翌日、朝早く起きて朝食をいただいたあとは、みんなで畑仕事を手伝った。

 じゃがいものしゆうかくや草取りを終えて、私たちはじのみやえきもどるつもりだったけれど、さんたちはもう一ぱくすればいいとがおで言ってくれる。午後はぬきと、さんほんぐうせんげんたいしやにも車で連れていってもらった。

 二日目の修学旅行も、夕方になるのはあっという間だった。

 帰ってきて、ゆたかさんは友人に野菜を分けてくると出かけてしまったが、私たち四人は居間でのんびりお茶をいただいていた。

 お茶の横には、もちやで買った草大福がちんしている。私はさわやかなよもぎの香りを吸い込みながら、もちもちの大福をほおっていた。

 すると明日の天気をたずねるような口調で、さんが口を開く。

「ナオちゃん、アキくんも。この家にいつしよに住む?」

 それは、あまりに思いがけない言葉だった。

 こうちよくする私たちを見て、さんが申し訳なさそうに言う。

「ごめんなさいね。昨晩の話がちょっと聞こえてきたものだから」

「あ……」

 ふすまの向こうが静かだったから、だれも気にしていなかった。でも本当はあのとき、まだ二人とも居間にとどまっていたのだ。

 小さくてかわいい草大福を、さらに四つに切り分けて大事そうに食べるさんは、昨日よりおだやかな顔つきをしている。

 みのかぶやさしい横顔が、ゆっくりと大切そうに言葉をつむいだ。

「余計なことかもしれないけど、あなたたちのこと、わたしは放っておけないわ。ゆたかさんもそう言ってた。これはリョウちゃんがいたからこそ、言えることなんだけど……生きてさえいれば、なんとかなるものだから」

 生きてさえいれば。

 そう、さんは自身に言い聞かせるようにかえしてから、どこか照れくさそうなみをかべた。

「いろいろ事情があるだろうに、ごめんなさい。今すぐにってわけじゃないの。ただ、そういうせんたくがあるってことは、二人とも忘れないで」

「……ありがとうございます、さん」

 私は、小さな声でお礼を言った。アキくんも頭を下げている。

 私たちは目を合わせることもなく、それぞれ残りの大福をつまむ。まさかそんな道があるなんて、今まで思いもしていなかったのだ。

 もしも私とアキくんが、さんたちに引き取られて、この家で暮らすようになったら。

 今日のようにへいおんな毎日が、続く。畑をいじって、たまにはみんなでどこかに遊びに行って、ごはんを食べて、おやすみを言ったらとんに入って、待ち遠しく明日を思う。そんな日常が、当たり前のものとして続いていくのだ。

 そんなふうに生きていけたら、どんなにいいだろう。どんなにか幸せだろう。何度もがれたような日々が、にわかに実体をともなって眼前に広がっている。

 そのとき、ひじけに手をやって立ち上がったさんが、やるせなさそうにつぶやいた。

「どうしたって、もうひとりのあなたたちとはいつしよに生きていけないものね」

「……え?」

 夢から覚めたような気分になって、私は思わず聞き返していた。

「ちょっと近所に出かけてくるわね。三十分くらいでもどるから」

 さんには聞こえなかったらしい。彼女は変わらない温度で微笑ほほえみ、居間を出ていった。ぼうぜんと見送った私は、さんの言葉を胸の内ではんすうしていた。

 なんだろう。さっきの言葉に、きようれつかんがある。絶対にそうすることはできないというような、最初からそうだと知っているような……。

 だれかのスマホが鳴る音に、私はびくりとかたらした。

 ポケットから出したスマホを見やったアキくんが、まゆを寄せる。

あいかわからだ」

 なお

 画面をタップしたアキくんは、すぐにスピーカーにする。

「はい」

『……私だけど』

 向こう側から聞こえてきたのは、ちがいなくなおの声だ。背後には言葉までは聞き取れないが、がやがやとした複数人の声が入り込んでいた。

 かたわらのもちづきせんぱいが黒文字ようくわえたまま固まっているのは、その声……正しくは合成音声が、私の声とよく似ていたからだろう。オリジナルとレプリカの話を念頭に置いていても、おどろいてしまう気持ちはよく分かる。

 かく言う私も、アキくんとさなくんがとなりに並んでいるところを目にしたことがない。逆もそうだった。

 なぜかもう一度、耳元でさんの言い残した言葉がひびく。

 どうしたって、もうひとりのあなたたちとはいつしよに生きていけないものね……。

『今、まだじのみや? ナオもいつしよにいる?』

 アキくんが私を見る。私が何も言わないのを見て取ると、「いるけど」とだけ返した。

『ちょっと話したいこと、あって。さな……アキもいつしよに、今から京都に呼んでいい?』

 私とアキくんは顔を見合わせた。

 何かきんきゆうの事態が発生したとしか思えない。それにしてはなおの声にあせりはなかったが、急用があるのは本当のことだろう。明日の夜、静岡にもどるまで待てないような何かがあったと考えるべきだ。

 それに内容からして、なおの近くにはさなくんがひかえているようだった。

「少し待っててくれ。またすぐかける」

 アキくんはそう断って、いったん通話を切る。

「ナオ、どうする?」

 だんの私なら、すぐにうなずいていただろう。

「私、行きたくない」

 それなのに私は、はっきりと答えていた。

 オリジナルが呼んでいるのに行きたくないだなんて、こんなのきっとレプリカ失格だ。試験があるなら、私は落第の判子を押されてしまう。

 でも京都になんて行きたくない。

 私は、ここにいたい。都合の悪いことは知らんぷりして生きていたい。さんだって、ここに住んでいいと言ってくれたのだ。

 私はそんなことを声もなくうつたえていたけれど、アキくんの黒いひとみには、迷いの色はひとつもなかった。

 子どものようにをこねる私とは、まるっきりちがう。

 それでもいちの希望にすがって、私は問う。

「アキくんは、どうするの?」

「俺は、しゆうが呼ぶなら応えたい。だから俺ひとりで行ってくるよ」

 やっぱり、アキくんはごくあっさりと言う。

 どうしてそんなふうに決断できるのだろう。同じ不安を胸にかかえているはずなのに、アキくんはちゆうちよしないのだろう。くやしくなるけれど、そうじゃないのだと始めから分かっていた。

