翌日、朝早く起きて朝食をいただいたあとは、みんなで畑仕事を手伝った。
じゃがいもの収穫や草取りを終えて、私たちは富士宮駅に戻るつもりだったけれど、多恵子さんたちはもう一泊すればいいと笑顔で言ってくれる。午後は田貫湖と、富士山本宮浅間大社にも車で連れていってもらった。
二日目の修学旅行も、夕方になるのはあっという間だった。
帰ってきて、豊さんは友人に野菜を分けてくると出かけてしまったが、私たち四人は居間でのんびりお茶をいただいていた。
お茶の横には、もちやで買った草大福が鎮座している。私は爽やかなよもぎの香りを吸い込みながら、もちもちの大福を頰張っていた。
すると明日の天気を訊ねるような口調で、多恵子さんが口を開く。
「ナオちゃん、アキくんも。この家に一緒に住む?」
それは、あまりに思いがけない言葉だった。
硬直する私たちを見て、多恵子さんが申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさいね。昨晩の話がちょっと聞こえてきたものだから」
「あ……」
襖の向こうが静かだったから、誰も気にしていなかった。でも本当はあのとき、まだ二人とも居間に留まっていたのだ。
小さくてかわいい草大福を、さらに四つに切り分けて大事そうに食べる多恵子さんは、昨日より穏やかな顔つきをしている。
笑みの浮かぶ優しい横顔が、ゆっくりと大切そうに言葉を紡いだ。
「余計なことかもしれないけど、あなたたちのこと、わたしは放っておけないわ。豊さんもそう言ってた。これはリョウちゃんがいたからこそ、言えることなんだけど……生きてさえいれば、なんとかなるものだから」
生きてさえいれば。
そう、多恵子さんは自身に言い聞かせるように繰り返してから、どこか照れくさそうな笑みを浮かべた。
「いろいろ事情があるだろうに、ごめんなさい。今すぐにってわけじゃないの。ただ、そういう選択肢があるってことは、二人とも忘れないで」
「……ありがとうございます、多恵子さん」
私は、小さな声でお礼を言った。アキくんも頭を下げている。
私たちは目を合わせることもなく、それぞれ残りの大福をつまむ。まさかそんな道があるなんて、今まで思いもしていなかったのだ。
もしも私とアキくんが、多恵子さんたちに引き取られて、この家で暮らすようになったら。
今日のように平穏な毎日が、続く。畑をいじって、たまにはみんなでどこかに遊びに行って、ごはんを食べて、おやすみを言ったら布団に入って、待ち遠しく明日を思う。そんな日常が、当たり前のものとして続いていくのだ。
そんなふうに生きていけたら、どんなにいいだろう。どんなにか幸せだろう。何度も焦がれたような日々が、にわかに実体を伴って眼前に広がっている。
そのとき、座椅子の肘掛けに手をやって立ち上がった多恵子さんが、やるせなさそうに呟いた。
「どうしたって、もうひとりのあなたたちとは一緒に生きていけないものね」
「……え?」
夢から覚めたような気分になって、私は思わず聞き返していた。
「ちょっと近所に出かけてくるわね。三十分くらいで戻るから」
多恵子さんには聞こえなかったらしい。彼女は変わらない温度で微笑み、居間を出ていった。呆然と見送った私は、多恵子さんの言葉を胸の内で反芻していた。
なんだろう。さっきの言葉に、強烈な違和感がある。絶対にそうすることはできないというような、最初からそうだと知っているような……。
誰かのスマホが鳴る音に、私はびくりと肩を揺らした。
ポケットから出したスマホを見やったアキくんが、眉を寄せる。
「愛川からだ」
素直?
画面をタップしたアキくんは、すぐにスピーカーにする。
「はい」
『……私だけど』
向こう側から聞こえてきたのは、間違いなく素直の声だ。背後には言葉までは聞き取れないが、がやがやとした複数人の声が入り込んでいた。
傍らの望月先輩が黒文字楊枝を咥えたまま固まっているのは、その声……正しくは合成音声が、私の声とよく似ていたからだろう。オリジナルとレプリカの話を念頭に置いていても、驚いてしまう気持ちはよく分かる。
かく言う私も、アキくんと真田くんが隣に並んでいるところを目にしたことがない。逆もそうだった。
なぜかもう一度、耳元で多恵子さんの言い残した言葉が響く。
どうしたって、もうひとりのあなたたちとは一緒に生きていけないものね……。
『今、まだ富士宮? ナオも一緒にいる?』
アキくんが私を見る。私が何も言わないのを見て取ると、「いるけど」とだけ返した。
『ちょっと話したいこと、あって。真田……アキも一緒に、今から京都に呼んでいい?』
私とアキくんは顔を見合わせた。
何か緊急の事態が発生したとしか思えない。それにしては素直の声に焦りはなかったが、急用があるのは本当のことだろう。明日の夜、静岡に戻るまで待てないような何かがあったと考えるべきだ。
それに内容からして、素直の近くには真田くんが控えているようだった。
「少し待っててくれ。またすぐかける」
アキくんはそう断って、いったん通話を切る。
「ナオ、どうする?」
普段の私なら、すぐに頷いていただろう。
「私、行きたくない」
それなのに私は、はっきりと答えていた。
オリジナルが呼んでいるのに行きたくないだなんて、こんなのきっとレプリカ失格だ。試験があるなら、私は落第の判子を押されてしまう。
でも京都になんて行きたくない。
私は、ここにいたい。都合の悪いことは知らんぷりして生きていたい。多恵子さんだって、ここに住んでいいと言ってくれたのだ。
私はそんなことを声もなく訴えていたけれど、アキくんの黒い瞳には、迷いの色はひとつもなかった。
子どものように駄々をこねる私とは、まるっきり違う。
