を出し抜こうとしているみたいに感じられた。そしてショーケースの中に並べられた大小の刃物たちは、前回と同じように揺るぎなくじっと彼女の挙動を見守っていた。つまらない真似をするんじゃないぞ、と無言の警告を与えるように。夏帆は思わず身震いをした。くしゃみが出そうになったので、ポケットからティッシュペーパーを出して、静かに小さく鼻をかんだ。やはりもうこれで最後にしよう、と彼女はあらためて思う。こんな気味の悪いところにはもう二度と足を踏み入れたくない。良くないヴァイブレーションには近寄らない方がいい。たとえそれが床下のありくいの夫婦を助けるためであってもだ。私はやはり義務感が強すぎるのだろう。そのせいで、自分がほんとうに何を求めているのかが、ときとしてわからなくなってしまうのだ。
店主が奥に消えてから十分ほどが経過したが、まだドアは開かなかった。ドアの向こうからは何の音も聞こえなかった。それほど広い仕事場でもないだろうし、ドアだって薄いものだし、包丁を研ぐ作業をする音がすこしくらい聞こえてきてもよさそうなものなのに。
やがて店主は、タオルにくるんだ包丁を持って戻ってきた。そしてタオルをショーケースの上に広げ、そこに二本の包丁を並べて置いた。包丁は見違えるほど清潔に、そしてシャープになっていた。鈍く黒ずんでいた刃先は、歯磨き粉の広告みたいに真っ白に磨き上げられていた。何はともあれ専門家として、研磨の腕は確かなようだ。
「ずいぶんよく切れるようになった」と店主は無表情に、しかしそれなりのプライドを密かに込めて言った。「くれぐれも気をつけて使って下さいな。これまでどおりの感覚で扱っているとすぐに手を切ってしまう。よく切れる刃物は刃先が勝手に動くようなところがある」
「ありがとうございます」と夏帆は礼を言った。でも正直なところ、包丁なんてどうなろうが知ったことではない。だいたいそれは自分の持ち物ですらないのだ。
店主は長い十本の指をナナフシの脚みたいにもそもそと動かして、包丁をもとあったようにタオルで固くくるみ、それを夏帆の方に滑らせた。そして思い出したように言った。
「ああ、そうだ・・・・・・ブラジリアン・ナッツがご入用なのでしたね?」
「そうです」と夏帆は答えた。
店主は何かを確認するかのように、そこに立ったまま夏帆の顔を凝視した。夏帆は自分が試されている気がして、負けないようにその目をまっすぐ見返した。しかしそのうちに相手の眼窩の奥から、彼ではない別の誰かの一対の目がこちらをじっと見つめているような奇妙な感覚を覚えた。その別の誰かの目は奥の暗闇の中で鋭い光を放っているようだった。形容のしようのない不思議な色を帯びた光だ。緑色にいちばん近いが、夏帆が知っているどんな緑色とも違っている。どれだけ工夫していろんな絵の具を混ぜても、こんな色が生まれるわけはない。夏帆は背筋に寒気を覚え、腕時計を見るふりをして目をそらした。胸骨の中で心臓がこわんこわんと、彼女を急かすように耳慣れぬ音を立てていた。古い鐘を木槌で強く打っているような音だ。
良くないヴァイブレーション。
やがて店主はぎゅっと固く目を閉じ、それからゆっくり開けた。両目が開けられたとき、不気味な光はもうそこから消えていた。それは普通の目に戻っていた。
「用意はできています」と店主は言うと、またベニヤ張りのドアの奥に姿を消した。今度は時間がかからなかった。店主はほどなく前と同じ縦横二十センチ、高さ三十センチの段ボール箱を二つ抱えて店先に戻ってきた。箱には前と同じヘブライ語の文字のようなものがステンシル印刷されていた。
「なにぶん重いですから、落とさないように気をつけて下さいな」と店主は前回と同じ注意を夏帆に与えた。「それから、お嬢さん、くれぐれも箱は開けないように。どんなことがあっても封を切ってはなりませんよ。よろしいですか?」
そんなこと言われるまでもない。箱の中身なんて見たくもない。夏帆は二つの箱を注意深く持ち上げ、持参したキャンバス・バッグに収めた。前と同じく二つの箱は計ったように、バッグにすっぽりと収まった。そして彼女はその隣の隙間にタオルに包んだ二本の包丁を入れようとした。
「その包丁をしまっちゃなりません」とそのとき誰かが背後で言った。穏やかだが芯のとおった声だ。
