「これまでいろんな女性とデートのようなことをしたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだ」
それはデザートを食べ終え、コーヒーが運ばれてくるのを待つ間に起こったことだった。
彼が口にした言葉の意味を飲み込むまでに少し時間がかかった。三秒か四秒というところだろう。あまりに唐突な発言だったし、その意図が夏帆には即座に読み取れなかったからだ。そして男はそのようなあけすけに攻撃的な言葉を口にしながら、微笑みさえ浮かべていた。それもほとんど友好的といっもういい、穏やかな微笑みだ。とはいえそこにはユーモアの影はうかがえない。そう、この男は冗談なんかではなく、心から真剣にそう言っているのだ。
そのような場合、自分がとるべき態度として、夏帆の頭にまず浮かんだのは、膝の上のナプキンをとってテーブルに置き、隣の席に置いたパースを掴み、無言のうちに席を立って、そのままレストランを出て行くことだった。おそらくはそれがいちばん賢明な対応だ。
しかし夏帆にはそのとき、なぜかそれができなかった。彼女がそうしなかったのは――あとになって考えてみればということだが――ひとつには純粋な驚きのためであり、もうひとつは好奇心のためだった。もちろん腹は立った。腹が立たないわけはない。しかしそれよりはむしろ、彼女は知りたかったのだ。この男はいったい何を私に告げようとしているのだろう? 私は本当にそれほど醜いのだろうか? そしてこれには何かこの先があるのだろうか?
「いちばん醜いというのは、ちょっと言い過ぎかもしれない」と男は少し間を置いて、補足するように続けた。「しかしいちばん不美人だというのは、まず間違いないところだね」
夏帆は唇を一直線に結び、目を逸らすことなく黙って男の顔を見ていた。
この男はどうしてそんなことを、わざわざ口にしなくてはならないのだろう? ブラインド・デート(みたいなこと)をして、初対面の相手がそれほど気に入らなかった場合、そのあと連絡を取らなければいいだけのことだ。簡単な話だ。面と向かって相手を侮辱する必要がどこにあるだろう。
男は夏帆よりもおそらく十歳は年上で、身なりも清潔でそつなく、ハンサムだった。とくに夏帆の好みというのではないが、いかにも育ちがよさそうな整った顔立ちだった。写真うつりの良さそうな顔、というのが適切な表現かもしれない。もう少し身長があれば、あるいは俳優にだってなれたかもしれない。彼が指定したレストランもこぢんまりと洒落ていて、出てくる料理もおいしく上品だった。饒舌というほどではないが、話がなかなか巧みで、会話が途切れて居心地悪くなるようなこともなかった(あとになってみると、そこでどんな話が出たのか、不思議なほど思い出せなかったが)。そして彼女は食事のあいだ、彼に対して穏やかな好感のようなものさえ抱くようになっていた。それは認めなくてはならない。そしてそれが突然――このありさまだ。いったい何でとが持ち上がったのだろう?
「君はあるいは不思議に思っているかもしれない」
エスプレッソのカップがふたつ運ばれてきたあと、男は穏やかな声で言った。まるで夏帆の心の動きを読み取ったみたいに。そしてコーヒーに小さな角砂糖をひとつ入れ、スプーンで静かにかき回した。
「じゃあ、どうしてそんな醜い相手と、というか顔だちが気に入らない相手と、最後まで食事を共にしたのか? 最初のグラス・ワインだけ飲んで、適当に軽く切り上げることもできたはずなのに。一時間半もかけてコース・ディナーをとるなんて、まったく時間の無駄じゃないか。そしてまた、どうして最後の最後になって、こんな話を持ち出さなくてはならなかったのか?」
夏帆はただ黙ってテーブル越しに男の顔を見続けていた。その両手は膝の上のナプキンをぎゅっと掴み続けていた。
「好奇心が抑えられなかったのだと思う」
男はそう言った。「君のような不器量な女性がどんなことを考えているか、不器量だという事実が君の人生にいかなる影響を与えているか、たぶん僕はそういうことを知りたかったのだろう」
その好奇心は満たされたのかしら、と夏帆は思った。もちろん声には出さなかったけれど。
「そして、その好奇心は満たされたか?」と男はコーヒーを一口飲んでから言った。間違いない。彼は夏帆の心の動きを残らず読み取っている。アリクイがその細長い舌の先で蟻の巣を舐め尽くすみたいに。
男は首を小さく振って、エスプレッソのカップを受け皿に戻した。そして自らの質問に自ら答えた。「いや、満たされてはいない」
それから男は手を上げてウェイターを呼び、勘定を済ませた。そして夏帆に向かって軽く会釈をして、そのまま店を出て行った。あとを振り返りもしなかった。