 アキくんも私と同じくらい、もしかしたら私よりも不安で、こわくて、それでもげださないだけ。

 それなら私だって、かくを決めなくてはならない。向き合わなければいつかこうかいすることだって、本当は知っていたから。

「……ううん。私も、行く」

 アキくんが私の目を見る。不本意なせんたくなのを、さとい彼にはたぶんかれている。それでもだいじようだというようにうなずいてみせれば、なつとくしてくれたようだった。

 空になった小皿に手を合わせているもちづきせんぱいに、アキくんが言う。

「そういうわけで、もちづきせんぱい。これから俺たち、京都に行こうと思います」

「……うん? 京都?」

 ぱちり、と目を開いたもちづきせんぱいが、調子外れな声を出す。

 電話の音声は彼にも聞こえていたはずなのだが、ちんぷんかんぷんの様子である。私は一から説明することにした。

「私とアキくんはこれから京都に行ってきます。この場には、私とアキくんが着ていたものと、持ち物だけが残ると思います。せんぱいは、それをせんたくかごに入れてもらえるとありがたいです」

「よろしくお願いします」

 アキくんもタイミングを見計らって頭を下げる。

 もちづきせんぱいはというと頭痛でもするのか、頭を押さえて手をっている。

「……いや、待て待て待て」

 私はすぐに察した。

「言いたいことは分かります。交通費もはらわずに京都に行くなんて、だめですよね」

「いやぜんぜんちがう。僕は鉄道職員としてもの申したいわけじゃない」

 じゃあなんだろう。小首をかしげると、もちづきせんぱいほおはほんのりと赤くなっていた。

「分かってんのか。僕、男だぞ。こうはい女子が身につけていた服やら下着やらを……っていうのは、その、いろいろと道義的に問題あるだろっ」

 私がきょとんとしているからか、もちづきせんぱいは次にアキくんのほうを向く。

「アキ、お前はいいのか。他の男が彼女の下着を運ぶんだぞ。場合によっては、事故であっても、その、っさ、さわっちゃうかもしれないんだぞ」

「はぁ」

 しかしアキくんの反応もとぼしい。

もちづきせんぱいですから」

「うん。もちづきせんぱいですから」

 もちづきせんぱいだつりよくしたようないきく。

「それは、信用されてる……ってことでいいんだよな」

 こくこく、と私とアキくんはうなずいた。

 もちづきせんぱいはどこかうらめしげに、私たちをこうに見やったが、それ以上の文句の言葉はのどの奥にんでくれたようだった。

「っああもう、分かったよ。さんたちには僕から伝えておくから、さっさと行ってこい」

「ありがとうございますっ」

「で、しばらくしたらもどってくるんだよな?」

 えっと、と私はよどむ。

 昨夜、レプリカの仕組みについては簡潔に話したのだが、あれだけでは理解がおよばなかったのだろう。もちづきせんぱいはレプリカを持たないのだし、それは当然とも言える。

「……もどってこられないです。京都に呼びだされたら、それきりというか。一方通行なので」

 せんぱいが首をひねる。

「じゃあ、お前らの荷物とかどうすんの?」

もちづきせんぱいが静岡に持って帰るとか……」

「僕が? 三人分を?」

「ええと。なおたちの用事が済んだら、またれんらくするので……」

 計画性のなさにだつぼうしたのか、せんぱいはしばらく絶句していた。しかし、がしがしと頭をかくなり、ぶっきらぼうに言い放つ。

「とりあえずだつじよからせんたくかご持ってこい! それならほとんどさわらずに済むだろ」

「分かりました!」

 私がせんたくかごを手に風のようにもどってくると、アキくんがなおてに電話をかける。

 コール音が鳴る前に、なおは電話口に出た。ずっとスマホを手にれんらくを待っていたのだろう。

『話、まとまった? だいじよう?』

「うん、だいじようだよ」

 私が横から電話口に向かって答えれば、なおが静かに息を吸う。

 その声は、私のひびく。

『ナオ、消えて』

 次に呼ばれたとき、私は京都の地にいる。


◇◇◇


「……え?」

 目を開いたしゆんかん

 まず、私はぜんとして声をらしてしまった。視線を送っていた先は、正面に立っていたなおではなく、その先に広がる光景だった。

 うすい雲のたなく夕空。赤く切なげに色づいたりようせん

 あらしやまの間をゆうゆうと流れるかつらがわかるのは、げつきようである。私が立っているのは、げつきようと紅葉でにぎわう山々を望む、かつらがわせんじきだったのだ。

 ここからでも、夕焼けを背景にげつきようわたっていく人の姿がよく見える。着物姿の外国人。走る兄弟を追いかける母親。手をたたいてはしゃぐ修学旅行生。

 自転車でのんびり走っていく男の子は、きっとすぐ近くに家があるのだろう。橋の上にはバスや自家用車も走行している。あらしやまを代表する観光名所だけれど、げつきようは地元住民にとって生活道路でもある。

 そんな景色をながめていた私は、思いだしたように小さくふるえる。ひとのないせんじきで、すさぶ風を防ぐ手立てがないからか、ぼんである京都は想像以上に寒かった。本格的な冬の気配が、静岡よりずっとのうみつに感じられる。

「寒い?」

 絶景をゆずるように後ろに下がっていたなおが、首をかしげる。寒さの理由は外気だけではなく、今のなおの格好にあった。

 目の前のなおは、愛らしいゆきうさぎのようだった。椿つばきもんようが美しいはな色の着物に、こんいろの上品な帯を合わせている。着物のがらがシンプルだからこそ、整った顔立ちや立ち姿がよりきわつ。

 つやのある長いかみはサイドを三つ編みにしてねじりながら、後ろでまとめてある。ほんの数時間前のおく辿たどったところ、着物レンタルのお店で着付けやヘアセットをやってもらったようだ。