夏帆は驚いて振り向き、そこにありくいの夫が二本脚で立っているのを目にした。ありくいの夫は夏帆が想像でスケッチしたとおりの風貌だった。大柄でどっしりとして、黒縁の眼鏡をかけ、クルミ材のパイプを口の端にくわえている。身長は二メートル近くあるだろう。夏帆の描いた絵からそっくりそのまま抜け出してきたみたいだ。でもどうしてそんなことが起こるのだろう?夏帆の頭は混乱した。どちらかがどちらかを模倣しているのだ。そうとしか考えられない。
「その包丁をしまっちゃなりません」とありくいの夫が繰り返した。
夏帆は言われたとおり、しまいかけた包丁の包みをショーケースの上に戻した。ありくいの夫の声には有無を言わせぬものがあった。夏帆は「とぎや」の店主の顔を見たが、その顔には何の変化も見受けられなかった。相変わらず石で作られたもののように無表情だ。ありくいが突然目の前に現れたというのに、その顔には驚きの色も、警戒の色もうかがえない。この男にはきっとありくいの姿は見えないのだろう、と夏帆は推測した。ありくいの姿は私にしか見えないし、その声は私にしか聞こえないのだ。
「ええ、そのとおりです」とありくいの夫が言った。「わたくしのこの姿はあなたにしか見えません。ですからわたくしに話しかけんでください。あなたの心に浮かんだことをわたくしが読み取ります。決して声に出しちゃなりませんぞ」
わかりました、と夏帆は口には出さず、ただ心に思った。「そのタオルをほどき、出刃包丁を手に持って」とありくいの夫は言った。
夏帆は反射的に言われたとおりに行動した。タオルを開き、中にあった出刃包丁を右手に持った。包丁は記憶していたよりもずっと重かった。刃を研がれたことによって、それは重みを増したみたいだ。でも、そんなことがあるのだろうか?白く尖った刃先が蛍光灯の明かりを受けて、ざらりと妖しく光った。「とぎや」の店主は夏帆のそんな動きを注意深く目で追っていたが、とくに何も言わなかった。その唇はまっすぐ一文字に結ばれたままだ。表情もまったく変化を見せない。
「その包丁で男を刺しなさい」とありくいの夫は夏帆の耳元で囁いた。「慈悲も偏見も予断もなく刺し殺すのです」
夏帆は振り向いてありくいの夫を見やった。自分が耳にした言葉がとても信じられなかった。どうしてこの私が、「とぎや」の店主を刺し殺さなくてはならないのだ? 殺人は言うまでもなく重罪になる。だいいち、この男を刺し殺さなく てはならない理由が私にはないのだ。そして慈悲も偏見も予断もなく、というのはどういう意味なのだ。
「お嬢さん」と店主は戸惑ったような声で言った。「その包丁に何か問題でもあるのでしょうか?」
「今だ」とありくいの夫は囁いた。「相手が油断をしている今のうちに刺し殺すのです。時間が経てば経つほど、この男を刺すのはとんとむずかしくなります」
しかし、なぜ私がこの人を刺し殺さなくてはならないの?「あなたにしかこの男を殺すことはできぬからです。こいつはとびっきり邪悪な男、まさに悪の権化です。ブラジルのジャングルで、わたくしどものかわいい二匹の子供を食い殺しました。そしてそれだけでは飽き足らず、今ではわたくしども夫婦をつけ狙っておるのです」
でもこの人は人間だわ。お子さんを食い殺したのは悪いジャガーでしょう。
「いや、こいつこそがジャガーなのです」とありくいの夫は言った。「というか、こいつの内部がそのジャガーなのです。この人物は既に内側を邪悪な獣に乗っ取られています。今ではただの間に合わせの殻のようなものです。わたくしを信じてください。慈悲の心は害をなすだけです。今のうちに抹殺しておかねば、わたくしどもばかりか、あなたにまで厄災が及ぶことになります」
ぜんぜん話が見えない、と夏帆は思った。いずれにせよ、私には人を殺すことなんてできないわ。
ありくいの夫は大きく首を振った。「でもどうしてもあなたがやらなくちゃならんことなのです。なんといってもそれはあなたに課せられた責務なのだから」
また責務だ、と夏帆は思う。どうしてそれが私の責務になるの?
「なぜならばこれはあなたが始めたことだからですよ」とありくいの夫は言った。「始めたことは終わらせなくてはなりません」
私が始めた? いったい何の話をしているの?