実のところ、夏帆は幼い頃から、自分の容姿にとりたてて興味を抱いたことがなかった。鏡に映った自分の顔を見て、とくに美しいと思ったこともなく、またとくに醜いと思ったこともなかった。嬉しく思ったこともないし、がっかりしたこともない。彼女が自分の顔に興味を抱かなかったのは、容貌のせいで自分の人生がなんらかの影響を受けているという意識がなかったからだ。そういう意識を持つ機会がなかった、というべきかもしれない。一人っ子で、両親は手放しで彼女に深い愛情を注いでくれた。おそらくは見かけの美醜とは無関係に。
思春期を迎えてからも、夏帆のそのような容貌に対する無関心さ、無頓着さに変化はなかった。彼女の女友だちの多くは、自分の顔立ちについて深く思い悩んだり、手を尽くして化粧をしたりしていたが、そういう気持ちは彼女にはよく理解できなかった。彼女が鏡の前に座る時間もきわめて短いものだった。身体や顔を当たり前に清潔に保っておくこと――それだけが彼女の心がけることだった。そしてそれはとくに困難を伴う作業ではない。
男女共学の公立校に通い、そこで何人かのボーイフレンドができた。彼女は、たとえばクラスの男子による女子生徒人気投票で、多くの票を集めるというタイプではない。しかしなぜか、どのクラスにも必ず一人か二人、彼女に異性としての関心を抱いて近寄ってくる男子がいた。彼らが自分のどんなところに興味を持ったのか、それは夏帆にもわからない。
高校を卒業し、都内の美術大学に通うようになってからも、交際する男性がまわりにいない時期はほとんどなかった。だから自分の容貌の美醜について思い悩んだりする必要もなかった。そういう面では彼女はラッキーだったと言えるだろう。いずれにせよ彼女には不思議でたまらなかった。どう考えても自分より遥かに顔立ちの優れた女性の友人たちが、自分の容貌について実は真剣に思い悩んでおり、場合によっては高額な費用のかかる整形手術を受けたりしていることが。それは彼女の理解の範囲を超えたことだった。
そのようなわけで二十六歳の誕生日を少し過ぎて、その初対面の男に夕食の席で「醜い」とあからさまに指摘されたとき、夏帆は真剣に戸惑ってしまうことになった。その無礼さに怒りを感じるよりは、あるいはショックを受けるよりは、ただ純粋にびっくりしてしまったのだ。
彼女にその男を紹介してくれたのは、町田という女性編集者だった。神田にある小さな出版社で、主に子供向けの本を出している。夏帆よりも四つほど年上で、二人の子持ち、夏帆の絵を描く子供向け絵本の編集をしてくれていた。絵本はそれほど売れたわけではないが、雑誌の挿絵などのアルバイトの副収入も合わせれば、彼女一人がつつましく生活していく程度の収入にはなった。当時、夏帆は二年余り交際していた同年齢の恋人との別れ後、いつになく沈み込んでいた。あまり後味の良くない別れ方だったからだ。それもあってその時期、仕事もうまく捗らなかった。町田さんはその辺のことを心得ていて、夏帆のためにブラインド・デートをセッティングしてくれたのだ。気分転換になるかもしれないと。
その男に会った三日後に、町田さんが電話をかけてきた。
「それで、デートはどうだった?」、開口一番、彼女はそう尋ねた。
夏帆はただ曖昧に唸って、直接の返答を避けた。そして逆に質問をした。「そうね、というか、うーん、あの人はいったいどういう人なのかしら?」
町田さんは言った。「実を言うと、私も彼についてあまり詳しいことは知らないのよ。知り合いの知り合いというくらいだから。おそらくは四十歳近くで独身、証券関係の仕事をしている。身元は確か、仕事もよくできる。たぶん犯罪歴もない。一度顔を合わせて、短く話をしたことがあるけど、ハンサムで感じの良さそうな人だった。背はまあ、少し低いけどね。でもトム・クルーズだって決して背は高くない。まあ、実際にこの目で見たわけじゃないけど」
「しかし、そんなにハンサムで、感じが良くて、仕事のできる人が、どうしてブラインド・デートなんて面倒なことをいちいちしなくちゃいけないのかしら?」と夏帆は言った。「そういう人なら、おつきあいする女性には事欠かないでしょうに?」
町田さんは言った。「うーん、そうね、頭はかなり切れるし、仕事的には有能なんだけど、人間的にちょっとクセがあるかもしれない、という話は耳にした。実際に会う前に先入観を植え付けるのはいやだから、そういうことはあなたには言わずにおいたんだけど」
「ちょっとクセがあるかもしれない」と夏帆は相手の言葉を反復した。そして首を振った。あれがちょっとしたクセと呼べるようなものなのか?