 もこもことしたファーに包まれた首を下げてみれば、もちろん私も同じ格好をしている。どうりで手足が冷えているわけだ、となつとくした。

 ぞういた足元だけは、みようんでいる。演劇練習に明け暮れた日々を思い起こしながら、私は首を横にる。

「へーきだよ。もう少ししたら慣れると思う」

 インナーを着ているし、おなかと背中にカイロも仕込んであるようだ。寒さ対策はばんぜんである。

 そう、となおうなずく。そのさらに後ろに、さなくんとアキくんの姿があった。

 二人もまた着物姿である。灰色みの強い、くすんだ茶色の着物は一見地味だったが、差し色の金茶色の帯があざやかで着慣れたふうを受ける。落ち着いた黒いおりは温かそうだ。

 私は、さなくんをえんりよがちに見つめる。アキくんにそっくりどころか、当然ながらまったく同じ容姿の男の子を。

 アキくんは今まで一度も消されることなく、けいぞくして生活を送ってきた。もし一回消されてから呼ばれたら、俺ぽっちゃりになるよ、なんて前にふざけて言っていたけれど、外見上のちがいがほとんど分からないことに安心した。急にアキくんが太ってしまったら、百年のこいが冷めるとまでは言わないけれど、少なからず私はどうようしていただろう。

 しかし体型や、短く切られた指のつめはともかくとして、明らかに変化していたのはかみの長さだった。

 さなくんは最近になってさんぱつしたのだろう。かみがたはほとんど変わりないけれど、ほんのわずかにアキくんのまえがみが短くなっている。どこかに消えてしまった数ミリのまえがみに、私は、もっとれていたかった。

 ただこうして並んでいると、どちらがアキくんで、どちらがさなくんなのかはいちもくりようぜんだった。

 さなくんは、どこか気弱そうで落ち着かない。なおとアキくんをちらちら見るばかりで、私のほうは見ようともしない。

 なおが、さなくんをいちべつして言う。

さなは、まだ?」

「え?」

 さなくんはまどったような顔つきをしている。

「まぁ、いいけど」

 なおは、ひとりで何かになつとくしたようだった。

 短いやり取りの意味は分からないまま、私はなおに視線をもどした。

 美しくかざったなおだれよりもきれいななおに、そっと問う。

なお。旅行、楽しい?」

 心のかたすみで私はいつものように、つまらない、と返ってくるのを期待している。

「見ての通り、まんきつしてる」

 着物のそでを、なおがひらひらとらす。

 左手には、白地にさんくずしの模様が入ったシンプルなデザインのがま口バッグをげていた。家を出発するときには持っていなかったそれは、着物レンタル時にいつしよに借りたものだ。

 私はなんて言ったらいいか分からず、ちんもくを返す。

 今日のなおは、いつもと何かがちがう。それにどうようしているせいか、着付け以前のなおおくをうまく辿たどれない。

「とりあえずすわる?」

 なおは何事もなかったように、せんじきの段差にこしかけるようにすわる。

 それにならってかきよを取って、困り顔のままさなくんがしゃがむ。そのとなりにアキくんもこしを下ろした。私もだまって従うことにする。

「急に呼んだのには理由があって。ナオに、見せたいものがあるの」

「……うん」

 私は、いきのような声でうなずいた。本当はうなずくのもおつくうだった。

 この十一月だけではない。九月じゆんころから、ずっと考えていたことだ。

 なおは、いったい何がしたいのだろう。しばらく学校に行けと言ったかと思えば、これからは自分が毎日行くという。

 理由をたずねても、何も話してくれない。私は、身勝手で気まぐれで、やりたい放題のオリジナルにまわされてばかりいる。

 それはいわば八つ当たりに近い感情だった。でも私は、八つでも九つでも、いくつだってなおに当たらずにいられなかった。

 うんざりする私に気がつかず、なおは白い指で手元のスマホをあやつっている。

「さっき、修学旅行前に受けた共通模試の結果が出たの」

 差しだされたスマホを、とりあえず私は受け取った。

 修学旅行に旅立つ前週、なおが自宅で模試を受けていたのは知っている。担任の先生から、強制ではないが進学希望の生徒は個人で受けておくように、と通達があったものだ。

 お母さんに話して許可をもらったなおは、慣れない申し込み手続きや受験料のはらいをした。

 受けたのは英語、数学、国語の三教科。配点はそれぞれ百点だ。貴重な日曜日を丸々使って、なおはウェブ受験に取り組んだ。

 スマホ画面には成績をかくにんする、と書かれた無機質なボタンが大きく表示されている。ここまで来たなら、あとは指先ひとつ動かすだけでなおの模試結果にアクセスすることができる。

 でも、どうして私に?

 こんわくした私は、なおを見やった。視線には気づいているだろうに、細いまゆを寄せたなおかつらがわの流れを見ているだけだ。

 かわながめる彼女のおくが、夕日の光にとおって金色にかがやく。

「まだナオに、知られたくなかったから……自己採点もしなかったし、結果もまだ自分の目でかくにんしてなくて」

「私が、最初に見ていいの?」

「いいよ」

 そう言われれば、見る以外のせんたくはない。

 躊躇ためらいながらも、私はボタンを押した。ぱっ、と画面が白くわる。

 スクロールするまでもなく、三教科の点数は一目でかくにんできた。

 無言の私にいらちをにじませることはなく、なおがゆっくりと口を開く。

「それぞれ、何点?」

 しっかりちがいないことを確かめながら、私は口に出した。

「英語が四十四点、数学が五十二点。国語が六十二点だよ」

 客観的に判断するなら、軒並みいい結果とは言いがたいだろう。右横にある判定らんに並ぶアルファベットに、AやSの文字はひとつもなかった。

 でも、私には分かる。

 なおは勉強が苦手だ。そんな彼女がこれだけの点数を取るには、相応の努力が必要だった。

 私が代わりに学校に通い続けた、約一か月間。なおは自室にこもり勉強に明け暮れていた。分からないところがあれば私にいてきた。ちがえるたびにノートをぐしゃっとさせながら、何度も同じ問題を解いていた。