それでも一縷の希望に縋って、私は問う。
「アキくんは、どうするの?」
「俺は、秋也が呼ぶなら応えたい。だから俺ひとりで行ってくるよ」
やっぱり、アキくんは至極あっさりと言う。
どうしてそんなふうに決断できるのだろう。同じ不安を胸に抱えているはずなのに、アキくんは躊躇しないのだろう。悔しくなるけれど、そうじゃないのだと始めから分かっていた。
アキくんも私と同じくらい、もしかしたら私よりも不安で、怖くて、それでも逃げださないだけ。
それなら私だって、覚悟を決めなくてはならない。向き合わなければいつか後悔することだって、本当は知っていたから。
「……ううん。私も、行く」
アキくんが私の目を見る。不本意な選択なのを、聡い彼にはたぶん見抜かれている。それでも大丈夫だというように頷いてみせれば、納得してくれたようだった。
空になった小皿に手を合わせている望月先輩に、アキくんが言う。
「そういうわけで、望月先輩。これから俺たち、京都に行こうと思います」
「……うん? 京都?」
ぱちり、と目を開いた望月先輩が、調子外れな声を出す。
電話の音声は彼にも聞こえていたはずなのだが、ちんぷんかんぷんの様子である。私は一から説明することにした。
「私とアキくんはこれから京都に行ってきます。この場には、私とアキくんが着ていたものと、持ち物だけが残ると思います。先輩は、それを洗濯かごに入れてもらえるとありがたいです」
「よろしくお願いします」
アキくんもタイミングを見計らって頭を下げる。
望月先輩はというと頭痛でもするのか、頭を押さえて手を振っている。
「……いや、待て待て待て」
私はすぐに察した。
「言いたいことは分かります。交通費も払わずに京都に行くなんて、だめですよね」
「いやぜんぜん違う。僕は鉄道職員としてもの申したいわけじゃない」
じゃあなんだろう。小首を傾げると、望月先輩の頰はほんのりと赤くなっていた。
「分かってんのか。僕、男だぞ。後輩女子が身につけていた服やら下着やらを……っていうのは、その、いろいろと道義的に問題あるだろっ」
私がきょとんとしているからか、望月先輩は次にアキくんのほうを向く。
「アキ、お前はいいのか。他の男が彼女の下着を運ぶんだぞ。場合によっては、事故であっても、その、っさ、触っちゃうかもしれないんだぞ」
「はぁ」
しかしアキくんの反応も乏しい。
「望月先輩ですから」
「うん。望月先輩ですから」
望月先輩が脱力したような溜め息を吐く。
「それは、信用されてる……ってことでいいんだよな」
こくこく、と私とアキくんは頷いた。
望月先輩はどこか恨めしげに、私たちを交互に見やったが、それ以上の文句の言葉は喉の奥に吞み込んでくれたようだった。
「っああもう、分かったよ。多恵子さんたちには僕から伝えておくから、さっさと行ってこい」
「ありがとうございますっ」
「で、しばらくしたら戻ってくるんだよな?」
えっと、と私は言い淀む。
昨夜、レプリカの仕組みについては簡潔に話したのだが、あれだけでは理解が及ばなかったのだろう。望月先輩はレプリカを持たないのだし、それは当然とも言える。
「……戻ってこられないです。京都に呼びだされたら、それきりというか。一方通行なので」
先輩が首を捻る。
「じゃあ、お前らの荷物とかどうすんの?」
「望月先輩が静岡に持って帰るとか……」
「僕が? 三人分を?」
「ええと。素直たちの用事が済んだら、また連絡するので……」
計画性のなさに脱帽したのか、先輩はしばらく絶句していた。しかし、がしがしと頭をかくなり、ぶっきらぼうに言い放つ。
「とりあえず脱衣所から洗濯かご持ってこい! それならほとんど触らずに済むだろ」
「分かりました!」
私が洗濯かごを手に風のように戻ってくると、アキくんが素直宛てに電話をかける。
コール音が鳴る前に、素直は電話口に出た。ずっとスマホを手に連絡を待っていたのだろう。
『話、まとまった? 大丈夫?』
「うん、大丈夫だよ」
私が横から電話口に向かって答えれば、素直が静かに息を吸う。
その声は、私の耳朶に響く。
『ナオ、消えて』
次に呼ばれたとき、私は京都の地にいる。
「……え?」
目を開いた瞬間。
まず、私は啞然として声を漏らしてしまった。視線を送っていた先は、正面に立っていた素直ではなく、その先に広がる光景だった。
薄い雲の棚引く夕空。赤く切なげに色づいた稜線。
嵯峨野と嵐山の間を悠々と流れる桂川に架かるのは、渡月橋である。私が立っているのは、渡月橋と紅葉で賑わう山々を望む、桂川の河川敷だったのだ。
ここからでも、夕焼けを背景に渡月橋を渡っていく人の姿がよく見える。着物姿の外国人。走る兄弟を追いかける母親。手を叩いてはしゃぐ修学旅行生。
自転車でのんびり走っていく男の子は、きっとすぐ近くに家があるのだろう。橋の上にはバスや自家用車も走行している。嵐山を代表する観光名所だけれど、渡月橋は地元住民にとって生活道路でもある。
そんな景色を眺めていた私は、思いだしたように小さく震える。人気のない河川敷で、吹き荒ぶ風を防ぐ手立てがないからか、盆地である京都は想像以上に寒かった。本格的な冬の気配が、静岡よりずっと濃密に感じられる。
「寒い?」
絶景を譲るように後ろに下がっていた素直が、首を傾げる。寒さの理由は外気だけではなく、今の素直の格好にあった。
目の前の素直は、愛らしい雪兎のようだった。椿紋様が美しい卯の花色の着物に、紺色の上品な帯を合わせている。着物の柄がシンプルだからこそ、整った顔立ちや立ち姿がより際立つ。
艶のある長い髪はサイドを三つ編みにしてねじりながら、後ろでまとめてある。ほんの数時間前の記憶を辿ったところ、着物レンタルのお店で着付けやヘアセットをやってもらったようだ。