「それで」と町田さんは言った。「電話番号とか交換したわけ?」
夏帆は受話器の前で一瞬間を置いた。電話番号の交換?それから言った。「いいえ、していない」
その三日後に、町田さんはもう一度電話をかけてきた。
「例のハンサムな佐原さんのことなんだけど、今お話ができるかな?」と彼女は言った。佐原というのが、ブラインド・デートをした男の名前だった。砂漠と同じ名前だ。
夏帆は手にしていた仕事用のペンを下に置き、左手に持っていた受話器を右手に持ち替えた。「いいわよ。どうぞ」
町田さんは言った。「佐原さんが昨日の夜、私のところに電話をかけてきたの。あなたともう一度会って、二人で話をすることができるだろうかって訊かれた。けっこう真剣な声だったわよ」
夏帆はそれを聞いて思わず息を呑み、しばし黙り込んだ。もう一度会って二人で話をしたい? 夏帆には自分の耳が信じられなかった。
「夏帆ちゃん」と町田さんは心配そうな声で言った。「聞いてる?」
「ええ、聞いてます」と夏帆は言った。
「どうやら彼はあなたのことが気に入ったみたいね。で、どう返事すればいいかしら?」
まともに考えれば、返事は「いいえ」に決まっている。面と向かってあれほどひどい言葉を浴びせられたのだ。そんな相手ともう一度顔を合わせる必要がどこにあるだろう? しかし夏帆はその場で決断を下すことができなかった。いくつもの疑問が彼女の脳裏で輻輳し、入り乱れた。
「少し考えさせてくれますか」と夏帆は町田さんに言った。「あとでかけ直します」
結局、その週の土曜日の午後に夏帆は佐原にもう一度会うことになった。昼間で時間は短く、食事とアルコールはなし、人目はあるけれど静かに話のできる場所で――というのが、町田さんを介して夏帆の出した条件だった。
「二度目のデートにしては一風変わった条件かもね」と町田さんは言った。「ずいぶん警戒的っていうか」
「なんとなく」と夏帆は言った。
「でもハンドバッグにスパナを忍ばせていったりはしないでね」と町田さんは言って、楽しそうに笑った。
それは悪い考えではないかもしれないと夏帆は密かに思った。
佐原は前回は仕事の帰りだったらしく、仕立ての良いダークスーツにネクタイを着用していたが、今回は濃い茶色の革ジャンパーに細身のブルージーンズ、履きこんだワークブーツという週末用のカジュアルな格好だった。サングラスを胸のポケットに入れていた。とても小粋だ。
夏帆は約束の時刻に少し遅れて、待ち合わせのホテルのロビーに行ったが、佐原は既にそこにいて、携帯電話で誰かにメッセージを送っているところだった。夏帆を見るとうっすらと微笑みを浮かべ、携帯電話の革のフラップを閉じた。彼の隣のシートにバイク用のヘルメットが置いてあった。
「BMWの1800ccに乗っている」と佐原は言った。「BMWのバイクの中ではいちばん排気量が大きく、エンジンは心地よく大胆なビートを刻む」
夏帆は何も言わなかった。あなたがBMWのバイクに乗っていようが、三輪車に乗っていようが、牛車に乗っていようが、私にはどうでもいいことよ、と彼女は心の中で呟いた。
「君はたぶんバイクになんて何の興味も持たないのだろうが、まあいちおう念のために情報としてね」と佐原は付け加えた。
この男は確かに私の気持ちを読んでいると、夏帆はあらためて思った。
ウェイトレスがやってきて、彼女はコーヒーを注文した。
佐原はカモミールのハーブティーを注文した。
「ところで君はオーストラリアに行ったことがあるかな」と佐原は尋ねた。
夏帆は黙って首を振った。オーストラリアに行ったことはない。
「蜘蛛は好きだろうか?」と佐原は言って、空中で両手の指を扇の形に広げた。「スパイダー、足が八本ある蜘蛛だよ」