 となりを見ると、なおの小さな横顔はあんと失望が入り交じったような、複雑な表情をしていた。それでも私の視線に気づくと、どうだと言わんばかりに胸を張ってみせる。

 ちょっと苦しそうだったのは、むなひもが食い込んだのかもしれない。

「どう? 私だって、やればできるでしょ?」

 ややあってから、目をせたなおたんそくらす。

「……なんてえらぶれる点数じゃなかったけど。思ってたより、ぜんぜんだめだった」

「そんなことないよ」

 私は前のめりになりながら、首を横にった。

 他のだれにばかにされようとも、私にだけはなおのすごさが分かっていた。確かに実を結ぼうとしている努力のかけらを、のがしたりはしなかった。

「だってなお、いつも授業をろくに聞かないで窓の外をながめてたり、かみをいじったりしてたのに、短期間でこれだけ点数をばすなんて、本当に、本当にすごいと思う」

 息せき切って伝えれば、それを聞いたなおは口をへの字に曲げている。

「ねぇ、それめてるつもり?」

 もちろん、そうだ。

 なおは信用ならないと言いたげだったが、あきらめたように話題を変える。

せいりようさいの次の週に、私が言ったこと覚えてる?」

「……うん」

 忘れられるはずがない。泣きつかれた私に、なおが言い放った言葉。

 手をついて、なおがおもむろに立ち上がる。背筋をばして立つ彼女を、私は一心に見つめていた。

「試験の日も、だるい日も、毎日、ずっと。これからはちゃんとげないで、私は私を……精いっぱいがんばるって、決めたの」

 あの言葉の続きを、真意を口にするなおの顔は、きんちようからか赤らんでいる。

「模試は今の自分の全力で、受けた。学校に来られない友達を、私がいるからだいじようだってはげましてみた。平日は休まず学校に行って、修学旅行も楽しんで、この二日間、いろんなところを回った。……昔の私、だったらきっと、そうするって思ったから」

 たどたどしい口調で、なおつのる。さなくんがぜんとしているのは、自分を友人と形容されたことにおどろいたのかもしれない。

 けんにぐっと、痛々しいくらい力をめてなおは続ける。

「これからは、いやなこととか、つらいことばっかりナオに押しつけるのは、やめる。一応、今回はその証明をしたつもり……なんだ、けど」

 はぁ、と力なく、なおいきく。

 額はあせばみ、のどふるえている。そのこわはひどく聞き取りづらいものだった。

 そんなつたない告白を受け止めた私はというと、遅れて立ち上がりながら笑っていた。えられなくて、なにそれ、としようしてしまっていた。

 だって、そんなの。

「分かりにくいよ、なお

 私は、確かに、なおのレプリカだけれど。

 でも、むねの奥底にある本当の気持ちまで、私が、分かるわけないじゃない。なおの大事な目標を、めていた大切な思いを、正確に読み取れるわけないじゃない。

 だって私は、そんなあなたのレプリカなんだから。

「すっごく、すっごく、分かりにくいよ、なお

 口を開くたび、私は泣きそうになる。

 なんて、不器用なんだろう。めんどうな子なんだろう。でもそんななおが、どうしようもないくらいいとおしかった。

 私と向き合うなおの目がうるんでいる。今、私たちは、同じ表情をしているのだと思った。

「……ごめん、ナオ。ごめん」

 なおが、躊躇ためらいがちに手をばす。びてきたりよううでを、私は受け入れた。

「ごめんね。今までたくさん、本当に、ごめん」

 ごめん、ごめん、と星のように降ってくる言葉といつしよに、私はほうようを受け止める。

 私は、やっぱり、なおのことをなんにも分かっていなかった。

 なおは、前にみだしていた。決して私を見返すためなんかじゃない。いやがらせなんかじゃない。

 なおは。なおは、なおは。

 自分の人生を。

 たったひとりきりの自分で、生きるかくを決めていたのだ。

 かたひじ張って、前を向いて、私に行ってきますを言ったのは、げずにがんばっているんだって、ちゃんと見ていてって、伝えるためだったのだ。

 私はなおをはきちがえていた。なおめていた。彼女の決意を、見誤っていた。

 なんで祝福、できなかったのだろう。おうえんしてあげなかったのだろう。行ってらっしゃい、がんばれって、一度も言ってあげられなかったのだろう。

 ようやく私は、ひとつの言葉を返す。

なお、がんばったね」

「……ん」

 ずかしそうになおあごを引く。私もおくれて両手を、なおの背中に回そうとする。

 そのつもりだったのに、アキくんの声が、私を夢見がちなここから現実へともどした。

「ナオ、指が……」

 が不安定にかすれている。指? そのひびきのおんさに、私は顔を上げた。

 見れば、私の指がとうめいになっている。

 なおの背に回そうとした両手の指だ。そこからうでに至るまでが少しずつとおっていき、向こう側にあるふゆれのしばが見えている。

「なに、これ?」

 きんちようかんのない私のつぶやきに、答える声はなかった。だれも、起こっている現象の意味を理解できていないのだ。

 でも、それは私も同じだった。悲鳴を上げることもできない。あっという間に身体からだが消えていくのを、これはなんだろうと思いながら見ているだけだ。

 たいこうするすべを持たないまま、私は空気にけるように、あやふやになっていく。

 それは現実味がないからか、ひどく美しい光景だった。見とれる合間にも指が、手首が、うでが、かたが、

「ナオッ」

 アキくんがさけぶように私の名を呼び、消えかけていた両方のかたつかむ。

 無理やりなおからがすように、強い力で後ろに引っ張られる。アキくんを巻き込んでしばたおれて、そのしようげきでようやく正気づいた。

 今、私の身体からだは、……消えかけていた?

 まなじりがけるほど大きく見開いて、両手を上げる。できなかった。かたから先までしんしよくは進まず、ちゆうはんに止まってはいるものの、失ったうでもどってきていない。

「な、え、あっ、ああ…………

「ナオ、だいじようだ。ナオッ」

 起き上がることもできずに動転して、死にかけの魚のように口をぱくぱく開け閉めする私のかたに、アキくんの手がれている。

「ナオ、だいじようだいじようだから、落ち着いて」

 アキくんにも、なんにも分かっていないはずだ。泣きそうな声からして明らかだった。

 それでも熱いうでが、かたいている。アキくんの手のかんしよく。この手があれば私はだいじようなのだと、暗黒の海で、昨夜のしんしつで、そう言い聞かせた手が私を必死に引き留めている。

 私は短く、のどの奥でうなった。閉じた目の合間からなみだを流しながら、目の奥に力を入れて、あいまいな自分を引き寄せた。ばらばらにくだけていきそうになる自分を、たぐり寄せて、つなめた。