もこもことしたファーに包まれた首を下げてみれば、もちろん私も同じ格好をしている。どうりで手足が冷えているわけだ、と納得した。
足袋や草履を履いた足元だけは、妙に馴染んでいる。演劇練習に明け暮れた日々を思い起こしながら、私は首を横に振る。
「へーきだよ。もう少ししたら慣れると思う」
インナーを着ているし、お腹と背中にカイロも仕込んであるようだ。寒さ対策は万全である。
そう、と素直が頷く。そのさらに後ろに、真田くんとアキくんの姿があった。
二人もまた着物姿である。灰色みの強い、くすんだ茶色の着物は一見地味だったが、差し色の金茶色の帯が鮮やかで着慣れたふうを受ける。落ち着いた黒い羽織は温かそうだ。
私は、真田くんを遠慮がちに見つめる。アキくんにそっくりどころか、当然ながらまったく同じ容姿の男の子を。
アキくんは今まで一度も消されることなく、継続して生活を送ってきた。もし一回消されてから呼ばれたら、俺ぽっちゃりになるよ、なんて前にふざけて言っていたけれど、外見上の違いがほとんど分からないことに安心した。急にアキくんが太ってしまったら、百年の恋が冷めるとまでは言わないけれど、少なからず私は動揺していただろう。
しかし体型や、短く切られた指の爪はともかくとして、明らかに変化していたのは髪の長さだった。
真田くんは最近になって散髪したのだろう。髪型はほとんど変わりないけれど、ほんのわずかにアキくんの前髪が短くなっている。どこかに消えてしまった数ミリの前髪に、私は、もっと触れていたかった。
ただこうして並んでいると、どちらがアキくんで、どちらが真田くんなのかは一目瞭然だった。
真田くんは、どこか気弱そうで落ち着かない。素直とアキくんをちらちら見るばかりで、私のほうは見ようともしない。
素直が、真田くんを一瞥して言う。
「真田は、まだ?」
「え?」
真田くんは戸惑ったような顔つきをしている。
「まぁ、いいけど」
素直は、ひとりで何かに納得したようだった。
短いやり取りの意味は分からないまま、私は素直に視線を戻した。
美しく着飾った素直。誰よりもきれいな素直に、そっと問う。
「素直。旅行、楽しい?」
心の片隅で私はいつものように、つまらない、と返ってくるのを期待している。
「見ての通り、満喫してる」
着物の袖を、素直がひらひらと揺らす。
左手には、白地に三崩しの模様が入ったシンプルなデザインのがま口バッグを提げていた。家を出発するときには持っていなかったそれは、着物レンタル時に一緒に借りたものだ。
私はなんて言ったらいいか分からず、沈黙を返す。
今日の素直は、いつもと何かが違う。それに動揺しているせいか、着付け以前の素直の記憶をうまく辿れない。
「とりあえず座る?」
素直は何事もなかったように、河川敷の段差に腰かけるように座る。
それに倣ってか距離を取って、困り顔のまま真田くんがしゃがむ。その隣にアキくんも腰を下ろした。私も黙って従うことにする。
「急に呼んだのには理由があって。ナオに、見せたいものがあるの」
「……うん」
私は、溜め息のような声で頷いた。本当は頷くのも億劫だった。
この十一月だけではない。九月下旬の頃から、ずっと考えていたことだ。
素直は、いったい何がしたいのだろう。しばらく学校に行けと言ったかと思えば、これからは自分が毎日行くという。
理由を訊ねても、何も話してくれない。私は、身勝手で気まぐれで、やりたい放題のオリジナルに振り回されてばかりいる。
それはいわば八つ当たりに近い感情だった。でも私は、八つでも九つでも、いくつだって素直に当たらずにいられなかった。
うんざりする私に気がつかず、素直は白い指で手元のスマホを操っている。
「さっき、修学旅行前に受けた共通模試の結果が出たの」
差しだされたスマホを、とりあえず私は受け取った。
修学旅行に旅立つ前週、素直が自宅で模試を受けていたのは知っている。担任の先生から、強制ではないが進学希望の生徒は個人で受けておくように、と通達があったものだ。
お母さんに話して許可をもらった素直は、慣れない申し込み手続きや受験料の支払いをした。
受けたのは英語、数学、国語の三教科。配点はそれぞれ百点だ。貴重な日曜日を丸々使って、素直はウェブ受験に取り組んだ。
スマホ画面には成績を確認する、と書かれた無機質なボタンが大きく表示されている。ここまで来たなら、あとは指先ひとつ動かすだけで素直の模試結果にアクセスすることができる。
でも、どうして私に?
困惑した私は、素直を見やった。視線には気づいているだろうに、細い眉を寄せた素直は桂川の流れを見ているだけだ。
川面を眺める彼女の後れ毛が、夕日の光に透き通って金色に輝く。
「まだナオに、知られたくなかったから……自己採点もしなかったし、結果もまだ自分の目で確認してなくて」
「私が、最初に見ていいの?」
「いいよ」
そう言われれば、見る以外の選択肢はない。
躊躇いながらも、私はボタンを押した。ぱっ、と画面が白く切り替わる。
スクロールするまでもなく、三教科の点数は一目で確認できた。
無言の私に苛立ちをにじませることはなく、素直がゆっくりと口を開く。
「それぞれ、何点?」
しっかり間違いないことを確かめながら、私は口に出した。
「英語が四十四点、数学が五十二点。国語が六十二点だよ」
客観的に判断するなら、軒並みいい結果とは言いがたいだろう。右横にある判定欄に並ぶアルファベットに、AやSの文字はひとつもなかった。
でも、私には分かる。
素直は勉強が苦手だ。そんな彼女がこれだけの点数を取るには、相応の努力が必要だった。