夏帆は返事をしなかった。蜘蛛は何より苦手だが、そんなことをあえて教える必要はない。
佐原は言った。「オーストラリアに行ったとき、野球のグローブくらいの大きさの蜘蛛を見たことがある。見るからに不気味なものだ。ぞっとする。でも現地の人たちは、こいつが家にいつくことをむしろ歓迎するんだ。何故だろう?」
夏帆は黙っていた。
「こいつは夜中に活動し、ゴキブリを食べてくれるからだ。益虫、役に立つ虫ってわけだよ。しかし、ゴキブリを食べる蜘蛛がいるなんてね。食物連鎖の構造の巧妙さ、華麗さには常に驚かされる」
コーヒーとハーブティーがテーブルに運ばれてきて、二人はそれぞれの飲み物を前にしばらく沈黙した。
「きっと君は不思議に思っているんだろうね」と佐原は少し後で、あらたまった口調で切り出した。「こうして僕が君にもう一度会いたがったことを」
夏帆はやはり返事をしなかった。あえて返事をするまでもないことだ。
「それで、君がこうしてまた僕に会うことに同意してくれたことに、正直なところずいぶん驚いているんだ」と佐原は言った。「感謝すると同時に、意外の念に打たれているというか。あんな無礼なことを言われて、なおかつもう一度会ってもいいと思うなんてね。いや、無礼というような生やさしいことじゃない。どう考えても、女性の尊厳を踏みにじる許しがたく侮蔑的な発言だ。たいていの女性は、そんなことを言われたら、もう二度と僕の前に顔を見せなかった。まあ、当然のことではあるのだけど」
たいていの女性、と夏帆は頭の中で相手の言葉を繰り返した。それは彼女に衝撃を与えた。
「たいていの女性?」と夏帆は初めて口を開いた。「ということはつまり、あなたは出会った女性たち全員に向かって、同じような言葉を口にしてきたわけですか? つまり――」
「そのとおり」と佐原はあっさりと認めた。「僕は相手の女性すべてに、君に向かって言ったのとそっくり同じことを言ってきた。あなたのような醜い女性を相手にしたのはこれが初めてだ、とね。だいたいは気持ちよくディナーを共にして、素敵なデザートが運ばれてきたあとでね。こういうことは、なんといってもタイミングが大事な意味を持つんだ」
「なぜ?」と夏帆は潤いを欠いた声で言った。「よくわからないけど、なぜそんなことをしなくてはならないのですか?そんな風に意味もなく人の心を傷つけなくてはならないのですか? 手間暇をかけて、時間もお金も使って」
佐原は軽く首をひねってから言った。「なぜか――というのは根本的な問題だ。それについて語り始めると話が込み入ってくる。それよりはむしろ、その発言がもたらす効果の話をしようじゃないか。僕がいつも驚かされるのは、そう言われたときに、彼女たちの見せる反応なんだ。そんなひどい言葉を正面からぶっつけられたら、人は真剣に腹を立てるか、それとも笑い飛ばすか、それが普通だろうと君は思うかもしれない。もちろんそういう人たちもいなくはないよ。でもその数は驚くほど少ない。大半の女性は・・・・・・ただ傷つくんだ。深く、長く。そして場合によっては奇妙なことを口走ったりもする。理解に苦しむようなことを」
しばらく沈黙が続いた。少し後で夏帆がその沈黙を破った。「そういう反応を目の当たりにして、あなたは楽しむわけですか?」
「楽しむというのではない。ただ僕としては不思議に思わないわけにはいかないんだ。どう見ても美しいとしか思えない女性たちが、あるいは容姿が明らかに水準以上である女性たちが、面と向かって醜いと指摘され、必要以上にうろたえたり傷ついたりすることが」
手を付けられていないコーヒーが、彼女の前で白い湯気を立てながら着実に冷めていった。
「あなたは病んでいると思います」と夏帆はきっぱりと言った。