夏帆はもう一度振り返って「とぎや」の店主を見た。そしてその顔が前とは違ってきていることに気づいた。無表情なところは同じだが、顔の輪郭が変化を遂げている。目に見えて頬骨が張り出し、両端が裂けたように口がぐいと大きくなっている。そして暗い眼窩の奥で、緑色の妖しい光がその輝度を刻々と増していた。
「お嬢さん」と店主は重みを増した声で夏帆に向かって告げた。そこにはもう戸惑いの気配はなかった。「その包丁を置きなさい。手練れのものによって鋭く研がれた刃物は、持ち主の意思とは無縁にひとりでに悪さをすることがあります。さあ、もとあったところに戻すのです」
そう言われて、夏帆は自分が手にした包丁にもう一度目をやった。たしかにその白く光った刃先は、今にも自らの意思で勝手に動き出しそうに見えた。
「早く刺さなくては」とありくいの夫は切迫した声で言った。そして口の端にくわえたパイプを音がするほど強く噛みしめた。「凶悪な獣をこの武蔵野の地に放ってはなりません。そしてあなた以外にそれを阻止できる人はいないのです」
「でも私には人は殺せないわ」と夏帆は思わず声に出して言った。
「もちろん、お嬢さん、あなたには人は殺せない」と「とぎや」の店主はその言葉を聞きつけて言った。「言うまでもないことだ。あなたは育ちの良い、優れた知性をもったお嬢さんだ。夏の船の帆のように清潔でまっすぐな方だ。人の命を奪うような人ではない。断じて」
「さあ、責務を果たすのです」とありくいの夫は言った。「言葉に騙されてはなりません。ジャングル中の善き獣たちが、こぞってあなたの背後についております。あなたを支え応援しております、邪悪なジャガーは抹殺されねばなりません」
私は血を見たくない、と夏帆は心に思った。この包丁で人を刺せば、ずいぶんたくさんの血が出るに違いない。
「血は出ません」とありくいの夫は言った。「今のうちならそいつにはまだ実体というものがないからです。あなたが殺そうと心を決めさえすれば、そいつは血を流さずに死にます」
「おお、ありくいのにおいがするぞ」と「とぎや」の店主は呟くように言った。しかしその声は店主の声ではなかった。荒々しい、聞き覚えのない声だった。
「ほら、ジャガーが奥の方から出てきました」とありくいの夫はパイプを噛みしめながら言った。「一刻の猶予もありません。慈悲も偏見も予断もなく、その男を断固抹殺するのです」
慈悲も偏見も予断もなく、と夏帆は頭の中でありくいの夫の言葉を繰り返した。気がつくと、狭い店の中に獣のにおいが充満していた。ジャガーの吐く息のにおいだ。店主の両目は今では全体に緑色の異様な光を帯びていた。ありくいの夫の言うとおり、邪悪なジャガーが今まさに姿を現そうとしているのだ。この武蔵境のさびれた商店街の一角に、白く尖った致命的な牙をむいて。彼女は決心して両手で包丁を握りしめ、店主の方に向かった。店主はそれを見ても、相変わらず表情ひとつ変えなかった。逃げもしなかったし、あとずさりさえしなかった。
「さあ、ためらうことなく殺すのです」とありくいの夫が囁いた。
「おお、すぐ近くにありくいのにおいがするぞ。うまそうなにおいが」と店主がジャガーの声で言った。夏帆は出刃包丁の鋭い刃先を「とぎや」の店主の胸にあてた。心臓のあたりに。それでも店主はたじろがず、表情は微塵も乱れなかった。包丁を持つ夏帆の両手はぶるぶると大きく震えていた。
「お嬢さん、およしなさい。あなたには人は殺せっこないのだから」と店主は人間の声で言った。
「でも、私は――」
夏帆がそう言いかけたところで、ありくいの夫が唐突に、夏帆の背中を背後からどんと押した。それはとんでもなく強い力だった。そんなことを予期していなかった夏帆は、障害物に思い切り躓いたような格好で前方に押し出され、その勢いで出刃包丁が店主の胸にまっすぐ突き刺されることになった。よほど鋭く研がれていたに違いない、包丁はまるで柔らかいバターにへらが刺さるみたいに、ほとんど手応えもなく男の心臓に深々と食い込んだ。
店主の口が腹話術師の人形のそれのようにかっと大きく開き、そこからジャガーの発する凶暴なうなり声がこぼれた。怒りの発露なのか、苦悶のうめきなのか・・・・・・そして店主の口が吐き出す獣のにおいは、耐えがたく強烈なものになった。夏帆は店主の胸に突き刺さった包丁を放心状態でぼんやり見つめていた。深い傷であるはずなのに、傷口から血は一滴も出てこない(ありくいの夫が言ったとおりだ)。そしてジャガーが大きく一度吠えた。