私が代わりに学校に通い続けた、約一か月間。素直は自室にこもり勉強に明け暮れていた。分からないところがあれば私に訊いてきた。間違えるたびにノートをぐしゃっとさせながら、何度も同じ問題を解いていた。
隣を見ると、素直の小さな横顔は安堵と失望が入り交じったような、複雑な表情をしていた。それでも私の視線に気づくと、どうだと言わんばかりに胸を張ってみせる。
ちょっと苦しそうだったのは、胸紐が食い込んだのかもしれない。
「どう? 私だって、やればできるでしょ?」
ややあってから、目を伏せた素直は嘆息を漏らす。
「……なんて偉ぶれる点数じゃなかったけど。思ってたより、ぜんぜんだめだった」
「そんなことないよ」
私は前のめりになりながら、首を横に振った。
他の誰にばかにされようとも、私にだけは素直のすごさが分かっていた。確かに実を結ぼうとしている努力のかけらを、見逃したりはしなかった。
「だって素直、いつも授業をろくに聞かないで窓の外を眺めてたり、髪の毛をいじったりしてたのに、短期間でこれだけ点数を伸ばすなんて、本当に、本当にすごいと思う」
息せき切って伝えれば、それを聞いた素直は口をへの字に曲げている。
「ねぇ、それ褒めてるつもり?」
もちろん、そうだ。
素直は信用ならないと言いたげだったが、諦めたように話題を変える。
「青陵祭の次の週に、私が言ったこと覚えてる?」
「……うん」
忘れられるはずがない。泣き疲れた私に、素直が言い放った言葉。
手をついて、素直がおもむろに立ち上がる。背筋を伸ばして立つ彼女を、私は一心に見つめていた。
「試験の日も、だるい日も、毎日、ずっと。これからはちゃんと逃げないで、私は私を……精いっぱいがんばるって、決めたの」
あの言葉の続きを、真意を口にする素直の顔は、緊張からか赤らんでいる。
「模試は今の自分の全力で、受けた。学校に来られない友達を、私がいるから大丈夫だって励ましてみた。平日は休まず学校に行って、修学旅行も楽しんで、この二日間、いろんなところを回った。……昔の私、だったらきっと、そうするって思ったから」
たどたどしい口調で、素直は言い募る。真田くんが啞然としているのは、自分を友人と形容されたことに驚いたのかもしれない。
眉間にぐっと、痛々しいくらい力を込めて素直は続ける。
「これからは、いやなこととか、辛いことばっかりナオに押しつけるのは、やめる。一応、今回はその証明をしたつもり……なんだ、けど」
はぁ、と力なく、素直が溜め息を吐く。
額は汗ばみ、喉は震えている。その声音はひどく聞き取りづらいものだった。
そんな拙い告白を受け止めた私はというと、遅れて立ち上がりながら笑っていた。耐えられなくて、なにそれ、と苦笑してしまっていた。
だって、そんなの。
「分かりにくいよ、素直」
私は、確かに、素直のレプリカだけれど。
でも、胸の奥底にある本当の気持ちまで、私が、分かるわけないじゃない。素直の大事な目標を、秘めていた大切な思いを、正確に読み取れるわけないじゃない。
だって私は、そんなあなたのレプリカなんだから。
「すっごく、すっごく、分かりにくいよ、素直」
口を開くたび、私は泣きそうになる。
なんて、不器用なんだろう。面倒な子なんだろう。でもそんな素直が、どうしようもないくらい愛おしかった。
私と向き合う素直の目が潤んでいる。今、私たちは、同じ表情をしているのだと思った。
「……ごめん、ナオ。ごめん」
素直が、躊躇いがちに手を伸ばす。伸びてきた両腕を、私は受け入れた。
「ごめんね。今までたくさん、本当に、ごめん」
ごめん、ごめん、と星のように降ってくる言葉と一緒に、私は抱擁を受け止める。
私は、やっぱり、素直のことをなんにも分かっていなかった。
素直は、前に踏みだしていた。決して私を見返すためなんかじゃない。いやがらせなんかじゃない。
素直は。素直は、素直は。
自分の人生を。
たったひとりきりの自分で、生きる覚悟を決めていたのだ。
肩肘張って、前を向いて、私に行ってきますを言ったのは、逃げずにがんばっているんだって、ちゃんと見ていてって、伝えるためだったのだ。
私は素直をはき違えていた。素直を舐めていた。彼女の決意を、見誤っていた。
なんで祝福、できなかったのだろう。応援してあげなかったのだろう。行ってらっしゃい、がんばれって、一度も言ってあげられなかったのだろう。
ようやく私は、ひとつの言葉を返す。
「素直、がんばったね」
「……ん」
恥ずかしそうに素直が顎を引く。私も遅れて両手を、素直の背中に回そうとする。
そのつもりだったのに、アキくんの声が、私を夢見がちな心地から現実へと引き戻した。
「ナオ、指が……」
語尾が不安定に掠れている。指? その響きの不穏さに、私は顔を上げた。
見れば、私の指が透明になっている。
素直の背に回そうとした両手の指だ。そこから腕に至るまでが少しずつ透き通っていき、向こう側にある冬枯れの芝が見えている。
「なに、これ?」
緊張感のない私の呟きに、答える声はなかった。誰も、起こっている現象の意味を理解できていないのだ。
でも、それは私も同じだった。悲鳴を上げることもできない。あっという間に身体が消えていくのを、これはなんだろうと思いながら見ているだけだ。
対抗する術を持たないまま、私は空気に溶けるように、あやふやになっていく。
それは現実味がないからか、ひどく美しい光景だった。見とれる合間にも指が、手首が、腕が、肩が、
「ナオッ」
アキくんが叫ぶように私の名を呼び、消えかけていた両方の肩を摑む。
無理やり素直から引き剝がすように、強い力で後ろに引っ張られる。アキくんを巻き込んで芝に倒れて、その衝撃でようやく正気づいた。
今、私の身体は、……消えかけていた?