佐原は肯いた。「そうだね。確かにそうかもしれない。僕は病んでいるかもしれない。でも言い訳するんじゃないが、病んでいる人間の目から見れば、より病んでいるのはむしろ世界の方だ。いいかい、この時代、ルッキズムというものが強く否定されている。多くの人が美人コンテストを声高に批判する。公衆の面前でブスなんていう言葉を口にしたら、間違いなく袋だたきにあうだろう。しかし一方でテレビを見てごらん。雑誌を見てごらん。そこには化粧品や美容整形やエステサロンの広告が溢れかえっている。そういうのって、どう考えても馬鹿馬鹿しい、意味のないダブル・スタンダードじゃないか。まさに茶番というべきか」
「だからといって、意味もなく人を傷つけていいということにはならないでしょう」と夏帆は反論した。
「うん、君の言うとおりだ」と佐原は認めた。「君の言うとおり、僕は病んでいる。それは間違いのない事実だ。しかし病んでいるというのは考えようによっては、心愉しいことでもある。病んでいる人間には、病んでいる人間だけが愉しめる特別な場所があるんだ。病んでいる人間のディズニーランドみたいなところがね。そして僕には幸い、その場所を愉しむだけの時間と金の余裕がある」
夏帆は無言のうちに席を立った。もうこれでおしまい。この男を相手にこれ以上話すことはない。
「ちょっと待ってくれ」と佐原が立ち上がった彼女に声をかけた。「お願いだから、あと少し時間をくれないか。長くはとらせない。五分だけでいい。ここにいて、もう少し僕の話を聞いてもらいたい」
夏帆は数秒迷ってからもう一度腰を下ろした。そうしたくはなかったのだが、男の声には何かしら抗いがたいものがあった。
「僕が君に言いたかったのは、君の示した反応は他の誰とも違っていたということだ」と佐原は言った。「君はそんなひどい言葉を浴びせられても、狼狽もしなければ、怒りもせず、笑い飛ばしもせず、とくに傷ついたようにも見えなかった。そういう月並みな感情を交えることなく、ただ僕をまっすぐ見据えていた。まるで顕微鏡で病原菌でも覗くみたいに。そういう反応を示した相手は、これまで君しかいなかった。僕はそのことに感心させられた。そして思った。なぜこの女性は傷つかないのだろう。もし彼女の心を真剣に傷つけるものがあるとすれば、それはいったい何だろうと」
夏帆は言った。「あなたは女性たちのそういう反応を見るために、ただそれだけのために、何度も何度もこういう手の込んだ出会いを繰り返してきたんですか?」
男は少しだけ首を傾げた。「いや、それほど数多くじゃない。機会があればということだ。僕はデート・アプリみたいなものはまず使わないことにしている。簡単すぎるものはだいたいつまらない。知り合いの紹介してくれる、わけのわかった女性との出会い――昔ながらのお見合いっぽいやつがいちばんいい。クラシックなシチューションがね。心が躍る」
「そしてその相手を侮辱する?」と夏帆は言った。
佐原はそれには答えなかった。彼は微笑みを口元に浮かべかけたが、すぐにそれを引っ込めた。そして胸の前で両手を広げ、注意深い目で手のひらをしばらく眺めていた。まるで
手相の変動の有無を点検するかのように。
「もしよかったら一緒にバイクに乗ってみないか?」と彼は顔を上げて言った。「君のために予備のヘルメットも用意しておいた。今日は天気も良いし、快適なツーリングが楽しめると思うんだ。走行距離も五千キロを超えたばかりで、BMWの誇る水平対向エンジンは快調そのものだ」
夏帆の身のうちに、紛れもない怒りがじわじわとこみ上げてきた。それほどの怒りを感じるのは久しぶりのことだった。あるいは生まれて初めてのことかもしれない。快適なツーリングが楽しめる?この男はいったい何を考えているのだろう?