「さあ、こっちに」とありくいの夫が夏帆の右腕の肘をぐいとつかんだ。夏帆はそこに立ちすくんでいたが、ありくいの夫のグリップは強靭なもので、そのまま引きずられるようにして店の外に出た。街路では雨はまだ降り続いていた。柔らかな九月の雨だ。
「目を閉じて」とありくいの夫は言った。夏帆は言われたとおり目を閉じた。そしてそこにある隙間のような空白にするりと吸い込まれていった。
「もう案ずることはない」とありくいの夫はその空白の中で夏帆に告げた。「すべては終わったのですから。あなたはその責務を果たしたのです。申し分なく」
私はその責務を果たしたのだ、申し分なく、と夏帆は何も考えずにそのまま反復した。そして次の瞬間、彼女の意識はあとかたもなく消滅した。細い蠟燭の炎が突風にかき消されるように。
あくる朝目覚めたとき(確証はないが、それはおそらく翌朝だったのだろう)、夏帆の周りにあるのはいつもと同じ世界だった。枕元の目覚まし時計の針は七時半をさしていた。鳥たちが庭の木にとまって高い声で賑やかに囀っていた。彼女はパジャマを着て、布団にくるまって寝ていた。深く長くぐっすり眠ったという感覚が手足にあった。着衣にも寝具にもとくに乱れはない。彼女は布団から出て、かたかたと音を立てて古い雨戸を開け、朝日に照らされた小さな庭を縁側に立って眺めた。それから両手のひらを広げて、変化みたいなものが見受けられないか調べてみた。いつもと違うところは何ひとつ見受けられなかった。血糊がついているわけでもないし、ぶるぶる小刻みに震えてもいない。
昨夜起こったことは実際に起こったことなのだろうか?
私はほんとうに出刃包丁であの男を刺したのだろうか?
それが夢や幻覚なんかでないことは夏帆にはわかっていた。それは実際に起こったはずなのだ。疑問の余地なく、証拠を求めるまでもなく。彼女は手にした出刃包丁の重みを記憶していた。その包丁を店主の胸に突き立てたときのうす気味の悪い感触を覚えていた。ありくいの夫に背後から肘をつかまれたときの痛みを思い出すことができた。ジャガーの吐きかける息の濃厚な嫌らしいにおいも覚えていた。どれをとっても簡単には忘れられないものだ。そこにある質感は断じて架空のものではない。それらの出来事がすべて夢や幻覚であるはずはないのだ。
それはそうと、あのふたつの段ボール箱はどうなったのだろう? シロアリの瓶詰めが入った(とされている)四角い箱。そこにはヘブライ語の文字が記されている。それらは夏帆のキャンバスの画材バッグに収められたまま、「とぎや」の床に置き去りにされているのだろうか? それともありくいの夫がすかさず回収していったのだろうか(キャンバスのバッグは家の中の所定の場所に置かれていた。空のまま)?そして店主の胸に深く突き刺さったあの包丁はどうなったのだろう? まだそこに突き刺さったままなのだろうか? 包丁の持ち手には私の指紋がべったりついているはずだ。もし警察に調べられたら、私は言い訳のできない状況に置かれることになる。そういえば警察は既に店主の死体を発見しただろうか?
とにかく説明のつかないことだらけだった。
それは現実に起こったことではあるけれど、たぶんその現実は今ここにある現実とは異なったレベルに属する現実なのだろう。そんな気がした。理論的に筋道立てて説明はできないけれど、それが夏帆の確かな実感だった。だってそれ以外に考えようがないのだ。おそらく「とぎや」の店主が刺殺された事件は警察沙汰にはなるまい。なぜならそんな事件はこちらの現実においてはまったく起こらなかったことなのだから――夏帆はそう推測した。またそのように願った。
彼女はそれから数日のあいだインターネットのニュースをこまめに閲覧し、念のために近所のコンビニまで足を運んで新聞を何紙か買い、その事件の報道が載っていないか隅々までチェックした。テレビの定時ニュースも欠かさず見た。もしそのような事件が実際に起こっていたなら、かなり大きな話題になるはずだ。しかしそんなニュースはまったく見当たらなかった―――彼女の予想したとおり。武蔵境の駅近くのあのさびれかけた商店街に行って、そこにほんとうに「とぎや」なる店が存在しているかどうか確かめてみようかとも思ったが、いざとなるとどうしても足がそちらに向かなかった。あの雨の夜の記憶はあまりに生々しかった。夏帆は頭を振って思う。いや、何があろうとあの場所にはもう二度と、絶対に近づきたくない。