まなじりが裂けるほど大きく見開いて、両手を上げる。できなかった。肩から先まで侵食は進まず、中途半端に止まってはいるものの、失った腕は戻ってきていない。
「な、え、あっ、ああ…………」
「ナオ、大丈夫だ。ナオッ」
起き上がることもできずに動転して、死にかけの魚のように口をぱくぱく開け閉めする私の肩に、アキくんの手が触れている。
「ナオ、大丈夫。大丈夫だから、落ち着いて」
アキくんにも、なんにも分かっていないはずだ。泣きそうな声からして明らかだった。
それでも熱い腕が、肩を抱いている。アキくんの手の感触。この手があれば私は大丈夫なのだと、暗黒の海で、昨夜の寝室で、そう言い聞かせた手が私を必死に引き留めている。
私は短く、喉の奥で唸った。閉じた目の合間から涙を流しながら、目の奥に力を入れて、曖昧な自分を引き寄せた。ばらばらに砕けていきそうになる自分を、たぐり寄せて、繫ぎ止めた。
呼吸をする。酸素を吸って、二酸化炭素を吐く。当たり前のことをする。意識してやらないと、もう、うまくできない。
「……ナオ」
それから数秒か、数分経ってのことか。
アキくんに呼ばれた私は、汗か涙か分からない液体でにじむ目を開き、おそるおそる確かめる。
そこに私の両手があった。ぐーぱー、ピンクの爪を交互に見ながら自由に開くことだってできる。何度瞬きして確かめても、どこも、透き通ってなんかいなかった。
それでも信用ならなかった。今、私の両目が透明になっていない証拠がない。
引きつる喉から、振り絞るように問いかけた。
「私、見え……てる?」
「見えてるよ」
「ここに、いるよね?」
「いる。見えてる、ちゃんと」
首が痛くならないかと心配になるくらい、アキくんは何度も頷いた。
私はアキくんの助けを借りて、のろのろと身体を起こした。全身にいやな汗をかいていた。悪い夢を見ていたのだと思い込むには、河川敷の空気は冷えすぎていた。
「……なんで?」
まるで合わせ鏡のように。真田くんに手を借りて立ち上がった素直は、愕然としていた。
「ねぇ。なんで誰もさっきから……こっちを見てないの? 今、ナオが、消えかけたのに……」
言葉の意味を理解しないまま、私は、その視線の先を追った。
立ち尽くす私の耳が、賑やかな声を拾う。振り仰げば河川敷上の散策路を、何人もの観光客が歩いている。
よくよく考えれば、どうして素直たちは渡月橋の近くだなんて、人目につくところで私たちを呼んだのだろう。ホテルの個室とかカラオケルームとか、他に安全な候補はいくらでもあったはずだ。
他人の目がある場所で、私と素直が同時に存在したことはない。今まで彼女と顔を合わせるのは、ほとんど自室に限られてのことだった。素直は私と一緒にいるところを、家族や他の誰にも見られないよう注意深く過ごしていたのに。
ふと、顔も名前も知らない誰かがこちらを見下ろす。心臓がひとつ跳ねた。
きっと、素直と見比べられる。気づかれてしまう。
そんな私の危惧を、しかし誰もが、楽しげに話しながらあっさりと通り過ぎていく。
「……?」
私は眉根を寄せる。何かがおかしかった。
一卵性双生児は、並んでいるだけでそれなりの注目を集める。まったく同じ顔、同じ背格好、同じ服を着ていれば尚更だ。
着物姿の素直がきれいだからか、ちらちらと振り返る人は何人かいるけれど、誰も不審がっている感じではない。
違う。そうじゃない。やっぱりおかしい。
どうして通りかかる人たちは誰ひとりとして、私とアキくんに目を向けないのだろう?
「愛川さん。そこに、いるの?」
横合いから聞こえた声に、私は身を震わせる。
砂利道を踏みしめて近づいてくるのは、ブーツを履いた佐藤さんだった。短い髪は鮮やかな花飾りで彩っている。着物は大きな梅柄が華やかな濃い紫色で、本人の凜とした印象を引き立てていた。
訝しげな顔のまま、素直が小さく頷く。佐藤さんは何かを探すようにきょろきょろしてから、次に真田くんのほうを向いた。
「真田くんは?」
ふぅ、と真田くんが息を吐く。ようやく訊いてもらえた、と言いたげに見えた。
「いるよ。ちゃんと呼んだけど、さっきから愛川にも分からないみたいで混乱してる」
「えっ、どこに呼んだの? だってどこにも……」
素直はわけがわからない、というように首を捻っている。
三人の食い違ったやり取りを聞いているうちに、私は気づいた。
否、もうとっくに気づいているのだと認めなければならなかった。だから喉元に刃として突きつけられるより早く、自ら口にしていた。
「私、いないんだ」
素直とアキくんが、同時にこちらを向く。真田くんと佐藤さんは、無反応なままだ。
声が震えないよう祈りながら、私は繰り返す。
「今、真田くんや、佐藤さんや、他の人の世界に……私とアキくんは、いないんだね?」
いない。見えていない。
その言葉に、素直が表情を険しくする。
「……どういうこと?」
話題を察したのか、両手を合わせた佐藤さんが早口で言う。
「ごめん。愛川さんと真田くんに、目立つところでレプリカを呼んでみてほしいってお願いしたのはあたし。理由については内緒にしてたから、二人を責めないでね」
見当違いの方向を向きながら、佐藤さんは続けた。
「あたし自身も、昔レプリカがいたのに……ううん。いたからこそ、かな。レプリカの存在に、半信半疑の部分があったんだ」
そんな佐藤さんの言葉が、記憶と響き合う。私のじゃない、修学旅行中の素直の記憶だ。
素直が見て、聞いたこと。新しく知り、口にした推測。雪崩れ込んでくるような記憶の奔流に吞み込まれそうになりながら、私は必死に足を踏ん張る。
物語のページをめくるように、どうにか読み取ろうとする。ポッキーみたいな千本鳥居。男子からの告白の言葉。涙に濡れた視界。コーンポタージュ缶……。
「イマジナリーフレンドとか、解離性同一性障害とか。今の愛川さんや真田くんを言い表すのにいろんな言葉があるかもしれないけど、どれもしっくり来なくてね」
佐藤さんが素直に向き合う。
「愛川さん、芥川龍之介の『歯車』って読んだことある?」
「……ないけど」
「うん、だよね」
真顔で頷く佐藤さん。ばかにされたと思ったのか、素直はむっとしていた。
「でも、あたしに『走れメロス』を薦めてくれた文芸部のナオさんなら読んだことがあるんじゃないかな。どう?」
私は何かを念じるようにゆっくりと頷いたけれど、佐藤さんはあらぬ方向を向いたままだった。虚空に向かって彼女が続ける言葉は、私が思いだすものと似通っている。