「ツーリングは遠慮させてもらいます」
夏帆は気持ちを落ち着け、できるだけ冷静な声でそう言った。「私がいちばん今やりたいことが何か、わかりますか?」
佐原は首を振った。「さあ、なんだろう?」
「あなたから少しでも遠くに離れることです。そして身体についた汚れのようなものを洗い落としたい」
「なるほど」と佐原は言った。「なるほど。うむ。そういうことであれば、残念だが今回のツーリングはあきらめるとしよう。でもどうだろう。僕から少しでも遠くに離れたいというのは、そううまくいくものだろうか?」
「それはどういう意味ですか?」
どこかで赤ん坊が泣く声がした。男はそちらにちらりと目をやってから、夏帆の顔をまっすぐ見た。
「君にもそのうちにわかるだろう」と男は言った。「僕はいったん関心を抱いた相手はそう簡単には手放さない。そして意外に思うかもしれないが、距離的なことを言うなら、僕らはもともとそう遠くは離れていないんだ。君と僕はね。いいかい、人は連鎖の構造から逃れることはできない。いくらそういうものと関わりを持ちたくない、目にしたくないと願ったところでね。何かを飲み込むことと、何かに飲み込まれることは一枚のコインの両面なんだ。裏と表、貸方と借方。それが世界のありようだ。僕らはたぶん、またどこかで出会うことになるだろう」
この男ともう一度顔を合わせるべきではなかったのだ――夏帆はホテルの玄関に向かって素早く歩を運びながら強くそう思った。私はあのとき電話口で、町田さんに向かってきっぱりと返事するべきだったのだ。いいえ、あの人にはもう二度と会いたくありません、と。
好奇心だ。
好奇心が私をここに導いたのだ。この男はいったい何を意図しているのか、何を求めているのか、私はそれを知りたいと思った。でもそれは間違ったことだった。あの男は好奇心という餌を撒いて、蜘蛛のように巧妙に私をおびき寄せたの だ。背筋が寒くなった。どこか温かいところに行きたい。彼女はそう強く思った。南国の島、真っ白な砂浜が広がっているところに。そこに横になり、目を閉じ、何も考えず全身に陽光を浴びていたい。
それから数週間が経過した。もちろん夏帆はその佐原という男のことをできるだけ早く、そっくり忘れてしまいたかった。人生の本筋とは繋がりを持たない無益なエピソードとして、どこか目のつかないところに押しやってしまいたかった。しかし夜に一人で仕事の机に向かっていると、ふと気がついたときには、その男の顔が前に浮かんでいた。彼はうっすらと微笑みを浮かべ、細長く繊細そうな自分の指を意味ありげに眺めていた。
また彼女は以前より多くの時間を鏡の前で過ごすようになった。洗面所の鏡の前に立ち、まるで自分自身を認識しなおすみたいに、顔の細かい部分をひとつひとつ子細に検証していった。そしてどの部分にも、自分がほとんど興味が抱けないことに思い当たった。そこにあるのは間違いなく自分の顔だ。でもそれが自分固有の顔であることの必然性のようなものが、どうしても見いだせないのだ。夏帆は整形手術を受けた友人たちのことをうらやましくさえ思った。彼女たちは少なくとも、顔のどの部分を技術的に訂正すれば、自分がもっと美しくなれるか、より満足のいく自分になれるか、それを知っていた――あるいは知っていると信じていた。
私は自らの人生から巧妙な復讐を受けているのかもしれない――そう思わないでもなかった。然るべき時期が巡ってきて、私の人生はその本来の取り分を、私からまとめて取り上げていこうとしているのかもしれない――貸方と借方だ。もし佐原という男と出会わなければ、おそらくこんな考えを抱くこともなかっただろう――夏帆はそう思う。彼は私の前に姿を現す機会を長い間、我慢強くじっと待ち受けていたのかもしれない。暗闇に潜んで獲物を待つ巨大な蜘蛛のように。
夏帆の住むアパートの前の道路を、人々が寝静まった夜中に、大型バイクが通り過ぎていくことがときおりあった。そのとんとんと太鼓を打つような乾いたエンジン音が聞こえると、彼女の胸は小刻みに震えた。息づかいが荒くなり、脇の下に冷たく汗が滲んだ。
君のために予備のヘルメットも用意しておいた。男はそう言った。
夏帆はそのBMWのバイクの後部席に座っている自分の姿を思い浮かべることがあった。そしてその強靭な機械が自分をどこに連れて行くことになるのか、行く先を想像する。それは私をどのような場所に運んで行くのだろう?