 呼吸をする。酸素を吸って、二酸化炭素をく。当たり前のことをする。意識してやらないと、もう、うまくできない。

「……ナオ」

 それから数秒か、数分ってのことか。

 アキくんに呼ばれた私は、あせなみだか分からない液体でにじむ目を開き、おそるおそる確かめる。

 そこに私の両手があった。ぐーぱー、ピンクのつめこうに見ながら自由に開くことだってできる。何度まばたきして確かめても、どこも、とおってなんかいなかった。

 それでも信用ならなかった。今、私の両目がとうめいになっていないしようがない。

 引きつるのどから、しぼるように問いかけた。

「私、見え……てる?」

「見えてるよ」

「ここに、いるよね?」

「いる。見えてる、ちゃんと」

 首が痛くならないかと心配になるくらい、アキくんは何度もうなずいた。

 私はアキくんの助けを借りて、のろのろと身体からだを起こした。全身にいやなあせをかいていた。悪い夢を見ていたのだと思い込むには、せんじきの空気は冷えすぎていた。

「……なんで?」

 まるで合わせ鏡のように。さなくんに手を借りて立ち上がったなおは、がくぜんとしていた。

「ねぇ。なんでだれもさっきから……こっちを見てないの? 今、ナオが、消えかけたのに……」

 言葉の意味を理解しないまま、私は、その視線の先を追った。

 くす私の耳が、にぎやかな声を拾う。あおげばせんじき上の散策路を、何人もの観光客が歩いている。

 よくよく考えれば、どうしてなおたちはげつきようの近くだなんて、人目につくところで私たちを呼んだのだろう。ホテルの個室とかカラオケルームとか、他に安全な候補はいくらでもあったはずだ。

 他人の目がある場所で、私となおが同時に存在したことはない。今まで彼女と顔を合わせるのは、ほとんど自室に限られてのことだった。なおは私といつしよにいるところを、家族や他のだれにも見られないよう注意深く過ごしていたのに。

 ふと、顔も名前も知らないだれかがこちらを見下ろす。心臓がひとつねた。

 きっと、なおと見比べられる。気づかれてしまう。

 そんな私のを、しかしだれもが、楽しげに話しながらあっさりと通り過ぎていく。

「……?」

 私はまゆを寄せる。何かがおかしかった。

 いちらんせいそうせいは、並んでいるだけでそれなりの注目を集める。まったく同じ顔、同じ背格好、同じ服を着ていればなおさらだ。

 着物姿のなおがきれいだからか、ちらちらとかえる人は何人かいるけれど、だれしんがっている感じではない。

 ちがう。そうじゃない。やっぱりおかしい。

 どうして通りかかる人たちはだれひとりとして、私とアキくんに目を向けないのだろう?

あいかわさん。そこに、いるの?」

 横合いから聞こえた声に、私は身をふるわせる。

 じやみちみしめて近づいてくるのは、ブーツをいたとうさんだった。短いかみあざやかなはなかざりでいろどっている。着物は大きなうめがらはなやかなむらさきいろで、本人のりんとした印象を引き立てていた。

 いぶかしげな顔のまま、なおが小さくうなずく。とうさんは何かを探すようにきょろきょろしてから、次にさなくんのほうを向いた。

さなくんは?」

 ふぅ、とさなくんが息をく。ようやくいてもらえた、と言いたげに見えた。

「いるよ。ちゃんと呼んだけど、さっきからあいかわにも分からないみたいで混乱してる」

「えっ、どこに呼んだの? だってどこにも……」

 なおはわけがわからない、というように首をひねっている。

 三人のちがったやり取りを聞いているうちに、私は気づいた。

 いな、もうとっくに気づいているのだと認めなければならなかった。だからのどもとやいばとしてきつけられるより早く、自ら口にしていた。

「私、いないんだ」

 なおとアキくんが、同時にこちらを向く。さなくんととうさんは、無反応なままだ。

 声がふるえないよういのりながら、私はかえす。

「今、さなくんや、とうさんや、他の人の世界に……私とアキくんは、いないんだね?」

 いない。見えていない。

 その言葉に、なおが表情を険しくする。

「……どういうこと?」

 話題を察したのか、両手を合わせたとうさんが早口で言う。

「ごめん。あいかわさんとさなくんに、目立つところでレプリカを呼んでみてほしいってお願いしたのはあたし。理由についてはないしよにしてたから、二人を責めないでね」

 けんとうちがいの方向を向きながら、とうさんは続けた。

「あたし自身も、昔レプリカがいたのに……ううん。いたからこそ、かな。レプリカの存在に、半信半疑の部分があったんだ」

 そんなとうさんの言葉が、おくひびき合う。私のじゃない、修学旅行中のなおおくだ。

 なおが見て、聞いたこと。新しく知り、口にした推測。んでくるようなおくほんりゆうまれそうになりながら、私は必死に足をる。

 物語のページをめくるように、どうにか読み取ろうとする。ポッキーみたいな千本鳥居。男子からの告白の言葉。なみだれた視界。コーンポタージュかん……。

「イマジナリーフレンドとか、かいせい同一性障害とか。今のあいかわさんやさなくんを言い表すのにいろんな言葉があるかもしれないけど、どれもしっくり来なくてね」

 とうさんがなおに向き合う。

あいかわさん、あくたがわりゆうすけの『歯車』って読んだことある?」

「……ないけど」

「うん、だよね」

 真顔でうなずとうさん。ばかにされたと思ったのか、なおはむっとしていた。

「でも、あたしに『走れメロス』をすすめてくれた文芸部のナオさんなら読んだことがあるんじゃないかな。どう?」

 私は何かを念じるようにゆっくりとうなずいたけれど、とうさんはあらぬ方向を向いたままだった。くうに向かって彼女が続ける言葉は、私が思いだすものと似通っている。

『歯車』は、あくたがわりゆうすけ晩年の作品である。あくたがわ自身をモデルにしたとされる主人公の「僕」は、知人のけつこんろうえんに出席するために出かけ、レエン・コオトを着たゆうれいの話を聞く。それから「僕」は何度もレエン・コオトを着た男の姿を目にし、けいがレエン・コオトを引っかけてれきしたと聞いたことで、それが自身の死を暗示するものではないかとおびえる……。

 そして作中では、こんな不気味な話が語られるのだ。


 第二の僕、──独逸どいつじんのいわゆる Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。しかしの映画俳優になったK君の夫人は第二の僕をていげきろうに見かけていた。(僕はとつぜんK君の夫人に「先達せんだつてはついあいさつもしませんで」と言われ、とうわくしたことを覚えている。)それからもう故人になったあるかたあしほんやくもやはり銀座のある煙草たばこに第二の僕を見かけていた。*2