『歯車』は、芥川龍之介晩年の作品である。芥川自身をモデルにしたとされる主人公の「僕」は、知人の結婚披露宴に出席するために出かけ、レエン・コオトを着た幽霊の話を聞く。それから「僕」は何度もレエン・コオトを着た男の姿を目にし、義兄がレエン・コオトを引っかけて轢死したと聞いたことで、それが自身の死を暗示するものではないかと怯える……。
そして作中では、こんな不気味な話が語られるのだ。
第二の僕、──独逸人のいわゆる Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかった。しかし亜米利加の映画俳優になったK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけていた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言われ、当惑したことを覚えている。)それからもう故人になった或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけていた。*2
「何が言いたいかっていうと、ドッペルゲンガーを見たっていう目撃者は、それと同時に本物を見てないのよね。世界的には例外もあるんだけど、それも今さら本当の話か判断がつかないから」
その場の全員が、目をしばたたかせる。代表するように真田くんが口を開いた。
「それは、当たり前じゃないのか? そこに本物がいるはずがないから、ドッペルゲンガーだって騒がれるわけだろ」
「でも、そこにいたのがひとりなら、そのとき目撃したのがどっちだったかは分からないよね? 何かがおかしいぞってなるのは後日、本物に確認したあとのことじゃない」
「……それは」
「レプリカが学校に通っているとき、本当に愛川さんと真田くんは家にいたの?」
私は、佐藤さんのまっすぐな目を、おそろしいと思った。
貫かれている素直と真田くんは、どれほど緊張したことだろう。着物に着慣れていないというだけでなく、二人の上半身は強張っているように見えた。
「第三者が、二人を見ていた? 観測していた? 日中は知り合いに見られると困るから、二人とも外にはまったく出てなかったんだよね?」
まくし立てるように次々と放ってくれたなら、まだ良かった。
でも佐藤さんはあくまで冷静だった。指折り数えていくように眼前に並べられていく疑問の数々に、誰も口を挟めずにいる。
「早瀬先輩とのバスケ対決のあと、四人で電話越しに話をしたんだってね。愛川さんと真田くんは家にいて、ナオさんとアキくんは体育館にいた。でもお互いに、それらしい声を聞いていただけで……本当に電話先にいるのが誰なのかは、観測してないわけだよね」
素直と私は今まで一度も、一緒にいるところを誰かに見られたことがない。佐藤さんの言葉を借りれば、誰の目にも、同時に観測されていない。
九月中旬、私とアキくんは一緒に映画館に行った。同時刻、素直はりっちゃんと食事をしていた。
でも、あのときも同じだ。りっちゃんは私と素直が並んでいるところを、その目で見たわけではなかった。
「それなら、待って。真田が昨日話してた前生徒会長の件はどうなるの?」
額に脂汗をにじませた素直が、挑むように鋭い目で佐藤さんを見つめる。
「母親は二人の娘を見てパニックになって、父親はひとりの娘を祖父母のところに預けることにした。それなら二人は両親によって同時に認識されてる、そういうことになるでしょ」
頰を赤くして主張する素直は、私を庇っているみたいだった。
これを受けても、佐藤さんはまったく揺らがない。
「もりりん会長の話ね。聞いたときにさ、ちょっと違和感あったの。自分が手を繫いでる子どもと同じ顔をした子どもがいたとして、パニックに陥って、体調を崩して……なんてこと、あるの?」
今まで疑問すら抱いていなかったことを、佐藤さんは冷静に突く。
「いや、本人から話を聞いたわけじゃなし、あり得ないは言いすぎかもしれないけど。現状を踏まえれば、もっと分かりやすい解釈があるでしょ。……そのときのお母さんには、リョウ先輩が見えてなかったんじゃないかな」
「見えてなかった?」
呟く私の声は、佐藤さんには届かない。
私は重い頭を動かして、お母さんの気持ちに沿って考えようとする。すずみという名前の娘を持つお母さん。彼女に思いを馳せれば、そこには自然と、素直のお母さんの面影が重なっていく。
「演劇発表会に向かう朝。後ろから五歳のもりりん会長が追いかけてきて、こう言うの」
ごめんね、ドッペルちゃん。わたし、やっぱりお母さんと幼稚園行く。ちゃんと演劇発表会に出て、継母やる。だからドッペルちゃんは、お家で待っててくれる?
繫いでいた手の感触は、いつの間にかなくなっている。そこにいたはずの娘は消えていて、代わりに息を切らした娘が、どこかを見て喋っている。
何が起きているのか、すぐには理解できない。この子は何を言っているのだろう。何をそんなに一生懸命に話しているのだろう。
よくよく見ればその視線の先には、何かを握る形をした自分の右手が浮かんでいる。小さな温もりの残る、右手だけが。
すずみ、どうしたの。ドッペルちゃんって誰? そう問いかけると、娘は信じられないというように目を見開く。今も、ママの隣にいるでしょ? わたしと同じ顔の女の子。そこに、いるじゃない。
おそろしさに身体が震える。娘が、おかしくなってしまった。
この子には、何か奇妙なものが見えている。見えるはずのないものが見えてしまっている。泣きながら夫に連絡し、なんとか仕事先から戻ってきてもらう。
夫は困惑しながら、泣きながら主張する娘の言葉を信じる演技をする。そこにいるね、確かにもうひとりいるね、と頷きながら、目に見えない何かを誘導して車の助手席に乗せる。そうして泣き続ける子どもに伝わるように、嚙んで含めるように言い聞かせる。
これからはね、すずみとドッペルちゃんは一緒にはいられないんだ。でもお父さんが、責任を持っておばあちゃんたちのところに預けてくる。だから安心して待ってなさい。お母さんの傍についていてあげなさい。分かったね。
車に乗って走りだした夫は、間もなく警告音を耳にする。
シートベルト未着用の旨を知らせる耳障りな音。先ほどまで何もなかった助手席には、娘と同じ容貌の娘が乗っていたのだ。
「……なんて、ほとんど妄想の域だけど。でも、あながち間違ってないと思うの」