距離的なことを言うなら、僕らはもともとそう遠くは離れていないんだ。君と僕はね。男はそう言った。
その奇妙なブラインド・デートから半年が経過した頃、夏帆は新しい絵本を書き上げた。彼女はある夜、深い海の底で夢を見ていたのだが、途中ではっとはじかれたように目を覚まし、海底から浮かび上がり、机に向かってその話を書き始めた。書き終えるのに長い時間はかからなかった。
一人の少女が自分の顔を探しに行く話だ。少女はあるとき自分の顔を失ってしまう。眠っているあいだに、誰かが盗っていってしまったのだ。だからそれをなんvか取り戻さなくてはならない。
でも自分がどんな顔をしていたか、彼女にはまるで思い出せない。美しい顔か、醜い顔か、丸い顔か、細長い顔か、それすらわからない。親に訊いても、兄弟に訊いても、彼女がどんな顔をしていたのか、なぜか誰も覚えていない。あるいは誰も教えてくれようとはしない。
だから少女は一人で「顔探し」の旅に出ることにする。とりあえず、そのへんにあった間に合わせの顔を、自分の顔のあったところに貼り付けていく。まったく顔がないと、出会った人は変に思うだろうから。
少女は世界を歩いて巡る。高い山を越え、深い川を渡り、広大な砂漠を横断し、凶暴なジャングルを抜ける。自分の顔に巡り会えば、それが自分の顔だとすぐにわかるはずだと彼女は確信している。何しろそれは私という存在の大事な一部なのだから。旅をしながら、多くの人々に巡り会い、いろんな奇妙な体験もする。象の群れに踏みつけられそうになったり、大きな黒い蜘蛛に襲われたり、野蛮な馬に蹴られかけたこともある。
そうして長い年月をかけて至る所を歩き回り、無数の人々の顔を隈なく見てきたが、どうしても自分の顔が見つからない。目にするのは他人の顔ばかりだ。どうすればいいのか、彼女にはわからない。そして彼女はいつしか既に少女ではなくなっている。大人の女性になっている。このまま永遠に自分の顔が見つからないのではないだろうか?絶望的な気持ちちになる。
そんなとき、どこか北の国の岬の突端で、途方に暮れて一人で泣いていると、毛皮のコートを着た背の高い青年がやってきて、彼女の隣に座った。彼の長い髪は海からの風に優しくなびいていた。青年は彼女の顔を覗き込み、にっこりと微笑んでこう言った。
「やあ、君みたいな素敵な顔をした女性に会ったのは初めてだよ」と。
そう、間に合わせにとりあえず貼り付けてきた顔が、そのときにはもう本当の彼女の顔になっていたのだ。様々な体験が、色とりどりの思いが、彼女自身の顔をそこに豊かに作り上げてきたのだ。それは彼女の顔以外の何ものでもなかった。彼女と青年は結ばれ、その北の国で幸せに暮らすことになる。
この絵本はなぜか――夏帆自身にもその理由は定かにはわからないのだが――子供たちの、とりわけ十代初めの少女たちの心を刺激したらしかった。少女が自分の顔を探して広い世界を旅する様子を、そこで様々な試練を受けるプロセスを、年少の読者たちは熱心に追っていった。そして最後に彼女が自分自身の顔を見つけ出し、心の平穏を得たことを知って、ほっと胸をなで下ろした。文章はシンプルで、絵は象徴的な単色の線画だった。
そしてその物語は――それを絵本として書き上げる作業は――結果的に夏帆の心をも癒やしてくれたようだった。私は私としてこれまで通り、あるがままにこの世界を生きていけばいいのだ。何も恐れることはない。深い海の底で見た夢がそれを彼女に教えてくれた。深夜の不安も徐々に薄らいで消えていった。完全に消えたとまでは言えないまでも。
絵本は口コミでじわじわと売れ、新聞に好意的な紹介記事も載った。町田さんはそのことをとても喜んでくれた。
「この絵本は息の長いロングセラーになるんじゃないかしら。なんだかそんな気がするわ」と町田さんは言った。「これまでのあなたの作風とはがらりと違っていて、最初は驚かされたけど、どこでこんなアイデアを思いついたのかしら?」
「どこか暗くて、深いところで」と少し考えてから、夏帆は答えた。
(了)