「何が言いたいかっていうと、ドッペルゲンガーを見たっていうもくげきしやは、それと同時に本物を見てないのよね。世界的には例外もあるんだけど、それも今さら本当の話か判断がつかないから」

 その場の全員が、目をしばたたかせる。代表するようにさなくんが口を開いた。

「それは、当たり前じゃないのか? そこに本物がいるはずがないから、ドッペルゲンガーだってさわがれるわけだろ」

「でも、そこにいたのがひとりなら、そのときもくげきしたのがどっちだったかは分からないよね? 何かがおかしいぞってなるのは後日、本物にかくにんしたあとのことじゃない」

「……それは」

「レプリカが学校に通っているとき、本当にあいかわさんとさなくんは家にいたの?」

 私は、とうさんのまっすぐな目を、おそろしいと思った。

 つらぬかれているなおさなくんは、どれほどきんちようしたことだろう。着物に着慣れていないというだけでなく、二人の上半身はこわっているように見えた。

「第三者が、二人を見ていた? 観測していた? 日中は知り合いに見られると困るから、二人とも外にはまったく出てなかったんだよね?」

 まくし立てるように次々と放ってくれたなら、まだ良かった。

 でもとうさんはあくまで冷静だった。指折り数えていくように眼前に並べられていく疑問の数々に、だれも口をはさめずにいる。

はやせんぱいとのバスケ対決のあと、四人で電話しに話をしたんだってね。あいかわさんとさなくんは家にいて、ナオさんとアキくんは体育館にいた。でもおたがいに、それらしい声を聞いていただけで……本当に電話先にいるのがだれなのかは、観測してないわけだよね」

 なおと私は今まで一度も、いつしよにいるところをだれかに見られたことがない。とうさんの言葉を借りれば、だれの目にも、同時に観測されていない。

 九月ちゆうじゆん、私とアキくんはいつしよに映画館に行った。同時刻、なおはりっちゃんと食事をしていた。

 でも、あのときも同じだ。りっちゃんは私となおが並んでいるところを、その目で見たわけではなかった。

「それなら、待って。さなが昨日話してた前生徒会長の件はどうなるの?」

 額にあぶらあせをにじませたなおが、いどむようにするどい目でとうさんを見つめる。

「母親は二人のむすめを見てパニックになって、父親はひとりのむすめを祖父母のところに預けることにした。それなら二人は両親によって同時ににんしきされてる、そういうことになるでしょ」

 ほおを赤くして主張するなおは、私をかばっているみたいだった。

 これを受けても、とうさんはまったくらがない。

「もりりん会長の話ね。聞いたときにさ、ちょっとかんあったの。自分が手をつないでる子どもと同じ顔をした子どもがいたとして、パニックにおちいって、体調をくずして……なんてこと、あるの?」

 今まで疑問すらいだいていなかったことを、とうさんは冷静にく。

「いや、本人から話を聞いたわけじゃなし、あり得ないは言いすぎかもしれないけど。現状をまえれば、もっと分かりやすいかいしやくがあるでしょ。……そのときのお母さんには、リョウせんぱいが見えてなかったんじゃないかな」

「見えてなかった?」

 つぶやく私の声は、とうさんには届かない。

 私は重い頭を動かして、お母さんの気持ちに沿って考えようとする。すずみという名前のむすめを持つお母さん。彼女に思いをせれば、そこには自然と、なおのお母さんのおもかげが重なっていく。

「演劇発表会に向かう朝。後ろから五歳のもりりん会長が追いかけてきて、こう言うの」

 ごめんね、ドッペルちゃん。わたし、やっぱりお母さんとようえん行く。ちゃんと演劇発表会に出て、ままははやる。だからドッペルちゃんは、おうちで待っててくれる?

 つないでいた手のかんしよくは、いつの間にかなくなっている。そこにいたはずのむすめは消えていて、代わりに息を切らしたむすめが、どこかを見てしやべっている。

 何が起きているのか、すぐには理解できない。この子は何を言っているのだろう。何をそんなにいつしようけんめいに話しているのだろう。

 よくよく見ればその視線の先には、何かをにぎる形をした自分の右手がかんでいる。小さなぬくもりの残る、右手だけが。

 すずみ、どうしたの。ドッペルちゃんってだれ? そう問いかけると、むすめは信じられないというように目を見開く。今も、ママのとなりにいるでしょ? わたしと同じ顔の女の子。そこに、いるじゃない。

 おそろしさに身体からだふるえる。むすめが、おかしくなってしまった。

 この子には、何かみようなものが見えている。見えるはずのないものが見えてしまっている。泣きながら夫にれんらくし、なんとか仕事先からもどってきてもらう。

 夫はこんわくしながら、泣きながら主張するむすめの言葉を信じる演技をする。そこにいるね、確かにもうひとりいるね、とうなずきながら、目に見えない何かをゆうどうして車の助手席に乗せる。そうして泣き続ける子どもに伝わるように、んでふくめるように言い聞かせる。

 これからはね、すずみとドッペルちゃんはいつしよにはいられないんだ。でもお父さんが、責任を持っておばあちゃんたちのところに預けてくる。だから安心して待ってなさい。お母さんのそばについていてあげなさい。分かったね。

 車に乗って走りだした夫は、間もなく警告音を耳にする。

 シートベルト未着用のむねを知らせるみみざわりな音。先ほどまで何もなかった助手席には、むすめと同じようぼうむすめが乗っていたのだ。

「……なんて、ほとんどもうそうの域だけど。でも、あながちちがってないと思うの」

 すずみせんぱいにとっても、リョウせんぱいにとっても、五歳のころの出来事なのだ。前後の混乱もあっただろうし、正確に物事をあくしていたわけではない。お母さんは見えないりをしたがっているのだと、思い込んでしまったのかもしれない。

 すずみせんぱいのお母さんは、リョウせんぱいのことを視界に入れるのもいやがって、バケモノあつかいした。そうリョウせんぱいとらえていたけれど、それもかんちがいだったのではないか。単にお母さんの目に、すずみせんぱいとリョウせんぱいが同時ににんしきできなかっただけだったのだ。