すずみ先輩にとっても、リョウ先輩にとっても、五歳の頃の出来事なのだ。前後の混乱もあっただろうし、正確に物事を把握していたわけではない。お母さんは見えない振りをしたがっているのだと、思い込んでしまったのかもしれない。
すずみ先輩のお母さんは、リョウ先輩のことを視界に入れるのもいやがって、バケモノ扱いした。そうリョウ先輩は捉えていたけれど、それも勘違いだったのではないか。単にお母さんの目に、すずみ先輩とリョウ先輩が同時に認識できなかっただけだったのだ。
あなたは、そのためにあの日、何もないところから生まれてきたのかもしれない。
今年の八月、富士宮にやって来たすずみ先輩のお母さんが、リョウ先輩に向けた言葉。
今思えば、どこか違和感のある言い回しだ。リョウ先輩を生んだのは、確かにすずみ先輩であるはずなのに。
でも、彼女にとっては違ったのだ。
自分の目に見えない生き物を、人は、人とは呼ばない。
「……っていうのが、あたしの考え。オリジナルが自分のレプリカを認識できるのはごく自然なことで、その逆も同じ。レプリカ同士が認識し合えるのは、存在している層みたいなものが同じだから、じゃないかな。オリジナルがそこにいなければ、レプリカは一時的に層を移動して、オリジナルの肉体を借りることができる……んだと思う」
オリジナルとレプリカが、同時に他者に認識されることはない。そう結論づけた佐藤さんの話に、私は、相応の衝撃を受けているはずだった。
でもどこか、胸にすとんと落ちてくるものがある。
多恵子さんは息子から詳細を聞き、その仕組みについて最初から知っていたのだ。素直と私が一緒に生きていく道なんてないと、絶対にあり得ないのだと、多恵子さんには分かっていた。だから家に住まないかと提案してくれた。
早瀬先輩によって私が線路に突き落とされたときも、そう。血の痕も死体も残らなかったのは、素直から一時的に借り受けていた肉体があの瞬間、用宗の自室へと戻っていったから。
他者によって事象を観測されなければ、死んだことにはならない。死を実感した私自身が、耐えがたいほどの激痛を感じていたとしても。
考えてみれば、当たり前のことだった。考えるまでもなく当たり前すぎて、私は目を逸らしていた。
愛川素直は、最初から、この世にたったひとりしか生まれていなくて。
世界が、人々が認識する愛川素直だって、もちろんひとりだけなのだ。
「…………、」
口を開けて、閉める。意味のある言葉が出てこなかった。何かを言えたところで、それが聞こえるのは素直とアキくんだけなのだ。
地面に目をやる。不自然なくらい傾いた松の木の影や、でたらめに伸びた他人の影が、私の足元にいくつか重なっている。楽しげな話し声が、風に乗って響き渡る。
どんなに目を凝らしても、その中に私とアキくんの影はなかった。
世話焼きのウェンディがどんなにがんばって裁縫しようとしても、ピーター・パンのようにはなれない。そこに肉体がなければ、影があるはずもないのだ。
重い沈黙が満たす河川敷に、足音が近づいてくる。
「どしたよ、三人で変な顔して。なんかあった?」
「吉井くん……」
私はその名前を呼んだ。思った通り彼は、疲れきった私に見向きもしなかったけれど。
眉のあたりを曇らせた佐藤さんが、派手な赤い着物を着た吉井くんの裾を引っ張る。
「吉井。ちょっと、あたしとあっち行こ」
「うぇ? なんで? ま、まさか真田、抜け駆けで愛川さんに告白するつもりなんじゃ」
「いいからさっさと来るの!」
うひぃ、とおどけた感じに吉井くんが跳び上がってみせる。誰も少しも笑わないので、唇を尖らせつつ、河川敷を離れる佐藤さんについていく。
その場に残ったのは四人だった。
真田くんから離れて立ち尽くした素直は、真っ青な顔をしている。
「ごめん。こんなことになるなんて、思わなくて」
ううん、と私は首を横に振る。素直は何も悪くない。もちろん、レプリカの仕組みを解き明かしてくれた佐藤さんだってそうだ。
むしろ、私だった。謝罪しないといけないのは、素直じゃない。
「謝るのは私のほうだよ、素直」
私は呼びだされるたび、最新の素直の記憶を共有する。
佐藤さんや真田くんと話して、素直が知ったこと。気づいたこと。奇しくもそれは昨夜、望月先輩との会話によって、私とアキくんが思い至った内容と重なっていた。
オリジナルとレプリカが、他者に同時に認識されないこと。重要なのはそれだけではない。
私はあえて口角を上げて、明るい声で呼びかける。
「ねぇ、素直」
「……なに?」
「素直がなくした優しさ。私、どこに行ったか知ってるよ」

私はそっと、素直の手を取る。
冷たい手だったけれど、良かった、と思う。他の誰に見えなくたって、私は素直に触れられるし、温もりを分かち合うことだってできるのだ。
両手で引き寄せた手のひらを、私の胸のまんなかに当てる。素直は驚いたように身を竦ませたけれど、引っ込めたりはしなかった。
「私が、持ってたよ。素直。ここにあるよ、素直」
素直の大きな目の中で、切なげに光がたわむ。
きらきらと光る桂川の水面よりもまぶしい光が、私を見ている。
「ねぇ、素直。ここにあったよ」
あれは、夏の日のことだった。日本平動物園から帰ってきた日。
私を返して、と素直は言った。寄る辺のない声は震えていた。
なんにも取ってないと思っていた。そう信じていた。私は自分のものを、何一つとして持っていない。そう頑ななまでに思い込んでいたから。
でもそれは、大きな勘違いだった。
素直だけは覚えていたのだ。自分のあだ名を取られたこと。
胸のまんなかにあった大切な感情を、失ってしまったこと。
「私は素直から、本当に大切なものを奪ったんだね。名前を、優しさを、奪っていたんだね」
本当に、分かってみれば単純なことだった。
……友達と口喧嘩して、意固地になってしまった。謝りたいけれど、謝っても許してくれなかったらどうしよう。向き合うのがおそろしくて、部屋から一歩も出られなくなってしまう。
……暴力を振るってきた先輩がいる学校なんて、怖くて行けない。自室の隅で復讐劇に思いを馳せる。それでも先輩を殴る役割は、自分じゃできない。直接対峙するなんて以ての外だ。
……好きな男の子の前で、意地悪で嫌われ者の継母なんて演じたくない。かわいいお姫様ができないなら、せめて彼に呆れられないように、上手に演じなきゃ。継母にならなきゃ。
……友達を助けたいのに、保身を第一に考えてしまう。あの子みたいに爪弾きにされて、のけ者にされるなんていやだ。でも友達を救えない自分は、情けなくてもっといやだ。