ありくいの夫婦もその夜以来、まだ夏帆の前に姿を現していない。彼らは今でもこの小さな家の暗い床下で生活を送っているのだろうか? それは夏帆には知りようもないことだ。彼ら夫婦はもともときわめてひっそりと、ことりとも音を立てずに暮らしていた。いるかいないか、判断がつかない。ひょっとしたら彼らは既にブラジルのジャングルに戻ったのかもしれない。しかし彼ら夫婦は全力をつくして夏帆の身の安全を守ると約束した。とすれば――もし彼らがその言葉通り約束を実行するとしたら――彼らは私の近辺にいなくてはならないはずだ。私は彼らのために「とぎや」の店主を、そしておそらくはその内側に潜んでいた邪悪で凶暴な宿敵のジャガーを刺し殺したのだから。いわばその返礼として。
でもそんなことはもうどうでもいい。返礼なんてべつに欲しくはない、彼らは善き人々――いや、善き生き物たちだった。夏帆は彼らに対して自然な好感を抱いていた。彼らに出会えてよかったと思う。二匹が無事にブラジルのジャングルの奥深くに帰還することができたのなら、そしてそこで好きなだけ生きたシロアリを食べられるのだとしたら、それは慶賀すべきことではないか。彼らは少なくとも夏帆を武蔵境という新たな土地に導き、そこで(どう考えても)普通ではない体験をさせてくれたのだ。つくづく恐ろしい体験ではあったが、夏帆は与えられた責務を辛うじて果たすことができた。悪いジャガーは死んだ。そしてこちらに越して来てからは、もうあの不吉なモーターサイクルの音も聞こえてこない。まだ今のところ。
ありくいの絵本の執筆は中断されたままになっていた。ひとりの少女がありくいの宿敵である悪者ジャガーを倒すところまで話を進めたのだが、子供向けの絵本で主人公の少女が動物を殺害するというのは――相手がいくら凶暴で邪悪なジャガーであったとしても――好ましい話の展開とは言えない。ジャガーはなんといっても「大きな猫ちゃん」なのだから。出版社はそんな暴力的な話をまず喜ばないし、間違いなく書き直しを迫られるはずだ。さて、どうすればいいのか? 夏帆には良い知恵が浮かばなかった。だからありくいの絵本は結末のつかないまま放置されることになった。でもまあいい。そのうちに何か良いアイデアが浮かぶだろう。
あるいは現実生活で新たに何かが起きて、その何かが私を適切な結末に導いてくれるかもしれない。良いヴァイブレーションを具えた何かが。私はこつこつと日常生活を送りながら、その何かの到来を待っているしかないのだろう。急ぐことはない。私は待つことには馴れている。責務はいつか果たされるだろう。
夏帆はときどき夢でありくいの奥さんに会った。それが夢であることは明らかだった。間違いない。「異なったレベルの現実」みたいなものではない。ただの夢だ。その夢の中では、ありくいの夫婦はブラジルのジャングルに帰り、その長い舌でシロアリを食べながら平穏に仲睦まじく暮らしていた。邪悪なジャガーが消えて、ジャングルに棲む小さな獣たちはみんな喜んでいた。このジャングルでは武蔵境の夏帆さんといえば有名な、英雄的存在になっているのですよ、とありくいの奥さんは言った。誰もが夏帆さんに深く感謝しています。なにせ悪いジャガーを退治してくださったのですから。もし夏帆さんの身に何か危険が及んだら、わたくしどもはそれを察知してすぐに武蔵境に戻ります。だから安心してくださいね。ごきげんよう。
そのような展開は絵本の結末として悪くないかもしれない。ジャングルの英雄、夏帆。しかしいずれにせよジャガーは殺される必要があるし、出版社はやはりそのことを喜ばないだろう。ジャガーが心を入れ替えて善良なジャガーになる、という筋もいちおう考慮してはみたが、あのジャガーが簡単に改心するとは夏帆にはどうしても思えなかった。あの猛々しい咆吼を実際に耳にすれば、そこに改心の余地なんてないことは明らかだ。だいたいジャガーは肉食動物であり、ジャングルの小さな生き物たちを捕まえて食べないことには生命を維持できない。そんな動物がすっかり改心して熱心なヴィーガンになりました、なんて気楽な話が書けるわけがない。
それでも夏帆は夢の中でありくいの奥さんと再会することができて、ほのぼのした温かい気持ちになれた。ブラジルのジャングルと東京郊外と遠く離れていても、私たちの心はみえない糸で繋がっているのだ、と夏帆は思う。そして私はひそやかに彼らに守られているのだ、この武蔵境の地で。文明の果つるところで。
〈了〉