 あなたは、そのためにあの日、何もないところから生まれてきたのかもしれない。


 今年の八月、じのみやにやって来たすずみせんぱいのお母さんが、リョウせんぱいに向けた言葉。

 今思えば、どこかかんのある言い回しだ。リョウせんぱいを生んだのは、確かにすずみせんぱいであるはずなのに。

 でも、彼女にとってはちがったのだ。

 自分の目に見えない生き物を、人は、人とは呼ばない。

「……っていうのが、あたしの考え。オリジナルが自分のレプリカをにんしきできるのはごく自然なことで、その逆も同じ。レプリカ同士がにんしきし合えるのは、存在している層みたいなものが同じだから、じゃないかな。オリジナルがそこにいなければ、レプリカは一時的に層を移動して、オリジナルの肉体を借りることができる……んだと思う」

 オリジナルとレプリカが、同時に他者ににんしきされることはない。そう結論づけたとうさんの話に、私は、相応のしようげきを受けているはずだった。

 でもどこか、胸にすとんと落ちてくるものがある。

 さんはむすからしようさいを聞き、その仕組みについて最初から知っていたのだ。なおと私がいつしよに生きていく道なんてないと、絶対にあり得ないのだと、さんには分かっていた。だから家に住まないかと提案してくれた。

 はやせんぱいによって私が線路にとされたときも、そう。血のあとも死体も残らなかったのは、なおから一時的に借り受けていた肉体があのしゆんかんもちむねの自室へともどっていったから。

 他者によって事象を観測されなければ、死んだことにはならない。死を実感した私自身が、えがたいほどの激痛を感じていたとしても。

 考えてみれば、当たり前のことだった。考えるまでもなく当たり前すぎて、私は目をらしていた。

 あいかわなおは、最初から、この世にたったひとりしか生まれていなくて。

 世界が、人々がにんしきするあいかわなおだって、もちろんひとりだけなのだ。

…………、」

 口を開けて、閉める。意味のある言葉が出てこなかった。何かを言えたところで、それが聞こえるのはなおとアキくんだけなのだ。

 地面に目をやる。不自然なくらいかたむいた松の木のかげや、でたらめにびた他人のかげが、私の足元にいくつか重なっている。楽しげな話し声が、風に乗ってひびわたる。

 どんなに目をらしても、その中に私とアキくんのかげはなかった。

 世話焼きのウェンディがどんなにがんばってさいほうしようとしても、ピーター・パンのようにはなれない。そこに肉体がなければ、かげがあるはずもないのだ。

 重いちんもくが満たすせんじきに、足音が近づいてくる。

「どしたよ、三人で変な顔して。なんかあった?」

よしくん……」

 私はその名前を呼んだ。思った通り彼は、つかれきった私に見向きもしなかったけれど。

 まゆのあたりをくもらせたとうさんが、派手な赤い着物を着たよしくんのすそを引っ張る。

よし。ちょっと、あたしとあっち行こ」

「うぇ? なんで? ま、まさかさなけであいかわさんに告白するつもりなんじゃ」

「いいからさっさと来るの!」

 うひぃ、とおどけた感じによしくんががってみせる。だれも少しも笑わないので、くちびるとがらせつつ、せんじきはなれるとうさんについていく。

 その場に残ったのは四人だった。

 さなくんからはなれてくしたなおは、真っ青な顔をしている。

「ごめん。こんなことになるなんて、思わなくて」

 ううん、と私は首を横にる。なおは何も悪くない。もちろん、レプリカの仕組みを解き明かしてくれたとうさんだってそうだ。

 むしろ、私だった。謝罪しないといけないのは、なおじゃない。

あやまるのは私のほうだよ、なお

 私は呼びだされるたび、最新のなおおくを共有する。

 とうさんやさなくんと話して、なおが知ったこと。気づいたこと。しくもそれは昨夜、もちづきせんぱいとの会話によって、私とアキくんが思い至った内容と重なっていた。

 オリジナルとレプリカが、他者に同時ににんしきされないこと。重要なのはそれだけではない。

 私はあえて口角を上げて、明るい声で呼びかける。

「ねぇ、なお

「……なに?」

なおがなくしたやさしさ。私、どこに行ったか知ってるよ」

 私はそっと、なおの手を取る。

 冷たい手だったけれど、良かった、と思う。他のだれに見えなくたって、私はなおれられるし、ぬくもりを分かち合うことだってできるのだ。

 両手で引き寄せた手のひらを、私の胸のまんなかに当てる。なおおどろいたように身をすくませたけれど、引っ込めたりはしなかった。

「私が、持ってたよ。なお。ここにあるよ、なお

 なおの大きな目の中で、切なげに光がたわむ。

 きらきらと光るかつらがわの水面よりもまぶしい光が、私を見ている。

「ねぇ、なお。ここにあったよ」

 あれは、夏の日のことだった。ほんだいらどうぶつえんから帰ってきた日。

 私を返して、となおは言った。寄る辺のない声はふるえていた。

 なんにも取ってないと思っていた。そう信じていた。私は自分のものを、何一つとして持っていない。そうかたくななまでに思い込んでいたから。

 でもそれは、大きなかんちがいだった。

 なおだけは覚えていたのだ。自分のあだ名を取られたこと。

 胸のまんなかにあった大切な感情を、失ってしまったこと。

「私はなおから、本当に大切なものをうばったんだね。名前を、やさしさを、うばっていたんだね」

 本当に、分かってみれば単純なことだった。


 ……友達とくちげんして、意固地になってしまった。あやまりたいけれど、あやまっても許してくれなかったらどうしよう。向き合うのがおそろしくて、部屋から一歩も出られなくなってしまう。

 ……暴力をるってきたせんぱいがいる学校なんて、こわくて行けない。自室のすみふくしゆうげきに思いをせる。それでもせんぱいなぐる役割は、自分じゃできない。直接たいするなんてもつてのほかだ。

 ……好きな男の子の前で、意地悪できらわれ者のままははなんて演じたくない。かわいいおひめさまができないなら、せめて彼にあきれられないように、上手に演じなきゃ。ままははにならなきゃ。

 ……友達を助けたいのに、保身を第一に考えてしまう。あの子みたいにつまはじきにされて、のけ者にされるなんていやだ。でも友達を救えない自分は、情けなくてもっといやだ。