……恋人に捨てられた。こんなろくでもない人生は終わりにしたい。目の前の海に飛び込んで、泡になって消えてしまいたい。とっとと死んでしまいたい。
私が生まれた日の話。
素直は、泣きながら助けてと言った。誰か私を助けて、って。
追い詰められた末に、素直は自分自身の一部を切り離してしまった。切実に唱えられた願いを歪んだ形で叶えたのが、レプリカの正体なのだ。
私がりっちゃんに謝れたのは、優しい素直だったから。
アキくんが早瀬先輩のいる学校に登校できたのは、勇気のある真田くんだったから。
リョウ先輩がかぐや姫を演じられたのは、表現力のあるすずみ先輩だったから。
佐藤さんのレプリカが友達を救えたのは、友情に厚い佐藤さんだったから。
アロイジアのレプリカが本物を海に突き落とせたのは、死にたがりのアロイジアだったから。
人はしばしば、相反する二つの感情を抱えることがある。たとえば友達と遊びに行く約束をしたけれど、起きたらなんとなく面倒になっている。その気持ちが大きくなると、ドタキャンしようかな、と悪魔の囁きが聞こえてくる。
そんなとき、何もないところからではなく、自分の一部を切り離す。面倒だと思う自分じゃなくて、外に飛びだしたくて仕方ない、内側にあった小さな自分だけを。
レプリカは、オリジナルの中にある感情を奪って生まれる。それを原動力に動くから、オリジナルとはまったく別の行動を起こすことができる。
私は素直の中に確かにあった、温かな優しさを奪って生まれてきた。アキくんもまた、真田くんの中にあったなけなしの勇気を奪ったのだ。
でも失ったものは戻ってこない。ぽっかりと空いた穴は血を噴き、埋まるどころか傷口は延々と広がり続けていく。
私たちは歪まされていて、最初からオリジナルとは決定的に違ってしまっている。そんなリョウ先輩の覚えた違和感は的を射たものだったが、正しくはなかった。
私たちが、オリジナルから変化していたわけじゃない。
リョウ先輩の言葉を借りるなら、少しずつ歪んでいったのは、私たちを生みだしたオリジナルのほうだったのだ。
いったい、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?*3
『山月記』の李徴が少しずつ、自分が人間であったことを忘れていったように。
素直は優しさを、真田くんは勇気を忘れていく。最初からそんなものは持っていなかったように、徐々に喪失していく。
私は素直の手をそっと離した。目を向ければ、宵闇が迫る幻想的な橋の上を、影だけになった人々が通り過ぎていく。
果たしてこの中の、どれだけの人が覚えているのだろう。どれだけの人が、私は頭のてっぺんから足のつま先まで、生まれ落ちたときからこういう私だったのだと、自信を持って言えるのだろう。
心の中で問いかける。どこかに置き去りにしたレプリカのことは、忘れちゃった?
それともあなたは私と同じ、ひとつの感情から生まれたレプリカだったりする?
「奪ってた、っていうより……私が勝手に押しつけたっていうほうが、近いと思うけど」
自嘲するような素直の呟きに、私は緩く首を振る。素直もまた、目を細めて渡月橋を見つめている。
「……私ね。少しずつ、優しさを忘れていったような気がする。だからいっそう、ナオが羨ましかった。誰に対しても素直で、優しい。それならナオが愛川素直になればいいのに、って何度も思った。そしたら頭が痛くなって、お腹が痛くなって、なんにもがんばれなくなった。だめな自分に、どんどん慣れていっちゃった」
目の前の川の中に光る白い石が、素直の優しさだったとするなら……私はその石を喉奥に吞み込んだまま、川から上がってきてしまった。
吞み込んだ石は簡単には取りだせない。返せない。
アロイジアの場合は事情が違う。彼女のレプリカは死にたい気持ちを抱えていたからこそ、生まれて間もなく、ひとりで海に消えていったのだ。
死の淵をさまよったアロイジアは、自殺願望もレプリカの存在も、きれいに忘れてしまったのだろう。こうして『帰ってきた人魚姫』という、現代のドッペルゲンガー伝説が成立した。
同じ方法では優しさは取り戻せない。だとしたら、どうすればいいのか。
思いつく方法はひとつだけある。つい先ほど、手掛かりになる体験をこの身で味わったばかりだ。
確証はなかったけれど、私にはそれが正解だという確信があった。それ以外には考えられないとすら思っていた。
「私が素直に吸収されれば、奪ったものは元に戻るんだと思う」
またレプリカとして呼ぶために、一時的に収納するのでは足りない。
素直に抱きしめられること。そうすれば私は、素直の中に吸収されていく。
時間はかかるかもしれないが、二つに分かたれた魂はひとつに戻っていくだろう。これが、奪った優しさを素直に返し、元通りにするための手順だ。
すべてを知った私は、覚悟を決めていた。いつだって命じるのは素直の権利だ。多くのことが分かった今なら、尚更だった。
「ナオ」
素直が、私を呼ぶ。
自分のものだった名前で私を呼んで、言う。
「好きなほうを選んでいいよ、ナオが」
「……え?」
渡月橋に、強い風が吹く。
ピンでしっかり留められた後ろ髪はびくともしなかったけれど、乱れた前髪の合間から、私は瞬きもせずに彼女を見つめていた。
硬く張り詰めているかに思えた素直の顔は、晴れ晴れとしていた。どこまでも穏やかに、夕暮れの中で微笑んでいた。
今の素直は、なんてきれいで、まぶしいのだろう。
その表情は次第に、私とシュークリームを半分こにしていた頃の素直と重なっていく。口元にクリームをつけた私に呆れたように笑って、指を伸ばして拭ってくれた幼い素直と、同じ温度のものだった。
私に、選択を押しつけているのではない。責任を突きつけているわけでもない。
私の意思を尊重して、任せようとしている。
誰よりも優しい頃の素直の輪郭を、必死になぞろうとする素直が、そこにいたから。
「ナオが決めて、いいんだよ。ナオとして生きていくか。それとも……私の中に戻ってくるか」
私の喉が、震える。
込み上げる思いで、息が詰まる。言葉にならない気持ちが溢れてきて、溺れそうになる。いちど、ぎゅっと唇を嚙み締めて、私はなんとか呼吸を整えた。
息を吸う。吐く。
素直は急かすこともなく、待っていてくれる。だから焦ることはない。
それに自分の中の答えは、最初から決まっていた。
私は素直の目を見て、答える。
「素直。私は、…………」