 ……こいびとに捨てられた。こんなろくでもない人生は終わりにしたい。目の前の海に飛び込んで、あわになって消えてしまいたい。とっとと死んでしまいたい。


 私が生まれた日の話。

 なおは、泣きながら助けてと言った。だれか私を助けて、って。

 められた末に、なおは自分自身の一部をはなしてしまった。切実に唱えられた願いをゆがんだ形でかなえたのが、レプリカの正体なのだ。

 私がりっちゃんにあやまれたのは、やさしいなおだったから。

 アキくんがはやせんぱいのいる学校に登校できたのは、勇気のあるさなくんだったから。

 リョウせんぱいがかぐやひめを演じられたのは、表現力のあるすずみせんぱいだったから。

 とうさんのレプリカが友達を救えたのは、友情に厚いとうさんだったから。

 アロイジアのレプリカが本物を海にとせたのは、死にたがりのアロイジアだったから。

 人はしばしば、相反する二つの感情をかかえることがある。たとえば友達と遊びに行く約束をしたけれど、起きたらなんとなくめんどうになっている。その気持ちが大きくなると、ドタキャンしようかな、とあくささやきが聞こえてくる。

 そんなとき、何もないところからではなく、自分の一部をはなす。めんどうだと思う自分じゃなくて、外に飛びだしたくて仕方ない、内側にあった小さな自分だけを。

 レプリカは、オリジナルの中にある感情をうばって生まれる。それを原動力に動くから、オリジナルとはまったく別の行動を起こすことができる。

 私はなおの中に確かにあった、温かなやさしさをうばって生まれてきた。アキくんもまた、さなくんの中にあったなけなしの勇気をうばったのだ。

 でも失ったものはもどってこない。ぽっかりと空いた穴は血をき、まるどころか傷口は延々と広がり続けていく。

 私たちはゆがまされていて、最初からオリジナルとは決定的にちがってしまっている。そんなリョウせんぱいの覚えたかんは的を射たものだったが、正しくはなかった。

 私たちが、オリジナルから変化していたわけじゃない。

 リョウせんぱいの言葉を借りるなら、少しずつゆがんでいったのは、私たちを生みだしたオリジナルのほうだったのだ。


 いったい、けものでも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれをおぼえているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?*3


『山月記』のちようが少しずつ、自分が人間であったことを忘れていったように。

 なおやさしさを、さなくんは勇気を忘れていく。最初からそんなものは持っていなかったように、じよじよそうしつしていく。

 私はなおの手をそっとはなした。目を向ければ、よいやみせまげんそうてきな橋の上を、かげだけになった人々が通り過ぎていく。

 果たしてこの中の、どれだけの人が覚えているのだろう。どれだけの人が、私は頭のてっぺんから足のつま先まで、生まれ落ちたときからこういう私だったのだと、自信を持って言えるのだろう。

 心の中で問いかける。どこかに置き去りにしたレプリカのことは、忘れちゃった?

 それともあなたは私と同じ、ひとつの感情から生まれたレプリカだったりする?

うばってた、っていうより……私が勝手に押しつけたっていうほうが、近いと思うけど」

 ちようするようななおつぶやきに、私はゆるく首をる。なおもまた、目を細めてげつきようを見つめている。

「……私ね。少しずつ、やさしさを忘れていったような気がする。だからいっそう、ナオがうらやましかった。だれに対してもなおで、やさしい。それならナオがあいかわなおになればいいのに、って何度も思った。そしたら頭が痛くなって、おなかが痛くなって、なんにもがんばれなくなった。だめな自分に、どんどん慣れていっちゃった」

 目の前の川の中に光る白い石が、なおやさしさだったとするなら……私はその石をのどおくんだまま、川から上がってきてしまった。

 んだ石は簡単には取りだせない。返せない。

 アロイジアの場合は事情がちがう。彼女のレプリカは死にたい気持ちをかかえていたからこそ、生まれて間もなく、ひとりで海に消えていったのだ。

 死のふちをさまよったアロイジアは、自殺願望もレプリカの存在も、きれいに忘れてしまったのだろう。こうして『帰ってきたにんぎよひめ』という、現代のドッペルゲンガー伝説が成立した。

 同じ方法ではやさしさはもどせない。だとしたら、どうすればいいのか。

 思いつく方法はひとつだけある。つい先ほど、かりになる体験をこの身で味わったばかりだ。

 確証はなかったけれど、私にはそれが正解だという確信があった。それ以外には考えられないとすら思っていた。

「私がなおに吸収されれば、うばったものは元にもどるんだと思う」

 またレプリカとして呼ぶために、一時的に収納するのでは足りない。

 なおきしめられること。そうすれば私は、なおの中に吸収されていく。

 時間はかかるかもしれないが、二つに分かたれたたましいはひとつにもどっていくだろう。これが、うばったやさしさをなおに返し、元通りにするための手順だ。

 すべてを知った私は、かくを決めていた。いつだって命じるのはなおの権利だ。多くのことが分かった今なら、なおさらだった。

「ナオ」

 なおが、私を呼ぶ。

 自分のものだった名前で私を呼んで、言う。

「好きなほうを選んでいいよ、ナオが」

「……え?」

 げつきように、強い風がく。

 ピンでしっかり留められたうしがみはびくともしなかったけれど、乱れたまえがみの合間から、私はまばたきもせずに彼女を見つめていた。

 かためているかに思えたなおの顔は、晴れ晴れとしていた。どこまでもおだやかに、夕暮れの中で微笑ほほえんでいた。

 今のなおは、なんてきれいで、まぶしいのだろう。

 その表情はだいに、私とシュークリームを半分こにしていたころなおと重なっていく。口元にクリームをつけた私にあきれたように笑って、指をばしてぬぐってくれた幼いなおと、同じ温度のものだった。

 私に、せんたくを押しつけているのではない。責任をきつけているわけでもない。

 私の意思を尊重して、任せようとしている。

 だれよりもやさしいころなおりんかくを、必死になぞろうとするなおが、そこにいたから。

「ナオが決めて、いいんだよ。ナオとして生きていくか。それとも……私の中にもどってくるか」

 私ののどが、ふるえる。

 げる思いで、息がまる。言葉にならない気持ちがあふれてきて、おぼれそうになる。いちど、ぎゅっとくちびるめて、私はなんとか呼吸を整えた。

 息を吸う。く。

 なおかすこともなく、待っていてくれる。だからあせることはない。

 それに自分の中の答えは、最初から決まっていた。

 私はなおの目を見て、答える。


なお。私は、…………